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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第93話 潮凪村を離れる朝、三人の荷物には思い出が増えていました



 潮凪村で迎える三度目の朝、ルシルは窓の外から聞こえてきた小さな音に、ゆっくりと目を開けた。


 浜灯りの家の二階にある客室には、まだ柔らかな朝日しか差し込んでいない。窓の向こうでは海から吹く風が家々の間を通り抜け、軒先に吊るされた貝殻飾りを揺らしていた。乾いた貝殻同士が触れ合う控えめな音は、最初にこの村へ来たときには珍しく感じられたものだったが、今では朝を知らせる音のように思える。


 ルシルは寝台の上で身体を起こし、しばらくその音を聞いていた。


 昨日は朝市を歩き、村の人々から魚や海藻について教わったあと、入り江の北側にある丘へ出かけた。そこから眺めた潮凪村は、家々が穏やかな入り江を囲むように並んでおり、海沿いの道から見たときとはまったく違う表情を見せてくれた。


 丘の上でモモと並んで絵を描いたことも、まだ鮮明に覚えている。


 自分の描いたものは、景色というより簡単な地図に近かった。けれど、モモはそれを見て、村の形がよく分かると嬉しそうに笑ってくれた。


(ああいう時間も、旅の楽しみなんだよな)


 ルシルは小さく微笑み、寝台から降りた。


 王城にいた頃は、朝起きればその日の予定が決まっていた。誰と会い、どの書類を確認し、どのような振る舞いを求められるのかまで、ほとんど自分の意思とは関係なく決まっていたものだ。


 今は違う。


 今日どこへ行くのか、あるいはどこにも行かずに過ごすのか。それを、隣にいる大切な仲間たちと相談して決められる。


 窓へ近づいたルシルは、少しだけ外を眺めた。


 低い石壁に囲まれた家々の向こうには、朝の光を受けた入り江が見えている。水面には淡い金色が広がり、沖へ向かう小舟がゆっくりと進んでいた。


 村の道を歩く人々の姿もある。


 肩に籠を担いだ男性が、家の前に立つ女性へ手を振っていた。女性は何かを言い返したあと、笑いながら家の中へ戻っていく。


 何気ない朝の光景だった。


 けれど、ルシルはその様子を見ているうちに、胸の奥へ静かな温かさが広がるのを感じた。


「おはようございます、ルシル様。もう起きていらしたのですね」


 背後から声がして振り返ると、シモンが隣の寝台で身体を起こしていた。


 黒髪には少し寝癖が残っており、まだ眼鏡も掛けていない。普段のきちんとした姿を見慣れているルシルにとっては、旅先でしか見られない、少し珍しい姿だった。


「おはよう、シモン。貝殻の音が聞こえてさ。なんとなく目が覚めたんだ」


「そうでしたか。昨夜も風が穏やかでしたから、よく眠れましたね」


「ああ。あの音、最初は珍しかったけど、今じゃすっかり聞き慣れた気がする」


 シモンは眼鏡を掛け、窓辺へ近づいた。


 しばらく二人で外を眺めていると、遠くから荷車の車輪が石畳を通る音が聞こえてきた。昨日の朝市ほど賑やかではないものの、村の人々はすでにそれぞれの仕事を始めているようだった。


「今日で、潮凪村に来てから三度目の朝ですね」


「そうだな。到着した日は、宿を探して夕食を食べたら、もう夜だったのに」


「ええ。それから貝殻飾りを作り、朝市を見て、丘の上まで歩きました。思い返すと、いろいろなことを経験しましたね」


 シモンは穏やかに微笑んだ。


 ルシルはその横顔を見て、少し考えたあと、口を開いた。


「なあ、シモン。今日はどうしたい?」


「今日、ですか?」


「ああ。俺は、そろそろ次の場所へ進んでみてもいいかなって思ってるんだ。でも、ここにもう少しいるのも悪くないし、シモンはどうかなって」


 シモンはすぐには答えなかった。


 窓の外へ目を向け、入り江を眺めながら考えている。


 以前なら、こういう質問をされると、まず旅程や物資の状況を説明していたかもしれない。もちろん、それらは今でも大切な判断材料だが、ルシルが尋ねているのは、そうした事情だけではなかった。


「私も、そろそろ次の道を進んでみたいと思っています」


 やがて、シモンはそう答えた。


「潮凪村で過ごした時間は、とても楽しいものでした。だからこそ、ほかの場所でも、こうした出会いがあるのではないかと考えるようになりまして」


「……そっか」


 ルシルは嬉しくなり、思わず笑った。


「いいな、それ。俺も同じ気持ちだよ」


「ただし、出発するのであれば、馬たちの状態や天候を確認してからですね。急いで決める必要はありませんし、モモ嬢の希望も聞きましょう」


「もちろん。朝ご飯のときに相談しよう」


 シモンは頷き、寝台の脇に置いていた荷物へ目を向けた。


 そこには、昨日までに使った衣服や旅の道具が、いつものように整えられている。


 しかし、その隣には見慣れない小さな布包みが一つあった。


「それ、昨日作った貝殻飾りだろ?」


 ルシルが尋ねると、シモンは布包みを手に取った。


「ええ。まだ馬車へ移していませんから、出発するなら忘れないようにしなければなりませんね」


「シモンの飾り、きれいにできてたよな」


「ありがとうございます。ただ、音はあまり鳴りませんでしたが」


 シモンは少し苦笑した。


 作業小屋で作った飾りは、三枚の貝殻が整った間隔で並んでいた。見た目はきれいだったものの、風に揺れても貝殻同士が触れ合いにくく、モモの飾りほど音が鳴らなかったのである。


