第94話 海沿いの道と丘の道、どちらを選んでも旅は続きます
潮凪村を出発した三人の馬車は、南へ続く道の途中で、ゆっくりと速度を落とした。
前方には、低い丘の裾を境に二つの道が分かれている。一方は右へ緩やかに曲がり、海岸線に沿って続いていた。もう一方は左手の丘の間へ入り込み、背の低い草木に囲まれた道を南へ伸ばしている。
ルシルは手綱を軽く引き、トルクとベルクを道の端にある広い場所へ誘導した。
二頭は素直に足を止め、栗毛のトルクが小さく鼻を鳴らす。濃い灰色のベルクは耳を動かしながら周囲を見回していたが、落ち着いた様子で立っていた。
「さて、どうしようかな」
ルシルは御者台から二つの道を見比べた。
右手の道からは、海の青さがところどころ見えている。海岸に近い場所では風が少し強くなるのか、道沿いの草が一方向へ傾いていた。
一方、左手の道は丘に挟まれているため、海沿いよりも風が穏やかそうだった。地面には細かな砂利が混じっているものの、見える範囲では比較的平らに整えられている。
「海沿いの道も、丘の道も、どっちも面白そうだね!」
馬車の窓から顔を出したモモが、嬉しそうに言った。
シモンは地図を広げ、周囲の地形と照らし合わせている。
「ミレナさんのお話では、どちらも南へ続いているとのことでした。ただ、海沿いの道には狭い場所があるそうですから、実際の状態を確かめてから決めたほうがよいでしょうね」
「そうだな。ちょっと見てみようか」
ルシルは馬車を安全な場所に停めたまま、御者台から降りた。
モモも続いて外へ出ようとしたが、シモンが先に地面の状態を確かめてから手を差し出した。
「足元に小石がありますから、気をつけてくださいね」
「ありがとう、シモン君!」
モモは軽やかに地面へ降り立ち、周囲を見回した。
潮凪村から離れてまだそれほど時間は経っていない。それでも、村の家々はすでに見えなくなり、聞こえてくるのは風と波、そして遠くで鳴く鳥の声だけになっていた。
「こうして停まってみると、静かだね」
モモが言うと、ルシルは頷いた。
「そうだな。村では朝からいろんな音がしてたから、余計にそう感じるのかもしれない」
シモンは二人の会話を聞きながら、分かれ道の入口を確認した。
海沿いの道は、入口付近こそ十分な幅があるものの、少し先で岩の斜面に近づいている。遠くからでは、その先がどの程度狭くなっているのか判断できなかった。
「少なくとも、見えている範囲だけで海沿いの道を選ぶのは避けたいですね」
「じゃあ、少し先まで歩いて見に行く?」
モモが提案すると、シモンは首を横に振った。
「馬車を長く無人にするわけにはいきませんし、曲がり角の先まで確認するなら、思った以上に時間がかかるかもしれません。ここでは、道の入口と地面の状態を見て判断するのがよいと思います」
ルシルは海沿いの道をもう一度眺めた。
確かに、少し進めば先が見えるという保証はない。途中で狭い場所に出くわした場合、馬車を引き返させるのも簡単ではないだろう。
「それなら、今日は丘の道を選んでみようか。海は昨日も一昨日もたっぷり見たし、丘の向こうがどうなってるのかも気になる」
ルシルが言うと、モモはぱっと表情を明るくした。
「いいね! 丘の道なら、また違う景色が見られそう!」
シモンも地図を確認しながら頷いた。
「私も賛成です。丘の道にも注意は必要ですが、入口から見える範囲では路面が安定しています。まずはそちらへ進み、途中で状況が変われば改めて判断しましょう」
三人の意見が一致すると、ルシルは満足そうに笑った。
「決まりだな。じゃあ、今日は丘の道だ」
そう言ってトルクの首を撫でると、栗毛の馬は返事をするように鼻を鳴らした。
モモはその様子を見て、楽しそうに笑った。
「トルクも賛成してるみたい!」
「どうでしょうね。早く先へ進みたいだけかもしれませんよ」
シモンの言葉に、ルシルも笑った。
「それもありそうだな。でも、今日はゆっくり行くぞ、トルク」
トルクは意味が分かっているのかいないのか、もう一度鼻を鳴らした。
ベルクはそんな相棒の隣で、静かに耳を動かしている。
ルシルは二頭の様子を確かめてから御者台へ戻り、丘の内側へ続く道へ馬車を進ませた。
◇
丘の道へ入ると、海沿いとは空気の感じが少し変わった。
