第90話 潮凪村の共同家は、旅人にも居場所をくれました
潮凪村の入口にある広場は、青波の共同馬車場と比べると、ずいぶんこぢんまりとしていた。
石を敷き詰めた道の先に、低い木柵で囲まれた馬車置場があり、その隣には水桶を並べた小さな屋根付きの設備が見える。奥には二台ほどの荷車が停められていたが、いずれも荷を下ろしている最中らしく、村の人々が忙しそうに行き来していた。
ルシルは案内板に従って馬車を広場の奥へ進め、通行の邪魔にならない場所でトルクとベルクを止めた。
「よし、到着。二頭ともお疲れさま」
手綱を緩めて声を掛けると、トルクは鼻先を動かし、すぐ近くの水桶へ目を向けた。ベルクも静かに首を下げ、長い道を歩き終えたことを確かめるように息を吐いている。
「ここが馬車置場で間違いなさそうですね。ただ、利用の手続きが必要かもしれません」
シモンは御者台から降り、木柵の入口に掲げられた小さな札を確認した。
『旅人用馬車置場。利用希望者は潮凪共同家へ申し出ること。馬の水は共同水場を使用可。餌は各自で用意』
「やはり共同家での受付が必要ですね。馬車はひとまずこちらへ寄せ、手続きが済んでから正式に停めましょう」
「了解。モモ、少し待っててくれる?」
「うん。でも、私も共同家に行きたい!」
車内から顔を出したモモは、村のほうへ目を向けながら嬉しそうに答えた。
「もちろん、一緒に行こう。荷物は必要なものだけ持っていけばいいかな」
「そうですね。まずは宿泊できる場所があるか確認しましょう。馬車を預ける条件も聞いておきたいところです」
三人は貴重品と必要な荷物をまとめ、トルクとベルクを落ち着かせてから、広場の脇にある建物へ向かった。
潮凪共同家は、石造りの土台に木の壁を組み合わせた二階建ての建物だった。入口には小さな庇があり、その下に『潮凪共同家』と彫られた木札が掛けられている。
青波の宿のような華やかな飾りはないが、壁には丁寧に補修された跡があり、窓枠もきれいに磨かれていた。人の手が行き届いていることが、建物の外からでも分かる。
「なんか、落ち着く感じの建物だね」
モモが言った。
「うん。村の人が普段から使ってる場所なのかな」
ルシルも頷く。
入口の扉を開けると、中には木の長椅子と大きな卓が置かれていた。壁には漁の予定や共同作業の連絡らしい紙が何枚も貼られ、奥の棚には帳簿や木箱が並んでいる。
その卓の向こうで、一人の女性が書類を整理していた。
年齢は四十代半ばほどだろうか。肩のあたりで切りそろえた濃い茶色の髪を後ろでまとめ、薄い青色の上着を着ている。落ち着いた表情の女性だったが、三人が入ってくるとすぐに顔を上げた。
「こんにちは。旅の方ですか?」
「はい。今日、潮石の休み場から来ました」
ルシルが答える。
「馬車を停めたいのと、今夜泊まれる場所があるか相談したくて」
女性は笑顔で頷いた。
「それなら、こちらで大丈夫ですよ。私は共同家の世話役をしているミレナといいます」
「ルシルです。こちらがモモとシモンです」
三人が挨拶すると、ミレナは順に頷いた。
「ようこそ、潮凪村へ。青波から南へ来られたんですね?」
「はい。昨日は潮石で一泊しました」
「それなら道は問題なかったようですね。今朝は風も穏やかでしたし、よかったです」
ミレナは帳簿を開き、いくつか確認した。
「馬車は二頭立てですか?」
「はい。トルクとベルクという馬です」
「二頭ですね。旅人用の馬車置場は、今なら奥の区画が空いています。馬の水は共同水場を使えますが、餌は持っていますか?」
「十分にあります」
シモンが答える。
「それなら問題ありません。馬車置場の利用料は一晩につき銅貨四枚です。二頭分の水場利用も含まれています」
ルシルは頷いた。
「お願いします」
ミレナは帳簿へ記入し、木札を一枚取り出した。
「こちらを馬車の見えるところへ掛けてください。利用者だと分かるようにしておくためです」
「ありがとうございます」
ルシルは木札を受け取った。
ミレナは続けて、宿泊について説明した。
「今夜の宿泊ですが、村には大きな宿屋がありません。旅人向けに部屋を貸している家が二軒あります。ただ、今日は漁の手伝いに来ている方が何人か泊まっていて、空きが少ないんです」
