第91話 潮凪村の貝殻飾りには、小さな願いが込められていました
潮凪村で迎えた最初の朝は、窓の向こうから聞こえてくる控えめな物音と、どこか懐かしい魚の焼ける匂いから始まった。
浜灯りの家の二階にある客室では、薄い朝日が窓枠を通して床板へ差し込んでいる。青波の網灯りの宿では、朝になると港の荷車や市場へ向かう人々の声が聞こえていたが、この村では人の声よりも、軒先の貝殻が風に触れ合う小さな音のほうがよく聞こえた。
ルシルは寝台の上で身体を起こし、隣の寝台へ目を向けた。シモンはすでに起きていたものの、いつものように地図や帳簿を広げているわけではなく、窓辺の椅子に腰掛けて本を読んでいた。
「おはよう、シモン。今日はずいぶんのんびりしてるな」
声を掛けると、シモンは本から顔を上げ、黒縁眼鏡の位置を軽く直した。
「おはようございます、ルシル様。今日は出発の予定がありませんからね。朝から慌ただしく準備する必要もありませんし、少し読書をしていました」
「それはいいな。何の本?」
「青波で手に入れた沿岸の交易についての本です。漁村から港町へ運ばれる品物の話が載っているのですが、昨日見かけた荷車のことを思い出しまして」
シモンは開いていた頁へ栞を挟み、本を閉じた。普段なら旅程の確認や馬車の点検を優先している彼が、朝の時間を読書に使っている姿は、ルシルにとって少し新鮮だった。
「昨日の荷車って、潮凪村へ来る途中ですれ違ったやつ?」
「ええ。空の籠を積んでいましたね。あのような荷車が、漁村と青波のような大きな港を結んでいるのでしょう。実際に道を通ったあとで読むと、書かれていることの意味がよく分かります」
「なるほどな。そういう楽しみ方もあるんだ」
ルシルは寝台から降り、窓辺へ近づいた。外には低い石壁に囲まれた家々が並び、その向こうに、朝の光を受けた入り江が少しだけ見えている。
昨夜は夕食のあとに明日の予定を話し合い、村に滞在することを決めた。今日は馬車を走らせる必要もなく、決まった時刻までにどこかへ到着しなければならない事情もない。
(こういう朝も、いいよな。何かをしなきゃいけないから起きるんじゃなくて、起きたから今日を楽しもうって思えるのは)
ルシルは窓を少し開け、潮の匂いを含んだ風を吸い込んだ。軒先の貝殻がかすかに鳴り、その音に混じって、どこかの家から子どもの笑い声が聞こえてくる。
「そういえば、モモはもう起きてるかな」
「先ほど廊下で足音がしましたから、起きているかもしれませんね。昨日は貝殻飾りを見に行くと張り切っていましたし」
「だったら、朝ご飯のときに今日の行き先を相談しよう」
ルシルがそう言うと、シモンは穏やかに頷いた。
「ええ。ただし、せっかくの滞在日ですから、予定を詰め込みすぎないようにしましょう。私も今日は、村の時間に合わせて過ごしてみたいと思っています」
その言葉を聞いたルシルは、思わずシモンの顔を見た。
王城にいた頃のシモンなら、空いた時間があれば何かしらの仕事を探し、効率よく予定を組もうとしていただろう。今でも几帳面なところは変わらないが、こうして何もしない時間を楽しもうとする姿を見ると、旅に出てよかったと改めて感じられた。
「いいな、それ。今日は三人で、ゆっくり歩こう」
「はい。そうしましょう」
シモンの返事は、いつもより少し柔らかかった。
◇
一階の食堂へ下りると、厨房から温かな湯気が流れてきた。
エルサは大きな鍋をかき混ぜながら、食卓に並べる皿の準備をしている。窓辺の席にはすでにモモが座っており、膝の上に開いた旅帳面へ何かを書き込んでいた。
「おはよう、モモ。朝から何を書いてるんだ?」
ルシルが声を掛けると、モモは顔を上げ、嬉しそうに笑った。
「おはよう、ルシル君、シモン君! 昨日見た貝殻飾りのことを書いてたの。寝る前にも少し書いたんだけど、朝になったらまた思い出したことがあって」
帳面を覗くと、そこには昨日見た家々の軒先や、小さな入り江についての文章が並んでいた。頁の端には貝殻を紐でつないだ簡単な絵も描かれており、形は少しいびつながら、何を見て描いたのかはすぐに分かった。
「絵も描いたんだな。いいじゃん、これ」
「本当? 昨日ルシル君も絵を描いてみようかなって言ってたでしょ。だから、私も描いてみたの」
「そうだったな。俺も何か描こうかな」
「じゃあ、今日見たものを描こうよ。貝殻飾りなら、いろんな形があるかもしれないし」
モモはそう言いながら、帳面の端を指先で押さえた。嬉しそうな表情の奥には、今日一日をどう過ごそうかという期待が隠しきれずに浮かんでいる。
その様子を見ていたエルサが、厨房から声を掛けてきた。
「今日は村を見て回るんだったわね。貝殻飾りが気になるなら、ちょうどいい場所があるわよ」
「本当ですか?」
モモが椅子から少し身を乗り出すと、エルサは笑いながら頷いた。
「ええ。でも、まずは朝ご飯にしましょう。温かいうちに食べてもらいたいから、詳しい話はそのあとでね」
「はい!」
モモはすぐに帳面を閉じ、食卓の端へ置いた。ルシルとシモンも席へ着き、エルサが運んできた料理を受け取る。
朝食は、香草を混ぜた卵料理と焼いた薄いパン、それに細かくほぐした魚と野菜を入れた温かな汁物だった。魚の風味は控えめで、朝でも食べやすい優しい味に仕上がっている。
「昨日の夕食も美味しかったけど、朝ご飯もいいな」
ルシルが感想を伝えると、エルサは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。うちでは朝に魚を少し使うことが多いのよ。昨日の漁で残しておいた分を、傷まないうちに調理しているの」
「無駄にしないんですね」
シモンの言葉に、エルサは頷いた。
「この村では、獲れたものを大切に使うのが当たり前だからね。魚も貝も、食べられるものは食べて、残ったものでも使い道があれば取っておくのよ」
モモはその説明を聞きながら、汁物の器へ目を落とした。
「じゃあ、貝殻飾りもそうやって作ってるんですか?」
「そういうものも多いわね。ただ、飾りに使う貝殻は、浜に落ちているものを拾ってくることもあるの。形がきれいなものや、穴を開けやすいものを選んでね」
エルサは一度厨房へ戻り、小さな木皿を持ってきた。
皿には白っぽい貝殻が三枚と、細い紐が一本載っている。貝殻にはそれぞれ小さな穴が開いており、表面は長く磨かれたように滑らかだった。
「これは、昔うちの娘が作りかけていたものなの。今は別の町で暮らしているけれど、小さい頃はこういう飾りをよく作っていたわ」
エルサは懐かしそうに貝殻を一枚持ち上げた。
「貝殻の形によって音が違うから、気に入った組み合わせを探すのが楽しいのよ。村の子どもたちは、誰の飾りが一番きれいな音を出すか競争することもあるわね」
「音が違うんですか?」
モモは目を輝かせた。
「ええ。厚い貝殻と薄い貝殻では、触れ合ったときの響きが少し違うの。もちろん、大きな鐘みたいな音が出るわけじゃないけれどね」
エルサは二枚の貝殻を軽く触れ合わせた。
乾いた小さな音が鳴り、モモは嬉しそうに目を細めた。昨日、軒先で聞いた音とよく似ていたが、近くで聞くと一枚ずつの違いが少しだけ分かる気がした。
「かわいい音ですね。私、こういうの好きです」
「それなら、共同家の裏手にある作業小屋へ行ってみるといいわ。今日は村の人たちが飾りを作る予定だったはずだから、見学できるかもしれないわよ」
