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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第103話 朝の市場に並ぶものと、三人が見つけた町の暮らし


リーヴェルで迎える初めての朝は、馬車の中で目を覚ますときとは少し違っていた。


窓の外から聞こえてきたのは、草を渡る風や遠くの波音ではなく、石と土の混じった道を進む荷車の音だった。まだ日が高く昇る前だというのに、町のどこかでは木箱を運ぶ音が響き、ときおり人々が挨拶を交わす声も聞こえてくる。


ルシルは寝台の上でゆっくり目を開け、見慣れない天井を眺めた。


(そうか。昨日、リーヴェルに着いたんだったな)


窓から差し込む光は淡く、部屋の中には朝の涼しさが残っている。三つ並んだ寝台のうち、シモンの寝台はすでにきれいに整えられていたが、本人は窓際の椅子に腰掛け、開いた手帳へ何かを書き込んでいた。


「おはよう、シモン。もう起きてたのか?」


「おはようございます、ルシル様。少し前に目が覚めましたので、昨日確認した宿の条件を整理していました。今日は延泊するかどうかも決めなければなりませんから」


「そっか。昨日、午前中までに知らせてほしいって言われてたもんな」


ルシルは身体を起こし、窓の向こうへ目を向けた。建物の屋根越しに見える空は明るく、今のところ雨の気配はない。


もう一つの寝台では、モモが毛布を肩まで掛けたまま眠っていた。


桃金色の髪が枕の上へ広がり、規則正しい寝息が聞こえてくる。昨日は町に着いてからも宿探しや散策を楽しんでいたのだから、疲れが残っていても不思議ではなかった。


「モモはまだ寝てるな」


「ええ。昨夜は絵を仕上げてから休まれましたし、もう少し眠っていただいてもよいでしょう。朝食の時間には余裕があります」


シモンはそう答え、手帳を閉じた。


ルシルは寝台から降り、物音を立てないよう身支度を始めた。旅の途中では、朝になればまず馬の様子を確かめ、火や水の準備をすることが多い。しかし今日は宿に泊まっているため、朝食を作る必要もなければ、すぐに馬車を出発させる必要もない。


その違いが、少し新鮮だった。


「なあ、シモン。俺は今日、もう一泊してもいいと思ってるんだ。昨日は町に着いて宿を探しただけで、あまりゆっくり見られなかったし」


「私も同じ考えです。明日の出発を急ぐ事情はありませんし、トルクとベルクを休ませることにもなります。ただ、宿の空き状況と費用を確認してから、正式に決めるのがよいでしょう」


「うん。モモが起きたら相談して、それからエッダさんに聞こう」


ルシルがそう言ったところで、背後から毛布の擦れる音がした。


「……相談って、何の相談?」


振り返ると、モモが寝台の上で身体を起こしていた。まだ少し眠そうな目をしているものの、二人の声は聞こえていたらしい。


「おはよう、モモ。今日もこの宿に泊まるかどうか話してたんだ」


「おはよう……。えっ、今日も泊まれるの?」


その言葉を聞いた途端、モモの表情が明るくなった。


ルシルは笑いながら頷いた。


「まだ空いてるか確認しないといけないけどな。俺とシモンは、もう一泊してもいいと思ってる。モモはどうしたい?」


「泊まりたい! 昨日、パン屋さんも見つけたし、今日は市場があるんでしょ? せっかくだから、時間を気にせず歩いてみたいな」


モモはそう答えたあと、少し考えて付け加えた。


「もちろん、トルクとベルクがちゃんと休めるなら、だけどね」


「そこも朝のうちに確認しましょう。二頭の状態に問題がなければ、今日は馬車を動かさずに過ごせますから」


シモンの返事に、モモは満足そうに頷いた。


それから窓の外へ耳を澄ませ、首を傾げた。


「……ねえ、外、昨日の朝より賑やかじゃない?」


「俺もそう思った。市場の準備をしてるのかもしれないな」


「そっかあ。もう始まってるのかな。どんなお店が並ぶんだろう……」


モモは寝台の端へ座り直し、窓から見える屋根の向こうを眺めた。


彼女の目には、もう眠気より期待のほうが強く浮かんでいる。


ルシルはそんな姿を見ながら、今日も楽しい一日になりそうだと感じていた。


◇


朝食の前に、三人は宿の裏手にある厩舎へ向かった。


外へ出ると、朝の空気にはまだ涼しさが残っていたが、町の中心からは昨日よりも多くの物音が届いてきた。木箱を積んだ荷車が通りを進み、店の前では人々が忙しそうに荷物を運んでいる。


