第98話 丘の向こうに広がる草原と、旅人を迎える風の道
朝の光が馬車の窓を淡く染め始めた頃、ルシルは木立を揺らす葉擦れの音で目を覚ました。
昨夜は海を遠くに望む草地で休み、モモとシモンと一緒に夕暮れの景色を描いた。寝台から身体を起こしたルシルは、折り畳み式の机の近くに置かれた紙の包みを見つけ、昨日の出来事を思い出して自然と頬を緩めた。
あの包みの中には、三人が同じ場所で描いた三枚の絵が入っている。モモが描いた広い空と海、ルシルが描いた丘と木立、そしてシモンが描いた馬車と二頭の馬は、昨夜、折り目がつかないように重ねて保管しておいたものだった。
(同じ景色を見ていたのに、あんなに違う絵になるなんてな)
ルシルはまだ静かな馬車の中で、そっと窓の外へ目を向けた。
昨日の夕方には金色だった草地が、今は朝露をまとって薄い銀色に輝いている。低い木立の向こうには丘が連なり、その隙間から覗く海は、朝の光を受けて淡い青色に変わっていた。
遠くから波の音が聞こえるものの、潮凪村にいた頃ほどはっきりしていない。代わりに、草の間を抜ける風と、どこかで鳴く小鳥の声が、この場所の朝を満たしていた。
「……今日もいい天気になりそうだな」
小さく呟いたところで、背後から紙を畳む音が聞こえた。
振り返ると、シモンが黒縁眼鏡を掛け、膝の上の地図を丁寧に折り畳んでいるところだった。すでに身支度を整えているようだったが、いつものように慌ただしく準備を進めているわけではなく、窓から差し込む朝日を時折眺めている。
「おはようございます、ルシル様。よくお休みになれましたか?」
「ああ、ぐっすり眠れたよ。シモンはもう起きてたんだな」
「少し前に目が覚めました。今日の道を確認していましたが、今のところ急いで出発する必要はなさそうです」
シモンはそう答えると、畳んだ地図を机の端へ置いた。
昨日、整備された休憩小屋で水を補給できたため、馬車に積んでいる水には余裕がある。トルクとベルクの体調にも問題はなく、今日の移動は天候と道の状態を見ながら決められる状況だった。
「この先は、しばらく丘が低くなっていくみたいだな」
ルシルが地図へ目を向けると、シモンは頷いた。
「ええ。昨日の道の傾きから考えても、海に近い低地へ向かっているようです。ただし、地図には細かな起伏まで記されていませんから、実際の道を確かめながら進みましょう」
「分かった。じゃあ、今日は丘の向こうに何があるのか楽しみにしておこうかな」
ルシルが笑うと、シモンも穏やかに微笑んだ。
「それもよいと思います。道の安全を確かめるのは私もお手伝いしますから、景色を楽しむ余裕は持っていたいですね」
以前のシモンなら、まず移動距離と所要時間を考えていただろう。
しかし、昨日は自分から絵を描くことに挑戦し、今朝も景色を楽しむという言葉を自然に口にしている。その変化が嬉しくて、ルシルはしばらく彼の横顔を眺めていた。
「……ルシル様?」
「ああ、いや。昨日、シモンが描いた絵を思い出してたんだ」
シモンは少しだけ驚いたように瞬きをした。
「私の絵ですか。あれは、ほとんど馬車の記録のようなものでしたが……」
「それでも、俺は好きだよ。トルクとベルクの姿もちゃんと描いてあったし、シモンが普段どこを見てるのか分かった気がした」
ルシルがそう答えると、シモンは照れたように眼鏡の位置を直した。
「ありがとうございます。……そう言っていただけるのであれば、描いてみてよかったと思います」
二人が顔を見合わせて微笑んだところで、寝台のほうから布の擦れる音がした。
「……んん。二人とも、もう起きてるの?」
眠そうな声とともに、モモがゆっくり身体を起こした。
桃金色の長い髪は寝癖で少し広がっており、緑色の瞳もまだ半分ほどしか開いていない。そんな彼女は二人の姿を見つけると、小さく欠伸をしてから嬉しそうに笑った。
「おはよう、ルシル君、シモン君。今日はどこまで行くの?」
「おはよう、モモ。まだ決めてないよ。道の様子を見ながら、ゆっくり進もうと思ってる」
「そっか。じゃあ、今日は何が見つかるか分からないんだね!」
モモは一気に目を輝かせた。
ルシルは思わず笑い、シモンも小さく肩を揺らした。
「その前に、まずは朝食ですね。モモ嬢、身支度を整えたら馬たちの様子も見に行きましょう」
