第101話 南街道の小さな橋と、リーヴェルへ続く人々の道
夜明け前に吹いていた風は、朝日が丘の向こうから顔を出す頃には、すっかり穏やかになっていた。
南街道から少し離れた木立の周囲には、薄い朝靄が漂っている。枝葉の隙間から差し込む光はまだ弱く、昨夜のうちに冷えた地面には細かな露が残っていたが、空を見上げれば雲は少なく、今日もよく晴れそうだった。
ルシルは馬車の扉を静かに開け、外へ出ると、寝起きの身体をゆっくり伸ばした。ひんやりした空気が頬を撫で、遠くから聞こえてきた鳥の鳴き声に耳を傾けているうちに、頭の中に残っていた眠気も少しずつ薄れていく。
(昨日は、リーヴェルっていう町の名前を教えてもらったんだよな。今日はどこまで進めるだろう)
町の名前を思い浮かべると、自然に口元が緩んだ。
市場があり、宿があり、周囲の畑や牧草地で働く人々が集まるという小さな町。昨日出会った荷車引きの男性は、ごく当たり前の場所を説明するように話していたけれど、ルシルにとっては、その当たり前の暮らしこそが興味深かった。
王城にいた頃、地方の町について耳にする機会は何度もあった。
農作物の収穫量や街道の整備状況、税収や交易に関する報告書を通して、町の名前を知ることもあった。けれど、それらは紙に記された数字や文字であり、そこで暮らす人々の声や、朝の市場に漂う匂いまで伝えてくれるものではなかった。
今は違う。
自分の足で道を進み、途中で出会った人から話を聞き、その土地へ向かっている。
ルシルは木立の向こうに続く街道を眺めながら、胸の奥に生まれた期待を静かに味わっていた。
「おはようございます、ルシル様。もう起きていらしたのですね」
背後から声を掛けられて振り返ると、シモンが馬車の扉を押さえながら外へ出てきた。黒縁の眼鏡を掛け、いつもの紺色の外套を羽織っているが、今朝は手に地図を持っていない。
「おはよう、シモン。目が覚めたら外が明るくなり始めてたから、ちょっと景色を見てたんだ」
「なるほど。昨夜より風が弱くなっていますね。移動するには悪くない天候のようですが、草地の露が乾くまでは足元に注意したほうがよさそうです」
シモンは空を確かめたあと、馬車の周囲へ視線を巡らせた。
昨日の夕方、三人で確認した平坦な草地には、夜の間に大きな変化は見られない。馬車の車輪も安定しており、荷物を置いた場所に乱れた様子はなかった。
「昨日の荒れた道、思ったより揺れたよな。でも、トルクもベルクも落ち着いてくれて助かったよ」
「ええ。二頭ともよく指示を聞いてくれました。もっとも、あの区間を無事に通過できたのは、ルシル様が急がずに進んでくださったことも大きいでしょう」
「シモンが先に道の状態を確認してくれたからだよ。俺一人だったら、あんなに落ち着いて進めなかったかもしれない」
ルシルがそう答えると、シモンは一瞬だけ目を細めた。
「……そう言っていただけるのは嬉しいですね。ただ、最近は私のほうも、ルシル様から学ぶことが増えました」
「俺から?」
「はい。以前の私は、危険を避けるために予定を細かく定めることばかり考えていました。しかし、旅では予定どおりに進まないこともありますし、そもそも急いで目的地へ向かう必要がない日もありますから」
シモンはそこで言葉を区切り、朝日に照らされた草地を眺めた。
「安全を確保することと、余裕を持って景色を楽しむことは、必ずしも反対ではないのですね」
ルシルはその横顔を見つめ、穏やかに笑った。
王城にいた頃のシモンは、いつも何かを確認し、誰かのために予定を整えていた。今も慎重な性格は変わらないけれど、その慎重さの中に、自分自身が楽しむための時間を作れるようになっている。
「そうだな。今日も、いい景色があったら少し休もう。もちろん、道の邪魔にならない場所でだけど」
「承知しました。そのときは、私も景色を眺めることにします」
シモンの返事が少し楽しそうだったので、ルシルは嬉しくなった。
そのとき、馬車の中から何かが床へ落ちる小さな音が聞こえた。
「……あれ? どこに置いたんだっけ?」
続いて聞こえてきたのは、モモの困ったような声だった。
ルシルとシモンが顔を見合わせていると、扉が少しだけ開き、桃金色の髪を肩へ流したモモが顔を覗かせた。
「二人とも、おはよう! ねえ、私の旅帳面、見なかった?」
「おはよう、モモ。昨日の夜は、机の上で書いてなかったか?」
「そうなの。でも、寝る前に片づけたはずなんだけど、いつもの棚にないんだよね」
モモは眉を寄せながら、馬車の中を振り返った。
ルシルは少し考え、昨夜の光景を思い返した。
夕食後、三人はリーヴェルについて話していた。そのときモモは帳面を開き、町の名前や街道の状態を書き込んでいたが、途中で窓から星が見えることに気づき、席を立っていたはずだ。
「もしかして、窓の下の長椅子に置いたんじゃないか? 昨日、星を見ようとして移動してただろ?」
「あっ!」
モモは目を丸くし、慌てて馬車の中へ戻った。
しばらくして、嬉しそうな声が響く。
「あったー! 長椅子の端っこに挟まってた!」
帳面を胸に抱えて戻ってきたモモは、安心したように息を吐いた。使い込まれた表紙をそっと撫でる仕草からは、彼女がその帳面をどれほど大切にしているのかが伝わってくる。
「よかったな。昨日のことも書いたばかりだし、見つからなかったら困るところだった」
「うん。ちゃんとしまったつもりだったんだけどなあ……。これからは、寝る前にもう一回確認する!」
モモは真剣な表情で宣言したあと、二人を見比べて少し照れくさそうに笑った。
「でも、ルシル君が覚えててくれて助かったよ。ありがとう!」
「どういたしまして。俺も忘れ物することはあるし、お互いに気をつけよう」
シモンも微笑みながら頷いた。
「旅の記録は、あとから同じ景色を思い出す手掛かりにもなりますからね。大切に保管しておきましょう」
「うん! それに、まだまだいっぱい描きたいものがあるからね!」
モモは帳面を棚の決まった場所へ戻し、今度こそ朝の身支度を整え始めた。
ルシルはその様子を見届けてから、シモンと一緒にトルクとベルクのもとへ向かった。
◇
朝食と片づけを終え、馬車が南街道へ戻ったのは、木立の陰から朝露が消え始めた頃だった。
トルクとベルクは今朝も落ち着いており、食欲や歩き方に気になる変化はなかった。シモンは出発前に昨日の荒れた区間を通過した車輪と馬具をもう一度確認していたが、緩みや傷みは見つからず、予定どおり旅を続けられることになった。
街道の左右には、昨日よりも人の手が入った土地が増えていた。
背の高い草が風に揺れる場所もあれば、一定の高さに刈り揃えられた草地もある。低い柵の向こうには畑が続き、まだ若い作物の葉が朝日を受けて光っていた。
