第88話 潮石の休み場では、夕食にも海の風が吹きます
潮石の休み場へ到着した頃には、午後の日差しが少しずつ柔らかくなり始めていた。
海に面した石壁の向こうでは、白い波が岩へ寄せては砕けている。青波の集落で聞いた波音よりも遠く、風に混じって断続的に届くその響きは、静かな街道の休み場に独特の落ち着きを与えていた。
ルシルは馬車の車輪止めを確かめてから、トルクの首を軽く撫でた。
「今日はここまでだな。お疲れさま」
栗毛の馬は、労いの言葉よりも水桶のほうが気になるらしく、鼻先をそちらへ向けている。隣ではシモンがベルクの脚を確認しており、慎重な性格の灰黒色の馬も、慣れた手つきで触れられる間は落ち着いていた。
「二頭とも異常はありません。蹄鉄も問題なさそうですし、今夜はしっかり休ませれば明日も歩けるでしょう」
「よかった。青波からそんなに遠くないと思ってたけど、結構走ったもんな」
「途中で景色を眺める時間も取りましたからね。馬たちにとっては、適度な休憩があった一日だったと思います」
ルシルは頷き、二頭へ水を与えた。
馬車を停めた場所は石壁の内側で、海からの風を直接受けにくくなっている。すぐ近くには共同の水場があり、少し離れたところに屋根付きの休憩所が建っていた。
休み場にいる旅人は、ルシルたちを含めて三組だった。
一台は荷を多く積んだ商人の馬車で、もう一台は幌を張った小さな旅馬車である。どちらもすでに馬を休ませており、休憩所の周辺では夕食の準備を始める姿が見られた。
モモは車内から荷物を運び出しながら、周囲を見回していた。
「ここ、青波の宿とは全然違うね」
「そりゃ宿じゃないからな」
ルシルが笑うと、モモも頷いた。
「うん。でも、こういう場所も好き。馬車で寝るの、久しぶりな気がする」
「青波では二晩とも宿でしたからね」
シモンが答える。
「今日は車内で休むことになります。風は夜に少し落ち着く見込みですが、念のため馬車の向きはこのままにしておきましょう」
モモは海側の石壁を見た。
「波の音、夜も聞こえるかな」
「風向き次第でしょうが、静かになれば聞こえるかもしれませんね」
「楽しみ」
そう言って笑ったモモの髪が、風にふわりと揺れた。
ルシルはその様子を見ながら、少し前まで海そのものを知らなかったことを思い出していた。
青波の高台で初めて見た広い水面。
白砂浜で足へ触れた冷たい波。
南浜で拾った小さな貝殻。
そして今は、海の近くで馬車を停め、夕食の準備をしようとしている。
(旅をしてるんだなあ)
そんな当たり前のことが、妙に嬉しかった。
◇
夕食の準備を始める前に、三人は休み場の設備を一通り確認することにした。
共同の水場には石造りの水槽があり、飲用の水と馬用の水を分けるよう案内が刻まれている。屋根付きの休憩所には長椅子と卓が置かれ、雨や強い風を避けながら食事ができる造りになっていた。
休憩所の柱には、火の扱いについての注意書きも掲げられていた。
火を使う場合は指定された石囲いの中で行うこと。
使用後は完全に消火すること。
海側の草地へ立ち入って火を使わないこと。
シモンは案内を読み終え、ルシルへ向き直った。
「調理場所はあちらですね。風除けもありますし、夕食は問題なく作れそうです」
「今日は何にする?」
ルシルが尋ねると、モモがすぐに手を挙げた。
「青波で買った海藻、使ってみたい!」
「そういえば、まだ使ってなかったな」
「うん。せっかく買ったんだもん」
シモンは少し考え、馬車の食料棚を確認した。
「では、豆と野菜を使った煮込みに少量加えてみましょう。干し海藻は水で戻してから使うと聞いていますし、最初は味を確かめながら調整したほうがよいですね」
「やった!」
モモは嬉しそうに笑った。
「魚も入れたいけど、今日はないよね」
「新鮮な魚はありません。保存用の小さな干し魚なら少し残っていますが」
「それでいい!」
ルシルは思わず笑った。
「モモ、青波を出ても魚から離れないな」
「だって海の近くだよ? 海っぽいご飯にしたいじゃん」
「気持ちは分かるけど」
シモンは二人のやり取りを聞きながら、鍋と調理道具を取り出した。
