第92話 潮凪村の朝市では、海の恵みと人の温かさに出会いました
潮凪村で迎える二度目の朝、ルシルは窓の外から聞こえてきた車輪の音で目を覚ました。
浜灯りの家の二階にある客室には、まだ柔らかな朝の光しか差し込んでいない。昨夜は貝殻飾りの音を聞きながら眠りについたが、今朝はそれに混じって、石畳をゆっくり進む荷車の音や、遠くで交わされる人々の声が聞こえていた。
ルシルは寝台から身体を起こし、窓辺へ歩いた。
通りには、魚を入れるためらしい木箱を積んだ荷車が一台停まっている。二人の男性が箱の数を確かめながら話しており、その向こうでは籠を抱えた女性が、入り江のほうへ足早に歩いていた。
(昨日の朝とは、少し雰囲気が違うな。何かあるのかな)
窓を少し開けると、潮の匂いを含んだ風が部屋へ入り込んだ。昨夜よりも風は穏やかで、軒先の貝殻飾りも、ときおり小さな音を立てる程度に揺れている。
「おはようございます、ルシル様。もう起きられたのですね」
背後から声がして振り返ると、シモンが寝台の脇で荷物を整理していた。
昨日の朝は窓辺で本を読んでいたが、今朝は机の上に地図と小さな帳面を広げている。ただし、その表情に慌ただしさはなく、必要なことを確認しながら朝の時間を過ごしているようだった。
「おはよう、シモン。外がちょっと賑やかだから、何かあるのかと思ってさ」
「私も先ほど気づきました。荷車が何台か通っていましたから、漁で獲れた魚を運んでいるのかもしれませんね」
「昨日より早い時間から動いてるみたいだな」
「ええ。ただ、今日は出発するかどうかもまだ決めていませんし、朝食のときにエルサさんへ聞いてみましょう」
シモンは地図を畳み、帳面へ短く何かを書き込んだ。
ルシルはその様子を見ながら、少し笑った。
「シモン、今日はもう旅の準備をしてるのか?」
「いえ。昨日使ったものと、残っている食料を確認していただけです。もし今日も村に滞在するなら、買い足しておいたほうがよいものもありますから」
「なるほど。でも、あんまり仕事ばっかりしなくてもいいんだぞ?」
ルシルが冗談交じりに言うと、シモンは穏やかに微笑んだ。
「分かっていますよ。今はこういう確認も、旅の楽しみの一つになっていますから」
その返事に、ルシルは少し驚いた。
以前のシモンなら、物資の確認は必要な仕事として淡々と済ませていただろう。けれど今は、次にどんな道を通り、どんなものを食べるのか考えること自体を楽しんでいるようだった。
「そっか。それならいいんだ」
ルシルは窓の外へもう一度目を向けた。
荷車を押していた男性たちは作業を終えたらしく、入り江へ続く道を歩き始めている。
「とりあえず、朝ご飯に行こうか。モモもそろそろ起きてるだろうし」
「そうですね。昨日は貝殻飾りのことでずいぶん楽しそうでしたから、今朝も早く起きているかもしれません」
二人は身支度を整え、客室を出た。
◇
一階の食堂では、エルサが朝食の準備を進めていた。
厨房からは焼いたパンの香りが漂い、大きな鍋では野菜を入れた汁物が温められている。窓辺の席にはすでにモモが座っており、昨日作った貝殻飾りを布の上へ広げて眺めていた。
「おはよう、モモ。朝から飾りを見てるのか?」
ルシルが声を掛けると、モモは顔を上げて嬉しそうに笑った。
「おはよう、ルシル君、シモン君! うん。昨日作った飾り、ちゃんと壊れてないかなって確認してたの」
卓の上には、白い貝殻を中心に三枚をつないだ小さな飾りが置かれている。紐の結び目も緩んでおらず、貝殻にも傷は見当たらなかった。
「大丈夫そうだな。昨日はずいぶん大切に包んでたし」
「うん。でも、旅の途中で壊れたら悲しいから、しまい方も考えようと思って」
シモンは飾りへ目を向け、穏やかに頷いた。
「それなら、あとで馬車へ行ったときに確認しましょう。柔らかい布を使って、一つずつ包めば安全に持ち運べると思います」
「ありがとう、シモン君!」
モモは嬉しそうに飾りを包み直した。
