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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第99話 草原の夕暮れと、旅人が残した小さな道しるべ


 丘の頂上を越えたところで、ルシルは馬車の速度を落とした。


 目の前には、夕方の光を浴びた広い草原が続いている。背の低い草が風に揺れるたび、緑色の地面に金色の波が走り、その向こうには、低い丘と海が幾重にも重なって見えた。


 少し前まで、三人は丘の上からその景色を眺めていた。けれど、実際に馬車で下り始めると、見え方はまた違ってくる。遠くからは滑らかな緑の絨毯に見えた草地にも、背丈の異なる草が生え、小さな岩が点在し、ところどころに細い窪みが走っていた。


「ゆっくり行こうな、トルク、ベルク。坂が終わるまでは急がなくていいから」


 ルシルが手綱を握り直すと、栗毛のトルクが耳を動かした。隣を歩く濃い灰色のベルクも落ち着いており、二頭は歩幅を揃えながら、緩やかな下り坂を進んでいく。


 車輪が砂利を踏む音が、一定の間隔で馬車の床へ伝わってきた。


 馬車そのものは頑丈に造られているが、荷物を積んだ状態では相応の重さがある。下り坂では車輪が前へ進もうとする力も強くなるため、ルシルは手綱だけに頼らず、馬車の制動具を適切に使いながら速度を調整していた。


 こうした扱いも、旅を始めた頃にシモンから教わったことの一つだった。


(最初の頃だったら、景色に気を取られて慌てていたかもしれないな)


 そう考えながら、ルシルは前方の路面へ視線を戻した。


 せっかく美しい景色が広がっているのだから、ゆっくり眺めたい気持ちはある。けれど、今は二頭の馬と仲間を安全に運ぶことが先だ。


 坂を下り終えてからでも、草原を楽しむ時間は十分にあるだろう。


「ルシル君、あの草、見て!」


 馬車の窓際から、モモの弾んだ声が聞こえてきた。


「風が通るところだけ、色が変わってるよ。さっき丘の上から見たときより、ずっとはっきり分かる!」


「本当だな。ちょっと待ってくれよ。坂を下り終えたら、俺もゆっくり見てみたい」


「あっ、そうだった。今は運転中だもんね。ごめんね、ルシル君」


「謝らなくていいよ。モモが楽しそうにしてるのは、俺も嬉しいからさ」


 ルシルが笑って答えると、モモは窓から顔を引っ込め、代わりに旅帳面を膝の上へ広げた。


 昨日、三人で夕暮れの景色を描いたことがよほど楽しかったらしい。今朝から何度も紙を開き、気になったものを短い言葉や簡単な絵で書き残している。


 その隣では、シモンが地図と実際の地形を見比べていた。


「ルシル様、この坂を下り終えると、道はしばらく草原の縁に沿って続くようです。地図では、この先に小さな休憩地点が一つ記されていますが、正確な位置までは分かりません」


「休憩地点があるのか。それなら、今夜はそこを目指してみようかな」


「ええ。ただ、設備がどの程度残っているかは分かりません。日暮れまでに見つからなければ、無理に探し続けず、別の場所を選びましょう」


「分かった。水も昨日のうちに補給できてるし、焦らず行こう」


 シモンは頷き、地図を畳んだ。


 午後に見つけた休憩小屋では、馬たちの飲み水を十分に補給できた。人が使う分についても、煮沸するために分けて保管してあり、昨夜の調理で必要な処理を済ませている。


 今夜の食事と明日の朝に必要な量を考えても、すぐに水が足りなくなる心配はなかった。


 だからこそ、休憩場所を選ぶときに、水場の有無だけへこだわらずに済む。


「そういえば、シモン君」


 モモが旅帳面から顔を上げた。


「この草原って、さっき見つけた石標に書いてあった『風渡りの草地』なんだよね?」


「少なくとも、石標はこの先の草地を示していましたね。ただ、どこからどこまでがその名前で呼ばれているのかは、私にも分かりません」


「そっか。でも、名前を聞いてから見ると、ますますぴったりだなって思うんだ。風が草の上を歩いてるみたいなんだもん」


 モモはそう言いながら、窓の向こうを眺めた。


 草原を渡る風は、目には見えない。


 けれど、草の穂先が次々に傾いていくことで、その通り道だけが浮かび上がっている。遠くの草が揺れた少しあとに、近くの草も同じ方向へ倒れる。その動きが、まるで大きな生き物がゆっくり息をしているようにも見えた。