「でも、気に入ってるんだろ?」


「もちろんです」


 シモンは迷わず答えた。


「最初は、もう少し調整したほうがよいかとも思いました。ですが、リーナさんに、静かな飾りにもよさがあると教えていただきましたから」


 布の端を少し開き、シモンは中の貝殻を確かめた。


「それに、あの飾りを見れば、三人で作業した時間を思い出せます。そう考えると、形を整え直す必要はないように思えるのです」


 ルシルは静かに頷いた。


「そうだな。俺のも、結び目がちょっと不揃いだけど、そのまま持っていくつもりだよ」


「ええ。それがよいと思います」


 二人は顔を見合わせ、穏やかに笑った。


 窓の外では、貝殻の音がもう一度小さく響いていた。


     ◇


 一階の食堂へ下りると、焼いたパンの香りが三人を迎えてくれた。


 厨房ではエルサが朝食の準備を進めており、大きな鍋から温かな湯気が立ち上っている。窓辺の席にはすでにモモが座っていて、旅帳面を開きながら何かを書き込んでいた。


「おはよう、モモ。今日も早いな」


 ルシルが声を掛けると、モモは顔を上げた。


「おはよう、ルシル君、シモン君! 昨日の丘のこと、もう少し書いておきたくて」


 モモは嬉しそうに帳面を見せた。


 そこには、入り江を囲むように並ぶ家々の絵と、丘から見えた景色についての文章が書かれていた。昨日描いた絵とは別に、今朝になって思い出したことを付け加えているらしい。


「丘から見たとき、海が二つの色に分かれて見えたでしょ? 入り江の中は少し緑っぽくて、外側はもっと青かったから、それも書いておこうと思ったの」


「よく覚えてるな。俺は村の形ばっかり気にしてたよ」


「ルシル君は地図みたいな絵を描いてたもんね」


 モモが笑うと、ルシルも笑った。


「そうなんだよな。景色を描こうとしたのに、気づいたら道や家の位置を考えてた」


「でも、あれはあれで面白かったよ。私の絵と並べると、同じ場所を見てたのに違うものを見てたって分かるし」


 シモンは二人の会話を聞きながら、穏やかに頷いた。


「人によって注目するものが違うのは、興味深いことですね。私も、あの丘では入り江の形や道の通り方を見ていましたから」


「じゃあ、シモン君もルシル君と似てるのかな?」


「そうかもしれません。ただ、私は漁船がどのあたりを通っているのかも気になりましたね」


 モモは少し驚いたように目を丸くした。


「そっか。シモン君は舟のことも見てたんだ」


 三人がそんな話をしていると、エルサが朝食を運んできた。


「おはよう、みんな。今朝も楽しそうね」


「おはようございます、エルサさん!」


 モモが元気よく答える。


 エルサは笑いながら皿を並べた。


 今日の朝食は、豆と根菜を煮込んだ温かな汁物に、焼いた薄いパンと香草を添えた魚料理だった。魚は小さくほぐされ、表面には軽く焼き色がついている。


「今朝は少しあっさりした味にしてみたの。昨日の朝市で手に入れた野菜も使っているから、よかったら食べてみてね」


「ありがとうございます。いただきます!」


 モモは嬉しそうに答え、パンを手に取った。


 ルシルも汁物を一口飲み、思わず表情を緩めた。


 豆の柔らかな甘みと野菜の旨味が広がり、身体の内側から温まるような味だった。


「美味しいですね。朝からこういう料理を食べられると、元気が出ます」


 ルシルが感想を伝えると、エルサは嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう。旅をしていると、朝から身体を動かすことも多いでしょう? だから、うちではなるべく温かいものを出すようにしているの」


 シモンも頷いた。


「ありがたいことです。馬車で移動する日も、朝食をしっかり取っておくと助かりますから」


 その言葉を聞いたエルサが、少しだけ首を傾げた。


「あら。今日は出発する予定なの?」


 ルシルはモモへ目を向けた。


「実は、今朝シモンとその話をしてたんです。そろそろ次の場所へ進んでみてもいいかなって」


「そうなのね」


 エルサは穏やかに頷いた。


 モモはパンを置き、二人の顔を見比べた。


「今日、出発するの?」


「まだ決めてないよ。モモにも聞いてからにしようと思ってたんだ」


 ルシルは笑って答えた。


「俺もシモンも、次の道へ進んでみたい気持ちはある。でも、もう少し村にいたいなら、それでもいいと思ってる」


 モモはすぐには答えなかった。


 窓の外へ目を向け、少し考えている。


 貝殻飾りを作った作業小屋。


 朝市で出会った人々。


 丘の上から見た入り江。


 どれも楽しく、思い出すだけで嬉しくなるものばかりだった。


 けれど、旅帳面にはまだ白い頁がたくさん残っている。


(ここにずっといたら、きっと毎日楽しいんだろうな。でも、ほかの場所にも行ってみたい。知らない景色も、知らない食べ物も、まだいっぱいあるんだもん)


 モモはゆっくり顔を上げた。


「私も、次の場所へ行ってみたい!」


 明るい声だった。


「潮凪村はすごく好きになったけど、だからこそ、ほかにもこんなふうに好きになれる場所があるのかなって思うの」


 ルシルは嬉しそうに笑った。


「そっか。じゃあ、今日は出発しようか」


「うん!」


 シモンも穏やかに頷いた。


「では、朝食を終えたら準備を進めましょう。天候と馬たちの状態を確認して、問題がなければ午前中に出発する形でよいでしょう」


 エルサは三人の会話を聞きながら、静かに微笑んでいた。


「そう。今日出発するのね」


 その声には少しだけ寂しさが混じっていたが、引き留めるような響きはなかった。


「短い間だったけれど、三人が楽しそうに過ごしてくれて、私も嬉しかったわ」


「こちらこそ、本当にお世話になりました」


 ルシルが頭を下げると、エルサは首を横に振った。


「まだ朝ご飯の途中でしょう? お別れの挨拶は、ちゃんと食べ終わってからにしましょうね」


 そう言って笑うエルサにつられ、三人も笑った。


 出発を決めたからといって、慌ただしく食事を終える必要はない。


 ルシルは温かな汁物をもう一口飲み、浜灯りの家で食べる最後の朝食をゆっくり味わった。


     ◇


 食事を終えたあと、三人はそれぞれの客室へ戻り、荷物をまとめ始めた。


 ルシルとシモンの部屋には、旅に必要な衣服や身の回りの道具が整えて置かれている。普段から馬車での移動を前提に荷物を管理しているため、大きな支度は必要なかったが、今回は潮凪村で手に入れたものを忘れずにしまわなければならなかった。


