第96話 朝風に揺れる貝殻の音と、旅人たちが見つけた小さな水場
馬車の窓から差し込んできた朝の光が、ルシルの頬を柔らかく照らしていた。
昨夜、三人が馬車を停めたのは、丘の道から少し離れた草地だった。低い石壁と小さな木立に囲まれたその場所は、夜の間も風が穏やかで、遠くから聞こえてくる波音を除けば、驚くほど静かだった。
ルシルは寝台の上でゆっくりと目を開け、しばらく天井を眺めていた。昨夜はモモとシモンと一緒に星空を眺め、明日の朝には貝殻飾りを吊るしてみようと約束したことを思い出す。
(そうだった。今日は、昨日の続きから始まるんだな)
そんな当たり前のことが、なぜか少し嬉しかった。
王城にいた頃の朝は、目を覚ました瞬間から、その日に果たさなければならない役目が頭の中へ並んでいた。誰と会い、何を学び、どの書類に目を通すのかを確認することが、一日の始まりだったのである。
けれど、今のルシルが朝一番に考えるのは、今日の天気や馬たちの調子、それから仲間と交わした小さな約束だった。
寝台から身体を起こすと、窓の外に広がる草地が目に入った。昨日の夕方には金色に染まっていた草の先端が、今は朝露をまとって淡く輝いている。
石壁の向こうには緩やかな丘が続き、そのさらに遠くには、細い青色の帯のような海が見えた。
「……いい朝だな」
小さく呟いてから振り返ると、シモンはすでに起きていた。
黒縁眼鏡を掛け、折り畳んだ地図を膝の上に置いている。ただし、そこに書かれた道筋を熱心に追っているわけではなく、ときおり窓の外を眺めながら、ゆっくり朝の時間を過ごしているようだった。
「おはようございます、ルシル様。よくお休みになれましたか?」
「ああ、ぐっすり眠れたよ。シモンはもう道を調べてたのか?」
「少しだけ確認していました。昨日見かけた石標と、ローデンさんのお話を照らし合わせていたのですが、やはり次の水場までは地図だけでは分かりませんね」
シモンはそう答え、地図を丁寧に畳んだ。
昨日の夕方に確認したとおり、この休憩場所には水場が見当たらなかった。馬車に積んだ水は十分残っているものの、馬たちが飲む分まで考えれば、今日のうちに補給できる場所を見つけておきたい。
「じゃあ、今日は水場を探すのが最初の目標だな」
「ええ。ただし、慌てて出発する必要はありません。昨夜のうちに必要な量を確認してありますし、今朝も馬たちに十分な水を与えられます」
「そっか。それなら、モモとの約束も守れそうだ」
ルシルが笑うと、シモンは一瞬だけ考えるような表情を見せたあと、昨夜の会話を思い出したらしく頷いた。
「貝殻飾りですね。今朝は風もそれほど強くありませんし、試してみるにはよさそうです」
「昨日、モモがすごく楽しみにしてたからな。きっと起きたらすぐに言い出すぞ」
「そうでしょうね。ですが、馬たちの世話と朝食を先に済ませてからにしましょう」
二人が顔を見合わせて微笑んだところで、背後から布の擦れる音がした。
振り返ると、モモが寝台の上で上半身を起こし、まだ少し眠そうな目を瞬かせている。
「……おはよう、二人とも。なんだか楽しそうな話してる?」
「おはよう、モモ。今日は何をする約束だったか、覚えてるか?」
ルシルが尋ねると、モモは少しだけ首を傾げた。
しかし、窓の外で揺れる草を見た途端、その緑色の瞳がぱっと輝いた。
「貝殻飾り!」
嬉しそうな声が馬車の中へ響き、シモンが思わず笑みをこぼした。
「正解です。ただし、朝食のあとですよ。まずは身支度を整えてください」
「分かってるよ、シモン君。私だって、お腹が空いたままじゃ貝殻の音を楽しめないもん!」
「……そういう理由なのですね」
呆れたように返すシモンの口元には、やはり笑みが残っていた。
ルシルはそんな二人を見ながら、今日もいつもどおりの朝が始まったことに、胸の奥が温かくなるのを感じた。
◇
馬車の外へ出ると、朝露を含んだ草の匂いが鼻先をくすぐった。
木立の葉は風に揺れていたが、昨夜ほど大きな音は立てていない。石壁の近くには小鳥が二羽降りており、三人の気配に気づくと、慌てることもなく少し離れた草の中へ移動した。
トルクとベルクは、夜の間に休ませていた場所で落ち着いていた。
栗毛のトルクはルシルの姿を見つけるなり鼻先を伸ばし、何かを期待するように耳を動かしている。一方、濃い灰色のベルクはシモンが近づくのを待ち、静かに首を下げた。
「おはよう、トルク。昨日は坂道をよく頑張ってくれたな」
ルシルが首を撫でると、トルクはその手へ鼻先を押しつけた。撫でてもらうこと自体は嫌いではないものの、その視線はルシルの手元にある餌袋へ何度も向かっている。
「……もしかして、俺よりそっちが気になる?」
ルシルが苦笑すると、後ろからモモの笑い声が聞こえた。
「トルクは朝から元気だねえ。ルシル君、たぶんご飯を待ってるんだよ」
「分かってるけどさ。もうちょっと久しぶりに会ったみたいな顔をしてくれてもいいと思わないか?」
「昨日の夜も会ってたじゃないですか」
シモンの冷静な指摘に、ルシルは反論できず、モモはますます楽しそうに笑った。
馬たちへ水を与える前に、シモンは二頭の脚と蹄を確認した。ルシルも教わった手順を思い出しながらベルクの様子を見て、昨日の移動で傷ができていないか、脚をかばうような動きがないかを確かめる。
どちらも目立った異常はなく、食欲も十分にあるようだった。
「今朝も問題なさそうですね。水を飲ませたら、しばらく落ち着いて食事をさせましょう」
「うん。今日は途中で水場を見つけられるといいね」
モモは水桶を置きながら、少しだけ真剣な顔になった。
「もし見つからなかったら、私が水を出すこともできるから、遠慮しないで言ってね。二頭が喉を渇かせたまま歩くのは嫌だもん」
シモンはその言葉を聞き、眼鏡の奥の表情を柔らかくした。
「ありがとうございます。もちろん、必要になればお願いします。ただ、補給できる場所があるなら、まずはそちらを探してみましょう」
「うん。そうしよう!」
モモはすぐに頷き、ベルクの首へそっと手を伸ばした。
ベルクは最初こそ耳を動かしたものの、彼女の手がゆっくり近づいてくるのを確かめると、静かに撫でられていた。