モモはすぐにルシルへ顔を向けた。
「ルシル君、行ってみたい!」
「もちろん。俺も作ってるところを見てみたいな」
シモンも穏やかに頷いた。
「ただ、共同作業の邪魔にならないよう、先にミレナさんへ確認しましょう。見学できるなら、よい機会だと思います」
エルサは三人の返事を聞き、嬉しそうに笑った。
「ミレナさんなら、今朝も共同家にいると思うわ。あの人は村のことをよく知っているから、聞けばいろいろ教えてくれるはずよ」
朝食のあと、三人はエルサへ礼を言い、身支度を整えることにした。
モモは食堂を出る前に、もう一度木皿の貝殻へ目を向けた。白い表面には小さな筋が幾重にも走っており、海で長い時間を過ごしてきたものなのだと感じられた。
(昨日はかわいい飾りだなって思ったけど、作る人のことを知ったら、もっと好きになりそう)
モモはその気持ちを忘れないよう、旅帳面を大切に抱えて二階へ戻った。
◇
浜灯りの家を出ると、潮凪村の朝はすでに穏やかな活気に包まれていた。
家々の間では、漁を終えたらしい男性たちが籠を運び、軒先では女性が網の傷んだ部分を確かめている。入り江へ続く道には濡れた砂の跡が残り、潮の匂いに混じって、干した魚と木材の匂いが漂っていた。
三人はまず馬車置場へ向かい、トルクとベルクの様子を確認した。
昨夜は宿へ泊まっていたため、馬たちは共同の馬車置場で休ませている。二頭とも落ち着いており、トルクはルシルの姿を見つけると、餌を期待するように鼻先を伸ばしてきた。
「おはよう。今日は馬車を引かなくていいから、のんびりしててくれ」
ルシルが首を撫でると、トルクは満足そうに目を細めた。隣ではベルクが静かに立っており、シモンが脚を確認しても嫌がる様子は見せなかった。
「二頭とも問題ありませんね。今日は移動しませんから、餌と水を確認しておけば十分でしょう」
「そうだな。昨日は細い道も歩いたし、今日は休みの日だ」
ルシルは二頭の餌を整え、馬車の状態も簡単に確認した。
車内では青波で購入した青い風魚飾りが、窓から入る風を受けてわずかに揺れている。モモはその様子を見つけ、嬉しそうに笑った。
「青波の魚と、潮凪村の貝殻。どっちも風で動く飾りなんだね」
「そう言われると、確かにそうだな」
ルシルは風魚飾りを見上げた。
「青波では魚が泳いでるみたいに見えたけど、潮凪村の貝殻は音を楽しむんだな」
「同じ海辺でも、風の使い方が違うというのは興味深いですね」
シモンも飾りへ視線を向けた。
「もちろん、どちらも飾りとして楽しむものなのでしょうが、地域によって工夫が異なるのかもしれません」
モモは頷き、少し考えてから言った。
「ねえ、もし貝殻飾りを買えたら、この魚の近くに吊るしてもいいかな?」
「いいんじゃないか。ただ、走ってるときにぶつからない場所にしないとな」
「それなら、取り付け方も考えましょう。音が鳴るものですから、揺れすぎると破損する可能性があります」
シモンの説明を聞いたモモは、真剣な顔で頷いた。
「そっか。じゃあ、まずは見に行ってから考えよう」
三人は馬車を離れ、共同家へ向かった。
昨日は到着したばかりで、宿泊の手続きに意識が向いていた。今日は時間に余裕があるため、道沿いの家々や軒先の飾りをゆっくり眺めながら歩くことができる。
モモは貝殻飾りを見つけるたびに足を止めたが、家の敷地へ勝手に入ることはせず、道から見える範囲で形や音の違いを楽しんでいた。
ある家の軒先には、白い貝殻が三枚だけ吊るされている。別の家では、茶色の筋が入った貝殻と小さな木片が組み合わされており、風が吹くたびに少し低い音が響いていた。
「本当に、家によって違うんだね」
モモが感心したように言うと、ルシルも頷いた。
「同じものを並べてるわけじゃないんだな。作った人の好みが出るのかもしれない」
「そうだね。どれもかわいいから、全部見たくなっちゃう」
モモは笑いながら、旅帳面へ簡単な特徴を書き留めた。
シモンはそんな二人の後ろを歩きながら、急かすことなく周囲を眺めていた。
昨日までなら、目的地へ向かう途中で立ち止まる回数が増えると、到着時刻を気にしたかもしれない。けれど今日は、その必要がないことを本人もよく理解していた。
(こうして目的もなく歩いているように見えても、二人にとっては一つひとつが新しい発見なのですね)
シモンはモモが軒先の貝殻を見上げる姿と、ルシルがその隣で楽しそうに話している様子を見た。
かつて王城で仕えていた頃のルシルは、与えられた役割を果たすため、常に何かを考えていた。今も周囲への気遣いや判断力は変わらないが、その表情には、以前よりもずっと自然な笑みが増えている。
シモンはそれを嬉しく思いながら、二人の歩調に合わせてゆっくり進んだ。
◇
潮凪共同家へ到着すると、ミレナは昨日と同じ大きな卓で書類を整理していた。
入口から入ってきた三人に気づくと、彼女はすぐに顔を上げ、親しみのある笑顔を向けてくれた。
「あら、昨日の旅人さんたちね。おはようございます。浜灯りの家ではゆっくり休めましたか?」
「はい。食事も美味しくて、とてもよく眠れました」
ルシルが答えると、ミレナは安心したように頷いた。
「それはよかったわ。エルサさんも、久しぶりに若い旅人さんが来たって喜んでいたのよ」
モモは嬉しそうに笑い、さっそく貝殻飾りについて尋ねた。
「エルサさんから、共同家の裏にある作業小屋で貝殻飾りを作るって聞いたんです。もし邪魔にならなければ、見学させてもらえませんか?」
ミレナは少し目を丸くしたあと、柔らかく笑った。
「もちろん、見学だけなら構わないと思うわ。今日は村の人たちが集まって、古くなった飾りの修理と、新しい飾り作りをしているはずよ」
「修理もするんですね」
シモンが尋ねると、ミレナは頷いた。
「ええ。貝殻は丈夫そうに見えても、長く外へ吊るしていると欠けたり、紐が傷んだりするの。風の強い日もあるから、定期的に見直しているのよ」
ミレナは立ち上がり、棚から小さな布袋を取り出した。
「それに、ちょうど今日は子どもたちも手伝っているはずだから、見学する人がいても喜ぶんじゃないかしら。ただ、作業中の道具には触れないようにしてね」
「分かりました!」
モモが元気よく答えると、ミレナは微笑んだ。
「では、私が案内しましょう。ちょうど届けるものもあるの」
三人はミレナのあとに続き、共同家の裏手へ回った。
そこには小さな中庭があり、木製の長椅子や作業台が並んでいる。さらに奥には、片側の壁を大きく開けられる造りの作業小屋が建っていた。
小屋の中からは、人々の話し声と、貝殻が触れ合う乾いた音が聞こえてくる。
近づくと、数人の大人と子どもたちが卓を囲み、紐や貝殻を手にしていた。
「おはよう、みんな。少しお邪魔するわね」
ミレナが声を掛けると、作業台の向こうにいた年配の女性が顔を上げた。
「あら、ミレナさん。今日は何か用事かい?」
「頼まれていた紐を持ってきたの。それと、こちらは昨日村へ来た旅人さんたち。貝殻飾りを見てみたいそうなのよ」
女性は三人へ目を向け、にこやかに笑った。
「それは嬉しいね。こんな小さな村の飾りに興味を持ってくれるなんて、ありがたいことだよ」
ルシルは丁寧に頭を下げた。
「お邪魔します。作業の邪魔にならないようにしますので、少し見せてもらえますか?」
「もちろんさ。危ない道具もあるから、使っている人の手元には近づきすぎないでおくれ」
