第95話 丘の向こうで出会った旅人は、知らない景色を教えてくれました
丘の間に設けられた休憩場所で迎える朝は、潮凪村の朝とはずいぶん違っていた。
窓の外から聞こえてくるのは、家々の軒先で揺れる貝殻の音でも、漁へ向かう人々の声でもない。低い丘を渡る風が草を揺らし、ときおり遠くで鳥が鳴く、静かな朝だった。
ルシルは寝台から身体を起こし、しばらくその音に耳を澄ませていた。
昨夜は日が沈む前に夕食を終え、三人で旅帳面や絵を眺めながら過ごした。潮凪村を離れたばかりということもあって、話題の多くは村で出会った人々や、作業小屋で作った貝殻飾りのことだった。
モモは、昨日の昼休みに三つの飾りを並べて吊るしたことを、ずいぶん気に入ったらしい。
場所や風の強さによって音が変わることを知り、これから先の旅でも、停車した場所で飾りを吊るしてみたいと楽しそうに話していた。
(次はどんな場所で鳴らせるかな)
ルシルは小さく微笑み、窓の外へ目を向けた。
丘の向こうには、朝日に照らされた草地が広がっている。
昨日の夕方には橙色に染まっていた海も、今は淡い青色を取り戻していた。低い丘の間から少しだけ見える水面には、細かな光が散らばっている。
ルシルは窓を開け、朝の空気を吸い込んだ。
海から少し離れた場所にいるため、潮の匂いは潮凪村ほど強くない。代わりに、朝露を含んだ草や、湿った土の香りが漂ってきた。
「おはようございます、ルシル様。もう起きていらしたのですね」
背後から声がして振り返ると、シモンが寝台から身体を起こしていた。
黒縁眼鏡を掛ける前の顔は、いつもより少し幼く見える。ルシルはそのことを口にしようか迷ったが、本人が気にするかもしれないと思い、代わりに窓の外を指した。
「おはよう、シモン。今日はいい天気みたいだぞ」
「それは何よりです。昨夜も大きく天候が崩れる様子はありませんでしたし、今日も穏やかに移動できるとよいですね」
シモンは眼鏡を掛け、窓辺へ近づいた。
しばらく外を眺めたあと、彼は小さく頷いた。
「風もそれほど強くありませんね。丘の間を進むには、悪くない条件だと思います」
「昨日は思ったより走りやすかったしな。今日もあんな感じだといいんだけど」
「ええ。ただ、同じ道がずっと続くとは限りませんから、路面の状態は確認しながら進みましょう」
ルシルは笑った。
「分かってるよ。トルクとベルクにも無理はさせたくないし」
シモンは満足そうに頷き、寝台の脇へ置いていた地図を手に取った。
昨日、潮凪村のミレナから教えてもらった分かれ道では、三人で相談して丘の内側を通る道を選んだ。
その先で白い花を見つけ、小さな鳥に出会い、昼休みには貝殻飾りを風に揺らした。
選ばなかった海沿いの道にも、きっと違う景色があったのだろう。
けれど、ルシルは昨日の選択を少しも後悔していなかった。
「今日も、どこまで行くかは道を見ながら決めようか」
「そうですね。次の村までの正確な距離は分かっていませんし、無理に目的地を決める必要もないでしょう」
シモンは地図を畳んだ。
「ただ、食料と水にはまだ余裕があります。昨日は早めに休みましたから、今日は馬たちの様子を見ながら、少し長く進むこともできますね」
「そっか。じゃあ、まずは朝ご飯だな」
ルシルが笑うと、シモンも穏やかに微笑んだ。
「ええ。モモ嬢も、そろそろ起きている頃でしょう」
二人は身支度を整え、馬車の外へ出た。
◇
馬車の外では、朝の光が草地を明るく照らしていた。
トルクとベルクは落ち着いた様子で休んでおり、二頭ともルシルの姿に気づくと、ゆっくり顔を上げた。
「おはよう。昨日はよく休めたか?」
ルシルがトルクの首を撫でると、栗毛の馬は鼻先を伸ばしてきた。
その仕草を見て、ルシルは思わず笑った。
「はいはい。朝ご飯だろ? ちゃんと用意するから待っててくれ」
トルクは言葉を理解しているのかいないのか、満足そうに鼻を鳴らした。
一方、ベルクは少し離れたところから静かにこちらを見ている。
ルシルが近づいて首を撫でると、ベルクも落ち着いた様子で目を細めた。
「ベルクもおはよう。今日もよろしくな」
シモンは二頭の脚や蹄を確かめ、馬具を取り付ける前に身体の状態を確認した。
昨日の移動では、緩やかな坂を何度か上り下りしたものの、二頭に大きな負担がかかった様子はない。蹄の状態にも問題はなく、どちらも穏やかに朝を迎えていた。
「二頭とも問題ありませんね。今日も無理のない速度なら、十分に進めそうです」
「よかった。じゃあ、先に水と餌を用意しよう」
二人が作業を始めたところで、馬車の扉が開いた。
「おはよう、ルシル君、シモン君!」
モモが元気よく顔を出した。
長い桃金色の髪はきれいに整えられており、緑色の瞳には朝から楽しそうな光が宿っている。
「おはよう、モモ。よく眠れた?」
「うん! すっごくよく眠れたよ!」
モモは軽やかに馬車から降り、周囲を見回した。
「昨日の夕方とは、景色が全然違うね。朝のほうが草の色が明るいし、海もきれい!」
「そうだな。俺もさっき見てたんだ」
ルシルが答えると、モモは嬉しそうに頷いた。
「あとで旅帳面にも書こうっと。昨日の夕方の絵と並べたら、違いが分かるかもしれないね」
