第56話 空白世界──想いが記録を超えるとき
光が弾け、すべてが白に染まった。
重力も、時間も、音も、空間さえも消えた。
俺──高野一朗は、黒羽核の崩壊と同時に、あらゆる世界の記録から切り離された。
何もない。誰もいない。
ただ、真っ白な空白だけが広がっている。
空も地面も境界がなく、自分が立っているのか、漂っているのかすら分からない。
世界の概念が剥ぎ取られたようなこの空間は、まるで“始まりの前”そのものだった。
「……ここは、“記録される前の世界”だ」
耳元で、懐かしいようで恐ろしいような、カーヴァスの声が響いた。
姿は見えない。だが、その声は明らかに“そこにいる”と分かる強さを持っていた。
「記録がなければ、人は何者でもない。……俺はそう思っていた」
その言葉の直後、白い虚空にカーヴァスの姿が顕現した。
彼の瞳には、決意とも諦めともつかない強い光が宿っていた。
「だが、君を見て揺らいだ。だからこそ、今ここで答えを出させてもらう」
彼が右腕をかざすと、虚空から漆黒の刃が出現した。それは記録干渉の具現。存在そのものを切り裂く呪詛の刃。
「来い、一朗。記録に縛られたお前が、想いに導かれた俺を超えられるか」
「……望むところだ」
俺は胸元から《写しの剣》を引き抜いた。それは、記録写しの力を物質化した剣──誰かとの記憶が刃となる武器。
二人の剣が交差する。
衝撃が、虚空を引き裂いた。
白い世界に初めて“音”が生まれた。
剣戟。叫び。記録されぬ戦いの記録。
「記録を捨てたつもりでも、お前は誰かを覚えている。誰かに想われた記憶が、お前を今も形作ってる!」
俺の剣が、カーヴァスの腕をかすめた。
彼の血は滲まず、代わりに黒い羽根が舞い散る。
「そうだ、それが怖かった。記録を捨てても、心は消えない。なら、俺は何を壊してきた?」
カーヴァスが叫ぶ。剣の速度が増す。
だが、その刃は揺れていた。
「お前は記録じゃなく、誰かの想いに敗けたんだよ!」
最後の一閃。
俺の剣が、カーヴァスの武器を弾き飛ばした。
彼はその場に崩れ落ちた。
白の虚空に膝をつき、静かに仮面を脱いだ。
「……敗けたよ、一朗」
「お前は……」
「君たちは、記録を越えた。記録に頼らず、誰かを想うだけで世界を動かした……俺は、それを少しだけ羨ましいと思った」
カーヴァスの目は静かだった。諦めも怒りもなかった。ただ、わずかな安堵。
だが、俺は剣を収めなかった。
「……カーヴァス。お前が壊してきたものを、俺たちは取り戻す。そのためには──」
俺は剣を逆手に構え、最後の問いを彼に投げた。
「……それでも、生きる覚悟はあるか?」
カーヴァスは、目を伏せてゆっくり首を振った。
「もう……充分だ。俺には、戻る場所がない」
その言葉に、俺は覚悟を決めた。
「──なら、これが終わりだ」
俺は静かに歩み寄り、写しの剣をカーヴァスの胸に突き立てた。
刹那、光が迸った。
黒い羽根が舞い、虚空が震える。
彼の身体は音もなく崩れ、白の風に乗って、静かに消えていった。
剣を収めた俺の前に、淡い青が差し込んでくる。
風の気配。空の色。
足元には、柔らかな地面の感触。
遠くに、誰かの声。
「──一朗さん……!」
それは、篠崎葵の声だった。
「葵!」
俺は駆け出した。
空白に光と記録が戻ってくる。
足音が響き、自分の存在が“記録され始めている”ことが肌で分かった。
やがて、前方に彼女の姿が現れる。
虚空に立ち続ける篠崎葵。変わらぬ笑顔。
「あなたの声がしたの。だから、ここで待ってた」
「ありがとう……葵」
俺たちは手を取り合った。
その瞬間、空白の世界が音を立てて揺れ始めた。
空が青く染まり、地面に草が芽吹き、風が頬を撫でていく。
記録が再び、世界を“描き始めていた”。
俺たちが触れた場所から、ユグの笑顔、クラヴィスの悪態、王都の賑わい、人々の名前が──すべてが戻ってくる。
そのとき、再び世界が大きく揺れ、光が満ちる。
今度は消える光ではない。始まりの光だった。
世界が“再記録”されていく──
◆
目を開けると、そこはレヴェルスの廃墟の中だった。
──いや。
もう廃墟ではなかった。
黒羽核の影が消え、空には清浄な陽光が注いでいる。
崩れていた街並みは徐々に輪郭を取り戻し、人々の声と気配が世界に広がっていた。
「……一朗さん」
葵が俺の肩に身を寄せ、微笑む。
「大丈夫か?」
「うん。あなたが呼んでくれたから、戻ってこられた」
彼女の言葉に、俺は頷いた。
「……終わった、のか?」
ユグが呟きながら空を見上げる。
「黒羽核の記録干渉は消滅した。記録の安定も確認できている」
クラヴィスが魔導端末を見ながら静かに言った。
俺は空を仰ぐ。
透明な青。そこには、かつて黒羽が舞った痕跡などもうない。
だけど、俺たちは知っている。
この空も、風も、街も、人々の記憶も──誰かの想いが紡いでくれたものだということを。
「終わったんじゃない。
ここから、“記録し続ける”んだ」
俺は静かに、けれど確かな声でそう言った。