三人が頷くと、女性は作業台の端を指した。
「そこならよく見えるよ。今日は古い飾りを直しながら、新しいものも作っているところなんだ」
モモは嬉しそうに礼を言い、指定された場所へ歩いた。
◇
作業台の上には、形も色も異なる貝殻がいくつもの木皿に分けられていた。
白く薄いもの、茶色の筋が入ったもの、丸みを帯びたもの、細長いもの。中には表面が波に磨かれたように滑らかなものもあり、モモは一つひとつを見比べながら、目を輝かせていた。
年配の女性は自分をリーナと名乗り、貝殻飾りを作る手順を説明してくれた。
「まずは、使う貝殻を選ぶんだよ。欠けているものでも使える場合はあるけれど、吊るしたときに割れそうなものは避けるんだ」
リーナは木皿から二枚の貝殻を取り上げ、裏返して見せた。
「こっちは縁が薄すぎるから、風が強い日にぶつかると割れるかもしれないね。もう一枚は厚みがあるから、紐を通しても大丈夫そうだ」
シモンは貝殻の縁へ視線を向け、興味深そうに頷いた。
「見た目だけでなく、強度も考える必要があるのですね」
「そうさ。きれいだからって何でも使えるわけじゃないんだよ。長く飾るなら、丈夫なものを選ばないとね」
ルシルは作業台の端に置かれた古い飾りを見た。
紐の一部が擦り切れ、貝殻の位置もずれている。長く風に揺られていたことが分かる状態だったが、貝殻そのものはまだ十分に使えそうだった。
「古くなったものは、全部作り直すんですか?」
ルシルが尋ねると、リーナは首を横に振った。
「そんなことはしないよ。使える貝殻は残して、傷んだ紐だけ替えることも多いんだ。せっかく誰かが作ったものだから、直せるうちは大事に使いたいだろう?」
その言葉に、ルシルは静かに頷いた。
青波で見た風魚飾りも、潮凪村の貝殻飾りも、ただの飾りとして吊るされているわけではないのだろう。作った人がいて、飾った人がいて、それを長く使おうとする人がいる。
モモは別の作業台へ目を向けた。
そこでは十歳くらいの女の子が、細い紐へ貝殻を通そうとしていた。隣には少し年上らしい男の子が座り、木片の穴へ紐を通す作業を手伝っている。
女の子はなかなか上手くいかないらしく、眉を寄せていた。
「うーん……また通らない」
小さな声が聞こえた。
モモは少し迷ってから、リーナへ尋ねた。
「あの子たちの作業も見ていいですか?」
「もちろん。ただ、本人たちにも聞いてみておくれ」
モモは頷き、二人のそばへ近づいた。
「こんにちは。貝殻飾りを作ってるところ、見てもいいかな?」
女の子は顔を上げ、モモの桃金色の髪を見て少し驚いたようだったが、すぐに頷いた。
「うん。いいよ。でも、まだ上手くできてないの」
「そうなんだ。どこが難しいの?」
モモが尋ねると、女の子は手元の貝殻を見せた。
「穴に紐を通したいんだけど、先が曲がっちゃうの。お兄ちゃんはできるのに、私は何回やっても失敗するんだ」
隣の男の子は、少し照れたように笑った。
「僕も最初はできなかったよ。紐の先を揃えると通しやすいって教えてもらったんだ」
モモは二人の手元を覗き込み、なるほどと頷いた。
紐は柔らかく、先端が少しほつれている。無理に押し込もうとすると、細い穴の手前で曲がってしまうらしかった。
「ねえ、リーナさんに聞いてみようか。私も作り方を知りたいし、一緒に教えてもらえたら嬉しいな」
女の子は少し考えたあと、頷いた。
「うん。聞いてみる」
モモは女の子と一緒にリーナのところへ戻り、紐の通し方を尋ねた。
リーナは二人の手元を見て、優しく笑った。
「なるほどね。紐の先が少しほつれているんだ。こういうときは、先を整えてから通すといいよ」
リーナは小さな道具を使い、紐の先端を丁寧に揃えて見せた。
それから貝殻の穴へ通すと、先ほどまで引っ掛かっていた紐が、するりと向こう側へ抜けた。
「わあ!」
女の子が声を上げた。
モモも嬉しそうに笑った。
「すごい! ちょっとしたことで違うんですね」
「そうだね。力を入れればいいってものじゃないんだよ。道具も材料も、それぞれ扱い方があるからね」
リーナは紐を女の子へ返した。
「今度は自分でやってごらん」
女の子は真剣な表情で紐を持ち、先端を整えてから穴へ近づけた。
最初は少し引っ掛かったものの、角度を変えると、紐は無事に貝殻を通り抜けた。
「できた!」
その声に、近くで作業していた大人たちも顔を上げた。
「おお、上手くいったね」
「よかったじゃないか」
女の子は頬を赤くしながら、嬉しそうに笑った。
モモも一緒になって喜び、女の子の手元を見つめた。
「すごいね! きれいに通ったよ」
「うん!」
女の子は貝殻を持ち上げ、誇らしそうに見せてくれた。
その様子を少し離れた場所から見ていたルシルは、自然と笑みを浮かべていた。
モモは初めて会った子どもにも、相手が困っていることを見つけると、すぐに手を貸そうとする。ただし、今回は自分で解決しようとするのではなく、作り方を知っているリーナへ一緒に尋ねていた。
それが、この村の人々の暮らしを尊重しているように感じられた。
(モモらしいな。知らないことを知るのも好きだけど、誰かと一緒にできるようになるのも嬉しいんだろうな)
ルシルはそんなことを考えながら、作業台へ視線を戻した。
◇
しばらく見学しているうちに、リーナが三人へ声を掛けた。
「せっかくだから、簡単な飾りを作ってみるかい? 見ているだけでもいいけれど、実際にやると面白いよ」
モモはすぐに顔を輝かせたが、ルシルとシモンへ確認するように目を向けた。
「やってみたいけど、いいかな?」
「俺も興味あるし、やってみようか」
ルシルが答えると、シモンも頷いた。
「ええ。道具の扱いを教えていただけるなら、私も挑戦してみたいですね」
リーナは嬉しそうに笑い、三人の前へ小さな木皿を並べた。
「じゃあ、穴を開けるところまでは済ませた貝殻を使おうか。初めての人には、そのほうが安心だからね」
皿には三枚ずつ貝殻が入っていた。
白いもの、薄い茶色のもの、少し丸みのあるもの。どれも小ぶりで、紐を通すための穴が開けられている。
「まずは好きな順番に並べてみておくれ。音も形も少しずつ違うから、自分が気に入る組み合わせを探すといいよ」
モモは真剣な顔で貝殻を並べ始めた。
白い貝殻を中央へ置き、その左右に茶色の貝殻を置いてみる。けれど、少し考えてから順番を変え、今度は丸い貝殻を一番下へ置いた。
「うーん。どっちがいいかな」
ルシルは隣で自分の貝殻を見比べながら笑った。
「モモ、すごく悩んでるな」
「だって、どれもかわいいんだもん。せっかく作るなら、気に入った並びにしたいでしょ?」
「それはそうだな」
ルシルも貝殻を並べ直した。
彼は形の違う三枚を、少しずつ間隔を空けて吊るすことにした。大きなものを一番下へ置けば安定するかもしれないと思ったが、実際にどうなるかは作ってみなければ分からない。
一方のシモンは、貝殻の重さと紐の長さを確かめながら、慎重に配置を考えていた。
「シモン君、なんかすごく真剣だね」
モモが覗き込むと、シモンは少しだけ苦笑した。
「初めての作業ですからね。せっかくなら、きちんと形になるものを作りたいと思いまして」
「シモンらしいな」
ルシルが笑うと、リーナも楽しそうに頷いた。
「三人とも違う作り方をしていて面白いね。同じ材料を渡しても、出来上がるものは少しずつ違うんだよ」
その言葉を聞き、モモは自分の貝殻を見下ろした。
