第102話 リーヴェルの宿探しと、焼きたてパンに誘われる午後
リーヴェルの町へ入って最初に気づいたのは、街道を進んでいるときよりも、ずっと多くの音が聞こえてくることだった。
荷車の車輪が踏み固められた道を転がる音に、店先から交わされる人々の声が重なる。少し離れた場所では木箱を積み替えるような物音が響き、家々の間を抜けてきた風には、乾いた草の匂いと、どこかで焼かれているパンの香ばしさが混じっていた。
ルシルはトルクとベルクの歩調を落とし、通りの様子を確かめながら馬車を進ませていた。町の入口には高い門も厳しい検問もなく、街道から続く道がそのまま家々の間へ入り込んでいるが、通行する荷車や歩行者は確実に増えている。
「思ってたより賑やかだな。小さな町って聞いてたけど、いろんな人が行き来してる」
ルシルがそう言うと、隣に座っていたシモンは、前方から来る荷車の動きを確かめながら頷いた。
「周囲に農地や牧草地が広がっていますから、荷物の集まる場所になっているのでしょうね。先ほどのお話では明日の市場へ向けた準備もあるそうですし、普段より人の出入りが多い可能性もあります」
「なるほど。じゃあ、宿も早めに探したほうがよさそうだ」
「ええ。まずは馬車と二頭を預けられる宿を確認したいところです。部屋が空いていても、厩舎に余裕がない場合がありますから」
シモンの返事に、ルシルは納得して頷いた。
旅を始めた頃なら、宿と聞けば眠るための部屋ばかり考えていたかもしれない。しかし、トルクとベルクと一緒に移動するようになってからは、二頭が安心して休める場所を確保することも、宿選びの大切な条件になっていた。
馬車の窓から外を眺めていたモモは、店先に積まれた籠や木箱へ次々と視線を向けている。けれど、いつものように気になるものを見つけてすぐ立ち寄ろうとはせず、まずは町の様子を楽しんでいるようだった。
「ねえ、あそこに並んでる大きな籠、何を入れるんだろうね。隣のお店には木の柄が付いた道具がいっぱいあるし、見てみたいものが多すぎるよ」
「あとで歩いて回ろう。馬車だと細い道には入りにくいし、ゆっくり見られないからな」
「うん! それに、トルクとベルクも今日はいっぱい歩いたもんね。先に休んでもらおうっと」
モモはそう言って二頭の後ろ姿を眺め、窓から手を振るような仕草をした。トルクは何かを感じ取ったのか片耳を後ろへ向けたが、すぐに前を向き、ベルクと歩調を合わせて進んでいく。
通りの右側には低い石造りの建物が並び、左側には木造の二階建ての家がいくつか見えた。軒先へ花鉢を置いている家もあれば、壁際に農具を立て掛けている店もあり、同じ通りの中に住まいと仕事場が自然に混じり合っている。
少し進んだところで、ルシルは道端に立つ案内板を見つけた。
板には町の中心へ向かう方向と、荷車の通行に使われる道が示されている。ただし、宿の名前までは書かれておらず、どの通りへ進めばよいのかは、もう少し詳しく聞く必要がありそうだった。
「シモン、あの案内板のところで一度停まれるかな?」
「道幅はありますが、後ろから荷車が来ていますね。少し先に停車できる場所がないか確かめましょう」
シモンの指摘を受け、ルシルは後方の音に耳を澄ませた。確かに車輪の音が近づいており、ここで停まれば相手の通行を妨げるかもしれない。
そこで二頭をゆっくり進ませると、案内板の少し先に、荷車が一時的に寄せられる広い場所が見つかった。ルシルはそこへ馬車を移動させ、通行の邪魔にならない位置で停車する。
ちょうどその近くでは、店先の木箱を片づけていた中年の女性が、布で手を拭きながら作業を終えようとしていた。
「すみません。少しお尋ねしてもいいですか?」
ルシルが声を掛けると、女性は顔を上げ、三人の馬車を見てから穏やかに頷いた。
「あら、旅の人かい。何か探してるの?」
「はい。馬車と馬を預けられる宿を探しているんです。まだ町に着いたばかりで、どちらへ行けばいいのか分からなくて」
「ああ、それなら宿は中心の広場の近くに何軒かあるよ。ただ、馬を二頭連れてるなら、厩舎のあるところを選ばないとね」
女性はそう言いながら、道の先を指さした。
「このまま真っすぐ進むと、少し広い通りに出るんだ。そこを右へ曲がっていけば、広場の手前に宿が見えるはずだよ。大きな看板があるから、初めてでも分かると思う」
「ありがとうございます。助かります」
ルシルが礼を言うと、女性は馬車を引く二頭を見比べた。
「ずいぶん立派な馬だねえ。今日はどこから来たんだい?」
「南街道を通ってきました。今朝は町の外の木立で休んでいて、途中で小さな石橋を渡ったんです」
「ああ、あっちの橋かい。あの辺りは荷車が多いから、気をつけて来られたならよかったよ」
女性は安心したように笑い、店の中から呼ばれる声に振り返った。
「ごめんね、そろそろ戻らないと。宿が見つかるといいね」
「はい。お仕事中にありがとうございました」
ルシルたちが改めて礼を伝えると、女性は軽く手を振り、店の中へ戻っていった。
モモはその後ろ姿を見送りながら、感心したように息を吐いた。
「町に着いてすぐ、道を教えてもらえたね。みんな忙しそうなのに、ちゃんと話してくれて嬉しいな」
「そうだな。でも、あの人にも仕事があるから、あまり長く引き留めないようにしないとな」
「うん。宿が見つかったら、私たちも落ち着いてから町を歩こうね」