モモは窓際に腰を下ろし、興味深そうに外を眺めていた。
「ねえ、あの畑、昨日見たところと葉っぱの形が違うね。こっちは丸っこいのが多いけど、向こうのは細長いよ」
ルシルは前方の安全を確かめながら、少しだけ横へ目を向けた。
「本当だ。畑ごとに育ててるものが違うのかな」
「たぶんそうだと思う。でも、何を育ててるのか分からないのが、ちょっと悔しいなあ」
モモは頬へ指を当て、しばらく考え込んだ。
「市場に行ったら、野菜を売ってる人に聞いてみようかな。畑で見た葉っぱの形を説明したら、分かるかもしれないし」
「それは面白そうだね。ただ、似た葉の作物もありますから、見た目だけで決めつけないほうがよいでしょう」
シモンがそう言うと、モモは素直に頷いた。
「うん。分からなかったら、分からないまま書いておくよ。あとで答えが分かったら、そのときに書き足せばいいもんね」
ルシルはその言葉を聞き、思わず笑みを浮かべた。
モモの帳面には、まだ名前の分からない花や、正体の分からない鳥の絵も残っている。最初は気になったものを何でも描いていた彼女が、最近は分かったことと分からないことを区別して記録するようになった。
それは、三人の旅が少しずつ積み重なっている証拠のようにも感じられた。
道の先では、遠くの丘を背にして数本の木が並んでいる。
その向こうから、かすかに金属の触れ合うような音が聞こえてきた。
ルシルは耳を澄ませたが、風に混じっているため、何の音なのかは分からない。
「シモン、今、何か音がしなかった?」
「ええ。私にも聞こえました。鈴か、金具の触れ合う音のようですが……」
シモンは窓の外を見つめ、少し先にある木立へ視線を向けた。
すると、道の右手に続く柵の向こうから、白っぽいものがゆっくり動いているのが見えた。
「あっ、羊!」
モモが声を弾ませた。
柵の内側には、十数頭ほどの羊が集まっていた。
毛の色は白や薄い灰色で、草を食べているものもいれば、顔を上げて馬車を眺めているものもいる。首に小さな鈴を付けた羊が動くたび、先ほど聞こえた澄んだ音が風に乗って届いてきた。
「本当にいたな。昨日、牧草地の道しるべを見たとき、モモが羊を見たいって言ってただろ?」
「うん! でも、まさかこんなに早く会えると思わなかった!」
モモは嬉しそうに窓へ近づいたものの、羊たちを驚かせないよう、大きな声を出すのは控えた。
柵の向こうでは、一頭の羊がこちらを見つめたあと、何事もなかったように草を食べ始めている。
「なんだか、のんびりしてるね。あの子なんて、こっちを見たのに、すぐご飯に戻っちゃった」
「馬車が通ることに慣れているのかもしれませんね。とはいえ、急に驚いて動く可能性もありますから、こちらも静かに通りましょう」
シモンの言葉に、ルシルは頷いた。
トルクとベルクは羊たちに気づいて耳を動かしたが、歩調を乱すことはなかった。
ルシルは二頭へ穏やかに声を掛けながら、柵に近づきすぎないよう街道の中央寄りを進んだ。
モモは羊たちの姿が見えなくなるまで窓の外を眺めていたが、やがて席へ戻ると、嬉しそうに旅帳面を開いた。
「今日の最初の絵は、羊にしようかな。あの鈴の音も、忘れないように書いておこうっと」
「音を絵にするのは難しそうだな」
「そうなの。でも、鈴を付けてたことを書いておけば、あとで思い出せる気がするんだ」
モモはそう答え、丸みのある羊の背中を描き始めた。
ルシルはその様子を横目で見ながら、街道の先へ意識を戻した。
羊の鈴が遠ざかると、今度は車輪の音と草を渡る風の音が、馬車の周囲を満たしていった。
◇
午前の半ばを過ぎた頃、道の傾斜が少しずつ緩くなり、周囲の草地が低く開けてきた。
遠くには木々の集まった場所があり、その手前を横切るように、細い水の流れが見えている。街道はそこへ向かって続いていたが、川幅がどれほどあるのか、馬車からではまだ分からなかった。
シモンは地図を広げ、周囲の地形と見比べた。
「この辺りには小さな水路があるようですね。地図では街道がそのまま続いていますから、橋が設けられている可能性が高いと思います」
「じゃあ、渡れるかどうか確かめないとな」
ルシルは手綱を少し引き、馬車の速度を落とした。
道の先へ近づくにつれて、水の流れる音が聞こえ始めた。
やがて木立の間から、低い石造りの橋が姿を現した。
橋は幅の狭い水路に架けられており、両側には膝ほどの高さの石の縁が設けられている。長さはそれほどないものの、道幅は広くなく、二台の馬車が並んですれ違うことは難しそうだった。
さらに、橋の向こう側には一台の荷車が停まっていた。
荷台には刈り取った草が高く積まれ、縄で丁寧に固定されている。その傍らでは、作業着姿の男性が車輪の近くにしゃがみ込み、何かを確かめていた。
「……誰かいるな」
ルシルは橋から十分に距離を取った場所で馬車を停めた。
男性は車輪から顔を上げ、こちらに気づくと軽く手を振った。
「すまないね! ちょっと待ってもらえるかい!」
「はい、大丈夫です!」
ルシルが答えると、男性は安心したように頷いた。
シモンは橋の様子を見つめながら、御者台の隣へ身を寄せた。
「橋の幅を考えると、向こうの荷車が動くまでは待ったほうがよいでしょう。こちらから進んでしまうと、橋の上ですれ違うことになります」
「ああ。急いでるわけじゃないし、ここで待とう」
ルシルは二頭へ声を掛け、落ち着いて立っているよう促した。
モモも窓から橋の向こうを眺めていたが、男性が車輪の近くで何度も手を動かしていることに気づいた。
「ねえ、あの人、何か困ってるのかな?」
「そうかもしれないな。ちょっと聞いてみようか」
ルシルは馬車を停めたまま、男性へ声を掛けた。
「何かお困りですか? 必要ならお手伝いしますよ!」
男性は顔を上げ、少し困ったように笑った。
「ありがとう! 車輪に草を束ねた縄の端が絡んじまってね。引っ張った拍子に余計に締まったみたいで、今ほどいてるところなんだ」
ルシルは荷台を見た。
積まれた草の束は大きく、何本もの縄で固定されている。そのうち一本の端が下へ垂れ、車輪の内側へ入り込んでいるようだった。
「それなら、近くで見てもいいですか?」
「助かるよ。ただ、馬が驚かないように気をつけてくれ」
男性が答えると、シモンはルシルへ視線を向けた。
「私が確認してきましょう。ルシル様はトルクとベルクを見ていてください。モモ嬢も、こちらで待っていただけますか?」
モモは少し考えたあと、素直に頷いた。
「分かった。二頭が落ち着いていられるように、私もここにいるね」
シモンは馬車から降り、橋の向こう側へ歩いていった。