ルシルはその様子を見て、ふと旅の始まりを思い出した。
馬の世話も、馬車での生活も、最初から何もかも上手にできたわけではない。シモンに教えてもらい、失敗しないよう確かめ、少しずつ覚えてきたことばかりだった。
(こういう毎日の積み重ねも、ちゃんと旅の一部なんだよな)
以前なら、移動は目的地へ到着するための時間だと考えていたかもしれない。
けれど今は、馬たちに朝の挨拶をして、水を用意し、仲間と一緒に朝食を作ることまで含めて、一日を楽しみにできている。
ルシルはトルクの首をもう一度撫で、三人で朝食の準備へ取りかかった。
◇
朝食は、保存していたパンと野菜を使った簡単なものになった。
昨夜の汁物に使った鍋をきれいに洗ってあったため、今朝は湯を沸かし、残っている野菜を小さく切って煮込んでいく。味つけは控えめだったが、温かな湯気が立ち上ると、まだ少し冷たかった朝の空気が和らぐように感じられた。
モモは折り畳み式の椅子へ腰を下ろし、鍋を見守りながら鼻をひくつかせていた。
「昨日も思ったけど、外で食べる朝ご飯って、なんだかいつもより美味しそうに感じるね」
「お腹が空いてるからじゃないか?」
ルシルが笑いながら言うと、モモは少し考え込んだ。
「それもあると思うけど、たぶん違うよ。だって、宿で食べる朝ご飯も美味しいし、馬車の中で食べるのも好きだもん」
「なるほど。じゃあ、場所が変わるのが楽しいのかな」
「うん、それかも! 同じパンでも、海を見ながら食べるのと、丘を見ながら食べるのじゃ、なんだか違う気がするんだ」
モモはそう言って、石壁の向こうに広がる草地へ目を向けた。
ルシルもその視線を追い、朝日を受けた丘を眺めた。
たしかに、今朝の景色は昨日の夕食のときとも違っている。草の色も空の明るさも、遠くの海の見え方さえ、時間が変われば少しずつ変化していた。
「同じ場所にいても、毎回違うものが見えるんだな」
「そういうことなのかもしれませんね」
シモンは鍋の火加減を確かめながら頷いた。
「私も以前は、同じ場所へ何度も足を運ぶことに、それほど意味を感じていませんでした。ですが、こうして旅をしていると、季節や時間による違いを眺めるのも悪くないと思えるようになりました」
ルシルはその言葉に少し驚き、シモンの横顔を見た。
「シモン、最近そういうことをよく言うようになったよな」
「そうでしょうか?」
「ああ。前は道を選ぶときも、早く着けるかどうかを一番に考えてた気がするけど、今は景色の話もするようになった」
シモンは鍋から目を離し、少し考えるように黙った。
それから、自分でも意外だったのか、穏やかな苦笑を浮かべる。
「……言われてみれば、そうかもしれません。以前の私なら、昨日も岬を眺めるために停車することへ、あまり積極的ではなかったでしょうね」
「今は?」
「今は、あそこで停まってよかったと思っています。お二人が楽しそうに絵を描いているのを見られましたし、私自身も、あの景色をもう一度見たいと思いましたから」
モモは嬉しそうに顔を上げた。
「じゃあ、今度はシモン君も絵を描いてみようよ!」
「私ですか?」
「うん! ルシル君は地図みたいな絵で、私は波とか空を大きく描くでしょ? シモン君が描いたら、どんな絵になるのか見てみたい!」
シモンは困ったように眼鏡の位置を直した。
「私は絵が得意というわけではありませんよ。記録用の簡単な図なら描けますが、人に見せるようなものとなると……」
「それでいいんだよ。上手に描かなきゃいけないわけじゃないもん」
モモがあまりに当然のことのように言うので、シモンはしばらく言葉を失っていた。
ルシルはその様子を眺めながら、静かに笑った。
「そうだな。俺も最初は全然描けなかったし、今だってモモに地図みたいだって言われてるんだから」
「それは、ルシル君の絵のいいところだよ!」
「そう言ってくれるなら嬉しいけどさ」
三人の笑い声が、朝の草地へ穏やかに広がった。
食事の支度が整うと、それぞれが温かな汁物とパンを受け取り、ゆっくり食べ始めた。
モモはいつものように嬉しそうに味わい、ルシルはその様子を見ながら、今日もいい一日になりそうだと感じていた。
◇
朝食を終えて食器を片づけたあと、いよいよ昨夜の約束を果たすことになった。
モモは馬車の収納から布に包んだ貝殻飾りを取り出し、折り畳み式の机の上へ並べた。潮凪村の作業小屋で作った三つの飾りは、それぞれ紐が絡まないように分けて包んであったため、取り出しても壊れた様子はない。
「よかった。ちゃんと無事だったね!」
モモは自分の飾りを持ち上げ、白い貝殻を朝日に透かして眺めた。
中央には白い貝殻があり、その両側には茶色い縞模様の入った貝殻が吊るされている。少し間隔を狭くした作りなので、風に揺れると互いに触れ合い、明るい音が鳴る。
ルシルの飾りは、三つの貝殻の間隔が少しずつ違っていた。
結び目も完全には揃っていないが、その不揃いな形が、かえって自然な雰囲気を生み出している。
一方、シモンの飾りは結び目が丁寧に揃えられ、紐の長さも整っていた。ただし、貝殻同士の間隔を広く取りすぎたため、風が吹いてもなかなか音が鳴らないという、本人にとって少々不本意な出来上がりになっている。
「ねえ、どこに吊るそうか?」
モモが尋ねると、ルシルは周囲を見回した。
木立には手の届く高さに細い枝がいくつか伸びていたが、あまり弱い枝へ吊るすと、風で折れてしまうかもしれない。
「この辺りならどうかな。枝もしっかりしてるし、三つ並べられそうだ」
ルシルが選んだのは、木立の外側へ伸びた低い枝だった。
シモンは枝の状態を確認し、紐を傷めないように取り付ける方法を考えたあと、持っていた短い補助紐を使って三つの飾りを吊るした。
貝殻が互いにぶつからない程度に離し、最後に全体の高さを整える。
「これでよさそうですね。風が強くなったら、すぐに外せるようにしてあります」
「ありがとう、シモン君!」
モモは少し離れた場所へ下がり、三つの飾りを眺めた。
朝の風が木立を通り抜け、細い紐を揺らしていく。
最初に音を立てたのは、モモの飾りだった。
白い貝殻が茶色い貝殻へ軽く触れ、澄んだ小さな音が響く。そのすぐあと、ルシルの飾りから少し不揃いな音が重なった。