シモンは二人の会話を聞きながら、案内された道筋を確認していた。今までなら先に地図と通りの位置を細かく照合していたところだが、実際に町を知る人から教わった道を基準にするほうが確実な場合もある。
(初めての土地では、こちらの準備だけで判断できないこともありますね。必要なことを尋ね、教えていただいた情報を現地で確かめる。それも旅に必要な方法なのでしょう)
そう考えたシモンは、地図を畳んでルシルへ頷いた。
「教えていただいた道へ進みましょう。広場の手前なら、馬車を扱う宿も見つけやすそうです」
「分かった。じゃあ、もう少しだけ頑張ってもらおうか」
ルシルは二頭へ優しく声を掛け、再び馬車を動かした。
◇
町の中心へ近づくにつれて、通りの両側に並ぶ店の種類が増えていった。
農具を扱う店の隣には布や縄を並べた店があり、その向かいでは大きな籠に入れた野菜を店先へ運び出している。荷車を停めた男性が店主と品物の数を確かめている姿もあり、明日の市場へ向けた準備が少しずつ始まっているようだった。
ルシルは人の動きに注意しながら馬車を進ませ、教えられた広い通りへ入った。
すると、少し先に木製の看板を掲げた二階建ての建物が見えてきた。
建物の一階には大きな窓があり、入口の脇には植木鉢が並んでいる。隣には馬車が通れる幅の通路が設けられており、その奥に屋根のある建物が見えた。
「……あそこ、宿じゃないかな?」
モモが窓から看板を見上げた。
看板には、麦の穂を思わせる模様と、休息を示すような小さな灯りの絵が描かれている。その下には宿の名前が記されていた。
『麦灯りの宿』
ルシルは文字を確かめ、シモンへ視線を向けた。
「馬車を入れられそうな場所もあるし、聞いてみようか」
「そうですね。ただ、奥の建物が厩舎かどうかは確認してからにしましょう。まずは宿の方に声を掛けたほうがよいと思います」
三人は建物の前にある広めの場所へ馬車を寄せ、通行の妨げにならないよう停めた。
ルシルはトルクとベルクを落ち着かせ、シモンとモモに少し待ってもらってから、宿の入口へ向かった。扉の横には小さな木の札が掛かっており、宿泊客を受け入れていることが分かる。
中へ入ると、外の賑わいが少し遠ざかった。
一階には食事のできる広間があり、木製の机と椅子が整然と並んでいる。壁際には小さな棚が設けられ、陶器の花瓶には淡い黄色の花が生けられていた。
厨房のほうからは煮込み料理の匂いが漂い、奥では食器を片づける音が聞こえてくる。
「いらっしゃいませ。お泊まりですか?」
声を掛けてきたのは、落ち着いた茶色の髪を後ろでまとめた女性だった。年齢は四十代ほどだろうか。清潔な前掛けを身につけ、受付の机の向こうから穏やかな笑顔を向けている。
「こんにちは。はい、宿を探しているんです。三人で泊まりたいんですが、部屋は空いていますか?」
「三名様ですね。お部屋はございますよ。ただ、お部屋の種類によって料金が違いますので、少し確認させてください」
女性は帳簿を開き、空いている部屋を確かめ始めた。
ルシルはそこで、忘れずに尋ねるべきことを思い出した。
「あの、馬車と馬が二頭いるんですけど、預けられる場所はありますか?」
「馬が二頭ですね。それなら裏の厩舎を使っていただけます。ただ、今日は荷車で来られたお客様もいらっしゃるので、空いている区画を確認してからご案内しますね」
「ありがとうございます。二頭とも今は外で待っているので、お願いできるようなら助かります」
女性は頷き、受付の奥へ声を掛けた。
しばらくして、作業着姿の若い男性が現れ、厩舎の空き具合について短く答えた。女性はそれを聞いてから、ルシルへ向き直った。
「二頭分の場所は確保できますよ。馬車も裏手の指定した場所に停めていただけます。ただし、餌と水のお世話については、こちらでお引き受けする場合と、お客様ご自身でなさる場合で料金が変わります」
「そうなんですね。仲間と相談してもいいですか?」
「もちろんです。お急ぎでなければ、皆様で一緒に確認してください」
ルシルは礼を言い、いったん外へ戻った。
待っていたモモは、彼の顔を見るなり期待を込めた表情になった。
「どうだった? 泊まれそう?」
「ああ、部屋は空いてるみたいだ。厩舎も二頭分あるって。ただ、料金や世話のことを相談したいから、二人も一緒に来てくれるか?」
「もちろん!」
シモンも頷き、馬車を安全な位置に停めたまま、三人で受付へ向かった。
宿の女性は改めて三人を迎え、部屋と厩舎の利用条件を丁寧に説明してくれた。
空いているのは三人で利用できる部屋が一つと、二人用の部屋がいくつか。三人用の部屋には寝台が三つあり、窓と小さな机も備えられているという。
食事は朝と夜に広間で提供できるが、昼食は別料金で、時間によっては用意できない場合もある。厩舎の利用には馬車を停める場所も含まれるものの、飼料の種類や量については事前に確認が必要だった。
シモンは説明を聞きながら、気になる点を順に尋ねた。
「馬の飲み水は、厩舎で補充できますか?」
「はい。井戸の水を使っています。厩舎の係が汲みますので、必要な量は声を掛けてください」
「馬具を外して保管する場所はありますか?」
「馬車の近くに置ける棚があります。ただし、貴重品はお部屋へお持ちください」
「承知しました。あと、滞在日数をまだ決めていないのですが、一泊してから延長をお願いすることは可能でしょうか」
女性は帳簿へ目を落とし、少し考えた。