「……確かに、風が渡ってるみたいだな」


 坂を下り終えたルシルが、ようやく景色へ目を向けて答えた。


「海の波とは違うのに、なんだか似てる。草のほうが柔らかいからかな」


「うん! 私もそう思った!」


 モモは嬉しそうに笑った。


 シモンも窓から外を眺め、少しだけ目を細めた。


「草の高さや密度によって、風の伝わり方が違って見えるのでしょうね。あの辺りは背の高い草がまとまっていますから、動きが特に分かりやすいようです」


「シモン君は、そういうところまで見てるんだね」


「……そう言われると、少し恥ずかしいですね。私はどうしても、理由を考えてしまうものですから」


「それでいいんだよ!」


 モモは迷いなく答えた。


「私はきれいだなって思うし、ルシル君は面白そうだなって思うし、シモン君はどうしてそうなるのか考えるんでしょ? 三人で見てたら、一つの景色でもいろんなことが分かるもん」


 シモンはその言葉を聞き、少し驚いたように瞬きをした。


 昨日、三人で絵を描いたときも、似たようなことを感じた。


 同じ場所にいて、同じ夕暮れを眺めていたはずなのに、三人が紙へ残したものはまったく違っていた。


 モモは空と海を大きく描き、ルシルは丘と木立の位置を丁寧に写し、シモン自身は馬車と二頭の馬を選んだ。


 誰かの絵が正しく、誰かの絵が間違っているわけではない。


 それぞれが大切だと思ったものを残した結果だった。


(同じ景色を見ていても、同じものを見ているとは限らないのですね)


 シモンは静かに微笑んだ。


「そうですね。三人で旅をしているからこそ、気づけることもあるのでしょう」


 その言葉を聞いて、ルシルも嬉しそうに笑った。


 草原を渡る風が、馬車の窓から柔らかく吹き込んできた。


     ◇


 坂を下り終えてから、道は草原の中央を避けるように緩やかに曲がり始めた。


 右手には遠くの海が見えているものの、波音はほとんど届かない。代わりに聞こえてくるのは、草が擦れ合う乾いた音と、時折草の間から飛び立つ小鳥の羽音だった。


 ルシルは馬車の速度を保ちながら、道の両側を観察していた。


 草原は一見すると平らに見えるが、近くで見ると小さな起伏がある。雨が降れば水の流れ道になりそうな窪みもあり、道から外れて無理に馬車を進めるのは避けたほうがよさそうだった。