ルシルはその後ろ姿を見送りながら、トルクの首を軽く撫でた。ベルクも耳を動かしていたが、二頭とも静かに待っている。
男性は近づいてきたシモンへ事情を説明し、車輪の内側を指さした。
「ほら、この辺りなんだ。縄を引っ張ると車輪の奥へ食い込むし、無理に回せば傷めそうでね」
シモンは膝を折り、車輪と縄の位置を慎重に確かめた。
確かに、縄の端が車輪の内側へ入り込んでいる。車輪そのものが壊れている様子はないが、縄が締まったまま動かせば、車輪や荷の固定に余計な負担がかかる可能性があった。
「荷台の上の束は、ほかの縄でも固定されていますか?」
「ああ。そっちは問題ないよ。絡んだのは余った端を結んでおいた一本で、途中で緩んじまったらしい」
「でしたら、まず荷の状態を確認してから、この縄の張りを緩めましょう。無理に引き抜くより、結び目を解いたほうが安全だと思います」
男性は頷き、荷台の反対側へ回った。
シモンは縄の状態を見ながら、どの部分を動かせば車輪へ負担を掛けずに済むかを考えた。
王城で働いていた頃なら、こうした作業を自分の手で行う機会は多くなかった。けれど冒険者として活動する中で、荷の固定や道具の扱いを学び、今では旅の途中で起こる小さな問題にも自然に対応できる。
(大きな魔法を使う必要も、力任せに動かす必要もありませんね。まずは絡んだ原因を確かめることが大切です)
シモンはそう考え、男性と声を掛け合いながら縄を緩めていった。
しばらくすると、車輪の内側へ食い込んでいた部分が少しずつ動き始めた。
「おっ、抜けそうだな」
「ええ。ここで急に引くと、また別の部分が引っ掛かるかもしれません。ゆっくり動かしましょう」
二人は慎重に縄をほどき、最後に車輪の内側から端を引き抜いた。
男性はほっとしたように息を吐き、縄を手に取った。
「いやあ、助かった! 一人でやってたら、もうしばらく掛かってたよ」
「大きな問題にならず、よかったです。念のため、荷の固定をもう一度確認したほうがよいでしょう」
「ああ、そうする。橋を渡る前に気づいて正解だったな」
男性は笑いながら荷台へ手を伸ばし、縄を結び直し始めた。
シモンも車輪の状態を確認したあと、作業を見守った。
荷車を引く馬は、少し離れた場所で静かに立っている。男性が時折声を掛けると、耳を動かして応えていた。
やがて固定が終わると、男性は荷台を軽く揺らし、草の束が動かないことを確かめた。
「よし、これなら大丈夫そうだ。待たせちまって悪かったね」
「いえ。こちらも急いでいませんから」
シモンが答えると、男性は橋の向こうで待っているルシルたちを見た。
「せっかくだから、少し話をしていかないかい? 向こうの広いところまで荷車を動かすからさ」
シモンはルシルへ視線を向けた。
ルシルは少し離れた場所からその様子を見ており、男性の提案が聞こえると笑顔で頷いた。
「もちろんです! 橋を渡った先で、少し休ませてもらえれば嬉しいです!」
男性は満足そうに笑い、自分の荷車へ戻った。
◇
橋を渡る順番は、男性の荷車が先になった。
男性は荷台の縄を最後にもう一度確かめると、馬へ声を掛け、ゆっくりと橋を渡り始めた。石の橋面には長年使われてきた車輪の跡が薄く残っており、荷車はその上を慎重に進んでいく。
ルシルは十分な距離を保ちながら、その様子を見守った。
橋の向こうには、道が少し広くなった場所がある。男性はそこへ荷車を移動させ、後続の馬車が通れるように道を空けた。
「さあ、もう大丈夫だよ!」
声を掛けられたルシルは、まず橋の入口と路面を確認した。
水路は細く、橋の下では澄んだ水が石の間を流れている。橋の両端には低い石の縁があるため、車輪の位置を確かめながら進めば、十分に通過できそうだった。
「トルク、ベルク。ゆっくり行こうな」
ルシルは二頭へ声を掛け、馬車を進ませた。
車輪が石の橋面へ乗ると、土の道とは違う硬い音が響いた。
モモは窓の外へ目を向け、橋の下を流れる水を眺めていた。
「わあ……。思ったよりきれいな水だね。底の石まで見えるよ」
「そうですね。ただ、見た目が澄んでいるからといって、そのまま飲めるとは限りません。今は十分な水を持っていますし、ここで補充する必要はないでしょう」
シモンの言葉に、モモは頷いた。
「うん。見るだけにしておくよ。でも、水の音が気持ちいいね」
ルシルも橋の中央を通過しながら、耳へ届く水音に微笑んだ。
海沿いで聞いていた波の音とは違い、この水路の音は小さく軽やかだった。石の間を水が抜けるたびに細かな音が重なり、馬車の車輪が立てる音の下から、絶えず聞こえてくる。
橋を渡り終えると、ルシルは道の広い場所へ馬車を寄せた。
男性は荷車の傍らで待っており、三人が無事に渡ったことを確認すると、嬉しそうに手を上げた。
「お疲れさん。あんたたち、ずいぶん落ち着いた馬を連れてるんだな」
「ありがとうございます。トルクとベルクっていうんです。二頭とも、旅を始めてからずっと頑張ってくれてます」
ルシルが紹介すると、男性は二頭を見比べた。
「いい名前だね。毛並みもきれいだし、大事にされてるのが分かるよ」
モモはその言葉を聞き、自分が褒められたかのように嬉しそうな顔をした。
「そうなんです! トルクはご飯が大好きで、ベルクは落ち着いてて、二頭ともすごく頼りになるんですよ!」
「ははっ、そうかそうか。うちの馬も働き者なんだけどね、草の匂いが強いところへ来ると、時々寄り道したがるんだ」
男性は自分の馬を振り返り、親しげに首を撫でた。
その仕草には、長い時間を一緒に過ごしてきた相手への信頼が感じられた。
ルシルは男性の荷車へ目を向けた。
積まれている草は乾燥したものと、まだ少し青みの残るものが混じっている。束の大きさは揃えられており、荷台から落ちないよう丁寧に積み重ねられていた。
「その草は、牧草地から運んでいるんですか?」
「ああ。向こうの畑の近くで刈った分を、まとめて運んでるところさ。全部が今日刈ったものじゃないけどね」
男性は荷台を軽く叩き、少し誇らしそうに笑った。
「乾かした草は家畜の餌になるし、状態のいいものは町でも引き取ってもらえる。まあ、俺は主に運ぶ役目なんだけどな」
「町って、リーヴェルですか?」
ルシルが尋ねると、男性は頷いた。
「そうだよ。あんたたちも、あそこへ向かってるのかい?」
「はい。昨日、道で出会った方から町のことを教えてもらったんです。市場や宿があると聞いたので、立ち寄ってみようかと思って」
「なるほどね。だったら、ちょうどいい道を進んでるよ。この先で別の街道と合流するから、そこからは道も少し賑やかになるはずさ」
男性は南へ続く道を指さした。
その先には低い丘があり、道は丘の裾を回り込むように続いている。