「それは面白そうですね」
シモンが微笑んだ。
「ただ、まずは朝食と出発準備を済ませましょう。今日はまだ、どんな道が続くか分かりませんから」
「はーい!」
モモは元気よく答え、馬たちの世話を手伝い始めた。
トルクの水桶を運び、ベルクの餌を確認する。
三人はすでに何度もこうした作業を繰り返してきたため、それぞれが自然に役割を見つけられるようになっていた。
ルシルはその様子を見ながら、少し嬉しくなった。
(最初の頃は、何をするにもシモンに聞いてた気がするな)
もちろん、今でもシモンに頼ることは多い。
けれど、モモもルシルも、以前より自分たちでできることが増えている。
それは、旅を続けるうえで大切な変化だった。
◇
朝食には、残っていたパンと保存食を使い、温かな汁物を用意した。
昨日、潮凪村のエルサが持たせてくれたパンは昼食で食べ終えていたため、今朝は馬車に積んでいた保存用のパンを使っている。
モモは汁物へパンを少し浸し、嬉しそうに口へ運んだ。
「うん、美味しい!」
「昨日のパンほど柔らかくはないけど、こうすると食べやすいな」
ルシルも同じようにパンを浸し、ゆっくり味わった。
シモンは鍋の中を確認しながら頷いた。
「保存用のパンは少し硬くなりやすいですからね。汁物と合わせるのはよい方法だと思います」
「こういう食べ方も、旅をしてから覚えたよな」
ルシルが言うと、モモも頷いた。
「うん! 最初はパンって、そのまま食べるものだと思ってたけど、いろんな食べ方があるんだね」
シモンは少し笑った。
「料理は、土地によっても家庭によっても違いますからね。これから先でも、知らない食べ方に出会うかもしれません」
「楽しみ!」
モモはすぐに答えた。
ルシルはそんな二人の会話を聞きながら、温かな汁物を飲んだ。
朝の草地で食べる簡単な食事。
王城にいた頃なら、わざわざ選ぶことのなかった時間だろう。
けれど今は、こうして三人で食事を囲むことが、何より心地よかった。
食べ終えたあとは、使った食器を洗い、道具を片づけた。
火の始末を確認し、休憩場所に忘れ物がないか見回す。
モモは最後に水場のほうへ目を向け、静かに微笑んだ。
「ここも、いい場所だったね」
「そうだな。馬たちも休めたし、景色もよかった」
ルシルが答えると、シモンも頷いた。
「次に通る旅人も気持ちよく使えるよう、きれいにして出発しましょう」
「うん!」
三人は周囲をもう一度確認し、馬車へ乗り込んだ。
◇
丘の道を進み始めると、昨日とは少し違う景色が広がっていた。
朝日を受けた草地は明るい緑色に輝き、斜面に咲く小さな白い花が風に揺れている。
道の左手には低い丘が続き、右手にはときおり海が見えた。
潮凪村の入り江とは違い、こちらの海岸線には岩の多い場所があるらしく、遠くに白い波が砕ける様子も見える。
ルシルは手綱を握りながら、トルクとベルクの歩調を確かめた。
二頭は落ち着いており、馬車は穏やかな速度で進んでいる。
「今日もいい天気でよかったな」
ルシルが言うと、モモは窓の外を眺めながら頷いた。
「うん! 昨日より遠くまで見える気がする!」
シモンは地図を確認し、周囲の地形と照らし合わせた。
「昨日は丘の間を進む区間が多かったですからね。今日は少し開けた場所が増えているようです」
「このまま進んだら、また海沿いの道と合流するのかな?」
モモが尋ねると、シモンは少し考えた。
「可能性はありますが、今の地図だけでは断定できませんね。道が合流する場所もあれば、別々のまま次の集落へ続く場合もありますから」
「そっか。じゃあ、行ってみないと分からないんだね」
「ええ。ですが、それも旅の楽しみの一つでしょう」
シモンが穏やかに微笑むと、モモも嬉しそうに笑った。
ルシルはその会話を聞きながら、前方へ目を向けた。
道は緩やかに曲がり、低い丘の向こうへ続いている。
急ぐ理由はない。
だからこそ、今見えている景色を楽しみながら進めばいい。
ルシルは手綱を少し緩め、トルクとベルクが歩きやすい速度を保った。
◇
しばらく進むと、道の脇に小さな木立が見えてきた。
背の高い木が数本集まり、その周囲には低い草が広がっている。
木陰の近くには平らな石がいくつか置かれており、旅人が腰を下ろすこともできそうだった。
「ちょっと休憩しようか」
ルシルが言うと、シモンは頷いた。
「そうですね。朝からしばらく進みましたし、馬たちにも水を与えましょう」
モモも嬉しそうに答えた。
「賛成! あの木陰、気持ちよさそう!」
ルシルは道の端にある広い場所へ馬車を停め、二頭の様子を確認した。
トルクとベルクは落ち着いており、疲れた様子はない。
三人は水を用意し、馬たちを休ませたあと、木陰へ向かった。
そこには柔らかな風が通り抜け、葉が擦れ合う音が聞こえていた。
モモは木の幹を見上げ、嬉しそうに笑った。
「海の近くなのに、こんな木があるんだね」
「そうだな。丘の内側だから、少し風が弱いのかもしれない」
ルシルが答えると、シモンも頷いた。
「地形によって育ちやすい植物が違うのでしょうね。海岸のすぐ近くでは潮風の影響を受けやすいですが、ここは少し離れていますから」
