第100話 風渡りの草地を越えて、まだ知らない町の名前を聞きました
草原の朝は、思っていたよりも静かだった。
ルシルが目を覚ましたとき、馬車の窓には淡い青色の光が差し込んでいた。昨夜、三人で眺めた星空はすでに姿を消し、低い石壁の向こうには、朝露をまとった草がどこまでも広がっている。
夜の間に風向きが変わったらしく、窓の外から聞こえてくる葉擦れの音も、昨日の夕方とは少し違っていた。
寝台から身体を起こしたルシルは、しばらくその音に耳を傾けた。
(……昨日は、いい夜だったな)
夕食を終えたあと、モモとシモンと一緒に見上げた星空を思い出す。
周囲に高い建物がない草原では、空が驚くほど広く感じられた。星の数も多く、モモは途中まで数えようとしていたものの、結局どこまで数えたのか分からなくなって笑っていた。
そんな何でもない出来事が、今朝になっても心に残っている。
ルシルは小さく微笑み、窓の外へ目を向けた。
石壁の近くには、昨日見つけた休憩場所の跡が残っている。古い焚き火の跡や、風を避けるために積まれた石壁は、誰が整えたものなのか分からなかった。
それでも、あの場所があったおかげで、三人と二頭の馬は安心して夜を過ごせた。
(今日も、ちゃんと片づけてから出発しよう)
そう考えていると、背後から布の擦れる音が聞こえた。
「おはようございます、ルシル様。昨夜はよくお休みになれましたか?」
振り返ると、シモンが寝台の端へ腰を下ろし、眼鏡を掛けているところだった。
黒い髪には少しだけ寝癖が残っていたが、本人はまだ気づいていないらしい。
「おはよう、シモン。ああ、ぐっすり眠れたよ。シモンもよく眠れた?」
「ええ。夜の間に風が少し強くなった時間はありましたが、馬車が大きく揺れるほどではありませんでしたから」
シモンはそう答え、窓の外を確認した。
「今朝は風も落ち着いているようですね。ただ、草原では急に強くなることもありますから、出発前に天候を確かめておきましょう」
「分かった。今日はどんな道になるんだろうな」
ルシルが楽しそうに言うと、シモンは小さく笑った。
「地図では、草原の南側へ進むにつれて道が緩やかに下っていくようです。その先には人の行き来がある道との合流地点が記されていますが、詳細までは分かりません」
「人の行き来がある道か。じゃあ、そろそろ町や村が近いのかな?」
「可能性はありますね。ただ、地図に記された道が現在も同じように使われているとは限りません。実際に確認してから判断しましょう」
ルシルは頷いた。
旅を始めたばかりの頃は、地図に道が描かれていれば、その先には必ず何かがあるのだと思っていた。
けれど、実際に旅をしてみると、地図には載っていない小さな道や休憩場所がある一方、地図に描かれていても、草に覆われて分かりにくくなった道もあった。
昨日見つけた木の道しるべも、その一つだろう。
地図だけでは分からなかった休憩場所を、あの小さな木片が教えてくれた。
「じゃあ、今日も道をよく見ながら進もう」
「ええ。それがよいと思います」
二人が顔を見合わせて頷いたところで、寝台のほうから眠そうな声が聞こえた。
「……二人とも、朝から難しい話してるの?」
モモが布団から顔を出していた。
桃金色の長い髪が枕の上へ広がり、緑色の瞳はまだ眠たそうに細められている。
「おはよう、モモ。今日の道の話をしてたんだよ」
「おはよう……。そっか、今日も旅するんだね」
モモは小さく欠伸をしたあと、窓の外を見た。
朝日に照らされた草原が目に入った瞬間、眠そうだった表情が少しずつ明るくなる。
「……わあ。昨日の夕方と、全然違う色だね」
「ああ。朝露がついてるから、草が光って見えるんだ」
「本当だ。きらきらしてる……」
モモはしばらく窓の外を眺め、それから嬉しそうに笑った。
「ねえ、朝ご飯の前に、ちょっとだけ外を見てもいい?」
「もちろん。ただ、まだ地面が濡れてるから、足元には気をつけような」
「うん!」
モモは元気よく頷き、身支度を始めた。
シモンはそんな彼女を見守りながら、眼鏡の位置を直した。
「モモ嬢、外へ出る前に髪も整えておいたほうがよいですよ。今朝は少し風がありますから」
「えっ?」
モモは自分の髪へ手を伸ばし、そこでようやく寝癖に気づいたらしい。
「……あれ? なんだか、いつもより広がってる?」
ルシルは笑いをこらえながら頷いた。
「ちょっとだけな。でも、すぐ直ると思うよ」
「もう! 二人とも、先に教えてよ!」