シモンの飾りは静かなままだったが、風向きが変わった瞬間、端の貝殻がかすかに触れ合った。
「……鳴った!」
モモが嬉しそうに声を上げた。
シモンは自分の飾りへ目を向け、少し驚いたように瞬きをした。
「本当ですね。昨日より風が弱いので、今日は鳴らないかと思っていました」
「シモン君のは、たまに鳴るから特別な感じがするね」
「そのように言っていただけるなら、ありがたいですが……」
シモンは複雑そうに微笑んだ。
ルシルは三つの飾りを見比べながら、潮凪村の作業小屋で過ごした時間を思い出していた。
リーナに紐の結び方を教わり、モモが貝殻の色を何度も見比べ、シモンが長さを慎重に測っていた光景が、昨日のことのように鮮明に浮かぶ。
実際には、それほど日が経っていない。
けれど、村を離れてから新しい景色をいくつも見たせいか、あの作業小屋で過ごした時間が、少し懐かしく感じられた。
「村では、もっと風が強かったよな」
ルシルが言うと、モモは頷いた。
「うん。貝殻がいっぱい鳴ってたね。家の窓にも吊るしてあったし、歩いてるだけで音が聞こえてきたもん」
「漁へ出た人が無事に帰ってくるように、願いを込める家もあるんでしたね」
シモンの言葉に、モモは静かに頷いた。
作業小屋で出会った子どもたちのことも、三人は覚えていた。
父親の帰りを待ちながら、窓辺へ飾るための貝殻飾りを作っていた兄妹。あのあと無事に父親が帰ってきたのか、三人は知らないまま村を離れている。
モモは風に揺れる自分の飾りを眺め、少しだけ声を落とした。
「あの子たちのお父さん、ちゃんと帰ってきてるといいね」
「そうだな。きっと、あの飾りを見せるのを楽しみにしてただろうし」
ルシルは穏やかに答えた。
知らないことを、知っているかのように話すことはできない。それでも、あの兄妹が笑顔で父親を迎えられていたらいいと願う気持ちは、三人とも同じだった。
しばらくすると、風が少しだけ強まり、三つの飾りが同時に揺れた。
モモの明るい音に、ルシルの不揃いな響きが重なり、最後にシモンの飾りが小さく鳴る。
その短い音の重なりを聞いて、モモは嬉しそうに笑った。
「ねえ、なんだか三人でお話ししてるみたいじゃない?」
「三人で?」
「うん。私のはいっぱい喋ってて、ルシル君のは途中でいろんなことを思いついて、シモン君のは、ちゃんと考えてから一言だけ言うの!」
ルシルは思わず吹き出した。
「それ、なんとなく分かる気がする!」
「……私だけ、ずいぶん無口な扱いですね」
シモンはそう言いながらも、飾りから目を離さなかった。
モモの言葉が少しおかしかったのだろう。眼鏡の奥の目が柔らかく細まり、いつものように訂正しようとする様子もなかった。
ルシルは三つの貝殻飾りを見上げた。
同じ材料を使い、同じ日に作ったのに、出来上がった形も音も違っている。
それでも、三つ並べて吊るすと、不思議とまとまりがあるように感じられた。
(これからも、こんなふうに三人で旅を続けられたらいいな)
その思いは、潮凪村で貝殻を選んだときから変わっていなかった。
ルシルは何も言わずに微笑み、風が静まるまで、仲間たちと一緒に貝殻の音へ耳を傾けていた。
◇
貝殻飾りを十分に楽しんだあと、三人は紐を外し、それぞれ布へ包み直した。
馬車が走っている間に吊るしておくと、揺れによって貝殻がぶつかり、割れてしまうかもしれない。モモもそのことはよく理解しており、名残惜しそうにしながらも、丁寧に収納へ戻していた。
「次は、どんな場所で吊るせるかなあ」
「今度は海の近くかもしれないし、森の中かもしれないな」
ルシルが答えると、モモは楽しそうに想像を膨らませた。
「森の中だったら、鳥の声と一緒に聞けるかも! それに、川の近くでも面白そうだよね」
「水の音と重なるのも、また違った雰囲気になりそうですね」
シモンはそう言いながら、馬車の外に置いていた道具を片づけた。
ルシルは石壁の周囲を見回し、使った場所に何も残していないことを確かめる。焚き火の跡も完全に始末されており、昨夜から今朝にかけて使った場所は、ほぼ元の状態に戻っていた。
出発前には、もう一度馬たちの様子を確認した。
トルクもベルクも朝食を済ませ、十分に水を飲んでいる。二頭が落ち着いていることを確かめてから馬具を取り付け、ルシルは御者台へ上がった。
「よし。それじゃあ、今日もよろしくな」
手綱を握って声を掛けると、トルクが軽く耳を動かした。
ベルクも前方へ顔を向け、二頭の歩調が揃ったところで、馬車はゆっくりと動き始める。
低い石壁と木立が少しずつ遠ざかっていった。
モモは窓から後ろを振り返り、昨夜の休憩場所へ小さく手を振った。
「またね!」
その声は、草地を渡る風に乗って消えていった。
ルシルは前方の道へ目を戻し、穏やかな速度で馬車を進ませた。
今日も急いで向かわなければならない場所はない。
ただ、水の補給だけは忘れずに行い、その先の道を楽しめばいい。
◇
午前中の道は、昨日よりも少しだけ起伏が少なくなっていた。
低い丘の間を緩やかに曲がりながら進む道は、ところどころ砂利が混じっていたものの、車輪が大きく跳ねるような場所は少ない。ルシルはトルクとベルクの歩調を確かめながら、周囲の景色にも目を向けていた。
右手には、ときおり海が見える。
昨日眺めた岬はすでに別の丘の陰へ隠れていたが、その代わり、海へ向かってゆっくり下っていく草地や、遠くの斜面に点在する小さな岩が見えていた。
モモは窓際の席に座り、開いた旅帳面へ朝の出来事を書き込んでいる。
文字を書いては顔を上げ、窓の外を眺め、また何かを思いついたように筆を動かす。その様子を見ていると、今朝の貝殻飾りがよほど楽しかったのだと分かった。
「何を書いてるんだ?」
ルシルが前方から目を離さずに尋ねると、モモは少し嬉しそうな声で答えた。
「今朝の音のこと! 潮凪村で聞いたときとは違って、今日は三つの音が順番に聞こえたでしょ? 忘れないうちに書いておこうと思って」
「そうか。俺は、シモンの飾りが最後に鳴ったのが印象に残ってるな」
「えへへ。私も!」
モモが笑うと、シモンは少し困ったように眼鏡を直した。
「私の飾りについて、ずいぶん話題になりますね。次に作る機会があれば、もう少し貝殻の間隔を狭くしてみたいところですが」