モモは興味深そうに頷いた。
「なるほど。じゃあ、同じ海の近くでも、場所によって景色が変わるんだ」
「ええ。実際に歩いてみると、そうした違いがよく分かりますね」
三人は木陰に腰を下ろし、しばらく休んだ。
モモは旅帳面を開き、木立の簡単な絵を描き始めた。
ルシルはその隣で、昨日見た白い花の絵を描き直している。
シモンは水を飲みながら二人の様子を眺め、穏やかに微笑んでいた。
「ルシル様、昨日の花を描いていらっしゃるのですか?」
「ああ。昨日は夜に描いたから、ちょっと形が曖昧になっちゃってさ」
ルシルは紙を見せた。
そこには、細い茎と小さな白い花が描かれている。
昨日の絵よりも形は整っていたが、実際に見た花と同じかどうかは分からなかった。
「もう一度見られたらいいんだけどな」
「先ほども道の脇に似た花が咲いていましたから、また見つかるかもしれませんね」
シモンが答えると、ルシルは嬉しそうに頷いた。
「そうだな。次に見つけたら、もう少しよく観察してみよう」
モモは二人の会話を聞きながら、楽しそうに笑った。
「ルシル君、最近絵を描くのが好きになってきたね」
「そうかもしれない。最初はモモが描いてるのを見て、面白そうだと思っただけなんだけど」
「えへへ。じゃあ、私の影響かな?」
「そうだな。モモのおかげだよ」
ルシルが笑うと、モモは嬉しそうに頬を緩めた。
シモンも穏やかに微笑んだ。
「こうして互いに影響を受けるのも、三人で旅をする楽しさの一つでしょうね」
ルシルはその言葉を聞き、静かに頷いた。
王城にいた頃は、誰かから何かを教わることは珍しくなかった。
けれど、それは王子として必要な知識や技術を身につけるためのものが多かった。
今は違う。
モモが楽しそうに絵を描いているから、自分も描いてみたくなる。
シモンが本を読んでいると、どんなことが書かれているのか気になる。
そうした小さな興味が、少しずつ自分の世界を広げてくれる。
(誰かと一緒にいるって、こういうことでもあるんだな)
ルシルは穏やかに微笑んだ。
◇
木陰で休んでいると、遠くから車輪の音が聞こえてきた。
ルシルは顔を上げ、道の向こうへ目を向けた。
丘の曲がり角から、一台の荷馬車が姿を現した。
馬車には布で覆われた荷物が積まれており、前には年配の男性が座っている。
男性は三人の馬車を見つけると、少し速度を落とした。
「おや、旅人さんかい?」
穏やかな声だった。
ルシルは立ち上がり、軽く頭を下げた。
「こんにちは。少し休憩していたところです」
「そうかい。いい場所を見つけたね。ここは風が弱いから、休むにはちょうどいいんだ」
男性は笑いながら答えた。
荷馬車を道の端へ寄せ、馬の様子を確かめてから、ゆっくりと降りてくる。
灰色が混じった髪を短く整え、日に焼けた顔には穏やかな皺が刻まれていた。
服装は実用的で、長く道を行き来している人らしい落ち着きがある。
「わしはローデンという。近くの集落へ品物を運んでいるんだ」
男性はそう名乗った。
ルシルも微笑み、簡単に自己紹介した。
「俺はルシルです。こちらがモモとシモン。三人で旅をしています」
「こんにちは!」
モモが元気よく頭を下げた。
シモンも丁寧に挨拶した。
「こんにちは。お仕事の途中でしたか?」
「ああ。海沿いの村で仕入れたものを、丘の向こうへ運んでいるところさ。今日は天気がいいから、道も走りやすくて助かるよ」
ローデンは笑いながら荷馬車へ目を向けた。
布の下には木箱や籠が積まれているようだったが、中身までは見えない。
ルシルは興味深そうに尋ねた。
「この道は、よく通るんですか?」
「そうだね。毎日じゃないが、月に何度かは通るよ。海沿いの道より少し遠回りになることもあるけれど、風の強い日はこっちのほうが走りやすいんだ」
その言葉に、シモンが頷いた。
「私たちも昨日、海沿いの道と丘の道の分かれ道で、どちらを選ぶか相談したところでした」
「ほう。それで、丘の道を選んだのかい」
「はい。海沿いの道は狭い場所があると聞いていたので、こちらを進むことにしました」
ローデンは納得したように頷いた。
「それなら、悪くない選択だったと思うよ。海沿いの道も景色はいいが、荷馬車だと気を使う場所があるからね」
ルシルは少し安心した。
もちろん、丘の道を選んだことを後悔していたわけではない。
それでも、実際にこの道を使っている人から話を聞けるのはありがたかった。
「この先も、道はこんな感じですか?」
ルシルが尋ねると、ローデンは少し考えた。
「しばらくは似たような道が続くよ。ただ、もう少し先で丘が低くなって、見晴らしのいい場所へ出るんだ。そこからは、また海がよく見えるようになる」
「本当ですか!」
モモが嬉しそうに声を上げた。
ローデンは笑った。
「ああ。天気がよければ、遠くの岬まで見えることもあるよ」
「わあ、楽しみ!」
モモは目を輝かせた。
ルシルも興味を引かれた。
「岬ですか。ここからだと、どのあたりに見えるんでしょう?」
ローデンは道の先を指した。
「丘を二つほど越えた先に、少し広い草地があるんだ。そこから右手を見ると、海へ突き出した岩の多い場所が見える。まあ、今日は霞が少ないから、見えるかもしれないね」