モモは頬を膨らませたものの、すぐに自分でも笑い始めた。
朝の馬車には、いつもの穏やかな空気が流れていた。
◇
外へ出ると、草原には冷たい朝の空気が満ちていた。
夜の間に降りた露が草の先端へ残り、朝日を受けて細かな光を散らしている。石壁の陰にはまだ少し暗い場所があったが、その向こうでは広い草原がゆっくり明るくなり始めていた。
ルシルは外套の前を合わせ、深く息を吸った。
潮の匂いは昨日よりも薄い。
海が遠ざかったというより、草原を渡ってくる風の向きが変わったのだろう。
代わりに、湿った草と土の匂いが感じられた。
「……いい朝だな」
ルシルが呟くと、隣へ出てきたモモも大きく息を吸った。
「うん! なんだか、草の匂いがする!」
「昨日の夕方は、もう少し乾いた匂いだった気がするな」
「そうだね。朝露があるからかな?」
二人が話していると、シモンが馬車の後ろから姿を現した。
「湿度の違いもあるのでしょうね。気温が上がれば、また印象が変わるかもしれません」
そう言ってから、シモンは二人の視線が自分の頭へ向いていることに気づいた。
「……どうかなさいましたか?」
ルシルは少し迷ったあと、笑いながら答えた。
「シモン、髪が少し跳ねてるよ」
「……髪、ですか?」
シモンは自分の頭へ手を伸ばした。
右側の髪が一房だけ外へ跳ねていることに気づくと、彼は珍しく困ったような表情を浮かべた。
「これは失礼しました。身支度を整えたつもりだったのですが」
「シモン君も寝癖ついてたんだ!」
モモが嬉しそうに笑った。
「さっき私に髪を整えたほうがいいって言ってたのに!」
「……おっしゃるとおりですね」
シモンは眼鏡を直し、少しだけ苦笑した。
「どうやら、私も人のことばかり気にしていてはいけないようです」
その返事があまりに素直だったので、モモは一瞬驚いたあと、ますます楽しそうに笑った。
ルシルもつられて笑いながら、シモンの髪が落ち着くのを待った。
王城にいた頃、シモンが寝癖をつけたまま人前へ出る姿など、想像もできなかった。
けれど今は、そんな小さな失敗も笑い話になる。
(こういうシモンを見るのも、旅に出てから増えたな)
ルシルは嬉しく思いながら、トルクとベルクのもとへ向かった。
二頭は昨夜と変わらず落ち着いていた。
トルクはルシルの姿を見つけると、すぐに鼻先を伸ばしてくる。
一方、ベルクは周囲を見回してから、シモンが近づくのを静かに待っていた。
「おはよう、トルク。今日も元気そうだな」
ルシルが首を撫でると、トルクは嬉しそうに鼻を鳴らした。
モモはその様子を見て、にこにこと笑っている。
「トルクって、ルシル君が来るとすぐご飯のこと考えてそうだよね」
「そうかもしれないな。でも、元気に食べてくれるのはありがたいよ」
「うん! 私も朝ご飯が楽しみだもん!」
シモンはベルクの脚を確認しながら、二人の会話を聞いていた。
「食欲があることは、体調を確かめるうえでも大切ですからね。ただ、餌の量は適切に調整しましょう」
「分かってるよ、シモン」
ルシルは笑って答えた。
三人は二頭の身体と蹄を確認し、水と餌を用意した。
昨夜の休息で疲れは取れているようで、脚の動きにも不自然なところは見られない。
シモンは最後に馬具の状態を確かめ、満足そうに頷いた。
「今日も問題なく進めそうですね。もちろん、道の状態を見ながらですが」
「よかった。じゃあ、俺たちも朝ご飯にしようか」
ルシルが言うと、モモは嬉しそうに両手を合わせた。
「賛成!」
◇
朝食を終えたあと、三人は休憩場所の片づけを始めた。
昨夜使った調理道具はすでに洗ってあったが、今朝使った食器や机も片づけなければならない。
モモは布で机を拭き、ルシルは椅子を畳んで馬車へ運んだ。
シモンは火を使った場所をもう一度確認し、燃え残りがないことを確かめている。
古い焚き火の跡の周囲には、以前から残っていた灰や小石があった。
ルシルはそれらを無理に動かさず、自分たちが使った場所だけを丁寧に整えた。
「こうして片づけておけば、次に来る人も使いやすいかな」
ルシルが言うと、モモは頷いた。
「うん。昨日、道しるべを作ってくれた人にも、ありがとうって言いたいしね」
シモンは二人の言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
「そうですね。使わせていただいた場所を、できるだけ元の状態に戻しておくことも、旅人として大切な心掛けだと思います」
三人は最後に周囲を見回し、忘れ物がないことを確かめた。
