第89話 潮風の道で、旅人は道を教え合います
潮石の休み場で迎えた朝は、青波の集落で過ごした朝とは少し違っていた。
港から聞こえていた荷車の音も、魚を売る人々の声もない。代わりに馬車の外では草が風に擦れ、石壁の向こうからは、低く穏やかな波音が絶え間なく届いている。時折、近くに停められた別の馬車から馬の鼻息が聞こえるものの、それさえも静かな朝の一部になっていた。
ルシルが目を覚ましたとき、窓の外はすでに明るくなり始めていた。
寝台から身体を起こし、まだ眠気の残る目を擦りながら窓へ近づく。昨夜は暗くてほとんど見えなかった海が、朝の光を受けて青灰色に輝いていた。遠くの水面には薄い霧のようなものが漂っているが、頭上には雲の切れ間から青空が覗いている。
(昨日の夜も、ずっと波が動いていたんだよな)
当たり前のことなのに、改めて考えると不思議だった。
人が眠っている間も、海は止まらない。青波の港でも、南浜でも、この潮石の休み場でも、波は同じように岸へ寄せているのだろう。
ルシルは小さく息を吐き、窓を少し開けた。
冷たい朝の空気が入り込み、潮の匂いが鼻をくすぐる。夜の間に冷えた石壁の匂いまで混じっているようで、青波の宿の窓から感じた朝とはまた違う。
「……気持ちいいな」
思わず呟くと、後ろからシモンの声がした。
「朝の風は穏やかですね。昨夜のうちに少し落ち着いたようです」
振り返ると、シモンはすでに起きており、荷物を整えていた。黒縁眼鏡の位置を直しながら、折り畳み机の上に広げた地図へ目を向けている。
「おはよう、シモン。いつから起きてたんだ?」
「おはようございます、ルシル様。少し前ですよ。馬たちの様子を見てから、今日の道を確認していました」
「二頭は元気?」
「ええ。夜の間も落ち着いていましたし、今朝も特に変わった様子はありません。朝食を済ませたら、改めて脚と蹄を確認しましょう」
ルシルは頷き、窓の外へもう一度目を向けた。
トルクとベルクが元気なら、それだけで一日の始まりが気持ちよくなる。旅を始めた頃は馬車の操作や道の選び方に意識を向けることが多かったが、今では二頭が無理なく歩けることが、何より大切だと自然に考えるようになっていた。
「今日は南へ進むんだよな」
「その予定です。ただし、目的地はまだ確定していません。昨日の地図では小さな集落がいくつか確認できましたが、宿泊できる場所や馬車の通行状況までは分かりませんでしたから」
「じゃあ、休み場の人に聞いてみよう」
「ええ。昨日、青波から来たと話していた商人の方がいましたね。あの方なら、この先の道をご存じかもしれません」
ルシルは身支度を始めながら笑った。
「旅をしてると、地図だけじゃ分からないことがいっぱいあるな」
「そうですね。地図は大切ですが、道の状態や最近の天候まで教えてくれるわけではありません。現地の方々から話を聞けるのはありがたいことです」
「昨日は俺たちも青波の話をしたしな」
シモンは小さく頷いた。
「ええ。あのご夫婦も、無事に青波へ着けるとよいですね」
ルシルは窓から見える海へ視線を向けた。
昨日まで自分たちがいた場所へ、今日は別の旅人が向かっていく。
そして自分たちは、まだ知らない南の道を進む。
(旅人って、そうやって行き違うんだな)
少し面白くなって、ルシルは笑った。
◇
馬車の外へ出ると、休み場にはすでに朝の動きが始まっていた。
石壁の内側では、昨夜一緒に夕食を取った若い夫婦が幌馬車の荷物を整えている。少し離れた場所では商人の男性が馬へ水を与えており、屋根付きの休憩所からは湯を沸かす音が聞こえてきた。
ルシルはまずトルクのところへ向かった。
「おはよう。よく眠れたか?」
栗毛の馬はルシルへ顔を向け、鼻先を近づけてきた。
その動きがあまりにも迷いなく、ルシルは思わず笑ってしまった。
「分かった、分かった。朝ご飯だろ?」
トルクは返事をするように鼻を鳴らした。
隣ではベルクがシモンへ耳を向けている。こちらはトルクほど積極的ではないものの、シモンが近づくと落ち着いた様子で首を下げた。
