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崩壊の序曲

 革の手綱を握りしめる拳には、もはや力が入らなかった。

 指先は冬の夜の氷のように白く強張り、積み重なった疲労が鉛の重塊となって、容赦なく全身にのしかかっている。耳の奥で虚ろに響くのは、愛馬の蹄が硬い石を打つ乾いた音だけ。その単調なリズムは、夕闇に沈み始めた街道の静寂に、溶けるようにして消えていった。


 ようやく、見慣れた、けれどどこか疎ましさも感じる屋敷の巨大な門が見えてきた。

 今日もまた、長く、そして精神を削り取るような過酷な一日だった。若き領主代行としての公務は、市井の人々が夢想するような華やかな貴族のイメージとは程遠い。実際は、泥臭い領民同士の果てしない諍いの仲裁、不作を訴える切実な嘆願への対応、そして机の上にうずたかく積まれた果てしない書類の山との戦いだ。


 それでも、疲弊しきって馬を止めた瞬間に脳裏をよぎるのは、あの静かな山小屋の光景だった。

 

(今日も、早くイユに会いたい……)


 心の中でその名を呼ぶだけで、強張っていた胸の奥が少しだけ解けていくのが分かる。彼女の少し控えめで、けれど凛とした芯の強さを感じさせる心地よい声。焚き木と薬草の香りが染み付いた、あの穏やかで柔らかな空気。彼女の側にいる時だけ、私は「次期伯爵」という息の詰まるような重い鉄の鎧を脱ぎ捨て、ただの一人の男、アライアスに戻れるのだ。


 屋敷の車寄せに付き、ゆっくりと馬を降りる。革のブーツが石畳を叩く音が、重く響いた。


「閣下、このまま待機していましょうか?」


 背後から、長年信頼を寄せている護衛騎士アドウィルが、落ち着いたトーンで声をかけてきた。彼は私の歩き方の僅かな乱れから疲れを察しているのだろう。その瞳には、主従を超えた深い気遣いの色が浮かんでいる。


「すまないな、アドウィル。……今日の裁判でもう疲れ果てたよ。二十人もの領民の、堂々巡りの愚痴を聞き続けたんだぞ。これから訓練場に行くなんて、今の私には到底無理だ。お前もたまには、仕事をサボってみたらどうだ?」


 私の精一杯の冗談に、アドウィルは緊張を解くような快活な笑声を上げた。

「ハハハ、そうですね。閣下のご提案とあらば。……エリースも喜ぶでしょう。最近は任務が立て込み、まともに構ってやれていませんでしたから」


「ああ、そういえば。この前の急な呼び出しで言いそびれていたが、エリースによろしく伝えておいてくれ。あの日の食事は本当に旨かったと」


「はい。家内も喜びます。またぜひ、落ち着きましたら一緒に食事を。……では、失礼します」


 アドウィルが軽やかに馬を翻し、去っていく。その頼もしい背中を見送りながら、私は肺の底から深く溜息を吐き出した。さて、私も早く着替えて、愛馬を休ませてから山へ向かおう。そう決意し、玄関へ足を向けた矢先だった。


 屋敷の重厚な扉を開くと同時に、年老いた執事ゼヴォスが、私がかつて見たことがないほどの凄まじい形相で駆け寄ってきた。


「アライアス様! 大変でございます!」


 その枯れた声の震えに、私の眠っていた本能が鋭い警鐘を鳴らす。瞬時に疲労が霧散し、私はゼヴォスの充血した目を真っ直ぐに見据えた。


「どうしたというんだ? 落ち着いて話せ」

「とにかく、オルドレイク様の執務室へ……! 閣下がお待ちです!」


 ゼヴォスに急かされるようにして、私は大理石の冷たい廊下を駆けた。

 ゼヴォスが執務室の彫刻が施された重い扉を開けると、そこには父、オルドレイクがいた。周囲を数人の武装した警備兵が厳重に囲み、父は苦悶の表情を浮かべて顎に手を当て、何かを考え込んでいた。


「父上。ただいま公務から戻りました。……一体、何があったのですか?」


 私の姿を認めると、父の険しい表情がぱっと灯火を灯したように明るくなった。

「おお、アライアス! いいところに帰って来たな」


「一体どうしたというんです?」

 私は不穏な空気を感じ取り、少し辺りを見渡す。兵士たちの表情は硬く、室内の空気は張り詰めていた。


「実はな、屋敷に賊が入ったのだ」


 心臓が跳ねた。衝撃に、私は父の顔を凝視する。

「賊ですって!? 怪我は!? 負傷者は!?」


「まあまあ、落ち着け。負傷者は誰もいない。それに私も少し出かけていてな、丁度留守にしていたんだ。不幸中の幸いというやつだ」


 父の言葉に、私は心の底から安堵の息をついた。しかし、同時に拭い去れない冷たい疑問が湧き上がる。この厳重な警備を誇る伯爵邸に、隙を突いて侵入し、無事に脱出するなど、並大抵の賊ではない。


「申し訳ありません、オルドレイク卿! 我々の警備の不手際、何とお詫びを……。この失態、いかように処罰していただいても構いません!」


 一人の兵士が耐えかねたように床に膝をつき、肩を震わせながら許しを請うている。父はそんな彼を見下ろし、いつもの慈愛に満ちた、穏やかで静かな声で言った。


「さっきから何度も言っているだろう。お前たちのせいではない。今は戦争の影響で人手も少ないのだ。屋敷の全ての出入り口を完璧に塞ぐのは難しい。まあ、責任がないとは言えんが、激しく責め立てるほどのことでもない」


 これこそが、私の敬愛する父の真の姿だ。冷静沈着でありながら、部下の事情を汲み取る器の大きさ。私はいつか、父のような立派な領主になりたいと、改めて尊敬の念を心に刻んだ。

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