厩舎では、係の青年が水桶を並べているところだった。


「おはようございます。昨日の二頭ですね。今朝も落ち着いていますよ」


「おはようございます。ありがとうございます。少し様子を見てもいいですか?」


「もちろんです。こちらへどうぞ」


青年に案内され、ルシルたちはトルクとベルクのいる区画へ向かった。


トルクは人の気配に気づくと顔を上げ、ルシルの姿を見つけて鼻を鳴らした。ベルクも静かに耳を動かし、三人のほうへ目を向けている。


「おはよう、トルク。よく眠れたか?」


ルシルはトルクの首を撫で、身体の様子を確かめた。


目立った傷や腫れはなく、脚の状態にも気になるところはない。シモンもベルクの歩き方や馬具を外した部分を確認し、問題がなさそうだと頷いた。


「二頭とも落ち着いていますね。食欲もあるようですし、今日は休ませる方針でよいと思います」


「よかった。じゃあ、今日はのんびりしててくれよ」


モモは二頭へ順番に声を掛け、邪魔にならないように少し離れた場所から様子を眺めた。


トルクは彼女の声に耳を動かしたものの、すぐに餌のほうへ顔を向けた。


「ふふっ、やっぱりトルクはご飯が好きなんだね」


「食欲があるのは安心材料です。ただ、与える量は決めたとおりにしましょうね」


シモンがそう言うと、モモは笑って頷いた。


「分かってるよ。勝手におやつをあげたりしないから!」


係の青年はそのやり取りを聞きながら、少し微笑んでいた。


「今日は町に滞在されるんですか?」


「はい。宿の空きがあれば、もう一泊しようと思ってます」


ルシルが答えると、青年は頷いた。


「それなら、二頭もゆっくりできますね。馬車を出さない日でも、様子を見に来ていただいて構いませんよ」


「ありがとうございます。昼頃にも一度来ます」


三人は係へ礼を伝え、厩舎をあとにした。


宿の入口へ戻る途中、モモは少しだけ足を緩めた。


「ねえ、ルシル君。トルクとベルクが元気そうでよかったね」


「ああ。昨日も橋を渡ったり、町の中を進んだりしたからな。今日は二頭に休んでもらって、俺たちは歩いて町を見よう」


「うん。明日も泊まれたら、もっとゆっくりできるね」


ルシルはその言葉に頷きながら、宿の扉を開けた。


広間では、エッダが朝食の準備を進めているところだった。


「おはようございます。馬たちの様子はいかがでしたか?」


「おはようございます。二頭とも元気そうでした。あの、昨日お話しした延泊のことなんですが……」


ルシルがそう切り出すと、エッダは受付の帳簿へ目を向けた。


「はい。三人用のお部屋ですね。少し確認しますので、お待ちください」


彼女は頁をめくり、予約の状況を確かめた。


三人はその間、邪魔にならない場所で待った。


しばらくして、エッダが顔を上げる。


「大丈夫ですよ。今夜も同じお部屋をお使いいただけます。厩舎も二頭分、そのまま確保できますので、ご安心ください」


「本当ですか? ありがとうございます!」


モモが嬉しそうに声を上げると、エッダは穏やかに笑った。


「せっかく市場の日にいらしたんですから、ゆっくり楽しんでくださいね。ただ、朝の広場は人が多くなりますので、荷車にはお気をつけて」


「はい。気をつけます」


ルシルはそう答え、延泊の手続きを済ませた。


宿と厩舎を今夜も利用できることが決まり、三人はようやく落ち着いて朝食の席へ向かった。


今朝の食事は、温かな野菜のスープとパン、それに少量の卵料理だった。


モモは料理を前にして嬉しそうに笑ったが、昨日のように食べ物の話だけに夢中になることはなかった。


「今日は市場で何を見ようかな。昨日のお店にも行きたいし、野菜の名前も聞いてみたいし……。あっ、でも、シモン君の買い物もあるんだよね」


「ええ。馬車の補充品を扱う店があれば、必要なものを確認したいと思っています。ただ、急ぎの修理が必要なわけではありませんから、先に市場を見ても構いませんよ」


「それなら、最初に広場へ行こうか。人が増えすぎる前に様子を見て、途中で必要な買い物をしよう」


ルシルの提案に、二人は頷いた。


朝食を終えた三人は、持ち物を整え、宿の部屋に鍵を掛けてから町へ出た。


昨日は初めて訪れた町を少し歩いただけだった。


今日は、リーヴェルの暮らしをもう少し近くで知る一日になりそうだった。


◇


宿から広場へ向かう道は、昨日の夕方とはまるで違う表情を見せていた。


通りの両側には荷物を載せた荷車が停まり、店の人々が木箱や籠を運び出している。まだ開店の準備をしている店もあれば、すでに客を迎えている店もあり、町全体が朝の忙しさに包まれていた。


ルシルは歩く人々の流れを確かめながら、モモとシモンに声を掛けた。


「昨日よりずっと人が多いな。広場の近くは、もっと混んでるかもしれない」


「そうですね。荷車が曲がる場所では、荷台の動きにも注意しましょう。人の間を無理に抜ける必要はありませんから」


「うん。私もちゃんと周りを見るよ」


モモは頷き、歩調を少し落とした。


市場が楽しみで仕方ない様子ではあったが、だからといって先へ走っていくことはない。旅の途中で馬車や荷車と何度もすれ違ううちに、周囲を確かめながら歩くことが自然になっていた。


広場へ続く角を曲がると、三人は思わず足を止めた。


昨日は木製の台や空の籠が目立っていた広場に、今日は色とりどりの品物が並んでいた。


大きな籠には土を落とした根菜が積まれ、別の台には葉物野菜が束ねられている。乾燥した豆を袋へ分けている店や、布を広げて見せている店もあり、少し離れたところでは農具を手に取った客が店主と話していた。


中央の水盤の周囲は通行できるよう空けられているものの、その外側には人の流れができていた。


品物を選ぶ声、値段を尋ねる声、久しぶりに会ったらしい人々が挨拶を交わす声。


それらが重なり合い、広場全体に活気を生み出している。


「……すごい!」


モモは目を輝かせ、ゆっくり周囲を見回した。


「昨日はこんなにお店がなかったのに! あっちには野菜があるし、向こうには布がいっぱい並んでる!」


「本当に賑やかだな。昨日、パン屋さんが話してたとおりだ」


ルシルも広場を眺め、思わず笑顔になった。


王都の市場を見たことはある。けれど、王城にいた頃は、こうして誰にも気づかれず、買い物客の一人として自由に歩く機会はほとんどなかった。


今は、何かを買わなければならないわけでも、誰かに挨拶するために訪れたわけでもない。


ただ、見たいから来た。


そのことが、胸の奥を軽くしていた。


「最初は、どこから見ようか」


ルシルが尋ねると、モモは広場を見回したまま少し考えた。


「……野菜のお店に行ってみたいな。昨日から気になってた葉っぱのこと、聞けるかもしれないし」


「では、あちらの店から見てみましょう。人が多いので、立ち止まるときは店先の邪魔にならない場所を選んでくださいね」


シモンの提案に二人は頷き、三人は野菜を並べた店へ向かった。


そこには大きな籠がいくつも置かれ、丸い葉を持つ野菜や細長い葉物、土の色が残る根菜が種類ごとに分けられていた。


店主は日に焼けた顔の女性で、客から代金を受け取りながら、手際よく野菜を紙に包んでいる。


モモはほかの客の買い物が終わるのを待ってから、店先へ近づいた。


「こんにちは。ちょっと聞いてもいいですか?」


「はいよ。何が気になるんだい?」


女性は顔を上げ、モモへ気さくに笑いかけた。


「あの、私たち、昨日この町へ来る途中で畑を見たんです。丸っこい葉っぱのものと、細長い葉っぱのものがあって、何を育ててるのかなって思って……」


モモは手で葉の大きさを示しながら説明した。


女性はその仕草を見て、少し考え込んだ。


「丸い葉と細長い葉かい。畑の場所や葉の大きさによって違うから、それだけじゃ決められないねえ」


「やっぱり、そうですよね」


モモは少し残念そうに笑った。


すると女性は、籠に並んだ野菜の一つを持ち上げた。


「たとえば、これは若い葉のうちに収穫する野菜なんだけど、育ってるときはもう少し葉が広がって見えるんだよ。こっちの細い葉のものも、遠くから見たら別の草と間違えるかもしれないね」