 そのとき、モモが窓の外を指さした。


「ねえ、あそこに何かいるよ!」


 ルシルは前方の安全を確認し、モモが示した方向へ視線を向けた。


 草の間に、小さな茶色い影が見えた。


 影は一度動きを止めたあと、ぴょんと跳ねるように移動した。


「……小動物かな?」


「うん! 耳が長かった気がする!」


 モモは声を弾ませたものの、すぐに声量を落とした。


 驚かせてしまえば、せっかく姿を見せてくれた小さな生き物が逃げてしまうかもしれない。


 シモンもその方向へ目を向けた。


「草地に暮らす小動物でしょうね。距離があるので種類までは分かりませんが、私たちを警戒しているようです」


「そっか。じゃあ、あんまり近づかないほうがいいね」


 モモは頷き、窓から少し離れた。


 茶色い影はしばらく草の間で動いていたが、やがて背の高い草の陰へ消えていった。


 ルシルはその姿を見送りながら、静かに微笑んだ。


 自分たちにとっては旅の途中で出会った小さな生き物でも、あの動物にとっては、この草原が普段の暮らしの場所なのだろう。


 馬車が通る道も、草が揺れる斜面も、そこに暮らす生き物たちにとっては、毎日見慣れた景色なのかもしれない。


「なんだか、不思議だな」


 ルシルが呟くと、モモが顔を上げた。


「どうしたの?」


「俺たちは今日初めてここへ来たけど、あの小さな動物は、ずっと前からここで暮らしてるんだろうなって思ったんだ」


 モモは少し考え、ゆっくり頷いた。


「そうだね。私たちが知らないだけで、ここにはここで暮らしてる生き物がいるんだもんね」


「ええ。旅人にとっては通り道でも、そこを生活の場にしているものたちがいるのでしょう」


 シモンも穏やかに答えた。


 三人はそれ以上追いかけようとはせず、馬車を進めていった。


 草原の中へ消えた小さな影は、もう見えない。


 けれどモモは旅帳面を開き、今日見たものの一つとして、長い耳のようなものが見えた茶色い動物の絵を小さく描き加えた。


 種類の分からない動物だったので、名前は書かない。


 代わりに、『草の間で跳ねていた小さな生き物』とだけ記しておいた。


     ◇


 さらに道を進んだところで、ルシルは前方に不自然な石の並びを見つけた。


 草原にはところどころ自然の岩が転がっているが、その石だけは違って見えた。道の脇に小さな石が三段ほど積まれ、最上部には平たい石が置かれている。


 その隣には、短い木の杭が一本立っていた。


「シモン、あれを見てくれないか。石が積んであるみたいなんだけど」


 ルシルが声を掛けると、シモンは窓から身を乗り出さないように注意しながら前方を確認した。


「……確かに、人の手で積まれたもののようですね。木の杭もありますし、何かの目印かもしれません」


「道しるべかな?」


 モモが尋ねると、シモンは頷いた。


「その可能性はあります。ただ、近づいてみなければ分かりませんね」


 ルシルは周囲の道幅を確かめた。


 この辺りは比較的見通しがよく、道の脇にも馬車を寄せられそうな場所がある。ただし、草の下に石や窪みが隠れている可能性もあるため、ルシルは一度馬車を停め、降りて地面を確認することにした。