モモは石壁の前へ立ち、少しだけ頭を下げた。
「昨日はありがとう。また誰かが、ここでゆっくり休めますように」
ルシルはその姿を見て、静かに微笑んだ。
シモンも何も言わず、彼女の隣で石壁を眺めていた。
誰が作ったのか分からない休憩場所。
けれど、そこには確かに人の思いやりが残っていた。
ルシルは馬車へ戻り、御者台へ上がった。
「それじゃあ、出発しようか」
モモは窓から顔を出し、嬉しそうに手を振った。
「またねー!」
シモンは地図を膝へ置き、前方の道を確認した。
トルクとベルクが歩き始めると、馬車はゆっくりと石壁の内側を離れた。
朝の草原には、車輪が地面を転がる音が静かに響いていた。
◇
午前中の道は、昨日よりも緩やかな下りが多かった。
草原の中央を進むというより、低い丘の縁をなぞるように道が続いている。右手には遠くの海が見え、左手には背の低い草が広がっていた。
風は穏やかだったが、時折強い風が吹き抜けることがある。
そのたびに草の表面が波のように動き、モモは窓からその様子を眺めていた。
「ねえ、ルシル君。昨日より草の色が少し違って見えるね」
「そうだな。昨日は夕方だったし、今は朝だからかな」
「うん。でも、それだけじゃない気もするんだ。あっちの草、少し黄色っぽいでしょ?」
モモが指さした場所には、緑色の草に混じって、穂先が淡い黄色になった草が生えていた。
ルシルは前方の道を確認してから、その方向へ目を向けた。
「本当だ。種類が違うのかもしれないな」
シモンも窓から外を眺めた。
「そうですね。草原といっても、同じ種類の草だけが生えているわけではありませんから。土の状態や日当たりによっても、育ち方は変わるでしょう」
「そっか。じゃあ、遠くから見ると一面の緑でも、近くで見るといろんな色があるんだね」
モモは嬉しそうに頷き、旅帳面を開いた。
昨日は草原を大きな緑色の波として描いたが、今日はその中へ黄色い穂を描き加えてみることにしたらしい。
筆を動かしながら、彼女は少し考え込んでいた。
「……うーん。草って、どう描いたら風に揺れてる感じになるんだろう」
ルシルはその声を聞き、少しだけ笑った。
「難しいよな。昨日も、風の動きを絵にするのは大変そうだったし」
「そうなの。草を一本ずつ描くと、ただ生えてるだけみたいになっちゃうんだよね」
シモンはしばらく考えたあと、穏やかに口を開いた。
「草の先端が同じ方向へ傾いている様子を描いてみてはいかがでしょう。風そのものは見えませんが、風を受けた草の形なら表現できるかもしれません」
「……なるほど!」
モモは顔を上げた。
「じゃあ、全部まっすぐに描くんじゃなくて、少しずつ傾ければいいんだね!」
「ええ。ただ、実際の草をよく観察してみると、さらに分かりやすいと思います」
モモは頷き、窓の外をじっと見つめた。
風が吹くと、草の穂先が同じ方向へ傾く。
けれど、背の低い草と高い草では動き方が違い、風が弱まると戻る速さも少しずつ異なっていた。
「……本当だ。全部同じじゃないんだね」
モモは小さく呟き、もう一度筆を動かし始めた。
ルシルはその様子を見ながら、静かに微笑んだ。
旅を始めた頃、モモの旅帳面には食べ物の絵が多かった。
もちろん今でも、気に入った料理を見つければ嬉しそうに描いている。
けれど最近は、風や雲、草の動きまで記録しようとしている。
(モモも、いろんなものを見るようになったんだな)
ルシルはそう思いながら、前方の道へ目を戻した。
そして、ふと自分自身も変わっていることに気づいた。
以前なら、道を進むときに考えていたのは、目的地へ辿り着くことだった。
今は、目的地までの間に何があるのかを楽しみにしている。
その違いは、ルシルにとってとても大きなものだった。
◇
しばらく進むと、道の先に小さな分かれ道が見えてきた。
一本はこれまでと同じように南へ続き、もう一本は草原の東側へ向かっている。
分かれ道の近くには低い石標が立っていた。
ルシルは馬車の速度を落とし、シモンへ声を掛けた。
「シモン、あそこに道が分かれてるみたいだ。地図にも載ってる?」
シモンは地図を広げ、前方の地形と見比べた。
「……ええ。南へ続く道が、私たちの進んできた街道の延長でしょう。東へ向かう道は、別の小さな道につながっているようですが、詳しい行き先までは記されていません」
「じゃあ、石標を確認してみようか」
「そうですね。道幅も十分にありますし、安全な場所へ停めて確認しましょう」