「へえ……。同じ野菜でも、畑にあるときと売ってるときで見え方が違うんだ」


「そういうことさ。収穫するときに外側の葉を落とすものもあるしね。だから、畑で見たものが何だったか知りたいなら、花や茎の様子も覚えておくといいよ」


モモは真剣に頷いた。


「ありがとうございます! 次に畑を見るときは、葉っぱだけじゃなくて、ほかのところも見てみます!」


女性は楽しそうに笑った。


「旅の人かい? 畑の野菜にそんなに興味を持つなんて、珍しいね」


「はい。知らないものを見るのが好きなんです!」


モモは胸を張って答えた。


その隣で、ルシルは籠に並んだ根菜を眺めていた。


大きさは揃っていないが、どれも状態がよさそうで、土を落とした表面には収穫したばかりらしい瑞々しさが残っている。


「この辺りで採れた野菜なんですか?」


「ああ、そうだよ。うちの畑のものもあるし、近くの農家から預かってるものもある。町の人が毎日の食事に使うものだからね」


女性はそう答え、籠の位置を少し整えた。


「旅の途中なら、日持ちするものを選んだほうがいいよ。柔らかい葉物は早めに食べないと傷むからね」


ルシルはその言葉に頷き、シモンへ目を向けた。


「そういえば、保存してる野菜も少し減ってきたよな」


「ええ。ただ、今日は宿に泊まっていますから、すぐに大量に買う必要はありません。次の移動予定が決まってから、必要な量を考えたほうがよいでしょう」


「そっか。じゃあ、今日は何があるか覚えておこう」


女性は二人の会話を聞き、納得したように頷いた。


「それがいいね。明日も町にいるなら、慌てて買わなくても大丈夫だよ。もっとも、品物によっては売り切れることもあるけどね」


三人は女性へ礼を伝え、店を離れた。


モモは少し歩いたところで小さな紙を取り出し、今聞いたことを短く書き留めた。


「葉っぱだけじゃ分からない……茎と花も見る……っと」


ルシルはその様子を見て微笑んだ。


「答えがすぐ分からなくても、次に何を見ればいいか分かったな」


「うん! それに、畑の野菜って、もっといろんな種類があるんだね。今度は近くで見られる場所があったら、ちゃんと観察してみたいな」


「畑は人の土地ですから、勝手に入らないようにしましょうね」


「もちろん! ちゃんと許可をもらえるときだけにするよ」


モモは笑顔で答え、紙を大切にしまった。


◇


野菜の店を離れると、三人は広場の外側に並ぶ道具の店へ向かった。


そこには木の柄が付いた農具や、縄、布袋、金属製の小さな部品などが並んでいる。昨日見た籠の店とは違い、旅の途中で使えそうな品物もいくつか見つかった。


シモンは店先へ近づき、金具を並べた箱を慎重に眺めた。


「……こちらには、馬具の補修に使える部品もあるようですね」


ルシルは隣へ並び、箱の中を覗き込んだ。


小さな留め具や輪になった金具が種類ごとに分けられている。形は似ていても大きさや厚みが違い、どれが何に使えるのか、ルシルにはすぐ判断できなかった。


「何か足りないものがあった?」


「今すぐ交換が必要なものはありません。ただ、予備の留め具をいくつか持っておくと安心かもしれませんね。先日、荒れた道を通ったときにも確認しましたが、馬具の金具は負担が掛かる部分ですから」


シモンはそう答え、店主へ声を掛けた。


店主は背の高い中年の男性で、金属製の道具を布で拭いていた。シモンが用途を説明すると、男性は箱の中からいくつかの部品を取り出して見せてくれた。


「馬具用なら、こっちのほうが丈夫だよ。ただ、形が合わないと使えないから、今使ってるものと比べたほうがいいね」


「ありがとうございます。今は現物を持っていませんので、寸法を確認してから改めて伺ったほうがよさそうですね」


「それが確実だな。似た形でも、少し違うだけで使いにくいことがあるからね」


シモンは納得して頷いた。


無理に買っても、使えなければ意味がない。


旅の途中では、予備の道具を持つことが安心につながる一方で、荷物を増やしすぎないことも大切だった。


「それでは、あとで必要な寸法を確認してから伺います」


「分かったよ。今日は市場の日だから、店は夕方まで開けてる。必要ならまた見においで」


シモンは礼を伝え、店先から少し離れた。


モモはそのやり取りを聞きながら、並んだ道具を興味深そうに眺めていた。


「ねえ、シモン君。あの金具って、見た目が似てても使えないことがあるんだね」


「ええ。特に力が掛かる部分では、合わないものを無理に使うと危険です。見た目だけで判断せず、実際の寸法や用途を確認する必要があります」


「そっか。私、同じような形なら大丈夫なのかなって思っちゃった」


「そう考えるのも無理はありません。ただ、道具にはそれぞれ役割がありますからね」


シモンはそう答え、少し考えてから付け加えた。


「もっとも、私もすべての道具に詳しいわけではありません。分からないものは、扱っている方に尋ねるのが一番でしょう」


モモはその言葉に頷いた。


「うん。今日はいろんな人に教えてもらってるね」


ルシルも二人の会話を聞きながら、店先へ目を向けた。


王城にいた頃、必要な道具は誰かが準備してくれることが多かった。けれど今は、自分たちで状態を確かめ、必要なものを選び、使えるかどうかを判断しなければならない。


それを不便だとは思わなかった。


むしろ、自分たちの旅を自分たちで支えているのだと感じられることが、少し嬉しかった。


(まだ知らないことは多いけど、こうして一つずつ覚えていけばいいんだよな)