「今のところ明後日までは同じお部屋をお使いいただけそうです。ただ、明日の市場のあとにお客様が増える場合もありますので、延長をご希望なら、明日の午前中までにお知らせいただけると助かります」
その説明を聞き、ルシルはシモンとモモを見比べた。
「どうする? まずは一泊して、明日も町を見たくなったら延長を相談する?」
「私は賛成! まだ何があるか分からないし、明日の市場も見てみたいな」
「私も、それがよいと思います。今夜の宿を確保したうえで、明日の予定を考えましょう」
三人の意見が揃うと、ルシルは女性へ向き直った。
「では、三人用の部屋を一泊お願いします。馬車と馬二頭の場所もお願いしたいです」
「ありがとうございます。それでは、お名前をこちらへお願いしますね」
差し出された宿帳に、ルシルは旅の間に使っている自分の名前を記した。
王家の姓も、かつての身分も必要ない。
宿を訪れた一人の旅人として、ただ名前を書けばよかった。
その当たり前の行為が、今もときどき新鮮に感じられる。
(こうして普通に宿を探して、自分たちで決めるのが、もうすっかり自然になったな)
ルシルは筆を置き、宿帳を女性へ返した。
女性は記入内容を確かめ、柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。私はこの宿を預かっているエッダと申します。何か困ったことがありましたら、遠慮なくお声を掛けてください」
「ルシルです。こちらこそ、よろしくお願いします」
「モモです! よろしくお願いします!」
「シモンと申します。お世話になります」
エッダは三人の挨拶に頷き、厩舎の係を呼んでくれた。
◇
馬車を宿の裏手へ移動させると、通りの賑わいが少し遠くなった。
厩舎は石の低い土台と木の柱で造られており、屋根の下にはいくつかの区画が並んでいる。入口付近には飼料を保管する場所があり、床には新しい敷き藁が用意されていた。
係の男性は、先ほど受付で見かけた若者だった。
「馬は二頭ですね。こちらの区画を使ってください。隣にも馬がいますが、仕切りはしっかりしていますから、まずは落ち着いて入れてみましょう」
「ありがとうございます。トルクとベルクっていうんです」
ルシルが紹介すると、男性は二頭を見比べ、穏やかに頷いた。
「いい馬ですね。長旅の途中ですか?」
「はい。今日は南街道から来ました。二頭とも朝から頑張ってくれたので、ゆっくり休ませたいんです」
「それなら、まずは馬具を外して様子を見ましょう。水も用意できますよ」
ルシルとシモンは係の説明を聞きながら、二頭を順番に区画へ入れた。
トルクは初めての厩舎に少し鼻を動かしていたが、ルシルが首を撫でながら声を掛けると、落ち着いて周囲を確かめ始めた。ベルクも仕切りの向こうを一度眺めたものの、特に警戒する様子はなく、静かに立っている。
モモは二頭の邪魔にならない場所で待ちながら、係が水桶を運んでくるのを見ていた。
「トルク、ベルク、お疲れさま。今日はいっぱい歩いたね」
モモの声に、トルクが耳を動かした。
その反応が嬉しかったのか、彼女は小さく笑った。
「明日は町でお休みできるかもしれないから、今日はゆっくりしてね」
「モモ嬢。まだ明日の予定は決まっていませんよ」
シモンがそう言うと、モモは少しだけ頬を膨らませた。
「分かってるよ。でも、もし明日もここに泊まるなら、二頭もゆっくりできるでしょ?」
「それはそうですね。少なくとも、今夜は十分に休ませましょう」
シモンは微笑み、馬具の留め具を外していった。
係の男性は三人のやり取りを聞きながら、少し感心したように二頭を眺めていた。
「馬の様子をよく見ているんですね。旅の人でも、急いで荷物だけ下ろしてしまう方はいますから」
ルシルは手を止め、少し照れくさそうに笑った。
「二頭がいないと、俺たちの旅は続けられませんから。できるだけ無理はさせたくないんです」
「それが一番ですよ。疲れがたまると、普段はおとなしい馬でも落ち着かなくなることがありますしね」
男性はそう答え、飼料の保管場所について説明してくれた。
シモンは持参している餌の量を確認し、宿の飼料をどの程度利用するか相談した。すべてを係に任せきりにするのではなく、二頭が普段どのような餌を食べているかを伝え、急に内容を変えすぎないようにしたのである。
やがて水と餌の準備が整い、馬具の状態も確認し終えると、二頭は落ち着いて休み始めた。
ルシルはトルクの首を最後にもう一度撫でた。
「今日はありがとう。明日もよろしくな」
トルクは餌へ顔を向けたまま、片耳だけを動かした。
その様子にモモが笑い、シモンも口元を緩めた。
「どうやら、今は食事のほうが大切なようですね」
「トルクらしいな。でも、元気そうでよかった」
ルシルはそう答え、二頭の様子を係へ伝えてから厩舎を出た。
馬車は指定された場所に停められ、必要な荷物は取り出せる状態になっている。窓辺に吊るしていた青い布の風魚や、棚にしまった貝殻の風鈴、三人で描いた夕暮れの絵も、今は無理に動かさず、そのまま大切に保管しておくことにした。
モモの旅帳面だけは、本人がしっかり胸に抱えている。
「今度は忘れずに持ったよ!」
モモが得意そうに言うと、ルシルは笑って頷いた。
「うん。ちゃんと持ってるな。でも、宿の部屋に置いてから出かけてもいいんじゃないか?」
「……あっ、そうか。町を歩くときに持っていく分だけ、あとで決めればいいんだね」
