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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第97話 夕暮れの草地で、三人が見つけた旅の楽しみ方

 海から吹いてくる風が、昼間よりも少しだけ涼しくなっていた。


 ルシルたちの馬車が停まったのは、街道から少し離れた、低い木立に囲まれた草地だった。西へ傾き始めた太陽が丘の斜面を柔らかな金色に染め、木々の間からは、遠くに広がる海が細く見えている。


 馬車を停めたばかりのルシルは、御者台から降りると、まず周囲の地面を確かめた。昨日の休憩場所と違って石壁はなかったが、草地には大きな窪みもなく、車輪を安定させるには十分な広さがあった。


「ここなら、今夜もゆっくり休めそうだな。道からも少し離れてるし、風もそれほど強くないみたいだ」


 ルシルがそう言うと、馬車の横へ降りてきたシモンが、木立の枝と地面の状態を順番に確認した。


「そうですね。ただ、木の真下は避けておきましょう。夜の間に風向きが変わる可能性もありますし、枝が落ちてくるような場所は選ばないほうが安心です」


「分かった。じゃあ、もう少し手前に停め直したほうがいいかな?」


「いえ、今の位置で問題ありません。木立との距離も十分にありますし、車輪を固定すれば大丈夫でしょう」


 シモンの返事を聞いて、ルシルはほっとしたように笑った。


 旅を始めたばかりの頃は、馬車を停める場所を選ぶだけでも、ほとんどシモンに頼りきりだった。今でも彼の知識には助けられているが、最近は自分でも地面や風向きを確認し、何が必要なのかを考えられるようになっている。


(少しずつだけど、俺も旅に慣れてきたんだな)


 そう思うと、胸の奥に小さな満足感が広がった。


 もちろん、何もかも一人でできるようになったわけではない。けれど、最初から完璧にできなくても、教えてもらいながら覚えていけばいいのだと、今は自然に思えるようになっていた。


「ルシル君、私も何か手伝うよ!」


 馬車の窓から顔を出したモモが、楽しそうに声を掛けてきた。


 長い桃金色の髪が夕方の風に揺れ、その先端が頬へ触れる。彼女は片手で髪を押さえながら、もう片方の手に旅帳面を持っていた。


「ありがとう、モモ。じゃあ、先に外へ出しておく荷物をお願いしてもいいか? 俺はトルクとベルクを休ませる準備をするから」


「うん、任せて! 今日は温かい夕ご飯にしたいし、早めに準備しておこうね!」


 モモは元気よく頷くと、旅帳面を馬車の棚へ戻し、必要な道具を確認し始めた。


 シモンはその様子を見て、眼鏡の位置を直した。


「モモ嬢、調理道具を出すのは構いませんが、まずは馬車を完全に固定してからにしてくださいね。揺れている間に棚を開けると、物が落ちるかもしれませんから」


「分かってるよ、シモン君。私だって、前よりちゃんと気をつけるようになったんだから!」


「ええ、それは存じています。ただ、確認することも私の仕事のようなものですので」


「もう、そういうところは全然変わらないんだから!」


 少しだけ頬を膨らませるモモを見て、ルシルは思わず笑ってしまった。


 シモンも困ったような顔をしていたが、その口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。


 以前なら、モモにそう言われても、彼は真面目な表情のまま注意を続けていただろう。今では必要なことを伝えたあと、相手がどう受け止めたのかまで気に掛ける余裕が生まれていた。