 トルクとベルクを落ち着かせ、車輪を固定してから、三人は石積みの近くへ向かった。


 近づくと、木の杭には短い紐が結ばれていることが分かった。


 紐の先には、小さな木片が吊るされている。


 風雨にさらされて表面の色は薄くなっていたが、木片そのものはまだしっかりしていた。紐も古びてはいるものの、今すぐ切れそうな状態ではない。


「何か書いてあるね」


 モモが目を細めた。


 木片には簡単な矢印と、短い言葉が刻まれていた。


 シモンは文字を確認し、ゆっくり読み上げた。


「『休み場、道なりに少し先』……と書かれています」


「休み場!」


 モモが嬉しそうに声を上げた。


 ルシルも思わず笑みを浮かべた。


「ちょうど探してた場所かもしれないな」


「ええ。地図に記されていた休憩地点を示している可能性が高そうです。ただ、どれほど先にあるかまでは分かりませんので、日暮れまでの時間を考えながら進みましょう」


 シモンはそう答え、木片の下の部分へ目を向けた。


 そこには、文字とは別に小さな印が刻まれていた。


 丸い輪郭の内側に、短い線が二本交差している。


 飾りのようにも見えるが、何かを表す記号なのかもしれない。


「シモン、この印は何だろう?」


 ルシルが尋ねると、シモンは少し考えた。


「今のところ分かりません。休憩場所を整備した方の印かもしれませんし、道しるべを作った方が自分の目印として刻んだものかもしれません」


「なるほど。じゃあ、あの休み場にも同じ印があるかもしれないな」


「そうですね。もし見つかれば、何か分かるかもしれません」


 モモは二人の話を聞きながら、旅帳面を開いた。


 木片の文字を写し、その下へ小さな印も描き込む。


 丸の中で二本の線が交差するだけの簡単な形だったが、実際に描いてみると、線の位置を揃えるのが少し難しかった。


「……こんな感じかな?」


 モモが帳面を見せると、ルシルは頷いた。


「うん。ちゃんと似てると思うよ」


「よかった! もし同じ印を見つけたら、比べられるね」


 シモンも帳面を覗き込み、穏やかに微笑んだ。


「よく描けています。文字も読み取れますし、十分に記録として役立つでしょう」


 褒められたモモは嬉しそうに笑い、帳面を閉じた。


 ルシルはもう一度、木の杭と石積みを眺めた。


 誰が作ったものなのかは分からない。


 けれど、草原の中で休憩場所を探している旅人にとって、こうした目印がどれほどありがたいものかは、今の自分たちならよく分かる。


(ここを通る誰かのために、わざわざ作ってくれたんだろうな)


 ルシルは静かに微笑んだ。


 道しるべを作った人は、きっと自分たちのことなど知らない。


 それでも、その小さな木片は、確かに三人の役に立っていた。


「ありがとう」


 ルシルは小さく呟き、木片から目を離した。


 モモはその声を聞き、嬉しそうに頷いた。


 三人は道しるべをそのまま残し、馬車へ戻った。


     ◇


 道しるべを過ぎてから、道は少しだけ右へ曲がっていた。


 草原の中を進む馬車の周囲には、背の低い草が広がっている。風は先ほどよりも穏やかになり、夕方の光が道を柔らかく照らしていた。


 ルシルは手綱を握りながら、前方へ目を向けた。


 やがて、遠くに小さな木立が見えてきた。


 その近くには低い石壁のようなものがあり、周囲の草地も少し平らになっている。


「……あれかな?」


 ルシルが呟くと、シモンも窓から前方を確認した。


「可能性は高そうですね。道の脇に整えられた場所があるようです」


 モモは嬉しそうに顔を上げた。


「わあ! 今日もいい場所が見つかるといいね!」


 ルシルは頷き、馬車の速度を少し落とした。


 近づいてみると、そこは小さな休憩場所だった。


 低い石壁が風を遮るように設けられ、その内側には平らな草地が広がっている。木立はそれほど大きくないが、夕方の日差しを和らげるには十分だった。


 石壁の近くには古い焚き火の跡があり、以前にも旅人が利用したことがあるようだった。


 ただし、今は誰もいない。


「ここなら、今夜は休めそうだな」


 ルシルは周囲を見回した。


 シモンも地面の状態を確認し、頷いた。


「ええ。風を避けられる場所もありますし、馬車を停めるには十分な広さがあります。水場は見当たりませんが、昨日補給した分がありますから問題ないでしょう」


「よかった! じゃあ、今日はここでお泊まりだね!」


 モモは嬉しそうに笑った。


 ルシルは馬車を石壁の内側へ寄せ、車輪を固定した。


 それから、三人で周囲の安全を確認していく。


 石壁の近くには小さな石がいくつか落ちていたため、足を引っかけないように片づけた。木立の下には乾いた枝もあったが、馬車を停めた場所からは十分に離れている。


 トルクとベルクを休ませる場所も、風が直接当たりにくい位置を選んだ。


「今日はここまでだな。二頭とも、お疲れさま」


 ルシルがトルクの首を撫でると、栗毛の馬は満足そうに鼻を鳴らした。


 ベルクも落ち着いており、シモンが馬具を外す間、静かに立っていた。


 モモは二頭の様子を見ながら、嬉しそうに笑った。


「今日もいっぱい歩いたね。明日も元気に進めるように、ゆっくり休んでね」


 ベルクは耳を動かし、モモの手が近づくのを確かめてから、静かに首を下げた。


 ルシルはその様子を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 旅を始めたばかりの頃、馬たちとの距離は今ほど近くなかった。