シモンは地図を開き、周囲の地形を確認した。
「なるほど。道の先に、少し開けた場所があるのですね」
「ああ。ただ、見晴らしがいいからといって、道を外れて岩場へ近づくのはやめたほうがいい。足元が崩れやすい場所もあるからね」
ローデンは穏やかな口調で注意した。
ルシルは真剣に頷いた。
「分かりました。道から見える範囲で楽しむことにします」
「それがいいよ」
ローデンは満足そうに笑った。
◇
話をしているうちに、モモはローデンの荷馬車へ興味を持ったようだった。
もちろん、勝手に荷物へ触れたりはしない。
少し離れたところから木箱を眺め、遠慮がちに尋ねた。
「あの、ローデンさん。海沿いの村では、どんなものを仕入れているんですか?」
「ん? ああ、今日は干した魚や海藻、それから塩を少し運んでいるよ」
ローデンは気さくに答えた。
「丘の内側の集落では、海のものを手に入れにくい場所もあるからね。逆に、内陸で作った穀物や野菜を海沿いへ運ぶこともあるんだ」
モモは興味深そうに頷いた。
「へえ! じゃあ、海の近くと丘の向こうで、いろんなものを交換してるんですね」
「そういうことさ。海沿いの村じゃ魚が手に入りやすいけど、畑で作るものは限られることもある。だから、こうして運ぶ人間が必要になるんだよ」
ルシルはその説明を聞きながら、王城で見ていた交易の報告書を思い出した。
どの地域からどれほどの品物が運ばれ、どの街で取引されるのか。
そうした数字や記録を読む機会はあった。
けれど、実際に荷馬車を走らせている人から話を聞くと、同じ内容でもずいぶん違って感じられた。
「ローデンさんは、ずっとこの仕事をしているんですか?」
ルシルが尋ねると、男性は少し笑った。
「そうだね。若い頃から荷運びの仕事をしているよ。最初は父親の手伝いだったけれど、気づけば自分のほうが長く道を走るようになっていた」
「すごいですね」
「いやいや、長くやっているだけさ」
ローデンは照れたように頭を掻いた。
「でも、道のことは少し詳しくなったかな。どこに水場があるとか、どの季節に風が強いとか、そういうことは覚えておかないと困るからね」
シモンは深く頷いた。
「経験を積んだからこそ分かることですね。私たちも旅を続けていますが、まだ知らないことばかりです」
「旅をしているなら、少しずつ覚えていけばいいさ」
ローデンは穏やかに笑った。
「それに、道を知っている人間に聞くのも大事なことだよ。全部自分たちだけで判断しようとすると、余計な苦労をすることもあるからね」
ルシルはその言葉を聞き、静かに頷いた。
これまでの旅でも、道を教えてもらったことは何度もあった。
宿の人。
村の人。
道中で出会った旅人。
そうした人々の助言が、三人の旅を支えてくれていた。
(俺たちだけで旅してるつもりでも、いろんな人に助けてもらってるんだよな)
ルシルは改めてそう感じた。
ローデンは荷馬車のほうへ目を向け、そろそろ出発しようかと考えているようだった。
シモンはその様子に気づき、丁寧に頭を下げた。
「お仕事の途中に、いろいろ教えていただきありがとうございました」
「いやいや。こちらこそ、楽しい話ができたよ」
ローデンは笑った。
モモも元気よく頭を下げた。
「ありがとうございました! 岬が見える場所、楽しみにしてます!」
「ああ。きれいな景色が見られるといいね」
ローデンはそう答え、荷馬車へ戻った。
馬の様子を確かめてから御者台へ上がり、三人へ手を振る。
「それじゃあ、気をつけて旅を続けなよ!」
「はい! ローデンさんもお気をつけて!」
ルシルが答えると、ローデンは笑顔で頷いた。
荷馬車はゆっくりと動き出し、丘の道を進んでいった。
三人はその姿が見えなくなるまで見送った。
◇
ローデンの荷馬車が見えなくなったあと、三人は木陰で少しだけ休憩を続けた。
モモは旅帳面を開き、先ほど聞いた話を書き込んでいる。
「干した魚と海藻と塩……っと」
小さく呟きながら文字を書き、顔を上げた。
「ねえ、ルシル君。海沿いの村と丘の向こうの集落って、こうやってつながってるんだね」
「そうだな。俺も話を聞いて、改めて実感したよ」
ルシルは頷いた。
王城では、物資の流れを数字で見ることが多かった。
けれど、実際には一台一台の荷馬車が道を走り、人々が品物を運んでいる。
それが積み重なって、遠くの街や村の暮らしを支えているのだ。
「今まで、魚を食べるときは漁師さんのことを考えることが多かったけど、運んでくれる人もいるんだよな」
ルシルが言うと、シモンは頷いた。
「ええ。品物が届くまでには、さまざまな人が関わっていますからね。作る人、運ぶ人、売る人、料理する人。それぞれの仕事がつながっています」
「そっか……」
モモは少し考えた。
潮凪村の朝市では、魚や海藻を売る人々と話した。
浜灯りの家では、エルサがその食材を使って料理を作ってくれた。
そして今、ローデンは海沿いで仕入れたものを、別の場所へ運んでいる。
それぞれの人が、違う場所で暮らしながら、少しずつつながっている。
「なんだか、面白いね」
モモは嬉しそうに笑った。
