第104話 市場の翌朝、町の裏道で見つけた小さな仕事
リーヴェルに滞在して三度目の朝、ルシルは窓の外から聞こえる音が昨日よりずっと少ないことに気づいた。荷車の車輪が石混じりの道を鳴らす音はときどき届くものの、昨日の市場の日に聞こえていた威勢のいい呼び声や、木箱を次々と運ぶ物音はない。代わりに、どこかの家の戸が開く音と、朝の挨拶が落ち着いた間隔で聞こえていた。
寝台から身体を起こすと、窓際の椅子ではシモンが湯気の立つ杯を両手で包んでいた。机には閉じた手帳が置かれているが、今はそれを開こうともせず、屋根の向こうに広がる淡い空を眺めている。
「おはよう、シモン。今日は手帳より先にお茶なんだな」
「おはようございます、ルシル様。今朝は急いで確認することもありませんから。昨日のうちに予備の留め具も収めましたし、少しゆっくりしてみようと思いまして」
シモンは自分の言葉を確かめるように杯を持ち上げた。王城にいた頃なら、朝の静けさは仕事を始める前に片づけられることを探す時間だったのだろう。今は窓の外を眺めて過ごしても、誰かを待たせるわけではない。
「いいな、それ。俺も今日は、昨日と違う町の顔を見てみたい。市場がない日って、どんなふうに過ごしてるんだろうな」
「それは面白そうですね。ただ、宿は今夜の分まで確保しているわけではありません。今日はまず、滞在を延ばすか、明日出発するかを考えておく必要があります」
「うん。そこは朝ご飯のときに三人で決めよう。今のところ、俺はもう少しここにいてもいいと思ってるけど」
会話の途中で、隣の寝台から毛布が動く音がした。モモは桃金色の髪を頬にかけたまま顔を上げ、二人の話を半分ほど聞いていたらしい。
「町の顔って、昨日の市場みたいなこと? だったら、今日はお店が少ないのかな」
「おはよう、モモ。たぶんな。でも、店が少ない日にも暮らしは続いてるだろ。そういうところを歩いてみたいんだ」
「おはよう、ルシル君、シモン君。いいね、それ! 昨日は人がいっぱいで、ゆっくり見られなかった道もあったし。あっ、でも、今日は何かを買う予定があるの?」
「急ぎの買い物はありません。だからこそ、先に行き先を決めすぎず、歩ける範囲を見てみるのもよいでしょう。ただし、宿の裏の厩舎へは朝のうちに寄ります」
モモは頷くと、寝台の脇に置いた旅帳面を手に取った。昨夜描いた市場の絵がある頁をそっと開き、まだ薄暗い部屋の中で眺めてから、表紙を閉じる。
「昨日は人がたくさんいる絵を描いたから、今日は静かな道を描いてみたいな。同じ町なのに、きっと全然違うよね」
ルシルは窓の外へ視線を戻した。通りを横切った一人の男性が、家の前で箒を動かしている。市場の賑わいを知った翌朝だからこそ、その何でもない仕草が目に留まった。
◇
身支度を済ませた三人は、朝食の前に厩舎へ向かった。宿の裏手には昨夜の涼しさがまだ残っており、木製の柵には朝露が細かく付いている。係の青年は飼葉を運ぶ途中だったが、三人を見ると荷を邪魔にならない場所へ置いて挨拶した。
「おはようございます。二頭とも今朝も変わりありませんよ。昨日は休んでいましたし、落ち着いています」
「ありがとうございます。少し触れても大丈夫ですか?」
「ええ。いつもどおり、足元だけ気をつけてください」
トルクはルシルの声にすぐ反応し、鼻先をこちらへ寄せてきた。ベルクは少し遅れて顔を上げたが、その目は穏やかで、近づいたシモンの手を嫌がる様子もない。二頭とも食欲があり、脚に目立った変化は見られなかった。
「トルク、昨日は町を歩かなかったぶん、少し退屈だったか? でも今日はもう一日、休んでてもらうかもしれないぞ」
ルシルが首を撫でると、トルクは返事の代わりに飼葉のほうを向いた。モモは笑いそうになって口元を押さえ、ベルクにも小さな声で挨拶した。
「やっぱりご飯の時間が一番大事なんだね。ベルクはどう? 町の厩舎にも慣れたかな」
「二頭とも、ここではほかの馬の気配にも落ち着いていますね。環境が変わっても無理なく過ごせているのはありがたいことです」