 ルシルは机の上に置いていた紙を手に取った。


 そこには、昨日の丘から眺めた入り江が描かれている。


 海岸線の曲がり方や家々の位置を気にしすぎたせいで、景色の絵というより簡単な案内図に近い仕上がりだった。それでも、どこから村を眺めたのかはよく分かる。


「これも持っていこう」


 ルシルは紙を丁寧に折らずに重ね、傷まないようにしまった。


 続いて、貝殻飾りの布包みを開く。


 三枚の貝殻は昨日と変わらず、少し不揃いな間隔でつながっていた。作業小屋で結び目を作るのに苦労したことを思い出し、ルシルは小さく笑った。


「どうされました?」


 シモンが尋ねる。


「いや、これを作ったときのことを思い出してさ。リーナさんに何度も教えてもらったなって」


「ああ、結び目ですね」


「そう。馬車の荷物を縛るのとは全然違って、思ったより難しかった」


 シモンは自分の飾りを包みながら頷いた。


「私も、見た目を整えることばかり考えていました。風に当てたとき、ほとんど音が鳴らなかったのは予想外でしたね」


「でも、あれはあれでよかったと思うよ」


「ええ。私もそう思います」


 シモンは布包みを丁寧に閉じた。


 ルシルはその様子を見ながら、ふと尋ねた。


「シモンはさ、こういうものを持ち歩くのって、前から好きだった?」


 シモンは少し考えた。


「以前は、あまり意識したことがありませんでしたね。旅に必要なものを選ぶときも、まず実用性を考えていましたから」


「そうだよな」


「ですが、今は少し違います」


 シモンは包みを手にしたまま、穏やかに続けた。


「役に立つかどうかだけでなく、持っていたいと思えるものがあるのは、悪くありませんね。荷物が増えすぎないよう気をつける必要はありますが」


 最後の一言に、ルシルは思わず笑った。


「そこはやっぱりシモンだな」


「当然です。馬車にも積める量がありますからね」


 シモンも笑った。


 ルシルはその表情を見て、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 王城を出たばかりの頃、シモンは自分のことよりもルシルの安全や旅の準備を優先していた。今でもその気遣いは変わらないが、こうして自分の思い出を大切にする姿を見ると、旅に出てよかったと改めて思える。


「これからも、気に入ったものがあったら持っていこうな」


「ええ。ただし、置き場所は相談してくださいね」


「分かってるよ」


 二人は笑い合い、荷物をまとめる作業へ戻った。


     ◇


 一方、モモの客室では、少し違う問題が起きていた。


 寝台の上には旅帳面と筆記具、昨日作った貝殻飾り、それから青波の南浜で拾った空の貝殻が並んでいる。


 どれも大切なものだったが、そのまま一緒に包むと、移動中にぶつかって傷ついてしまいそうだった。


「うーん……どうしようかな」


 モモは腕を組み、並べた貝殻を見つめた。


 青波の南浜で拾った貝殻は、波打ち際で見つけたものだった。潮凪村の飾りとは違い、穴を開けたり紐を通したりしていないが、それぞれ形や色が異なっている。


 拾ったときのことも、よく覚えていた。


 初めて海へ足を入れた日のこと。


 砂浜を歩きながら、ルシルと一緒に空の貝殻を探したこと。


 海辺の鳥を見つけ、買ったばかりの本で名前を調べたこと。


 どれも、簡単には手放したくない思い出だった。


(全部持っていきたいけど、壊れたら嫌だなあ)


 モモはしばらく考えたあと、貝殻を一つずつ布で包むことにした。


 まず青波で拾ったものを小さな包みに分け、潮凪村で作った飾りは別の布へ置く。紐が絡まないように整え、貝殻同士が直接触れ合わないよう、布を折り込んでいった。


 その途中で、扉の向こうからルシルの声がした。


「モモ、準備はどう?」


「もうちょっと! 貝殻を包んでるところ!」


「手伝おうか?」


「うん、お願い!」


 モモが扉を開けると、ルシルとシモンが廊下に立っていた。


 二人は寝台の上に並んだ貝殻を見て、事情を察したように頷いた。


「なるほど。これなら、もう少し布を使ったほうがよさそうですね」


 シモンは貝殻飾りの包みを確かめながら言った。


「紐の部分を無理に折り曲げると、結び目が傷むかもしれません。貝殻を重ねず、平らな状態で包むほうがよいでしょう」


「そっか。じゃあ、こうかな?」


 モモは布を広げ直し、飾りを置いた。


 ルシルは青波で拾った貝殻を一つずつ包み、シモンは飾りの紐が絡まないように整える。


 三人で作業を進めると、先ほどまで難しく感じていた荷造りも、思ったより早く終わった。


「できた!」


 モモは満足そうに包みを持ち上げた。


「これなら大丈夫そうだね」


「そうだな。馬車でも、上に重いものを置かない場所へしまおう」


 ルシルが答えると、シモンも頷いた。


「棚の中で動かないようにしておけば、問題ないでしょう」


 モモは二人へ嬉しそうに笑いかけた。


「ありがとう! 二人がいてくれてよかった!」


「大げさだな」


 ルシルは笑ったが、悪い気はしなかった。


 モモは包みを大切に抱え、旅帳面へ目を向けた。


 潮凪村で過ごした二日間の記録は、すでに何頁にもわたっている。貝殻飾りの作り方や村の人々との会話、朝市で見たもの、丘から眺めた入り江のことまで、書きたいと思ったことを少しずつ残してきた。