「旅をしてると、いろんな人の仕事が見られるんだ」
「そうだな。まだ知らない仕事も、たくさんあるんだろうな」
ルシルが答えると、シモンも穏やかに微笑んだ。
「これから先でも、そうした人々に出会う機会はあるでしょうね」
三人はそんな話をしながら、残っていた水を飲み、出発の準備を整えた。
◇
再び馬車を走らせると、丘の道は少しずつ上り坂になっていった。
急な坂ではないものの、長く続く緩やかな上りだったため、ルシルはトルクとベルクの歩調を見ながら速度を落とした。
二頭は落ち着いて進んでいる。
車輪が砂利を踏む音が続き、馬車の中には穏やかな揺れが伝わってきた。
「ローデンさんが言ってた、見晴らしのいい場所って、この先かな?」
モモが窓から外を眺めながら尋ねた。
「たぶん、もう少し先だと思う。丘を二つほど越えたところって言ってたからな」
ルシルは前方を見ながら答えた。
シモンは地図を確認し、周囲の地形と照らし合わせた。
「この先で道が少し高い場所へ出るようですね。ただ、実際にどこまで見えるかは、行ってみないと分かりません」
「うん! 楽しみ!」
モモは嬉しそうに笑った。
しばらく進むと、道の左手に小さな白い花が咲いているのが見えた。
昨日、ルシルが絵に描いたものとよく似ている。
「あっ、ルシル君!」
モモが声を上げた。
「昨日の花だよ!」
ルシルは前方の安全を確認しながら、少しだけ視線を向けた。
「本当だ。あれ、昨日見たのと同じ種類かな」
「たぶんそうだと思う!」
モモは嬉しそうに答えた。
ルシルは少し考えたあと、馬車を停められる場所がないか周囲を見回した。
しかし、道の両側は斜面になっており、すぐに安全な停車場所は見つからなかった。
「残念だけど、ここでは停められそうにないな」
「そっか。じゃあ、また今度だね」
モモは少し残念そうにしたものの、すぐに笑った。
「でも、また見られてよかった!」
「そうだな」
ルシルも笑った。
シモンは二人の会話を聞きながら、穏やかに頷いた。
「花は、同じような環境なら別の場所にも咲いているかもしれません。無理にここで停まらなくても、また観察する機会はあるでしょう」
「うん!」
モモは元気よく答えた。
ルシルは手綱を握り直し、馬車を進ませた。
旅を続けていると、気になったものすべてを立ち止まって見ることはできない。
けれど、それを残念に思いすぎる必要もない。
また別の場所で出会えるかもしれないし、出会えなくても、今日見た花のことは覚えていられる。
ルシルはそんなことを考えながら、穏やかな速度で坂を上っていった。
◇
丘を越えた先には、広い草地が広がっていた。
道の両側には背の低い草が生え、遠くには海が見えている。
ローデンが話していたとおり、ここからは海岸線の様子がよく分かった。
「わあ……!」
モモは思わず声を上げた。
海は青く輝き、遠くには岩の多い岬が見えている。
潮凪村の穏やかな入り江とは違い、こちらの海岸線は大きく曲がり、岩場へ波が打ち寄せていた。
岬の先端には白い波が広がり、海面には細かな光が散らばっている。
「すごいな……」
ルシルも思わず呟いた。
これまでにも海は何度も見てきた。
青波で初めて海を眺めたときの感動も、今でもよく覚えている。
けれど、こうして丘の上から遠くの岬を眺めると、また違う景色が広がっていた。
シモンも窓の外へ目を向け、穏やかに頷いた。
「確かに、見晴らしのよい場所ですね。ローデンさんが教えてくださったとおりです」
「うん! すっごくきれい!」
モモは嬉しそうに笑った。
ルシルは道の先を確認し、少し広くなっている場所を見つけた。
そこは馬車を停めても通行の邪魔にならないよう、道の脇に平らな地面が広がっていた。
「少し停まって見ていこうか」
「いいの?」
モモが顔を輝かせた。
「もちろん。せっかくこんな景色が見えるんだし」
シモンも頷いた。
「道から外れすぎない場所であれば、問題ないでしょう。ただし、岩場のほうへ近づくのは避けましょう」
「分かってるよ!」
モモは元気よく答えた。
ルシルは馬車を安全な場所へ停め、二頭の様子を確認した。
トルクとベルクは落ち着いており、疲れた様子はない。
三人は馬車から降り、道の脇にある平らな草地へ向かった。
そこからは、遠くの岬と海が一望できた。
◇
丘の上を吹く風は、先ほどの木陰よりも少し強かった。
それでも、歩きにくいほどではない。
モモは長い髪を片手で押さえながら、海を眺めていた。
「ねえ、ルシル君。あの岬、すごく遠くにあるように見えるね」
「そうだな。ここからだと、どれくらい離れてるのか分からないな」
ルシルは岬の先端へ目を向けた。
岩の多い場所が海へ突き出し、その周囲には白い波が広がっている。
近くで見れば、きっとまた違う迫力があるのだろう。
けれど、今は遠くから眺めるだけで十分だった。
「海って、本当に広いんだね」
モモが静かに言った。
ルシルは頷いた。
「そうだな。青波で初めて見たときも広いと思ったけど、こうして違う場所から見ると、またそう感じるよ」
シモンは二人の隣に立ち、穏やかに微笑んだ。