 ルシルはそんな二人の様子を眺めながら、トルクとベルクのもとへ向かった。


     ◇


 栗毛のトルクは、馬具を外してもらえると分かったのか、ルシルが近づくなり嬉しそうに鼻を鳴らした。


 一方、濃い灰色のベルクは落ち着いた様子で立っており、シモンが首へ手を添えると、静かに耳を動かした。


「今日もお疲れさま。午前中は丘の道を歩いたし、午後も結構進んだからな」


 ルシルはトルクの首を撫でながら、馬具の留め具を慎重に外していった。


 朝から歩き続けていたわけではなく、途中で何度も休憩を挟んでいる。それでも、二頭が自分たちの旅を支えてくれていることに変わりはなかった。


 シモンはベルクの脚を確認し、蹄の周囲に小石が挟まっていないかを確かめていた。以前に整えた滑り止め付きの蹄鉄も問題なく、歩き方に不自然なところは見られない。


「二頭とも、今日の移動による異常はなさそうですね。水も午後に補給できましたし、今夜は十分に休ませられるでしょう」


「よかった。午前中に見つけた湧き水は使えなかったけど、あの休憩小屋があって助かったな」


「ええ。道沿いに整備された設備があるのは、ありがたいことです。特に馬車で旅をする者にとって、水場の位置は重要ですから」


 ルシルは頷きながら、トルクの背中をゆっくり撫でた。


 王城で暮らしていた頃、馬の世話をする人々の姿を見たことはあった。けれど、実際に自分で世話をしてみると、食事や水だけでなく、脚の状態や疲れ具合、休ませる場所まで考えなければならないのだと分かる。


 馬車が進むことを当たり前だと思っていた自分が、少し恥ずかしくもあった。


「シモン、こういうことって、知識として覚えるのと実際にやるのじゃ、全然違うんだな」


 ルシルがそう言うと、シモンはベルクの首から手を離し、彼へ目を向けた。


「そうですね。私も書物で学んだだけでは分からなかったことが、旅をする中でいくつもありました。もっとも、ルシル様は以前から学ぶことに熱心でいらっしゃいましたから、経験が加われば覚えるのも早いのでしょう」


「そうかな。でも、最初の頃はシモンに教えてもらってばっかりだったぞ?」


「今でも、私が教わることはありますよ」


 思いがけない返事に、ルシルは目を瞬かせた。


「俺から?」


「ええ。たとえば、知らない場所を見つけたときに、まず面白そうだと感じることです。私はどうしても危険や不便を先に考えてしまいますが、ルシル様はその場所に何があるのかを知ろうとなさるでしょう」


 シモンは少し照れたように眼鏡を直した。


「もちろん、安全の確認は必要です。しかし、危険がないと分かってからも、私だけなら通り過ぎてしまうものがあるのだと、最近は感じています」


 ルシルはすぐには返事をしなかった。


 自分がシモンに何かを教えているなど、考えたこともなかったからだ。


 それでも、シモンが冗談で言っているのではないことは、穏やかな表情から伝わってきた。


「……そっか。だったら、これからもいろんなものを一緒に見つけたいな」


「ええ。私も、そう思います」


 二人が顔を見合わせて微笑んだところで、馬車のほうからモモの声が響いた。


「二人ともー! 準備できたら、ちょっとこっちに来てくれる?」


 振り返ると、モモは折り畳み式の机を前に、何やら真剣な顔をしていた。


 その隣には調理道具と食材が並べられている。


「どうしたんだろう?」


「おそらく、夕食について相談したいのでしょうね」


 シモンの予想に、ルシルは笑って頷いた。


「それなら、急いで行かないとな」


 二人は馬たちが落ち着いていることを確かめてから、モモのもとへ向かった。


     ◇


 机の上には、保存していた野菜と乾燥させた豆、それから青波で購入した乾燥海藻が並んでいた。


 潮凪村の朝市で買い足した厚みのある乾燥海藻は、まだ十分に残っている。袋を開けると、かすかに海の匂いが漂い、ルシルは青波の市場で見た賑やかな光景を思い出した。


「ねえ、今日はこれを使ってみない?」


 モモが指さしたのは、その乾燥海藻だった。


「昨日も汁物を作ったけど、今日はもう少し具を増やして、ちゃんとした夕ご飯にしたいんだ。豆もあるし、野菜も残ってるでしょ?」


「いいな。海藻を入れたら、また違う味になりそうだ」


 ルシルが答えると、モモは嬉しそうに頷いた。


「でしょ? それに、青波を離れてからも海の味がするって、なんだか楽しいと思わない?」


 シモンは食材を確認し、少し考えた。


「悪くありませんね。ただ、乾燥海藻は戻すと量が増えますから、最初から入れすぎないようにしましょう。豆についても、調理に時間がかかるものと、すでに下処理してあるものを分けておいたほうがよさそうです」