右手に見えていた海は低い丘の陰へ隠れ、代わりに緑の草地と小さな灌木が広がっている。潮の匂いはまだ残っていたが、そこへ乾いた土や草の香りが混じり、風の音も穏やかになった。
道幅は二頭立ての馬車が通るには十分で、地面には細かな砂利が敷かれていた。
ただし、ところどころに浅い轍が残っており、ルシルは車輪が深い部分へ入らないよう、慎重に進む位置を選んでいた。
「こっちの道、思ってたより歩きやすそうだね」
モモが窓から外を眺めながら言った。
「そうだな。馬車もあまり揺れないし、トルクたちも歩きやすそうだ」
ルシルは手綱を握ったまま答えた。
シモンは地図を畳み、窓の外へ目を向けた。
「丘に挟まれているので、海からの風が直接当たりにくいのでしょうね。ただ、雨が降ったあとには水が溜まりそうな場所もありますから、天候によっては印象が変わるかもしれません」
「なるほど。今は乾いてるから走りやすいんだな」
「ええ。道の状態は、天気や季節でも変わりますからね」
モモは興味深そうに頷いた。
「同じ道でも、雨の日と晴れの日じゃ違うんだね」
「そうですね。特に馬車の場合は、車輪が滑ったり、地面に沈んだりすることもあります」
シモンはそう説明してから、少しだけ微笑んだ。
「もっとも、今日はそうした心配をする必要はなさそうですが」
空を見上げれば、薄い雲がところどころに浮かんでいるものの、雨が降りそうな様子はなかった。
モモは安心したように笑い、再び窓の外へ視線を向けた。
しばらく進むと、丘の斜面に小さな白い花が咲いているのが見えた。
背の低い草の間から細い茎を伸ばし、風に揺れている。
「あっ、見て! あの花、かわいい!」
モモが声を上げた。
ルシルは前方を確認しながら、少しだけ視線を向けた。
「本当だ。小さいけど、たくさん咲いてるな」
「うん! 海辺で見た花とは違うみたい」
モモは旅帳面を取り出しかけたが、馬車が少し揺れたため、いったん手を止めた。
「あとで描こうかな。今描いたら、線がぐにゃぐにゃになっちゃいそう」
「それがよいでしょうね。休憩したときに、ゆっくり描けばいいと思います」
シモンが答えると、モモは嬉しそうに頷いた。
ルシルはそんな二人の会話を聞きながら、道の先へ目を向けた。
王城にいた頃、花を見かけることは珍しくなかった。
庭園には季節ごとに美しい花が植えられ、庭師たちが丁寧に手入れをしていた。色や形を揃えて植えられた花壇は見事だったし、来客を迎える場所には特に華やかな花が選ばれていた。
けれど、今目の前にある花は違う。
誰かが植えたわけでも、見せるために整えたわけでもない。
風の吹く丘の斜面で、ただ自然に咲いている。
(どっちもきれいだけど、こういう花を見つけるのも楽しいな)
ルシルは穏やかに微笑んだ。
花の名前は分からない。
それでも、今はその白さと小ささを覚えておけば十分な気がした。
◇
昼が近づく頃、三人は道の脇にある広い草地を見つけた。
そこは低い丘に囲まれた浅い窪地で、道から少し離れた場所には平らな地面が広がっている。車輪の跡もいくつか残っており、旅人が休憩に利用することがある場所のようだった。
ルシルは周囲を見回し、馬車を停めても通行の邪魔にならないことを確かめた。
「ここで昼休みにしようか」
「賛成!」
モモは嬉しそうに答えた。
シモンも頷き、馬車を停める位置を確認した。
「道から十分離れていますし、地面も安定していますね。ここなら二頭も休ませられそうです」
ルシルは馬車をゆっくり草地へ入れ、平らな場所で停車させた。
トルクとベルクの馬具を緩め、身体の状態を確認する。
二頭とも疲れた様子はなく、落ち着いていた。
「お疲れさま。少し休もうな」
ルシルが声を掛けると、トルクは鼻先を伸ばし、餌を期待するようにこちらを見た。
「分かってるよ。ちゃんと用意するから」
ルシルは笑いながら答えた。
シモンが水と飼葉を用意すると、トルクは待ちきれないといった様子で餌桶へ顔を近づけた。一方、ベルクは周囲を確かめてから、ゆっくりと食べ始める。
「二頭とも、いつもどおりですね」
シモンは穏やかに笑った。
「うん。トルクは相変わらず食べるのが早いね」
モモが言うと、ルシルも頷いた。
「ベルクの分まで食べないように見てないとな」
そんな会話をしながら馬たちの世話を終えた三人は、馬車の近くに腰を下ろした。