同じような貝殻でも、並べ方や紐の長さによって雰囲気が変わる。誰かの真似をするのではなく、自分が好きだと思う形を選べることが、なんだか嬉しかった。
三人はリーナに教わりながら、紐を通し、結び目を作っていった。
ルシルは最初の結び目を少し緩くしてしまい、貝殻が予定より下へずれてしまった。リーナに教わって結び直すと、今度はしっかり固定できたが、その様子を見ていたモモが楽しそうに笑った。
「ルシル君、ちょっと苦戦してる?」
「いや、思ったより難しいな。馬車の荷物を縛るのとは全然違う」
「紐を結ぶのは同じなのにね」
「細かいところが違うんだよ」
ルシルが笑って答えると、シモンも手元から顔を上げた。
「確かに、荷物を固定する結び方とは目的が違いますね。こちらは貝殻の位置を保ちながら、見た目も整える必要があります」
「そうそう。シモンの言うとおり」
ルシルが頷くと、モモは二人の顔を見比べて笑った。
「じゃあ、私たちも練習すれば上手になるね」
リーナは三人のやり取りを聞きながら、温かい目で見守っていた。
作業小屋にはほかの村人たちの声も響いている。誰かが紐を取り替え、別の誰かが貝殻を選び、子どもたちは出来上がった飾りを見せ合っていた。
その賑やかさは、青波の朝市とはまったく違うものだった。
物を売り買いするための声ではなく、同じ作業を楽しみながら交わす声が、ゆっくりと小屋の中へ広がっている。
ルシルは自分の手元へ視線を戻し、最後の結び目を作った。
完成した飾りを持ち上げると、三枚の貝殻が少しずつ揺れ、軽い音を立てた。
「……できた」
思わず笑みがこぼれた。
上手な出来とは言えないかもしれないが、自分で作ったものが形になったことは素直に嬉しかった。
「ルシル君、見せて!」
モモが身を乗り出した。
ルシルは飾りを少し高く持ち上げ、モモへ見せた。
「どう?」
「いいじゃん! 貝殻の間がちょっと広いから、風が吹くとよく動きそう」
「そうかな」
「うん。私のはもう少し近くにしたよ」
モモも自分の飾りを持ち上げた。
白い貝殻を中心に、茶色の筋が入った二枚が上下へ並んでいる。紐の長さを短めにしたため、少し動かすだけで貝殻同士が触れ合い、澄んだ小さな音がした。
「いい音だな」
ルシルが言うと、モモは嬉しそうに頷いた。
「でしょ? これ、すごく気に入った!」
シモンも完成した飾りを持ち上げた。
彼のものは三枚の貝殻がほぼ均等な間隔で並び、結び目もきれいに揃っていた。見た目は三人の中で最も整っているように見えたが、実際に揺らしてみると、思ったより音が小さかった。
「あれ?」
シモンは少し不思議そうに飾りを見た。
「形は整ったのですが、音はあまり鳴りませんね」
リーナが近づき、飾りを見て笑った。
「きれいに作れているよ。ただ、貝殻の間が少し離れているから、弱い風だと触れ合いにくいんだね」
「なるほど。見た目を整えることばかり考えていました」
シモンは少し照れたように笑った。
ルシルはその様子を見て、思わず口元を緩めた。
「シモンでも、こういうことあるんだな」
「もちろんありますよ。何でも最初から上手くできるわけではありませんから」
シモンはそう答えながら、飾りをもう一度見つめた。
「ですが、これはこれで気に入りました。音が控えめなのも悪くありませんね」
「うん。シモン君っぽい!」
モモが笑うと、シモンは少し困ったような表情を浮かべた。
「それは、どういう意味でしょうか」
「きれいで、落ち着いてるってこと!」
モモの返事に、ルシルも笑った。
「確かに。俺のはちょっと自由すぎるし、モモのは楽しそうに鳴るし、シモンのは落ち着いてるな」
リーナも三人の飾りを見比べ、満足そうに頷いた。
「それぞれ違って、いいじゃないか。こういうものは、作った人らしさが出るんだよ」
その言葉を聞いたシモンは、自分の飾りをもう一度見た。
完璧な形を目指したつもりだったが、出来上がったものには自分でも予想しなかった特徴があった。それを失敗だと考える必要はないのだと気づくと、少し肩の力が抜けた。
◇
飾り作りが一段落した頃、リーナは三人を小屋の外へ誘った。
中庭には風を受けやすい場所があり、完成した飾りを一時的に吊るして音を確かめられるようになっている。木の横棒が何本か渡され、その下には割れた貝殻が落ちないよう、柔らかな布が敷かれていた。
「ここで一度、風に当ててみるといいよ。手で揺らすのとは少し違うからね」
三人は教えられた場所へ飾りを吊るした。
最初は風が弱く、貝殻はほとんど動かなかった。けれど、入り江のほうから少し強い風が吹き込むと、モモの飾りが真っ先に小さな音を立てた。
「あ、鳴った!」
モモが嬉しそうに声を上げる。
続いてルシルの飾りも揺れ始め、少し不揃いながら乾いた音を響かせた。シモンの飾りは大きく揺れても貝殻同士がなかなか触れ合わず、時折控えめな音を立てるだけだった。
その様子を見て、三人は顔を見合わせた。
「本当に全然違うな」
ルシルが言うと、モモは何度も頷いた。
「うん! 同じ貝殻なのに、こんなに違うんだね」
シモンも穏やかに笑った。
「実際に風へ当ててみると、よく分かりますね。作業台の上では気づかなかったこともあります」
リーナは三人の飾りを眺めながら、ゆっくり頷いた。
「そうだね。飾りは作って終わりじゃないんだ。風に揺れて、音が鳴って、それを誰かが聞いてくれるところまでが楽しみなんだよ」
モモはその言葉を聞き、少し考えた。
「だから、村の家にいっぱい吊るしてあるんですね」
「それもあるね。昔からこの村では、海へ出る人が無事に帰ってくるようにって願いを込めて飾る家もあるんだよ」
リーナはそう言って、入り江のほうへ視線を向けた。
遠くでは小さな舟が桟橋の近くをゆっくり動いている。海面は穏やかに見えるが、沖へ出れば天候も波の様子も変わるのだろう。
「もちろん、今ではただ好きだから飾る家もあるし、子どもが作ったものを記念に吊るしている家もある。村じゅう同じ意味で飾っているわけじゃないけれど、昔からの願いが残っている家もあるんだ」
ルシルは静かに頷いた。
昨日、初めて潮凪村の貝殻飾りを見たときは、風に揺れる姿がかわいらしいと思っただけだった。
けれど、そこには海へ出る家族を待つ人々の気持ちが込められていることもある。
それを知ると、軒先で鳴っていた小さな音が、少し違って聞こえる気がした。
「海へ出る人を待つための飾りなんですね」
ルシルが言うと、リーナは微笑んだ。
「そういう家もある、ということだね。今は漁の道具も舟も昔よりよくなっているけれど、海がいつも穏やかとは限らないからね」
モモは自分の飾りを見上げた。
白い貝殻が風に揺れ、隣の貝殻へ触れるたび、小さな音が響いている。
「……なんだか、もっと大切にしたくなりました」
その声は、先ほどまでの弾んだ調子とは少し違っていた。
リーナはモモの横顔を見て、優しく頷いた。
「そう思ってくれるなら嬉しいよ。でも、難しく考えすぎなくていいんだ。きれいだと思ったり、音を聞いて楽しくなったりするのも、十分に大事なことだからね」
モモはゆっくり笑った。
「はい。私、この音が好きです」
リーナも笑みを返した。
中庭には、三人の飾りが風に揺れる音が続いていた。
◇
作業小屋へ戻ると、先ほど紐を通すのに苦戦していた女の子が、完成した飾りを手にしていた。
彼女はモモを見つけると、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん、見て! 全部できたよ!」