モモは自分の帳面を見下ろし、少し考えたあと、素直に頷いた。
「じゃあ、まずはお部屋を見に行こう!」
◇
三人に案内された部屋は、宿の二階にあった。
階段を上がって廊下を進むと、木製の扉がいくつか並んでいる。窓から差し込む午後の光が床板を明るく照らし、建物の外からは通りを行き交う人々の声が、少し遠く聞こえてきた。
エッダから渡された鍵で扉を開けると、部屋には三つの寝台と小さな机、荷物を置ける棚が備えられていた。
窓は通りとは反対側を向いており、そこからは宿の裏手にある屋根や、少し離れた畑の一部が見える。
「わあ、いいお部屋だね!」
モモは室内を見回し、嬉しそうに声を上げた。
寝台には清潔な布が整えられ、窓際の机には小さな水差しが置かれている。豪華な飾りはないものの、必要なものがきちんと揃えられた、落ち着いて休めそうな部屋だった。
「三人で使うには十分そうだな。窓からも外が見えるし」
「ええ。荷物の置き場所もありますし、休むには問題なさそうです」
シモンは部屋の様子を確認し、窓の留め具や扉の鍵を確かめた。
ルシルはその姿を見て、思わず笑みを浮かべた。
「シモン、やっぱり最初に確認するところは変わらないな」
「必要な確認ですからね。ただ、以前ほど気負っているつもりはありませんよ」
シモンはそう答え、窓から差し込む光へ目を向けた。
「それに、こうして初めての宿へ入るのも、旅の楽しみの一つだと感じるようになりました。建物の造りや部屋の様子には、その土地らしさが出ることもありますから」
「そうだな。海沿いの宿とは、また雰囲気が違うよな」
ルシルは窓の外を眺めながら頷いた。
潮凪村で泊まった宿では、窓の向こうから海の気配が伝わってきた。ここでは代わりに、畑の緑と町の屋根が見えている。
同じ旅の宿でも、外に広がる景色が違うだけで、部屋の空気まで少し変わって感じられた。
モモは寝台の端へ腰を下ろし、足元に置いた小さな荷物を整え始めた。
「ねえ、夕ご飯まで少し時間があるよね。宿が決まったし、ちょっとだけ町を歩いてみない?」
ルシルは窓の外へ目を向け、午後の日差しを確かめた。
まだ明るさは十分に残っているが、日が傾き始めていることも分かる。遠くまで歩き回るには向かないかもしれないものの、宿の周囲を見て回る程度なら問題なさそうだった。
「いいと思う。ただ、今日は遠くまで行かずに、広場の辺りを見て戻ろう。明日の市場もあるし、楽しみは残しておいてもいいだろ」
「うん! それでも十分楽しそう!」
シモンも頷き、机の上へ小さな荷物を置いた。
「では、必要なものだけ持って出かけましょう。宿の場所を覚えておくことと、夕食の時間までに戻ることを確認しておけば、短い散策はできそうです」
モモは旅帳面を手に取ったが、少し迷ってから棚へ置いた。
「……今日はまず、町を見て回るだけにしようかな。描きたいものがあったら覚えておいて、あとでゆっくり描く!」
「それもいいな。どうしても忘れそうだったら、短く書き留めてもいいし」
「そうだね。じゃあ、小さい紙だけ持っていこうっと」
モモは嬉しそうに準備を整え、三人は部屋に鍵を掛けて階段を下りた。
◇
宿を出ると、午後の町にはまだ多くの人々が行き交っていた。
先ほど馬車で通ったときには、前方の安全を確かめることに意識を向けていたが、歩いてみると、通りの細かな様子がよく分かる。
店先の木箱には野菜が種類ごとに分けられ、軒下には縄や布袋が吊るされている。少し先では二人の男性が農具の柄を見比べながら話しており、向かいの店からは小麦粉の袋を運ぶ人が出てきた。
ルシルは通りの端を歩きながら、店と店の間にある細い道へ目を向けた。
「馬車からだと分からなかったけど、奥にも道が続いてるんだな」
「そうですね。建物の裏手へ荷物を運ぶための通路かもしれませんし、住宅へ続いているのかもしれません。初めての町ですから、むやみに入らず、まずは大きな通りを歩きましょう」
「うん。それに、今はお店を見てるだけでも楽しいし!」
モモはそう答えながら、道端に並べられた籠へ視線を向けた。
大きな籠には太い持ち手が付いており、隣には浅く広い籠も置かれている。どれも丈夫そうに編まれていたが、形や大きさは少しずつ違っていた。
「ねえ、あの浅い籠って、何に使うんだろう?」
モモの声に気づいた店主らしい男性が、店の奥から顔を上げた。
「気になるかい? それは収穫したものを広げたり、運んだりするのに使う籠だよ。深いほうは荷物をまとめるのに便利なんだ」
「そうなんですね! 同じ籠でも、使い道で形が違うんだ」
「そういうことさ。畑仕事をする人は、持ち運ぶものに合わせて選ぶんだよ」
男性はそう説明しながら、浅い籠の縁を軽く持ち上げて見せた。
モモは興味深そうに頷き、編み目の様子を眺めた。
「ありがとうございます。私、旅の途中でいろんな道具を見るのが好きなんです」
「へえ、そりゃいいね。使う人によって、道具の形も変わるからな。町を歩くなら、ほかにも面白いものが見つかるかもしれないよ」
男性は笑顔で答え、三人を見送ってくれた。
モモは少し歩いてから、小さな紙へ籠の形を簡単に書き留めた。
「これでよし。あとで帳面に描こうっと」
ルシルはその様子を見ながら、ふと考えた。
昨日、草原で見た牧草は、ただの緑の広がりではなかった。今日、橋の近くで出会ったダリオの話を聞き、その草が家畜の餌として運ばれることを知った。
そして今、町では収穫したものを運ぶ籠や、畑で使う道具が売られている。