「そうなんですね」
モモが少し心配そうに言う。
「三人で泊まれるでしょうか?」
ミレナは帳簿を確認した。
「一軒はもう満室ですが、もう一軒なら二部屋空いています。男性二人で一部屋、女性一人で一部屋という形なら泊まれますよ」
ルシルはシモンと顔を見合わせた。
「それなら、いつもどおりだな」
「ええ。問題ありません」
モモも嬉しそうに頷いた。
「よかった!」
ミレナは笑った。
「宿泊先は『浜灯りの家』というところです。共同家から海のほうへ少し歩いた場所にあります。女主人のエルサさんが部屋を貸してくれていますよ」
「ありがとうございます。そこへ行ってみます」
「先にこちらから連絡しておきましょう。部屋を確保しておきますね」
ミレナはそう言って、棚から小さな木札を取り出した。
「こちらが宿泊の紹介札です。エルサさんへ渡してください。料金は宿で直接支払ってもらえれば大丈夫です」
ルシルは札を受け取り、丁寧に頭を下げた。
「助かりました。本当にありがとうございます」
「いえいえ。旅の方が困らないようにするのも、共同家の役目ですから」
ミレナは穏やかに笑った。
「それに、潮凪村は小さな村ですけど、海を見に来る旅人も少しはいるんですよ。青波ほど賑やかではありませんが、ゆっくりしていってくださいね」
モモは嬉しそうに答えた。
「はい! 楽しみにしてます!」
◇
共同家で手続きを終えた三人は、馬車置場へ戻った。
ルシルは受け取った木札を馬車の見える場所へ掛け、指定された区画へゆっくり進ませた。石壁と木柵に囲まれた場所は風を避けやすく、トルクとベルクを休ませるにも悪くなさそうだった。
シモンは馬具を外し、二頭の脚や蹄を改めて確認した。
「今日もよく歩いてくれましたね。二頭とも異常はありません」
「よかった。潮石からここまで、思ったより道が細かったもんな」
「ええ。ですが、ルシル様の操作も安定していました。待避場所でのすれ違いも問題ありませんでしたね」
ルシルは少し照れたように笑った。
「シモンに褒められると、なんか嬉しいな」
「事実を申し上げただけですよ」
「それが嬉しいんだって」
シモンは少しだけ目を細めた。
モモはそのやり取りを聞きながら、トルクの首を撫でていた。
「トルクもベルクも頑張ったね。今日はゆっくり休んでね」
トルクは餌桶へ顔を向け、ベルクは落ち着いた様子で水を飲んでいる。
二頭の世話を終えると、三人は宿へ持っていく荷物をまとめた。
青波で買った本や貝殻は馬車の棚へ残し、必要な衣類と貴重品だけを持っていく。
モモは折り畳み机の近くに吊るされた青い風魚飾りを見上げた。
「この子、ここでも揺れてる」
ルシルも顔を上げる。
馬車の窓から入る風を受けて、青い布の魚が小さく尾を動かしていた。
「青波から一緒に来たんだもんな」
「うん。潮凪村でもよろしくね」
モモはそう言って、風魚飾りへ小さく手を振った。
ルシルは笑いながら荷物を持ち直した。
「じゃあ、宿へ行こうか」
「うん!」
三人は馬車を後にし、村の中へ歩き出した。
◇
潮凪村の道は、青波の中央坂ほど広くなかった。
家々の間を通る道は石と土で固められ、ところどころに小さな排水溝が設けられている。海からの風が直接入り込まないよう、建物は低く造られており、屋根には重しの石が並んでいた。
道端には魚網を干すための木枠があり、家の軒先には貝殻を使った小さな飾りが吊るされている。
モモはその飾りを見つけると、足を止めた。
「見て、ルシル君!」
「ん?」
「あれ、貝殻だよね?」
ルシルも見上げた。
小さな貝殻が何枚も紐でつながれ、風に揺れている。
貝殻同士が触れるたび、かすかな音がした。
「本当だ。青波は魚だったけど、こっちは貝殻なんだな」
「かわいいね」
モモは嬉しそうに笑った。
シモンも飾りを見上げた。
「海辺の村らしいですね。使われている貝殻も、南浜で見たものに似ています」
「同じ種類かな?」
「近い種類かもしれませんが、ここからでは分かりませんね」
モモは頷き、もう一度飾りを見上げた。
青波の風魚飾りは、風を受けて空を泳ぐように揺れていた。
潮凪村の貝殻飾りは、風に揺れるたび小さな音を立てる。