 もちろん大切にしていたが、どう接すればよいのか分からず、シモンに教えてもらうことも多かった。


 今では、トルクが餌を欲しがっているときの仕草も、ベルクが少し警戒しているときの耳の動きも、以前より分かるようになっている。


(こういうことも、旅を続けてきたからこそなんだろうな)


 ルシルは静かに微笑み、二頭の世話を続けた。


     ◇


 馬たちの世話を終えたあと、三人は夕食の準備へ取りかかった。


 空はまだ明るかったが、草原を渡る風には少しずつ涼しさが混じり始めている。日が沈めば気温も下がるだろうと考え、今夜は温かな汁物を作ることにした。


 モモは馬車の収納から野菜と豆を取り出し、机の上へ並べた。


「今日は何を作ろうかなあ。昨日は海藻を入れたから、今日は少し違う味にしてみたいね」


「そうだな。まだ野菜も残ってるし、豆を使えば食べ応えもありそうだ」


 ルシルが答えると、シモンは食材を確認しながら頷いた。


「それなら、今夜は野菜と豆を中心にした汁物にしましょう。明日の朝にも使えるよう、食材の量は調整しておきたいところですね」


「うん! じゃあ、私が野菜を切るね!」


 モモは元気よく返事をし、袖をまくった。


 ルシルは調理に使う水を用意し、シモンは火を起こす場所を確認した。


 石壁の内側には古い焚き火の跡があったが、そのまま使えるとは限らない。周囲の乾いた草や落ち葉を片づけ、火が広がらないように整えてから、必要な道具を並べていく。


 やがて鍋の中で水が温まり始めると、モモは切った野菜を順番に入れていった。


 ルシルも隣で手伝いながら、野菜の大きさを揃える。


 シモンは二人の手元を見守り、必要なときだけ声を掛けた。


「ルシル様、その野菜はもう少し小さくしておくと、ほかの具材と煮える時間を揃えやすいでしょう」


「分かった。じゃあ、これくらいかな?」


「ええ、それでよいと思います」


 ルシルは頷き、包丁を動かした。


 モモはその様子を見ながら、嬉しそうに笑った。


「ルシル君、最近すごく上手になったよね!」


「そうかな。まだシモンに教えてもらうことばっかりだけど」


「でも、最初の頃よりずっと慣れてるよ! 私も前よりちゃんと切れるようになったし、三人とも少しずつ上手になってるんだね」


 モモはそう言いながら、自分の切った野菜を見せた。


 大きさは完全には揃っていないものの、以前より丁寧に切られている。


 シモンはその様子を見て、穏やかに頷いた。


「ええ。お二人とも、ずいぶん慣れてこられましたね。私も、以前より一緒に調理する時間を楽しめるようになったと思います」


「本当?」


 モモが顔を輝かせた。


 シモンは少し照れたように眼鏡を直した。


「はい。以前は、できるだけ効率よく準備を終えることを考えていましたが、今はこうして相談しながら作るのも悪くないと思っています」


 ルシルはその言葉を聞き、嬉しそうに笑った。


「じゃあ、これからも三人で作ろうな」


「ええ。もちろんです」


 シモンは穏やかに答えた。


 鍋から立ち上る湯気が、夕方の空気へゆっくり溶けていく。


 草原の風が石壁を越えて吹き込み、野菜の甘い香りを運んでいった。