それぞれ別々に見えていた景色が、少しずつつながっていく。
(旅をしてると、一つ知ったことから、また別のことが気になってくるんだな)
ルシルはそんな思いを抱きながら、通りの先へ目を向けた。
そこには、先ほどから気になっていた香ばしい匂いの正体らしい店があった。
木製の看板には丸いパンの絵が描かれ、入口の横には焼き上がったばかりらしいパンが籠に並べられている。
モモもすぐに気づいたようだった。
「……ルシル君」
「うん?」
「あのお店、絶対パン屋さんだよね?」
「そうみたいだな」
「……ちょっとだけ、見てもいい?」
モモは期待を隠しきれない表情で二人を見比べた。
ルシルは思わず笑ってしまったが、彼自身も焼きたてのパンには興味があった。
「いいんじゃないか? 宿の夕食まではまだ時間があるし、何が売ってるか見てみよう」
「やった!」
モモは嬉しそうに笑ったものの、すぐに走り出すことはせず、通りを行き交う人々の邪魔にならないよう歩調を合わせた。
シモンはその様子を見ながら、静かに眼鏡を直した。
「夕食前ですから、買うとしても量は考えましょうね」
「分かってるよ、シモン君。私だって、宿のご飯も楽しみにしてるんだから!」
「……それならよいのですが」
シモンの返事に、ルシルは笑みを深めた。
◇
パン屋の店先には、丸いパンや細長いパン、小さな焼き菓子のようなものが並んでいた。
どれも焼き色がよく、近づくにつれて小麦の香りが強くなる。店の奥からは釜の熱気がかすかに伝わり、焼き上がったパンを棚へ移す音も聞こえてきた。
モモは籠の前で足を止め、目を輝かせた。
「わあ……。いい匂い……!」
店の中から出てきた若い女性が、その反応を見て微笑んだ。
「いらっしゃいませ。ちょうど午後の分が焼き上がったところなんです。よかったら見ていってくださいね」
「こんにちは! あの、この小さい丸いパンって、何が入ってるんですか?」
モモが指さしたのは、表面に薄い焼き色が付いた手のひらほどのパンだった。
女性は籠を少し持ち上げ、説明してくれた。
「それは生地に少しだけ甘みを付けたパンです。中に特別な具は入っていませんが、そのままでも食べやすいですよ」
「へえ……! じゃあ、こっちの細長いのは?」
「こちらは食事と一緒に食べる方が多いですね。外側は少し硬めですが、中は柔らかく焼いてあります」
モモは一つひとつの説明を真剣に聞き、ルシルとシモンへ振り返った。
「ねえ、どうしよう。どれもおいしそうなんだけど!」
「全部買う必要はないだろ。今日食べる分だけ選べばいいんじゃないか?」
「それはそうなんだけど……選ぶのが難しいんだよね」
モモは困ったように笑い、もう一度籠を見比べた。
シモンは店先に並ぶパンの大きさを確かめ、穏やかに口を開いた。
「夕食までの時間を考えるなら、小さなものを一つずつ選んで分けて食べるのもよいかもしれませんね。味を確かめることが目的なら、必ずしも一人一個ずつ必要ではありませんし」
モモはその提案に目を丸くした。
「……それ、すごくいい!」
ルシルも頷いた。
「じゃあ、気になるものを二つくらい選んで、三人で分けようか」
「うん! それなら、違う味を楽しめるもんね!」
モモは嬉しそうに籠を見比べ、甘みのある小さな丸パンと、表面に細かな穀物をまぶしたパンを選んだ。
店の女性は二つを紙で包み、丁寧に渡してくれた。
「ありがとうございます。旅の途中ですか?」
「はい。今日、リーヴェルに着いたばかりなんです」
ルシルが答えると、女性は明るく微笑んだ。
「それなら、明日の市場も見ていかれるんでしょうか。朝から人が集まるので、今日とはまた違った雰囲気になると思いますよ」
「はい! 見てみたいと思ってるんです!」
モモの返事に、女性は楽しそうに笑った。
「ぜひ楽しんでいってください。うちも明日はいつもより少し多めに焼く予定なんです」
「そうなんですね。じゃあ、明日もいい匂いがしそうだな」
ルシルが言うと、女性は頷いた。
「朝は特に焼きたての香りが広がりますよ。市場へ向かう人が立ち寄ってくださることもありますから」
モモはその言葉を聞き、すでに明日の朝を想像しているようだった。
けれど、今は買ったパンを大切そうに抱え、二人へ笑顔を向けている。
「ありがとうございました! 大事に食べます!」
三人は店の女性へ礼を伝え、再び通りへ出た。
すぐ近くには、広場へ続く道がある。
ルシルは歩きながら、紙包みから漂う香りに目を細めた。
「せっかくだし、どこか座れる場所で食べようか」
「賛成! 歩きながらだと、ゆっくり味わえないもんね」
シモンも周囲を見回し、少し先の広場を指さした。
「あちらに長椅子が見えますね。空いているようなら、そこで少し休みましょう」
◇
広場は、町の中心に近い場所にあった。
中央には小さな石造りの水盤が設けられており、その周囲を囲むように長椅子が置かれている。水盤には水が張られていたが、飲み水として使えるかどうかは分からないため、三人は近づいて眺めるだけにした。
広場の端には荷物を運ぶ人々が行き交い、反対側には店の看板がいくつか並んでいる。
明日の市場に向けた準備なのか、木製の台を運んでいる人の姿も見えた。まだ品物が並んでいない場所も多いが、広場の一角にはすでに籠や木箱が積まれ、忙しそうに動く人々の声が響いている。
ルシルたちは通行の邪魔にならない長椅子を見つけ、そこへ腰を下ろした。