「ねえ、ルシル君」


「ん?」


「私、この村のこと、きっと忘れないと思う」


 モモは帳面を手に取りながら言った。


「でも、忘れないって思ってても、時間が経ったら細かいことは思い出せなくなるかもしれないでしょ。だから、こうして書いておいてよかったなって」


 ルシルは静かに頷いた。


「そうだな。俺も、昨日描いた絵を見たら、丘からの景色を思い出せそうだよ」


「うん。だから、これからもいっぱい書くんだ」


 モモは嬉しそうに笑った。


「旅が終わる頃には、すごく分厚い帳面になってるかもしれないね」


「その頃には、新しい帳面が何冊も必要になっているかもしれませんよ」


 シモンが言うと、モモは目を輝かせた。


「それも楽しそう!」


 三人は笑い合い、最後に部屋の中を確認した。


 寝台の下や机の引き出し、窓辺にも忘れ物はない。


 モモは部屋の扉を閉める前に、もう一度だけ中を見回した。


 短い滞在だったが、この部屋で旅帳面を書き、貝殻飾りを眺めながら過ごした時間は、とても心地よいものだった。


「お世話になりました」


 誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。


 それからモモは扉を閉め、二人と一緒に階段を下りていった。


     ◇


 一階では、エルサが食堂の片づけを進めていた。


 三人が荷物を持って現れると、彼女は手を止め、穏やかな笑顔を向けてくれた。


「あら、もう準備ができたのね」


「はい。忘れ物も確認しました」


 ルシルが答えると、エルサは頷いた。


「それなら安心ね。少し待っていてくれるかしら」


 エルサは厨房へ戻り、しばらくして小さな布包みを持ってきた。


 包みからは、焼きたてのパンの香りが漂っている。


「これ、道中で食べてちょうだい。今朝焼いたものだから、今日のうちなら美味しく食べられるわ」


 モモは驚いたように目を丸くした。


「えっ、いいんですか?」


「もちろん。馬車で移動するなら、途中でお腹が空くでしょう?」


 エルサは笑いながら包みを差し出した。


 ルシルは両手で受け取り、丁寧に頭を下げた。


「ありがとうございます。こんなにしていただいて、本当に助かります」


「気にしないで。三人が楽しそうに過ごしてくれたから、私も嬉しかったのよ」


 エルサはそう言いながら、少しだけ表情を和らげた。


「宿をやっているとね、いろんな旅人さんが来るの。急いで先へ向かう人もいれば、仕事で疲れている人もいる。もちろん、それぞれ事情があるから、どんな過ごし方でもいいんだけれど」


 エルサは三人の顔を順に見た。


「あなたたちは、この村の小さなものを一つひとつ楽しんでくれたでしょう。貝殻飾りを見て、朝市へ行って、丘の上まで歩いて。そういう話を聞いていると、私まで村のことを新しく知ったような気持ちになったわ」


 ルシルは少し驚いた。


 自分たちはただ、気になったものを見て回っただけだった。


 けれど、それを喜んでくれる人がいるのだと思うと、胸の奥が温かくなった。


「俺たちも、この村へ来てよかったと思っています」


 ルシルはゆっくり答えた。


「最初は、海沿いにある小さな村だと思っていました。でも、ここで暮らしている人たちと話してみたら、知らなかったことがたくさんあって……。短い間でしたけど、すごく楽しかったです」


「私も!」


 モモが続けた。


「貝殻飾りを作れたのも嬉しかったし、エルサさんのご飯も毎回美味しかったです!」


 エルサは声を立てて笑った。


「まあ、ありがとう。そう言ってもらえると、料理を作った甲斐があるわ」


 シモンも丁寧に頭を下げた。


「滞在中は大変お世話になりました。部屋も快適でしたし、村のこともいろいろ教えていただきました」


「こちらこそ。三人とも、どうか気をつけてね」


 エルサは少し考えたあと、玄関のほうへ目を向けた。


「そうそう。出発する前に、裏庭の貝殻飾りをもう一度見ていく?」


 モモは嬉しそうに顔を上げた。


「いいんですか?」


「もちろん。娘が作ったものだけれど、あなたたちにも気に入ってもらえたみたいだから」


 三人はエルサに案内され、家の裏手へ回った。


 小さな庭には、以前見せてもらった貝殻飾りが吊るされている。


 白い貝殻と薄茶色の貝殻を組み合わせた飾りは、長い年月を経て少し色が変わっていたが、丁寧に手入れされていた。


 風が吹くと、貝殻が小さく触れ合った。


 モモはしばらくその音を聞き、静かに微笑んだ。


「やっぱり、いい音ですね」


「ありがとう」


 エルサは飾りを見上げた。


「娘が小さい頃に作ったものだから、今見ると少し不器用なところもあるのよ。でも、私はこの形が好きなの」


 ルシルは飾りへ目を向けた。


 紐は何度か取り替えられているのだろう。


 それでも、貝殻そのものは長い時間を過ごし、今も同じ場所で風に揺れている。


「きっと、作ったときのことも覚えていらっしゃるんでしょうね」


 ルシルが言うと、エルサは頷いた。


「ええ。娘が初めて自分で結び目を作れたとき、ずいぶん嬉しそうにしていたわ。何度も失敗して、途中で投げ出しそうになったこともあったけれど、最後には自分で完成させたの」


 モモは作業小屋で会った女の子のことを思い出した。


 紐を穴へ通せずに困っていた女の子。


 リーナに教わりながら作業を続け、最後には完成した飾りを誇らしそうに見せてくれた。


 きっと、エルサの娘も同じような顔をしていたのだろう。


「私たちの飾りも、長く大切にしたいです」


 モモが言うと、エルサは嬉しそうに微笑んだ。


「ええ。でも、もし壊れてしまっても、悲しみすぎないでね。作ったときの思い出までなくなるわけじゃないから」


 その言葉に、モモは少しだけ目を丸くした。


 大切なものだから、絶対に壊したくないと思っていた。


 けれど、エルサの言うことも分かる気がした。


「……はい。大事にします。でも、壊れたら、そのときは直せるか考えてみます」


「それがいいわ」


 エルサは笑った。


 庭には柔らかな風が吹き、貝殻飾りがもう一度小さな音を響かせた。


     ◇


 浜灯りの家を出た三人は、潮凪共同家へ向かって歩いた。


 朝の村では、すでに漁を終えた人々が籠を運び、家の前では網の傷んだ部分を確かめている人もいた。石畳にはところどころ湿った跡が残り、海から運ばれてくる潮の匂いに、干した魚や木材の香りが混じっている。