「うん! 今日もトルクとベルクにおはようって言わなくちゃ!」
モモは元気よく返事をし、寝台から降りた。
朝の静けさに、三人の声が柔らかく重なっていく。
ルシルはその光景を眺めながら、今日もまた、何でもない一日が楽しみになることを嬉しく思った。
◇
馬車の外へ出ると、朝の空気は思っていたよりも冷たかった。
草の先端には細かな露が残り、歩くたびに靴の周りで小さな水滴が散る。昨日の夕方には暖かかった風も、今は丘の陰を通ってくるためか、頬へ触れると少しひんやりと感じられた。
ルシルは黒い外套の前を軽く合わせ、木立の向こうを見渡した。
空には薄い雲がいくつか浮かんでいたが、雨を降らせそうな様子はない。東の空から広がる朝日が草地を照らし、遠くの丘の斜面を少しずつ明るくしていた。
トルクとベルクは、昨夜休ませた場所で落ち着いていた。
栗毛のトルクはルシルの姿を見つけると、期待するように鼻先を伸ばしてくる。濃い灰色のベルクは少し離れた場所で耳を動かし、シモンが近づくのを静かに待っていた。
「おはよう、トルク。今日も元気そうだな」
ルシルが首を撫でると、トルクはその手に鼻先を押しつけた。
その仕草があまりに分かりやすかったので、ルシルは笑ってしまった。
「はいはい、分かってるよ。朝ご飯だろ? ちゃんと用意するから、もう少し待っててくれ」
「ルシル君、トルクって本当にご飯が好きだよね」
隣へやってきたモモが、楽しそうに笑った。
「私もご飯は好きだけど、トルクには負けちゃうかもしれないなあ」
「……モモ嬢がそのようにおっしゃるのは、少々意外ですね」
シモンが穏やかに言うと、モモはすぐに振り返った。
「えっ、どういう意味?」
「いえ、深い意味はありませんよ。ただ、お二人とも食事を楽しみにされていることは、よく存じていますので」
「シモン君、今ちょっと笑ったでしょ!」
モモが頬を膨らませると、シモンは眼鏡を直しながら視線をベルクへ戻した。
ルシルは二人のやり取りを聞きながら、トルクの首を撫で続けた。
こんな何気ない会話も、旅の朝には欠かせないものになっている。
馬たちの脚と蹄を確認し、身体に傷がないかを確かめてから、三人は水と餌を用意した。
ベルクは落ち着いて水を飲み、トルクは餌袋へ何度も視線を向けている。二頭とも食欲は十分で、昨夜の休息によって疲れも取れているようだった。
「今日も問題なさそうですね。昨日は午後に水を補給できましたし、今朝も十分に飲ませられます」
シモンはそう言って、用意した水の量を確かめた。
モモはベルクの首をそっと撫でながら、嬉しそうに頷いた。
「よかったね。今日はどんな道を歩くのかな?」
ベルクは言葉を理解したかのように耳を動かしたが、もちろん返事はしない。
それでもモモは満足そうに笑い、ゆっくり首を撫で続けた。
ルシルはそんな様子を見て、少し離れた丘へ目を向けた。
あの向こうには、まだ見たことのない景色が広がっている。
それがどんな場所なのかを考えるだけで、胸の奥が少し弾んだ。
◇
朝食は、保存していたパンと温かな飲み物、それから簡単に調理した野菜を中心に用意した。
昨夜は豆と海藻を使った具だくさんの汁物を食べたため、今朝は調理に時間をかけず、出発前にゆっくり過ごせるようにしたのである。
モモは折り畳み式の椅子へ腰を下ろし、温かな飲み物を両手で包みながら、目の前の草地を眺めていた。
「朝って、昨日の夕方と全然違う色になるんだね」
彼女がそう言うと、ルシルも顔を上げた。
昨日は夕日を受けて金色に染まっていた草地が、今は柔らかな緑色に戻っている。木立の影も反対側へ伸び、遠くの海は薄い青色に輝いていた。
「本当だな。同じ場所なのに、昨日とは別の景色みたいだ」
「うん。昨日の絵と比べたら、きっと全然違うと思う!」
モモは嬉しそうに笑い、馬車の中にしまってある三枚の絵へ思いを巡らせているようだった。
シモンはパンを手に取りながら、静かに頷いた。
「光の向きが変わるだけでも、景色の印象は大きく変わりますからね。昨日の夕方に描いたものと、今朝描いたものを比べれば、違いがよく分かるかもしれません」
「じゃあ、また描いてみる?」
モモが期待に満ちた表情で尋ねると、シモンは少し考えた。