「うん! そこはシモン君にお願いしてもいい?」


「もちろんです。ですが、モモ嬢も一緒に確認してくださいね。次に作るとき、量の目安が分かるようになりますから」


「分かった! 今日はちゃんと覚えるよ!」


 モモは張り切った様子で袖をまくった。


 ルシルはその姿を見ながら、調理に使う水の準備を始めた。


 午後に休憩小屋で汲んだ水は、飲用に使う場合は煮沸するよう注意書きがあったため、ほかの水と区別してある。今夜の調理ではその水を十分に沸かして使うことにし、シモンと確認しながら容器を取り出した。


「そういえば、今日の水場には誰もいなかったな」


 ルシルが鍋へ水を移しながら言うと、モモが顔を上げた。


「うん。でも、ちゃんと手入れされてる感じだったよね。長椅子も壊れてなかったし、水槽も使えたし」


「誰が管理しているかまでは分かりませんでしたが、定期的に利用されているのでしょう。道を使う人々にとって、大切な場所なのだと思います」


 シモンはそう答え、火を起こす場所を確認した。


 木立の近くではあるものの、枝の下を避け、周囲の乾いた草を片づければ安全に調理できる場所があった。三人は使う範囲を整え、火の扱いに注意しながら夕食の準備を進めていく。


 鍋の水が温まり始めると、モモは野菜を切り、ルシルは豆の状態を確かめた。


 シモンは二人の手元を見ながら、必要なときだけ声を掛けている。


 以前の彼なら、効率を優先して自分で多くの作業を引き受けていたかもしれない。けれど今は、多少時間がかかっても三人で作ることに意味があると感じていた。


「ルシル君、その野菜、もう少し小さく切ったほうが食べやすいかな?」


 モモが尋ねると、ルシルは自分の切った野菜と鍋の大きさを見比べた。


「そうだな。煮える時間も揃えたいし、もう少し小さくしてみるよ。モモのほうは、ずいぶん上手になったな」


「えへへ。だって、最近はいっぱいお手伝いしてるもん!」


「ええ。以前より包丁の扱いも落ち着いていますね。ただし、褒められたからといって手元から目を離してはいけませんよ」


「もう、シモン君ったら!」


 モモはそう言いながらも、きちんと手元へ視線を戻した。


 ルシルはその様子を見て笑い、野菜を切る作業を続けた。


 夕方の草地には、包丁がまな板へ触れる小さな音と、鍋の中で水が温まっていく音が重なっていた。


 やがて野菜と豆が煮え始めると、シモンは戻しておいた海藻を加えた。


 鍋から立ち上る湯気には、野菜の甘い香りと、かすかな磯の匂いが混じっている。


「わあ……いい匂い!」


 モモが鍋を覗き込み、嬉しそうに声を上げた。


「まだ味を整えている途中ですよ。熱いですから、あまり顔を近づけないでくださいね」


「分かってるってば。でも、すごく美味しそうなんだもん!」


 ルシルも鍋から漂う香りを確かめ、思わず頬を緩めた。


「確かに、今日はいつもより少し豪華な感じがするな」


「具材が多いからでしょうね。保存食も、組み合わせ方によっては十分に楽しめるものです」


 シモンはそう答え、味を確かめたあと、少しだけ調味料を加えた。


 モモはその様子をじっと見つめ、何をどれくらい入れたのかを覚えようとしている。


 ルシルは二人の姿を眺めながら、王城で食べていた料理を思い出した。


 あの頃は、毎日の食事が決まった時間に用意され、食卓には手間のかかった料理が並んでいた。もちろん美味しかったし、料理を作ってくれる人々にも感謝していたつもりだった。