 モモは道沿いの貝殻飾りを見上げながら、ゆっくり歩いていた。


 最初にこの村へ来たときは、どれも同じように見えていた。


 けれど今は、白い貝殻だけをつないだものや、木片を組み合わせたもの、紐の長さを変えて音が鳴りやすくしているものなど、それぞれの違いが少し分かる。


「ねえ、ルシル君。あそこの飾り、昨日も見たよね」


 モモが指した先には、低い石壁のある家が建っていた。


 軒先には、茶色の筋が入った貝殻と小さな木片を組み合わせた飾りが吊るされている。


「ああ。昨日、木片が混じってるから音が違うって話したやつだな」


「そうそう! あれ、ちょっと低い音がするんだよね」


 モモは嬉しそうに頷いた。


 シモンも飾りを見上げた。


「こうして改めて見ると、村の家ごとに工夫が違いますね。作った人の好みだけでなく、風の当たり方も考えているのかもしれません」


「そうだね。今度どこかで貝殻飾りを見つけたら、潮凪村のことを思い出しそう」


 モモはそう言って笑った。


 ルシルも頷いた。


 旅先で出会ったものが、別の場所で見たものとつながっていく。


 青波の風魚飾りを見たときは、風を受けて魚が泳ぐように動く姿が面白かった。


 潮凪村では、風に揺れる貝殻の音を楽しんだ。


 同じ海辺でも、人々の暮らしや楽しみ方には違いがある。


 そうした違いを知ることが、ルシルには嬉しかった。


 共同家へ近づくと、入口の前で一人の女性が籠を抱えているのが見えた。


 ミレナだった。


 彼女は三人に気づくと、親しみのある笑顔を向けてくれた。


「あら、おはようございます。今日は荷物を持っているのね」


「おはようございます。今日、村を出発することにしました」


 ルシルが答えると、ミレナは納得したように頷いた。


「そうなのね。もう少し滞在してくれてもよかったけれど、旅の途中だものね」


「はい。とても楽しかったです」


 モモが元気よく答えると、ミレナは嬉しそうに笑った。


「それはよかったわ。リーナさんも、三人が楽しそうに飾りを作っていたって話していたのよ」


「本当ですか?」


「ええ。特に、モモさんが子どもたちと一緒に作業していたのが印象に残ったみたい」


 モモは少し照れたように笑った。


「私も楽しかったです。あの子たち、最後にはすごく上手に作れてました」


「そうね。あの子たちも、旅人さんと一緒に作業できて嬉しかったと思うわ」


 ミレナはそう言ってから、共同家の中へ三人を案内した。


     ◇


 共同家の大きな卓には、いつものように帳面や書類が整えて置かれていた。


 シモンは馬車置場の利用札を取り出し、ミレナへ差し出した。


「馬車置場の利用を終えたいので、確認をお願いします」


「ええ。少し待ってね」


 ミレナは帳面を開き、三人の利用記録を確かめた。


 馬車置場は一晩につき銅貨四枚で、水場の利用も含まれている。三人は潮凪村で三晩を過ごしたため、ミレナは利用状況と支払いを照合し、必要な精算を済ませてくれた。


「はい、これで大丈夫よ。馬車は広場の端から出してね。朝は荷車が通ることもあるから、ゆっくり進んでもらえると助かるわ」


「分かりました。ありがとうございます」


 シモンが礼を言うと、ミレナは頷いた。


 それから彼女は、棚から村の周辺を描いた簡単な案内図を取り出した。


「そうそう。この先も南へ進むのよね?」


「はい。特に急いでいるわけではありませんが、しばらく海沿いの道を進んでみようと思っています」


 ルシルが答えると、ミレナは案内図を広げた。


「それなら、少しだけ道のことを話しておくわね」


 案内図には、潮凪村から南へ続く道と、その先で丘の内側へ向かう道が描かれていた。


「村を出てしばらくは海沿いの道が続くけれど、少し先で道が分かれるの。海沿いを進む道と、丘の内側へ入る道ね」


 ルシルは身を乗り出し、案内図を確認した。


「どちらも馬車で通れますか?」


「ええ。ただ、海沿いの道には少し狭い場所もあるわ。風が強い日には歩きにくいこともあるから、天候を見ながら進んだほうがいいわね」


 シモンは真剣な表情で頷いた。


「対向車が来た場合、すれ違える場所はありますか?」


「ところどころに道幅の広い場所があるわ。ただ、見通しの悪い曲がり角では、無理に進まないことね」


 ミレナは案内図の一部を指した。


「それから、海沿いの道だからといって、ずっと海が見えるわけではないの。低い丘の陰へ入る場所もあるし、道が少し内側へ曲がるところもあるわ」


「なるほど。景色だけを見て進むわけにはいきませんね」


 シモンが答えると、ミレナは頷いた。


「そういうこと。まあ、今日は風も穏やかだし、馬車の状態に問題がなければ、無理のない範囲で進めると思うわ」


 ルシルは案内図を見ながら、少し考えた。


 海沿いの道を進めば、また新しい景色が見られるかもしれない。


 けれど、風が強くなったり、道が狭くなったりするなら、無理に海沿いを選ぶ必要はない。


「ありがとうございます。分かれ道へ着いたら、実際の様子を見て決めようと思います」


「それがいいわ」


 ミレナは穏やかに微笑んだ。


 モモも案内図を覗き込みながら頷いた。


「海が見える道も好きだけど、丘の内側も面白そうだね」


「そうだな。どっちを選んでも、知らない景色があるだろうし」


 ルシルが答えると、モモは嬉しそうに笑った。


「うん!」


 ミレナは三人のやり取りを見守りながら、ゆっくりと案内図を畳んだ。


「本当に、旅を楽しんでいるのね」


 その言葉に、ルシルは少し照れたように笑った。


「はい。毎日、知らないことばかりですけど、それが楽しくて」


「そう。それなら、きっとこの先でも素敵なものに出会えるわ」


 ミレナは微笑んだ。


「ただし、無理だけはしないでね。景色がきれいでも、道が危なければ引き返すことも大切だから」


「はい。気をつけます」


 三人は丁寧に礼を言い、共同家を後にした。


     ◇


 馬車置場へ向かう途中、モモがふと足を止めた。


 共同家の裏手へ続く道のほうから、聞き覚えのある声がしたのである。


「あっ!」


 モモが顔を上げると、そこには小さな籠を抱えた女の子と、その隣を歩く男の子がいた。


 二人は昨日までに作業小屋で会った兄妹だった。