シモンは係の青年と飼葉の残量や水の交換について確認し、昨日購入した予備の留め具を馬車の保管場所へ収めたことも改めて確かめた。買った部品はすぐ使うためのものではない。だからこそ、必要なときに探し回らないよう置き場所を決めておくことが大切だった。
ルシルは馬車の側面に手を当てた。草原の石壁や橋の向こうの休憩地では、毎晩ここが三人の寝床になっていた。今は宿の部屋で眠っているが、また街道へ出れば、この馬車と二頭が旅を支えてくれる。
(ここで休む時間も、次に進むための時間なんだよな)
厩舎を出る前に、ルシルは係へ今日も馬車を動かさない可能性があることを伝えた。青年は空き区画と予定を確認する必要があると答え、延泊を決めたら受付から知らせてほしいと言った。三人は礼を述べ、宿の広間へ戻った。
エッダは朝食のパンを籠へ移しているところだった。昨日は市場へ出かける客が早い時間から行き来していたが、今朝の広間にはまだ数人しかおらず、窓際の席にも余裕がある。
「おはようございます。今日は市場もお休みですから、町は少し静かでしょう?」
「おはようございます。ちょうどその話をしてたんです。昨日と全然違う音がしますね」
ルシルが答えると、エッダは笑って頷いた。
「市場の日は周りの農地からも人が来ますからね。今日は店を片づけたり、普段の仕事に戻ったりする人が多いと思います。広場も昨日ほど混みませんよ」
席へ着いた三人は、温かなスープとパンを食べながら今日の予定を相談した。ルシルが町をもう一日見たいと話すと、モモはすぐに賛成したが、シモンは宿と厩舎の空き、費用、今後の天候を確認したうえで決めようと提案した。
「次の目的地を急いで目指す理由はありませんが、滞在を延ばすたびに必要な費用も増えます。ここで補充できるものは昨日ある程度確かめられましたから、何日も予定なく留まる必要はないでしょう」
「そうだな。じゃあ、今夜もう一泊して、明日は朝の様子を見て出発するのはどうだ? 雨が降りそうなら無理はしないけど、今のところはそれで考えたい」
「私は賛成! 今日のうちに静かな町を歩いて、明日はまた馬車の旅に戻るんだね。どっちも楽しみだな」
シモンは二人の顔を見比べ、頷いた。決めたからといって、必ずそのとおりに動かなければならないわけではない。安全を確かめながら予定を変えられることも、今の三人には大切だった。
食後、ルシルは受付で今夜の三人部屋と厩舎二頭分の空きを尋ねた。エッダが帳簿を確認すると、幸い同じ部屋を使えるとのことだった。料金と利用条件を聞いて延泊を申し込み、明日の朝に出発する場合の手続きも確かめる。
「では、今夜もよろしくお願いします。明日は朝食のあと、馬たちの準備をしてから出ると思います」
「承知しました。お天気や道の具合で変わるようなら、遠慮なく相談してくださいね。今日も町を楽しんでいらしてください」
宿を出ると、昨日の広場へ向かう道に朝の光が広がっていた。三人は急がず歩き始めたが、モモはすぐに昨日との違いを見つけた。道端に積まれていた木箱が減り、荷車が停まっていた場所には箒で掃かれた跡が残っている。
「昨日はあそこに野菜の籠が並んでたよね。今日は道が広く見えるなあ」
「広場そのものの大きさは変わらないのに、不思議だな。人が少ないと、建物の形までよく見える」
シモンは通りの先を見てから、二人へ歩道寄りを進むよう促した。市場が終わっても荷車が通らなくなるわけではない。朝の仕事へ向かう人の邪魔をしないよう、三人は道の端を選んで歩いた。
◇
広場に着くと、昨日の賑わいが嘘のように、中央の水盤の周りには広い空間ができていた。常設らしい店は何軒か開いているが、屋台の多くは姿を消している。石と土の混じった地面には、台の脚が置かれていた跡や、籠を引きずったらしい細い筋が残っていた。
モモは水盤から少し離れた場所で足を止め、昨日描いた絵を開いた。そこには店の列と、木製の台を運ぶ人々が描かれている。目の前の景色と見比べると、同じ建物を背景にしているのに、まるで別の場所のようだった。