 けれど、こうして自分たちで食材を選び、火加減を確かめながら作っていると、一皿の料理が出来上がるまでに、どれほど多くの手間がかかっているのかを実感する。


(あの頃の俺は、まだ知らないことがたくさんあったんだな)


 ルシルは静かに息を吐いた。


 それは後悔というよりも、これから覚えていけることがまだ多く残っているのだという、前向きな気持ちに近かった。


     ◇


 夕食が出来上がる頃には、太陽が丘の向こうへ近づいていた。


 草地を照らしていた金色の光は少しずつ赤みを帯び、木立の影が長く伸びている。遠くの海も昼間とは違う色に変わり、穏やかな波の上に夕日が細く反射していた。


 三人は机を囲み、それぞれ温かな汁物を受け取った。


 野菜と豆がたっぷり入った汁には、柔らかく戻した海藻が混じっている。保存していたパンも添えられ、簡単ではあるものの、十分に満足できそうな夕食になっていた。


「いただきます!」


 モモは嬉しそうに声を上げ、まずは汁を一口飲んだ。


 熱さを確かめながらゆっくり味わうと、その表情がみるみる明るくなる。


「美味しい! 海藻の味がちゃんとするのに、野菜とも合ってる!」


「本当だ。豆も柔らかいし、食べやすいな」


 ルシルも頷き、もう一口味わった。


 青波で食べた料理とも、潮凪村の宿で食べた汁物とも違っている。それでも、海沿いを旅してきた自分たちらしい味だと思うと、自然に笑みが浮かんだ。


「うまく仕上がりましたね。海藻の量も、これくらいならちょうどよさそうです」


 シモンはそう言いながら、自分の器へ目を落とした。


 モモはその言葉を聞いて、嬉しそうに身を乗り出した。


「じゃあ、また作ろうね! 今度は違う野菜を入れても美味しいかもしれないし、魚が手に入ったら一緒に煮てもいいよね!」


「それもよさそうだな。海の近くなら、また新しい魚に出会えるかもしれない」


 ルシルが答えると、モモは早くも次の食事を想像しているようだった。


 シモンはそんな二人を見ながら、静かに笑った。


「食材の組み合わせを考えるのは結構ですが、まずは今夜の食事をゆっくり楽しみましょう。次の町で何が手に入るかは、着いてからのお楽しみです」


「はーい!」


 モモは元気よく返事をし、再び器へ目を向けた。


 食事の間、三人は今日見つけた水場のことや、道端に咲いていた黄色い花のことを話した。


 特別な事件が起きたわけではない。


 危険な魔物と戦ったわけでも、誰かを助けるために急いで走ったわけでもなかった。


 それでも、今日一日を振り返ると、話したいことはいくつも見つかった。


「そういえば、朝の貝殻飾り、シモンのだけ最後に鳴ったよな」


 ルシルが思い出したように言うと、モモが嬉しそうに顔を上げた。


「そうそう! 私のが最初で、ルシル君のが次で、シモン君のが最後だった!」


「……その件は、もう十分にお話ししたと思うのですが」


 シモンは少し困ったように眼鏡を直した。


 しかし、モモは楽しそうに笑いながら首を振る。


「だって、面白かったんだもん! シモン君の貝殻、すごくきれいに作ってあるのに、なかなか鳴らないところがシモン君らしいんだよね」


「それは褒めてくださっているのでしょうか?」


「もちろん!」


 迷いのない返事に、シモンはしばらく言葉を失っていた。


 ルシルは思わず吹き出し、モモもつられるように笑い始めた。


 シモンは二人を見比べたあと、諦めたように肩の力を抜いた。


「……まあ、気に入っていただけたのであれば、それでよしとしましょう」


 そう言いながらも、彼の表情は穏やかだった。


 ルシルは笑いを収めると、夕暮れの空へ目を向けた。


 王城にいた頃、食事の時間は決して気楽なものばかりではなかった。


 礼儀作法に気を配り、相手の立場を考え、言葉を選ぶ必要があった。何気ない会話の中にも、時には政治や家同士の思惑が入り込んでいた。


 今は、仲間が作った貝殻飾りの音について笑っている。


 それだけのことなのに、胸の奥が温かくなった。


(俺が欲しかったのは、こういう時間だったのかもしれないな)