シモンが布包みを取り出すと、焼きたての香りこそ少し落ち着いていたものの、中にはエルサが持たせてくれたパンが丁寧に並んでいた。
「わあ、いい匂い!」
モモが嬉しそうに声を上げた。
ルシルはパンを一つ手に取り、表面を確かめた。
薄い焼き色がついた丸いパンで、手に持つとほどよい弾力がある。
「エルサさん、こんなに用意してくれたんだな」
「ありがたいですね。今日の昼食は、これをいただきましょう」
シモンは保存していた食料から、パンに添えられるものを少し取り出した。
塩気のある保存食と、野菜を使った簡単な付け合わせだ。
モモはパンを割り、そのまま一口食べた。
「んんっ、美味しい!」
思わず漏れた声に、ルシルは笑った。
「まだ何もつけてないぞ?」
「だって、パンだけでも美味しいんだもん!」
モモは嬉しそうに答えた。
ルシルも一口食べてみる。
外側には軽い歯ごたえがあり、中は柔らかい。噛むほどに穀物の甘みが広がり、朝食を食べてから時間が経っていたこともあって、とても美味しく感じられた。
「本当だ。これは何もつけなくても美味しいな」
「でしょう?」
モモは得意そうに笑った。
シモンもパンを味わい、穏やかに頷いた。
「エルサさんは、毎日の食事を丁寧に作っていらっしゃいましたからね。最後にこうして持たせていただけたのは、本当にありがたいことです」
三人はしばらく、穏やかな昼食を楽しんだ。
草地には柔らかな風が吹き、丘の斜面では白い花が揺れている。
遠くから鳥の声が聞こえるものの、人の気配はほとんどない。
モモはパンを食べ終えると、満足そうに息を吐いた。
「はあ……美味しかった!」
「よかったな」
ルシルは笑った。
「潮凪村を出発したのに、まだエルサさんのご飯を食べられるって、なんだか嬉しいね」
「そうだな。村から少し離れても、こうして思い出せるんだもんな」
ルシルはそう答え、手にしていたパンの最後の一口を食べた。
モモは少し考えてから、馬車のほうへ目を向けた。
「ねえ、ルシル君、シモン君」
「どうした?」
「せっかく停まってるんだし、貝殻飾りを出してみない?」
ルシルは顔を上げた。
「ああ、そういえば、出発するときに話してたな」
「うん! 馬車が走ってる間はしまっておくけど、休憩してるときなら吊るせるでしょ?」
シモンは周囲の風を確かめた。
強い風は吹いておらず、草地を渡る穏やかな風がときおり通り抜けている。
「そうですね。今なら問題ないでしょう。ただし、馬車を動かす前には必ず片づけましょう」
「もちろん!」
モモは嬉しそうに立ち上がった。
◇
三人は馬車の中から、それぞれの貝殻飾りを取り出した。
布包みを開くと、潮凪村の作業小屋で作った三つの飾りが現れる。
ルシルのものは、三枚の貝殻が少し不揃いな間隔で並んでいた。
モモのものは、中央に白い貝殻、その両側に茶色の筋が入った貝殻を組み合わせている。
シモンのものは、三枚の貝殻が整った間隔でつながれており、結び目も丁寧だった。
「やっぱり、三人とも全然違うね!」
モモは嬉しそうに笑った。
ルシルも自分の飾りを眺めながら頷いた。
「そうだな。同じ場所で、同じように教えてもらったのに」
「作る人によって、選ぶ貝殻も結び方も違いますからね」
シモンはそう答え、馬車の窓辺を確かめた。
走行中は揺れが大きくなるため、飾りを吊るしたままにするつもりはない。しかし、停車中なら、風を受ける場所を選んで短い時間だけ楽しむことができる。
三人は紐を傷めないように気をつけながら、馬車の開いた窓の近くへ飾りを吊るした。
最初に風を受けたのは、モモの飾りだった。
白い貝殻と茶色の貝殻が軽く触れ合い、乾いた澄んだ音を響かせる。
「あっ、鳴った!」
モモは嬉しそうに声を上げた。
続いて、ルシルの飾りも揺れた。
不揃いな間隔で並んだ貝殻は、風の強さによって触れ合う場所が変わるらしく、少しばらつきのある音を立てた。
「俺のも鳴ったな」
「うん! ルシル君のは、モモのとちょっと違う音だね!」
モモが楽しそうに言う。
シモンの飾りは、風を受けて静かに揺れていた。
三枚の貝殻はほとんど触れ合わず、ときおり小さな音がするだけだった。
シモンはその様子を眺め、穏やかに微笑んだ。
「私のものは、やはり静かですね」
「でも、きれいだよ!」
モモがすぐに答えた。