「えっ、シモン君、また作りたいの?」
モモが顔を輝かせた。
シモンはその反応に少し驚き、言葉を選ぶように間を置いた。
「もし機会があれば、という話ですよ。今回の飾りも気に入っていますし、作り直すつもりはありません」
「そっか。でも、また三人で何か作れたら楽しそうだね!」
「そうだな。今度は別のものでもいいかもしれない」
ルシルが答えると、モモは旅帳面を閉じ、窓の外へ視線を向けた。
彼女が何か新しいものを探しているのは、その表情だけで分かった。
シモンは二人の様子を眺めながら、少しだけ笑みを深めた。
王城にいた頃、ルシルが自分から何かを作りたいと言い出すことは、ほとんどなかった。
学ぶべきことも身につけるべき技術も多く、何をするにも、それが将来の役目へどう結びつくかを考えなければならなかったからだ。
今は、ただ面白そうだからという理由で、新しいことに興味を持てる。
シモンはその変化を、以前より自然に受け止められるようになっていた。
(ルシル様が楽しんでいらっしゃるなら、それでよいのでしょう)
かつてなら、そんな考えを口にすることさえためらったかもしれない。
けれど今は、ルシルが自由に笑える時間を守ることも、自分が旅を続ける理由の一つになっていた。
シモンは膝の上の地図へ視線を戻し、次に確認しておくべきことを考えた。
まずは水場。
その先は、道の様子を見てから決めればいい。
◇
しばらく進むと、道の左手に小さな石積みが現れた。
昨日見た道標とは違い、こちらは低い石をいくつか重ねただけのもので、文字や矢印は刻まれていない。
ただ、その石積みの脇には、人や馬が何度か通ったらしい細い踏み跡があった。
「シモン、あそこに道みたいなものがあるぞ」
ルシルは馬車の速度を落とし、前方を確認した。
細い踏み跡は本来の道から左へ分かれ、草の間を抜けて低い丘の陰へ続いている。馬車が通れるほどの幅はなく、歩いて向かうための道のようだった。
シモンは窓から外を見て、少し考えた。
「水場へ向かう道の可能性はありますね。ただ、ここからでは先が見えません。地図にも、細かな道までは記されていませんし」
「ちょっと見に行ってみる?」
モモが身を乗り出すと、シモンはすぐには答えず、踏み跡の周囲を観察した。
草が倒れている場所には比較的新しいものもあり、完全に使われなくなった道には見えない。しかし、どこへ続いているかは分からず、無理に奥まで進む理由もなかった。
「馬車を安全な場所へ停められるなら、入口付近だけ確認するのはよいと思います。ただし、三人で奥へ入る必要はありませんね」
「じゃあ、俺が馬車を停めて、シモンと一緒に少し見てくるよ。モモは馬たちを見ていてくれる?」
ルシルが尋ねると、モモは元気よく頷いた。
「任せて! でも、危なそうだったらすぐ戻ってきてね」
「もちろん。道が分からなかったら、それ以上は進まないよ」
ルシルは道幅が十分にある場所を選び、馬車を端へ寄せた。
トルクとベルクを落ち着かせ、周囲の通行を妨げないことを確かめてから、シモンとともに細い踏み跡へ向かった。
草は膝より低く、歩きにくいほどではない。
ただ、ところどころ小さな石が埋まっているため、足元を見ながら進む必要があった。
「こういう道って、誰が作るんだろうな」
ルシルが尋ねると、シモンは足元の草を見ながら答えた。
「人が何度も同じ場所を歩くうちに、自然と道になることもあります。近くに水場や作業場所があれば、そこへ通う人がいるのかもしれません」
「なるほど。じゃあ、あの石積みは目印かな」
「そうかもしれませんね。ただ、確かめるまでは断定できません」
二人は緩やかな斜面を少し進み、丘の陰へ回り込んだ。
そこで、ルシルは足を止めた。
前方の草が一部だけ濃い緑色になっており、その周囲には湿った土が見えている。
耳を澄ますと、かすかな水音も聞こえてきた。
「……シモン、聞こえるか?」
「ええ。水の流れる音のようですね」
二人は顔を見合わせ、慎重に近づいた。
草の間には浅い溝があり、澄んだ水が細く流れている。その先を辿ると、丘の斜面に埋め込まれた石の隙間から、水が少しずつ湧き出しているのが見えた。
水は小さな石のくぼみへ落ち、そこから溝を通って下の草地へ流れていた。
「水場だ……!」
ルシルは思わず声を弾ませた。
ただし、すぐに手を伸ばして飲もうとはしなかった。
水が澄んでいることと、安全に飲めることは別だと、これまでの旅で学んでいたからだ。
シモンも同じことを考えていたらしく、湧き出している場所と周囲の地面を慎重に確かめた。
「水量は多くありませんが、絶えず流れているようですね。上の斜面に何があるかは、ここからでは分かりません」
「じゃあ、馬たちに飲ませる前に、もう少し確認したほうがいいな」
「ええ。少なくとも、見つけたからといってすぐに使うのは避けましょう」
ルシルは頷き、周囲を見回した。
水場の近くには古い石がいくつか並べられており、人が水を汲むために足場を整えたようにも見える。石の一つには擦れた跡があり、最近まで使われていた可能性もあった。
それでも、ここが正式に旅人向けに整備された水場なのかどうかは分からない。
「モモにも知らせてこよう。馬車からそんなに離れてないし、三人で相談したほうがいい」
「そうですね。まずは戻りましょう」
二人は来た道を引き返した。
草の中に残る踏み跡を確かめながら歩くと、ほどなく馬車の姿が見えてきた。
モモはベルクの近くで待っており、二人に気づくと大きく手を振った。
「おかえり! 何かあった?」
「水が湧いてる場所を見つけたよ。ただ、使えるかどうかはまだ分からないんだ」
ルシルが説明すると、モモは目を輝かせたあと、すぐに真剣な表情になった。
「そっか。じゃあ、ちゃんと調べないとね」
「ええ。水を汲む前に、周囲の様子も確認しておきたいところです」
シモンが答えると、モモはしっかり頷いた。
「それなら、私も一緒に見てみたいな。トルクとベルクはどうする?」
「二頭はここで休ませましょう。まずは馬車を動かさず、交代で確認するのがよさそうです」
三人は相談し、今度はルシルが馬たちのそばへ残ることになった。