同じ海辺の村でも、飾り方が違う。
ルシルはそのことが面白かった。
「こういうの、村ごとに違うんだな」
「そうですね。暮らしや使える材料によって、飾りも変わるのでしょう」
シモンが答える。
モモは嬉しそうに頷いた。
「旅帳面に書こうっと」
その言葉を聞いて、ルシルは笑った。
モモの旅帳面には、また新しい記録が増えるのだろう。
潮凪村で見つけた貝殻の飾り。
青波とは違う静かな道。
そして、まだ会っていない村の人々。
旅の思い出は、こうして少しずつ増えていく。
◇
浜灯りの家は、村の海側に建つ小さな二階建ての家だった。
白っぽい石壁と濃い茶色の木枠が組み合わされ、入口には小さな灯りの形をした木札が掛けられている。建物の前には低い花壇があり、潮風に強そうな草花が植えられていた。
ルシルが扉を叩くと、中から女性の声がした。
「はい、今開けますよ」
扉を開けたのは、五十代ほどの女性だった。
明るい茶色の髪を後ろでまとめ、淡い色の前掛けを付けている。柔らかな表情の女性で、三人を見るとすぐに笑顔になった。
「あら、旅の方ね。ミレナさんから話は聞いてますよ」
「こんにちは。ルシルです。こちらがモモとシモンです」
「ようこそ、浜灯りの家へ。私はエルサです」
三人が挨拶すると、エルサは嬉しそうに頷いた。
「さあ、どうぞ。荷物を置いて一息ついてくださいな」
中へ入ると、小さな食堂と廊下があり、奥から温かい料理の匂いが漂ってきた。
壁には海辺の風景を描いた絵が飾られ、窓辺には貝殻を入れた小さな器が置かれている。
青波の網灯りの宿とは違うが、こちらも落ち着いた雰囲気だった。
「素敵な家ですね」
モモが言う。
エルサは嬉しそうに笑った。
「ありがとう。古い家だけど、少しずつ手を入れながら使ってるのよ」
ルシルは周囲を見回した。
床板には長年使われてきた跡があるが、きれいに磨かれている。窓からは海の光が差し込み、室内を明るく照らしていた。
「ここ、海が近いんですね」
「ええ。裏の小道を少し歩けば入り江が見えるわ。ただ、漁師たちの作業場もあるから、入っていい場所は確認してね」
「分かりました」
ルシルが答える。
エルサは二階へ案内しながら、宿泊について説明した。
「お部屋は二つ用意してあります。男性二人はこちら、女性の方はこちらね。どちらも小さいけれど、寝具はきれいにしてあるから安心して」
ルシルとシモンの部屋には、寝台が二つと小さな机が置かれていた。
窓からは村の屋根と、その向こうに少しだけ海が見える。
モモの部屋も同じような造りで、窓辺には小さな花瓶が置かれていた。
「かわいい!」
モモは嬉しそうに声を上げた。
エルサは笑った。
「気に入ってもらえてよかったわ」
ルシルは荷物を置き、改めて頭を下げた。
「今夜はお世話になります」
「こちらこそ。夕食は日が暮れる少し前から用意する予定よ。魚料理になるけど、大丈夫かしら?」
モモの表情が一気に明るくなった。
「大好きです!」
エルサは目を丸くし、それから楽しそうに笑った。
「それならよかった。今日は入り江で獲れた魚があるから、楽しみにしていてね」
ルシルも笑った。
「ありがとうございます。楽しみにしてます」
シモンも丁寧に頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
エルサは頷き、階段を下りていった。
◇
部屋へ荷物を置いたあと、三人は一階の食堂で少し休むことにした。
エルサが温かい飲み物を用意してくれたため、窓辺の卓へ座り、潮凪村の景色を眺めながら一息つく。
窓の外では、漁具を運ぶ人々がゆっくり歩いている。
青波の市場のような賑やかさはないが、家々の間には穏やかな生活の音が流れていた。
「なんか、落ち着くね」
モモが言った。
「うん。青波とはまた違うな」
ルシルも頷いた。
「青波は朝から人がいっぱいだったけど、ここは静かだね」
「村の規模が違いますからね。ただ、漁の時間帯によっては、入り江の周辺が賑やかになるかもしれません」
シモンが答える。
モモは窓の外を眺めながら、少し考えた。
「ねえ、夕食まで時間あるよね?」
「あるな」
ルシルが答える。