「ベルクもおはようございます。今日は少し長く歩くかもしれませんから、しっかり食べてくださいね」
シモンが声を掛けると、ベルクはゆっくり鼻先を動かした。
二頭へ朝の餌を与え、水を確認してから、ルシルとシモンは脚や蹄の状態を確かめた。昨日の移動で無理をさせた様子はなく、滑り止めの蹄鉄にも異常は見当たらない。
「よし。今日も大丈夫そうだな」
「ええ。道の状態を見ながら進めば問題ないでしょう」
そのとき、背後から明るい声がした。
「おはよう、ルシル君! シモン君!」
振り返ると、モモが白い外套を羽織って馬車から降りてきたところだった。
桃金色の髪が朝の光を受け、風にふわりと揺れている。少し眠そうに目を細めていたが、海のほうを見た途端、表情がぱっと明るくなった。
「わあ、昨日の夜と全然違うね!」
「おはよう、モモ。よく眠れた?」
「うん! 波の音が聞こえてたけど、気持ちよかったよ」
モモは二頭のところへ近づき、トルクの首を撫でた。
「トルクもベルクもおはよう。今日もよろしくね」
トルクはすでに餌へ夢中だったが、ベルクは一度だけモモへ顔を向けた。
「ベルク、ちゃんと挨拶してくれた」
「そうかもしれませんね」
シモンが微笑む。
そのやり取りを聞いていた商人の男性が、近くから声を掛けてきた。
「元気な馬たちだな。昨日もよく食べていたろう?」
「はい。特にトルクは食べるのが大好きなんです」
ルシルが答えると、男性は声を上げて笑った。
「食欲があるのはいいことだ。長旅の馬は、疲れが溜まると餌の食い方にも出るからな」
男性は自分の馬の水桶を置き、三人へ近づいてきた。
日に焼けた顔には細かな皺があり、手には荷を扱う仕事でできたらしい厚い皮が見える。年齢は四十代ほどだろうか。昨夜は離れた卓で食事をしていたため、詳しく話す機会はなかった。
「今日はどっちへ向かうんだ?」
「南へ行く予定です。ただ、どこまで進むかはまだ決めていなくて」
ルシルが答える。
「この先に小さな漁村があると聞いたんですが、馬車で行けるかどうかも確認したいんです」
「なるほどな。それなら、俺が昨日通ってきた道だ」
男性は頷き、腰の小さな革袋から折り畳んだ紙を取り出した。
「俺は南の集落で荷を降ろして、青波のほうへ戻るところなんだ。道のことなら多少は分かるぞ」
「本当ですか?」
モモが嬉しそうに身を乗り出した。
「助かります!」
男性は笑いながら紙を広げた。
「この休み場から南へ進むと、低い丘を一つ越えた先に分かれ道がある。『浜風の分かれ道』って呼ばれている場所だ」
「浜風の分かれ道……」
モモが繰り返す。
「名前がかわいいね」
「昔からそう呼ばれてるらしいな。俺も由来までは知らんが、石標が立ってるから迷うことはないはずだ」
シモンも地図を取り出し、男性が示した場所を確認した。
「この辺りでしょうか?」
「ああ、そこだ。海沿いの道と、少し内陸へ入る道に分かれている。南の漁村へ行くなら海沿いを進めばいい」
「村の名前を教えていただけますか?」
「『潮凪村』だ。青波ほど大きくはないが、漁をして暮らしている家が多い。入り江があって、小さな舟が何艘も停まってる」
ルシルは地図へ目を向けた。
潮石の休み場から南へ延びる道。その先にある小さな入り江の印が、男性の説明と重なった。
「今日中に着けそうですか?」
「朝のうちに出れば、普通に進んで昼過ぎには着けると思う。ただし、分かれ道から先は少し狭い。荷車とすれ違うときは、広い場所で待つほうがいいぞ」
シモンは頷いた。
「ありがとうございます。村に馬車を停められる場所はありますか?」
「入口の広場の奥に、旅人用の馬車置場がある。大きなものじゃないが、普通の旅馬車なら使えるはずだ」
「宿泊できる場所もあるのでしょうか?」
「村には『潮凪共同家』って建物があってな。旅人の宿泊相談もそこで受けてる。俺は泊まらなかったから空きまでは分からんが、困ったらまずそこへ行けばいい」