「そうですね。ただ、今日は道の先も見ておきたいですし、今朝は短い記録だけにしておきましょうか」
「うん、それでもいいよ! じゃあ、今朝の景色は旅帳面に書いておこうっと」
モモはそう言って、食事を終えたあとに書く内容を考え始めた。
ルシルはそんな彼女を眺めながら、少しだけ笑った。
旅帳面には、すでにたくさんの出来事が書き込まれている。
最初の頃は、その日に訪れた場所や食べたものが中心だったように思う。けれど最近は、風の音や草の色、誰かと交わした会話まで、細かく残すようになっていた。
モモにとって、旅の記録は単なる出来事の一覧ではなくなっているのだろう。
「モモ、その旅帳面、いつか全部埋まるんじゃないか?」
ルシルが尋ねると、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! でも、全部埋まったら次の帳面を買えばいいんだよ。そうしたら、旅の思い出がもっと増えるでしょ?」
「そうだな。何冊にもなったら、読み返すのも楽しそうだ」
「でしょ? いつか三人で、最初の頃のことを読み返したいなあ」
モモはそう言いながら、遠くの丘へ目を向けた。
ルシルもその視線を追い、静かに微笑んだ。
(何年か経ってから、今のことを思い出す日が来るのかな)
そのとき、自分たちはどこにいるのだろう。
まだ旅を続けているかもしれないし、どこか気に入った場所で長く過ごしているかもしれない。
今は分からない。
けれど、その未来を楽しみにできることが、ルシルには嬉しかった。
◇
朝食を終え、道具を片づけたあと、三人は出発の準備を整えた。
昨夜描いた絵は紙の包みに戻し、棚の中で折れ曲がらない場所へしまってある。潮凪村で作った貝殻飾りも、布に包んだまま安全な場所へ収められていた。
ルシルは馬車の周囲を一周し、車輪と荷物の状態を確かめた。
シモンは馬具を確認し、モモは外へ出していた道具がすべて片づいているかを見て回る。
三人で確認を終えると、ルシルは御者台へ上がった。
「よし。それじゃあ、今日もよろしくな、トルク、ベルク」
声を掛けると、二頭はゆっくり歩き始めた。
馬車は草地を離れ、昨日まで進んできた道へ戻っていく。
モモは窓から昨夜の休憩場所を振り返り、小さく手を振った。
「またねー!」
その声を聞いて、ルシルは思わず笑った。
「モモは、休んだ場所にもちゃんと挨拶するんだな」
「だって、昨日はここで美味しいご飯を食べたし、三人で絵も描いたでしょ? 楽しかった場所には、ありがとうって言いたくなるんだもん」
ルシルはその言葉を聞き、少しだけ目を細めた。
モモらしい考え方だと思った。
誰かが住んでいる場所でもなく、特別な名前がついているわけでもない。
それでも、そこで過ごした時間が楽しかったなら、感謝したくなる。
「そうだな。俺も、ここで休めてよかったと思うよ」
ルシルはそう言いながら、前方へ視線を戻した。
朝の光を受けた道が、低い丘の間をゆっくりと続いている。
今日もまた、三人の旅が始まった。
◇
午前中の道は、昨日よりもさらに緩やかな起伏が続いていた。
左右に広がる丘は少しずつ低くなり、ところどころ草原のように開けた場所が見えている。道には細かな砂利が混じっていたが、車輪が大きく跳ねるような窪みは少なく、馬車は落ち着いた速度で進んでいた。
ルシルは手綱を握りながら、周囲の景色を眺めた。
右手には遠くの海が見え、左手には背の低い草が一面に広がっている。
昨日までの丘道では、道の両側に斜面が迫っている場所も多かった。けれど今は、空が以前より広く感じられる。
「なんだか、景色が変わってきたな」
ルシルが言うと、モモが窓から顔を覗かせた。
「本当だね! 昨日までは丘の間を歩いてる感じだったけど、今日はもっと遠くまで見えるよ!」
シモンも地図から目を上げ、周囲を確認した。
「地形が少しずつ開けてきたのでしょう。海沿いの低地へ近づいている可能性はありますが、まだ断定はできませんね」
「そっか。でも、こういう景色もいいな」
ルシルは頷き、前方の道へ目を戻した。
遠くには低い草が風に揺れる様子が見えている。
風が吹くたびに草の表面が波のように動き、まるで緑色の海が広がっているようだった。
「ねえ、ルシル君。あれ、海みたいじゃない?」
モモが同じことを考えていたらしく、嬉しそうに声を上げた。