モモはしゃがんで目線を合わせ、差し出された飾りを眺めた。
白い貝殻が二枚と、小さな木片が一つ。結び目には少し不揃いなところもあるが、しっかり形になっている。
「すごい! さっきよりずっと上手にできてるね」
「うん。おばあちゃんに教えてもらって、最後まで自分でやったの」
女の子は誇らしそうに笑った。
モモはその表情を見て、自分も嬉しくなった。
「よかったね。どこに飾るの?」
「おうちの窓のところ。お父さんが海から帰ってきたとき、見えるところにしたいんだ」
その言葉に、モモは少しだけ目を見開いた。
先ほどリーナから聞いた話が、目の前の女の子の言葉と重なった。
「そうなんだ。きっと、お父さんも嬉しいと思うよ」
「うん!」
女の子は元気よく頷き、飾りを大切そうに抱えた。
ルシルも近づき、女の子の作品を見せてもらった。
「いい飾りだな。お父さんに見せるの、楽しみだね」
「うん。今日は帰ってくるのが少し遅いんだって。だから、先に飾って待ってるの」
女の子はそう言って、隣にいた兄らしい男の子へ顔を向けた。
「ね、お兄ちゃん。帰ったら一緒に吊るしてね」
「分かってるよ。高いところは僕がやるから、落とさないように持ってて」
二人のやり取りを聞き、モモは柔らかく笑った。
知らない村の、知らない家族。
けれど、その家族が帰ってくる人を待つ気持ちは、どこか温かく、胸の奥へ静かに残った。
ルシルも同じように感じたのか、しばらく二人の姿を見守っていた。
王城では、誰かの帰りを待つことにも役目や決まりが付きまとっていた。けれど、この村では子どもが自分で作った飾りを窓へ吊るし、父親が帰ってくるのを楽しみにしている。
その何気ない光景が、ルシルにはとても大切なものに思えた。
◇
昼が近づく頃、三人は作業小屋を後にすることにした。
リーナは完成した飾りを布で包み、持ち運びやすいようにしてくれた。材料を分けてもらった礼として、シモンが必要な代金を尋ねると、リーナは少し考えてから、材料費として銅貨を受け取った。
「見学だけじゃなく、作るところまで教えてもらってありがとうございました」
ルシルが頭を下げると、リーナは嬉しそうに笑った。
「こちらこそ、楽しんでもらえてよかったよ。旅の途中で壊れたら、無理に直そうとせず、紐を替えるだけでもいいからね」
「はい。大事にします!」
モモが答える。
リーナは三人の顔を順に見て、穏やかに続けた。
「この村を離れても、風が吹けば音が鳴るだろう。そうしたら、たまには潮凪村のことを思い出しておくれ」
その言葉に、ルシルは少しだけ胸が温かくなった。
「もちろんです。今日のこと、忘れません」
三人はもう一度礼を言い、共同家の中庭を離れた。
外へ出ると、昼前の日差しが道を明るく照らしている。朝よりも風は少し強くなっていたが、家々の間を通る道では穏やかに感じられた。
モモは布に包まれた貝殻飾りを大切そうに持ち、何度も嬉しそうに笑っていた。
「自分で作ったものを持って旅するの、なんだかいいね」
「そうだな。買ったものとは、また違う思い出になるな」
ルシルが答えると、シモンも頷いた。
「ええ。作り方を教わったことも含めて、よい記念になりましたね」
モモは少し考えてから、二人へ尋ねた。
「ねえ、これって馬車の中に吊るしても大丈夫かな?」
「吊るすこと自体はできますが、走行中は外したほうがよいでしょうね」
シモンは布包みへ目を向けた。
「車内にはすでに風魚飾りがありますし、揺れ方によっては貝殻が割れてしまうかもしれません。停車中に飾って、移動するときはしまう方法なら安全だと思います」
「そっか。それならそうしようかな」
モモは素直に頷いた。
「夜、馬車で寝るときに吊るしたら、風が吹くと音が聞こえるかもしれないね」
「それも楽しそうだな。ただ、寝るときにずっと鳴ってたら、気になって眠れないかもしれないけど」
ルシルが笑うと、モモも楽しそうに笑った。
「そのときは外せばいいよ」
「そうだな」
三人は笑い合いながら、村の道を歩いていった。
◇
昼食は、入り江から少し離れた小さな食事処で取ることにした。
店先には木製の看板が掛けられていたが、店の名前はまだ確認していない。入口の近くには数人の村人が座っており、昼の仕事を終えたらしい漁師たちが、温かな汁物を食べながら話をしていた。
店内へ入ると、魚と香草の匂いが漂ってきた。
ルシルたちは窓辺の卓へ案内され、今日の料理について説明を受けた。
昼の献立は、焼いた魚をほぐして野菜と合わせた温かな料理と、薄いパン、それに豆の汁物だった。青波の市場で食べたものとは違い、素朴で家庭的な味付けが特徴らしい。
「今日も魚だね!」
モモは嬉しそうに笑った。
「本当に魚が好きだな」
ルシルが言うと、モモは当然だという顔で頷いた。
「だって、海の近くにいるんだよ? せっかくだから、いろんな魚料理を食べたいじゃん」
「それは分かるけどな」
シモンも笑いながら、運ばれてきた料理へ目を向けた。
「同じ魚でも調理方法によって味が変わりますから、食べ比べるのは面白いですね」
三人は食事を始めた。
魚の身は柔らかく、野菜の甘みとよく合っている。豆の汁物も優しい味で、午前中ずっと歩いていた身体へ温かさが広がった。
食事の途中、近くの卓に座っていた年配の男性が、三人の持っている布包みに目を向けた。
「おや、作業小屋へ行ってきたのかい?」
ルシルは顔を上げた。
「はい。貝殻飾りを作らせてもらいました」
「それはよかったな。あそこは村の人間が集まる場所だから、旅人が来ると賑やかになるだろう」
男性は笑いながら頷いた。
「うちの孫も、よくあそこで飾りを作ってるよ。帰ってくると、今度は家のどこへ吊るすかで大騒ぎになるんだ」
モモは楽しそうに笑った。
「今日も子どもたちが作ってました。みんな上手でしたよ」
「そうかい。あの子たちは毎年作ってるからな。最初は紐を通すだけでも苦労していたのに、今じゃ大人よりきれいに作る子もいる」
男性は少し誇らしそうに笑った。
ルシルはその表情を見て、村の人々が子どもたちの成長を自然に見守っていることを感じた。
誰か一人の家族だけではなく、村の人々が互いの暮らしを知り、声を掛け合っている。
潮凪村の静かな雰囲気は、単に人が少ないから生まれているのではないのかもしれない。
食事を終えたあと、三人は店の人へ礼を言い、再び外へ出た。
午後の日差しは朝よりも強くなっていたが、海から吹く風のおかげで暑さはそれほど感じなかった。
モモは布包みを抱え直し、入り江のほうへ目を向けた。
「ねえ、午後はどうする?」
ルシルは少し考えた。
「せっかくだし、昨日見た入り江をもう一度歩いてみないか? 今日は時間もあるし、昨日とは違う景色が見られるかもしれない」
「いいね!」
モモは嬉しそうに頷いた。
シモンも穏やかに笑った。
「それなら、海沿いの道をゆっくり歩きましょう。ただし、漁師の方々の作業場には入らないようにしてくださいね」
「分かってるよ、シモン君」
モモは笑って答えた。
三人は入り江へ続く道を歩き始めた。
◇
午後の入り江は、昨日よりも少し賑やかだった。
桟橋の近くでは数人の漁師が網を広げ、岸辺では小さな舟の手入れをしている人々が見える。子どもたちは石壁の内側で遊んでおり、海へ近づきすぎないよう、大人たちが時折声を掛けていた。