「では、干し魚も少量使いましょう。ただし、塩気が強くなる可能性がありますから、味付けは最後に調整します」
「了解!」
モモは元気よく返事をした。
夕食の献立が決まると、三人はそれぞれ準備を始めた。
ルシルは水場から調理用の水を運び、モモは豆と野菜を用意する。シモンは火を起こすための道具を整え、風向きを確かめてから指定の石囲いへ向かった。
日が傾くにつれ、休み場には夕食の匂いが漂い始めた。
商人の馬車のそばでは、年配の男性が鍋をかき混ぜている。もう一台の旅馬車では、若い夫婦らしい二人がパンを切り分けながら話していた。
ルシルは水桶を置いたあと、その様子を何となく眺めた。
知らない旅人同士が、同じ休み場で夜を迎えようとしている。
行き先も目的も違うはずなのに、今夜だけは同じ場所で火を使い、食事を取り、馬を休ませる。
それが少し面白かった。
「ルシル君、こっち手伝って!」
モモの声がした。
「今行く!」
ルシルは笑って返事をし、鍋のある場所へ戻った。
◇
干し海藻を水へ浸すと、最初は硬く縮んでいたものが少しずつ柔らかくなっていった。
モモはその変化を興味深そうに眺めている。
「わあ。こんなに広がるんだ」
「思っていたより量がありますね」
シモンも器を覗き込んだ。
「最初に少量だけ使うことにして正解でした」
「全部入れたらどうなるかな」
モモが尋ねる。
「鍋の中が海藻だらけになるでしょうね」
ルシルが答えると、モモは想像したらしく笑い出した。
「それはちょっと困るかも」
「ちょっとなんだ」
「海藻だけでも美味しいかもしれないよ?」
「それはまた今度試そう」
ルシルが言うと、シモンも頷いた。
「まずは今日の料理を成功させましょう」
三人は戻した海藻を食べやすい大きさに切り、豆と野菜を煮込んだ鍋へ加えた。
干し魚も少しだけ入れる。
しばらくすると、湯気とともに独特の香りが立ち上った。
青波の宿で食べた魚料理とは違う。
それでも、どこか海を思い出させる匂いだった。
「……いい匂い」
モモが呟いた。
ルシルも鍋へ顔を近づける。
「本当だ。いつもの豆の煮込みと違うな」
「海藻と干し魚の風味が出ているのでしょう。まだ塩は加えていませんが、少し味を見てみます」
シモンは小皿へ汁を取り、慎重に口へ運んだ。
しばらく考えてから頷く。
「悪くありません。干し魚の塩気があるので、追加の塩は控えめでよさそうです」
「私も味見したい!」
モモが言う。
シモンは小皿へ少量を取り分け、熱さを確かめてから渡した。
モモはふうふうと息を吹きかけ、一口飲んだ。
「……美味しい!」
その声が思ったより大きかったらしく、近くで夕食を作っていた商人の男性が顔を上げた。
「ずいぶん美味そうだな」
ルシルは少し驚いたが、すぐに笑顔で答えた。
「青波で買った干し海藻を使ってみたんです」
「海藻か。なるほどな」
男性は興味深そうに鍋を見た。
「俺も青波から来たところだが、あそこの海藻は煮込みに使うといい味が出るって聞いたことがある」
「そうなんですか?」
モモが尋ねる。
「ああ。ただ、入れすぎるとほかの味が分からなくなるとも聞いたな」
シモンは静かに頷いた。
「少量から試しているところです」
「それがいいだろうな」
男性は笑い、自分の鍋へ戻っていった。
ルシルはモモと顔を見合わせた。
「やっぱり全部入れなくてよかったな」
「うん。でも、次はもうちょっと増やしてもいいかも」
「気に入ったんだな」
「すごく!」
モモは嬉しそうに答えた。
シモンは鍋の火加減を調整しながら、小さく笑っていた。
◇
夕食ができあがる頃には、空の色が橙色から淡い紫へ変わり始めていた。
三人は鍋とパンを休憩所の卓へ運び、風を避けながら食事を取ることにした。
石壁の向こうからは、海の音が聞こえている。
休み場の周囲では、ほかの旅人たちもそれぞれ食事を始めていた。
ルシルは器へ盛られた煮込みを一口食べた。
豆の柔らかな食感に、野菜の甘みが重なる。
そこへ海藻の風味と干し魚の旨味が加わり、いつもの旅の料理とは少し違う味になっていた。
「……これ、いいな」
思わず声が出た。