「ほら、三つ並べると、シモン君のが一番落ち着いて見えるもん」
ルシルも頷いた。
「そうだな。俺のはちょっと不揃いだし、モモのはよく鳴るし、シモンのは静かで整ってる」
シモンは三つの飾りを見比べた。
確かに、それぞれ違う。
けれど、三つ並んでいると、不思議とまとまりがあるように見えた。
「こうして見ると、面白いものですね」
シモンはゆっくり言った。
「同じ目的で作ったものでも、出来上がりは違う。それでも、どれか一つが正しいというわけではないのですね」
ルシルはその言葉を聞き、少し考えた。
王城にいた頃は、何事にも正しい形があるように感じていた。
礼儀作法にも、書類の処理にも、王族としての振る舞いにも、求められる答えがあった。
もちろん、国を治める立場にある者が責任を持つことは大切だ。
けれど、自分の人生のすべてまで、誰かが決めた形に合わせる必要はなかったのだと思う。
(俺は、俺の形で旅を続けていけばいいんだよな)
ルシルは小さく微笑んだ。
「三人とも違うから、いいんだろうな」
その言葉に、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! 私もそう思う!」
シモンも穏やかに微笑んだ。
しばらく三人は、貝殻飾りが風に揺れる様子を眺めていた。
潮凪村の作業小屋で聞いた音とは少し違う。
海辺では潮風に揺れていた飾りが、今は丘の草地を渡る風に揺れている。
場所が変われば、風の吹き方も変わる。
それでも、貝殻同士が触れ合う音は、確かに潮凪村で作ったものだった。
「ねえ、ルシル君」
モモが静かに声を掛けた。
「ん?」
「これからいろんな場所で、この飾りを吊るしてみたいな」
ルシルはモモへ目を向けた。
「いろんな場所?」
「うん。森の中とか、草原とか、山の近くとか。場所によって風が違うなら、音も変わるかもしれないでしょ?」
モモは目を輝かせながら続けた。
「そうしたら、同じ飾りなのに、いろんな音が聞けるかもしれない!」
ルシルは思わず笑った。
「それ、面白そうだな」
「でしょう?」
シモンも興味深そうに頷いた。
「確かに、風の強さや向きによって音の鳴り方は変わるでしょうね。ただ、強風のときは飾りが傷む可能性もありますから、穏やかな場所を選ぶ必要があります」
「うん! ちゃんと気をつける!」
モモは元気よく答えた。
ルシルは三つの貝殻飾りを眺めながら、これから先の旅を思い浮かべた。
まだ知らない森。
広い草原。
山々の間を抜ける道。
そうした場所で、三人が同じ飾りを吊るし、風の音を聞いている姿を想像すると、自然と笑みがこぼれた。
「じゃあ、これからの旅の楽しみが一つ増えたな」
「うん!」
モモは満面の笑みを浮かべた。
シモンも静かに頷いた。
そのとき、少しだけ強い風が草地を通り抜けた。
モモの飾りが軽やかに鳴り、ルシルの飾りが続いて乾いた音を響かせる。
そして、シモンの飾りも、ほんの一度だけ小さく鳴った。
「あっ!」
モモが声を上げた。
「今、シモン君のも鳴った!」
シモンは少し驚いたように飾りを見た。
整った間隔で並んだ貝殻は、すでに静かに揺れているだけだった。
「……本当ですね」
シモンは穏やかに微笑んだ。
「こういうこともあるのですね」
ルシルは楽しそうに笑った。
「よかったな、シモン」
「ええ。思った以上に嬉しいものですね」
三人は顔を見合わせ、笑い合った。
◇
昼休みを終えた三人は、貝殻飾りを丁寧に布で包み直した。
モモは最後まで名残惜しそうに飾りを眺めていたが、走行中に壊してしまっては元も子もないと分かっているため、きちんと馬車の中へしまった。
ルシルはトルクとベルクの様子を確認し、馬具を整えた。
二頭とも十分に休めたらしく、落ち着いている。
「よし。そろそろ出発しようか」
「はーい!」
モモが元気よく答えた。
シモンは周囲に忘れ物がないことを確かめ、最後に休憩場所を見回した。
食事に使った布や道具はすべて片づけられている。草地には三人が腰を下ろしていた跡が少し残っていたが、散らかしたものはなかった。
「問題ありません。出発できます」
「ありがとう、シモン」
ルシルは御者台へ上がり、手綱を握った。
トルクとベルクが歩き始めると、馬車は再び丘の道へ戻っていく。
昼を過ぎた日差しは朝よりも強くなっていたが、丘を渡る風のおかげで、それほど暑くは感じられなかった。