ルシルは馬車を道の脇へ寄せ、トルクとベルクを落ち着かせた。
三人は馬車から降り、石標へ近づいた。
石標には、二つの方向を示す矢印が刻まれていた。
南へ向かう矢印の下には、『南街道』という文字がある。
一方、東へ向かう矢印の下には、『牧草地方面』と記されていた。
「牧草地?」
モモが首を傾げた。
「じゃあ、あっちには牛とか羊がいるのかな?」
シモンは少し考えた。
「牧草地ということは、家畜の餌になる草を育てたり、放牧したりする場所があるのでしょう。ただ、どのような家畜がいるのかまでは分かりません」
「そっか。見てみたい気もするけど、今は南の道を進むんだよね?」
モモが尋ねると、ルシルは頷いた。
「ああ。今のところ、南へ進もうと思ってる。でも、別の道があるって分かっただけでも面白いな」
ルシルは石標を眺めた。
王城にいた頃、道は目的地へ辿り着くためのものだった。
けれど今は、分かれ道を見つけるたびに、その先にも誰かの暮らしがあるのだと想像するようになった。
牧草地へ向かう道を使う人々がいる。
そこには家畜の世話をする人がいて、草を刈る人がいて、きっと自分たちとは違う毎日を送っているのだろう。
「……いつか、あっちの道も歩いてみたいな」
ルシルが呟くと、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! でも、今すぐじゃなくてもいいよね。旅はまだまだ続くんだもん」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「ええ。すべての道を一度に進むことはできませんからね。気になる場所を覚えておいて、また機会があれば訪れるのもよいでしょう」
ルシルはその言葉を聞き、静かに頷いた。
以前なら、選ばなかった道のことを考える余裕などなかったかもしれない。
けれど今は、進まなかった道も、いつか選べる可能性として残っている。
そのことが、少し嬉しかった。
三人は石標の文字を旅帳面へ書き込み、馬車へ戻った。
ルシルは南街道へ向けて手綱を握り直し、トルクとベルクへ声を掛けた。
馬車はゆっくりと分かれ道を通り過ぎた。
◇
昼が近づく頃、道の向こうに低い木立が見えてきた。
その周囲には草地が広がり、少し離れた場所には小さな畑のようなものも見えている。
ルシルは前方の様子を確かめながら、馬車の速度を落とした。
「……あれ、畑かな?」
モモが窓から顔を出した。
「本当だ。草原の中に、土の色が違う場所があるね」
シモンも外を確認し、頷いた。
「人の手が入っているようですね。近くに家や作業場があるのかもしれません」
ルシルは少し考えた。
道の脇には、木の柵が低く続いている。
その向こうには畑らしい場所があり、背の低い作物が整然と並んでいた。
ただし、今のところ人の姿は見えない。
「勝手に入るのはよくないし、道から眺めるだけにしておこうか」
「うん。誰かが大事に育ててるものかもしれないもんね」
モモは素直に頷いた。
三人は馬車を進めながら、畑の様子を眺めた。
作物の種類までは分からなかったが、葉の形や並び方から、自然に生えている草とは違うことが分かる。
ルシルはその光景を見て、少しだけ嬉しくなった。
昨日までの草原では、人の暮らしを感じられるものは道しるべや休憩場所くらいだった。
けれど今は、畑がある。
つまり、この近くには、日々ここへ通って作物を育てている人がいるのだろう。
「そろそろ、人が暮らしてる場所が近いのかもしれないな」
ルシルが言うと、シモンも頷いた。
「そうですね。畑があるということは、少なくとも定期的に人が訪れているのでしょう。ただ、集落が近いかどうかは、もう少し進んでみなければ分かりません」
「そっか。でも、ちょっと楽しみだね!」
モモは嬉しそうに笑った。
ルシルも頷き、前方へ目を向けた。
道は木立の向こうへ続いている。
その先には、まだ見たことのない景色が広がっていた。
◇
昼休みは、畑から少し離れた道沿いの木陰で取ることにした。
そこには平らな草地があり、馬車を停めても通行の邪魔にならない程度の広さがあった。
三人は周囲を確認し、トルクとベルクを休ませた。
昼食は、保存していたパンと簡単な具材を組み合わせたものだった。
モモは木陰へ腰を下ろし、嬉しそうにパンを手に取った。
「いただきます!」
ルシルも隣へ座り、遠くの草原を眺めながら食事を始めた。
シモンは地図を膝の上に置き、午後の道を確認している。