ルシルはほっとした。
目的地までの道だけでなく、到着後にどこへ行けばいいのかまで分かった。
「本当にありがとうございます」
「いやいや。旅人同士、道を教え合うのは当たり前だ。俺だって知らない土地じゃ、何度も人に助けられてる」
男性は笑って地図を畳んだ。
「それに、道を聞かれるとつい話したくなるんだよ。普段は荷の値段や数の話ばっかりだからな」
モモが笑った。
「じゃあ、私たちも次に誰かから聞かれたら教えます!」
「それがいい。そうやって旅の話は広がるもんだ」
ルシルはその言葉を聞き、昨日の夕食を思い出した。
青波へ向かう若い夫婦に、風魚飾りや朝市の話をした。
そして今朝は、別の旅人から潮凪村のことを教えてもらっている。
自分たちが知っていることを誰かへ伝え、知らないことは別の誰かから教わる。
(地図には載ってない旅の楽しさだな)
ルシルは改めて男性へ頭を下げた。
「気をつけて行ってください」
「おう。お前たちもな」
男性は片手を上げ、自分の馬車へ戻っていった。
◇
朝食は、昨夜の煮込みを温め直したものとパンだった。
干し海藻と干し魚の風味は一晩経っても残っており、豆にも味がよく染みている。鍋を温めると湯気とともに香りが立ち上り、まだ少し冷たい朝の空気の中で、三人の食欲を誘った。
モモは器を両手で持ちながら、嬉しそうに笑った。
「昨日より美味しいかも」
「味が馴染んだのかもしれませんね」
シモンが答える。
「次に作るときは、少し多めにして翌朝も食べられるようにするのもよさそうです」
「それいい!」
ルシルも頷いた。
「朝から温かいものを食べられるの、助かるしな」
三人は食事を取りながら、今日の道について話し合った。
目的地は潮凪村。
途中にある浜風の分かれ道までは、今の沿岸道を進む。
そこから先は、海沿いの道を選ぶ予定だ。
「村に着いたら、まず馬車置場へ向かいましょう」
シモンが言う。
「青波ほど大きな集落ではないようですから、宿泊できる場所も限られているかもしれません。早めに着いて確認するのがよいでしょう」
「分かった。でも、もし泊まれなかったら?」
ルシルが尋ねる。
「その場合は、村の方へ相談しましょう。馬車で休める場所があるかもしれませんし、必要なら別の方法も考えられます」
「そっか」
モモは頷いた。
「宿でも馬車でも、私は楽しみだよ」
「どちらにもよさがありますからね。ただ、村の決まりがあるなら、それに従いましょう」
シモンは穏やかに答えた。
食事を終えると、三人は片づけを始めた。
食器を洗い、鍋を乾かし、調理道具を収納する。馬車の荷物を固定し、トルクとベルクへ馬具を付ける。
最後にシモンが車輪や車軸を確認し、ルシルは御者台へ上がった。
休み場の石壁の向こうでは、海が朝の光を受けて輝いている。
昨夜は暗くて見えなかった水面が、今は青く広がっていた。
同じ場所でも、時間が変われば景色が変わる。
「またね、潮石」
モモが小さく言った。
ルシルは笑った。
「モモ、最近どこでも挨拶してるな」
「だって、また来るかもしれないでしょ?」
「それもそうだな」
シモンも小さく笑い、御者台へ上がった。
三人は潮石の休み場を出発した。
◇
潮石から南へ続く道は、青波から来た道よりも少し静かだった。
右手には海が広がり、左手には低い丘が続いている。ところどころに石垣があり、草地の向こうには小さな岩場が見えた。人の手が入った畑や家屋は少なく、海沿いの土地が本来持っている広さを感じられる道だった。
風は穏やかで、馬車を大きく揺らすほどではない。
トルクとベルクも落ち着いた足取りで進んでいた。
ルシルは手綱を握りながら、海へ目を向けた。
「昨日も思ったけど、海ってずっと見てられるな」
「景色が単調に見えても、波や光の様子は常に変わりますからね」
シモンが答える。
「青波の近くとは、少し色も違う気がする」
「海底の深さや地形、光の当たり方によって見え方は変わるでしょう。ここは岩場が多いようですから、白砂浜とは違って見えるのかもしれません」