モモは旅帳面を開き、先ほど見た貝殻飾りの様子を書き始めた。
『潮凪村で作った飾りを、丘の休憩場所で吊るしてみた。私のはよく鳴って、ルシル君のは少し不揃いな音で、シモン君のは静かだった。でも、強めの風が吹いたとき、シモン君の飾りも一回だけ鳴った。』
そこまで書いてから、モモは少し考えた。
そして、続きを書き加えた。
『同じ貝殻飾りでも、場所によって音が違うかもしれない。これからいろんな場所で試してみたい。』
書き終えると、モモは満足そうに頷いた。
シモンはその様子を見て、穏やかに微笑んだ。
「また一つ、旅帳面に書くことが増えましたね」
「うん! 今日もいっぱい書けそう!」
モモは嬉しそうに答えた。
「でも、まだ午後が残ってるんだよね。これから何があるかな?」
ルシルは前を向いたまま笑った。
「さあな。何も起きずにのんびり進むだけかもしれないし、何か面白いものが見つかるかもしれない」
「どっちでも楽しそう!」
モモが即座に答える。
シモンは少し笑いながら頷いた。
「何も起きない穏やかな日も、旅には大切ですからね」
「そうだな」
ルシルは同意した。
旅を始めた頃は、毎日何か新しい出来事が起こることを期待していた。
もちろん、今でも知らない景色や新しい出会いには胸が躍る。
けれど、こうして何事もなく道を進む時間にも、少しずつ楽しさを見つけられるようになっていた。
トルクとベルクの足音。
車輪が砂利を踏む音。
丘を渡る風の音。
そして、馬車の中から聞こえてくるモモとシモンの会話。
どれも、今のルシルにとっては心地よいものだった。
◇
午後の道は、午前中よりも少し起伏が増えていた。
急な坂ではないものの、緩やかな上りと下りが繰り返されるようになり、ルシルは二頭の歩調を見ながら速度を調整した。
丘の斜面には背の低い木々が増え、ところどころに小さな岩が顔を出している。
道の脇には古い木の杭が立っており、旅人が進む方向を見失わないよう、簡単な目印がつけられていた。
「こういう目印があると助かるな」
ルシルが言うと、シモンは頷いた。
「ええ。道が分かりにくい場所では、こうした目印が重要になります。特に霧が出たときなどは、周囲の地形だけでは判断しにくいこともありますから」
「霧かあ。海の近くって、霧が出ることもあるんだよね?」
モモが尋ねた。
「そうですね。湿った空気が冷やされることで、視界が悪くなることがあります。ただ、いつでも発生するわけではありませんし、今の天候なら急に濃い霧が出る可能性は高くなさそうです」
シモンは空を見上げながら答えた。
ルシルも前方を確認した。
道は緩やかに右へ曲がっており、その先には少し開けた場所が見えている。
「じゃあ、今のうちに進めるところまで進もうか。でも、暗くなる前には休める場所を探したいな」
「ええ。今日は潮凪村を出発したばかりですし、無理に距離を稼ぐ必要はありません」
シモンは地図を確認した。
「この先の地形を見ながら、適当な場所を探しましょう。馬たちに水を与えられるかどうかも確認したいですね」
「分かった」
ルシルは頷いた。
モモは窓の外を眺めながら、少し考えていた。
朝は潮凪村を離れるのが少し寂しかった。
けれど、今は新しい道を進むことが楽しくなっている。
貝殻飾りを作った思い出も、エルサからもらったパンの味も、ちゃんと残っている。
だから、村を離れたことを悲しく思う必要はないのだと感じた。
(また行きたい場所が増えたんだもん。それって、すごく嬉しいことだよね)
モモは小さく微笑んだ。
そのとき、道の先で何かが動いた。
「あっ、ルシル君!」
モモが声を上げる。
ルシルはすぐに前方へ目を向け、馬車の速度を落とした。
道の端に、小さな茶色い鳥がいた。
丸みのある身体に短い尾を持ち、地面をつつきながら何かを探している。
「鳥か」
ルシルはほっと息を吐いた。
鳥は馬車に気づくと、慌てた様子で草むらへ飛び込んだ。
モモはその姿を見送り、嬉しそうに笑った。
「かわいかったね!」
「そうだな。小さかったけど、すばしっこかった」
シモンも鳥が消えた草むらへ目を向けた。
「道の端で餌を探していたのでしょうね。馬車に驚いてしまったようですが、無事に逃げられてよかったです」
モモは頷いた。