シモンとモモは水場の様子をもう一度確かめに行き、ルシルはその間、二頭の首を撫でながら待つことにした。
◇
モモが水場へ着いたとき、最初に目を引かれたのは、石の間から流れ出す細い水だった。
海沿いの村で見た大きな水桶や、これまで利用してきた整備された水場とは違い、ここには立派な設備がない。丘の斜面から湧き出した水が、小さな石のくぼみへ落ちているだけだった。
「こんなところに水があるんだね……」
モモはしゃがみ込み、濡れた石の表面を眺めた。
水が落ちる場所には薄い苔が生えており、周囲の草もほかの場所より青々としている。長い間、少しずつ水が流れ続けてきたのだろうと感じられた。
シモンは水場の上側へ目を向け、周囲の斜面を確認していた。
目に見える範囲には大きな動物の足跡や汚れたものはなく、水も濁っていない。しかし、斜面のさらに上まで見通せるわけではないため、それだけで飲用に適しているとは言い切れなかった。
「モモ嬢、ここから少し離れて、周囲の様子も見ておきましょう。水そのものがきれいに見えても、上流の状態が分からなければ安心できませんから」
「うん。私もそう思う」
モモは立ち上がり、シモンの隣へ移動した。
彼女には魔法で水を扱う力がある。
必要なら清潔な水を用意することもできるため、ここで無理に湧き水を使わなければならないわけではない。
それでも、旅の途中で自然の水場を見つけることには、別の楽しさがあった。
(ルシル君、きっとこういう場所を見つけるのも好きなんだろうな)
モモは先ほどのルシルの声を思い出した。
水場を見つけたことを報告したとき、彼は子どものように嬉しそうだった。
王子だった頃のルシルを、モモは今ほど詳しく知らない。
けれど、一緒に旅をしているうちに、彼が新しい景色や知らないものを見つけるたび、素直に喜ぶ人なのだということは、よく分かるようになっていた。
その姿を見ることが、モモ自身も好きだった。
「シモン君、ここって、ほかの旅人さんも使ってるのかな?」
モモが尋ねると、シモンは足元の石へ目を向けた。
「その可能性は高そうですね。水を汲みやすいように置かれた石がありますし、道からここまで踏み跡も続いています」
「じゃあ、ローデンさんも知ってるかもしれないね」
「そうかもしれません。ただ、昨日は水場の話までは聞きませんでしたから、確かなことは分かりませんね」
モモは頷き、もう一度水の流れを眺めた。
細い流れは途切れることなく、石のくぼみへ落ちている。
その音はとても小さく、少し離れると風に紛れてしまいそうだった。
「……なんだか、見つけられてよかったね」
「ええ。利用できるかどうかは別として、こうした場所があると分かったことは、旅の経験になります」
シモンはそう答え、モモとともに馬車へ戻ることにした。
今回の確認では、湧き水をそのまま飲用に使えると断定する材料は得られなかった。
それなら、必要以上に時間をかけて調べるより、手持ちの水を大切に使いながら、次の確実な補給場所を探すほうがよい。
シモンはそう判断していた。
◇
二人が戻ると、ルシルはトルクの首を撫でながら待っていた。
「どうだった?」
「水はきれいに見えましたが、飲用に適しているかは確認できませんでした。今日は無理に補給せず、次の水場を探したほうがよいと思います」
シモンが説明すると、ルシルはすぐに頷いた。
「分かった。じゃあ、ここでは休憩だけにしようか」
モモも賛成した。
「うん。それに、もし本当に足りなくなったら私が水を用意できるから、心配しすぎなくても大丈夫だよ」
「ありがとう、モモ。でも、今ある水も無駄にしないようにしような」
「もちろん!」
三人は馬車のそばで少し休み、トルクとベルクの様子を確かめた。
二頭とも朝に十分な水を飲んでいたため、今のところ喉を渇かせている様子はない。ルシルは馬たちの歩調が乱れていないことを確認し、再び出発することにした。
馬車が動き始めると、先ほどの石積みがゆっくり後ろへ遠ざかっていった。
モモは窓からその姿を眺め、旅帳面へ小さく書き込んだ。
「『道の脇に石の目印。細い道の先に、小さな湧き水があった』……っと」
ルシルはその言葉を聞きながら、少し笑った。
「ちゃんと記録しておくんだな」
「うん。だって、またこの道を通ることがあるかもしれないでしょ? それに、次に誰かと話したとき、こんな場所があったって教えられるかもしれないし」
「そうだな。ただ、飲める水かどうか分からなかったことも書いておいたほうがいいぞ」
シモンが付け加えると、モモはすぐに頷いた。
「そうだった! そこ、大事だね」
モモは旅帳面へもう一行書き足した。
ルシルはその様子を見ながら、昨日出会ったローデンのことを思い出した。
道をよく知る人は、長い時間をかけて少しずつ経験を積んでいる。
自分たちも、こうして見つけたものを覚え、必要なことを書き残していけば、いつか誰かの役に立てるかもしれない。
そんなことを考えると、ただの小さな水場との出会いも、少し特別なものに感じられた。
◇
昼が近づく頃、道は再び緩やかな下り坂になった。
左手の丘は少しずつ低くなり、右手には海から続く広い空が見えている。
朝から穏やかだった風は、日が高くなるにつれて少し暖かくなっていた。
ルシルは馬車の速度を落とし、坂道を慎重に進んだ。
トルクとベルクは落ち着いており、車輪も大きく揺れることなく地面を転がっている。
「そろそろ昼休みにしようか」
ルシルが言うと、モモは嬉しそうに顔を上げた。
「賛成! 朝ご飯も美味しかったけど、もうお腹が空いてきた!」
「モモ嬢は、朝からよく召し上がっていましたけれどね」
シモンが穏やかに指摘すると、モモは少しだけ頬を膨らませた。
「だって、馬車に乗ってると景色がいっぱい変わるから、見てるだけでもお腹が空くんだよ」
「それは、なかなか興味深い理屈ですね」
「シモン君、信じてないでしょ?」
「いえ、モモ嬢がそう感じていらっしゃることは疑っていませんよ」
その返事を聞いて、ルシルは思わず笑った。
モモも少しだけ不満そうな顔をしたものの、結局は一緒に笑い始めた。
しばらく進むと、道の脇に平らな草地が見えてきた。