ルシルは頷いた。
白砂浜で見た海は、明るく透き通っていた。
南浜では岩と波が作る複雑な景色が印象的だった。
そして今、目の前に広がる海は、少し深い青色をしている。
同じ海なのに、場所によって表情が違う。
「ねえ、あそこ!」
車内からモモの声がした。
指差した先には、海の上を飛ぶ鳥の群れがあった。
灰色の翼を持つ鳥たちが、波の上を低く飛んでいる。何羽かは急に向きを変え、ほかの鳥は少し高いところから円を描くように飛んでいた。
「シオハネかな?」
ルシルが尋ねる。
「たぶん!」
モモは嬉しそうに答えた。
「でも、あんなにたくさんいるの初めて見た」
シモンも鳥の群れへ視線を向けた。
「餌を探しているのかもしれませんね」
「魚?」
「可能性はあります。ただ、遠くからでは何をしているかまでは分かりません」
モモは窓からしばらく鳥たちを眺めていた。
やがて群れは海の向こうへ移動し、少しずつ小さくなっていく。
「行っちゃった」
「また見られるよ」
ルシルが言うと、モモは頷いた。
「うん。次はもっと近くで見たいな」
それからモモは、棚に置いていた『青波沿岸の鳥と浜辺の生き物』を取り出した。
頁をめくり、鳥の絵が描かれたところで手を止める。
「ねえ、シモン君。シオハネって、青波以外にもいるんだよね?」
「ええ。名前に青波と付いているわけではありませんし、沿岸の広い範囲で見られる鳥なのでしょう。ただ、詳しい生息域は本を確認したほうが確かですね」
「そっか。じゃあ、また会えるかも」
モモは嬉しそうに笑い、本を膝へ置いた。
ルシルはその様子を横目で見ながら、旅の中で少しずつ増えていく知識を思った。
最初は名前も知らなかった鳥が、今では見かけるたびに気になる存在になっている。
小さな蟹も、浜辺の貝殻も、草地に咲く花も同じだ。
知らなかったものが、少しずつ身近になっていく。
その積み重ねが、旅をもっと楽しくしているのかもしれなかった。
◇
しばらく進むと、道は緩やかな上り坂へ変わった。
左手の丘が少し高くなり、右手の海は石垣の向こうへ広がっている。道幅は十分にあるものの、坂の途中には細かな石が混じっており、ルシルはトルクとベルクの歩調を落とした。
「少しゆっくり行こう」
「ええ。急ぐ必要はありません」
シモンが答える。
モモは車内の窓から外を眺めながら、丘の斜面に咲く花を見つけた。
「あ、昨日の水場にあったのと似てる」
「どれ?」
ルシルが尋ねる。
「ほら、白い小さな花。葉っぱが細くて、地面に広がってるやつ」
ルシルは道の安全を確かめながら、左手へ少しだけ目を向けた。
確かに、昨日の潮草の水場で見たものに似た草が生えている。
「本当だ。海沿いに多いのかな」
「そうかもしれませんね」
シモンが答える。
「ただ、似た植物もありますから、同じ種類とは限りません」
「うん。あとで本を見てみる」
モモは頷き、花の形を覚えようとしばらく眺めていた。
丘の上へ出ると、視界が一気に開けた。
右手には広い海があり、遠くの海岸線が緩やかに曲がっている。少し先には小さな入り江が見え、その奥に白い波が弧を描くように寄せていた。
「……きれいだな」
ルシルが呟く。
モモも窓から顔を出し、目を輝かせた。
「本当だね。あそこ、浜になってるのかな?」
「そう見えるな」
シモンは道の先を確認しながら、少しだけ笑った。
「この辺りは見晴らしがよいですね。ただし、この先は下り坂です。景色を見るのは構いませんが、馬車の操作を優先してください」
「分かってるよ」
ルシルは笑い、手綱を整えた。
トルクとベルクへ声を掛け、馬車をゆっくり坂へ進ませる。
車輪が小さな石を踏むたび、車体がわずかに揺れた。
けれど二頭は落ち着いており、無理なく坂を下っていく。
ルシルはその歩調に合わせ、急がず進んだ。
海の景色は美しい。
けれど、その景色を楽しむためにも、安全に旅を続けることが大切だ。
そんな当たり前のことを、ルシルは以前より自然に考えられるようになっていた。