「ただし、合流するところは荷車の行き来が多いからね。曲がり角では、先に来てる人がいないかよく確かめたほうがいい」
「ありがとうございます。気をつけます」
ルシルが頭を下げると、男性は気軽に手を振った。
「いやいや、こっちこそ助かったよ。車輪の縄をほどいてもらったし、道のことを教えるくらいはさせてくれ」
モモはそのやり取りを聞きながら、荷台に積まれた草を興味深そうに眺めていた。
「あの、ちょっと聞いてもいいですか?」
「もちろん。何が知りたいんだい?」
「その草って、全部同じ種類なんですか? さっき道の途中で、いろんな色の草が生えてるのを見たんですけど……」
男性は少し驚いたあと、楽しそうに笑った。
「よく見てるねえ。草の種類は一つじゃないよ。ただ、家畜に向くものと向かないものがあるから、何でも一緒に刈ってるわけじゃないんだ」
「そうなんですね!」
モモは目を輝かせた。
男性は荷台の端から、落ちかけていた一本の草を拾い上げた。
「ほら、これは穂が細いだろう。こういう草もあるし、もっと葉が広いものもある。育つ場所や時期で違いが出るから、慣れてくると見ただけである程度分かるようになるんだよ」
モモは草の形をじっと見つめた。
「……すごい。私、昨日まで草原って、遠くから見ると全部同じように見えてたんです。でも、近くで見ると全然違うんですね」
「そうだろう? 俺たちにとっちゃ毎日見てる草だけど、旅の人には新鮮なんだなあ」
男性は穏やかに笑い、草を荷台の上へ戻した。
ルシルはその会話を聞きながら、少し考えた。
草原を眺めるとき、自分たちは風に揺れる美しさや、広々とした景色に心を動かされていた。
けれど、この土地で暮らす人にとって草原は、景色であると同時に生活を支える場所でもある。
羊が食べる草が育ち、刈り取った草が荷車に積まれ、町へ運ばれていく。
昨日までただ眺めていた緑の広がりが、今は少し違ったものに見え始めていた。
(同じ景色でも、そこに暮らしてる人には、俺たちが知らない見え方があるんだな)
ルシルは荷台の草を見つめながら、静かに息を吐いた。
王城にいた頃、牧草地について書かれた報告書を読んだことはあった。しかし、実際に刈り取られた草を前にして、それを運ぶ人の話を聞くと、紙の上では想像しきれなかった手間や時間が感じられる。
自分が知らなかったのは、町の名前だけではなかったのだ。
◇
男性は自分のことを、近くの牧草地で荷運びをしているダリオだと名乗った。
年齢は五十歳を少し過ぎたくらいだろうか。日に焼けた顔には深い笑い皺があり、話すときには相手の目を見て、ゆっくり言葉を選ぶ人だった。
「それにしても、あんたたちは変わった旅をしてるんだね。町へ急ぐわけでもなく、道の途中の景色を楽しんでるなんて」
ダリオはそう言いながら、木立の陰へ目を向けた。
橋の周囲には少し広い草地があり、荷車を停めて休むには十分な場所がある。三人もそこで短い休憩を取ることにし、トルクとベルクへ水を与えた。
「俺たち、急いで行かなきゃいけない場所がないんです」
ルシルは水を飲む二頭を見守りながら答えた。
「だから、行ってみたい場所があれば寄り道するし、景色がきれいなら少し停まることもあります。もちろん、暗くなる前に休む場所を見つけたり、食料を確認したりはしないといけませんけど」
「なるほどねえ。そりゃあ、道そのものを楽しむ旅ってわけだ」
ダリオは感心したように頷いた。
「俺なんか、いつも荷物をどこへ運ぶかばかり考えてるから、道の途中で何を見たかなんて、あんまり覚えてないこともあるよ」
その言葉に、モモは少し首を傾げた。
「でも、ダリオさんは草のことをすごく詳しく知ってますよね。それって、私たちが知らない景色をいっぱい知ってるってことじゃないですか?」
ダリオは目を瞬かせた。
モモは自分の旅帳面を取り出し、午前中に描いた羊の絵を見せた。
「私、さっき初めて羊がたくさんいるところを見たんです。鈴の音がして、みんな草を食べてて、すごくかわいかったんですよ。でも、あの羊たちが何を食べてるのか、どんなふうに暮らしてるのかは、まだ全然知りません」
彼女はそこで帳面を閉じ、荷台の草へ目を向けた。
「ダリオさんは、そういうことを知ってるんですよね。だったら、私たちとは違う楽しみ方で、ずっとこの辺りを見てきたんじゃないかなって思ったんです」
ダリオはしばらく黙っていた。
それから、照れくさそうに頬を掻いた。
「……そう言われると、なんだか不思議な気分だな。毎日やってる仕事だから、特別なことだなんて思ったこともなかったよ」
シモンはその様子を見て、穏やかに口を開いた。
「慣れ親しんだ土地のことは、かえって当たり前に感じるものなのかもしれませんね。ですが、初めて訪れる者にとっては、その当たり前の一つひとつが新しい発見になります」
「そういうもんかねえ」
ダリオは小さく笑い、橋の下を流れる水路へ目を向けた。
「あの橋だって、俺にとっちゃ何年も渡ってるただの橋だけど、初めて通る人には、ちゃんと渡れるかどうか確かめる場所なんだな」
「はい。俺たちも、橋の幅を見てから進みました」
ルシルが答えると、ダリオは満足そうに頷いた。
「それでいいんだよ。慣れてる道ほど油断することもあるからな。俺だって今日は、縄の端をちゃんとしまっておかなかったせいで、余計な時間を使っちまった」
ダリオは苦笑しながら荷車を振り返った。
シモンもその視線を追い、静かに頷いた。
「小さな確認でも、積み重ねることが大切なのでしょうね。私たちも、今日のことを覚えておこうと思います」
その返事を聞いたダリオは、少し驚いたようにシモンを見た。
黒縁の眼鏡を掛けた青年は、身なりこそ旅人らしいものの、立ち居振る舞いには落ち着きがあり、話す言葉も丁寧だった。
最初に見たときは、商家の帳簿を預かるような人物かと思ったが、実際には車輪に絡んだ縄を手際よくほどき、荷の固定まで確認してくれた。
(見た目だけじゃ分からんもんだな。あの若い人も、ずいぶん旅慣れてるらしい)
ダリオはそう思いながら、今度はルシルへ目を向けた。
金髪の青年は、二頭の馬へ穏やかに声を掛けながら、相手の様子をよく見ている。偉そうなところは少しもなく、むしろ自分たちのような荷運びの仕事に、素直な興味を向けてくれる。
桃金色の髪の少女は、見慣れた草の一本にも目を輝かせていた。
三人はずいぶん違う性格のようだが、不思議と一緒にいる姿が自然だった。
「……いい仲間と旅してるんだね、あんた」
ダリオがそう言うと、ルシルは少し驚いたように顔を上げた。
それから、照れくさそうに笑った。
「はい。俺も、そう思ってます」
モモは嬉しそうに笑い、シモンは静かに目を細めた。
ダリオはその様子を見て、満足そうに頷いた。
◇