「草が波みたいに揺れてる!」
「俺もそう思ってたところだよ。海は青いけど、こっちは緑色だな」
「うん! 風が吹くと、ずっと向こうまで動いていくんだね!」
モモは窓から身を乗り出しすぎないように気をつけながら、草原を眺め続けた。
シモンもその光景へ目を向け、少しだけ微笑んだ。
「風の通り道になっているのでしょうね。周囲に高い木が少ないので、草の動きがよく見えます」
「じゃあ、あそこは風が強いのかな?」
モモが尋ねると、シモンは少し考えた。
「場所によるでしょう。今いる道は比較的穏やかですが、開けた草地では風を遮るものが少ないですからね」
「そっか。じゃあ、もしあそこへ行くなら、帽子とか飛ばされないようにしないとね!」
モモが笑うと、ルシルも頷いた。
遠くに見える草原は美しかったが、馬車で無理に入り込む必要はない。
道を進みながら眺めるだけでも、十分に楽しめる景色だった。
◇
しばらく進むと、道の脇に低い石の標が現れた。
昨日見つけた湧き水の目印とは違い、こちらには簡単な文字が刻まれている。長い年月を経て角が丸くなっていたものの、近づけば内容を読むことができそうだった。
「シモン、あそこに何か書いてあるみたいだぞ」
ルシルは馬車の速度を落とした。
シモンは窓から石標を確認し、少し考えたあとで頷いた。
「道の案内かもしれませんね。安全な場所へ停められるなら、確認しておきましょう」
三人は道幅が十分にある場所を選び、馬車を端へ寄せた。
ルシルはトルクとベルクを落ち着かせ、シモンと一緒に石標へ近づいた。
モモも馬車から降り、二人の少し後ろを歩いてくる。
石標の表面には、南へ続く道を示す矢印と、短い言葉が刻まれていた。
「……『風渡りの草地』?」
ルシルが読み上げると、モモが嬉しそうに顔を上げた。
「風渡り? なんだか素敵な名前!」
シモンは石標を慎重に確認した。
「この先の草地を指しているようですね。ただ、地名として広く使われているものなのか、旅人向けの呼び名なのかまでは分かりません」
「でも、さっき見た草原にはぴったりだな」
ルシルがそう言うと、モモも何度も頷いた。
「うん! 風が草の上を渡っていくみたいだったもん!」
モモは石標へ近づき、刻まれた文字をじっと見つめた。
長い年月の間に少し擦れているものの、誰かが文字を読みやすいように表面の汚れを払ったらしい跡がある。
「これも、誰かが手入れしてくれてるのかな」
モモが呟くと、シモンは頷いた。
「その可能性はありますね。道標は、旅人にとって大切なものですから。文字が読めなくなれば、道を間違える原因にもなります」
「そうだな。俺たちも、こうして助けられてるんだもんな」
ルシルは石標を眺め、静かに微笑んだ。
昨日の休憩小屋と同じように、ここにも見知らぬ誰かの仕事が残っている。
そのことを思うと、道を歩く時間が少し違って感じられた。
「せっかくだし、旅帳面に書いておこうかな!」
モモはそう言って、馬車へ戻ると帳面を取り出した。
石標の文字を確かめながら、『風渡りの草地』と丁寧に書き込む。
その横には、風に揺れる草の絵を小さく添えた。
「できた! これで、今日の最初の発見だね!」
ルシルは嬉しそうに笑った。
「そうだな。じゃあ、その草地を眺めながら、もう少し進んでみようか」
三人は馬車へ戻り、再び出発した。
◇
道は石標を過ぎたあたりから、少しずつ開けた草地へ近づいていった。
左右に続いていた丘は低くなり、遠くまで見渡せる場所が増えている。草の間には小さな白い花や淡い紫色の花が点々と咲き、風が吹くたびに細い茎を揺らしていた。
モモは窓際へ座り、旅帳面を膝の上に置いていた。
彼女は花の色を確かめたり、草が揺れる方向を眺めたりしながら、時折小さな声を上げている。
「ねえ、ルシル君。あっちの草、こっちより背が高いよ!」
ルシルは前方の安全を確認してから、少しだけ視線を向けた。
確かに、道の左手に広がる草地では、場所によって草の高さが違っている。
背の低い草が広がる場所もあれば、膝ほどの高さまで伸びた草がまとまって生えている場所もあった。
「本当だ。土の違いとか、日当たりの違いなのかな」
「そうかもしれませんね。水分の多さによっても育ち方は変わりますし、同じ草原でも環境は一様ではありませんから」