「シモン君、食べながら地図を見てると、パンの味が分からなくなっちゃうよ?」
モモが言うと、シモンは少し驚いたように顔を上げた。
「……そうでしょうか?」
「うん。だって、せっかく美味しいのに、もったいないもん」
モモは真剣な表情で頷いた。
ルシルは思わず笑ってしまった。
「モモらしいな。でも、確かに休憩中くらいは地図を閉じてもいいかもしれないぞ」
シモンは二人を見比べたあと、少しだけ苦笑した。
「……分かりました。では、地図の確認は食後にしましょう」
そう言って地図を畳むと、モモは満足そうに笑った。
「うん! そのほうがいいよ!」
シモンはパンを一口食べ、静かに頷いた。
ルシルはその様子を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
以前のシモンなら、食事中でも必要な確認を優先していたかもしれない。
けれど今は、モモの言葉を聞き、少しだけ手を止めることができる。
それは、旅を始めてから少しずつ生まれてきた変化だった。
食事を終えたあと、三人はしばらく木陰で休んだ。
モモは旅帳面を開き、午前中に見つけた分かれ道と畑のことを書き込んでいた。
ルシルはその隣で、草原を渡る風を眺めている。
シモンは地図を広げ、午後の進路を確認した。
「この先、南街道は少しずつ東へ曲がるようです。地図では、もう一つ道が合流する場所がありますね」
「じゃあ、午後はその辺りまで進んでみようか」
ルシルが言うと、シモンは頷いた。
「ええ。ただし、無理にそこまで進む必要はありません。夕方までに安全な休憩場所が見つかれば、そこで停まりましょう」
「分かった。じゃあ、今日もゆっくり行こう」
ルシルは微笑み、遠くの道へ目を向けた。
草原の向こうには、まだ知らない景色が続いている。
◇
午後の道は、午前中よりも人の手が入った場所が増えていた。
道の脇には短い木の柵が続き、ところどころに小さな畑や草を刈った跡が見えている。
ルシルは手綱を握りながら、周囲の変化を楽しんでいた。
草原そのものはまだ広がっているが、昨日までのように、どこまでも自然の景色だけが続いているわけではない。
誰かが草を刈り、道を整え、畑を作っている。
その痕跡が少しずつ増えていることに、ルシルは興味を覚えた。
「シモン、こういう場所って、近くの町の人が使ってるのかな?」
ルシルが尋ねると、シモンは少し考えた。
「その可能性はありますね。牧草地や畑があるなら、近くに集落があるのかもしれません。ただ、どの町や村に属しているかは、まだ分かりません」
「そっか。じゃあ、誰かに会えたら聞いてみたいな」
モモも嬉しそうに頷いた。
「うん! それに、この辺りでどんなものが作られてるのかも知りたい!」
ルシルは笑った。
「モモは食べ物のことも気になるんだろ?」
「もちろん! でも、それだけじゃないよ。どんな暮らしをしてるのかも知りたいんだもん」
モモは少し頬を膨らませたあと、すぐに笑った。
シモンも穏やかに微笑んだ。
「そうですね。土地によって育てられる作物も違いますし、暮らし方にも違いがあるでしょう。機会があれば、話を聞いてみるのもよいと思います」
三人はそんな会話を交わしながら、道を進んでいった。
やがて、前方から小さな音が聞こえてきた。
最初は風が木の枝を揺らす音かと思ったが、少しずつ近づくにつれて、一定の間隔で何かが地面を踏む音だと分かった。
「……馬かな?」
ルシルが呟くと、シモンも前方を確認した。
「そのようですね。向こうから誰かが来るようです」
モモは窓から顔を覗かせた。
道の先には、小さな荷車を引いた一頭の馬が見えていた。
荷車には布を掛けた荷物が積まれ、その横を年配の男性が歩いている。
男性はルシルたちの馬車に気づくと、道の端へ寄り、軽く手を上げた。
ルシルも馬車の速度を落とし、相手の通行を妨げないようにした。
「こんにちは!」
ルシルが声を掛けると、男性は穏やかな笑みを浮かべた。
「おう、こんにちは。旅の人かい?」
「はい。南のほうへ向かっているところです」
男性は馬車と二頭の馬を見て、少し感心したように頷いた。
「立派な馬車だな。あんたたち、海沿いから来たのか?」
「ええ。少し前まで潮凪村に滞在していました」
「潮凪村か。あそこは魚がうまいだろう」
男性は懐かしそうに笑った。
モモはその言葉を聞き、嬉しそうに顔を出した。
「はい! すごく美味しかったです! 魚も、海藻を使った料理も!」