「海岸線は場所によって形が違いますからね。入り江もあれば、岬もあります。これから南へ進めば、また違う景色が見られるかもしれません」
「楽しみだなあ」
モモは嬉しそうに笑った。
しばらく三人は、言葉を交わさず海を眺めていた。
風が草を揺らし、遠くで波が砕ける。
岬の向こうには、さらに広い海が続いている。
ルシルはその景色を眺めながら、静かに息を吐いた。
(王城にいた頃は、こんな場所があることすら知らなかったな)
もちろん、地図の上では海岸線の形を知っていた。
どこに港があり、どこに村があり、どの道が交易に使われているのかも、ある程度は学んでいた。
けれど、地図に描かれた線と、実際に目の前へ広がる景色は違う。
海の色も、風の匂いも、波の音も、地図には描かれていない。
それを自分の目で確かめられることが、ルシルには嬉しかった。
「ルシル君?」
モモの声に、ルシルは顔を向けた。
「どうした?」
「なんだか、すごく嬉しそうな顔してる」
モモは楽しそうに笑った。
ルシルは少し照れたように頬を掻いた。
「そうかな」
「うん。海を見てるとき、いつもそんな顔してるよ」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「確かに、ルシル様は海をご覧になると、ずいぶん楽しそうにされますね」
「二人とも、そんなに見てたのか?」
ルシルが笑うと、モモも笑った。
「だって、一緒に旅してるんだもん!」
その返事に、ルシルは思わず笑みを深めた。
「そっか。そうだよな」
三人は顔を見合わせ、穏やかに笑い合った。
◇
モモは旅帳面を取り出し、岬の絵を描き始めた。
ルシルも紙を一枚取り出し、隣へ腰を下ろす。
シモンは少し離れた場所に立ち、周囲の様子を確認しながら二人を見守っていた。
「ねえ、ルシル君。岬って、どこから描けばいいと思う?」
モモが尋ねると、ルシルは自分の紙を見つめた。
「うーん。俺なら、まず海岸線の曲がり方から描くかな」
「やっぱり地図みたいに描くんだね」
モモが笑うと、ルシルも笑った。
「そうみたいだな。どうしても形を考えちゃうんだよ」
「私は、波から描いてみようかな」
「いいんじゃないか? モモの絵は、景色の雰囲気がよく伝わるし」
モモは嬉しそうに頷いた。
二人はそれぞれ紙へ向かい、しばらく絵を描いた。
ルシルは岬の形と海岸線を中心に描き、モモは白い波と青い海を大きく描いた。
同じ景色を見ているのに、出来上がる絵はやはり違う。
そのことが、二人には面白かった。
「できた!」
モモが嬉しそうに声を上げた。
ルシルは顔を上げ、彼女の絵を覗き込んだ。
そこには、白い波が岩場へ打ち寄せる様子が描かれていた。
形は少し不揃いだったが、海の広さと波の勢いがよく伝わってくる。
「いいな。波がすごく大きく見える」
「えへへ。ありがとう!」
モモは嬉しそうに笑った。
ルシルも自分の絵を見せた。
こちらは岬の輪郭がはっきり描かれており、遠くの海岸線との位置関係が分かるようになっている。
「ルシル君の絵、やっぱり地図みたい!」
「もう、そこは諦めたほうがいいのかもしれないな」
ルシルが苦笑すると、モモは楽しそうに笑った。
シモンも二人の絵を眺め、穏やかに頷いた。
「どちらも、今日見た景色を思い出すには十分ですね。あとで並べて見ると、また面白いかもしれません」
「うん!」
モモは嬉しそうに頷き、二枚の絵を丁寧にしまった。
そのとき、ルシルはふと、以前から時折感じていた奇妙な感覚を思い出した。
目の前の景色を、絵とは違う形で残せたら。
そんな考えが、理由もなく頭をよぎったのである。
(……まただ)
ルシルは少しだけ眉を寄せた。
以前にも、似たようなことを考えた覚えがある。
景色をそのまま残す方法。
けれど、それが具体的にどんなものなのか、思い出そうとすると曖昧になってしまう。
今も、何かを手に持つような感覚が一瞬浮かんだだけで、それ以上は分からなかった。
「ルシル様?」
シモンの声に、ルシルは顔を上げた。
「どうかされましたか?」
「ああ、いや。ちょっと考え事をしてただけだよ」
ルシルは小さく笑った。
シモンは少し気にするような表情を見せたが、無理に尋ねることはしなかった。
「そうでしたか。そろそろ出発しましょうか。まだ明るいですが、次に休める場所を探す時間も必要ですから」
「そうだな」
ルシルは頷いた。
先ほどの奇妙な感覚は、すでに薄れている。
今は無理に思い出そうとしても、答えは出ないだろう。
(まあ、また何か思い出したら考えればいいか)
ルシルはそう思い、二人と一緒に馬車へ戻った。
◇
午後の道は、午前中よりも少し平坦になっていた。
丘の高さが低くなり、道の両側には広い草地が続いている。
遠くには海が見え、ときおり鳥が空を横切った。
ルシルは手綱を握りながら、トルクとベルクの歩調を確かめた。
二頭とも落ち着いており、馬車は穏やかな速度で進んでいる。
モモは旅帳面を開き、ローデンから聞いた話と、岬で見た景色を書き込んでいた。
「今日は、書くことがいっぱいだなあ」
モモが嬉しそうに呟いた。
シモンはその様子を見て、穏やかに笑った。
「ローデンさんとの出会いもありましたし、岬の景色も見られましたからね」