近くには背の低い木が数本あり、木陰もできている。地面は比較的乾いており、馬車を停めても車輪が沈みそうな様子はなかった。
三人はそこで昼休みを取ることにした。
ルシルが馬車を停め、シモンが周囲を確認する。
モモは折り畳み式の机を用意し、昼食の支度を手伝い始めた。
今日の昼食は、保存していたパンと簡単な具材を組み合わせたものになった。
朝に温かな汁物を食べていたため、昼は火を使わず、短い休憩で済ませられるようにしたのである。
モモはパンを受け取り、嬉しそうに一口食べた。
「うん、美味しい! こういうのも好きだなあ」
「よかった。今日はまだ少し先へ進めそうだし、昼は軽めにしておこうと思ったんだ」
ルシルが答えると、モモは頷いた。
「うん。でも、夕ご飯は温かいものがいいな」
「それは、休む場所を決めてから考えましょう」
シモンが微笑みながら言うと、モモは満足そうに頷いた。
三人は木陰で昼食を取りながら、午前中に見つけた水場のことを話した。
ルシルは、あの石積みがどれほど前から置かれているのか気になっているようだった。
「誰かが作った目印なんだろうけど、いつからあるんだろうな」
「分かりませんね。道を行き来する人々が、少しずつ石を積み直してきた可能性もあります」
シモンが答えると、モモは興味深そうに顔を上げた。
「じゃあ、最初に見つけた人がいて、そのあと別の人も使うようになったのかな?」
「そうかもしれません。ただ、あの場所の由来を知る人に聞かない限り、想像の域を出ませんね」
「そっか。でも、そうやって考えるのも楽しいね」
モモは笑い、残っていたパンを口へ運んだ。
ルシルも頷いた。
分からないことを、無理にその場で答えへ結びつけなくてもいい。
いつか別の場所で、思いがけず答えを聞けることもあるだろう。
そう考えられるようになったのも、旅を続けてきたからかもしれなかった。
◇
昼食を終えたあと、三人はしばらく木陰で休んだ。
モモは旅帳面を開き、今朝の貝殻飾りの絵を描き足している。
ルシルはその隣で、道の脇に咲いていた小さな花を眺めていた。
昨日見つけた白い花とは違い、こちらは淡い黄色の花びらを持っている。
茎は短く、地面に近いところで葉が広がっていた。
「モモ、ちょっと見てくれないか?」
ルシルが声を掛けると、モモは顔を上げた。
「どうしたの?」
「この花、昨日の白い花とは違うよな。形は少し似てるけど、葉っぱの付き方が違う気がするんだ」
モモは隣へ移動し、ルシルが指した花を覗き込んだ。
しばらく観察したあと、彼女は嬉しそうに頷いた。
「本当だ! 昨日のは茎がもう少し長かった気がするけど、こっちは地面に近いところに咲いてるね」
「そうだよな。色だけじゃなくて、形も違うんだ」
ルシルは花へ手を伸ばしかけたが、摘まずにそのまま眺めることにした。
絵に残すだけなら、花を取る必要はない。
モモも隣へしゃがみ込み、旅帳面の端へ小さな絵を描き始めた。
少し離れた場所では、シモンが二人の様子を見守っていた。
以前なら、休憩時間に花の形を比べることへ、これほど長く付き合うことはなかっただろう。
けれど今は、二人が何を面白がっているのか、少し分かる気がしていた。
同じ道を進んでいても、何に目を向けるかによって、見つけるものは変わる。
シモン自身も、以前より道端の草や遠くの鳥へ目を向けるようになっていた。
「ルシル様、そろそろ出発しましょうか。午後のうちに、もう少し道の先を確かめておきたいところです」
シモンが声を掛けると、ルシルは顔を上げた。
「ああ、そうだな。ちょうど描き終わったところだよ」
ルシルは紙を見せた。
そこには小さな黄色い花が、葉の形まで丁寧に描かれている。
モモの絵は花びらが少し大きく描かれており、柔らかな雰囲気があった。
「今回も違う絵になったね」
モモが嬉しそうに言うと、ルシルは笑った。
「そうだな。どっちも今日の思い出になるな」
三人は道具を片づけ、再び馬車へ戻った。
◇
午後の道は、しばらく平坦な草地の間を進んだあと、ゆっくりと海の方向へ曲がり始めた。
右手の景色が少しずつ開け、遠くの水面が見える範囲も広がっていく。
ルシルは手綱を握りながら、道の先を注意深く見ていた。
水場を探すという目的は、まだ完全には果たせていない。
午前中に湧き水を見つけたものの、安全に使えると確認できなかったため、今も馬車に積んだ水を頼りにしている。
ただ、モモが必要に応じて水を用意できることもあり、三人の間に焦りはなかった。
「この先、また海沿いの道と近づくのかな」
ルシルが呟くと、シモンは地図を開いた。
「地形を見る限り、海へ向かって少しずつ下っているようですね。ただ、昨日分かれた道と合流するかどうかは、まだ分かりません」
「そうか。じゃあ、もう少し進んでみよう」
ルシルは頷き、馬車の速度を保った。
モモは窓から外を眺めながら、遠くに見える海を指した。
「ねえ、あそこ、ちょっと色が違わない?」
ルシルは前方の安全を確かめてから、少しだけ視線を向けた。
遠くの海には、明るい青色の場所と、少し濃い青色に見える場所があった。
「本当だ。雲の影かな?」
「そうかもしれませんね。水深や海底の様子によっても見え方は変わりますが、ここからでは分かりません」
シモンが答えると、モモは興味深そうに頷いた。
「そっか。海って、同じ場所でもいろんな色に見えるんだね」
「そうだな。青波で最初に見たときは、ただ広いって思ったけど、最近は色の違いも気になるようになったよ」
ルシルが笑うと、モモも嬉しそうに笑った。
そのとき、道の先に小さな木の柵が見えてきた。
柵は道を塞いでいるわけではなく、脇の草地との境目に沿って設けられている。
その近くには、低い屋根のようなものが見えた。
「……あれ、何だろう?」
ルシルは少し速度を落とした。
シモンも窓から前方を確認し、眼鏡の位置を直した。
「建物のようですね。規模は小さそうですが、道沿いの設備かもしれません」
モモは興味深そうに身を乗り出した。
「誰かいるのかな?」
「まだ分からないな。近づいてから確かめよう」
ルシルはそう答え、トルクとベルクへ声を掛けた。
馬車はゆっくりと進み、やがて低い屋根の正体が見えてきた。
それは、小さな木造の休憩小屋だった。