休憩を終える頃、橋の向こうから別の荷車が近づいてきた。
今度は空に近い荷台を引いた小さな馬車で、御者台には若い女性が座っている。女性は橋の手前で速度を落とし、こちら側に荷車が停まっていることを確認すると、軽く手を上げた。
「ダリオさん、こんなところで休んでたの?」
「おう、ミーナ。ちょっと縄が絡んでな。こっちの旅人さんたちに助けてもらったところだよ」
ダリオが答えると、ミーナと呼ばれた女性はルシルたちへ目を向けた。
「そうだったんだ。こんにちは。南街道を通ってきたの?」
「こんにちは。はい、リーヴェルへ向かっているところです」
ルシルが答えると、ミーナは明るく頷いた。
「それなら、この先の合流地点を通ることになるね。今日は町へ戻る荷車が多いかもしれないから、少し気をつけたほうがいいよ」
「今日は何かあるんですか?」
モモが興味深そうに尋ねると、ミーナは少し考えた。
「特別なお祭りがあるわけじゃないんだけど、明日の市場に向けて荷物を運ぶ人がいるんだよ。もちろん、いつも同じくらい賑やかになるとは限らないけどね」
「明日の市場……!」
モモの目が輝いた。
ミーナはその反応に笑い、荷台を軽く叩いた。
「私は今から空の荷車で牧草地のほうへ行くところ。帰りには道具を少し積んで戻る予定なんだ」
「そうなんですね。じゃあ、リーヴェルにはいろんな荷車が集まるんだ」
「うん。周りの畑や牧草地から来る人もいるし、別の町へ向かう途中で寄る人もいるよ。大きな市場じゃないけど、必要なものを揃えるには便利な場所だと思う」
ルシルはその話を聞きながら、昨日の男性が教えてくれたことを思い出した。
市場があり、宿があり、農地で働く人々が集まる町。
その言葉が、少しずつ具体的な光景として想像できるようになってきた。
「教えてくれてありがとうございます。俺たち、まだリーヴェルには行ったことがないんです」
「そうなんだ。だったら、初めて見るものも多いかもしれないね」
ミーナは笑顔で答えたあと、少し真面目な表情になった。
「ただ、合流地点の近くは道が曲がってて、向こうから来る荷車が見えにくいところがあるんだ。急いで通ろうとしないで、前をよく見てね」
「分かりました。ありがとうございます」
ルシルが丁寧に頭を下げると、ミーナは軽く手を振った。
彼女はダリオとも短く言葉を交わし、橋の上にほかの荷車がいないことを確認してから、ゆっくりと渡っていった。
三人はその姿を見送り、道の向こうへ消えるまで待った。
「……さっきの人も、親切だったね」
モモが呟くと、ルシルは頷いた。
「ああ。昨日の男性もそうだったけど、この辺りの人は道のことをよく教えてくれるな」
シモンは地図を畳みながら、少し考えた。
「荷車を使う方々にとって、街道の状態は日々の仕事に直接関わるのでしょう。どこが通りにくいか、どの場所ですれ違いに注意すべきかを知っているのは、それだけ頻繁に道を利用しているからだと思います」
「そっか。俺たちにとっては初めての道でも、あの人たちにとっては毎日の道なんだな」
ルシルは橋を振り返った。
低い石造りの橋の下では、相変わらず水が静かに流れている。
先ほどまで困っていたダリオの荷車も、今はしっかり縄が結び直され、いつでも出発できる状態になっていた。
ダリオは三人へ向き直り、明るい声を掛けた。
「それじゃあ、俺もそろそろ行くよ。あんたたちも、気をつけてな」
「はい。今日はありがとうございました!」
ルシルが答えると、モモも笑顔で手を振った。
「草のこと、教えてくれてありがとうございました! リーヴェルでも、いろんなものを見てみます!」
「ははっ、楽しんでおいで。市場で見かけたら、また声でも掛けてくれ」
ダリオはそう言って荷車へ戻った。
ルシルたちは、荷車がゆっくりと南へ進み始めるのを見送ってから、自分たちも出発の準備を整えた。
◇
昼食は、橋から少し進んだ場所にある木陰で取ることになった。
道の脇には広い草地があり、馬車を停めても通行の邪魔にならない。近くに水場はなかったが、三人は十分な飲み水を持っていたため、無理に水路へ戻る必要もなかった。
ルシルは馬車を安定した場所へ停め、トルクとベルクを休ませた。
シモンは馬具の状態を確認し、モモは昼食の準備を手伝っている。
今日の昼食は、保存していたパンと、少量の野菜を使った簡単なものだった。
モモはパンを手に取りながら、午前中の出来事を楽しそうに振り返った。
「ねえ、あの橋、ちょっと面白かったね。橋そのものは小さかったのに、あそこでいろんな人と話せたんだもん」
ルシルは頷き、パンを一口食べた。
「そうだな。最初はただ橋を渡るだけだと思ってたけど、ダリオさんの荷車が停まってたおかげで、草のことも聞けたし」
「シモン君も、すごく頼りになったよ! あの縄、私だったらどこからほどけばいいのか分からなかったと思う」
モモが笑顔を向けると、シモンは少し照れたように眼鏡を直した。
「難しい作業ではありませんでしたよ。絡んでいる部分を確認し、無理に力を掛けないようにしただけです」
「でも、それがすごいんだよ。私だったら、早く取ろうとして引っ張っちゃうかもしれないもん」
モモは自分の手を見つめ、少し考えた。
「……そういえば、旅をしてると、何でも急いでやればいいってわけじゃないんだね。昨日の荒れた道もそうだったし、今日の縄もそうだったし」
ルシルはその言葉を聞き、静かに頷いた。
「確かに。急いで進むより、ちゃんと確かめたほうが早く終わることもあるんだな」
シモンは二人の会話を聞きながら、穏やかに微笑んだ。
「状況によって判断は変わりますが、少なくとも今日のような場合は、落ち着いて確認することが大切ですね。無理に動かして車輪を傷めてしまえば、もっと時間が掛かっていたかもしれません」
モモは頷き、パンをもう一口食べた。
それから、ふと思い出したように顔を上げた。
「ねえ、リーヴェルの市場って、どんな感じなんだろうね。ダリオさんが運んでた草も、売られてるのかな?」
「草そのものが並ぶ場所もあるかもしれないし、家畜の餌として別の場所で取引されてるのかもしれないな」
ルシルが答えると、シモンも頷いた。
「町の規模によって、品物の扱い方は違うでしょう。実際に訪れてみなければ分かりませんが、農地や牧草地に近い町なら、それらに関係する品物が集まる可能性は高そうです」
「そっか。じゃあ、食べ物だけじゃなくて、道具とかも見てみたいな」
モモは少し考え、旅帳面を取り出した。
午前中に描いた羊の絵の隣へ、ダリオが見せてくれた草の形を書き加えていく。
ルシルはその様子を眺めながら、ふと口を開いた。
「モモ、その帳面、ずいぶん絵が増えたよな」