「うん! あと、ルシル君がまた地図みたいな絵を描いてたことも書こうかな」
ルシルは思わず笑った。
「そこまで書くのか?」
「だって、面白かったんだもん!」
モモは楽しそうに答えた。
シモンも小さく笑った。
「それも、旅の思い出の一つでしょうね」
「シモンまで……」
ルシルは苦笑したが、嫌な気持ちはしなかった。
むしろ、二人が楽しそうに笑っていることが嬉しかった。
しばらく進むと、道の先に小さな石標が見えてきた。
低い石を積み上げたもので、表面には簡単な方向の印が刻まれている。
ルシルは馬車の速度を落とし、石標の近くへ進んだ。
「シモン、あれは何だろう?」
シモンは窓から石標を確認した。
「道の目印のようですね。進行方向を示しているのでしょう」
石標には、南へ続く道を示す矢印が刻まれていた。
そのほかにも小さな印があったが、風雨で少し摩耗しており、細かな文字までは読み取りにくい。
「この先も道は続いてるみたいだな」
ルシルが言うと、シモンは頷いた。
「ええ。ただ、次の集落までの距離は分かりません。今日は無理をせず、夕方までに休める場所を探しましょう」
「そうだな」
ルシルは頷き、再び馬車を進ませた。
◇
日が少し傾き始めた頃、三人は道の脇に広い草地を見つけた。
そこには低い石壁があり、その内側には平らな地面が広がっている。
近くには小さな木立もあり、風を避けられそうだった。
「ここ、休めそうだね」
モモが言うと、ルシルは周囲を見回した。
「そうだな。道からも少し離れてるし、馬車を停める場所もありそうだ」
シモンは地図を確認し、周囲の様子を慎重に見た。
「地面は安定しているようですが、水場があるかどうかは分かりませんね。まずは確認してみましょう」
三人は馬車を安全な場所へ停め、周囲を調べた。
石壁の内側には、以前誰かが休憩に使ったらしい跡が残っている。
木立の近くには平らな石が置かれ、簡単な腰掛けとして使えそうだった。
ただし、水場は見当たらなかった。
「水は、持っている分を使うことになりそうですね」
シモンが言うと、ルシルは頷いた。
「残りは十分ある?」
「ええ。昨日の休憩場所で補充しましたし、今日の分と明日の朝の分には余裕があります。ただ、明日は早めに水を補充できる場所を探したほうがよいでしょう」
「分かった」
ルシルは頷いた。
モモは周囲を見回しながら、少し考えた。
「もし足りなくなったら、私が水を出すこともできるけど……」
シモンは穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます、モモ嬢。ただ、今は十分にありますから、無理に魔法を使う必要はありませんよ」
「そっか。じゃあ、今ある分を大切に使おうね」
「ええ」
三人は相談し、今日はここで休むことにした。
馬たちの世話を済ませ、荷物を整える。
ルシルはトルクとベルクの首を撫でながら、穏やかに声を掛けた。
「今日もお疲れさま。よく頑張ったな」
トルクは鼻先を伸ばし、ベルクは静かに首を動かした。
モモはその様子を見て、嬉しそうに笑った。
「二人とも、今日も元気だったね」
「そうだな。丘の道も、無理なく進めてよかった」
シモンも頷いた。
「ええ。今日の移動は順調でした。明日も、同じように進めるとよいですね」
三人は顔を見合わせ、穏やかに笑った。
◇
夕食には、昨日の朝市で購入した干し海藻を少し使うことにした。
シモンが保存していた食材を確認し、ルシルとモモが調理の準備を進める。
鍋には水と野菜を入れ、柔らかくなるまで煮込んだあと、戻した海藻を加えた。
温かな湯気が立ち上り、草地には優しい香りが広がっていく。
「いい匂い!」
モモは嬉しそうに鍋を覗き込んだ。
「昨日買った海藻、もう使えるんだね」
「そうだな。潮凪村で買ったものだから、ちょっと懐かしい感じもする」
ルシルが答えると、モモは笑った。
「まだ昨日までいたのにね!」
「確かにな」
三人は笑い合った。
シモンは鍋の中を確認しながら、穏やかに頷いた。
「海藻は煮込んでも形が残っていますね。朝市の方がおっしゃっていたとおりです」
「本当だ。青波で買ったものとは、少し食感が違いそうだな」
ルシルは興味深そうに鍋を見た。
しばらくして料理ができあがり、三人は食器へ取り分けた。
モモは一口食べ、嬉しそうに目を細めた。
「美味しい!」
「よかった。海藻の食感はどう?」
ルシルが尋ねると、モモは少し考えた。
「うん。前に食べたのより、ちょっとしっかりしてる感じ!」
シモンも一口味わい、頷いた。
「確かに、煮込んでも歯ごたえが残っていますね。これは、ほかの料理にも使えそうです」
「じゃあ、また今度違うものに入れてみようか」
ルシルが言うと、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! 楽しみ!」
三人は温かな食事を囲みながら、今日の出来事を振り返った。
木陰で出会ったローデン。
海沿いと内陸を行き来する荷馬車の話。
丘の上から見えた遠い岬。
そして、昨日から続く道の先に、まだ知らない景色があること。