「ねえ、昨日の絵には人がいっぱいなのに、今日は水盤の向こうまで見えるよ。ここからだと、あの細い通りにも気づくね」
モモが指さしたのは、広場の北側にある建物の間の道だった。昨日は屋台と人の流れに隠れていたが、今はその先に低い屋根と小さな庭が見えている。
「歩いてみるか? ただ、住宅のほうなら静かにしよう。勝手に庭へ入ったりはしないでさ」
「うん。道から見えるものだけでも楽しそう」
シモンは広場の角にある案内札を確認した。細い通りは町の北側へ抜ける道らしく、行き止まりではないようだったが、荷車が通れる幅はない。三人は人の往来を妨げないよう、一列になる場所では自然に歩調を合わせて進んだ。
通りへ入ると、空気の匂いが少し変わった。広場では焼きたてのパンや乾燥した穀物の香りが混じっていたが、こちらでは湿った土と、庭先に植えられた草花の匂いがする。家々の壁には木の棚や小さな鉢が掛けられ、窓辺には洗った布が畳まれていた。
少し先では、一人の女性が戸口の前を掃いていた。箒を動かすたびに小さな葉が集まり、石の隙間に残っていた砂が道端へ寄せられていく。女性は三人に気づくと手を止め、気さくに挨拶した。
「おはよう。旅の人かい? 今日は広場じゃなく、こっちの道を歩くんだね」
「おはようございます。昨日は市場を見たので、今日は静かなところも歩いてみたくて。お仕事の邪魔になってませんか?」
「大丈夫だよ。そこは通れるようにしてあるから。ただ、この先は家が多いし、朝は水を運ぶ人も通るから、道の真ん中で立ち止まらないでおくれ」
ルシルは礼を伝え、モモとシモンにも道の端へ寄るよう声を掛けた。女性は安心したように頷くと、箒を再び動かし始めた。道を掃く音は市場の呼び声ほど目立たないが、その小さな仕事があるから通りを気持ちよく歩けるのだと分かる。
「昨日も広場で片づけてる人を見たけど、こっちでは家の前を掃いてるんだね」
「人が集まる場所だけでなく、毎日通る道も手入れが必要なのでしょう。仕事の種類は違っても、町を使いやすくしている点ではつながっていますね」
シモンの言葉を聞き、モモは旅帳面の端に小さく書き留めた。『市場の翌朝。家の前を掃く音。庭の草の匂い』。それだけの短い記録でも、昨日の市場の絵とは違う朝が残せそうだった。
通りの先で、子ども二人が小さな桶を持って歩いてきた。年上らしい子が前を見て歩き、もう一人は桶の中身をこぼさないよう両手で抱えている。三人は壁際へ寄って道を譲り、子どもたちが通り過ぎるのを待った。
「ありがとう!」
子どもが声を掛けると、モモは柔らかく笑って返事をした。桶の中身は見えなかったが、二人はそのまま角を曲がり、近くの家の戸口へ向かっていった。
「なんだか、みんな自分の用事があるんだね。昨日の市場だと、何をしてるのか分かりやすかったけど、今日は見てるだけじゃ分からないことも多いな」
「そうだな。分からないからって、何でも聞けばいいわけでもないし。暮らしてる人の邪魔をしないで、見せてもらえるところだけ見よう」
ルシルが答えると、モモは納得したように頷いた。旅の好奇心は大切だが、誰かの家の中や仕事の事情まで知る権利があるわけではない。その距離を守りながら歩くことも、知らない町を訪れる人の礼儀なのだろう。
◇
細い通りを抜けると、小さな空き地に出た。中央には井戸ではなく、屋根の付いた水汲み場らしい設備があり、木の樋から水が石の槽へ流れている。近くには桶を持った人が数人並んでいたため、三人は少し離れた場所で立ち止まった。
「ここは町の人が使う水場みたいだね。昨日の広場の水盤とは違って、桶に汲んでる」
「ええ。ただ、飲用に適しているかどうかは利用方法によります。私たちが勝手に使う必要はありませんし、ここでは通行の妨げにならないようにしましょう」
シモンがそう言うと、モモは水槽へ近づきかけた足を戻した。水の流れる音を聞くだけでも十分に面白い。槽の周りには濡れた石があり、何人もの人が毎日ここを利用していることがうかがえた。