シモンが答えると、モモは興味深そうに頷いた。
「そっか。じゃあ、同じ緑色に見えても、いろんな違いがあるんだね」
モモはそう言いながら、旅帳面へ短い言葉を書き込んだ。
ルシルはその様子を見て、少しだけ笑った。
以前なら、ただ広い草地だと思って通り過ぎていたかもしれない。
けれど、モモと一緒に眺めていると、草の高さや花の色、風の動きまで気になってくる。
それは、旅を始めてから少しずつ増えてきた楽しみの一つだった。
やがて、道の先に小さな木立が見えてきた。
その周囲には平らな草地が広がっており、馬車を停められそうな場所もある。
「そろそろ昼休みにしようか」
ルシルが言うと、モモはすぐに顔を上げた。
「賛成! ちょうどお腹が空いてきたところ!」
シモンは小さく笑い、地図を畳んだ。
「そうですね。午前中は順調に進めましたし、あの木立の近くなら日差しも避けられそうです。ただし、地面の状態を確認してから停めましょう」
「分かった。じゃあ、少し近づいてみるよ」
ルシルはトルクとベルクへ声を掛け、馬車をゆっくり進ませた。
◇
木立の近くは、思っていた以上に静かな場所だった。
草地は広く、地面も比較的乾いている。木々の枝は高い位置で広がっており、少し離れた場所に馬車を停めれば、落ち枝の心配も少なそうだった。
三人は周囲を確認し、そこで昼休みを取ることにした。
トルクとベルクを休ませ、水を与えたあと、ルシルたちは木陰へ机と椅子を運んだ。
今日の昼食は、保存していたパンと簡単な具材を組み合わせたものだった。
朝食からそれほど長い時間が経っているわけではなかったが、外の空気の中で食事をすると、自然と食欲が湧いてくる。
「いただきます!」
モモは嬉しそうにパンを手に取り、一口食べた。
その表情を見て、ルシルも笑った。
「モモは本当に美味しそうに食べるな」
「だって、美味しいんだもん! それに、今日は草原を見ながら食べられるでしょ?」
モモはそう言って、木立の向こうへ広がる草地を指した。
風が吹くたびに草の表面が揺れ、遠くまで緑色の波が続いている。
「確かに、いい景色だな」
ルシルも頷き、パンを一口食べた。
シモンは二人の様子を眺めながら、穏やかに微笑んでいた。
「こうして景色を楽しみながら食事をするのも、旅ならではですね。宿でいただく料理とはまた違ったよさがあります」
「うん! どっちも好き!」
モモは迷わず答えた。
ルシルは思わず笑い、シモンも小さく肩を揺らした。
食事の間、三人は午前中に見つけた石標のことを話した。
『風渡りの草地』という名前は、モモが特に気に入ったようだった。
「ねえ、どうして風渡りっていう名前になったんだろうね」
モモが尋ねると、シモンは少し考えた。
「風がよく通る場所だから、という可能性はありますね。ただ、由来を知る人に聞かない限り、正確なことは分かりません」
「そっか。でも、私は好きだなあ。風が草の上を歩いてるみたいで」
「歩いてる、か」
ルシルはその言葉を繰り返し、遠くの草原を眺めた。
風が吹くたびに草が順番に倒れ、少し遅れて元の姿へ戻っていく。
確かに、目に見えない何かが草の上を進んでいるようにも見えた。
「モモの言うとおりかもしれないな。風が通った場所だけ、草が動いてるんだ」
「でしょ? だから、風が歩いてるみたいに見えるんだよ!」
モモは嬉しそうに笑った。
シモンも草原へ目を向け、しばらくその動きを眺めていた。
「……なるほど。そういう見方もあるのですね」
彼は静かに呟いた。
風の向きや強さを確認するために草の動きを見ることは、これまでにもあった。
しかし、風が歩いているようだと考えたことはなかった。
モモの言葉を聞いてから眺めると、同じ景色が少し違って見える。
(物事の見方は、一つではないのですね)
シモンは小さく微笑み、残っていたパンを口へ運んだ。
◇
昼食を終えたあと、三人はしばらく木陰で休んだ。
モモは旅帳面を開き、午前中に見た草原の絵を描き始めた。
ルシルはその隣で、風に揺れる草の動きを眺めていた。
昨日は三人で絵を描いたが、今日はあえて紙を広げず、景色を目に焼きつけておこうと思ったのである。
シモンは少し離れた場所で馬たちの様子を確認し、そのあと二人のもとへ戻ってきた。