モモは嬉しそうに身を乗り出した。
「でしょ!」
「うん。青波の味がちょっと入ってる感じがする」
ルシルが言うと、モモは一度だけ目を丸くした。
それから、ゆっくり笑った。
「それ、いいね」
シモンも煮込みを口へ運び、頷いた。
「海藻は保存も利きますし、旅の食材として使いやすそうです。今後も少しずつ試していけますね」
「じゃあ、また買おうよ」
モモが言う。
「次の村でも売ってるかな」
「海沿いなら可能性はあります。ただし、同じ種類とは限りませんから、買うときに使い方を確認しましょう」
「うん!」
ルシルはパンをちぎり、煮込みの汁へ浸した。
青波で食べた料理とは違う。
けれど、青波で買った食材が、今夜の夕食を少し変えている。
旅先で手に入れたものが、次の場所で役立つ。
それもまた、旅の楽しさなのだと思った。
「青波を離れたのに、まだ青波のもの食べてるんだな」
ルシルが言う。
モモは頷いた。
「風魚飾りもあるし、貝殻もあるし、本もあるよ」
「そうだな」
ルシルは笑った。
「結構いろいろ増えたな」
シモンは少しだけ苦笑した。
「荷物の整理は必要ですが、今のところ問題ありません。むしろ、旅の記録として残せるものが増えるのは悪いことではないでしょう」
「シモンがそう言うなら安心だ」
「ただし、無制限に増やしてよいという意味ではありませんよ」
「分かってるって」
モモが笑い、ルシルもつられて笑った。
食事の途中、隣の卓に座っていた若い夫婦が声を掛けてきた。
「その煮込み、いい香りですね」
女性のほうだった。
ルシルは顔を上げた。
「ありがとうございます。青波で買った海藻を入れたんです」
「海藻ですか。私たちも明日、青波へ向かう予定なんです」
「そうなんですね!」
モモが嬉しそうに反応した。
「青波、すごくいいところですよ!」
女性は笑った。
「そう聞くと楽しみになりますね。私たちは内陸から来たので、海辺の集落はあまり詳しくないんです」
「じゃあ、朝市は絶対見たほうがいいです!」
モモは勢いよく言った。
「魚がいっぱいあるし、通りの上に魚の形の飾りが吊ってあるんです。風が吹くと空を泳いでるみたいで、すごくかわいいんですよ」
隣にいた男性も興味深そうに顔を上げた。
「空を泳ぐ魚?」
「風魚飾りっていうんです」
ルシルが説明する。
「青波の通りにたくさんあって、風が吹くと一斉に揺れるんですよ。俺たちも初めて見たとき驚きました」
「それは面白そうだな」
男性は笑った。
「明日、着いたら探してみます」
シモンも会話へ加わった。
「宿を探されるなら、中央坂にいくつかあります。私たちは網灯りの宿へ泊まりましたが、食事も美味しく、馬車場からも近かったですよ」
「ありがとうございます。参考にします」
女性が礼を言う。
モモはさらに話したそうだったが、ルシルは笑いながら器を指した。
「モモ、煮込み冷めるぞ」
「あ、そうだった」
モモは少し照れたように笑い、食事へ戻った。
若い夫婦も笑いながら、自分たちの卓へ向き直った。
ルシルはその様子を見て、何となく嬉しくなった。
青波を離れたばかりなのに、今度は自分たちが青波の話をしている。
初めて海を見た旅人だったはずが、ほんの少しだけ、誰かへ海辺の集落を紹介できるようになっていた。
(こうやって、旅の話って広がっていくのかな)
ルシルは温かい煮込みを口へ運びながら、そんなことを考えた。
◇
夕食を終える頃には、休み場の空がすっかり暗くなり始めていた。
海の向こうにはまだ薄い明るさが残っているが、草地の色は深くなり、石壁の影も長く伸びている。
三人は食器を片づけ、調理場所の火を完全に消した。
シモンが最後に灰の状態を確認し、周囲へ燃え残りがないことを確かめる。
ルシルは水場で器を洗い、モモは乾いた布で拭いていった。
「今日のご飯、成功だったね」
モモが言う。
「うん。海藻、買ってよかったな」
ルシルが答える。
「次は魚があるときに作ってみたい」
「そうですね。ただ、今日のように干し魚を使う方法も悪くありません。保存食だけでも味に変化を付けられるのは便利です」