「ちょっと村を歩いてみたい」
シモンは時計を確認した。
「そうですね。まだ時間はあります。ただし、初めての村ですから、まずはエルサさんに歩いてよい場所を聞いておきましょう」
「うん!」
モモは嬉しそうに頷いた。
ルシルも立ち上がり、食堂の奥へ声を掛けた。
「エルサさん、少し村を歩いてきてもいいですか?」
厨房からエルサが顔を出した。
「もちろんよ。入り江のほうへ行くなら、共同家の前を通って海側の道へ進むといいわ。ただし、桟橋の先は漁師たちの仕事場だから、勝手に入らないようにね」
「分かりました」
「あと、海辺の石は濡れていると滑りやすいから気をつけて」
「はい!」
モモが元気よく答える。
エルサは笑った。
「夕食までには戻ってきてね」
「もちろんです」
三人は宿を出た。
◇
潮凪村の午後は、穏やかな潮風に包まれていた。
家々の間を歩くと、あちこちから魚を干す匂いや、木を削る音が聞こえてくる。軒先には網や籠が掛けられ、庭先では小さな魚を干している家もあった。
モモは興味深そうに周囲を見回していた。
「青波では市場に魚がいっぱい並んでたけど、ここは家の前で干してるんだね」
「家ごとに加工しているのかもしれませんね」
シモンが答える。
「青波のような大きな市場へ運ぶものもあるでしょうし、自分たちで食べるために保存しているものもあるのでしょう」
ルシルは頷いた。
青波では、魚は店先に並ぶ商品として見ていた。
けれどここでは、漁師たちの家の前で魚が干され、網が直され、籠が積まれている。
魚が食卓へ届くまでの暮らしが、より近くに見える気がした。
やがて三人は、入り江を見渡せる小さな広場へ出た。
そこには低い石壁があり、その向こうに静かな海が広がっている。
青波の港とは違い、大きな船はない。
小さな舟が何艘も浮かび、岸辺では漁師たちが網を広げていた。
「わあ……」
モモが小さく声を漏らした。
ルシルも石壁の近くへ歩いた。
「ここ、いいな」
入り江の海面は、外の海よりも穏やかだった。
波が岸へ寄せる音も小さく、舟がゆっくり揺れている。
遠くの海には白い波が見えるが、入り江の内側は静かだ。
「潮凪って名前、こういうところから来たのかな」
モモが言った。
シモンは少し考えた。
「そうかもしれません。ただ、由来は村の方に聞いてみないと分かりませんね」
「今度聞いてみよう」
モモは頷いた。
ルシルは入り江を眺めながら、青波の港を思い出した。
青波には大きな市場があり、多くの荷車や人々が行き交っていた。
ここには小さな舟と、静かな暮らしがある。
どちらも海辺の集落だ。
けれど、その表情はまったく違う。
(海の近くにも、いろんな暮らしがあるんだな)
ルシルはそんなことを考えた。
そのとき、近くで網を直していた老人が三人へ声を掛けてきた。
「旅の方かい?」
ルシルは振り返った。
「はい。今日、潮石のほうから来ました」
「そうか。青波から南へ来たんだな」
老人は笑った。
「潮凪は静かな村だろう?」
「はい。でも、すごくいいところですね」
ルシルが答えると、老人は嬉しそうに頷いた。
「そう言ってもらえるとありがたいね。大きな港はないが、ここにはここなりの暮らしがあるからな」
モモが興味深そうに尋ねた。
「この村の名前って、入り江が静かだから潮凪なんですか?」
老人は少し考えた。
「そう言われてるな。昔からこの入り江は、外の海が荒れても比較的波が穏やかだったらしい。ただ、俺が生まれる前から潮凪って呼ばれてたから、本当の由来までは知らんよ」
「そうなんですね」
モモは頷いた。
「教えてくれてありがとうございます!」
「いやいや。旅を楽しんでいきな」
老人は笑い、再び網を直し始めた。
三人は礼を言い、石壁のそばへ戻った。
入り江には、午後の光が静かに差し込んでいる。
舟がゆっくり揺れ、漁師たちの声が遠くから聞こえてきた。
ルシルはその景色を眺めながら、穏やかな気持ちになっていた。
◇
夕方が近づくと、三人は浜灯りの家へ戻った。
食堂にはすでに温かな料理の匂いが漂っており、エルサが厨房で忙しそうに動いていた。
「お帰りなさい。村はどうだった?」
「すごくよかったです!」
モモが答える。