水を汲み終えた男性が桶を持ち上げようとしたとき、持ち手の片側がわずかにずれた。男性はすぐに桶を下ろして確かめたが、結びつけてある紐が緩んでいるらしい。ルシルは近くへ駆け寄る前に声を掛けた。
「大丈夫ですか? 何か手伝えることがあれば言ってください」
男性は紐を指で押さえながら、困ったように笑った。
「ありがとう。水が入ったままだと持ちにくくてね。ちょっと桶を支えてもらえれば、結び直せそうなんだ」
「分かりました。どこを持てばいいですか?」
「底が滑らないよう、そっちの縁を押さえてくれると助かるよ」
ルシルは言われた位置に手を添え、桶が傾かないように支えた。男性は結び目をほどき、紐の傷みを確かめてから結び直した。シモンは水汲み場の順番待ちの人に迷惑が掛からないよう周囲を見ており、モモは足元の濡れた石に誰かが滑らないか気を配った。
作業はすぐに終わった。男性は持ち手を軽く引いて確かめ、今度は安定して持ち上げられることを確認する。
「助かったよ。毎日使ってると、こういうところが緩むんだな。家へ帰ったら紐も新しいものに替えないと」
「いえ、無事に持ててよかったです。気をつけて運んでください」
男性は礼を述べて立ち去り、三人も水汲み場を離れた。モモは少し振り返り、桶を持って歩く人々を見つめた。
「昨日は大きな台を運ぶ人たちの道を空けたけど、今日は桶を支えたんだね。どっちも、その人が何をしてほしいか聞いてからだった」
「そうだな。手伝いたい気持ちだけで動くと、かえって困らせることもある。シモンが橋でダリオさんの縄をほどいたときも、先に荷の状態を確かめてたし」
「必要なことは相手や状況によって違いますからね。今の男性は、桶を持ってもらうより、結び直す間だけ支えてほしかったのでしょう」
シモンは言いながら、ふと水場の屋根を見上げた。木材には新しいものと古いものが混じっており、何度か補修されてきたらしい跡がある。誰がいつ直したのかは分からないが、この場所が長く使われていることだけは伝わってきた。
「それにしても、町の暮らしには小さな手入れが多いですね。市場の準備のように目立つ仕事だけではないのだと、今日はよく分かります」
ルシルは頷いた。王城では整備された水場も、運ばれてくる水も、誰かが管理するものだった。自分の手で桶を支えてみると、その『誰か』の仕事が、ほんの少しだけ身近になった気がした。
◇
昼が近づく頃、三人は広場から一本離れた通りに戻った。昨日は市場の混雑を避けて食堂へ入ったが、今日は道を歩きながら、どこで昼食を取るか相談できるほど人の流れが落ち着いている。
「昨日のお昼もおいしかったけど、今日は違うお店を見てみたいな。あ、でも、昨日見つけたパン屋さんも気になる!」
モモは二つの候補の間で迷っているらしく、通りの左右を何度も見比べた。ルシルはその様子を見て笑ったが、すぐにどちらかを選ばせることはしなかった。
「せっかくだし、パン屋さんで昼に食べられるものがあるか見てみようか。持ち帰りだけなら、座れる場所を探して食べてもいいし」
「いいですね。ただ、屋外で食べるなら、食べかすを残さず、通行の邪魔にならない場所を選びましょう。今日は宿へ戻る時間にも余裕があります」
パン屋の前には、昨日より短い列ができていた。焼きたての香りが通りへ流れ、扉が開くたびに温かな空気が漏れてくる。三人は順番を待ち、店内へ入ると、棚に並ぶパンをゆっくり眺めた。
店主は忙しそうに手を動かしていたが、客が品物を選ぶ間は急かさずに待ってくれた。モモは丸いパンと具を挟んだ小ぶりなパンを見比べ、どちらも気になっている様子だった。
「今日は歩きながら食べるわけじゃないし、座ってゆっくり食べられるものがいいな。ルシル君はどれにする?」
「俺はこの野菜を挟んだのにしようかな。昨日、市場で野菜を見たせいか、何が入ってるのか気になるんだ」
店主は注文を聞き、具に使っている野菜の種類と、早めに食べたほうがよいことを説明してくれた。ルシルは礼を言い、モモも同じ種類を選んだ。シモンは別の焼き込みパンを一つ選び、三人分を紙に包んでもらう。