◇
丘を下りた先で、道は二つに分かれていた。
中央には石標が立っており、片方は海沿いへ、もう片方は内陸の丘へ向かっている。
『浜風の分かれ道』
石標にはそう刻まれていた。
「ここだな」
ルシルは馬車を道の脇へ寄せ、ほかの通行を妨げない場所で停めた。
シモンは地図を広げ、道の向きを確認する。
「海沿いの道が潮凪村へ続いているようですね。内陸側は丘を越えて別の街道へ合流する道でしょう」
モモは馬車から降り、石標を見上げた。
「浜風の分かれ道……名前がかわいいね」
「そうだな」
ルシルも石標へ目を向けた。
長い年月を経たらしく、文字の一部は少し擦れている。それでも道の向きを示す印ははっきり残っており、旅人が迷わないように作られていることが分かった。
モモは海沿いの道へ視線を向けた。
「こっちに行けば潮凪村なんだよね?」
「ええ。商人の方が教えてくださった道です」
シモンが答える。
「ただし、ここから先は道幅が少し狭くなります。荷車とすれ違う際には注意しましょう」
「了解」
ルシルは頷いた。
海沿いの道は、今までの街道より少し細い。
石垣が続き、ところどころに待避できそうな広い場所も見える。道の状態は悪くないが、大きな馬車同士がすれ違うには場所を選ぶ必要がありそうだった。
ルシルは少し考え、モモへ声を掛けた。
「モモ、ここからはしばらく車内で座っててくれる?」
「うん。道が狭いんだよね」
「そう。揺れるかもしれないから」
「分かった!」
モモは素直に頷き、車内へ戻った。
ルシルも御者台へ上がり、シモンと一緒に道の先を確認する。
「では、行きましょう」
「うん」
トルクとベルクへ声を掛けると、馬車は海沿いの道へ進み始めた。
◇
分かれ道を過ぎると、周囲の景色は少しずつ変わっていった。
左手の丘が道へ近づき、右手には低い石垣が続く。海は変わらず見えているものの、岸辺には岩場が増え、白い波が複雑な形で砕けていた。
道の脇には、時折小さな木札が立っている。
潮凪村までの方向を示すものもあれば、海側の石垣へ近づきすぎないよう注意を促すものもあった。
ルシルはその一つひとつを確認しながら進んだ。
「青波の道より、少し狭いな」
「ええ。ですが、待避場所は適度に設けられているようです」
シモンが答える。
「向こうから荷車が来たら、広い場所で待ちましょう」
「了解」
しばらく進んだところで、前方から小さな荷車が近づいてきた。
荷台には空の籠がいくつも積まれており、御者台には若い男性が座っている。
ルシルは少し手前にあった待避場所へ馬車を寄せ、相手が通れるようにした。
荷車の男性は近づくと、軽く手を上げた。
「助かるよ!」
「いえ。気をつけて!」
ルシルが答える。
荷車はゆっくり通り過ぎた。
すれ違うとき、籠の隙間からわずかに魚の匂いが漂ってきた。
モモが車内から小さく笑った。
「魚の匂いしたね」
「漁村から来た荷車でしょうね」
シモンが答える。
「空の籠を運んでいたようですから、青波のほうへ向かうのかもしれません」
「青波まで行くのかな」
「途中で別の荷を積む可能性もあります。行き先までは分かりませんね」
ルシルは頷いた。
海沿いの小さな村からも、人や物が運ばれていく。
青波の市場に並んでいた魚の中には、こうした村から届いたものもあったのかもしれない。
(港って、海だけじゃなくて道でもつながってるんだな)
ルシルはそんなことを考えながら、再び馬車を進ませた。
◇
昼が近づく頃、道の左側に小さな草地が見えてきた。
石垣が少し途切れ、馬車を停められる程度の平らな場所がある。木製の簡単な腰掛けも置かれており、旅人が休憩するための場所らしかった。
ルシルはシモンへ視線を向けた。
「少し休んでいこうか」
「そうですね。村まではもうそれほど遠くないと思いますが、馬たちにも休憩を取らせましょう」
馬車を停め、トルクとベルクの様子を確認する。
二頭とも元気だが、朝から歩き続けているため、少し休ませるにはちょうどよかった。