モモは紙包みを膝の上へ置き、嬉しそうに二人を見比べた。
「じゃあ、分けよう!」
ルシルは持っていた小さな包みを開き、パンを三人で食べられるように分けた。
甘みのある丸パンは柔らかく、割ると中から温かな香りが広がる。もう一つのパンは表面に香ばしさがあり、細かな穀物の食感が楽しめそうだった。
モモはまず丸パンを一口食べ、しばらく何も言わずに味わっていた。
ルシルはその横顔を見て、思わず笑みを浮かべた。
「どうだ、モモ?」
「……おいしい!」
モモは嬉しそうに頷いたあと、慌てて口の中のものを飲み込んだ。
「甘すぎないのに、ちゃんと甘いんだよ。外は少し香ばしくて、中はふわっとしてて……。これ、朝ご飯にもよさそう!」
「確かに、食べやすい味だな。焼きたてだから余計においしく感じるのかもしれない」
ルシルも一口食べ、柔らかな生地の味を確かめた。
シモンはもう一つのパンを少しずつ食べながら、穏やかに頷いている。
「こちらは穀物の香りが強いですね。噛むほど味が出てくるので、食事にも合いそうです」
「本当? じゃあ、そっちも食べてみたい!」
モモは自分の分を受け取り、今度はゆっくり噛んだ。
しばらくして、満足そうに目を細める。
「……こっちも好き。なんだろう、最初のパンとは全然違うのに、どっちもおいしいね」
「同じ町のパン屋でも、いろんな種類を作ってるんだな」
ルシルはそう答えながら、広場の向こうへ目を向けた。
そこでは木箱を運んでいた男性が、別の人と声を掛け合いながら荷物を積み直している。近くを通りかかった子どもが作業の様子を眺め、付き添いの女性に促されて道の端へ移動していた。
旅人として通り過ぎるだけなら、町の賑わいは一つの景色として目に映る。
けれど、少し腰を下ろして眺めていると、その中にはいくつもの仕事や暮らしが重なっていることが分かった。
パンを焼く人がいて、それを買う人がいる。
畑から荷物を運ぶ人がいて、店先で品物を並べる人がいる。
道を整え、馬を世話し、宿を営む人もいる。
その一つひとつが、町の毎日を支えている。
(王城にいた頃は、町のことを知っているつもりだったけど……実際に来てみると、まだ知らないことばかりだな)
ルシルはそんな思いを抱きながら、手の中のパンを見つめた。
以前なら、食事が用意されるまでにどれだけの人が関わっているのか、頭では理解していても、深く考える機会は少なかった。
今は、焼きたてのパンを一つ買うだけでも、店の人と話し、材料や焼き方に興味を持ち、その土地の暮らしへ目を向けることができる。
それが、彼には楽しかった。
「ルシル君、どうしたの?」
モモに声を掛けられ、ルシルは顔を上げた。
「いや、町って面白いなと思って。まだ少し歩いただけなのに、知らないことがいっぱいある」
「うん! 私もそう思う。明日の市場、ますます楽しみになっちゃった」
モモはそう言って、広場の向こうを眺めた。
シモンも二人の視線を追い、ゆっくりと頷いた。
「市場が始まれば、今日とは違う人の流れになるでしょうね。買い物をするだけでなく、どのような品物が集まるのかを見て回るのもよいかもしれません」
「そうだな。必要なものも確認しておきたいし」
「うん。でも、せっかくだから、知らないものもいっぱい見つけたい!」
モモの言葉に、ルシルは笑った。
シモンも、その楽しみ方を否定しなかった。
「では、明日は必要な買い物と、町を見て回る時間の両方を考えましょう。もちろん、無理に全部回ろうとする必要はありませんが」
「やった! じゃあ、気になるお店があったら、ちゃんと相談するね!」
三人はそう話しながら、残りのパンをゆっくり味わった。
広場には午後の光が差し込み、人々の足音と話し声が絶えず響いている。
知らない町の真ん中で、買ったばかりのパンを分け合って食べる。
それは、ルシルにとって何よりも贅沢な時間のように感じられた。
◇
パンを食べ終えたあと、三人は広場の周囲を少しだけ歩いてから、宿へ戻ることにした。
夕食の時間まではまだ余裕があったものの、初めての町で暗くなるまで歩き回る必要はない。明日も滞在する可能性があるのだから、今日は宿の周囲を覚え、ゆっくり休むほうがよさそうだった。
帰り道では、モモが何度も振り返って広場を眺めていた。
「明日は、あそこにもっとお店が並ぶのかな?」
「そうかもしれないな。パン屋さんも、明日は多めに焼くって言ってたし」
「うん。あの丸いパン、また食べたいなあ」
モモはそう言いながら、少し照れくさそうに笑った。
「でも、ほかのお店にもおいしいものがあるかもしれないし……悩むね」
「まだ明日になってないんだから、今から全部決めなくてもいいだろ」
ルシルが笑うと、モモも楽しそうに頷いた。
「そうだね! 明日見てから決めようっと!」
シモンは二人の会話を聞きながら、通りの角にある建物を確かめていた。
宿へ戻る道は、来たときよりも覚えやすく感じられる。途中に農具店があり、その先に籠を扱う店があり、角を曲がると宿の看板が見える。
道順を頭に入れたシモンは、ふと足を緩めた。
以前の自分なら、初めての町で宿を確保したあとは、必要な買い物や明日の移動予定を細かく整理していたはずだ。
けれど今は、隣を歩く二人が楽しそうに話しているのを聞きながら、通りの景色を眺める余裕がある。
(予定を立てることは大切です。しかし、予定にない時間まで、すべて埋める必要はないのでしょうね)