その様子を見ていたエルサが、厨房から声を掛けてきた。
「おはよう、みんな。今日は少し早起きなのね」
「おはようございます。外がいつもより賑やかだったので、何かあるのかなと思って」
ルシルが答えると、エルサは納得したように頷いた。
「ああ、今日は小さな朝市があるのよ。漁で獲れたものや、村の人が作った品物を広場へ持ち寄る日なの」
「朝市ですか?」
モモがすぐに顔を上げた。
「ええ。青波みたいな大きな市場ではないけれど、潮凪村でもときどき開くのよ。村の人たちが必要なものを買ったり、近くの集落から来た人が品物を交換したりするの」
エルサはパンを皿へ並べながら、楽しそうに続けた。
「今日は魚だけじゃなく、干した海藻や貝殻を使った小物も出ると思うわ。昨日、貝殻飾りを作ったばかりだから、あなたたちには面白いかもしれないわね」
「行ってみたい!」
モモは即座に答えた。
ルシルも興味を引かれ、シモンへ目を向けた。
「どうする? 今日は出発するかどうか決めてなかったけど、せっかくだし朝市を見てから考えてもいいよな」
「ええ。急いで移動する理由もありませんし、朝市を見学するのはよいと思います。ただ、馬たちの世話もありますから、先にそちらを済ませておきましょう」
「もちろん。トルクとベルクも、ちゃんと朝ご飯を食べないとな」
ルシルが笑うと、モモも頷いた。
「じゃあ、私たちも朝ご飯を食べて、それから馬たちのところへ行こう!」
エルサは三人の会話を聞きながら、温かな汁物を運んできた。
「朝市は昼前までやっているから、そんなに慌てなくても大丈夫よ。まずはしっかり食べていきなさい」
三人は礼を言い、食卓へ向かった。
朝食は、焼いた薄いパンと野菜の汁物、それに塩気を控えた魚のほぐし身を添えた料理だった。昨日までの食事と同じように、魚の風味を生かしながらも優しい味付けになっている。
モモは嬉しそうにパンをちぎり、汁物へ少し浸して食べた。
「美味しい! こういう朝ご飯、好きだなあ」
「ありがとう。魚ばかりで飽きないかしらと思っていたけれど、そう言ってもらえると嬉しいわ」
エルサが微笑むと、モモは大きく首を横に振った。
「全然飽きません! 毎回ちょっとずつ味が違うし、海の近くにいるって感じがして楽しいです!」
ルシルも頷いた。
「本当に美味しいですよ。青波でも魚料理を食べましたけど、ここではまた違う味が楽しめますね」
「それぞれの土地で使う香草や調理方法が違うのでしょうね」
シモンが言うと、エルサは嬉しそうに笑った。
「そうね。潮凪村では昔から、魚を野菜と一緒に煮込むことが多いの。新鮮な魚を焼くのも美味しいけれど、家族みんなで食べるなら鍋料理が便利だからね」
三人は食事を楽しみながら、今日の予定を相談した。
朝市を見学し、必要なものがあれば買い足す。そのあと、馬車の様子を確認しながら、今日も村に泊まるかどうか決めることにした。
ルシルは最後のパンを食べ終えると、満足そうに息をついた。
「よし。今日は朝市を楽しもう」
モモは嬉しそうに笑い、シモンも穏やかに頷いた。
◇
朝食を終えた三人は、まず共同馬車置場へ向かった。
昨日と同じように、トルクとベルクは落ち着いた様子で休んでいた。トルクはルシルの姿を見つけると、すぐに鼻先を伸ばしてきたが、ベルクは少し離れた場所から静かにこちらを見ている。
「おはよう、トルク。今日も元気そうだな」
ルシルが首を撫でると、トルクは満足そうに目を細めた。
シモンは二頭の脚や蹄を確認し、昨日から変わったところがないか丁寧に調べた。ベルクも嫌がることなく脚を上げ、落ち着いた様子で世話を受けている。
「二頭とも問題ありませんね。昨日は休ませましたし、疲れも残っていないようです」
「よかった。今日はどうするかな」
ルシルは二頭を見比べながら考えた。
潮凪村には昨日到着したばかりではない。すでに一日を過ごし、村の人々とも少し親しくなっている。
それでも、まだ見ていないものはたくさんあるように思えた。