     ◇


 夕食が出来上がる頃には、太陽が低い丘の向こうへ近づいていた。


 草原は淡い金色から橙色へ変わり、遠くの海も昼間とは違う柔らかな色に染まっている。


 三人は石壁の内側へ椅子を並べ、温かな汁物とパンを受け取った。


 モモは器を両手で包み、立ち上る湯気を嬉しそうに眺めた。


「いい匂い……! 今日は豆がいっぱい入ってるね!」


「食べ応えがあるようにしてみました。野菜も柔らかく煮えていますから、熱さに気をつけて召し上がってください」


 シモンがそう言うと、モモは頷き、ゆっくり一口味わった。


 すぐに、その表情が明るくなる。


「美味しい! 豆がほくほくしてる!」


 ルシルも一口食べ、満足そうに頷いた。


「本当だ。今日は少し風が冷たくなってきたから、温かいものが余計に美味しく感じるな」


「そうですね。日が沈めば、さらに気温が下がるかもしれません。食事を終えたら、早めに片づけておきましょう」


 シモンはそう答え、自分の器へ目を落とした。


 モモは嬉しそうに笑いながら、パンを小さくちぎって汁物と一緒に食べた。


 食事の間、三人は今日見つけた道しるべのことを話した。


 石積みの横に立っていた木の杭。


 そこへ吊るされた小さな木片。


 そして、休憩場所までの道を教えてくれた短い言葉。


「ねえ、あの木片を作った人って、どんな人だったんだろうね」


 モモが尋ねると、ルシルは少し考えた。


「どうだろうな。ここをよく通る人かもしれないし、昔この場所で休んだ旅人かもしれない」


「そうかもしれませんね。少なくとも、休憩場所を知らない人が迷わないようにと考えたのでしょう」


 シモンが答えると、モモは静かに頷いた。


「そっか。私たちも、あれがなかったら、この場所を見つけるのにもっと時間がかかったかもしれないもんね」


「そうだな」


 ルシルは頷き、石壁の向こうへ目を向けた。


 草原の中には、今も道が続いている。


 昼間は明るく見通しがよかったが、夕方になると草の色が変わり、遠くの地形も少しずつ分かりにくくなっていた。


 もし道しるべがなければ、休憩場所を見落としていた可能性もある。


 あの小さな木片が、どれほど役に立ったのかを改めて感じた。


「……ありがたいよな」


 ルシルが呟くと、モモは嬉しそうに頷いた。


「うん。誰が作ったのか分からないけど、ありがとうって言いたくなるね」


 シモンも穏やかに微笑んだ。


「旅をしていると、そうした方々の仕事に助けられることが多いですね。道を整える人、水場を管理する人、休憩場所を残してくださる人。直接お会いする機会がなくても、その働きは確かに残っています」


 ルシルはその言葉を聞き、静かに頷いた。


 王城にいた頃、彼は多くの人々に支えられて暮らしていた。


 食事を作る人、衣服を整える人、馬を世話する人、城の廊下を掃除する人。


 その仕事がなければ、自分の毎日は成り立たなかった。


 もちろん、感謝していなかったわけではない。


 けれど、こうして旅を続けるうちに、以前よりもずっと具体的に、その仕事の意味を感じるようになっていた。


(知らない誰かの仕事が、俺たちの今日につながってるんだな)