シモンは鍋を片づけながら頷いた。
食器をすべて収納すると、三人は馬車のそばへ戻った。
トルクとベルクは風除けの内側で落ち着いている。
ルシルが近づくと、トルクはゆっくり顔を上げた。
「お疲れさま。今日はもう休んでいいぞ」
ルシルは首を撫で、水と餌の残りを確認した。
ベルクもシモンの声に反応し、耳を動かしている。
二頭の様子に問題がないことを確かめてから、三人は馬車の中へ入った。
車内は外よりも風が弱く、落ち着いた空気に包まれていた。
棚には旅で集めた本が並び、折り畳み机の近くには青い風魚飾りが吊るされている。
走行中とは違い、今はほとんど揺れていない。
モモはその魚を見上げ、少し笑った。
「今日は静かだね」
「風が入らないからな」
ルシルが答える。
「でも、昼間は揺れてたよ」
「そうなのか?」
「うん。道が少しでこぼこしてたとき、尻尾が動いてた」
ルシルは笑った。
「じゃあ、ちゃんと旅してるんだな」
「そうだね」
モモは嬉しそうに頷いた。
シモンは机の上へ地図を広げた。
「明日の道も、少し確認しておきましょう」
「次はどこ?」
ルシルが尋ねる。
「潮石の休み場から南へ進むと、沿岸道はしばらく海沿いを通ります。その先に小さな漁村がいくつかあるようですが、地図だけでは宿泊設備までは分かりません」
「じゃあ、明日どこまで行くかはまだ決められない?」
「そうですね。休み場に詳しい方がいれば、明朝尋ねてみましょう。風の状態も確認したいところです」
モモは地図を覗き込んだ。
「この辺り、青波より小さい村が多いんだね」
「ええ。港の規模も違うでしょうし、生活の様子も変わるかもしれません」
「楽しみ」
モモは素直に言った。
ルシルも頷いた。
「青波みたいに大きな市場はなくても、違うものが見られそうだな」
「その可能性は高いですね」
シモンは地図を畳んだ。
「ただし、明日は無理に距離を伸ばす必要はありません。今日のように、道の状態を見ながら進みましょう」
「了解」
ルシルは笑った。
明日の目的地は、まだ決まっていない。
けれど、それで困ることはなかった。
旅の途中には休み場があり、道を尋ねられる人もいる。
必要なことを確かめながら進めばいい。
王城にいた頃のように、何日も先まで細かく予定を決める必要はないのだ。
◇
夜が深まる前、モモは旅帳面を取り出した。
今日の出来事を書くためである。
青波を出発したこと。
中央坂の風魚飾りへ別れを告げたこと。
潮草の水場で馬を休ませたこと。
海沿いの高い道から見た景色。
そして、潮石の休み場で初めて干し海藻を使った料理を作ったこと。
モモは筆を動かしながら、ときどきルシルやシモンへ質問した。
「ねえ、あの水場の名前、潮草で合ってたよね?」
「うん。潮草の水場」
ルシルが答える。
「見晴らし場は名前あった?」
「案内板には特に書かれていませんでしたね」
シモンが答える。
「じゃあ、海がよく見える場所って書こう」
モモは頷き、再び筆を動かした。
しばらくして、帳面へ次のように記した。
『青波を出発した。風魚飾りが見えなくなるまで見送った。南へ進んでも海はずっと隣にあった。潮草の水場で休んで、海がよく見える場所にも寄った。夕方、潮石の休み場へ着いた。』
そこまで書いてから、モモは少し考えた。
そして、もう一行を加えた。
『青波で買った海藻を入れた煮込みが美味しかった。青波を離れても、青波の味がした。』
書き終えると、モモは満足そうに笑った。
「できた」
ルシルが隣から覗き込む。
「今日もいっぱい書いたな」
「うん。忘れたくないことがいっぱいあるから」
モモは帳面を閉じた。
ルシルはその言葉を聞き、少しだけ考えた。
旅をしていると、毎日のように新しい景色を見る。
新しい町へ行き、新しい人と出会い、知らなかったものを食べる。
それは楽しい。
けれど、時間が経てば細かなことは忘れてしまうかもしれない。
青波の宿の主人がどんな顔で笑っていたか。
南浜の石が波に転がされる音。
風魚飾りが一斉に揺れたときの空の色。
そういうものは、地図にも残らない。
「モモの帳面、いいな」
ルシルが言う。