「うん。最初の頃は、こんなに描くと思ってなかったんだけどね」
モモは帳面を少し持ち上げ、使い込まれた表紙を見つめた。
「でも、あとで見返すと、あのとき何を見たのか思い出せるんだ。絵が上手かどうかは分からないけど、私には大事なものになってるよ」
ルシルはその言葉を聞き、胸の奥が温かくなった。
以前、三人で夕暮れの景色を描いたことを思い出す。
同じ場所に立っていたのに、モモは空と海を、ルシルは丘と木々を、シモンは馬車と二頭の馬を描いた。
誰もが違うものを見ていた。
けれど、その違いがあるからこそ、三枚の絵を並べると、あの日の景色が少し広く感じられた。
「……また、三人で絵を描きたいな」
ルシルが呟くと、モモは嬉しそうに顔を上げた。
「うん! 今度は町の景色でもいいかもね。市場とか、宿の窓から見える景色とか!」
シモンも穏やかに頷いた。
「時間と場所に余裕があれば、私も描いてみたいですね。ただ、人の多い場所では通行の邪魔にならないようにしなければなりませんが」
「もちろん! ちゃんと座れる場所を見つけてからにしようね!」
モモは元気よく答えた。
三人は顔を見合わせ、静かに笑った。
昼の草地には穏やかな風が吹き、木陰の向こうでは草の穂がゆっくり揺れていた。
◇
午後になると、街道を通る人の姿が少しずつ増え始めた。
最初にすれ違ったのは、背負い籠を持った二人連れの旅人だった。二人はルシルたちの馬車に気づくと道の端へ寄り、軽く会釈して通り過ぎていった。
そのあとには、荷台に木箱を積んだ小さな荷車が現れた。
御者台の男性は慣れた様子で手綱を操り、道幅の広い場所でルシルたちとすれ違った。
さらに進むと、畑の近くで作業をしている人々の姿も見えるようになった。
草を束ねている人、木の柵を直している人、畑の端で籠を運んでいる人。
それぞれが自分の仕事に向き合いながら、ときどき街道を通る馬車へ目を向けている。
ルシルはその光景を眺め、昨日までとは違う賑わいを感じていた。
「……だんだん、人が増えてきたな」
シモンは前方を確認しながら頷いた。
「ええ。町が近づいている可能性は高そうですね。ただ、ここからどのくらい進む必要があるのかは、まだ分かりません」
モモは窓の外を眺めながら、嬉しそうに笑った。
「でも、なんだか町の近くって感じがするね。さっきまで羊しか見えなかったのに、今は畑で働いてる人もいるし」
ルシルは頷き、前方の道へ目を向けた。
道は緩やかに右へ曲がり、その先で別の道と合流しているようだった。
合流地点の手前には低い木が数本あり、向こう側から来る人の姿が見えにくくなっている。
「……あそこが、ミーナさんの言ってた合流地点かな」
ルシルは速度を落とした。
シモンも地図を確かめ、頷いた。
「位置としては、その可能性が高いですね。まずは見通しのよいところで周囲を確認しましょう」
ルシルはトルクとベルクへ声を掛け、ゆっくり進ませた。
合流地点へ近づくと、左手から別の荷車が来ているのが見えた。
荷車には木箱が積まれ、御者台には年配の女性が座っている。
ルシルは十分な距離を取って停車し、相手が先に通過するのを待った。
女性はその様子に気づくと、軽く頭を下げた。
「ありがとうね。助かるよ」
「いえ、お気をつけて!」
ルシルが答えると、女性は笑顔で手を上げ、荷車を進ませた。
その後ろ姿が見えなくなってから、ルシルは改めて左右を確認した。
ほかに近づいてくる人や馬車はいない。
シモンも周囲を確かめ、静かに頷いた。
「今なら問題なく進めそうですね」
「ああ。じゃあ、ゆっくり行こう」
ルシルは二頭へ声を掛け、馬車を合流地点へ進ませた。
道幅はこれまでより少し広くなっていたが、車輪の跡も増えている。
土は踏み固められ、道の端には細かな石が寄せられていた。
人の行き来が多いことが、地面の様子からも伝わってくる。
モモは窓から外を眺め、感心したように呟いた。
「……道って、人がたくさん通ると、こんなふうに変わるんだね」
シモンは頷いた。
「そうですね。長く使われている道ほど、車輪や足の跡が残ることもあります。ただ、通行量が増えれば傷みやすくもなるでしょうから、整備も必要になるはずです」
「そっか。じゃあ、この道も誰かが直してくれてるのかな」
「可能性はありますね。実際にどのような管理が行われているのかは分かりませんが、こうして通れる状態が保たれていることには、誰かの働きが関わっているのでしょう」
ルシルはその言葉を聞きながら、前方へ目を向けた。
王城にいた頃、街道の整備は報告書の項目の一つだった。
けれど今は、その道を実際に馬車で進み、荒れた場所を慎重に通り、橋を渡り、すれ違う人々へ道を譲っている。
道が整っていることのありがたさを、以前よりもずっと身近に感じていた。
(こうして旅をしてると、当たり前だと思ってたものが、少しずつ違って見えるな)
ルシルは手綱を握り直し、トルクとベルクの歩調に合わせて馬車を進ませた。
◇
合流地点を過ぎてしばらくすると、道の右手に低い石垣が現れた。
石垣の向こうには畑が続き、その奥には屋根の低い建物がいくつか見えている。
煙突から薄い煙が上がっている家もあり、遠くでは人が何かを運んでいる姿が見えた。
モモは窓からその光景を眺め、少し声を落とした。
「……ねえ、ルシル君。あれって、もう町なのかな?」
ルシルは前方を確認しながら、少し考えた。
「どうだろう。家は見えるけど、まだ畑が多いし、町の中心って感じではないな」
シモンも地図を確かめた。
「リーヴェルの周囲にある農地の一部かもしれませんね。ただ、ここから町の入口までどのくらいあるのかは、地図だけでは判断できません」
「そっか。でも、家が見えるだけで、なんだか嬉しいね」
モモは微笑み、窓の外へ目を向けた。
石垣の向こうでは、一人の女性が洗濯物を干していた。
少し離れた場所では、子どもが木の桶を運んでいる。
その姿は遠く、会話までは聞こえなかったが、そこに人々の暮らしがあることは十分に伝わってきた。
ルシルはその光景を眺めながら、静かに息を吐いた。
旅の途中で見る町や村には、それぞれ違う表情がある。
海沿いの潮凪村では、漁に出る人々や、海から戻ってくる船の姿が暮らしの中心にあった。
今、目の前に広がっているのは、畑と牧草地に囲まれた人々の生活だ。
同じ朝を迎え、同じように食事をして働いていても、その土地によって毎日の風景は違う。
ルシルはその違いを、もっと知りたいと思った。
しばらく進むと、街道の脇に小さな休憩用の広場が見えてきた。
そこには木製の長椅子が二つ置かれ、道の端には馬車を停められるように地面が整えられている。
広場の奥には低い木が並び、日差しを避けられる場所もあった。