屋根の下には長椅子が置かれ、その脇には石で囲まれた水槽のようなものがある。
さらに近づくと、水槽へ細い管から水が流れ込んでいることが分かった。
「水だ!」
モモが嬉しそうに声を上げた。
ルシルも思わず笑みを浮かべたが、すぐに周囲を確認した。
休憩小屋の前には馬車を停められる程度の広さがあり、木の柵の内側には馬を休ませるためらしい場所も設けられている。
ただし、今のところ人の姿は見えなかった。
「ここなら、ちゃんと使える水場かもしれないな」
「ええ。設備も整っているようです。ただ、利用方法が書かれているか確認しましょう」
シモンの言葉に、ルシルは頷いた。
三人は馬車を安全な場所へ停め、まず休憩小屋の周囲を確かめることにした。
◇
小屋の柱には、木の札が取り付けられていた。
風雨にさらされて少し色が薄くなっていたものの、文字はまだ十分に読める。
シモンは札へ近づき、ゆっくりと内容を確認した。
「……旅人向けの休憩場所のようですね。水槽の水は馬の飲み水として利用できるそうです。ただし、飲用に使う場合は、別の場所で汲んで煮沸するようにと書かれています」
ルシルは頷いた。
「なるほど。じゃあ、馬たちにはここで水を飲ませられるんだな」
「ええ。水槽の状態も確認してからにしましょう」
モモは水槽の近くへ移動し、流れ込む水を眺めた。
水は絶えず細い管から注がれ、余った分は反対側の溝へ流れている。
水槽の底には少し砂がたまっていたが、目立った汚れはなく、水も澄んでいた。
シモンは札に書かれた利用上の注意を読み、周囲に異常がないことを確かめた。
「ここなら、馬たちを休ませるのによさそうですね。飲み水も補充できますが、煮沸して使う前提で汲んでおきましょう」
「分かった。じゃあ、先にトルクとベルクを連れてこよう」
ルシルは馬車へ戻り、二頭をゆっくり水槽の近くへ導いた。
トルクは水の匂いに気づくと、すぐに鼻先を伸ばそうとしたが、ルシルが声を掛けると落ち着いて待った。
「はいはい、順番にな。慌てなくても、ちゃんと飲めるから」
ベルクも静かに水槽へ近づき、周囲を確かめてから水を飲み始めた。
二頭が落ち着いて水を飲む様子を見て、モモは嬉しそうに微笑んだ。
「よかったね。ちゃんとした水場が見つかって」
「そうだな。午前中の湧き水も面白かったけど、こういう設備があると安心するよ」
ルシルが答えると、シモンも頷いた。
「ええ。旅人向けに整備されている場所なら、利用方法も分かりますからね。管理してくださっている方々には感謝しなければなりません」
モモは小屋の周囲を見回した。
誰もいない休憩場所だったが、長椅子は壊れておらず、水槽も使える状態に保たれている。
きっと、ここを整備した人や、今も手入れを続けている人がいるのだろう。
「そうだね。誰もいないけど、ちゃんと使えるようにしてくれてるんだもんね」
モモは静かに頷いた。
三人は馬たちの世話を終えたあと、水の補充を始めた。
飲用に使う分は、あとで煮沸することを前提に分けて管理する。
シモンが容器の状態を確認し、ルシルが水を運び、モモがこぼさないように支える。
作業は思ったより時間がかかったものの、三人で分担したため、無理なく終えることができた。
水を補充し終えると、シモンは容器を収納へ戻し、残量を確認した。
「これで、しばらくは余裕を持って進めそうですね」
「よかった。今日は水場を探すのが目標だったから、ちゃんと見つかって安心したよ」
ルシルは小さく息を吐いた。
モモも嬉しそうに頷いた。
「うん! しかも、ちゃんと休憩できる場所だったね」
三人は顔を見合わせ、穏やかに笑った。
◇
水の補充を終えたあと、三人は休憩小屋の長椅子へ腰を下ろした。
屋根の下は日差しが和らぎ、海から吹いてくる風も心地よかった。
モモは旅帳面を取り出し、今日見つけた二つの水場について書き始めた。
午前中の小さな湧き水と、午後に見つけた整備された水場。
同じ水でも、場所によって使い方が違うことが面白かったらしい。
「ねえ、ルシル君。今日の旅帳面、水の話ばっかりになっちゃいそう」
モモが笑いながら言うと、ルシルも笑った。
「それもいいんじゃないか? 今日は水場を探してたんだし」
「そうだね。でも、朝の貝殻飾りのこともちゃんと書いたよ!」
「それなら、今日の思い出は十分残せそうだな」
シモンは二人の会話を聞きながら、穏やかに微笑んだ。
「旅の記録は、必ずしも大きな出来事だけを書かなければならないものではありませんからね。今日のように、何を探して、どこで見つけたのかを残すことも大切でしょう」
「うん。あとで読み返したら、きっと思い出せるよね」
モモは嬉しそうに頷いた。
ルシルは小屋の外へ目を向けた。
木の柵の向こうでは、トルクとベルクが落ち着いて休んでいる。
水槽からは細い水音が聞こえ、屋根の端では風に揺れた木の葉が小さく擦れ合っていた。
誰もいない休憩小屋だったが、不思議と寂しさは感じなかった。
むしろ、ここを通る旅人のために用意された場所なのだと思うと、見知らぬ誰かの気遣いが残っているように感じられた。
「……こういう場所、ありがたいよな」
ルシルが呟くと、シモンは静かに頷いた。
「ええ。道を整え、水場を管理し、休める場所を残してくださる方々がいるからこそ、私たちも安心して旅を続けられます」
「昨日、ローデンさんが言ってたことにも似てるね」
モモが顔を上げた。
「いろんな人の仕事がつながってるって話。ここも、誰かが手入れしてくれてるから、私たちが使えるんだよね」
「そうだな」
ルシルは頷いた。
昨日の荷馬車も、今日の休憩小屋も、旅をしていなければ、こんなふうに考えることはなかったかもしれない。
王城にいた頃には見えなかったものが、今は少しずつ見えるようになっている。
そのことが、ルシルには嬉しかった。
◇
しばらく休んだあと、三人は今日の移動をどうするか相談した。
日はまだ十分に高く、トルクとベルクも元気だった。
このまま少し先へ進むことはできそうだったが、無理に次の集落を目指す必要はない。
「もう少し進んでみようか。夕方までに休める場所が見つかれば、そこで停まればいいし」
ルシルが言うと、シモンは頷いた。