 女の子もモモに気づいたらしく、ぱっと表情を明るくした。


「あっ、貝殻のお姉ちゃん!」


 その声に、ルシルとシモンも足を止めた。


 モモは嬉しそうに笑い、二人へ近づいた。


「こんにちは! また会えたね!」


「うん!」


 女の子は元気よく頷いたあと、モモたちの荷物へ目を向けた。


「お姉ちゃんたち、どこか行くの?」


「うん。今日、村を出発することにしたんだ」


 モモが答えると、女の子は少し驚いたように目を丸くした。


「そうなの?」


「うん。でも、またいつか来たいと思ってるよ」


 女の子は少し考えたあと、嬉しそうに笑った。


「じゃあ、そのときはまた一緒に作ろうね!」


「もちろん!」


 モモは笑顔で頷いた。


 隣にいた男の子も、少し照れたように口を開いた。


「昨日、妹が作った飾り、お父さんに見せられたんだ」


 その言葉に、モモは顔を輝かせた。


「本当? よかったね!」


 女の子は嬉しそうに頷いた。


「うん! お父さん、すごく喜んでくれたの。窓のところに吊るしてくれて、帰ってきたら毎日見られるって!」


 モモは胸の奥が温かくなるのを感じた。


 作業小屋で、紐を通せずに困っていた女の子。


 何度も挑戦し、最後には自分の手で飾りを完成させた。


 その飾りが今、家の窓辺に吊るされているのだと思うと、自分のことのように嬉しくなった。


「そっか。頑張って作ってよかったね」


「うん!」


 女の子は満面の笑みを浮かべた。


 ルシルも穏やかに笑った。


「お父さんに見てもらえてよかったね。あの飾り、すごく上手にできてたもんな」


「ありがとう!」


 女の子は嬉しそうに答えた。


 シモンも微笑みながら頷いた。


「自分で最後まで作ったものですからね。きっと、お父さんにとっても大切な飾りになるでしょう」


 男の子は少し誇らしそうに妹へ目を向けた。


「今朝も、起きてすぐに見に行ってたんだよ」


「だって、ちゃんと鳴ってるか気になるんだもん!」


 女の子が頬を膨らませると、兄は笑った。


 そのやり取りを見て、モモも思わず笑ってしまった。


 短い会話だったが、昨日の作業小屋で過ごした時間が、確かにこの兄妹の暮らしの中へ残っていることが分かった。


 モモは二人へ手を振った。


「じゃあ、私たちは行くね。また会えたら、一緒に貝殻飾りを作ろう!」


「うん! 絶対だよ!」


 女の子が元気よく答えた。


 男の子も手を振り、二人は共同家の裏手へ歩いていった。


 三人はその姿が見えなくなるまで見送り、それから再び馬車置場へ向かった。


「よかったな、モモ」


 ルシルが言うと、モモは嬉しそうに頷いた。


「うん。あの子のお父さん、ちゃんと帰ってきてたんだね」


「そうだな。飾りも見てもらえたみたいだし」


 シモンも穏やかに微笑んだ。


「昨日、入り江で話していたことが分かりましたね。こうして偶然もう一度会えたのは、嬉しいことです」


 モモは胸元へ手を添えた。


 潮凪村で作った自分の貝殻飾りも、旅の無事を願うものにしようと決めている。


 その願いが何か特別な力を持つわけではない。


 けれど、誰かの無事を願う気持ちは、それだけで大切なものなのだと思えた。


     ◇


 共同馬車置場では、トルクとベルクが落ち着いた様子で休んでいた。


 ルシルが近づくと、栗毛のトルクはすぐに鼻先を伸ばし、餌を期待するようにこちらを見た。一方、濃い灰色のベルクは静かに顔を上げ、三人の姿を確かめてから、ゆっくりと首を動かした。


「おはよう、二人とも。今日はまた走るぞ」


 ルシルはトルクの首を撫で、続いてベルクへ手を伸ばした。


 二頭とも嫌がる様子はなく、落ち着いている。


 シモンは馬具を取り付ける前に、脚や蹄の状態を確認した。


 青波を出発する前にも点検していたが、旅を続ける以上、毎日の確認は欠かせない。


 トルクは少し落ち着きなく首を動かしたものの、脚を触られても嫌がらなかった。ベルクも静かに立ち、シモンが蹄を確かめる間、穏やかな様子で待っている。


「二頭とも問題ありませんね。十分に休めましたし、疲れも残っていないようです」


「よかった。潮凪村では、ずいぶんゆっくりできたもんな」


 ルシルは笑いながらトルクの首を撫でた。


「今日は無理しないで進もうな」


 トルクは返事の代わりに鼻を鳴らし、再び餌桶へ顔を向けた。


 モモはその様子を見て笑った。


「トルクは、出発することより朝ご飯のほうが大事みたい」


「まあ、トルクらしいな」


 ルシルも笑った。


 シモンは二頭の世話を終えると、馬車の車輪や車軸、荷台の状態を確認した。


 四輪の車体は、これまでの旅でも大きな問題を起こしていない。二重の板ばねや頑丈な車輪は、石の多い道でも衝撃を和らげてくれていたが、だからといって点検を省くわけにはいかなかった。


「車輪にも異常はありません。荷物を積み込んだあと、もう一度固定を確認しましょう」


「分かった」


 ルシルは荷物を運び、馬車の中へ積み込んでいった。


 車内には、青波で購入した青い風魚飾りが吊るされている。


 風を受けると魚が泳ぐように揺れるその飾りは、潮凪村へ来る前から三人の旅に加わっていたものだった。


 モモはそれを見上げ、嬉しそうに笑った。


「ねえ、ルシル君。潮凪村の貝殻飾りも、今度停まったときに並べてみようね」


「もちろん。どんな感じになるか楽しみだな」


 シモンは荷物の位置を確認しながら、穏やかに頷いた。


「ただし、走行中はしまっておきましょう。貝殻同士が強くぶつかると、欠けてしまうかもしれませんから」


「分かってるよ、シモン君!」


 モモは笑って答えた。


 ルシルは包んだ貝殻飾りを、ほかの荷物に押しつぶされない場所へしまった。


 その隣には、青波で拾った空の貝殻も丁寧に収められている。


 旅を始めた頃に比べると、馬車の中には少しずつ小さな思い出の品が増えていた。


 青波の風魚飾り。


 旅の途中で手に入れた木彫りの小物。


 モモの旅帳面。


 そして、潮凪村で三人が作った貝殻飾り。


 どれも、旅を続けるために絶対必要なものではない。


 けれど、ルシルにはそれらが、食料や道具とは違う意味で大切な荷物に思えた。


(こういうものが増えていくのも、旅の楽しみなんだな)