 ルシルは器を両手で包み、残っていた温かな汁をゆっくり味わった。


     ◇


 夕食を終えたあと、三人は使った道具を片づけ、火の始末を丁寧に済ませた。


 空はすでに薄紫色へ変わり始めており、海の向こうには夕日の名残が細く残っている。木立の葉が風に擦れる音も、昼間より少しだけはっきり聞こえるようになっていた。


 モモは馬車の近くへ戻ると、棚から旅帳面を取り出した。


「ねえ、今日はまだ少し明るいし、ここで絵を描いてもいいかな?」


 ルシルは彼女が指さした方向を見た。


 そこには低い丘と木立があり、その間から海が見えている。夕方の光を受けた草地は柔らかな色に染まり、昼間とは違った雰囲気を作り出していた。


「いいな。俺も描いてみようかな」


「本当? じゃあ、一緒に描こうよ!」


 モモは嬉しそうに笑い、机の上へ旅帳面を広げた。


 ルシルも紙と筆を取り出し、彼女の隣へ腰を下ろす。


 シモンは片づけを終えてから二人のもとへ戻り、しばらくその様子を眺めていた。


「今日は何を描かれるのですか?」


 彼が尋ねると、モモは筆の先で木立を示した。


「この景色! 夕方の空と、木と、向こうに見える海を描きたいんだ」


「なるほど。確かに、今の時間ならではの色ですね」


 シモンはそう答え、少し離れた場所へ視線を向けた。


 ルシルはその様子を見て、ふと朝の会話を思い出した。


「そうだ、シモン。今朝、モモが言ってただろ? 今度はシモンも絵を描いてみようって」


 シモンは少し驚いたように瞬きをした。


「……覚えていらっしゃったのですね」


「もちろん。どうだ? せっかくだし、一緒に描いてみないか?」


 モモも顔を上げ、期待に満ちた表情でシモンを見つめた。


「そうだよ、シモン君! 上手に描かなくてもいいんだから、一緒にやってみようよ!」


 二人に見つめられたシモンは、少し困ったように眼鏡の位置を直した。


「ですが、私は絵を描くための道具を持ってきていませんし……」


「紙ならあるよ!」


 モモはすぐに旅帳面の後ろへ手を伸ばしかけたが、ルシルが笑いながら止めた。


「モモの旅帳面を使わなくても大丈夫だよ。俺の紙がまだあるから、それを一枚渡せばいい」


「そっか! じゃあ、それで決まりだね!」


 モモは嬉しそうに頷いた。


 シモンは二人の勢いに押されたように見えたが、やがて小さく息を吐き、穏やかな笑みを浮かべた。


「……分かりました。では、少しだけ挑戦してみましょうか」


「やった!」


 モモが嬉しそうに声を上げ、ルシルも笑った。


 三人は机を囲み、それぞれ紙を前に置いた。


 モモは空と海を大きく描き始め、ルシルは丘の形や木立の位置を丁寧に確かめながら筆を動かした。


 一方、シモンはしばらく紙を見つめたまま、なかなか描き始めようとしなかった。


「シモン、どうしたんだ?」


 ルシルが尋ねると、シモンは少し考えるような表情を見せた。


「どこから描き始めればよいのか、迷っていまして。景色を記録するのであれば、まず位置関係を正確に把握したほうがよいと思うのですが……」


「それなら、好きなところから描けばいいんじゃないか?」


「好きなところ、ですか?」


「うん。俺は木の位置が気になったから、そこから描いてるし、モモは空の色から描いてるだろ? シモンも、今一番気になってるものを描けばいいと思う」


 シモンはその言葉を聞き、改めて周囲を見回した。


 木立の向こうには海が見え、草地には馬車が停まっている。


 トルクとベルクは少し離れた場所で落ち着いて休んでおり、夕方の風に耳を動かしていた。