ルシルはその様子を見て、シモンへ声を掛けた。
「少し休んでいこうか。町が近いとしても、今すぐ着かなきゃいけないわけじゃないし」
シモンは周囲を確認し、頷いた。
「そうですね。二頭の様子も確かめておきたいですし、ここならほかの通行の妨げにもなりにくそうです」
モモも嬉しそうに頷いた。
「賛成! 私も、ちょっと外の空気を吸いたいな」
三人は馬車を広場の端へ停め、休憩を取ることにした。
◇
広場の木陰には、すでに一人の老人が腰を下ろしていた。
灰色の髪を短く整えた老人は、膝の上に小さな布袋を置き、何かを確かめている。ルシルたちが近づくと、穏やかな表情で顔を上げた。
「こんにちは。旅の人かね?」
「こんにちは。はい、リーヴェルへ向かっているところです」
ルシルが答えると、老人は頷いた。
「それなら、もうずいぶん近くまで来ているよ。ここから先は、町へ向かう人も増えるだろうね」
モモは嬉しそうに顔を上げた。
「本当ですか? 私たち、まだ一度も行ったことがないんです!」
「そうかい。それなら、初めて見る町だね」
老人は穏やかに笑った。
ルシルは少し迷ったあと、丁寧に尋ねた。
「もしよければ、町の入口がどの辺りにあるのか教えていただけますか?」
「この道をもう少し進むと、低い丘の向こうに屋根が集まって見えてくるよ。そこから先は道が町へ続いているから、迷うことは少ないと思う」
「ありがとうございます」
ルシルは頭を下げた。
老人は布袋を膝から下ろし、三人を見比べた。
「今日は町へ泊まるつもりかい?」
ルシルはシモンへ視線を向けた。
シモンは少し考え、穏やかに答えた。
「まだ決めておりません。日が暮れる前に宿を探せるようなら立ち寄りたいと考えていますが、町の状況を確認してから判断するつもりです」
「なるほど。それなら、町に入ったら宿の場所を早めに聞くといい。市場に近いところは人の出入りもあるからね」
老人はそう言って、少し笑った。
「もっとも、どの宿が空いているかまでは、わしにも分からんが」
「いえ、それだけでも助かります」
シモンが丁寧に答えると、老人は満足そうに頷いた。
モモはその会話を聞きながら、広場の周囲を見回していた。
長椅子の近くには、小さな木の札が立てられている。
そこには、旅人が休憩場所をきれいに使うよう呼び掛ける短い言葉が記されていた。
「……こういう場所って、町の人が作ってくれてるんですか?」
モモが尋ねると、老人は札へ目を向けた。
「ここは近くの人たちも使うし、旅の人も休む場所だからね。誰が最初に整えたのかは知らんが、傷んだところを直してくれる人はいるよ」
「そうなんですね」
モモは小さく頷いた。
草原で見つけた石壁の休憩場所を思い出したのだろう。
ルシルも同じことを考えていた。
道を進む人が休めるように、誰かが場所を整える。
そこを使った人が片づけ、また次の人が休む。
そうした小さな積み重ねが、旅を支えているのだと感じた。
老人は三人の様子を見ながら、穏やかに笑った。
「ずいぶん楽しそうな旅だねえ」
ルシルは少し照れくさそうに頷いた。
「はい。毎日、知らないことばかりで楽しいです」
「それはいいことだ。知らない場所へ行くのは大変なこともあるだろうけど、楽しめるなら何よりだよ」
老人の声には、長い年月を過ごしてきた人らしい落ち着きがあった。
ルシルはその言葉を胸に留め、静かに微笑んだ。
◇
休憩を終え、三人が再び馬車へ乗り込んだ頃には、午後の光が少しずつ傾き始めていた。
老人に礼を伝え、広場を離れると、道は緩やかな上り坂へ変わった。
左右には畑が続き、遠くには低い丘が見えている。
ルシルはトルクとベルクの歩調を確かめながら、ゆっくり坂を上った。
モモは窓から外を眺め、時折旅帳面へ短い言葉を書き込んでいる。
シモンは前方の道と周囲の通行状況を確認していたが、その表情には、朝よりも少し柔らかなものがあった。
坂の途中で、ルシルはふと後ろを振り返った。
遠くには、今朝通ってきた草原が広がっている。
風渡りの草地は、もうずいぶん遠くに見えた。
緑の広がりの中には、低い丘や木立が点在し、遠くの海は淡い青色の帯のようになっている。
「……きれいだな」
ルシルが呟くと、モモも窓から顔を覗かせた。
「本当だ。朝はあの辺りにいたんだよね」
「ああ。ずいぶん進んだように見えるけど、こうして振り返ると、道がちゃんと続いてるのが分かるな」
モモはしばらく景色を眺め、静かに微笑んだ。
「なんだか、不思議だね。あの草原にいたときは、どこまで続いてるんだろうって思ってたのに、今はもう向こう側から見てるんだもん」
シモンも後方へ目を向けた。
「そうですね。進んできた道を振り返ると、距離だけではなく、その間に起きた出来事まで思い出せる気がします」
ルシルは頷いた。
草原で見つけた石壁。
風に揺れる草。
三人で描いた夕暮れの景色。
そして、昨日聞いたリーヴェルという町の名前。
その一つひとつが、今は自分たちの旅の一部になっている。
(これからも、こうやって知らない場所を進んでいくんだな)
ルシルは胸の奥に広がる温かさを感じながら、前方へ目を戻した。
坂の頂上は、もうすぐそこだった。
トルクとベルクが最後の緩やかな傾斜を上り切ると、視界が大きく開けた。
その瞬間、モモが小さく息を呑んだ。
「……あっ」
ルシルも思わず目を見開いた。
丘の向こうには、これまで街道沿いで見かけてきた家々よりも、ずっと多くの屋根が集まっていた。
赤茶色や灰色の屋根が緩やかな土地の起伏に沿って並び、その間を細い道が縫うように伸びている。町の周囲には畑と牧草地が広がり、外側を囲むように続く低い石垣の向こうでは、荷車や人々がゆっくりと行き交っていた。
大きな城壁も、高くそびえる塔も見当たらない。
けれど、町の中央付近には周囲より少し背の高い建物があり、その近くには広場らしい空間も見えている。遠目にも人の動きが感じられ、街道の先にある場所が、確かに多くの人々の暮らす町なのだと分かった。
「……あれが、リーヴェルなのかな?」
モモは旅帳面を胸に抱えたまま、窓の外へ身を乗り出さないよう気をつけながら尋ねた。
ルシルは手綱を握り直し、丘の向こうに広がる町並みを見つめた。
「たぶん、そうだと思う。さっきのおじいさんも、丘を越えたら屋根が見えるって言ってたし」
「ええ。位置も街道の方向も、聞いていた話と一致していますね。ただ、町の入口に着くまでは、周囲の通行に注意して進みましょう」
シモンはそう答えながらも、すぐには地図へ視線を戻さなかった。
彼もまた、目の前に現れた町並みを眺めていたのだ。
海辺の村とは違い、ここには畑と牧草地に囲まれた暮らしがある。