「朝市を見てから決めようか。もしもう一泊するなら、ミレナさんとエルサさんにも確認しないとな」
「ええ。宿泊の都合がありますから、早めに相談しておくのがよいでしょう」
シモンは頷き、馬たちの水桶を確認した。
モモはベルクの首を優しく撫でながら、二頭へ話しかけていた。
「今日は私たち、朝市を見に行くんだよ。トルクとベルクはゆっくり休んでてね」
ベルクは静かに鼻を鳴らし、トルクは餌桶へ顔を向けた。
その様子を見て、モモは笑った。
「トルクは朝ご飯のほうが気になるみたい」
「いつものことだな」
ルシルも笑いながら、餌を整えた。
三人は馬車の状態も簡単に確認し、必要なものを持って広場へ向かった。
◇
潮凪村の広場には、昨日とは違う賑わいが広がっていた。
木製の台や籠がいくつも並べられ、その上には魚や海藻、野菜、手作りの小物などが置かれている。青波の市場ほど店の数は多くないが、村の人々が互いに声を掛け合いながら品物を選ぶ様子には、独特の温かさがあった。
広場の端では、年配の男性が大きな籠から魚を取り出し、木皿へ並べている。
別の場所では、女性が干した海藻を束ねており、その隣には小さな木箱へ入れられた貝殻細工が並んでいた。
「わあ、思ったよりいろんなものがあるね!」
モモは嬉しそうに周囲を見回した。
「そうだな。青波の市場とはまた違う雰囲気だ」
ルシルも広場を眺めながら頷いた。
青波の朝市では、多くの商人や買い物客が行き交い、品物を売る声があちこちから響いていた。
けれど、潮凪村の朝市では、売り手と買い手が互いの名前を呼び合い、世間話をしながら品物を選んでいる。
シモンはその様子を興味深そうに眺めていた。
「村の人々が日常的に使う市場なのでしょうね。商売というだけでなく、情報交換の場にもなっているようです」
「確かに。みんな知り合いみたいだな」
ルシルが言うと、モモも頷いた。
「なんだか楽しそう!」
三人はまず、魚を並べている店へ近づいた。
店主らしい男性は、三人の姿を見ると親しみのある笑顔を向けてきた。
「おや、見かけない顔だね。旅人さんかい?」
「はい。昨日から浜灯りの家に泊まっています」
ルシルが答えると、男性は納得したように頷いた。
「ああ、エルサさんのところか。それなら、いい宿を選んだな。あそこの飯は美味いだろう?」
「はい。毎回楽しみにしています」
モモが元気よく答えると、男性は豪快に笑った。
「そいつはよかった。うちの魚も、何度かエルサさんのところへ持っていってるんだ」
ルシルは木皿に並んだ魚へ目を向けた。
青波の市場で見たものに似た魚もあれば、初めて見る種類もある。大きさはそれほど揃っていないが、どれも丁寧に並べられていた。
「この魚は、全部この村の近くで獲れたものなんですか?」
「そうだよ。入り江の外へ出て、朝のうちに獲ってきたんだ。今日は波が穏やかだったから、なかなかいい具合だったな」
男性は一匹の魚を指した。
「こいつは身が柔らかいから、煮込むと美味い。こっちは焼いたほうがいいな。どっちも村じゃよく食べる魚だよ」
シモンは興味深そうに頷いた。
「調理方法によって向いている魚が違うのですね」
「そりゃそうさ。魚にもそれぞれ特徴があるからな。脂の多いものもあれば、あっさりしたものもある。慣れれば見ただけでだいたい分かるようになるよ」
モモは真剣な顔で魚を見比べていた。
「すごいなあ。私、まだ全然分からないや」
「最初はそんなもんさ。食べてみるのが一番早いよ」
男性が笑うと、モモも楽しそうに笑った。
三人は店主へ礼を言い、次の店へ向かった。
◇
広場の中央近くには、干した海藻を並べている女性がいた。
木箱の中には、青波で購入したものと似た海藻のほか、細く裂いて束ねたものや、少し厚みのあるものも並んでいる。
「こんにちは。少し見せてもらってもいいですか?」
シモンが声を掛けると、女性はにこやかに頷いた。
「もちろん。旅の人かい?」