 シモンの視線は、やがて二頭の馬へ向かった。


「……では、私は馬車と馬たちを描いてみましょうか」


「いいね! それ、シモン君らしい!」


 モモが嬉しそうに答えると、シモンは少し照れたように笑った。


「そうでしょうか。ですが、今の私には、あの光景が一番印象に残っているようです」


 シモンはようやく筆を動かし始めた。


 最初に描いたのは馬車の輪郭だった。


 車輪の位置や窓の形を丁寧に確かめながら線を引き、その隣へトルクとベルクの姿を描き加えていく。


 ルシルは自分の絵を描きながら、ときおりシモンの紙へ目を向けた。


 そこには、思っていた以上に細かな馬車の形が描かれていた。


「シモン、すごいな。車輪の形までちゃんと描いてる」


「普段から確認している部分ですからね。自然と目が向くのでしょう」


 シモンは少し恥ずかしそうに答えた。


 モモも隣から覗き込み、嬉しそうに声を上げた。


「本当だ! 私だったら、もっと丸く描いちゃうと思う!」


「丸いこと自体は間違っていませんが……」


「そういう意味じゃないよ! シモン君の絵は、ちゃんと馬車がそこにあるみたいなんだもん!」


 モモの言葉に、シモンは少しだけ目を見開いた。


 彼にとって絵を描くことは、これまで記録や説明のために行う作業だった。


 形を正確に伝えることが目的であり、誰かに楽しんでもらうために描いたことはほとんどない。


 けれど、今はモモが嬉しそうに自分の絵を眺め、ルシルも興味深そうに見ている。


(……こういう楽しみ方も、あるのですね)


 シモンは紙へ目を戻し、少しだけ筆を動かす手を緩めた。


 正確に描かなければならないわけではない。


 ただ、自分が見ている景色を残せばいい。


 そう考えると、不思議と肩の力が抜けていった。


     ◇


 三人が絵を描き終えた頃には、空の色がさらに深くなっていた。


 モモの絵には、夕暮れの空と海が大きく描かれ、その手前に小さな木立が添えられていた。ルシルの絵は丘や木々の位置関係が丁寧に表現され、景色の広がりが分かるようになっている。


 そして、シモンの絵には、草地に停まる馬車と二頭の馬が描かれていた。


 三枚を並べると、同じ場所にいたはずなのに、まったく違う景色を見ていたことが分かる。


「面白いねえ。三人とも、全然違う絵になった!」


 モモは嬉しそうに笑い、順番に絵を眺めた。


「私のは空がいっぱいで、ルシル君のは丘がよく分かって、シモン君のは馬車とトルクとベルクが主役だね!」


「そうだな。同じ場所を描いたのに、こんなに違うんだな」


 ルシルも頷き、自分の絵とシモンの絵を見比べた。


 シモンは少し照れたように眼鏡を直した。


「私のものは、どうしても記録用の図に近くなってしまいましたが……」


「そんなことないよ!」


 モモはすぐに首を振った。


「シモン君がいつも馬車と馬たちを大事にしてるのが分かる絵だと思う。だって、ほかにもいろんなものが見えてたのに、最初にそこを描こうって思ったんでしょ?」


 シモンは返事をする前に、もう一度自分の絵へ目を落とした。


 確かに、彼が最初に目を向けたのは馬車と馬たちだった。


 それは旅の安全を守るために、普段から気に掛けているものだからでもある。


 けれど、それだけではないような気がした。


 あの馬車には、三人で過ごしてきた時間が詰まっている。


 棚には旅先で買った品が並び、折り畳み式の机の近くには青波で手に入れた青い布の風魚が飾られている。潮凪村で作った貝殻飾りも、今は壊れないように包んで収納してあった。


