輝く指輪
深い、灰色の底へ沈んでいくなかで、なぜか昔の記憶が鮮明に蘇ってきた。
意識の糸がぷつりと切れそうな瞬間、私の魂が冷たい水底から逃げ込んだのは、あの懐かしい山小屋の光景だった。窓から差し込む柔らかな陽光と、薪がはぜる小さな音。
あの日、パン屋での仕事を終えた私は、いつものように焼き立ての香りが残る籠を抱えて山小屋へ向かった。木造の扉を押し開けると、そこには予想に反してアライアスが先に待っていた。
「アライアス!? 一体どうしたっていうの。今日はアドララに荷物の積み下ろしに行くんじゃなかったの?」
「まあ……そうなんだけどね」
ギシギシと鳴る古い木の椅子に腰かけた彼は、どこか居心地が悪そうに視線を泳がせていた。けれど、その足元では相棒のココがすっかり彼に毒気を抜かれたようで、ふかふかの体を丸めて幸せそうに寝息を立てている。
私は籠をテーブルの上に置き、彼の隣に腰を下ろすと、その穏やかな瞳をじっと覗き込んだ。
「せっかくの仕事がクビになっちゃうわよ?」
「イユ。君といられるのなら、仕事を失っても構わないさ」
真っ直ぐすぎる言葉に、胸が甘酸っぱく疼く。
「嬉しいわ。私もあなたとずっと一緒にいたい。でも、それって、とっても重い告白よね? アライアス? ンフフ♪」
「君はいつも、笑顔が素敵だよ」
唐突な言葉に少したじろいでしまった。けれど彼は、いつになく真剣な表情で私を褒めてくれていた。嬉しいはずなのに、彼の様子がどこか思い詰めているようで、私の心に小さな不安のさざ波が広がる。もしかして、どこか遠くへ行ってしまうの? 私のことを、もう好きではなくなったの?
「実は、君に渡したいものがあってね、イユ」
その言葉を聞いて、先ほどの不安が霧散し、少しだけ安心した。
けれど、彼が大事そうに懐から取り出したのは、白く滑らかな、不思議な石のようなものだった。
「アライアス……これは、なに?」
「これは『貝殻』だよ。海の生き物の、生を全うした姿さ」
話には聞いていた。けれど実物は、想像よりもずっと神秘的で、透き通るような白さを放っている。アライアスは私の両手を優しく包み込み、その手のひらにそっと貝殻を乗せてくれた。
「この貝殻は箱のように開くんだ。……開けてみて、イユ」
期待と、少しの恐れを抱きながら、そっとその蓋を持ち上げる。
――その瞬間、銀色の繊細な光が目に飛び込んできた。
精巧に細工された指輪。パン屋にやってくる貴族たちが身につけているような高価なもの、いや、それ以上の価値があるものに見えた。この指輪の方がずっと気高く、どこか運命的な輝きを放っていた。
「アライアス……。嬉しいけど……。こんな高そうなもの、受け取れないわ……!」
「イユ、君への気持ちなんだ。是非、君に身につけていてもらいたい」
「で、でも……」
戸惑い、固辞しようとする私を見て、彼は悪戯っぽく、けれどどこまでも優しく微笑んだ。
「実を言うとね、半分は自分のお金だけど、半分は『他人のお金』で買ったんだ」
「ん!? 一体どういう事?」
私の頭の中に、様々な疑問が浮かんでは消える。
そんな私の困惑した表情を見て、アライアスの顔が少しだけ砕けた。
「ハハハ。酒場の賭けで勝ったのさ。君が受け取ってくれないと、全部お酒に使ってしまうかもしれない。……助けてくれるよね?」
「ンフフ♪ アライアス、あなたってズルい人。だったら、断れないかな。でも、本当に嬉しい。ありがとう」
アライアスは貝の中から指輪を指先で取り出すと、私の緊張で少し震える手を支え、ゆっくりと、祈りを捧げるように薬指へ滑らせて嵌めてくれた。
「君の綺麗な手に、とてもよく似合うよ」
あの時の指先の温もり。アライアスの穏やかな声。満たされた幸福感。
あの瞬間の私は、世界で一番幸せだった。
……けれど。
温かい思い出のはずなのに、なぜか全身が酷く冷たい。
指先の指輪も、まるで氷の塊のように凍りついているようだった。
「アライアス……!」
叫んで目を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのは、眩しすぎるほど冷徹な太陽の光と、濡れた砂の上を優雅に横切っていく数匹のカニの姿だった。
頬を打つのは、温かい山小屋の空気ではなく、ざらついた砂と冷たい波しぶき。
私は、生きていた。
首を動かす気力もなく、目だけで天を仰げば、そこには今まで見たこともないほど高く、どこまでも深い青い空が広がっている。
泥のように重い右手を震わせながら持ち上げると、汚れにまみれながらも、あの銀の指輪が太陽の光を跳ね返して鈍く、力強く光っていた。