「ははっ、そりゃよかった。あそこは海のものが豊かだからな」
男性は楽しそうに笑い、荷車を引く馬の首を軽く撫でた。
ルシルは相手の様子を見ながら、少しだけ考えた。
この男性は、どうやらこの辺りの道に詳しそうだ。
もし迷惑でなければ、先の道について聞いてみたい。
「すみません。少し道を尋ねてもよろしいでしょうか?」
ルシルが丁寧に声を掛けると、男性は気軽に頷いた。
「もちろんだ。どこへ行きたいんだ?」
「今は特に急いでいる目的地はないんですが、このまま南街道を進むと、どんな町や村があるのか知りたくて」
男性は少し驚いたように目を瞬かせた。
「目的地を決めずに旅してるのか?」
「はい。気になる場所があれば立ち寄りながら、ゆっくり進んでいます」
ルシルが答えると、男性は感心したように笑った。
「そりゃまた、贅沢な旅だなあ。俺なんか、毎日荷物を運ぶだけで精いっぱいだってのに」
その言葉に、ルシルは少しだけ照れたように笑った。
「俺たちも、まだ知らないことばかりですけどね。でも、こうしていろんな場所を見るのが楽しくて」
「そうかそうか。若いうちにいろんなものを見るのは、悪いことじゃないさ」
男性は頷き、南へ続く道を指さした。
「このまま行くと、道がもう一つ合流するところがある。その先をしばらく進めば、リーヴェルっていう小さな町があるよ」
「リーヴェル……」
ルシルは初めて聞く名前を、ゆっくり繰り返した。
モモも興味深そうに顔を上げた。
「どんな町なんですか?」
男性は少し考え、穏やかに答えた。
「大きな町じゃないが、周りの畑や牧草地で働く人がよく集まるところだ。市場もあるし、旅人が泊まれる宿も何軒かある。海沿いの品物も内陸の品物も、少しずつ入ってくるな」
「へえ……!」
モモの瞳が輝いた。
「じゃあ、いろんな食べ物があるんですね!」
「ははっ、そうだな。食べ物が目当てなら、市場を覗いてみるといい」
男性は楽しそうに笑った。
シモンはその話を聞きながら、静かに頷いていた。
「ありがとうございます。ちなみに、リーヴェルまでの道で注意したほうがよい場所はありますか?」
男性は少し考えた。
「そうだなあ。大きな危険があるわけじゃないが、合流地点の手前に、少し道が荒れてるところがある。雨が降ったあとなんかは車輪を取られやすいから、気をつけたほうがいい」
「分かりました。ありがとうございます」
シモンは丁寧に頭を下げた。
ルシルも感謝を伝え、男性へ微笑んだ。
「助かりました。道のことも町のことも、教えていただいてありがとうございます」
「いやいや、気にするな。旅の人に道を教えるくらい、どうってことないさ」
男性はそう言って笑い、荷車の馬へ声を掛けた。
「じゃあ、俺はそろそろ行くよ。あんたたちも、気をつけてな」
「はい! ありがとうございました!」
モモが元気よく手を振ると、男性も手を上げて応えた。
荷車はゆっくりと動き始め、ルシルたちが来た道を進んでいった。
三人はその後ろ姿を見送り、再び馬車へ戻った。
◇
「リーヴェル、か」
ルシルは御者台へ座りながら、先ほど聞いた町の名前を口にした。
まだ見たことのない町。
どんな建物があり、どんな人々が暮らしているのかも分からない。
けれど、名前を知っただけで、少しだけ身近に感じられるようになった。
「ねえ、ルシル君。リーヴェルって、楽しそうな町だね!」
モモが窓から顔を出した。
「市場があるって言ってたし、いろんな食べ物があるんだって!」
「そうだな。でも、まずは道の状態を確認しながら進まないとな」
ルシルが笑って答えると、シモンも頷いた。
「ええ。先ほどの方が教えてくださった荒れた道については、注意しておきましょう。雨は降っていませんが、車輪を取られやすい場所があるなら、慎重に進む必要があります」
「分かった。じゃあ、今日は無理せず、道の様子を見ながら進もう」
三人は相談し、リーヴェルを次に立ち寄る候補として考えることにした。
ただし、今日中に到着しようとはしない。
距離も正確には分からず、途中の道の状態も確認できていないからだ。
ルシルはトルクとベルクへ声を掛け、馬車をゆっくり進ませた。
午後の光は、少しずつ柔らかくなり始めていた。
道の左右には、草原と畑が交互に現れるようになっている。
遠くには低い丘が続き、その向こうには海が見えていた。
モモは旅帳面を開き、先ほど聞いた町の名前を書き込んだ。
『リーヴェル』
その下には、『畑と牧草地の近くにある小さな町。市場と宿があるらしい』と記した。