ルシルはそう考え、シモンへ笑いかけた。


「あとで馬車の金具を確認しよう。俺も一緒に見たい」


「承知しました。では、宿へ戻ったときに確認しましょう」


シモンは穏やかに頷いた。


モモも嬉しそうに手を上げた。


「私も見たい! 邪魔にならないようにするから!」


「もちろんです。どういう部品なのか、実物を見ながら説明しますよ」


その返事に、モモはますます楽しそうな顔になった。


◇


市場の奥へ進むと、今度は布を扱う店が並んでいた。


鮮やかな色の布が木の棒へ掛けられ、風に揺れている。厚手のものもあれば、薄く柔らかなものもあり、手触りを確かめながら選んでいる客の姿が見えた。


モモはその中に淡い緑色の布を見つけ、足を止めた。


「……きれいな色」


ルシルも隣へ並び、布を眺めた。


明るすぎず、落ち着いた緑色だった。


風渡りの草地で見た草の色とは少し違うが、朝日を受けた若い葉を思わせる色合いがある。


「モモの好きそうな色だな」


「うん。なんだか、草原を思い出すね」


モモはそう答え、布の端を眺めた。


店主の女性が近づき、柔らかく微笑んだ。


「その布が気になるのかい? 薄手だけど、しっかり織ってあるよ。小物を作るのにも向いてるね」


「小物……。そうなんですね」


モモは少し考えた。


旅の途中では、きれいなものを見つけるたびに欲しくなることもある。しかし、馬車の中に置ける荷物には限りがあり、何でも買えばいいというわけではない。


彼女は布を見つめたあと、少し名残惜しそうに笑った。


「今日は見るだけにしておきます。でも、すごくきれいですね」


「ありがとう。気に入ったら、また見においで」


女性は気を悪くした様子もなく、穏やかに答えた。


三人は礼を伝え、店を離れた。


少し歩いてから、ルシルはモモへ声を掛けた。


「買わなくてよかったのか? 気に入ってたみたいだけど」


「うん。ちょっと欲しいなって思ったけど、何に使うか決めてなかったから。今すぐ必要なものじゃないし、また考えてからにする」


モモはそう答え、振り返って布の店を眺めた。


「でも、あの色は覚えておきたいな。あとで帳面に書いておこうっと」


ルシルはその言葉を聞き、微笑んだ。


以前のモモなら、気になったものを見つけると、すぐに手に取って楽しんでいたかもしれない。


今も好奇心の強さは変わらない。


けれど、旅の中で大切にしたいものが増えたからこそ、何を持ち帰るかを自分で考えるようになっていた。


シモンもその様子を見て、穏やかに頷いた。


「必要になったときに選ぶのも、一つの方法ですね。気に入った色を覚えておけば、あとで用途が決まったときに探しやすいでしょう」


「うん! それに、今日はいろんなものを見るだけでも楽しいからね!」


モモは笑顔で答え、再び広場の賑わいへ目を向けた。


そのとき、少し離れた場所から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「おや、昨日の旅人さんたちじゃないか!」


ルシルが振り返ると、荷車の傍らに立つ男性が手を振っていた。


日に焼けた顔に深い笑い皺。


昨日、石橋の近くで出会ったダリオだった。


「ダリオさん!」


ルシルは思わず笑顔になり、二人と一緒に近づいた。


ダリオは昨日と同じように作業着を着ていたが、今日は荷台に積まれた草の量が少なくなっている。すでに一部を下ろしたのか、荷台の端には空いた場所ができていた。


「昨日はどうもありがとうな。無事に町へ着いたみたいでよかったよ」


「こちらこそ、道を教えていただいて助かりました。昨日のうちに宿も見つかりましたよ」


「そりゃよかった。今朝は市場を見に来たのかい?」


「はい! いろんなお店があって、すごく楽しいです!」


モモが答えると、ダリオは声を立てて笑った。


「ははっ、そうかそうか。初めて来る人には、見慣れないものも多いだろうね」


シモンは荷台へ目を向け、丁寧に尋ねた。


「昨日の草は、こちらで引き取っていただけたのですか?」


「ああ。今朝、頼まれてた分を下ろしてきたところさ。残りは別のところへ運ぶ予定なんだ。今日は荷車が多いから、順番を待つ時間もあるけどね」


ダリオはそう答え、荷台を軽く叩いた。


昨日、橋の向こうで縄が絡んでいた車輪も、今は問題なく動いているようだった。


「その後、車輪は大丈夫でしたか?」


シモンが尋ねると、ダリオは頷いた。


「おかげさまでね。あれから縄の結び方も確かめ直したよ。今日もちゃんと見てから出てきた」


「それなら安心しました」


シモンは穏やかに微笑んだ。


ダリオは三人を見比べ、少し考えたあと、広場の奥を指さした。


「そうだ。あっちに、乾燥した豆や穀物を扱ってる店があるよ。旅の途中で食料を補充するなら、見ておくといいかもしれないね」


「ありがとうございます。ちょうど保存できる食料も確認したいと思ってたんです」


ルシルが答えると、ダリオは満足そうに頷いた。


「ただし、買いすぎると荷物になるからな。必要な分だけ選ぶといいよ」


「はい。気をつけます」


モモはその言葉を聞き、少し笑った。


「今日、私も布を買おうか迷ったんですけど、何に使うか決めてなかったから、見るだけにしたんです」


「そりゃ賢い選び方だね。旅をしてると、持っていけるものにも限りがあるだろうから」


ダリオはそう答え、三人へ笑顔を向けた。


「それじゃあ、俺はそろそろ次の荷を運ぶよ。市場を楽しんでおいで」


「はい。ダリオさんも、お仕事お気をつけて!」


ルシルが答えると、モモも元気よく手を振った。


シモンは丁寧に頭を下げ、ダリオが荷車を動かし始めるのを見送った。


昨日、道の途中で出会った人と、今日また町で顔を合わせる。


それだけのことが、ルシルには少し嬉しかった。


旅の出会いは、一度きりとは限らない。


けれど、必ずまた会えるとも限らない。


だからこそ、こうして偶然再会できたことが、温かな出来事として心に残った。


◇


ダリオに教えてもらった店は、広場の南側に並ぶ屋台の一つだった。


軒下には麻袋がいくつも置かれ、口を折り返した袋の中には、色や大きさの異なる豆が入っている。隣の木箱には穀物が分けられ、乾燥した葉を束ねたものも少しだけ並べられていた。