「トルクもベルクも落ち着いています。午後も無理のない速度で進めば、問題なさそうですね」
「ありがとう、シモン。じゃあ、もう少し休んでから出発しようか」
ルシルが答えると、シモンは頷いた。
モモは筆を動かしながら、ふと顔を上げた。
「ねえ、二人とも。昨日描いた絵、いつか三人で並べて飾れたらいいね」
ルシルは少し驚いたように瞬きをした。
「飾る?」
「うん! 今は馬車の中にしまってあるけど、いつかどこかでゆっくり過ごすことがあったら、壁に並べてみたいなって思ったの」
モモは嬉しそうに笑い、再び紙へ目を落とした。
「そうしたら、あの日はこんな景色を見たんだねって、いつでも思い出せるでしょ?」
ルシルはその言葉を聞き、少しだけ考えた。
今の自分たちには、決まった家がない。
馬車が生活の中心であり、気に入った場所があれば立ち寄り、また次の道へ進んでいく。
それでも、いつかどこかで長く過ごすことがあるかもしれない。
そのとき、旅の途中で描いた絵を並べて飾るのは、きっと楽しいだろう。
「いいな。俺も、そういうのは好きだよ」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに顔を上げた。
「本当?」
「ああ。三人で描いた絵を飾って、あのときはこんなことがあったなって話すのも楽しそうだ」
シモンも静かに頷いた。
「そうですね。旅の記録を残しておくのは、後から振り返るときにも役立ちます。絵なら、文字だけでは伝わらないものも残せるでしょう」
「じゃあ、これからもいっぱい描こうね!」
モモは満足そうに笑い、旅帳面へ筆を走らせた。
ルシルはそんな彼女を眺めながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
王城を離れたとき、未来について考えることは、どこか不安でもあった。
けれど今は、まだ決まっていない未来を想像することが楽しい。
その中には、いつもモモとシモンの姿がある。
(……本当に、いい仲間に出会えたな)
ルシルは静かに微笑み、風に揺れる草原へ目を向けた。
◇
午後の道は、草原の縁をなぞるように続いていた。
左手には緩やかな丘があり、右手には遠くの海が見えている。
道幅は十分にあったが、ところどころ細かな石が混じっているため、ルシルは馬車の速度を上げすぎないようにしていた。
トルクとベルクは落ち着いた歩調で進み、車輪も大きく揺れることなく地面を転がっている。
モモは窓際へ座り、昼に描いた草原の絵を眺めていた。
「ねえ、ルシル君。さっきの草原、もう少し近くで見られる場所があったらいいね」
「そうだな。でも、馬車が入れる道があるか分からないし、無理に草の中へ入るのはやめておこう」
「うん。ちゃんと道があったら、ちょっと歩いてみたいな」
モモは素直に頷いた。
シモンは二人の会話を聞きながら、地図へ目を向けた。
「この先も、しばらく草地が続くようです。もし安全に歩ける場所があれば、短い散策をするのもよいでしょう。ただし、馬たちを休ませる場所と、戻る時間は考えておきたいですね」
「分かった。じゃあ、いい場所が見つかったら相談しよう」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに笑った。
しばらく進むと、道の左手に低い木の柵が見えてきた。
柵は道を塞ぐものではなく、草地との境目に沿って短く設けられている。
その先には、草が少し低くなった場所があり、人が歩いたような細い踏み跡が続いていた。
「……あそこ、歩けそうじゃない?」
モモが声を上げた。
ルシルは馬車の速度を落とし、周囲を確認した。
踏み跡は草原の奥へ深く続いているわけではなく、低い丘の手前で緩やかに曲がっているようだった。
ただ、馬車を停められる場所があるかどうかは、まだ分からない。
「シモン、どう思う?」
ルシルが尋ねると、シモンは窓から外を見た。
「歩くための道のようには見えますね。ただ、誰が使っているのか分かりませんし、草地の中へ無理に入る必要はありません。まずは停車できる場所があるか確認しましょう」
三人は周囲を見回し、道の脇に少し広くなった場所があることに気づいた。
地面は比較的平らで、馬車を停めても通行の邪魔にはならなさそうだった。