「持ち歩くなら、あまり長く置かないでおくれよ。今日は暖かくなるからね」
「はい。近くで食べられる場所を探して、すぐいただきます」
店を出ると、モモは紙包みから漏れる香りに目を細めた。けれど、通りの真ん中で開こうとはせず、三人は少し先の休憩用の長椅子へ向かった。そこは昨日も通った広場の外側で、今日は空いている席がいくつかあった。
腰を下ろしてから紙包みを開くと、パンはまだほんのり温かかった。柔らかな生地に野菜の食感が加わり、歩き続けて少し空腹になっていた三人にはちょうどよい昼食だった。
「おいしい……。市場の日じゃなくても、こうやって町のパンを食べられるんだね。昨日はお店を見るだけで精いっぱいだったけど、今日は味まで覚えられそう」
「そうだな。昨日は人がたくさんいる町を見て、今日は普段の町を歩いてる。どっちかだけじゃ、リーヴェルのことを少ししか知らずに出発してたかもしれない」
シモンはパンを食べ終えてから、水筒の蓋を閉めた。食べる間に眺めていたのは、広場の端で空の籠を修理している男性の姿だった。細い木の帯を差し込み、緩んだ部分を押さえながら形を整えている。
「昨日使った道具を、今日は手入れしているのかもしれませんね。もちろん、何の籠かは分かりませんが、こうして使い続けるための仕事もあるのでしょう」
「気になるなら聞いてみたいけど、今は忙しそうだね。絵だけ描いてもいいかな。遠くから見える範囲で」
「それなら大丈夫そうだな。人の顔を勝手に細かく描くんじゃなくて、籠の形や手元の動きが分かるくらいにしておけば」
モモは頷き、旅帳面を膝の上に広げた。昨日の市場の絵の次の頁に、空の籠と、それを支える手の形を描き始める。描いている間にも男性の手は動き続けていたが、モモは細部を無理に追わず、見えたところだけを線にした。
ルシルは隣で静かに眺めていた。旅帳面には、海の景色も、羊も、草の穂も、市場の人々も描かれている。そこへ今度は籠の修理が加わるのだと思うと、旅が集めているものの幅広さに驚かされる。
(立派な建物や珍しい景色だけが、覚えておきたいものじゃないんだな)
モモが描き終える頃、男性は修理した籠を持ち上げ、底が安定していることを確かめてから建物の中へ運んでいった。三人は席を立つ前に紙包みを片づけ、周囲に何も残していないことを確かめた。
◇
午後は、町の外れへ向かう道を少しだけ歩いてみることにした。昨日は市場の中心を見て回ったため、畑に近い通りまで足を延ばしていない。シモンは宿へ戻る道筋を確かめ、日が傾く前に引き返せる範囲を選んだ。
家々がまばらになるにつれて、道の脇には低い石垣と畑が増えていった。柵の向こうには若い葉が揺れ、ところどころに水を流すためらしい細い溝がある。畑へ入ることはせず、三人は道から見える範囲を眺めながら進んだ。
「ねえ、昨日の野菜屋さんが言ってたこと、少し分かる気がする。葉っぱの形だけじゃなくて、茎の高さも違うんだね」
モモは柵越しに見える作物を指さした。丸い葉を広げるものと、細い葉が上へ伸びるものが別々の畝に植えられている。どれが何の野菜かは分からないが、同じように見えていた緑の中に、確かに違いがある。
「昨日聞いた話を覚えてたから、気づけたんだな。分からないままにしておいたことが、次の発見につながってる」
「うん。すぐに答えが出なくても、見ておいてよかった! 今日は畑の場所と葉っぱの形を一緒に描いておこうかな」
シモンは畑の端に立てられた木札へ目を向けたが、そこに書かれた文字は遠く、読み取れなかった。無理に近づけば作業の邪魔になるため、三人はそのまま道を進む。少し先には、木の柵を修理している二人の作業者がいた。
一人は柱を支え、もう一人が金具を確かめている。三人が通りかかると、作業者は道を塞いでいないことを確認し、軽く会釈した。ルシルたちも挨拶を返し、少し離れたところで足を止めた。
「昨日の道具屋さんで見た金具に、少し似てるな。もちろん同じものかは分からないけど」