ルシルたちが近づくと、店主の男性が計量用の器を拭きながら顔を上げた。


「いらっしゃい。何か探してるのかい?」


「旅の途中で使う食料を見ているんです。保存しやすい豆があれば、少し買っておこうかと思って」


ルシルが答えると、男性は袋の一つを指さした。


「それなら、この豆が扱いやすいかな。乾燥させてあるから、湿気を避ければしばらく保存できるよ。ただ、食べるときは水で戻して、しっかり煮てくれ」


シモンは豆の状態を確かめながら、頷いた。


「調理に必要な時間は、種類によって違いますか?」


「ああ。こっちの小粒のものは比較的早く柔らかくなるけど、大粒のほうは時間が掛かるね。旅先で火を使うなら、その辺りも考えたほうがいい」


「なるほど。燃料や水のことも考える必要がありますね」


シモンはそう答え、ルシルへ視線を向けた。


旅の途中では、食材が保存できるかどうかだけでなく、どれほどの水や火を使って調理するかも重要になる。十分な水場が見つからない日もあるため、扱いやすい食料を選んでおくことは、余裕のある旅につながる。


「小粒のほうを少し買おうか。まだ保存食はあるけど、補充しておいてもよさそうだ」


「私も賛成です。まずは今ある分を使い切ることも考えて、必要以上には増やさないようにしましょう」


ルシルとシモンが相談している間、モモは隣の袋を興味深そうに眺めていた。


そこには、少し平たい形をした淡い茶色の豆が入っている。


「ねえ、これは何に使うんですか?」


モモが尋ねると、店主は笑顔で答えた。


「それは煮込み料理によく使う豆だよ。柔らかくすると、少しほくほくした食感になるんだ。町の人は野菜と一緒に煮ることが多いかな」


「へえ……。昨日、宿で食べた煮込みにも豆が入ってたけど、あれとは違う種類なのかな」


「宿によって使うものは違うからね。どんな豆だったか分からないけど、気になるなら宿の人に聞いてみるといいよ」


モモは納得したように頷いた。


「そっか。エッダさんに聞いてみようかな」


ルシルはその言葉を聞き、少し笑った。


「今日だけで、聞いてみたいことがどんどん増えてるな」


「だって、知らないことがいっぱいあるんだもん。全部すぐに分からなくても、気になることは覚えておきたいんだ」


モモはそう答え、手元の紙へ豆の形を簡単に描いた。


店主はその様子を見て、感心したように目を細めた。


「ずいぶん熱心だねえ。絵を描くのが好きなのかい?」


「はい! 旅の途中で見たものを帳面に残してるんです。あとで見返したときに、どんな場所だったか思い出せるように」


「そりゃいいことだ。市場なんて、毎週見てると当たり前になっちまうけど、初めての人には珍しいものも多いんだろうね」


男性はそう言いながら、小粒の豆を計量し、丈夫な紙袋へ入れてくれた。


シモンは重さと代金を確認してから支払いを済ませ、袋の口が開かないよう丁寧に整えた。購入した豆は小さな手提げ袋へ収まり、歩く邪魔にもならない量だった。


「ありがとうございます。次の野営で使うのが楽しみです」


ルシルが礼を伝えると、店主は笑顔で手を振った。


「旅先では無理をしないようにな。豆はちゃんと煮て食べるんだよ」


「はい。気をつけます」


三人は店を離れ、人の流れが少ない広場の端へ移動した。


モモは買った袋を見ながら、嬉しそうに笑っている。


「なんだか、食べるのが楽しみになっちゃった。今日買った豆で、どんな料理ができるかな」


「いつもの野菜の煮込みに加えてもいいだろうし、ほかの食材と合わせてもよさそうだな」


ルシルが答えると、シモンは頷いた。


「ただ、次に使うときは水の量と加熱時間を考えましょう。保存できるからといって、どんな場所でもすぐに調理できるわけではありませんから」


「うん。ちゃんと準備してから使おうね」


モモは素直に答えた。


そのとき、広場の中央に近いところから、少し大きな声が聞こえてきた。


「すみません、そちらを少し空けてもらえますか!」


声のほうを見ると、二人の男性が大きな木製の台を運んでいた。


台は思ったより幅があり、人の流れを避けながら運ぶのが難しそうだった。近くにいた客たちは声に気づき、少しずつ道を空けていく。


ルシルたちも立ち止まり、台が通り過ぎるのを待った。


ところが、台の片側を持っていた若い男性が、地面の小さな段差に足を取られかけた。


「おっと……!」


男性は踏みとどまったものの、台がわずかに傾いた。


反対側の男性が慌てて持ち直し、二人はその場で動きを止めた。


近くの客たちも足を止め、何が起きたのか確かめている。


ルシルはすぐに駆け寄るのではなく、まず周囲と台の状態を見た。無理に手を出せば、かえって運んでいる二人の動きを妨げるかもしれない。


「大丈夫ですか? 必要なら手伝いますよ」


声を掛けると、若い男性は少し息を整えてから頷いた。


「ありがとう。ちょっと足元を見損ねたんだ。台を置ける場所まで、もう少しなんだけどね」


シモンは台の大きさと周囲の人の位置を確かめた。


「では、先に通る場所を空けてもらいましょうか。私たちは横から支える必要がありますか?」


男性は少し考え、首を横に振った。


「いや、二人で持てるよ。ただ、前に人がいると足元が見えにくくてね。通れるように声を掛けてもらえると助かる」


「分かりました」


シモンは頷き、近くにいた人々へ丁寧に声を掛けた。


ルシルも進行方向を確かめ、台を運ぶ二人が無理なく歩けるよう、少し先の人たちへ事情を伝える。


モモは通路の端へ移動し、ほかの人が急に入り込まないかを見守った。


周囲の人々は事情を理解すると、自然に道を空けてくれた。


木製の台はゆっくり運ばれ、広場の端に設けられた空き場所へ無事に下ろされた。


「助かったよ。ありがとう!」