 そして、トルクとベルクは、その馬車を毎日引いてくれている。


 シモンは紙の上の馬車を見つめ、静かに微笑んだ。


「……そうかもしれませんね。私にとっては、あの馬車と二頭の馬が、今の旅を象徴しているのかもしれません」


 ルシルはその言葉を聞き、嬉しそうに頷いた。


「だったら、すごくいい絵だと思うよ。俺も、シモンが描いてくれて嬉しい」


 シモンは一瞬だけ驚いたような表情を見せたあと、穏やかに頭を下げた。


「ありがとうございます、ルシル様」


 モモは二人の様子を眺めながら、満足そうに笑った。


「ねえ、これからも時々、三人で絵を描こうよ! 同じ景色を描いても、きっと毎回違う絵になると思うんだ」


「いいな。俺も、もっといろんな景色を描いてみたい」


 ルシルが答えると、シモンも静かに頷いた。


「ええ。私も、機会があればご一緒しましょう」


「やった! 約束だよ!」


 モモは嬉しそうに笑い、三枚の絵をもう一度眺めた。


 夕暮れの草地には、三人の穏やかな笑い声が広がっていた。


     ◇


 絵を片づけたあと、三人は夜の準備を始めた。


 空にはすでに星がいくつか見え始めており、木立の向こうからは、昼間よりも静かな波音が聞こえてくる。


 ルシルは馬車の周囲を確認し、夜の間に使うものを取り出しやすい場所へまとめた。


 シモンは水と食料の残量を確かめ、明日の朝に必要な分を考えている。


 モモは旅帳面を開き、今日の最後の記録を書き込もうとしていた。


「ねえ、今日のこと、何て書こうかなあ」


 モモが呟くと、ルシルは隣へ腰を下ろした。


「今日もいろいろあったからな。水場を見つけたことも、夕ご飯を作ったことも、三人で絵を描いたことも」


「うん。でも、全部書こうとすると長くなっちゃうんだよね」


 モモは少し考え、筆の先を紙の上で止めた。


 ルシルは彼女の横顔を眺めながら、夕方の出来事を思い返した。


 今日一日で、何か大きなことを成し遂げたわけではない。


 けれど、シモンが初めて自分たちと一緒に景色を描いてくれたことは、ルシルにとって嬉しい出来事だった。


「俺は、シモンが絵を描いてくれたことが印象に残ってるかな」


 ルシルがそう言うと、モモはぱっと顔を上げた。


「私も! 最初はちょっと困ってたのに、最後は楽しそうだったもんね!」


「そうだな。シモンも、旅を始めてから少しずつ変わってきた気がする」


 二人の会話を聞いていたシモンが、少し離れた場所から顔を上げた。


「……お二人とも、私のことを話していらっしゃいますね?」


 ルシルは笑って頷いた。


「ああ。今日、一緒に絵を描けて嬉しかったって話だよ」


「そうでしたか」


 シモンは少し照れたように眼鏡を直し、それから二人のそばへ歩いてきた。


「私も、楽しかったですよ。最初はどうなることかと思いましたが、実際に描いてみると、思っていた以上に面白いものですね」


 モモは嬉しそうに笑った。


「でしょ? だから、また一緒に描こうね!」


「ええ。次は、もう少し景色も描いてみたいところです」


「じゃあ、次は三人で同じ木を描くとかどうかな?」


「それも面白そうだな」


 ルシルは頷き、空へ目を向けた。


 星の数が少しずつ増えている。


 昨日の夜も、三人で星空を眺めた。


 今夜はまた別の場所で、同じように空を見上げている。


 旅を続けるということは、きっとこういう時間を重ねていくことなのだろう。


(明日も、何か新しいことを見つけられたらいいな)