「用途が違えば形や強度も変わるでしょう。昨日買った予備の留め具も、あの柵に使えるとは限りません。こうして実際の使われ方を見ると、道具の違いが分かりやすいですね」
作業者の一人が木槌を使い始めたため、三人は話し声を抑えて先へ進んだ。金具を打つ乾いた音が背後から響き、やがて風の音に紛れていく。
道が緩やかに曲がるところで、低い丘と畑を見渡せる場所があった。通行の妨げにならないよう道の脇へ寄ると、遠くにリーヴェルの屋根が重なって見える。昨日の朝は町の中から市場を見ていたのに、今日は少し離れたところから、町と農地のつながりを眺めている。
「ここから見ると、町って畑の真ん中にあるみたいだね。昨日、ダリオさんが草を運んでたのも、こういう道を通ってだったのかな」
「実際にどの道を使ったかは分からないけど、あの荷車が町へ向かってたのは確かだな。市場の品物も、こういう周りの土地から集まってきたんだろうな」
ルシルは石垣に沿って続く道を目で追った。荷車の車輪跡が残る土の道は、畑の間を抜け、家々のある場所へ向かっている。町の賑わいは町の中だけで生まれるものではないのだと、今なら少し実感できた。
モモは旅帳面を開き、畑と屋根を一緒に描こうとした。けれど、手を動かす前にふと顔を上げる。
「ねえ、そういえば前に、次に安全な場所があったら三人で歩こうって話したよね。草原では私とルシル君だけ少し歩いたけど、今日はちゃんと三人で歩いてる」
ルシルは一瞬考え、それから思い出して頷いた。風渡りの草地で、シモンが馬たちを見ている間に、モモと二人で短い散歩をした。次は三人で歩こうと約束したものの、その後は休憩地や街道を進むことが続き、ゆっくり歩く機会がなかった。
「本当だ。あの約束、今日ようやく果たせたな。町の道だけど、こうして三人で同じ景色を見てる」
「ええ。あのときは二頭を見ている必要がありましたからね。今日は宿の厩舎で休んでもらっていますし、私も安心して歩けます」
シモンは少し照れくさそうに眼鏡を直した。モモは嬉しそうに二人の間へ立ち、畑の向こうに広がる町の屋根を見つめた。
「なんだか、草原の散歩とは違うけど、これはこれでいいね。あのとき見た花もきれいだったし、今日は畑の葉っぱが面白い。次はどんな道を歩けるかな」
「分からないから楽しみなんだろうな。でも、次も三人で歩ける場所があったら、遠慮なく言ってくれよ。俺も一緒に歩きたいから」
ルシルがそう答えると、シモンは静かに頷いた。三人はしばらく景色を眺め、それぞれ違うところへ目を向けながらも、同じ時間を過ごした。
◇
帰り道、モモは畑の葉を描いた頁を何度も見返していた。まだ名前の分からない作物ばかりだが、今日の絵には葉の形だけでなく、畝の並びや柵の位置も書き込まれている。昨日の野菜屋の話を聞く前なら、きっと葉の形だけを描いて満足していただろう。
「帰ったら、昨日の市場の絵の隣に今日の道の絵も置きたいな。人がたくさんいる日と、静かな日。どっちもリーヴェルだって分かるように」
「いいな。町の思い出が一枚だけじゃなくなる。市場の絵を見たら昨日の声を思い出すし、今日の絵を見たら箒の音とか、水場の音を思い出せそうだ」
「私も、今日の景色を一つ描いてみましょうか。昨日は道具のことばかり考えていましたが、今朝の水場の屋根が少し印象に残っているんです」
シモンの言葉に、モモは驚いて顔を上げた。以前、丘の上で三人がそれぞれ違う景色を描いたとき、シモンは馬車と二頭を選んでいた。今度は自分から、町の中で見た屋根を描きたいと言っている。
「いいね、シモン君! あの屋根、古い木と新しい木が混じってたよね。そこまで描いたら、直しながら使ってる感じが残るかも」
「そうですね。私が気になったのも、まさにそこです。何度か手を入れながら使ってきたものには、独特の形が残るのでしょう」
ルシルは二人の会話を聞きながら、少し考えた。自分なら何を描くだろう。市場の賑わいも、水場の屋根も、畑の葉も面白かったが、今朝いちばん心に残ったのは、家の前を掃いていた女性の姿かもしれない。