ルシルたちは作業の邪魔にならない場所を選び、石壁のそばへ歩いた。
そこからは、入り江の穏やかな水面と、その向こうに広がる外海がよく見える。
昨日は夕方に近い時間だったため、海面には柔らかな光が差し込んでいた。今日は昼過ぎの明るい日差しを受け、水の色が少し緑がかって見える。
「昨日と色が違うね」
モモが言うと、ルシルも頷いた。
「本当だ。昨日はもっと青かった気がする」
「光の当たり方が違うのでしょうね。入り江の底が浅い場所では、海底の色も影響するかもしれません」
シモンはそう説明しながら、石壁の向こうへ目を向けた。
波は穏やかで、舟はゆっくりと揺れている。
その様子を眺めていると、時間が少しだけゆっくり流れているように感じられた。
モモは石壁へ手を置き、遠くの舟を見つめた。
「朝、作業小屋で会った女の子のお父さんも、どこかの舟に乗ってるのかな」
「そうかもしれないな」
ルシルが答える。
「今日は帰りが少し遅いって言ってたよね」
「うん。だから、先に飾りを吊るして待ってるんだって」
モモは静かに頷いた。
その声には、朝の出来事を大切に思っている気持ちが滲んでいた。
ルシルは少し考え、入り江の向こうへ視線を向けた。
海は穏やかに見える。
けれど、海へ出る人々には、その日の風や波を見極めながら働く苦労があるのだろう。
王城にいた頃、ルシルは漁業について書かれた報告書を読んだことがあった。
漁獲量や港の設備、船の数。
そこには必要な情報が並んでいたが、家で帰りを待つ子どもがどんな飾りを作っているかまでは書かれていなかった。
(あの頃の俺は、海のことを知ってるつもりでいたのかもしれないな)
ルシルはそんなことを考えながら、静かに息を吐いた。
知らないことがあるのは、悪いことではない。
今こうして知ることができるなら、それでいいのだと思えた。
隣ではモモが、自分の作った貝殻飾りを包んだ布へそっと手を添えていた。
「私たちの飾りも、旅の無事を願うものにしていいかな」
モモが尋ねると、ルシルは少し驚いて顔を向けた。
「旅の無事?」
「うん。リーナさんは、海へ出る人が無事に帰ってくるようにって願う家もあるって言ってたでしょ。私たちは舟じゃなくて馬車だけど、無事に旅を続けられますようにって願ってもいいのかなって」
ルシルはその言葉を聞き、柔らかく笑った。
「いいんじゃないか。願いを込めるのに、舟じゃなきゃ駄目ってことはないと思うよ」
シモンも頷いた。
「ええ。作った人が大切に思う気持ちを込めるのなら、それで十分でしょう」
モモは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、そうする!」
彼女は布包みを胸元へ抱え直し、入り江の海へ目を向けた。
ルシルも自分の飾りのことを思い出した。
少し不揃いな結び目と、間隔の広い三枚の貝殻。
決して上手な出来ではないが、あの作業小屋で過ごした時間が、そのまま形になっているように感じられる。
旅の無事を願う飾り。
そう考えると、あの小さな貝殻が少し頼もしく思えた。
◇
入り江を眺めたあと、三人は村の道をゆっくり歩き、浜灯りの家へ戻ることにした。
午後の潮凪村では、朝に干していた網を取り込む人や、家の前で魚を下処理する人の姿が見られた。家々の軒先では貝殻飾りが風に揺れ、場所によって異なる小さな音を響かせている。
モモはその音を聞くたび、嬉しそうに顔を上げた。
「朝より、音がよく聞こえる気がする」
「風が少し強くなったからかな」
ルシルが答えると、シモンも頷いた。
「それもあるでしょうし、作り方を知ったことで、音の違いに気づきやすくなったのかもしれませんね」
モモは少し考え、笑った。
「そうかも。昨日は全部同じように聞こえてたけど、今はちょっと違うって分かる気がする」
ルシルも軒先の飾りを見上げた。
白い貝殻が触れ合う軽い音。
厚みのある貝殻がぶつかる、少し低い音。
木片が混じった飾りから聞こえる、乾いた響き。
どれも小さな音だが、耳を澄ませると確かに違いがある。
「面白いな。作る前は、こんなところまで気にしてなかった」
「そうですね。知識が増えると、同じ景色でも見え方が変わるものです」
シモンの言葉に、ルシルは頷いた。
青波の風魚飾りも、潮凪村の貝殻飾りも、初めて見たときはただ珍しく、楽しいものだった。
けれど、その土地の人々と話し、作り方や込められた気持ちを知ることで、少しずつ意味が増えていく。
それは旅を続けなければ、なかなか味わえなかったことだろう。
浜灯りの家へ戻ると、エルサが玄関先で洗った布を取り込んでいた。
「あら、お帰りなさい。今日は楽しめた?」
「はい! 貝殻飾りを作らせてもらいました!」
モモは嬉しそうに布包みを見せた。
エルサは目を細め、三人を見比べた。
「まあ、三人とも作ったのね。リーナさんに教えてもらったの?」
「はい。作り方だけじゃなく、飾りに込められた願いのことも教えてもらいました」
ルシルが答えると、エルサは懐かしそうに笑った。
「そう。あの人は昔から、そういう話を大切にしているのよ。私も子どもの頃、よく教えてもらったわ」
モモは少し驚いた。
「エルサさんも作ったことあるんですか?」
「もちろん。今でも家の裏に吊るしているものがあるわよ。古くなったら紐を替えて、ずっと使っているの」
エルサはそう言って、家の裏手を指した。
「夕食までまだ少し時間があるから、見てみる?」
「見たいです!」
モモが答えると、エルサは笑いながら三人を案内した。
家の裏手には小さな庭があり、風を受けやすい場所に一本の木が植えられている。その枝から、白い貝殻と薄茶色の貝殻を組み合わせた飾りが吊るされていた。
貝殻の表面は長い年月で少し色が変わっているものの、丁寧に手入れされていることが分かる。
「これは、娘が小さい頃に作ったものなの」
エルサは飾りを見上げ、柔らかく笑った。
「最初は窓辺に吊るしていたんだけど、娘が大きくなって別の町へ行ってからも、なんとなく外せなくてね。紐を替えながら、ずっとここにあるのよ」
モモは静かに飾りを見つめた。
朝、食堂で見せてもらった作りかけの貝殻とは違い、こちらは完成してから長い時間を過ごしてきたものだった。
「大切な飾りなんですね」
「ええ。娘が帰ってくると、今でもこれを見て笑うのよ。自分で作ったのに、こんなに長く残ってるなんてって」
エルサは少し照れたように笑った。
「古いものをいつまでも取っておくなんて、変かもしれないけどね」
ルシルは首を横に振った。
「そんなことないと思います。作ったときのことも、娘さんと過ごした時間も、一緒に残っているんですよね」
エルサはルシルへ目を向けた。
少し驚いたような表情を浮かべたあと、ゆっくり微笑んだ。
「……そうね。きっと、そういうことなんでしょうね」
庭には柔らかな風が吹いていた。
貝殻が小さく触れ合い、静かな音を立てる。
モモはその音を聞きながら、自分の作った飾りを大切にしようと改めて思った。
◇
夕食までの時間、三人は浜灯りの家の食堂でゆっくり過ごした。
エルサは厨房で料理の準備をしており、ときどき三人へ声を掛けてくれる。窓の外では夕方の光が少しずつ柔らかくなり、村の道を歩く人々の影が長く伸びていた。
モモは旅帳面を開き、今日の出来事を書き始めた。
貝殻飾りの作り方。
紐を通すのに苦戦していた女の子のこと。
リーナから教えてもらった、海へ出る人の無事を願う気持ち。