モモは馬車から降りると、海のほうへ目を向けた。
「ここからも海が見えるね」
「ずっと隣にあるな」
ルシルが答える。
モモは嬉しそうに頷き、草地の端から海を眺めた。
そこから見える岸辺には、小さな岩がいくつも並んでいる。
波が岩の間へ入り込み、白い泡を残して引いていく様子がよく分かった。
「南浜みたいに、あそこにも小さい蟹がいるのかな」
「いるかもしれないな」
ルシルも海を見た。
「でも、ここから下りる道はなさそうだ」
「うん。見るだけにしよう」
モモは素直に頷いた。
シモンは二人の会話を聞きながら、水筒を取り出した。
「昼食は村に着いてからでもよさそうですが、ここで少し水を飲んでおきましょう」
「そうだな」
ルシルは水筒を受け取り、一口飲んだ。
朝から歩いているのは馬たちだが、御者台に座っているだけでも風を受け続けると喉が渇く。
モモも水を飲み、腰掛けへ座った。
「ねえ、ルシル君」
「ん?」
「潮凪村って、どんなところだと思う?」
ルシルは少し考えた。
「青波より小さいって聞いたから、静かな村なのかな」
「魚はいっぱいあるかな」
「漁村だから、あるんじゃない?」
「青波と違う魚もいるかな」
「それは行ってみないと分からないな」
モモは楽しそうに笑った。
「楽しみだね」
「うん」
ルシルも頷いた。
青波を離れるときには少し寂しかった。
けれど、こうして新しい場所が近づいてくると、自然と胸が弾む。
旅を続けるということは、別れと出会いを繰り返すことなのかもしれない。
そのどちらも大切にできたらいい。
ルシルは海を眺めながら、そんなことを考えた。
◇
休憩を終えて再び出発すると、道の先に小さな入り江が見えてきた。
海岸線が緩やかに内側へ曲がり、その奥には数艘の小舟が浮かんでいる。岸辺には低い建物が並び、煙突から細い煙が上がっていた。
「あれかな?」
モモが窓から身を乗り出す。
ルシルは道の先を見た。
「たぶん、潮凪村だ」
シモンも地図を確認した。
「位置は合っていますね。村の入口に案内があるはずです」
馬車が近づくにつれ、建物の様子がはっきりしてきた。
青波のような大きな荷場はない。
港と呼ぶには小さな入り江に、木造の桟橋がいくつか伸びている。岸辺では漁師たちが網を干し、子どもたちが貝殻を拾って遊んでいた。
家々は低い石垣で囲まれ、屋根には海風を避けるための重しが載せられている。
道の脇には小さな畑もあり、背の低い野菜が風に揺れていた。
「青波と全然違うね」
モモが呟く。
「うん。でも、こっちもいいな」
ルシルは笑った。
青波には市場があり、港には多くの人が集まっていた。
それに比べると、潮凪村はずっと静かだ。
けれど、家々の間から聞こえる人の声や、岸辺で働く漁師たちの姿には、ここで暮らす人々の日常があった。
村の入口には小さな石標が立っていた。
『潮凪村』
その文字を見て、ルシルは頷いた。
「到着だな」
シモンは周囲を確認した。
「まずは馬車を停められる場所を探しましょう。村の中へ入る前に、案内を確認したほうがよさそうです」
「了解」
ルシルは馬車の速度を落とした。
村の入口近くには、小さな広場があった。
木製の案内板が立ち、旅人向けの情報が書かれている。
『旅人用馬車置場 広場奥』
『宿泊相談 潮凪共同家』
『漁具置場への馬車進入禁止』
ルシルは案内を読み、シモンへ視線を向けた。
「共同家って何だろう?」
「村の集会所のような施設かもしれませんね。宿泊相談も受け付けているようですから、まずはそこへ行きましょう」
モモは嬉しそうに笑った。
「新しい村だね」
「うん」
ルシルも笑った。
青波を離れ、潮石で夜を過ごし、海沿いの道を進んできた。
そして今、また新しい場所へ着いた。
ここにはどんな人がいて、どんな暮らしがあるのだろう。
ルシルは手綱を握り直し、トルクとベルクへ声を掛けた。
「よし。まずは馬車を停めよう」
馬車はゆっくりと広場へ進んだ。
潮凪村での新しい一日が、始まろうとしていた。