道の向こうから運ばれてくる荷物も、行き交う人々の服装も、これまでとは少しずつ違うのだろう。
そう考えると、まだ町へ入ってもいないのに、知りたいことが次々と思い浮かんできた。
「ねえ、ルシル君。市場って、あの真ん中の広いところかな?」
「どうだろうな。そうかもしれないけど、行ってみないと分からないな」
「そっか。じゃあ、着いてからのお楽しみだね!」
モモは嬉しそうに笑い、帳面を開こうとした。
けれど、すぐに思い直したように手を止める。
「……ううん。今はちゃんと見ておこうっと。絵は、落ち着いてから描けばいいもんね」
ルシルはその言葉に微笑んだ。
モモが帳面を大切にしていることは知っている。だからこそ、目の前の景色を描き留めるより、まず自分の目で眺めたいと思ったことが、なんだか嬉しかった。
「そうだな。町は逃げないし、いい場所が見つかったらゆっくり描こう」
「はい。その前に、馬車を安全に停められる場所と、今夜の宿を確かめる必要がありますが」
シモンが穏やかに付け加えると、モモは大きく頷いた。
「もちろん! ちゃんと泊まるところを決めてから、いっぱい楽しもうね!」
その返事に、シモンも小さく笑った。
ルシルは二頭へ優しく声を掛け、丘の頂上から続く緩やかな下り坂へ馬車を進ませた。
道は町へ向かって真っすぐ伸びているように見えたが、近づくにつれて細かな曲がり角や分かれ道があることも分かってきた。畑へ続く小道には作業着姿の人々が行き交い、荷車を引く馬の蹄の音が、ときおり風に乗って聞こえてくる。
町が近づくほど、遠くから眺めていた屋根の一つひとつに形が生まれていった。
煙突から煙の上がる家。
軒先に籠を積んだ建物。
低い柵の内側で草を食べる家畜。
そして、街道の先で荷車を誘導している人の姿。
どれも特別なものではないのかもしれない。
それでもルシルには、初めて訪れる町が少しずつ自分たちを迎えてくれているように感じられた。
(昨日までは、名前しか知らなかった町なんだよな)
ルシルは心の中で呟いた。
リーヴェル。
昨日、道で出会った男性から初めて聞いた名前だった。
その名前に、今は屋根の色が重なり、人々の姿が重なり、畑の匂いを運ぶ風が重なっている。
もう少し進めば、きっと声も聞こえるだろう。
市場ではどんな品物が売られているのか。
どんな宿があり、どんな料理を食べられるのか。
この町の人々は、どんな毎日を過ごしているのか。
知りたいことは、まだいくらでもあった。
「ルシル様、前方に荷車が二台見えます。道幅が狭くなるところがありますので、少し速度を落としましょう」
「分かった。トルク、ベルク、ゆっくりな」
ルシルはシモンの言葉に頷き、二頭の歩調を落とした。
前方では、町から出てきたらしい荷車が道の広い場所へ寄り、反対側から進んできた荷車を先に通している。御者同士は短く声を掛け合い、慣れた様子で互いの進路を確かめていた。
ルシルたちも十分な距離を取り、二台がすれ違うのを待った。
やがて道が空くと、町へ向かう馬車の列がゆっくりと動き始めた。
モモは窓の外を見つめながら、楽しそうに呟いた。
「……なんだか、もう町の中にいるみたいだね」
「まだ入口には着いてないけど、確かに人が増えてきたな」
「うん。みんな、それぞれ行くところがあるんだね」
ルシルはその言葉を聞き、前方へ目を向けた。
荷物を運ぶ人。
畑へ向かう人。
町から別の場所へ出発する人。
そして、初めてこの町を訪れる自分たち。
同じ道を使っていても、向かう場所も目的も違う。
けれど、その道が交わるところに、町があるのだ。
やがて街道の先に、低い石柱が二本見えてきた。
その片方には木製の案内板が取り付けられており、近づくにつれて、刻まれた文字がはっきりと読めるようになった。
『リーヴェル』
ルシルはその文字を見つめ、思わず笑みを浮かべた。
「……着いたな」
モモも案内板を見つけ、嬉しそうに声を弾ませた。
「うん! リーヴェルだ!」
シモンは町へ続く道を確かめながら、静かに頷いた。
「ええ。無事に到着できましたね。まずは宿を探して、それから町を見て回ることにしましょう」
「そうだな。トルクとベルクにも、ゆっくり休んでもらいたいし」
「私、市場も見たいし、町の絵も描きたいし、おいしいものも探したい!」
モモが指を折りながら楽しそうに話すと、ルシルは声を上げて笑った。
「一日で全部できるかは分からないけど、急がなくていいだろ。気に入ったら、何日か泊まってもいいんだし」
「……それもそうだね!」
モモは嬉しそうに頷いた。
シモンも、今度は予定を細かく決めようとはしなかった。
「宿の空きと滞在条件を確認してからにはなりますが、ゆっくり過ごすのもよいと思います。せっかく初めて訪れる町ですからね」
ルシルは二人の言葉を聞きながら、前方へ続く道を見つめた。
王位を手放したあの日には、こんなふうに知らない町へ向かい、仲間と今夜の宿や明日の楽しみを話し合う自分の姿など、まだ想像できていなかった。
けれど今は、それが当たり前の毎日になりつつある。
行き先を自分たちで決める。
出会った人の話に耳を傾ける。
困っている人がいれば、できる範囲で手を貸す。
そして、気になる景色があれば、立ち止まって眺める。
そんな旅を、これからも続けていきたい。
(……やっぱり、俺はこの旅が好きだな)
ルシルは心の中でそう呟き、トルクとベルクへ優しく声を掛けた。
馬車は二本の石柱の間を通り抜け、リーヴェルの町へと入っていく。
街道の先からは、人々の話し声と車輪の音が聞こえてきた。
どこかで焼いているパンの香りが、午後の風に乗ってかすかに漂ってくる。
モモはその匂いに気づき、すぐに顔を上げた。
「……ねえ、ルシル君。今、すっごくいい匂いしなかった?」
「したな。パンかな?」
「パンだと思う! 絶対おいしいやつだよ!」
「モモ嬢。まずは宿です」
「分かってるってば! でも、匂いを楽しむくらいはいいでしょ?」
「……それは、もちろん構いません」
シモンの返事に、モモは満足そうに笑った。
ルシルも二人のやり取りを聞きながら、楽しそうに目を細める。
まだ宿も決まっていない。
市場がどこにあるのかも、町で何を食べられるのかも分からない。
それでも、不思議と心は弾んでいた。
小さな橋を渡り、荷車を引く人々と出会い、道を譲り合いながら進んできた一日の先に、また新しい町が待っていた。
リーヴェルでどんな出会いがあるのかは、まだ誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは、三人と二頭の旅が、今日もこうして続いているということだった。
ルシルは手綱を握り、仲間たちとともに、初めての町の通りへ馬車を進ませていった。