どれも大きな事件ではなかったが、三人にとっては十分に楽しい一日だった。
◇
夕食を終えたあと、モモは旅帳面を開き、今日の出来事をまとめ始めた。
ルシルはその隣で、昼間に描いた岬の絵を見直している。
シモンは明日の道を確認しながら、ときおり二人の会話へ加わっていた。
「ねえ、ルシル君」
モモが顔を上げた。
「ん?」
「今日、ローデンさんに会えてよかったね」
ルシルは頷いた。
「そうだな。道のことも教えてもらえたし、荷運びの仕事の話も面白かった」
「うん。私、海の近くで獲れた魚が、ああやって丘の向こうまで運ばれてるって、ちゃんと考えたことなかったんだ」
モモは旅帳面へ目を落とした。
「でも、ローデンさんみたいな人がいるから、海から離れた場所でも魚を食べられるんだよね」
「そうだな」
ルシルは穏やかに答えた。
シモンも頷いた。
「旅をしていると、普段は見えにくいものが見えてくることがありますね。物が届くまでの道筋も、その一つでしょう」
モモは嬉しそうに笑った。
「うん! これからも、いろんな人の話を聞いてみたいな」
「俺もそう思う」
ルシルは頷いた。
王城にいた頃は、報告書を通して人々の暮らしを知ることが多かった。
けれど、実際に旅をしてみると、同じ土地でも、人によって見ているものが違うことに気づく。
漁師には漁師の景色があり、宿を営む人には宿を営む人の景色がある。
そして、荷馬車を走らせるローデンには、道を行き来する人だからこそ知っている景色がある。
ルシルはそれが、なんだか嬉しかった。
(まだ知らないことが、こんなにたくさんあるんだな)
そのことを不安に思うのではなく、楽しみにできる。
それが今の自分にとって、何より大切なことのように感じられた。
「明日も、どんな人に会えるか楽しみだな」
ルシルが言うと、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! でも、誰にも会わなくても、きっと楽しいよ!」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「そうですね。今日のように景色を眺めるだけでも、十分に楽しめますから」
三人は顔を見合わせ、笑い合った。
◇
夜が深まると、草地は静かな闇に包まれた。
空には星が輝き、遠くの海から微かな波音が届いている。
ルシルは馬車の窓辺に立ち、外の景色を眺めていた。
潮凪村を離れて二日目。
まだそれほど遠くまで来たわけではないが、すでに新しい景色をいくつも見ている。
昨日は丘の道を選び、白い花や小さな鳥に出会った。
今日はローデンから道の話を聞き、遠くの岬を眺めた。
そして明日も、また知らない道が続いている。
ルシルは静かに微笑んだ。
「ルシル君、何見てるの?」
モモが隣へやってきた。
「星だよ。今日はよく見えるなって」
モモも窓の外へ目を向けた。
「本当だ。きれいだね」
シモンも二人の近くへ来て、夜空を眺めた。
「周囲に大きな街の明かりがありませんから、星がよく見えるのでしょうね」
「そうだな」
ルシルは頷いた。
しばらく三人は、言葉を交わさず星空を眺めていた。
夜風は穏やかで、草地には静かな音が広がっている。
モモはふと思いついたように言った。
「ねえ、明日の朝も貝殻飾りを吊るしてみない?」
ルシルは笑った。
「またか?」
「だって、今日は岬を見たり、ローデンさんと話したりしてたから、吊るす時間がなかったでしょ?」
モモは少し頬を膨らませた。
「せっかくいろんな場所で音を聞いてみようって決めたんだもん。明日は試してみたいな」
シモンは穏やかに微笑んだ。
「そうですね。明日の朝、風が穏やかで時間に余裕があれば、少しだけ吊るしてみましょう」
「やった!」
モモは嬉しそうに笑った。
ルシルも頷いた。
「じゃあ、明日の朝の楽しみが一つ増えたな」
「うん!」
三人は笑い合った。
そのあと、シモンが灯りを少し落とし、休む準備を始めた。
モモは旅帳面を閉じ、丁寧にしまう。
ルシルも窓を閉め、寝台へ腰を下ろした。
外では、トルクとベルクが落ち着いた様子で休んでいる。
馬車の中には、青波で手に入れた風魚飾りと、潮凪村で作った三つの貝殻飾りがあった。
旅の荷物は少しずつ増えている。
けれど、それ以上に、三人の心の中にはたくさんの思い出が増えていた。
ルシルは目を閉じる前に、今日出会ったローデンの言葉を思い出した。
道を知っている人に聞くことも大切だという言葉。
自分たちだけですべてを決めようとしなくてもいい。
分からないことがあれば尋ね、助けてもらったら礼を言い、また次の道へ進めばいい。
そんな当たり前のことが、今のルシルにはとても大切に思えた。
(明日も、いい旅になるといいな)
ルシルは静かに微笑んだ。
隣にはモモとシモンがいる。
馬車の外にはトルクとベルクがいて、明日も道は続いている。
王位を離れて選んだ旅は、まだ終わらない。
そして、これから先にも、きっと知らない景色と温かな出会いが待っている。
三人を乗せた馬車は、丘の草地で静かに夜を迎えた。
風は穏やかに吹き続け、遠くの海から届く波音が、眠りにつく三人を優しく包んでいた。