まだ実際に訪れたわけではないため、聞いた話だと分かるように書いておく。
シモンはその様子を見て、穏やかに微笑んだ。
「よい記録ですね。実際に町へ着いたら、聞いた話と比べてみるのも面白いでしょう」
「うん! どんなところなのか、楽しみ!」
モモは嬉しそうに笑った。
ルシルも頷き、前方へ目を向けた。
まだ知らない町の名前が、一つ増えた。
それだけで、旅の先に新しい楽しみが生まれたような気がした。
◇
しばらく進むと、道の先に小さな起伏が見えてきた。
地面には細かな石が増え、ところどころに車輪の跡が深く残っている。
ルシルは馬車の速度を落とし、シモンへ声を掛けた。
「シモン、ここがさっき言ってた荒れた道かな?」
シモンは窓から外を確認し、頷いた。
「その可能性がありますね。車輪の跡が深く残っていますし、地面も少し柔らかそうです」
「じゃあ、慎重に進もう」
ルシルはトルクとベルクへ声を掛け、歩調を落とした。
馬車はゆっくりと荒れた道へ入っていく。
車輪が小さな窪みを越えるたび、床へ軽い揺れが伝わってきた。
モモは机の上に置いていた旅帳面を閉じ、棚へしまった。
「ちょっと揺れるね」
「ああ。でも、無理に進まなければ大丈夫そうだ」
ルシルは前方を確認しながら答えた。
シモンも地面の状態を見守っている。
深い窪みを避けられる場所では、少しだけ進路を調整した。
どうしても通らなければならない場所では、速度を十分に落とし、車輪が大きく跳ねないようにした。
トルクとベルクは落ち着いており、ルシルの声に合わせてゆっくり歩いている。
やがて、荒れた場所を抜けると、道は再び比較的平らになった。
ルシルは小さく息を吐いた。
「……よし。無事に抜けられたな」
シモンも頷いた。
「ええ。二頭とも落ち着いていましたし、ルシル様の操作も適切でした。念のため、次に停車したときに車輪と馬具を確認しておきましょう」
「分かった。ありがとう、シモン」
ルシルは嬉しそうに笑った。
モモも窓から顔を出し、明るい声を上げた。
「トルクもベルクも、よく頑張ったね!」
二頭は言葉を理解したかのように耳を動かした。
ルシルはその様子を見て、静かに微笑んだ。
旅の道は、いつも平らで歩きやすいわけではない。
けれど、こうして一つずつ確かめながら進めば、無理をせずに先へ進むことができる。
それもまた、旅を続ける中で覚えた大切なことだった。
◇
荒れた道を抜けたあと、三人は少し広くなった場所で馬車を停めた。
ルシルは御者台から降り、トルクとベルクの様子を確かめた。
二頭とも落ち着いており、脚の動きにも不自然なところは見られない。
シモンは車輪と馬具を確認し、問題がないことを確かめた。
「大丈夫そうですね。車輪にも目立った異常はありません」
「よかった。あの人が教えてくれて助かったな」
ルシルが言うと、シモンは頷いた。
「ええ。事前に注意すべき場所があると分かっていれば、余裕を持って対応できますからね」
モモはその会話を聞きながら、旅帳面を開いた。
「じゃあ、これも書いておこうかな。リーヴェルへ向かう道には、少し荒れた場所があるって」
「いいな。ただ、場所が分かるように書いておいたほうがいいかもしれない」
ルシルが言うと、モモは頷いた。
「うん! さっきの分かれ道から、どのくらい進んだかも書いておくね」
シモンはその様子を見て、穏やかに微笑んだ。
「正確な距離までは分かりませんから、おおよその位置として記しておきましょう。道の状態も、天候によって変わる可能性があります」
「分かった!」
モモは元気よく返事をし、帳面へ書き込んだ。
ルシルはそんな彼女を眺めながら、少しだけ考えた。
昨日、草原の休憩場所で話したことを思い出す。
知らない誰かが作った道しるべのおかげで、自分たちは安心して夜を過ごせた。
そして今日、通りかかった男性が道の状態を教えてくれたおかげで、荒れた場所にも落ち着いて対応できた。
旅は、自分たちだけで進んでいるように見えて、実際には多くの人々に支えられている。
(俺たちも、いつか誰かに道を教えられるようになるのかな)
ルシルは静かに微笑んだ。
そのときには、今日のように、自分たちが確かめたことを正確に伝えたい。
知らないことは知らないと伝え、分かることだけを丁寧に話す。
それだけでも、誰かの役に立つかもしれない。
◇
午後の光がさらに柔らかくなる頃、道の先に小さな木立が見えてきた。
その近くには平らな草地があり、馬車を停められそうな場所もある。