 ルシルは小さく微笑み、荷物の固定を確かめた。


     ◇


 出発の準備が整う頃には、朝の日差しが広場を明るく照らしていた。


 潮凪村の道では、仕事へ向かう人々が行き交い、家々の軒先では貝殻飾りが小さな音を響かせている。


 ルシルは御者台へ上がる前に、もう一度馬車の周囲を見回した。


 荷物の固定は問題ない。


 馬具も整っている。


 トルクとベルクも落ち着いており、出発を待っている。


「よし。準備できたな」


 ルシルが言うと、シモンは頷いた。


「ええ。道の状況を見ながら、無理のない速度で進みましょう」


「うん!」


 モモも元気よく答えた。


 三人が馬車へ乗り込もうとしたとき、広場の向こうから声がした。


「あら、もう出発するのかい?」


 振り返ると、そこには作業小屋で貝殻飾りを教えてくれたリーナがいた。


 彼女は小さな籠を抱え、広場の端を歩いてきたところだった。


「リーナさん!」


 モモが嬉しそうに声を上げた。


 リーナは三人へ近づき、穏やかに微笑んだ。


「昨日、ミレナさんからそろそろ出発するかもしれないって聞いていたけれど、今日だったんだね」


「はい。今朝、三人で相談して決めました」


 ルシルが答えると、リーナは頷いた。


「そうかい。村を楽しんでもらえたなら、何よりだよ」


「すごく楽しかったです!」


 モモは笑顔で答えた。


「貝殻飾りも、大切に持っていきます!」


「それは嬉しいね」


 リーナは目を細めた。


「でも、あまり大事にしすぎて、しまいっぱなしにしないでおくれよ。飾りは、風に揺れるところを楽しむものでもあるからね」


 モモは少し驚いたあと、嬉しそうに頷いた。


「はい! 馬車を停めたときに、吊るしてみようと思ってます!」


「それならいいね」


 リーナは笑った。


 シモンも丁寧に頭を下げた。


「作り方を教えていただき、ありがとうございました。初めての経験でしたが、とても勉強になりました」


「こちらこそ。三人とも楽しそうに作ってくれたから、私も嬉しかったよ」


 リーナはシモンへ目を向け、少し楽しそうに続けた。


「それに、あんたの飾りも悪くなかった。音が静かなものだって、ちゃんとよさがあるんだからね」


 シモンは少し照れたように微笑んだ。


「ありがとうございます。私も、あの飾りを気に入っています」


「それならよかった」


 リーナは満足そうに頷いた。


 ルシルは彼女へ向き直り、静かに頭を下げた。


「リーナさんのおかげで、貝殻飾りを見る目が変わりました。最初はただきれいだと思っていたんですけど、作る人の気持ちや、長く使うための工夫も知ることができました」


 リーナは少し驚いたようにルシルを見た。


 それから、ゆっくり微笑んだ。


「そう言ってもらえると嬉しいね。でも、難しく考えすぎなくてもいいんだよ。きれいだと思ったり、音を聞いて楽しくなったりするのも、十分に大事なことだからね」


「はい」


 ルシルは頷いた。


 リーナは三人の顔を順に見て、穏やかに続けた。


「旅をしていれば、いろんな風に出会うだろう。穏やかな日もあれば、強い風が吹く日もある。そんなとき、あの貝殻の音を聞いて、この村のことを思い出してくれたら嬉しいよ」


 モモは胸の前で手を合わせ、嬉しそうに笑った。


「絶対に思い出します!」


「ふふ。ありがとう」


 リーナはそう言って、三人へ手を振った。


 ルシルたちも手を振り返し、改めて馬車へ乗り込んだ。


     ◇


 トルクとベルクがゆっくり歩き始めると、馬車の車輪が石畳の上で穏やかな音を立てた。


 ルシルは手綱を握り、広場の端を慎重に進んでいく。


 潮凪村の家々が、少しずつ後ろへ流れていった。


 モモは窓から顔を出しすぎないよう気をつけながら、村の景色を眺めていた。


 軒先の貝殻飾り。


 低い石壁。


 入り江へ続く道。


 昨日まで歩いていた場所が、今は馬車の窓の向こうに見えている。


「なんだか、ちょっと寂しいね」


 モモが呟いた。


 ルシルは前を向いたまま、穏やかに答えた。


「そうだな。でも、また来られるさ」


「うん。そうだよね」


 モモは小さく笑った。


「それに、次の場所も楽しみだし!」


「そうだな」


 シモンも窓の外へ目を向けた。


「旅を続ける以上、どこかを離れることもありますからね。ですが、離れたからといって、そこで過ごした時間がなくなるわけではありません」


 モモはその言葉を聞き、少し考えた。


 潮凪村で作った貝殻飾りは、今も馬車の中にある。


 旅帳面には、村の人々と過ごした時間が残されている。


 そして何より、三人の心の中には、あの小さな村で感じた温かさが残っていた。


「うん。そうだね」


 モモは嬉しそうに頷いた。


 馬車が村の入口へ近づくと、ルシルは少しだけ速度を落とした。


 低い石壁の向こうには、穏やかな入り江が広がっている。


 小さな舟が水面に浮かび、朝の光を受けてゆっくり揺れていた。


 ルシルはその景色を目に焼きつけるように眺めた。


 潮凪村へ来たとき、彼はこの場所を知らなかった。


 村の人々の名前も、貝殻飾りに込められた願いも、朝市で売られているものも、何一つ知らなかった。


 けれど今は違う。


 浜灯りの家のエルサ。


 共同家のミレナ。


 作業小屋のリーナ。


 そして、貝殻飾りを作っていた兄妹。


 短い間に出会った人々の顔が、次々と思い浮かんだ。


(また、いつか来たいな)