「うん。今度は、もう少し離れたところから見られるといいな」
ルシルは再び馬車を進ませた。
小さな鳥との出会いは、ほんの一瞬だった。
けれど、モモはそれも旅帳面へ書き加えようと考えているようだった。
ルシルはその様子を見て、少し笑った。
「モモの旅帳面、本当に何冊も必要になりそうだな」
「えへへ。そうかもしれない!」
モモは嬉しそうに答えた。
◇
やがて、丘の間を抜ける道が少しずつ開けてきた。
左手には緩やかな草地が広がり、右手の丘は低くなっている。
その向こうには、久しぶりに海の青さが見えた。
「わあ、海だ!」
モモが嬉しそうに声を上げた。
ルシルも前方を眺め、穏やかに笑った。
「本当だ。丘の道を通ってても、また海が見えるんだな」
シモンは地図を確かめながら頷いた。
「このあたりは丘が低くなっているようですね。海岸線からは少し離れていますが、見晴らしのよい場所があるのでしょう」
道は緩やかな下り坂へ変わり、遠くには草地の向こうへ続く道筋が見えていた。
ルシルは馬車の速度を落とし、慎重に下っていく。
トルクとベルクは落ち着いた足取りで進み、車輪も安定していた。
しばらくすると、道の脇に石を積んだ低い囲いが見えてきた。
その内側には、木製の水桶と簡単な腰掛けが置かれている。
近くには小さな案内板も立っていた。
「休憩場所かな?」
ルシルが言うと、シモンは身を乗り出して案内板を確認した。
そこには、旅人が短時間休むための場所であることと、水の利用についての注意が書かれていた。
「どうやら、道沿いの休憩場所のようですね。ただし、水桶に入っているものをそのまま使うのではなく、奥にある水場から汲むように案内されています」
シモンはそう説明し、周囲を見回した。
石囲いの奥には、丘の斜面から細い水が流れ出している場所があった。
水は浅い石の受け皿へ落ち、そこから小さな溝を通って草地へ流れている。
「ここなら、少し休めそうだな」
ルシルは馬車を停める場所を探した。
道から外れた平らな場所があり、車輪の跡も残っている。
周囲にほかの旅人はいなかった。
「シモン、今日はここで休むのはどうかな?」
ルシルが尋ねると、シモンは空の明るさと周囲の地形を確かめた。
「そうですね。まだ日暮れまでは時間がありますが、ここなら馬たちに水を与えられますし、地面も安定しています。夜を過ごせる場所かどうかは、もう少し確認してから決めましょう」
「うん。じゃあ、まずは停めてみよう」
ルシルは頷き、馬車をゆっくりと休憩場所へ入れた。
◇
馬車を停めたあと、三人は周囲の状態を確かめた。
石囲いの内側は風が少し弱く、地面も乾いている。
水場から流れる水は澄んでいたが、シモンは念のため、流れの上流側や周囲に異常がないか確認した。
「見たところ、水場の管理はされているようですね。ただ、飲用に使う分はいつもどおり確認してからにしましょう」
「分かった。トルクたちの水も、様子を見ながら用意しよう」
ルシルは頷いた。
モモは石囲いの近くに置かれた木製の腰掛けへ目を向けた。
長く使われているらしく、表面は少し滑らかになっていたが、壊れている様子はない。
「ここ、旅人さんがよく休む場所なのかな?」
「そうかもしれませんね」
シモンが答えた。
「水場があって、馬車を停める場所もありますから。海沿いの道を避けて丘の道を選んだ人には、便利な場所なのでしょう」
ルシルは周囲を見回した。
遠くには海が見え、近くには草地と低い丘が広がっている。
潮凪村のように家々が並んでいるわけではないが、旅人が安心して足を止められる場所があるのはありがたかった。
「今日はここで休もうか。まだ明るいし、馬たちも疲れきってるわけじゃないけど、無理して先へ進む理由もないし」
モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! ここ、景色もいいもんね!」
シモンも穏やかに微笑んだ。
「私も賛成です。日が暮れる前に準備を終えられますし、明日の出発も落ち着いて行えるでしょう」
三人の意見が一致すると、ルシルはトルクとベルクの首を撫でた。
「今日はここまでだな。二人とも、お疲れさま」
トルクは小さく鼻を鳴らし、ベルクは静かに首を動かした。
ルシルは二頭の馬具を緩め、シモンと協力して休ませる準備を進めた。