「そうですね。水も補充できましたし、道の状態を見ながら進みましょう」
モモも嬉しそうに答えた。
「うん! 今日もまだ、何か見つかるかもしれないもんね」
三人は小屋の周囲を確認し、使った場所に忘れ物がないことを確かめた。
水槽の周りも元の状態に戻し、長椅子の上に置いていた荷物を片づける。
ルシルは最後に木の札へ目を向け、小さく頭を下げた。
「お世話になりました」
その声を聞いたモモも、嬉しそうに頭を下げた。
「ありがとうございました!」
シモンは二人の様子を見て、穏やかに微笑んだ。
誰もいない休憩場所に礼を言うのは、少し不思議に見えるかもしれない。
けれど、ここを整備した人々への感謝を思えば、決しておかしなことではなかった。
三人は馬車へ戻り、再び出発の準備を整えた。
トルクとベルクは十分に休んだ様子で、ルシルが手綱を握ると、落ち着いて歩き始めた。
馬車はゆっくりと休憩小屋を離れ、南へ続く道を進んでいった。
◇
午後の光は、少しずつ柔らかくなり始めていた。
道の右手には海が見え、左手には低い丘が続いている。
潮凪村を離れてから、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。
けれど、三人の旅帳面には、すでに新しい景色や出会いがいくつも増えていた。
モモは窓際で今日の記録を読み返し、満足そうに微笑んでいる。
シモンは地図を畳み、次の休憩場所を探すために周囲の地形を確認していた。
ルシルは手綱を握りながら、前方へ続く道を眺めた。
今日見つけた小さな湧き水も、整備された休憩小屋も、旅を始める前には知らなかった場所だ。
それでも、実際に足を運んでみれば、そこには人の営みや自然の小さな変化があった。
(まだ知らない場所が、こんなにたくさんあるんだな)
ルシルは静かに微笑んだ。
急いでどこかへ辿り着く必要はない。
ただ、今日のように道を進み、気になるものを見つけ、仲間と一緒に確かめていけばいい。
「ルシル君、今から表記するね!」
モモは旅帳面を膝の上に広げ、今日の出来事を書き残そうと筆を持ち直した。馬車の揺れに合わせて文字が少し曲がってしまったものの、それさえ旅の思い出になるような気がして、彼女は楽しそうに笑った。
「朝は三人で貝殻飾りを吊るして、午前中には小さな湧き水を見つけて、午後には馬たちも使える水場を見つけたでしょ? こうして並べると、今日は水と貝殻の日だったんだね」
ルシルは手綱を握ったまま、前方の緩やかな道へ目を向けていた。右手の海には傾き始めた日差しが反射し、遠くの水面が細かな銀色の光を散らしている。
「確かにそうだな。でも、俺は昼に見つけた黄色い花も覚えてるよ。昨日の白い花とは葉っぱの形が違っていて、あれも面白かった」
「そうだった! お花のことも書かなくちゃ!」
モモが慌てて旅帳面をめくると、隣に座っていたシモンが小さく笑った。彼は地図を膝の上に置きながら、揺れる馬車の中で筆を動かす彼女の様子を見守っている。
「モモ嬢、今すべてを書き終える必要はありませんよ。夕方に馬車を停めてから、落ち着いて続きを書いてもよいのですから」
「それもそうだけど、今思いついたことを忘れちゃいそうなんだもん。あとで読み返したとき、今日の景色をちゃんと思い出したいんだよ」
モモはそう答え、文字の横へ小さな貝殻の絵を描き足した。三つの飾りが風に揺れている様子を描いたつもりだったが、揺れる馬車の中では線が思うように引けず、出来上がった絵を見て少しだけ首を傾げる。
「……なんだか、貝殻が踊ってるみたいになっちゃった」
「それも悪くないんじゃないか? 今朝は本当に、風に合わせて踊ってるみたいだったし」
ルシルの言葉に、モモはぱっと顔を明るくした。
「そっか! じゃあ、このままにしておこうっと!」
シモンは二人のやり取りを聞きながら、眼鏡の奥で穏やかに目を細めた。以前なら、旅の記録に正確さを求め、揺れる馬車の中で絵を描くことなど勧めなかったかもしれない。
けれど、モモが残そうとしているのは、道順や距離だけではない。その日に何を見て、何を感じ、誰と笑ったのかという、三人だけの記憶だった。
(こういう記録も、きっと大切なのでしょうね)
シモンはそう考えながら、膝の上の地図を静かに畳んだ。
やがて道の先に、低い木立と平らな草地が見えてきた。まだ夕暮れには少し早かったが、馬車を停めるには悪くなさそうな場所だった。
「シモン、あの辺りはどうかな。今日は水も補充できたし、無理に先へ進まなくてもいいと思うんだ」
ルシルが尋ねると、シモンは前方の地形を確かめた。木立の周囲には大きな岩もなく、草地は道から少し離れているため、ほかの馬車の通行を妨げる心配も少なそうだった。
「そうですね。地面の状態を確認して問題がなければ、今夜はあそこで休みましょう。トルクとベルクにも、早めに休んでもらえますから」
「賛成! それなら、夕ご飯もゆっくり作れるね!」
モモが嬉しそうに答えると、ルシルは笑いながら頷いた。
「今日の夕ご飯は、温かいものがいいって言ってたもんな」
「覚えててくれたんだ!」
「もちろん。朝から楽しみにしてただろ?」
モモは少し照れたように笑い、旅帳面を大切そうに閉じた。
馬車はゆっくりと木立へ近づいていく。
海から届く風には、昼間よりも少しだけ涼しさが混じり始めていた。草の先端が柔らかく揺れ、遠くでは鳥たちが夕方の空を横切っている。
ルシルは二頭の馬へ優しく声を掛け、速度を落とした。
今日もまた、知らなかった景色が一つ増えた。
小さな湧き水を見つけたことも、誰かが整えてくれた休憩小屋で水を補充できたことも、朝の風に揺れた三つの貝殻の音も、きっと長く覚えているだろう。
(明日は、どんなものを見つけられるかな)
そんなことを考えながら、ルシルは穏やかに微笑んだ。
王位も、決められた未来も、今の彼には必要ない。
大切な仲間とともに、行きたい道を選び、気になるものを見つけては足を止める。
それだけで、毎日はこんなにも豊かになるのだから。
やがて馬車は木立のそばで静かに停まり、三人は今夜の休息の準備を始めた。
夕暮れの光が丘と海を柔らかく染める中、旅人たちの穏やかな一日は、ゆっくりと夜へ移ろうとしていた。