「はい。青波から南へ向かってきました」
「ああ、それなら海藻は見慣れてるかもしれないね。でも、この村で干したものは少し風味が違うんだよ」
女性は小さな束を手に取り、三人へ見せた。
「これは汁物に入れるといいし、こっちは水で戻して野菜と和えると美味しいよ。干し方を変えると、食感も少し違ってくるんだ」
モモは興味深そうに束を眺めた。
「青波で買った海藻は、豆と野菜の煮込みに入れて食べたんです。すごく美味しかった!」
「それなら、こっちも気に入るかもしれないね。少し厚みがあるから、煮込んでも形が残りやすいんだ」
女性は別の束を指した。
シモンは手元の帳面へ目を落とし、残っている食料を思い出した。
「それなら、少し購入しておきましょうか。保存が利くものなら、旅の途中でも使えますから」
「いいな。次に馬車で料理するときに使ってみよう」
ルシルが頷くと、モモも嬉しそうに笑った。
「やった! 今度はどんな料理にしようかな」
三人は相談して、汁物にも煮込みにも使いやすい海藻を少量購入した。
女性は丁寧に包みながら、保存するときは湿気を避けるよう教えてくれた。
「旅の途中なら、濡らさないように気をつけてね。ちゃんと乾いたままにしておけば、しばらく使えるから」
「ありがとうございます。大切に使わせてもらいます」
シモンが礼を言うと、女性は嬉しそうに微笑んだ。
◇
朝市を歩いているうちに、モモは広場の端に並んだ小さな木箱へ目を留めた。
そこには、貝殻を使った飾りや、細い紐で編まれた小物が並べられている。
「あっ、貝殻飾り!」
モモが嬉しそうに声を上げると、ルシルもそちらへ目を向けた。
「昨日作ったのとは、また違う形だな」
木箱の中には、三枚の貝殻をつないだものだけでなく、小さな木片と組み合わせたものや、色の違う貝殻を輪のように並べたものもあった。
店番をしていた若い女性が、三人へ笑顔を向けた。
「いらっしゃい。よかったら見ていってくださいね」
「こんにちは。昨日、共同家の作業小屋で貝殻飾りを作らせてもらったんです」
モモが言うと、女性は少し驚いたように目を丸くした。
「あら、そうなんですか? リーナさんのところですね」
「はい! すごく楽しかったです!」
女性は嬉しそうに笑った。
「それなら、作り方も少し分かりますね。ここにあるものは、村の人たちがそれぞれ作ったものなんですよ」
ルシルは木箱の中の飾りを見比べた。
昨日、自分たちが作ったものよりも細かい細工が施されているものが多い。貝殻の位置や紐の長さも工夫されており、見ているだけで作り手の技術が伝わってくる。
「こういう形も作れるんですね」
「ええ。慣れてくると、いろんな組み合わせを試せるんです。音を楽しむものもあれば、見た目を重視したものもありますよ」
女性は一つの飾りを持ち上げ、軽く揺らしてみせた。
小さな貝殻が触れ合い、澄んだ音が鳴る。
モモは目を輝かせた。
「わあ、きれいな音!」
「ありがとうございます。これは貝殻の間隔を少し狭くしているので、弱い風でも鳴りやすいんです」
シモンはその説明を聞き、自分が昨日作った飾りを思い出した。
「なるほど。私は間隔を広く取りすぎて、あまり音が鳴らなかったんです」
女性は微笑んだ。
「それも悪くないと思いますよ。静かな飾りが好きな人もいますから」
「そう言っていただけると嬉しいですね」
シモンは穏やかに笑った。
モモは木箱の中を眺めながら、少し考えていた。
昨日、自分たちで飾りを作ったばかりなので、今日は新しいものを買う必要はないかもしれない。
けれど、こうして並んでいる作品を見ると、作り方の違いを知るだけでも楽しかった。
「ねえ、ルシル君。私たちの飾りも、いつかこんなふうに上手に作れるようになるかな」
「練習すればできるんじゃないか? 俺はまず、結び目をきれいに作れるようにならないとな」
ルシルが笑うと、女性も楽しそうに頷いた。
「最初はみんなそうですよ。何度か作っているうちに、自分の好きな形が分かってくるんです」