若い男性は額の汗を拭いながら、三人へ笑顔を向けた。


「いえ。無事に運べてよかったです」


ルシルが答えると、男性は台の脚を確かめ、しっかり立っていることを確認した。


「今日は朝から忙しくてね。人が増える前に準備を終えたかったんだけど、思ったより賑やかになっちまった」


その言葉に、モモは周囲を見回した。


「市場って、お店を開く前から大変なんですね」


「そうだね。品物を運んで、台を並べて、売り終わったら片づける。お客さんには見えない仕事も結構あるんだよ」


男性はそう答え、もう一人の男性と顔を見合わせて笑った。


ルシルはその話を聞き、少し考えた。


市場へ来る客にとって、並んでいる品物は最初からそこにあるように見える。


けれど、実際には誰かが朝早くから運び、並べ、売れるように準備しているのだ。


今日の広場の賑わいも、そうした仕事の積み重ねで生まれている。


「……そういう準備をしてくれる人がいるから、俺たちも楽しく買い物できるんですね」


ルシルがそう言うと、男性は少し驚いたように目を瞬かせた。


それから、照れくさそうに笑った。


「まあ、そう言ってもらえると嬉しいね。こっちも仕事だからやってるだけなんだけどさ」


「それでも、ありがとうございます。今日は市場を楽しませてもらってます」


ルシルは素直に頭を下げた。


男性は少し困ったように笑い、軽く手を振った。


「こちらこそ。気をつけて見て回ってくれよ」


三人は礼を伝え、その場を離れた。


モモは歩きながら、ルシルへ顔を向けた。


「ねえ、さっきの人たち、すごかったね。あんな大きな台を二人で運んでたんだもん」


「そうだな。でも、無理に手を出さなくてよかった。ちゃんと何を手伝ってほしいか聞けたし」


シモンも頷いた。


「ええ。困っている方を助けるときでも、相手が何を必要としているのか確かめることは大切ですね。力を貸すことだけが手助けではありませんから」


「そっか……。道を空けるだけでも、ちゃんと役に立てるんだね」


モモはその言葉を胸に留めるように、静かに頷いた。


ルシルも広場を振り返った。


先ほど運ばれた木製の台には、これから品物が並べられるのだろう。


誰かの仕事を少し手伝い、また自分たちの時間へ戻る。


そんな小さな出来事も、今日の市場の思い出になっていた。


◇


広場を一通り歩き終えた頃には、朝の涼しさが薄れ、日差しが少し強くなっていた。


人の流れは相変わらず多く、店先では買い物をする人々の声が続いている。モモはまだまだ見たいものがありそうだったが、ルシルは少し離れた場所にある長椅子へ目を向けた。


「そろそろ一度休もうか。ずっと歩いてたし、買ったものも整理したい」


「そうですね。人の多い場所では、思っている以上に気を遣いますから。少し水を飲んで休憩しましょう」


シモンの言葉に、モモも頷いた。


「うん。私もちょっと座りたいな。見たいものが多すぎて、ずっときょろきょろしてたから」


三人は広場の外側にある長椅子へ向かった。


そこは市場の中心から少し離れており、通行する人の邪魔にならない場所だった。近くには木が植えられ、枝葉の隙間から柔らかな光が落ちている。


ルシルは腰を下ろし、持参した水を飲んだ。


モモも隣へ座り、小さな紙を取り出して今日見たものを確かめ始めた。


「えっと……野菜のお店で葉っぱのことを聞いて、道具のお店で金具を見て、布のお店では緑色の布を見つけて……。それからダリオさんに会って、豆を買って……」


彼女は指を折りながら数え、少し困ったように笑った。


「……もうこんなにあるんだ。全部ちゃんと覚えていられるかな」


「書いておけば、あとで思い出せるだろ。今日は絵を描く時間もあるし」


ルシルが答えると、モモは頷いた。


「うん。でも、全部を細かく描こうとしたら、何日も掛かっちゃいそうだね」


「それなら、特に覚えておきたいものから描いてはどうでしょう。今日見たものをすべて一度に残す必要はありませんから」


シモンの提案に、モモは少し考えた。


旅帳面には、これまでに出会った景色や人々のことが少しずつ書き込まれている。


すべてを完璧に記録できているわけではない。


けれど、あとで見返したときに、あの日の空気や気持ちを思い出せる頁が増えていることが嬉しかった。


「……そうだね。今日、一番覚えておきたいものから描こうかな」


「何を描きたいんだ?」


ルシルが尋ねると、モモは広場のほうへ目を向けた。


野菜を並べる店。


道具を手に取る人。


荷車から荷物を下ろす人。


買い物を楽しむ人々。


その中から一つだけ選ぶのは、簡単ではなかった。


「……市場全体かな」


モモは少し迷ったあと、そう答えた。


「野菜も布も道具も面白かったけど、今日はみんながいろんなことをしてるのが楽しかったんだ。だから、お店が並んでて、人が歩いてるところを描きたいな」


ルシルはその言葉を聞き、静かに頷いた。


「いいな。それなら、今日の雰囲気が残せそうだ」


「うん。上手に描けるか分からないけど、やってみる!」


モモは嬉しそうに笑った。


シモンも広場を眺めながら、穏やかに口を開いた。


「市場の様子は、時間によっても変わるでしょうね。朝は荷物を運ぶ方が多く、今は買い物をする方が増えています。午後になれば、また違う表情になるかもしれません」


「そっか。じゃあ、今の景色を描いておくのもいいね」


モモは小さな紙へ簡単な線を引き始めた。


ルシルはその隣で、広場の様子を眺めた。


昨日、丘の上から見たリーヴェルは、畑と牧草地に囲まれた小さな町だった。


けれど今は、その町の中で暮らす人々の姿が見えている。


同じ場所でも、遠くから眺めるのと、実際に歩いてみるのとでは、まるで違う。


(……こういう違いを知るために、俺は旅をしてるのかもしれないな)