ルシルはそこへ馬車を寄せ、トルクとベルクを落ち着かせた。
「少しだけ、様子を見てみようか」
ルシルが言うと、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! でも、危なそうだったらすぐ戻ってこようね!」
シモンはその言葉を聞き、穏やかに微笑んだ。
「ええ。その判断ができるなら、短い散策もよいでしょう」
三人は相談し、まずはルシルとモモが入口付近の様子を確かめ、シモンが馬たちのそばで待つことにした。
◇
草地へ続く踏み跡は、思っていたよりもしっかりしていた。
人が何度も歩いたためか、中央の草が少し低くなり、足元の土が見えている場所もある。
ルシルは先に立って歩き、モモがその少し後ろをついていった。
風は道にいたときよりも少し強く、二人の外套を柔らかく揺らしている。
「わあ……近くで見ると、草がいっぱいだね!」
モモは嬉しそうに声を上げた。
目の前には、背の低い草と小さな花が広がっている。
遠くから眺めたときには一面の緑色に見えた草原も、近づいてみると、葉の形や色が少しずつ違っていた。
ルシルは足元を確かめながら、周囲を見回した。
「本当だな。さっきまで、全部同じ草に見えてたよ」
「うん! でも、よく見ると全然違うね。こっちは葉っぱが細いし、あっちは少し丸い形をしてる」
モモはしゃがみ込み、草の間に咲いている小さな花を眺めた。
花びらは淡い紫色で、中心に近い部分だけ少し濃い色になっている。
「かわいい……。この花、初めて見るかも」
モモはそう呟き、そっと顔を近づけた。
ルシルも隣へしゃがみ込み、花の形を確かめた。
「本当だ。昨日見た黄色い花とも違うな」
「うん。葉っぱの形も違うし、咲いてる場所も少し違うみたい」
モモは花へ手を伸ばしかけたが、摘まずにそのまま眺めることにした。
旅帳面へ絵を描けば、花を持ち帰らなくても思い出を残せる。
ルシルはそんな彼女の様子を見て、少しだけ微笑んだ。
「描いてみるか?」
「うん! でも、ここで長く描いてたらシモン君を待たせちゃうから、形だけ覚えておこうかな」
モモはそう言って、花の形をじっと見つめた。
ルシルも頷き、周囲をもう一度確認した。
踏み跡は低い丘の手前まで続いているが、その先は少し見えにくくなっている。
ここから先へ進む必要はないだろう。
「そろそろ戻ろうか。シモンも待ってるし」
「うん。ちょっとだけだったけど、楽しかったね!」
モモは嬉しそうに笑い、ルシルと一緒に来た道を引き返した。
草原を渡る風が、二人の背中を柔らかく押していた。
◇
馬車へ戻ると、シモンはトルクとベルクのそばで待っていた。
二人の姿を見つけると、安心したように微笑んだ。
「おかえりなさい。どうでしたか?」
「すごくきれいだったよ!」
モモは嬉しそうに答え、先ほど見つけた花のことを話し始めた。
淡い紫色の花びらと、少し濃い色の中心。
葉の形や、草の間に隠れるように咲いていたことまで、彼女は丁寧に説明した。
シモンはその話を聞きながら、穏やかに頷いていた。
「なるほど。近づいてみると、遠くからでは分からないものが見つかるのですね」
「うん! 今度はシモン君も一緒に見られたらいいな」
モモがそう言うと、シモンは少し考えたあとで微笑んだ。
「そうですね。馬たちを安全に休ませられる場所であれば、次は私もご一緒したいと思います」
ルシルも頷いた。
「じゃあ、次にいい場所が見つかったら、三人で歩こう」
「うん、約束!」
モモは嬉しそうに笑った。
三人は馬車の周囲を確認し、再び出発の準備を整えた。
ルシルは御者台へ上がり、トルクとベルクへ声を掛ける。
馬車はゆっくりと動き始め、草原の縁をなぞるように進んでいった。
◇
午後の光が少しずつ柔らかくなる頃、道の先に低い丘が見えてきた。
その丘はこれまでのものよりもなだらかで、斜面には背の低い草が一面に広がっている。
ルシルは手綱を握りながら、丘の向こうへ続く道を眺めた。
「今日は、あの丘を越えたあたりで休める場所を探そうか」
シモンは地図を確認し、頷いた。
「そうですね。まだ日も高いですし、馬たちの様子も落ち着いています。ただし、丘の向こうの地形は見えていませんから、無理に進まず、適した場所があれば早めに停まりましょう」