ルシルは前方を確認しながら、シモンへ声を掛けた。
「今日は、あの辺りで休もうか。まだ日があるけど、荒れた道も越えたし、無理に進まなくてもいいと思うんだ」
シモンは地図と周囲の地形を確認した。
「そうですね。明日も移動することを考えれば、早めに休むのはよい判断だと思います。ただし、地面の状態を確認してから停めましょう」
「分かった。じゃあ、少し近づいてみるよ」
ルシルはトルクとベルクへ声を掛け、馬車をゆっくり進ませた。
木立の近くには、道から少し離れた平らな草地が広がっていた。
地面は比較的乾いており、大きな窪みも見当たらない。
三人は周囲を確認し、そこで今夜の休憩を取ることにした。
馬車を停めると、ルシルは御者台から降り、トルクとベルクの首を撫でた。
「今日もありがとう。荒れた道もあったけど、よく頑張ってくれたな」
トルクは鼻先を伸ばし、ルシルの手へ軽く触れた。
ベルクも落ち着いており、シモンが馬具を外す間、静かに立っていた。
モモは二頭の様子を見ながら、嬉しそうに笑った。
「明日もよろしくね。でも、今日はもうゆっくり休んでいいからね!」
シモンは二頭の脚を確認し、頷いた。
「今日の移動による異常はなさそうですね。水と餌を用意して、十分に休ませましょう」
三人は馬たちの世話を終えたあと、夕食の準備へ取りかかった。
今日の夕食は、保存していた野菜と豆を使った簡単な料理にすることになった。
モモは食材を並べながら、嬉しそうに笑った。
「ねえ、明日リーヴェルに着けたら、どんなものが食べられるかな?」
ルシルは思わず笑った。
「まだ着けるか分からないぞ?」
「分かってるよ。でも、楽しみにするくらいはいいでしょ?」
「もちろん。俺も楽しみだよ」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「市場があると聞きましたから、食材を補充するにはよい場所かもしれませんね。ただ、まずは今ある食料を無駄なく使いましょう」
「はーい!」
モモは元気よく返事をし、野菜を切り始めた。
ルシルはその隣で調理を手伝いながら、夕方の草地を眺めた。
今日もまた、知らなかった場所を進み、知らなかった町の名前を聞いた。
そのことが、胸の奥を温かくしていた。
◇
夕食を終えたあと、三人は馬車の近くでしばらく過ごした。
空は少しずつ暗くなり始めていたが、まだ遠くの丘の輪郭が見えている。
モモは旅帳面を開き、今日の出来事を読み返していた。
朝の草原。
南街道と牧草地方面へ分かれる道。
畑のある景色。
そして、荷車を引く男性から聞いたリーヴェルという町の名前。
「……今日も、いろんなことがあったね」
モモが呟くと、ルシルは隣へ腰を下ろした。
「そうだな。昨日までは、次にどんな町があるのかも分からなかったのに」
「うん。名前を知るだけで、なんだか楽しみになるね」
モモは嬉しそうに笑った。
シモンも二人の近くへ腰を下ろし、穏やかに頷いた。
「そうですね。実際に訪れてみれば、また新しい発見があるでしょう」
ルシルは遠くの道へ目を向けた。
その先には、まだ見たことのない町がある。
市場があり、宿があり、畑や牧草地で働く人々が集まる場所。
どんな人に出会い、どんな景色を見られるのかは、まだ分からない。
けれど、分からないからこそ楽しみだった。
「……明日も、いい旅にしような」
ルシルが言うと、モモは元気よく頷いた。
「うん! リーヴェルに着けるかもしれないし、途中で何か見つかるかもしれないもんね!」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「ええ。まずは安全に進むことを大切にしながら、楽しんでいきましょう」
三人は顔を見合わせ、静かに笑った。
草地を渡る風が、馬車の近くを柔らかく吹き抜けていく。
ルシルはその風を感じながら、今日一日の出来事を思い返した。
王位を手放してから、ずいぶん多くの景色を見てきた。
それでも、まだ知らない場所は数えきれないほどある。
そして、その一つひとつを、仲間と一緒に確かめていける。
(……本当に、旅に出てよかったな)
ルシルは静かに微笑んだ。
明日もまた、道は続いている。
その先に何が待っているのかは、まだ誰にも分からない。
けれど、今のルシルには、それが何よりも楽しみだった。
夜の草地に停まった馬車は、静かに星明かりを受けている。
三人と二頭の馬を乗せた旅は、明日もまた、ゆっくりと続いていくのだった。