モモは顔を上げた。
「ルシル君も書く?」
「うーん。俺は文章を書くの、あんまり得意じゃないからな」
「じゃあ、絵でもいいんじゃない?」
「絵?」
「うん。見たものを描くの」
ルシルは少し考えた。
絵を描くのは嫌いではない。
ただ、上手に描けるかどうかは別の話だ。
「……シオハネとか?」
「いいじゃん!」
モモが笑った。
「あと、風魚飾りとか、トルクとベルクとか」
「馬は難しそうだな」
ルシルが言うと、シモンが静かに口を開いた。
「上手に描く必要はないのではありませんか。あとから見て、何を描いたか分かれば十分でしょう」
ルシルは少し驚いた。
「シモンがそう言うの、珍しいな」
「そうですか?」
「もっと、ちゃんと描いたほうがいいって言うかと思った」
シモンは小さく笑った。
「旅の記録ですからね。正確さが必要な場面もありますが、楽しむための絵なら自由でよいと思います」
ルシルはその言葉を聞き、頷いた。
「じゃあ、今度描いてみようかな」
「見せてね!」
モモが嬉しそうに言う。
「上手く描けたらな」
「下手でも見たい」
「それはちょっと嫌だな」
三人は笑った。
馬車の中には、穏やかな空気が流れていた。
◇
寝る準備を整える前に、ルシルはもう一度外へ出た。
休み場はすっかり夜の色に包まれている。
石壁の内側には小さな灯りがいくつかあり、ほかの旅人たちもそれぞれ馬車へ戻り始めていた。
空には星が見える。
海の上には建物の灯りがほとんどなく、遠くの水平線は暗闇へ溶け込んでいた。
ルシルは石壁の近くへ歩き、しばらく耳を澄ませた。
風の音。
草が揺れる音。
そして、その向こうから聞こえる波の音。
「……聞こえるな」
思わず呟く。
青波の宿では、窓の向こうから波の音が聞こえていた。
今は建物も港もない。
それでも、海は変わらずそこにある。
ルシルは少し笑った。
(本当に、海って大きいんだな)
背後から足音がした。
振り返ると、モモが外套を羽織って歩いてきた。
「ルシル君、何してるの?」
「波の音、聞いてた」
「聞こえる?」
「うん。ちょっと遠いけど」
モモは隣へ立ち、耳を澄ませた。
しばらく何も言わずにいたが、やがて小さく頷いた。
「……本当だ」
二人は並んで海のほうを見た。
暗くて水面はほとんど見えない。
けれど、波の音がそこに海があることを教えてくれる。
「青波の夜と違うね」
モモが言う。
「うん。あっちは港の音もしてた」
「ここは波と風だけ」
「そうだな」
ルシルは頷いた。
モモは少し考えてから、柔らかい声で続けた。
「私、海ってもっと遠いものだと思ってた」
「遠いもの?」
「うん。ずっと見たことなかったし、行くのも大変そうだったから。でも、今はこうして海の近くで寝るんだよね」
ルシルはモモの横顔を見た。
彼女は暗い海のほうを眺めている。
その表情は穏やかで、少しだけ不思議そうだった。
「俺も同じだよ」
ルシルは答えた。
「王城にいた頃は、海って地図の端にあるものみたいな感じだった。でも実際に来てみたら、ちゃんと人が暮らしてて、魚がいて、波があって……」
言葉を探しながら、少し笑った。
「思ってたより、ずっと近くなった」
モモも笑った。
「うん」
そのとき、馬車のほうからシモンの声がした。
「お二人とも、そろそろ戻りませんか。夜風が冷えてきましたよ」
ルシルとモモは振り返った。
シモンが馬車の入口に立っている。
片手には小さな灯りを持ち、二人を待っていた。
「今行く!」
ルシルが答える。
モモも頷いた。
「最後にもうちょっとだけ見てもいい?」
シモンは少し考えたあと、穏やかに答えた。
「短い時間なら構いません。ただし、石壁の外へは出ないでくださいね」
「分かってるよ」
モモは笑った。
ルシルも海へ向き直った。
暗い水平線。
星の光。
遠くから届く波の音。
青波を離れても、海はまだ隣にある。
明日になれば、また違う景色が見えるのだろう。
ルシルはそのことを楽しみにしながら、静かな夜の海を眺めていた。
やがて二人は馬車へ戻り、シモンと一緒に明日の準備を整えた。
潮石の休み場の夜は、穏やかに更けていった。