モモも水桶や飼葉の用意を手伝い、三人は慣れた手順で作業を進めていく。
旅を始めた頃に比べると、こうした準備にもずいぶん慣れてきた。
誰か一人がすべてを指示しなくても、それぞれが必要なことを考え、自然に動けるようになっている。
ルシルはそのことに気づき、少し嬉しくなった。
(こうして一緒に旅を続けてきたんだな)
王城を離れたばかりの頃は、何もかもが新鮮だった。
馬車で寝泊まりすることも、道端で食事を作ることも、馬たちの世話をすることも、初めて知ることばかりだった。
今でも知らないことはたくさんある。
けれど、三人で協力すれば、少しずつできることが増えていく。
その変化が、ルシルには嬉しかった。
◇
夕方が近づくと、丘の向こうへ傾き始めた日差しが、草地を柔らかな金色に染めていった。
三人は馬車の近くで簡単な夕食の準備を進めていた。
今日は移動日だったため、手間のかかる料理は避け、保存していた食材と水を使って温かな汁物を作ることにした。
モモは鍋の中を覗き込み、嬉しそうに笑った。
「いい匂いがしてきた!」
「もう少し煮込めば食べられると思うよ」
ルシルは火加減を確かめながら答えた。
シモンは食器を並べ、周囲の安全を確認している。
「日が落ちる前に食事を終えられそうですね。今日は移動も順調でしたし、よい一日になりました」
「そうだな。分かれ道ではちょっと迷ったけど、丘の道を選んでよかったと思う」
ルシルが言うと、モモも頷いた。
「うん! 白い花も見られたし、かわいい鳥もいたし、貝殻飾りも鳴らせたもん!」
シモンは穏やかに笑った。
「海沿いの道を選んでいたら、また違う景色が見られたのでしょうね」
「そうだろうな」
ルシルは頷いた。
そして、少し考えてから続けた。
「でも、どっちを選んでも、きっと楽しかったと思うよ」
モモは顔を上げた。
「どうして?」
「だって、どっちの道にも知らないものがあるだろ? 海沿いなら海沿いの景色があっただろうし、丘の道には今日みたいな花や草地があった。どっちが正解ってわけじゃないんじゃないかな」
ルシルは鍋をかき混ぜながら、穏やかに笑った。
「俺たちが選んだ道を、楽しめればそれでいいと思うんだ」
モモはしばらくその言葉を考えていた。
やがて、嬉しそうに笑った。
「うん! そうだね!」
シモンも静かに頷いた。
「もちろん、安全に進めることが前提ですが、そのうえで自分たちが選んだ道を楽しむという考え方は、私もよいと思います」
ルシルは笑った。
「そこはシモンらしいな」
「安全は大切ですからね」
シモンも微笑んだ。
三人は顔を見合わせ、穏やかに笑い合った。
やがて汁物ができあがり、三人は温かな食事を囲んだ。
丘の風は少し冷たくなり始めていたが、温かな料理を食べていると、身体の内側からゆっくりと温まっていく。
モモは満足そうに息を吐いた。
「はあ……美味しい!」
「よかった。今日は簡単なものだけどな」
ルシルが言うと、モモは首を横に振った。
「簡単でも美味しいものは美味しいよ!」
シモンも頷いた。
「旅先では、こうして温かな食事を取れるだけでもありがたいことですからね」
ルシルは二人の言葉を聞き、嬉しそうに笑った。
食事を終えたあとは、火の始末を確かめ、使った道具を片づけた。
空は少しずつ夕暮れの色へ変わり、遠くの海には淡い橙色の光が広がっている。
モモはその景色を眺めながら、ふと思いついたように言った。
「ねえ、今日も貝殻飾りを吊るしてみない?」
ルシルは笑った。
「気に入ったな、モモ」
「うん! だって、朝は潮凪村で聞いて、お昼は丘の草地で聞いたでしょ? 夕方の風だと、また違うかもしれないもん!」
シモンは周囲の風を確かめ、頷いた。
「今のところ風は穏やかですね。暗くなる前に片づけるのであれば、少しだけ楽しんでもよいでしょう」
「やった!」
モモは嬉しそうに馬車へ向かった。
◇
三つの貝殻飾りが、再び馬車の窓辺に並んだ。
夕方の風は昼間よりも弱く、貝殻はゆっくりと揺れている。
モモの飾りがときおり小さな音を立て、ルシルの飾りがそれに続く。
シモンの飾りは、ほとんど音を立てず、静かに揺れていた。
「お昼とは、ちょっと違うね」
モモが言った。
「そうだな。風が弱いから、音も静かだ」
ルシルは穏やかに答えた。
シモンは三つの飾りを眺めながら、少し微笑んだ。