 ルシルは心の中でそう呟いた。


 そのときには、今よりもっと旅を続け、いろいろな場所を知っているかもしれない。


 けれど、潮凪村で過ごした時間は、きっと変わらず大切な思い出として残っているだろう。


 ルシルは静かに息を吐き、前へ向き直った。


「じゃあ、行こうか」


「うん!」


 モモが元気よく答えた。


 シモンも穏やかに頷いた。


「ええ。今日も安全に、ゆっくり進みましょう」


 三人を乗せた馬車は、潮凪村を背に、南へ続く海沿いの道を進み始めた。


     ◇


 村を離れてしばらくすると、道の右側に海が広がるようになった。


 低い丘が左手に続き、その斜面には潮風に強そうな草が生えている。道は緩やかに曲がりながら南へ伸びており、ところどころで海を見下ろせる場所があった。


 ルシルは手綱を握りながら、トルクとベルクの歩調を確かめた。


 二頭とも落ち着いており、馬車は穏やかな速度で進んでいる。


 風は強くなく、海面には細かな波が広がっていた。


「今日はいい天気だな」


 ルシルが言うと、モモは窓の外へ目を向けた。


「うん! 海もきれい!」


 シモンは地図を確認しながら頷いた。


「この先で道が分かれるはずですが、まだ少し距離がありそうですね。今のところ、風も穏やかです」


「じゃあ、分かれ道へ着いたら考えよう」


「ええ。それがよいでしょう」


 ルシルは前方へ視線を戻した。


 海沿いの道には、ところどころ小さな石が転がっている。


 車輪が大きな石を踏まないよう、進む位置を少し調整しながら馬車を走らせた。


 しばらく進んだところで、モモがふと声を上げた。


「あっ、ルシル君!」


「どうした?」


「今、貝殻の音が聞こえた気がした!」


 ルシルは少し驚き、耳を澄ませた。


 けれど、聞こえてくるのは馬車の車輪の音と、遠くの波音だけだった。


「本当か?」


「うーん……気のせいかな」


 モモは少し照れたように笑った。


「潮凪村でずっと聞いてたから、まだ耳に残ってるのかも」


 シモンは穏やかに微笑んだ。


「そういうこともあるでしょうね。印象に残った音は、あとになって思い出すことがありますから」


「そっか」


 モモは嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、今度休憩したときに、本物の音を聞こうっと」


「そうだな。停まったら飾ってみよう」


 ルシルが答えると、モモは満足そうに笑った。


 馬車は海沿いの道をゆっくり進んでいく。


 しばらくすると、道の先に低い丘が迫り、海が見えにくくなってきた。


 ルシルは速度を落とし、前方の様子を確かめた。


「そろそろ、ミレナさんが言ってた分かれ道が近いのかな」


 シモンは地図を開き、周囲の地形と照らし合わせた。


「その可能性がありますね。ただ、まだ分岐そのものは見えていません。もう少し進んでから確認しましょう」


「分かった」


 ルシルは頷いた。


 左手の丘には低い草が広がり、風が吹くたびに波のように揺れている。


 右手には、ときおり海が見えた。


 潮凪村の入り江とは違い、こちらの海岸線は少し複雑で、岩の多い場所もあるようだった。


 モモは窓の外を眺めながら、旅帳面を開いた。


 新しい頁の上部へ、今日の出発について書き始める。


『潮凪村を出発した。エルサさんがパンを持たせてくれて、ミレナさんが道を教えてくれて、リーナさんにも会えた。貝殻飾りを作っていた女の子のお父さんは、ちゃんと帰ってきていた。』


 そこまで書いたところで、モモは筆を止めた。


 続けて何を書こうか少し考え、やがて小さく微笑んだ。


『潮凪村は、また行きたい場所になった。』


 書き終えたモモは満足そうに頷き、帳面を閉じた。


 ルシルはその様子を横目で見て、穏やかに笑った。


「今日も書いてるんだな」


「うん。出発したことも、ちゃんと残しておきたくて」


「そっか。いいな」


 ルシルは前方へ目を向けた。


 旅は続いていく。


 新しい道を進めば、新しい景色があり、知らない人々との出会いがあるだろう。


 その中には、潮凪村のように、何日も滞在したくなる場所があるかもしれない。


 あるいは、一度通り過ぎるだけの場所もあるだろう。


 それでも、一つひとつの出会いを大切にしながら進んでいきたい。


 ルシルはそんなことを考えながら、手綱を握り直した。


 トルクとベルクは穏やかな足取りを続け、馬車は南へ向かって進んでいく。


 車内には、青波で手に入れた風魚飾りが揺れていた。


 その近くには、潮凪村で作った三つの貝殻飾りが、丁寧に包まれてしまわれている。


 旅の荷物は、少しだけ増えた。


 けれど、それは決して重荷ではなかった。


 三人が自分たちで選び、出会い、楽しんできた時間が、少しずつ形になっているのだから。


 やがて道の先に、二つへ分かれる道が見え始めた。


 片方は海沿いを進み、もう片方は丘の内側へ続いているようだった。


 ルシルは馬車の速度を落とし、二人へ声を掛けた。


「さて、そろそろ分かれ道みたいだな」


 モモは窓から前方を眺め、嬉しそうに笑った。


「どっちへ行こうか?」


 シモンは地図を確かめながら、穏やかに答えた。


「まずは道の状態を確認しましょう。どちらを選ぶにしても、安全に進めることが一番ですからね」


「そうだな」


 ルシルは頷いた。


 海から吹く風が、馬車の窓を通り抜けていく。


 潮凪村の貝殻飾りの音は、もう聞こえない。


 それでも、三人の心の中には、あの小さな村で過ごした時間が確かに残っていた。

 そして、まだ知らない道の先には、きっと新しい出会いが待っている。

 ルシルは穏やかに微笑み、トルクとベルクをゆっくり進ませた。

 王位も、決められた役割も、今の彼には必要ない。

 大切な仲間たちと、自分たちの意思で道を選び、気に入った場所では足を止める。

 そんな旅を続けられることが、何より嬉しかった。

 潮凪村で増えた小さな思い出を馬車に乗せて、三人の旅は、今日もゆっくりと続いていくのだった。

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