そして、自分たちで作った三つの飾り。
書きたいことが多すぎて、モモは何度も筆を止め、思い出したことを付け加えていた。
ルシルはその隣で、紙を一枚借りていた。
昨日、モモに勧められた絵を描いてみようと思ったのである。
最初に描こうとしたのは、自分たちが作った貝殻飾りだった。
けれど、実際に描き始めると、貝殻の形を表現するのは思ったより難しかった。丸みを描こうとするとただの楕円になり、筋を入れると今度は何の絵なのか分からなくなってしまう。
「……難しいな、これ」
ルシルが呟くと、モモが顔を上げた。
「何描いてるの?」
「貝殻飾り。でも、あんまり似てない気がする」
モモは紙を覗き込み、少し考えた。
「うーん。でも、貝殻が三枚あるのは分かるよ」
「そこは分かってもらわないと困るな」
ルシルが笑うと、モモも笑った。
「いいじゃん。私の絵もそんなに上手じゃないし、一緒に練習しようよ」
「そうだな」
ルシルはもう一度紙へ目を向けた。
上手に描くことよりも、今日見たものを自分なりに残すことが大切なのかもしれない。
そう考えると、少し気が楽になった。
シモンは向かいの席で本を読んでいたが、二人の会話を聞いて顔を上げた。
「ルシル様、絵を描かれているのですか?」
シモンは読んでいた本へ栞を挟み、向かいの席からルシルの手元を覗き込んだ。紙の上には三枚の貝殻と、それらをつなぐ紐が描かれていたが、実物よりも少し丸みが強く、貝殻というより小さな木の実を並べたようにも見える。
「そうなんだ。でも、思ったより難しくてさ。貝殻って、見てると簡単そうなのに、描こうとすると形がよく分からなくなるんだよ」
「なるほど。確かに、曲線の多いものは難しいでしょうね。ですが、今日作られた飾りだということは十分に伝わりますよ」
シモンは紙を眺めながら、穏やかに微笑んだ。
「それに、こうして絵を残しておけば、あとで実物を見なくても、どんな飾りを作ったのか思い出せます。旅の記録としては、それだけでも意味があると思います」
「そう言ってもらえると助かるな。シモンなら、もっと上手に描けそうだけど」
ルシルが冗談交じりに言うと、シモンは少し困ったように笑った。
「いえ、私も絵を描くことにはあまり慣れていません。地図へ道や建物の位置を書き込むことはありましたが、見たものをそのまま描くのとは違いますからね」
「じゃあ、シモン君も描いてみようよ!」
モモは待っていましたとばかりに顔を上げ、卓の端に置かれていた紙を一枚差し出した。
「三人で今日の貝殻飾りを描いたら、きっと全部違う絵になるよ。作った飾りだって、それぞれ違ったんだから」
シモンは差し出された紙と、期待に満ちたモモの顔を交互に見た。少し前までの彼なら、自分には向いていないと断っていたかもしれないが、今はその必要もないと思えた。
「そうですね。では、私も一枚描いてみましょうか。ただし、あまり期待しないでくださいね」
「大丈夫! 上手かどうかを競争するわけじゃないもん」
モモが嬉しそうに笑うと、シモンも紙を受け取った。
三人はそれぞれ今日作った貝殻飾りを思い浮かべながら、紙へ線を引き始めた。ルシルは貝殻の形をもう少し実物に近づけようとし、モモは紐の先で揺れる様子まで描こうとしている。一方、シモンは最初に全体の配置を薄く決めてから、一枚ずつ慎重に形を整えていた。
しばらくすると、モモが自分の絵を持ち上げた。
「できた! 見て、風が吹いてるところも描いたの!」
紙には三枚の貝殻が描かれ、その周囲に曲がった線がいくつも添えられていた。貝殻の形は少し不揃いだったが、風に揺れて楽しそうに音を立てている様子が伝わってくる。
「いいな、それ。音まで聞こえてきそうだ」
ルシルが感心すると、モモは嬉しそうに頷いた。
「えへへ。今日、中庭で鳴ったときのことを思い出して描いたんだ」
続いてシモンが紙を見せた。
彼の絵は貝殻の間隔がきれいに揃い、紐の結び目まで丁寧に描かれていた。けれど、実物と同じように整いすぎているせいか、風に揺れているというより、静かに吊るされているように見える。
「シモンの絵、すごく丁寧だな」
「ありがとうございます。ただ、動いている様子を描くのは難しいですね。形を確かめながら描いていたら、すっかり静かな絵になってしまいました」
「でも、シモン君の飾りって、実際にも静かな音だったでしょ? だから、ぴったりだと思う!」
モモの言葉に、シモンは少し驚いたように自分の絵を見下ろした。
「……なるほど。そういう見方もありますね」
ルシルは二人の絵と自分の紙を並べ、思わず笑った。
「本当に全然違うな。同じ場所で同じものを作ったのに、描いた絵までそれぞれらしい」
「だから面白いんだよ!」
モモは三枚の紙を嬉しそうに見比べたあと、旅帳面の空いている頁を開いた。
「ねえ、この絵も一緒に残しておこうよ。あとで読み返したとき、今日のことをもっと思い出せそうだから」
「いいな。俺の絵も入れてくれるなら嬉しいよ」
「もちろん! シモン君のもね!」
シモンは自分の絵へもう一度目を向け、穏やかに頷いた。
「ええ。せっかく三人で描いたものですから、大切に残しておきましょう」
モモは三枚の紙を丁寧に重ね、折れないように旅帳面へ挟んだ。あとで整理できるよう、今日の日付と潮凪村の名前を書き添えると、満足そうに帳面を閉じた。
その様子を見ていたルシルは、少しだけ不思議な気持ちになった。
王城にいた頃、記録とは正確でなければならないものだった。報告書には事実を簡潔に記し、地図には必要な情報を漏れなく書き込むことが求められていた。
けれど、モモの旅帳面には、料理を食べて嬉しかったことや、貝殻飾りを作るのに苦労したことまで残されている。そこに挟まれた不器用な絵も、誰かへ提出するためのものではない。
(こういう記録の残し方もあるんだな。正確さだけじゃなくて、そのとき何を感じたかまで残しておけるのは、なんだかいい)
ルシルは窓の外へ目を向けた。
夕暮れの風に揺れる軒先の貝殻が、かすかな音を響かせている。今日一日で何度も耳にした音だったが、今は作業小屋で過ごした時間や、あの女の子の嬉しそうな顔まで思い出させてくれた。
◇
やがて厨房から夕食の支度が整ったことを知らせる声が掛かり、三人は紙や筆記具を片づけた。
エルサが運んできたのは、魚と根菜をじっくり煮込んだ料理と、香ばしく焼かれたパン、それに薄く切った野菜を香草で和えた小皿だった。朝食や昼食とはまた違う香りが食堂へ広がり、モモは思わず嬉しそうに背筋を伸ばした。
「今日も美味しそう! エルサさん、ありがとうございます!」
「どういたしまして。今日は村をたくさん歩いたでしょうから、しっかり食べてね」
エルサは料理を並べながら、三人の様子を見て微笑んだ。
「それにしても、今日はずいぶん楽しそうだったわね。さっきから笑い声が聞こえていたけれど、何をしていたの?」
「三人で絵を描いていたんです。今日作った貝殻飾りを、思い出に残そうと思って」
ルシルが答えると、エルサは嬉しそうに目を細めた。
「あら、それは素敵ね。自分で作った飾りを絵に残すなんて、きっとあとで見返すのが楽しみになるわ」
「はい! 旅帳面に挟んでおいたので、いつでも見られます!」
モモが答えると、エルサは何度も頷いた。
「いいわねえ。私も若い頃、旅に出たことがあったけれど、そんなふうに記録を残しておけばよかったと思うことがあるのよ」