ルシルはそんなことを考えながら、ゆっくり息を吐いた。


王位も、王城での立場も、今は必要ない。


自分の目で見て、耳で聞いて、気になったことを尋ねる。


それだけで、世界は昨日より少し広く感じられた。


◇


休憩を終えた三人は、市場の北側に並ぶ店をもう少し見てから、昼食を取ることにした。


市場の中心に近い場所には簡単な食事を出す店もあったが、昼が近づくにつれて客が増え、空いている席を探すのは難しそうだった。三人は無理に混雑した店へ入らず、少し離れた通りにある食堂を選んだ。


食堂は二階建ての建物の一階にあり、入口には今日の料理を書いた小さな板が掛けられていた。


中へ入ると、窓際の席が一つ空いていたため、三人はそこへ案内してもらった。


昼食には野菜と肉を使った温かな煮込みと、焼き色の付いたパンを選んだ。宿の夕食とは味付けが少し違い、野菜の甘みがよく感じられる料理だった。


モモは一口食べると、嬉しそうに目を細めた。


「……おいしい。昨日の宿のご飯も好きだけど、こっちはまた違う味だね」


「そうだな。同じような材料でも、作る人によって味が変わるんだな」


ルシルはパンをちぎり、煮込みの汁を少し付けて食べた。


シモンも料理を味わいながら、静かに頷いた。


「使っている野菜や煮込む時間でも違いが出るのでしょうね。旅の途中では、同じ料理でも土地ごとの違いを楽しめそうです」


「うん! それに、今日の野菜のお店で聞いた話を思い出すと、何が入ってるのか気になっちゃう」


モモは皿の中を眺め、少し考えた。


「でも、食べる前に全部調べてたら冷めちゃうね。まずはおいしく食べようっと」


その言葉に、ルシルは思わず笑った。


「それがいいな。気になることは、あとで聞けばいいし」


三人はゆっくり昼食を取り、午前中に見たものについて話した。


モモが一番気に入ったのは、野菜の店で教えてもらった、畑での姿と売り場での姿の違いだった。


シモンは道具の店で見た金具の種類が気になっているらしく、宿へ戻ったら馬具の寸法を確認したいと話した。


ルシルは、市場の準備をしていた人々の姿が印象に残っていた。


「俺、今朝の広場を見て、ちょっと考えたんだ。昨日は何も並んでなかった場所に、今日はこんなに店ができてるだろ?」


「うん。昨日の夕方とは全然違ったね」


「それって、朝早くから準備してくれた人がいるからなんだよな。俺たちは楽しく買い物してるけど、その前にもいろんな仕事があるんだなって」


ルシルがそう言うと、シモンは穏やかに頷いた。


「そうですね。町の賑わいは、そこで働く方々の積み重ねによって生まれているのでしょう。普段は目に入らない仕事を知ることも、旅の大切な経験なのかもしれません」


モモは二人の話を聞き、少し考えたあと、嬉しそうに笑った。


「じゃあ、今日の絵には、お店だけじゃなくて、準備してる人も描こうかな。台を運んでた人たちも、すごく頑張ってたもんね」


「いいと思う。モモが今日見た市場の絵になるな」


ルシルの返事に、モモは満足そうに頷いた。


食堂の窓の向こうでは、午後の光を受けた町の通りを人々が行き交っている。


朝から続いていた賑わいは、まだしばらく収まりそうになかった。


◇


昼食後、三人は市場へ戻る前に宿へ立ち寄った。


買った豆を馬車の保管場所へ収め、トルクとベルクの様子を確かめるためだった。


厩舎へ向かうと、二頭は朝と変わらず落ち着いていた。


トルクはルシルの姿を見るなり顔を上げ、ベルクも静かに耳を動かした。


「お疲れさま。今日はゆっくりできてるか?」


ルシルは二頭へ声を掛け、首や脚の状態を確かめた。


シモンも係の青年へ様子を尋ね、水と餌が問題なく与えられていることを確認した。


「今日は外へ出ていませんし、二頭ともよく休めているようですね」


「よかった。じゃあ、俺たちも安心して町を見られるな」


モモは嬉しそうに頷いた。


「うん。トルクもベルクも、今日はのんびりしててね」


そのあと、三人は馬車の近くへ移動し、シモンが気にしていた馬具の金具を確認した。


シモンは普段使っている留め具を示しながら、どの部分に力が掛かるのか、予備を選ぶときに何を確かめる必要があるのかを説明してくれた。


ルシルは実物を手に取り、店で見た部品との違いを思い出した。


「なるほど。見た目は似てたけど、幅が違うとちゃんと固定できないんだな」


「ええ。だからこそ、現物を確かめることが大切です。今日の店で見たものが合うかどうか、もう一度確認してみましょう」


モモも金具を覗き込み、真剣に頷いた。


「……思ってたより細かいんだね。こういうところも、ちゃんと見ておかないといけないんだ」


「旅を続けるうえでは大切なことです。ただ、最初からすべて覚える必要はありませんよ」


シモンはそう答え、部品の寸法を控えた。


必要な確認を終えると、三人は再び町へ出た。


今度は午前中に見た道具の店へ向かい、店主と相談しながら、実際の寸法に合う予備の留め具を選んだ。


シモンは用途と強度を確かめ、必要な数だけ購入した。


ルシルはその様子を見ながら、今日の買い物がただ品物を手に入れるだけではなく、旅を安全に続けるための準備でもあるのだと改めて感じていた。


◇


午後の市場は、朝とは少し違う落ち着きを見せ始めていた。


まだ客の多い店もあるが、売り切れた品物の籠を片づけているところもあり、荷車へ空の木箱を積み直している人の姿も見える。


ルシルたちは広場の端にある長椅子へ腰を下ろし、しばらくその様子を眺めていた。


モモは午前中に書き留めた紙を広げ、絵の構図を考えている。


「……朝はお店がいっぱい並んでるところを描こうと思ったけど、今は片づけてる人もいるね」


「市場の一日を描くなら、そういうところも面白そうだな」


ルシルが答えると、モモは頷いた。


「うん。朝だけじゃなくて、午後もちゃんと町の時間なんだもんね」


シモンは広場を眺めながら、穏やかに口を開いた。