三人はしばらく飾りを眺め、女性へ礼を言って店を離れた。
◇
朝市の賑わいが少し落ち着いてきた頃、三人は広場の端にある長椅子へ腰を下ろした。
近くでは村の人々が買い物を終え、籠を抱えて家へ戻っていく。店を片づけ始める人もいれば、残った品物を並べ直している人もいた。
モモは購入した海藻の包みを眺めながら、満足そうに笑った。
「今日も楽しかったね。青波の市場とは全然違ったけど、こっちも好きだな」
「そうだな。村の人たちが普段どんなものを食べて、どんなものを作ってるのか、少し分かった気がする」
ルシルが答えると、シモンも頷いた。
「ええ。大きな港では品物の種類が多く、商人も多く集まりますが、こうした小さな市場には、地域の暮らしがよく表れていますね」
モモは広場を見回した。
魚を売っていた男性が、隣の店の女性と何か話している。
海藻を売っていた女性は、残った束を籠へ戻しながら、通りかかった子どもへ声を掛けていた。
その様子は、買い物の場というより、村の人々が自然に集まる場所のようにも見えた。
「なんだか、みんな仲がいいね」
「そうだな。毎日顔を合わせてるから、自然と話すことも多いんだろうな」
ルシルはそう答えながら、広場の向こうに見える入り江へ目を向けた。
潮凪村へ来てから、まだそれほど長い時間が経ったわけではない。
それでも、村の人々と話し、同じ場所で食事をし、飾りを作るうちに、少しずつこの土地が身近に感じられるようになっていた。
(旅って、ただ遠くへ行くだけじゃないんだな。こうして一つの場所で過ごす時間も、ちゃんと旅の一部なんだ)
ルシルはそんなことを考えながら、穏やかな風を感じていた。
しばらく休んだあと、シモンが帳面を閉じて二人へ声を掛けた。
「さて、今日の宿泊についてですが、どうしましょうか。もしもう一泊するなら、早めに確認しておいたほうがよいと思います」
ルシルはモモへ目を向けた。
「モモはどうしたい?」
モモは少し考え、広場を見回した。
「うーん……まだ見てないところもあるし、もう一泊してもいいかなって思う。でも、二人が先へ進みたいなら、それでもいいよ」
ルシルはその返事を聞き、穏やかに笑った。
「俺も、もう少し村にいてもいいと思ってる。せっかく来たんだし、急ぐ必要もないからな」
シモンも頷いた。
「私も異存ありません。馬たちの状態も良好ですし、今日はゆっくり過ごして、明日以降の出発を考えましょう」
「じゃあ、もう一泊!」
モモは嬉しそうに笑った。
三人は立ち上がり、潮凪共同家へ向かった。
◇
共同家では、ミレナが大きな卓の上で書類を整理していた。
三人が入ってくると、彼女はすぐに顔を上げ、親しみのある笑顔を向けてくれた。
「あら、こんにちは。今日は朝市へ行ってきたの?」
「はい。いろんなものがあって、とても楽しかったです」
ルシルが答えると、ミレナは嬉しそうに頷いた。
「それはよかったわ。小さな朝市だけれど、村の人たちにとっては大切な集まりなのよ」
モモも笑いながら続けた。
「魚も海藻も、貝殻飾りもありました! 昨日作ったものとは違う形の飾りも見られて、面白かったです!」
「ふふ。リーナさんのところで作ったばかりだから、余計に気になったでしょうね」
ミレナは微笑んだあと、三人の様子を見て尋ねた。
「それで、今日は何か相談かしら?」
シモンが一歩前へ出た。
「はい。もし宿と馬車置場に空きがあるようでしたら、もう一泊させていただきたいと思いまして」
ミレナは卓の上の帳面を開き、今日の宿泊予定を確認した。
「少し待ってね……ええ、馬車置場は問題なさそうよ。浜灯りの家についても、今のところ予約は入っていないはずだけれど、エルサさんへ確認してもらえるかしら」
「もちろんです。ありがとうございます」
ルシルが礼を言うと、ミレナは穏やかに笑った。
「こちらこそ。村を気に入ってもらえたなら嬉しいわ」
モモは嬉しそうに頷いた。
「はい! まだまだ見たいところがいっぱいあります!」