 ルシルは静かに微笑んだ。


 その隣では、モモが旅帳面へ今日の出来事を書き込んでいる。


 シモンは少し離れた場所で、馬車の扉がきちんと閉まるかを確かめていた。


 三人の過ごし方は、それぞれ少しずつ違っている。


 けれど、同じ旅を楽しんでいることに変わりはなかった。


     ◇


 夜が深まる前に、三人は馬車の中へ戻った。


 窓の外には木立の影が広がり、その向こうでは星空が静かに輝いている。


 モモは寝台へ腰を下ろし、今日描いた絵をもう一度眺めていた。


「ねえ、ルシル君。今日の絵、三枚並べて取っておきたいな」


「いいな。せっかく同じ日に描いたんだし、まとめておけば思い出になると思う」


 ルシルが答えると、モモは嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、あとで一緒にしまっておこうね!」


 シモンはその会話を聞きながら、折り畳み式の机の近くへ目を向けた。


 青い布の風魚が、馬車のわずかな揺れに合わせて静かに動いている。


 潮凪村の貝殻飾りは収納の中にあるが、今朝聞いた音は、まだ耳に残っているような気がした。


「……旅の思い出が、ずいぶん増えましたね」


 シモンがそう言うと、ルシルは頷いた。


「そうだな。最初は必要な荷物だけだったのに、今は思い出の品がいっぱいある」


「でも、まだまだ増えるよ!」


 モモが楽しそうに笑った。


「だって、これからもいろんな場所へ行くんでしょ? きっと、まだ知らないものがたくさんあるもん!」


「そうだな。俺も楽しみだよ」


 ルシルは微笑み、窓の外へ目を向けた。


 王位を手放したとき、これほど穏やかな毎日が待っているとは思っていなかった。


 追放された先に何があるのかも分からず、ただ自由に生きたいという思いだけを抱えていた。


 けれど今は、隣に仲間がいる。


 一緒に笑い、食事を作り、知らない景色を眺め、ときには小さな失敗さえ楽しめる人たちがいる。


 それだけで、十分に幸せだった。


「明日も、いい一日にしような」


 ルシルがそう言うと、モモは元気よく頷いた。


「うん! 明日は何を見つけられるかなあ!」


 シモンも穏やかに微笑んだ。


「まずは、明日の天候と道の状態を確認してからですね。ですが、私も楽しみにしていますよ」


 三人は顔を見合わせ、静かに笑った。


 やがて灯りが落とされ、馬車の中には穏やかな静けさが広がっていく。


 外では風が木立を揺らし、遠くの海から波音が届いていた。


 ルシルは寝台へ横になり、今日の出来事をゆっくり思い返した。


 朝の貝殻の音。


 小さな湧き水。


 旅人のために整えられた休憩小屋。


 夕暮れの草地で作った温かな夕食。


 そして、三人で描いた、それぞれ違う景色。


 どれも、誰かに命じられて経験したものではない。


 自分たちで道を選び、足を止め、興味を持ったからこそ出会えたものだった。


(こういう毎日を、これからも大切にしていきたいな)


 ルシルは静かに目を閉じた。


 明日もまた、道は続いている。


 その先に何が待っているのかは、まだ誰にも分からない。


 けれど、今のルシルには、それが何よりも楽しみだった。


 夜の草地に停まった馬車は、星明かりの下で静かに休んでいる。


 三人と二頭の馬を乗せた旅は、明日もまた、それぞれの歩幅で続いていくのだった。

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