「分かった。じゃあ、ゆっくり進もう」
ルシルは頷き、馬車の速度を少し落とした。
モモは窓から丘を眺め、楽しそうに微笑んだ。
「ねえ、あの向こうには何があるんだろうね」
「さあな。でも、きっと何か新しい景色が見えるんじゃないか?」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! 楽しみ!」
馬車は緩やかな坂道へ差しかかった。
トルクとベルクは落ち着いた歩調で進み、車輪が砂利を踏む音が静かに響いている。
ルシルは二頭の様子を確かめながら、無理のない速度を保った。
やがて坂の上へ近づくと、前方の景色が少しずつ開けてきた。
ルシルは思わず息を呑んだ。
丘の向こうには、広い草地が続いていた。
その先には、遠くの海が見えている。
低い丘と草原、そして海が重なる景色は、これまで見てきたものとは少し違っていた。
「……すごいな」
ルシルが小さく呟くと、モモも窓から顔を覗かせた。
「わあ……!」
彼女はしばらく言葉を失い、目の前の景色を見つめていた。
シモンも地図から目を上げ、静かに息を吐いた。
「これは……見事な景色ですね」
三人はしばらく何も言わず、丘の上から広がる景色を眺めていた。
風が草原を渡り、遠くの海が夕方の光を受けて輝いている。
その光景は、旅を続けてきた三人への小さな贈り物のようだった。
◇
丘を下り始める前に、ルシルは馬車を安全な場所へ停めた。
道の脇には少し広くなった草地があり、短い休憩を取るには十分な場所だった。
三人は馬車から降り、丘の上から広がる景色を改めて眺めた。
モモは風に髪を揺らしながら、嬉しそうに笑っている。
「ねえ、ルシル君。今日もすごくいい景色が見られたね!」
「ああ。朝はあんなに丘の間を進んでたのに、こんな場所へ出るなんて思わなかったよ」
ルシルは頷き、遠くの海へ目を向けた。
シモンも二人の隣へ立ち、穏やかに微笑んだ。
「道を進んでみなければ分からないものですね。地図では地形の大まかな様子しか分かりませんが、実際に見ると、こうして印象が変わります」
「うん。だから旅って楽しいんだね!」
モモは嬉しそうに答えた。
ルシルはその言葉を聞き、静かに頷いた。
王位を手放したとき、彼が望んでいたのは自由だった。
誰かに決められた道ではなく、自分の意思で進む道を選びたかった。
けれど、今はそれだけではない。
自分が選んだ道の先に、仲間と一緒に見つけられる景色がある。
そのことが、何よりも嬉しかった。
(まだまだ、知らない場所がたくさんあるんだな)
ルシルは穏やかに微笑んだ。
モモは旅帳面を取り出し、目の前の景色を短い言葉で書き留めている。
シモンは丘の向こうへ続く道を確認し、夕方の休憩場所を探すために地形を眺めていた。
三人はそれぞれ違うことを考えている。
それでも、同じ景色を見て、同じ旅を楽しんでいることに変わりはなかった。
「さて、そろそろ行こうか」
ルシルが声を掛けると、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! 今日の続きも楽しみだね!」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「ええ。ただし、下り坂ですから慎重に進みましょう。景色を楽しむのは、安全に停めてからでも遅くありません」
「分かってるよ、シモン」
ルシルは笑って答え、馬車へ戻った。
トルクとベルクへ声を掛け、手綱を握る。
馬車はゆっくりと丘を下り始めた。
その先には、風に揺れる広い草原と、夕日に輝く海が続いている。
ルシルは前方へ目を向けながら、胸の奥に広がる穏やかな期待を感じていた。
今日もまた、知らなかった景色を一つ見つけた。
明日は、どんな場所へ辿り着くのだろう。
そんなことを考えるだけで、旅を続けることが楽しみになった。
馬車は三人と二頭の馬を乗せ、夕方の風が吹く道をゆっくり進んでいく。
その先に何が待っているのかは、まだ分からない。
けれど、ルシルはもう、そのことを不安には思わなかった。
隣にはモモがいて、シモンがいる。
そして、自分たちで選んだ道が、どこまでも続いている。
それだけで、十分だった。