「それなら、午後は入り江の北側を歩いてみてもいいかもしれないわね。漁師の作業場から少し離れたところに、海を眺められる道があるのよ」
ミレナは村の簡単な案内図を広げ、入り江の北側を指した。
「ただし、道の先は岩場に続いているから、足元には気をつけてね。今日は風も穏やかだけれど、海の近くでは油断しないほうがいいわ」
ルシルは案内図を確認し、頷いた。
「ありがとうございます。午後に少し歩いてみようと思います」
三人はミレナへ礼を言い、共同家を出た。
◇
浜灯りの家へ戻ると、エルサはちょうど昼食の準備をしていた。
ルシルたちがもう一泊したいと伝えると、彼女は嬉しそうに笑い、空いている客室をそのまま使ってよいと言ってくれた。
「もちろん構わないわよ。今日はほかのお客さんも来る予定がないから、ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます。もう少し村を見て回りたいと思っていたので、助かります」
ルシルが礼を言うと、エルサは微笑んだ。
「せっかくの旅なんだから、気に入った場所ではのんびりするのもいいものよ」
その言葉に、三人は自然と笑顔になった。
昼食を済ませたあと、三人は少し休んでから、ミレナに教えてもらった入り江の北側へ向かうことにした。
モモは旅帳面と筆記具を持ち、ルシルは飲み水を用意した。シモンは案内図を確認し、歩く道が漁師たちの作業場へ入らないことを確かめている。
「今日はどんな景色が見られるかな」
モモが楽しそうに言うと、ルシルは笑った。
「行ってみてのお楽しみだな」
「そうですね。昨日までとは違う角度から入り江を眺められるかもしれません」
三人は宿を出て、北側へ続く道を歩き始めた。
◇
入り江の北側へ向かう道は、村の中心から少し離れると静かになった。
家々の数が減り、低い石壁の向こうには草地が広がっている。海から吹く風は穏やかで、足元の草をゆっくり揺らしていた。
道の先には、入り江を囲むように伸びた低い丘が見える。
ルシルたちは無理に急がず、周囲の景色を楽しみながら歩いた。
「こっちは、村の中心とは全然違う雰囲気だな」
ルシルが言うと、モモも頷いた。
「うん。家が少なくなったから、海がよく見えるね」
シモンは案内図へ目を落とした。
「この先に、海を眺められる場所があるようです。岩場へ下りる道とは別になっていますから、そちらへ向かいましょう」
三人は道なりに進み、小さな丘の上へ出た。
そこからは、潮凪村の入り江が一望できた。
小さな舟がいくつも浮かび、桟橋の近くには漁師たちの姿が見える。家々の屋根は低く、海風を受けながら静かに並んでいた。
「わあ……!」
モモは思わず声を上げた。
「すごい! 村が全部見える!」
ルシルも景色を眺め、満足そうに笑った。
「本当だ。昨日は入り江の中から海を見てたけど、ここからだと村の形がよく分かるな」
「ええ。入り江が大きく湾曲しているので、外海の波が直接入りにくいのでしょうね」
シモンはそう説明しながら、海岸線へ目を向けた。
丘の上から見ると、潮凪村がなぜこの場所に作られたのか、少し分かる気がした。
外海に面していながら、入り江の内側には穏やかな水面が広がっている。
舟を停める場所があり、家々を建てるための平らな土地もある。
長い年月をかけて、人々がこの場所で暮らしてきたのだろう。
モモは旅帳面を開き、丘から見える景色を描き始めた。
「今日も絵を描くのか?」
ルシルが尋ねると、モモは嬉しそうに頷いた。
「うん! 昨日は貝殻飾りを描いたから、今日は村の景色を描いてみたいの」
「いいな。俺も描こうかな」
ルシルはモモの隣へ腰を下ろし、紙を一枚取り出した。
シモンも少し離れた場所へ座り、二人が絵を描く様子を穏やかに見守っていた。
丘の上には、海風が静かに吹いている。
遠くから聞こえる波音と、草の揺れる音。
それ以外には大きな物音もなく、三人はしばらく景色を眺めながら過ごした。