「すべてを一枚に収めるのは難しいかもしれませんが、モモ嬢が印象に残った場面を選べばよいと思います。絵は、見たものをそのまま写すだけではありませんから」


モモはその言葉を聞き、少し考えた。


そして、ゆっくり頷いた。


「……じゃあ、今日は朝の市場を描こうかな。お店が並んでて、人が歩いてて、荷物を運んでる人もいるところ」


「いいですね。今日の思い出として、きっと大切な一枚になるでしょう」


シモンの返事に、モモは嬉しそうに笑った。


彼女は旅帳面を開き、新しい頁へ鉛筆を走らせ始めた。


ルシルはその隣で、広場の様子を静かに眺めた。


朝から何度も歩いた場所なのに、座って眺めていると、また違ったものが見えてくる。


品物を買って帰る人。


店主と話し込む人。


空になった籠を重ねる人。


小さな子どもの手を引いて歩く人。


その誰もが、ルシルたちとは違う毎日を過ごしている。


そして今日、その暮らしのほんの一部を見せてもらったのだ。


(……知らない町へ来るって、こういうことなんだな)


ルシルは胸の奥に広がる温かさを感じながら、ゆっくり息を吐いた。


王城にいた頃、町は報告書に記された名前や数字として知ることが多かった。


今は違う。


町には人がいて、仕事があり、毎日の食事があり、誰かが整えた道がある。


その一つひとつを、自分の目で見て、耳で聞くことができる。


それが、彼には何よりも嬉しかった。


しばらくして、モモが鉛筆を置いた。


「……できた!」


彼女は帳面を二人へ向けた。


そこには、少し不揃いながらも、広場に並ぶ店と、行き交う人々の姿が描かれていた。


大きな籠を並べる店。


木製の台を運ぶ人。


買い物をする人々。


そして、広場の中央にある小さな水盤。


細かなところは実際の景色と違っているかもしれない。


けれど、朝の市場の賑わいは、不思議と伝わってくる絵だった。


「いいな、モモ。今日の市場って感じがする」


ルシルがそう言うと、モモは嬉しそうに笑った。


「本当? よかった! いっぱい見たから、何を描くか迷っちゃったけど、これにしてよかったな」


シモンも絵を眺め、穏やかに頷いた。


「ええ。人々の動きが感じられますね。店だけでなく、準備をしている方々も描かれているところが、今日らしいと思います」


「うん。今日、いろんな人に教えてもらったからね。お店の人も、荷物を運んでた人も、みんな覚えておきたいんだ」


モモはそう答え、絵を大切そうに見つめた。


ルシルはその横顔を見ながら、静かに微笑んだ。


今日もまた、旅帳面に新しい頁が増えた。


そして、三人の記憶にも、リーヴェルの市場で過ごした時間が刻まれたのだった。


◇


夕方が近づく頃、三人は宿へ戻ることにした。


広場では片づけを始める店が増え、朝から続いていた賑わいも、少しずつ落ち着き始めている。


ルシルたちは通りを歩きながら、今日見たものについて話した。


モモは野菜の店で聞いた話を思い返し、次に畑を見るときは葉だけでなく茎や花も観察したいと話した。


シモンは買った金具を大切にしまい、宿へ戻ったら馬車の保管場所へ入れておくつもりだと言った。


ルシルは、朝の広場で台を運んでいた人々のことを思い出していた。


市場を楽しむ人々の姿だけでなく、その場所を整える人々の働きまで知ることができた。


それが、今日の一番大きな発見だったように思う。


「……また来たいな、この町」


ルシルが呟くと、モモは嬉しそうに顔を上げた。


「うん! 私も好きになっちゃった。まだ全部見たわけじゃないし、ほかにも面白い場所がありそうだもんね」


「そうですね。町の規模は大きくありませんが、周囲の農地や牧草地とのつながりが感じられる場所でした。旅の途中で立ち寄るには、よい町だと思います」


シモンも穏やかに頷いた。


三人は顔を見合わせ、自然に笑った。


宿へ戻ると、エッダが広間で夕食の準備を進めていた。


「お帰りなさい。市場はいかがでしたか?」


「すごく楽しかったです!」


モモは嬉しそうに答え、今日見た野菜や道具のことを話し始めた。


エッダは仕事の手を止めすぎないようにしながらも、彼女の話へ耳を傾けてくれた。


「それはよかったですね。市場の日は忙しいですが、町の人たちにとっても大切な日なんですよ」


「そうなんですね。今日、準備してる人たちも見たんです。あんなに大変だとは思ってませんでした」


「ふふっ、そうでしょうね。品物を並べるだけでも、結構な仕事になりますから」


エッダはそう答え、少し笑った。


「でも、こうして旅の方が楽しんでくださると、町の人たちも嬉しいと思いますよ」


ルシルはその言葉を聞き、静かに頷いた。


「俺たちも、来てよかったと思ってます。明日も少し町を見てから、次の予定を考えようと思います」


「ええ。どうぞ、ゆっくりしていってくださいね」


三人は礼を伝え、部屋へ戻った。


窓の外には、夕方の光に染まるリーヴェルの屋根が広がっていた。


モモは机の上へ旅帳面を置き、今日描いた市場の絵をもう一度眺めている。


シモンは買った金具を整理し、ルシルは寝台の端へ腰を下ろした。


町へ着いて二日目。


昨日は、知らない町に足を踏み入れた。


今日は、その町で暮らす人々の一日を、少しだけ知ることができた。


明日は何を見つけるのだろう。


ルシルは窓の外を眺めながら、胸の奥に広がる期待を静かに味わった。


旅はまだ続いていく。


けれど、急いで次の場所へ向かう必要はない。


今いる場所で、まだ知らないものを見つける時間も、旅の大切な一部なのだから。


リーヴェルの町に夕暮れが訪れ、家々の窓に灯りがともり始める。


三人はその穏やかな景色を眺めながら、今日という一日が終わっていくのを、ゆっくりと感じていた。



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