「こうして一日の中でも違いがあるのですね。モモ嬢の言うとおり、場所だけでなく時間によっても音が変わるのかもしれません」
「でしょう?」
モモは嬉しそうに笑った。
「だから、これからもいろんな場所で試してみたいな」
ルシルは頷いた。
「そうだな。次はどんな風が吹いてるだろうな」
三人はしばらく、貝殻飾りが揺れる様子を眺めていた。
潮凪村を離れて、まだ一日も経っていない。
けれど、村で作った飾りは、すでに新しい旅の景色の中へ溶け込んでいる。
ルシルはそのことが、なんだか嬉しかった。
旅先で出会ったものを、次の場所へ持っていく。
そして、新しい景色の中で、また違う楽しみ方を見つける。
そうして少しずつ、旅の思い出がつながっていくのだろう。
(この先も、いろんなものを見つけたいな)
ルシルは穏やかに微笑んだ。
やがて日が沈み始めると、シモンが声を掛けた。
「そろそろ片づけましょう。暗くなる前に、明日の準備も済ませておきたいですから」
「そうだな」
ルシルは頷いた。
モモも名残惜しそうに飾りを見上げたあと、嬉しそうに笑った。
「うん! また明日、どこかで吊るそうね!」
三人は貝殻飾りを丁寧に外し、それぞれの布包みへ戻した。
馬車の中には、青波で手に入れた風魚飾りが静かに揺れている。
その近くへ三つの包みをしまい、モモは満足そうに頷いた。
「よし。これで大丈夫!」
ルシルは笑った。
「明日も楽しみだな」
「うん!」
モモは元気よく答えた。
シモンも穏やかに微笑んだ。
「明日は、また道の様子を見ながら進みましょう。今日のように無理なく移動できればよいですね」
「そうだな。焦らず行こう」
ルシルは頷いた。
◇
夜になると、丘の休憩場所は静かな闇に包まれた。
空には星が輝き、遠くの海からは微かな波音が届いている。
三人は馬車の中で、それぞれの時間を過ごしていた。
モモは旅帳面を開き、今日の出来事を書き足している。
ルシルは昼間に見た白い花を思い出しながら、簡単な絵を描いていた。
シモンは灯りのそばで本を読んでいたが、ときおり二人の様子を見て、穏やかに微笑んでいる。
「ねえ、ルシル君」
モモが顔を上げた。
「ん?」
「今日の道、丘のほうを選んでよかったね」
ルシルは微笑んだ。
「そうだな。楽しかった」
「でも、海沿いの道も気になるなあ」
モモは少し考えたあと、楽しそうに続けた。
「いつかまた近くを通ることがあったら、今度は海沿いを選んでみるのもいいかもね」
ルシルは頷いた。
「ああ。そのときの道の状態がよければな」
シモンも本から顔を上げた。
「そうですね。道は逃げませんから、無理に今日すべてを見ようとする必要はありません」
モモはその言葉を聞き、嬉しそうに笑った。
「そっか。そうだよね!」
ルシルは二人の顔を見ながら、静かに微笑んだ。
どちらの道を選んでも、旅は続いていく。
選ばなかった道に何があったのか、今は分からない。
けれど、それを残念に思う必要はなかった。
自分たちで考え、相談して選んだ道には、今日一日だけでもたくさんの小さな楽しみがあったのだから。
ルシルは描きかけの花の絵へ目を向けた。
白い花は、昼間に見たものより少し大きく描かれてしまっていた。
けれど、それでもよかった。
あの丘で見つけた花を、忘れないための絵なのだから。
「明日は、どんな景色が見られるかな」
ルシルが呟くと、モモは嬉しそうに答えた。
「きっと、また面白いものがあるよ!」
シモンも穏やかに頷いた。
「ええ。ですが、まずは今夜ゆっくり休むことですね」
三人は笑い合った。
馬車の外では、丘を渡る風が静かに草を揺らしている。
潮凪村の貝殻飾りは、今は布に包まれて眠っていた。
けれど、明日になれば、また新しい場所で風を受けることができるだろう。
ルシルは灯りを少し落とし、窓の向こうに広がる夜空を眺めた。
王位を離れ、自由な旅を選んだ自分には、もう誰かが決めた行き先はない。
けれど、それは不安なことではなかった。
隣にはモモとシモンがいて、馬車の外にはトルクとベルクがいる。
そして、道は明日も続いている。
それだけで、十分だった。
ルシルは穏やかな気持ちで目を閉じた。
丘の風は静かに吹き続け、三人を乗せた馬車は、次の朝を待ちながら、ゆっくりと夜の時間を過ごしていくのだった。