◇
しばらくして、モモが描き終えた絵を持ち上げた。
「できた!」
ルシルが覗き込むと、そこには入り江と小さな舟、家々の屋根が描かれていた。
形は少し不揃いだったが、潮凪村の雰囲気はよく伝わってくる。
「いいじゃん。ちゃんと村に見える」
「本当? よかった!」
モモは嬉しそうに笑った。
ルシルも自分の絵を見せた。
こちらは入り江の曲線を大きく描き、その内側に小さな舟をいくつか並べている。
モモは少し考えてから、楽しそうに言った。
「ルシル君の絵、地図みたいだね」
「そうかな」
「うん。村がどんな形をしてるか、すごく分かりやすい!」
ルシルは自分の絵を見下ろし、少し笑った。
「確かに、景色を描こうとしたのに、いつの間にか場所の配置を考えてたかもしれない」
シモンも二人の絵を眺め、穏やかに頷いた。
「それぞれの見方が表れていますね。モモ嬢の絵は村の雰囲気が伝わりますし、ルシル様の絵は地形がよく分かります」
「シモン君も描いてみる?」
モモが尋ねると、シモンは少し考えたあと、笑った。
「今日は二人の絵を見ているだけにしておきましょう。昨日は私も描きましたからね」
「そっか。じゃあ、また今度一緒に描こうね!」
「ええ。機会があれば、ぜひ」
三人は描いた絵を丁寧にしまい、しばらく丘の上で景色を楽しんだ。
やがて日が傾き始めた頃、シモンが空を見上げた。
「そろそろ戻りましょうか。暗くなる前に村へ戻ったほうが安心です」
「そうだな。今日はもう一泊するし、夕食にも間に合うようにしよう」
ルシルが立ち上がると、モモも旅帳面を閉じた。
「うん! 帰ったら今日のことも書こうっと」
三人は来た道を戻り、潮凪村の中心へ向かった。
◇
浜灯りの家へ戻る頃には、村の空が夕暮れの色に染まり始めていた。
軒先の貝殻飾りは穏やかな風に揺れ、昨日より少し控えめな音を響かせている。
エルサは三人の姿を見ると、笑顔で迎えてくれた。
「お帰りなさい。今日は朝市も丘の散歩も楽しめた?」
「はい! すごく楽しかったです!」
モモは嬉しそうに答えた。
「丘の上から村が全部見えたんです。絵も描いたんですよ!」
「あら、それはよかったわ。あそこから見る入り江は、私も好きなのよ」
エルサはそう言って微笑んだ。
「夕食まで少し時間があるから、ゆっくりしていってね」
三人は礼を言い、食堂の席へ向かった。
モモは旅帳面を開き、今日の朝市で見たものや、丘から眺めた景色を書き始めた。
ルシルはその隣で、自分の描いた絵をもう一度見直していた。
シモンは向かいの席で、購入した海藻の包みを確認し、旅の荷物へしまう準備をしている。
それぞれ違うことをしていたが、三人の間には穏やかな空気が流れていた。
ルシルはふと顔を上げ、二人の様子を眺めた。
モモは楽しそうに帳面へ文字を書き込み、シモンは時折その様子を見て微笑んでいる。
王城を離れたとき、ルシルはただ自由に旅をしたいと思っていた。
けれど、実際に旅を続けてみると、自由とは何か特別なことをするだけではないのだと感じるようになっていた。
気に入った村でもう一泊すること。
朝市で知らない食べ物を見つけること。
丘の上で景色を眺め、上手とは言えない絵を描くこと。
そうした小さな選択を、自分たちで決められることが嬉しかった。
(王位なんてなくても、こんなに楽しい毎日があるんだな)
ルシルは静かに微笑み、窓の外へ目を向けた。
潮凪村の家々には、夕方の明かりが少しずつ灯り始めている。
海から吹く風が軒先の貝殻飾りを揺らし、小さな音が食堂の窓越しに届いていた。
明日、三人がこの村を出発するのか、それとももう少し滞在するのかは、まだ決まっていない。
けれど、今はそれでよかった。
次の行き先を急いで決める必要もなく、今日出会った人々や景色を思い出しながら、温かな夕食を待つことができる。
潮凪村で過ごす二度目の一日は、そんな穏やかな時間の中で、ゆっくりと暮れていった。