「俺は、あの細い通りを描いてみたいな。家の前に鉢が並んでて、箒の音が聞こえたところ。ああいう道も、旅の途中で覚えておきたい」
「じゃあ、また三人で違う絵になるね。前に丘の上で描いたときみたい!」
モモは嬉しそうに笑った。シモンも穏やかに頷き、三人は宿へ戻ったら少しだけ絵を描く時間を取ろうと決めた。
町の中心へ近づくと、広場の周りには午後の穏やかな人の流れが戻っていた。常設の店から買い物袋を持って出てくる人、家へ帰る途中で知人と立ち話をする人、空の荷車をゆっくり進める人。それぞれの動きは市場の日より控えめだが、町が止まっているわけではない。
宿へ戻る前に、三人は厩舎へもう一度立ち寄った。係の青年から二頭が変わりなく過ごしていると聞き、ルシルはトルクとベルクの首を順番に撫でる。明日は出発を考えていることを伝えると、青年は朝の準備の時間について案内してくれた。
「明日の朝、出る前に馬具を付けるときは声を掛けてください。こちらも区画を空ける準備がありますから」
「ありがとうございます。今夜のうちに荷物をまとめて、朝に慌てないようにします」
シモンは頷き、馬車の保管場所と二頭の飼葉の予定を確認した。出発を決めたからといって、今すぐ旅のことだけを考える必要はない。まだ夕方まで時間があり、今日は今日の景色を楽しむ余裕が残っていた。
◇
宿の部屋へ戻ると、窓から斜めに差し込む光が机の上を明るく照らしていた。モモは旅帳面を開き、昼に描いた籠の修理の絵を見返してから、新しい頁へ細い通りの輪郭を描き始める。ルシルは別の紙を取り出し、シモンも以前の丘の絵を思い出しながら、慎重に鉛筆を持った。
しばらく部屋には紙を擦る音だけが響いた。モモは畑の葉と町の屋根を一枚に収めようとしており、ルシルは鉢の置かれた家の前と、掃き寄せられた落ち葉を描いている。シモンは水場の屋根を支える柱と、色の違う木材を見分けられるよう線を重ねていた。
「……うーん。私の絵、畑の葉っぱが大きくなりすぎちゃった。町の屋根が小さく見えるなあ」
モモは紙を少し離して眺め、困ったように笑った。ルシルは自分の紙を見下ろし、家の前の道が思ったより狭くなっていることに気づく。
「俺も似たようなものだよ。実際はもっと広かった気がするんだけど、描いてるうちに家が大きくなった。でも、あのとき見てたのは家の前の鉢だったから、これでもいいかな」
「そうだね。私も、今日は葉っぱが一番気になってたんだもん。大きく描いたほうが、あとで見たときに思い出せるかもしれない」
シモンは二人の話を聞き、少し考えてから自分の紙を見せた。屋根の形は整っているが、柱の太さは実物と同じか分からない。それでも、古い木と新しい木が混じっていたことは、濃淡の違いで表そうとしている。
「私も正確に描けているとは限りません。ただ、何に目を留めたかは残せそうです。以前なら、見たとおりに描けなければ意味がないと思っていたかもしれませんね」
「今は違う?」
ルシルが尋ねると、シモンは少しだけ笑った。
「ええ。絵を描く目的が、報告するためではなく、私自身が覚えておきたいものを残すためだからでしょう。間違いがあっても、見たものを思い出す手掛かりにはなります」
モモは嬉しそうに頷いた。三人の紙を机に並べると、同じ一日を歩いたはずなのに、そこには違うリーヴェルが描かれている。畑の向こうの屋根、細い通りの鉢植え、水場の古い木材。そのどれもが、今日という日の一部だった。
ルシルは紙を眺めながら、朝の市場が静かになっていた光景を思い返した。昨日の賑わいを知っていたからこそ、今日の箒の音や水を運ぶ足音に気づけたのかもしれない。何かが少ない日にも、その日だけの豊かさがある。
「市場の日に来られてよかったし、その次の日も見られてよかったな。リーヴェルって、昨日だけの町じゃないんだって分かった」
「うん。明日出発したら、もう同じ景色は見られないかもしれないけど、ちゃんと覚えていられそう」
「旅を続ける以上、同じ場所にいつまでも留まることはできません。しかし、見てきたものが消えるわけではありませんからね」