「入り江が静かで、舟がいっぱいあって、貝殻の飾りもかわいかったです」
エルサは嬉しそうに笑った。
「そう。気に入ってもらえてよかったわ」
ルシルも頷いた。
「青波とは全然違う雰囲気ですね」
「そうでしょうね。青波は大きな港だから、人も物もたくさん集まるもの。ここは小さな村だけど、そのぶん顔を知っている人ばかりよ」
エルサは料理の準備をしながら続けた。
「旅の方が来ると、村の人たちも少し嬉しいの。外の話を聞けるからね」
ルシルはその言葉に頷いた。
旅人が村の話を聞くだけではない。
村の人々も、旅人から別の土地の話を聞く。
それもまた、旅の中で生まれる交流なのだろう。
やがて夕食が運ばれてきた。
焼いた魚に香草を添えた料理。
根菜と豆の温かい煮込み。
そして、小さな貝を使った塩味の汁物。
モモの目が輝いた。
「わあ……!」
エルサは笑った。
「今日は入り江で獲れた魚を使ったのよ。青波の料理とは少し違うと思うけど、口に合うといいわ」
「絶対美味しいです!」
モモが元気よく答える。
ルシルは笑いながら席へ着いた。
シモンも料理を見て、穏やかに頷いた。
「とても美味しそうですね。ありがとうございます」
「どういたしまして。ゆっくり食べてね」
エルサはそう言って厨房へ戻った。
三人は食事を始めた。
魚は表面が香ばしく焼かれ、身は柔らかかった。
香草の風味が強すぎず、魚そのものの味がよく分かる。
「……美味しい」
ルシルが呟く。
モモも嬉しそうに頷いた。
「青波の魚と違うね!」
「そうだな。こっちは少しあっさりしてる気がする」
シモンも一口食べ、頷いた。
「調理法の違いもあるでしょうね。海辺の村ごとに、料理の特色があるのかもしれません」
モモは目を輝かせた。
「じゃあ、これからもいろんな村で魚料理を食べられるね!」
ルシルは笑った。
「モモの楽しみが増えたな」
「ルシル君も楽しみでしょ?」
「もちろん」
シモンも穏やかに笑った。
「私も楽しみですよ」
三人は顔を見合わせ、笑った。
潮凪村での最初の夕食は、穏やかで温かな時間になった。
◇
食事を終えたあと、ルシルは二階の部屋へ戻り、窓を開けた。
夕方の海が、家々の向こうに少しだけ見えている。
青波の宿から見た海とは違う。
潮石の休み場で見た海とも違う。
けれど、どこも同じ海につながっている。
ルシルは窓辺へ肘を置き、しばらく景色を眺めた。
王城を離れたとき、自分がこんなふうに旅をすることになるとは思っていなかった。
行きたい場所へ行き、知らない人と出会い、初めての料理を食べる。
そして、疲れたら休む。
それだけのことが、今は何より楽しい。
(王位なんて、やっぱりいらないな)
ルシルは小さく笑った。
王城で過ごしていた頃には、自由な時間がこれほど大切なものだとは思わなかった。
今は違う。
自分の意思で道を選び、旅を続けられる。
そのことが、何より嬉しかった。
背後で扉が軽く叩かれた。
「ルシル様、少しよろしいですか?」
シモンの声だった。
「どうぞ」
扉が開き、シモンが入ってくる。
「明日の予定についてですが、今日は無理に決めず、朝の天候を見てから考えませんか?」
ルシルは頷いた。
「いいと思う。潮凪村、もう少し見て回りたいし」
「私もそう考えていました。小さな村ですが、まだ見ていない場所もありますからね」
ルシルは少し驚いた。
「シモンも?」
「ええ。せっかく来たのですから、急いで出発する必要はないでしょう」
その言葉に、ルシルは嬉しくなった。
「じゃあ、明日はゆっくりしよう」
「はい」
シモンは穏やかに頷いた。
そのとき、廊下からモモの声がした。
「ルシル君、シモン君!」
二人が振り返ると、モモが扉の前に立っていた。
「明日も潮凪村にいる?」
ルシルは笑った。
「そのつもりだよ」
「やった!」
モモは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、明日は貝殻の飾り、もうちょっと見たい!」
「いいな。俺も見たい」
シモンも頷いた。
「では、明日は村の中をゆっくり歩きましょう」
三人は顔を見合わせ、笑った。
潮凪村での旅は、まだ始まったばかりだった。