シモンはそう考え、歩調を少し緩めた。
ルシルがその変化に気づき、隣へ目を向ける。
「シモン、何か気になるものでもあった?」
「いえ。少し、町の様子を眺めていました」
「そっか。じゃあ、急がず歩こう」
ルシルは自然にそう答えた。
シモンは一瞬だけ目を細め、それから穏やかに頷いた。
「……ありがとうございます、ルシル様」
その返事には、かつて王城で交わしていたものとは少し違う柔らかさがあった。
ルシルは何も言わずに微笑み、二人と歩調を合わせた。
宿へ戻る頃には、通りの光が少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。
店先では品物を片づける人もいれば、明日の準備を続けている人もいる。町の一日はまだ終わっていないが、昼間とは違う落ち着きが、少しずつ広がっているようだった。
宿の入口へ着くと、エッダが広間の机を整えているところだった。
「お帰りなさい。町はどうでしたか?」
「すごく楽しかったです! パン屋さんでおいしいパンを買ったんですよ!」
モモが嬉しそうに答えると、エッダは笑顔になった。
「あら、それはよかったですね。この町には小さなお店がいくつもありますから、歩いてみると面白いでしょう」
「はい! 明日の市場も見てみたいと思ってます!」
「それなら、朝は少し賑やかになりますよ。広場の近くは荷車も増えますから、歩くときは気をつけてくださいね」
ルシルは頷き、改めて礼を伝えた。
「ありがとうございます。今日はまず宿の周りだけ見てきました。明日はもう少しゆっくり歩いてみようと思います」
「それがよいかもしれませんね。夕食はもう少ししたらご用意できますので、それまではお部屋でお休みください」
三人はエッダへ礼を伝え、いったん部屋へ戻った。
◇
部屋へ入ると、モモは早速旅帳面を取り出した。
窓際の机へ腰を下ろし、今日見たものを思い出しながら、小さな紙に書き留めた籠の形を描き直していく。
ルシルは荷物を整え、シモンは明日のために必要な品物を確認していた。
外からは、夕方の町を行き交う人々の声がかすかに聞こえてくる。
「ねえ、ルシル君。今日の絵、何を描こうかな」
モモは帳面を開いたまま、少し考え込んだ。
「羊も描いたし、橋も見たし、町の屋根もきれいだったし……。全部描きたいけど、一度には難しいよね」
ルシルは窓際へ近づき、帳面を覗き込んだ。
「今日はもう羊を描いてるんだろ? だったら、リーヴェルに着いたときの景色はどうだ?」
「丘の上から見えた町?」
「ああ。あそこから見た屋根の並び、きれいだったからさ」
モモはしばらく考え、嬉しそうに頷いた。
「それ、いいかも! まだ町の中を全部見たわけじゃないけど、初めて見たときの景色は、今日しか描けないもんね」
そう言うと、彼女は帳面の新しい頁を開き、鉛筆を走らせ始めた。
ルシルはその様子を見守りながら、丘の上から見えた町並みを思い返した。
畑と牧草地に囲まれた屋根の集まり。
そこへ続く街道。
行き交う荷車。
そして、町の入口に立っていた二本の石柱。
今はもう、その向こう側に自分たちがいる。
その事実が、なんだか不思議だった。
シモンは持ち物の確認を終えると、窓の外へ目を向けた。
宿の裏手では、厩舎の係が水桶を運んでいる。トルクとベルクのいる区画はここから直接見えないが、二頭が落ち着いて休んでいることは、先ほど確認していた。
「明日は、まず二頭の様子を見てから市場へ向かいましょう。必要な買い物もありますが、急いで回る必要はありません」
「そうだな。町を出る日も、まだ決めてないし」
ルシルが答えると、シモンは頷いた。
「ええ。宿の延長が可能かどうかは明日の午前中に確認する必要がありますが、それ以外は町を見てから考えてもよいでしょう」
その言葉に、ルシルは少し驚いたようにシモンを見た。
「……シモン、最近そういう言い方が増えたよな」
「そうでしょうか?」
「ああ。前だったら、明日の予定をもっと細かく決めてた気がする」
シモンは少し考え、それから穏やかに笑った。
「必要な予定は立てますよ。ただ、すべてを先に決めてしまうと、せっかくの出会いや発見を見落とすこともあるのだと、最近は感じるようになりました」
ルシルはその返事を聞き、嬉しそうに頷いた。
「そうだな。明日も、面白いものが見つかるといいな」
「はい。私も楽しみにしています」
窓際では、モモが二人の会話を聞きながら、静かに笑っていた。
帳面の上には、まだ描きかけの町並みが広がっている。
丘の上から見えた屋根の形は、記憶を頼りに少しずつ線になっていく。正確に描けているかどうかは分からないが、モモにとって大切なのは、あのとき自分が何を見て、何を感じたのかを残すことだった。
(今日も、いろんなことがあったなあ。朝はまだ町の外にいたのに、今はこうして宿のお部屋で絵を描いてるんだもん)
モモは鉛筆を動かしながら、胸の奥に広がる温かさを感じていた。
旅を始めた頃には、知らない場所へ行くことそのものが楽しかった。
今もその気持ちは変わらない。
けれど最近は、そこで出会う人の話を聞いたり、誰かが毎日使っている道具を見たりすることも、同じくらい楽しくなっていた。
草原で見た羊。
橋で出会ったダリオ。
荷車を運転していたミーナ。
そして、リーヴェルで出会った人々。
みんな、それぞれの毎日を過ごしている。
その中へ、ほんの少しだけ自分たちが立ち寄る。