 ルシルは温かな汁物をもう一口味わい、静かに微笑んだ。


     ◇


 夕食を終えたあと、三人は調理道具を片づけ、火の始末を丁寧に済ませた。


 空は少しずつ暗くなり始めていたが、西の地平線にはまだ淡い橙色が残っている。


 モモは旅帳面を取り出し、今日の出来事を書き込んでいた。


 風渡りの草地。


 草の間で跳ねていた小さな生き物。


 そして、休憩場所を教えてくれた道しるべ。


 どれも忘れたくない出来事だった。


「ねえ、ルシル君。今日の道しるべ、ちゃんと描いておいてよかったね」


 モモが言うと、ルシルは隣へ腰を下ろした。


「ああ。あの印も、いつか別の場所で見つかるかもしれないしな」


「うん! もし見つけたら、同じ人が作ったのかなって考えられるもんね」


 モモは嬉しそうに笑い、帳面を閉じた。


 ルシルはその様子を眺めながら、少しだけ考えた。


 旅の途中で見つけたものを記録しておくことは、ただ思い出を残すだけではない。


 次に同じ道を通るときや、誰かに道を尋ねられたときにも役立つかもしれない。


 昨日、モモが小さな湧き水の場所を書き残したことも、同じだった。


 あの水が飲用に適しているかは分からなかったが、分からなかったことまで含めて記録しておけば、次に誰かへ話すときにも、正確に伝えられる。


「モモの旅帳面、いつか誰かの役に立つかもしれないな」


 ルシルがそう言うと、モモは少し驚いたように瞬きをした。


「私の?」


「ああ。だって、どこに何があったのか、ちゃんと書いてるだろ? 俺たちが見つけたことを、次に通る人へ教えられるかもしれない」


 モモはしばらく考え、それから嬉しそうに笑った。


「……そっか。だったら、もっとちゃんと書いておきたいな」


 シモンも二人の会話を聞きながら、穏やかに頷いた。


「よい考えですね。ただし、確かめられなかったことは、確かめられなかったと記しておくのが大切です。道の状態も、水場の安全性も、時間が経てば変わる可能性がありますから」