シモンの言葉に、ルシルは静かに頷いた。王位を離れてから、自分には何も残らないのではないかと考えたことがなかったわけではない。けれど今は、持ち歩ける荷物が少なくても、覚えている景色や人との会話が増えていく。
(俺たちの旅って、何かを手に入れるためだけじゃないんだな。見たものを好きになって、また次の場所へ進んでいく。それでいいんだ)
夕食の時間が近づくと、三人は絵を乾いた紙に挟み、折れないようにまとめた。以前、丘で描いた三枚と同じように、今回の絵も大切に保管しておくことにする。
◇
広間では、エッダが夕食の席を整えていた。今夜の料理は豆と野菜を煮込んだ温かな一皿で、昼のパンとは違う香りが漂っている。三人は席へ着き、今日歩いた道の話をしながら食事を始めた。
「今日は広場の北側の道を歩いたんです。家の前に鉢が並んでて、水汲み場もあって、昨日とは全然違う町みたいでした」
モモが話すと、エッダは嬉しそうに頷いた。
「あちらは住んでいる人が多い通りですからね。市場の日はどうしても広場に目が向きますけど、普段の町も見ていただけたならよかったです」
「道を掃いている方にも会いました。毎日の仕事があって、町の景色が保たれているんですね」
ルシルの言葉に、エッダは少し照れたように笑った。
「そんな大げさなものでもありませんよ。自分の家の前が汚れていたら気になりますし、通る人が歩きやすいほうがいいですから。でも、そういうところを見てくださるのは嬉しいですね」
シモンは食事の合間に、明日の朝に出発を考えていることを改めて伝えた。エッダは受付で確認した内容を覚えており、朝食の時間と鍵の返却方法を案内してくれた。
「明日も晴れるといいですね。ただ、街道の先の様子までは私には分かりませんから、無理のないように進んでください」
「はい。町を出る前に道の状態を確かめて、急がず進みます。二日間、ゆっくり過ごせて助かりました」
ルシルが礼を述べると、エッダは穏やかに笑った。三人は夕食を終え、広間を片づける人の邪魔にならないよう部屋へ戻った。
窓の外には、夕暮れのリーヴェルが広がっていた。市場の日ほど多くの灯りが集まっているわけではないが、家々の窓には一つずつ明かりがともり始めている。遠くから聞こえるのは、人の声と、ときどき通る荷車の音だった。
モモは旅帳面を開き、今日の最後の一行を書き加えた。『市場のない日にも、町にはたくさんの音がある』。それから鉛筆を置き、窓の外をしばらく眺める。
「ねえ、明日また馬車に乗ったら、どんな景色が見えるかな。草原みたいに広いところかもしれないし、畑がずっと続くかもしれないね」
「どっちでも楽しみだな。今日みたいに、何でもないと思ってた場所に面白いものがあるかもしれないし」
「次の道がどこへ続くかは、朝に確認しましょう。今夜は荷物を整えて、十分に休むことが先ですね」
シモンはそう言いながらも、地図をすぐに開こうとはしなかった。机の上に置かれた三枚の絵へ目を向け、そこに描かれた水場の屋根をもう一度眺めている。
ルシルはその様子に気づき、何も言わずに微笑んだ。旅の準備を忘れたわけではない。ただ、今日という日を終える前に、自分たちが見たものをもう少し味わっていたいのだろう。
やがて三人は明日の支度を整え、必要なものだけを手元へ残して休む準備を始めた。窓の外では町の音が少しずつ静かになり、リーヴェルで過ごす最後になるかもしれない夜が、穏やかに深まっていく。
ルシルは灯りを落とす前に、机の上の絵をもう一度見た。昨日の市場と、今日の裏道。どちらも誰かの日常であり、三人にとっては初めて出会った景色だった。
(明日、ここを離れても、きっと忘れないな)
そう思うと、町を出ることが寂しいだけの出来事には感じられなかった。ここで過ごした時間を持って、また知らない道へ向かえる。旅を続けることの楽しさは、きっとその繰り返しの中にあるのだ。
窓の向こうで、最後の荷車らしい音が遠ざかっていった。ルシルは静かに目を閉じ、明日の道をまだ知らないまま、今夜は安心して眠ることにした。