モモはそのことが、なんだかとても素敵に思えた。
◇
夕食の時間になると、三人は一階の広間へ下りた。
広間にはすでに何組かの客が座っており、仕事を終えたらしい男性たちが静かに食事をしている。窓際には旅装の二人連れもいて、机の上に置いた地図を見ながら、小声で何かを相談していた。
エッダは三人を空いている席へ案内し、今夜の料理を運んできてくれた。
深い皿には野菜と肉を煮込んだ温かな料理が盛られ、別の皿にはパンが添えられている。湯気とともに広がる香りに、モモは思わず顔をほころばせた。
「わあ……! おいしそう!」
「今日はよく歩きましたからね。温かいものをいただけるのはありがたいです」
シモンはそう言いながら、皿の位置を整えた。
ルシルも料理を前にして、静かに頷いた。
「いただこうか」
三人は食事を始めた。
煮込み料理には柔らかくなった野菜がたっぷり入っており、肉の旨みが染み込んだ汁は、歩き疲れた身体へゆっくりと広がっていくようだった。
モモは一口食べると、嬉しそうに目を細めた。
「……おいしい。昼間のパンもよかったけど、こういう温かいご飯もいいね」
「そうだな。今日は外を歩いてたから、余計においしく感じるな」
ルシルはパンを少しちぎり、煮込み料理と一緒に味わった。
シモンも料理を口に運びながら、穏やかに頷いている。
広間では食器の触れ合う音が静かに響き、厨房からはエッダが誰かへ声を掛ける様子も聞こえてきた。
町の外で野営するときには、三人だけで食事をすることが多い。
それも楽しい時間だが、こうして宿の広間でほかの客と同じ空気を味わいながら食事をするのも、また違ったよさがあった。
ルシルは周囲の会話を邪魔しないようにしながら、モモとシモンへ目を向けた。
「明日は市場を見て、必要なものを買って、それから……何か気になるところがあったら寄ってみようか」
「うん! 私、畑で見た野菜の名前も聞いてみたいし、あの籠のお店ももう少し見たいな」
「私は、馬車の補充品を扱う店があるか確認しておきたいですね。今すぐ必要なものは多くありませんが、次の道へ出る前に点検できれば安心です」
「じゃあ、それぞれ見たいものがあるな。時間を見ながら回ろう」
ルシルがそう言うと、モモは嬉しそうに頷いた。
「なんだか、明日がすっごく楽しみになってきた!」
「楽しみにするのはよいですが、今夜はしっかり休んでくださいね」
シモンの言葉に、モモは笑いながら答えた。
「分かってるよ。明日いっぱい歩くためにも、ちゃんと寝る!」
ルシルは二人のやり取りを聞き、穏やかに微笑んだ。
王城にいた頃、自分の明日の予定は、誰かが決めた仕事や務めで埋まっていることが多かった。
今は違う。
明日何をするのかを、仲間と話し合って決められる。
市場を歩くことも、パンを買うことも、知らない道具について尋ねることも、自分たちが望んで選ぶ時間なのだ。
(……こういう毎日を、これからも大事にしたいな)
ルシルはそう思いながら、温かな料理をもう一口食べた。
窓の外では、夕暮れの光が町の屋根をゆっくり染め始めていた。
◇
夕食を終え、三人が部屋へ戻る頃には、外はすっかり暗くなり始めていた。
窓から見える町の家々には少しずつ灯りがともり、昼間の賑わいとは違う静かな空気が広がっている。
モモは机の上へ旅帳面を置き、描きかけだった町並みの絵を仕上げていた。
ルシルは寝台の端へ腰を下ろし、今日の出来事を思い返している。
シモンは明日のための荷物を整え終えると、窓際へ立ち、外の様子を眺めた。
「……町の夜も、なかなかよいものですね」
その言葉に、ルシルは顔を上げた。
「そうだな。外で野営するときとは違うけど、こういう灯りが見えるのも好きだな」
「私も!」
モモは鉛筆を置き、二人のほうへ振り返った。
「ねえ、明日の夜もここに泊まれたら、今度は夜の町の絵を描いてみたいな」
「いいんじゃないか? 宿の延長ができたら、ゆっくり描けるだろ」
「うん。昼と夜で、同じ町でも違って見えそうだもんね」
モモは嬉しそうに笑い、帳面を閉じた。
表紙をそっと撫でてから、いつものように大切にしまう。
ルシルはその様子を見ながら、今日もまた新しい記憶が一つ増えたのだと感じていた。
草原を越え、橋を渡り、人々の道を進んでたどり着いたリーヴェル。
そこで最初に見たのは、特別な建物でも、珍しい魔法でもなかった。
働く人々の姿と、店先に並ぶ道具と、焼きたてのパンの香り。
そして、旅人を迎えてくれる宿の温かな灯りだった。
それだけで、十分に心が満たされていた。
「じゃあ、そろそろ休もうか。明日も楽しみだし」
ルシルがそう言うと、モモは元気よく頷いた。
「うん! おやすみ、ルシル君、シモン君!」
「おやすみ、モモ。今日は楽しかったな」
「ええ。お二人とも、おやすみなさい」
三人はそれぞれ寝台へ入り、部屋の灯りを落とした。
窓の向こうからは、遠くを通る荷車の音がかすかに聞こえてくる。
リーヴェルの町では、まだ誰かが明日の準備を続けているのかもしれない。
けれど、ルシルたちの一日は、ここで静かに終わろうとしていた。
明日は市場が開かれる。
どんな品物が並び、どんな人々と出会うのかは、まだ分からない。
その分からなささえ、今のルシルには楽しみだった。
窓から差し込む淡い夜の光を眺めながら、彼は静かに目を閉じた。
旅はまだ続いていく。
そして、初めて訪れたリーヴェルでの時間も、ようやく始まったばかりだった。