「エルサさんも旅をしたことがあるんですか?」
モモが興味深そうに尋ねると、エルサは懐かしそうに笑った。
「ええ。といっても、遠い国まで行ったわけじゃないわ。親戚を訪ねて、いくつか町を回ったくらいだけれどね。それでも、初めて見る景色や食べ物がたくさんあって、楽しかったのを覚えているわ」
エルサは空いた椅子の背へ軽く手を添え、窓の外へ視線を向けた。
「不思議なものでね。何を買ったかは忘れてしまっても、道端で食べた温かいパンの匂いや、宿の窓から見えた夕焼けは、今でもふと思い出すことがあるの」
その言葉に、ルシルは静かに頷いた。
「分かる気がします。俺たちも、旅の途中で食べたものや見た景色を、あとになって急に思い出すことがありますから」
「そうでしょう? だから、あなたたちも今の旅をたくさん楽しんでおきなさい。あとで振り返ったとき、きっと大切な思い出になるわ」
エルサはそう言って微笑むと、厨房へ戻っていった。
三人は温かな料理を食べながら、今日の出来事をゆっくり振り返った。
モモは貝殻の紐を通すのに苦戦していた女の子の話をし、ルシルはリーナに結び目を教わったときのことを思い出した。シモンも、自分の飾りが思ったより鳴らなかったことを笑いながら話し、三人の間には穏やかな時間が流れていた。
食事が終わる頃には、窓の外はすっかり夕暮れの色に染まっていた。
村の道を歩く人の姿も少なくなり、入り江のほうから聞こえる声も、昼間よりずっと静かになっている。
「今日もいい一日だったね」
モモは食後の温かな飲み物を両手で包みながら、満足そうに笑った。
「そうだな。昨日は村に着いたばかりだったけど、今日は少しだけ潮凪村の暮らしを知れた気がする」
ルシルが答えると、シモンも頷いた。
「ええ。村の方々と一緒に何かを作るという経験は、普通に通り過ぎるだけでは得られなかったでしょうね」
「それに、三人とも飾りを作れたし!」
モモは嬉しそうに続けた。
「今度、馬車で休むときに飾ってみようよ。青波の風魚飾りと並べたら、きっとかわいいと思うんだ」
「そうだな。ただ、走るときはちゃんとしまっておこう」
「分かってるよ、ルシル君!」
モモが笑って答えると、シモンも穏やかに微笑んだ。
「壊さずに持ち運べるよう、明日のうちに包み方も考えておきましょう。柔らかい布があれば、貝殻同士がぶつかるのを防げるはずです」
「ありがとう、シモン君!」
「いえ。私も自分の飾りを大切に持っていきたいですからね」
シモンの言葉に、ルシルは少し嬉しくなった。
旅を始めたばかりの頃、シモンは必要な道具や食料の管理を何より優先していた。もちろん今でもその姿勢は変わらないが、こうして自分で作った小さな飾りを大切にしたいと言う姿には、以前とは違う柔らかさが感じられる。
(シモンも、本当に旅を楽しめるようになってきたんだな)
ルシルはその変化を嬉しく思いながら、残っていた飲み物をゆっくり口へ運んだ。
◇
夜になり、三人はそれぞれの客室へ戻る前に、浜灯りの家の玄関先へ出てみることにした。
昼間より少し冷たくなった風が村の道を通り抜け、家々の軒先に吊るされた貝殻を揺らしている。空には星が見え始めており、入り江の向こうには暗くなった海が静かに広がっていた。
モモは玄関先の石段に立ち、耳を澄ませた。
「……聞こえるね」
その小さな声に、ルシルも足を止めた。
近くの家から聞こえる貝殻の音に、少し離れた場所から響く別の飾りの音が重なっている。どれも控えめな音だったが、夜の静けさの中では、昼間よりもはっきりと耳に届いた。
「本当だ。村のあちこちで鳴ってるんだな」
「ええ。風の通り道によって、聞こえ方も違うのでしょうね」
シモンはそう言いながら、暗くなった村の道へ目を向けた。
家々の窓には温かな明かりが灯り、その下で貝殻飾りが静かに揺れている。昼間、リーナから聞いた話を思い出すと、その小さな音には、それぞれの家の暮らしが重なっているように感じられた。
モモはしばらく黙って耳を澄ませていたが、やがてルシルへ顔を向けた。
「ねえ、ルシル君。今日会った女の子のお父さん、もう帰ってきたかな」
ルシルは少し考え、入り江のほうへ視線を向けた。
「どうだろうな。帰りが遅くなるって言ってたけど、今頃は家に着いてるかもしれないね」
「そっか。そうだといいな」
モモは柔らかく笑った。
「自分で作った飾りを見てもらえたら、きっと嬉しいよね」
「そうだな。あの子、すごく頑張って作ってたから」
ルシルは昼間の作業小屋を思い出した。
紐が上手く通らずに困っていた女の子が、リーナに教わりながら少しずつ作業を進め、最後には誇らしそうに完成した飾りを見せてくれた。
その飾りが今頃、どこかの家の窓辺で風に揺れているのかもしれない。
もちろん、実際にどうなったのかは分からない。
それでも、そうであってほしいと思えることが、ルシルには嬉しかった。
「俺たちも、明日からまたいろんなものを見られるといいな」
ルシルが言うと、モモは顔を上げた。
「うん! でも、明日もこの村にいるんだよね?」
「そうだな。出発するかどうかは、明日の朝に相談しよう。せっかく来たんだし、もう少しのんびりしてもいいと思う」
シモンも頷いた。
「馬たちの様子や天候も確認してから決めればよいでしょう。急いで次の町へ向かう理由もありませんからね」
「やった!」
モモは嬉しそうに笑ったあと、もう一度村の道へ目を向けた。
貝殻飾りの音は、風が弱まると静かになり、また吹き始めると小さく響いた。
その不規則な音を聞いているうちに、モモは今日作った自分の飾りを思い出した。
白い貝殻を中心に、茶色の筋が入った二枚を並べた小さな飾り。
リーナから教わった作り方も、子どもたちと一緒に笑った時間も、あの音を聞けば思い出せる気がした。
(旅の無事を願う飾りかあ。これから先、どんな道を通ることになっても、三人で楽しく旅を続けられたらいいな)
モモは胸の奥に浮かんだ願いを、そっと大切にした。
その隣ではルシルが夜の海を眺め、シモンは二人が冷えすぎないよう、玄関先に置かれた灯りのそばで静かに待っていた。
やがてエルサが戸口から顔を出し、三人へ声を掛けた。
「夜風が冷たくなってきたでしょう。そろそろ中へ入ったほうがいいわよ」
「はい。ありがとうございます」
ルシルが答えると、モモも名残惜しそうに空を見上げた。
「もう少し聞いていたかったけど、今日はここまでにしようかな」
「明日の朝も聞けるだろうしな」
「そうだね!」
三人はエルサへ礼を言い、温かな宿の中へ戻った。
階段を上がる前、モモは大切に抱えていた旅帳面をもう一度開いた。今日の記録の最後に何を書こうか少し迷い、やがて小さな文字で一行を付け加える。
『潮凪村の貝殻飾りには、大切な人が無事に帰ってきますように、という願いを込める家もある。私たちは、これからも三人で楽しく旅を続けられますように、と願った。』
書き終えたモモは満足そうに頷き、帳面を閉じた。
窓の外では、夜の風が再び吹き始めていた。
貝殻の触れ合う小さな音は、浜灯りの家の二階にもかすかに届いている。
それは海辺の村で暮らす人々にとって、きっと珍しくもない日常の音なのだろう。
けれど、今日初めて自分たちの手で貝殻飾りを作った三人にとっては、忘れたくない旅の思い出になっていた。
潮凪村の夜は、穏やかな波音と、小さな貝殻の音に包まれながら、ゆっくりと更けていった。