「うん。分かった!」


 モモは元気よく返事をした。


 ルシルはそんな二人を見ながら、静かに微笑んだ。


 旅の記録が、いつか誰かの役に立つかもしれない。


 その可能性を考えるだけで、今日見つけた小さな道しるべが、少し違った意味を持つように感じられた。


     ◇


 夜が深まる前に、三人は馬たちの様子をもう一度確認した。


 トルクとベルクは落ち着いており、水も十分に飲んでいる。


 シモンは二頭の脚を確かめ、夜の間に危険がないよう周囲を確認した。


 ルシルはトルクの首を撫でながら、今日一日の働きを労った。


「今日もありがとうな。明日もよろしく頼むよ」


 トルクは鼻先を伸ばし、ルシルの手へ軽く触れた。


 ベルクも静かに耳を動かしている。


 モモはその様子を見て、嬉しそうに笑った。


「二頭とも、今日もいっぱい歩いたね。ゆっくり休んでね!」


 シモンは馬具と周囲の状態を確認し、頷いた。


「これで大丈夫でしょう。あとは、夜の風が強くならないかだけ気をつけておきましょう」


 三人は馬車へ戻り、外套を羽織ってから再び外へ出た。


 空はすっかり暗くなり始めていた。


 西の地平線にはまだ淡い橙色が残っていたが、その上には深い青色の空が広がっている。


 そして、東の空には、すでにいくつかの星が輝き始めていた。


「……わあ」


 モモは小さく声を漏らした。


 ルシルも空を見上げ、思わず息を呑んだ。


 草原には高い建物も大きな木も少ない。


 そのため、空がとても広く見えた。


「すごいな。空が全部見えるみたいだ」


 ルシルが呟くと、モモは何度も頷いた。


「うん! 海の近くで見た星空もきれいだったけど、ここもすごいね!」


 シモンも静かに空を見上げていた。


「周囲に明かりが少ないので、星がよく見えるのでしょうね。雲も少なくなってきましたし、今夜はよい条件のようです」


 三人は石壁の近くへ腰を下ろし、しばらく星空を眺めた。


     ◇


 夜の草原は、昼間よりもずっと静かだった。


 風が草を揺らす音は聞こえているが、それ以外に大きな物音はない。


 遠くの海から届く波音も、ここではほとんど聞こえなかった。


 ルシルは空を見上げながら、静かに息を吐いた。


 星は一つひとつが小さく輝き、その間には暗い空が広がっている。


 モモは隣で星を数えようとしていたが、途中で分からなくなったらしく、小さく笑った。


「……いっぱいありすぎて、数えられないね」


「そうだな。俺も、どこから数えたらいいのか分からないよ」


 ルシルが答えると、シモンも微笑んだ。


「空に見える星をすべて数えるのは、なかなか難しいでしょうね。ですが、こうして眺めているだけでも十分に楽しめます」


「うん。私もそう思う!」


 モモは嬉しそうに頷いた。


 しばらくすると、彼女はふと何かを思い出したように顔を上げた。


「ねえ、ルシル君。今日見つけた道しるべ、覚えてる?」


「ああ。休み場があるって書いてあった木片だろ?」


「うん。あれ、誰が作ったんだろうね」


 モモは空を見上げながら、静かに続けた。


「私たちは今日、あの道しるべのおかげでここを見つけられたでしょ? でも、作った人は、私たちが使うなんて知らないんだよね」


 ルシルはその言葉を聞き、少しだけ考えた。


 確かに、あの木片を作った人は、今夜ここで三人が星空を眺めていることなど知らないだろう。


 それでも、あの小さな道しるべは、確かに自分たちの役に立っていた。


「……そうだな。知らない誰かが、俺たちの旅を助けてくれたんだな」


 ルシルが答えると、シモンも静かに頷いた。


「旅をしていると、そういうことが多いですね。道を整えてくださる方も、水場を管理してくださる方も、私たちの顔を知っているわけではありません。それでも、その仕事のおかげで安心して進めるのですから」


 モモは嬉しそうに微笑んだ。


「じゃあ、私たちも、いつか誰かの役に立てたらいいね」


 ルシルはその言葉を聞き、静かに頷いた。


「ああ。大きなことじゃなくてもいいから、何かできたらいいな」


 三人はしばらく黙って星空を眺めた。


 草原を渡る風が、外套の裾を柔らかく揺らしている。


 ルシルは胸の奥に、穏やかな温かさが広がるのを感じていた。


(王位を手放しても、誰かの役に立つことはできるんだよな)


 以前は、誰かのために何かをすることと、自分の役目を果たすことが、ほとんど同じ意味だった。


 けれど今は違う。


 自分で選び、自分ができることを考え、必要なときに手を差し伸べればいい。


 それは、王子でなくなったからこそ、改めて気づけたことなのかもしれなかった。


     ◇


 やがて夜の風が少し冷たくなり始めた。


 シモンは空を見上げたあと、二人へ声を掛けた。


「そろそろ馬車へ戻りましょうか。星はまだ見えていますが、身体を冷やしてしまっては明日に響きます」


 モモは少し名残惜しそうに空を見上げたものの、すぐに頷いた。


「うん。今日はいっぱい見られたから満足!」


 ルシルも立ち上がり、外套についた草を軽く払った。


「そうだな。明日も晴れたら、また見られるかもしれないし」


「うん! 楽しみにしておこうっと」


 三人は馬車へ戻り、寝る準備を整えた。


 窓の外には、まだ星が輝いている。


 ルシルは寝台へ腰を下ろし、今日一日の出来事を思い返した。


 風渡りの草地。


 草原を揺らす風。


 小さな道しるべ。


 そして、夜空いっぱいに広がる星。


 どれも、今日この道を選ばなければ見られなかったものだ。


 ルシルは静かに微笑んだ。


「……今日も、いい一日だったな」


 その言葉に、モモが嬉しそうに頷いた。


「うん! 明日も楽しみだね!」


 シモンも穏やかに微笑んだ。


「ええ。明日はまた、どんな景色が見られるのでしょうね」


 三人は顔を見合わせ、静かに笑った。


 馬車の外では、草原を渡る風が穏やかに吹いている。


 その音を聞きながら、ルシルはゆっくりと目を閉じた。


 王位なんて、もういらない。


 今の自分には、自由に進める道がある。


 そして、その道を一緒に歩いてくれる仲間がいる。


 それだけで、十分に幸せだった。


 草原の夜は静かに更けていく。


 小さな道しるべに導かれて辿り着いた休憩場所で、三人の旅人は穏やかな眠りについた。

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