第87話 青波を離れても、海は隣にありました
青波の集落で迎える三度目の朝は、最初の朝よりもずっと静かに感じられた。
実際に人の声が少なくなったわけではない。窓の外では漁師たちが早くから働き、港へ向かう荷車の音も聞こえている。それでもルシルは、寝台から身体を起こしたとき、初めて青波の朝市の声を聞いた日のように驚くことはなかった。
開けた窓から潮の匂いが入り、建物の向こうで波が繰り返し岸へ寄せている。ほんの数日前までは、そのどちらも知らなかった。
「……慣れるもんだな」
窓際へ立ったルシルが呟くと、後ろから衣擦れの音がした。
「何にですか?」
シモンが外套を整えながら尋ねる。
「海の音。最初は夜まで聞こえるのが不思議だったけど、今朝は聞こえてても普通に眠れた」
「二晩も過ごせば、多少は慣れるでしょうね。もっとも、風や波の強い日は話が別でしょうが」
「そういう日は宿の人も眠れないのかな」
「慣れている方もいるでしょう。ただ、船を出す方々にとっては、波の音そのものより翌日の海の状態が気になるかもしれません」
ルシルは窓の外へ目を向けた。
港の向こうには、すでに何艘かの舟が浮かんでいる。昨夜のうちに出たものなのか、今朝早く出港したものなのかは分からないが、遠くからでも帆の形が見えた。
(俺たちが寝ている間にも、海で働いている人がいるんだな)
王城にいた頃にも、港の漁業や流通について報告を受ける機会はあった。しかし、そこで聞いた漁獲量や輸送費の数字と、窓の向こうに浮かぶ小さな舟とが結びついたのは、青波へ来てからのことだった。
ルシルはしばらく海を眺め、それから窓を閉めた。
「今日は出発だな」
「ええ。まず朝食を取り、沿岸道の状況を確認します。昨日の案内では南へ進める見込みでしたが、風の情報は更新されているかもしれません」
「問題なかったら、潮石の休み場まで?」
「そこを最初の目標にしましょう。ただし、休憩の取り方によっては手前で止まることも考えます」
ルシルは頷き、旅支度を始めた。
青波で二泊したおかげで、洗って乾かした衣類もすっかり片づいている。貝殻は布に包み、馬車の棚へ置けるようにしてあった。
南浜で見つけた正体不明の物体は、青波水産組合へ届けてある。持ち主が現れるかどうかも、何に使われていたものなのかも、まだ分からない。けれど今は、組合の人々に任せるのが一番よいと三人で納得していた。
支度を終えた頃、扉の向こうから軽い足音が近づいてきた。
「ルシル君、シモン君、起きてる?」
「起きてるよ」
ルシルが扉を開けると、モモが旅の荷物を持って立っていた。
桃金色の長い髪はいつもどおり整えられ、白い外套も腕へ掛けている。もう出発できそうな格好だったが、表情には少し名残惜しそうなものが混じっていた。
「どうした?」
「ううん。青波、楽しかったなって」
モモは廊下の窓から見える海へ視線を向けた。
「朝市も見たし、魚もいっぱい食べたし、南浜にも行ったでしょ? まだ見てないところもあるけど、次の場所も楽しみなんだよね」
「分かる。俺もそんな感じ」
ルシルは笑った。
青波へ来たときには、海の近くへ着いたというだけで胸がいっぱいだった。今はこの集落に親しみを感じている。
けれど同時に、先へ進めばまた違う海が見られるのだろうという期待もあった。
「また来たいね」
「うん。いつか戻ってきてもいいし、今度は別の季節に来ても面白そうだな」
「季節が違えば、魚も変わるかな?」
「そこは魚なんだ」
「だって気になるもん」
モモが笑う。
シモンは二人の会話を聞きながら、部屋の戸締まりを確認した。
「季節によって漁の対象が変わることはありますね。次に来る機会があれば、違う料理も食べられるかもしれません」
「シモン君も食べたい?」
「もちろんです。青波の料理はどれも美味しかったですから」
その返事に、モモは満足そうに頷いた。
三人は荷物を持ち、一階の食堂へ向かった。
◇
網灯りの宿での最後の朝食は、いつもより少しゆっくりと進んだ。
焼いた平たいパンに、白身魚をほぐして香草と和えたもの。温かい豆のスープには小さく切った野菜が入り、窓の外からは港へ向かう荷車の音が聞こえてくる。
特別な献立というわけではない。
それでもルシルは、ここで食べる朝食が今日でひとまず終わりなのだと思うと、パンを口へ運ぶ合間にも何度か食堂を見回してしまった。
厨房の入口に掛けられた網飾り。使い込まれた木の卓。朝の光が差し込む窓辺。魚を焼く香りの向こうから聞こえる、主人と厨房の者たちのやり取り。
青波へ着いたばかりの頃には、どれも見慣れないものだった。
けれど二晩を過ごした今は、この食堂へ入れば温かい食事が出てくることも、主人が客の顔を覚えて気軽に声を掛けてくれることも、当たり前のように感じられる。
(たった二日なのに、不思議だな)
ルシルはパンをちぎりながら、そんなことを考えた。
向かいに座るモモも、今朝はいつもより食堂の中へ視線を向けることが多かった。
「……ねえ、ルシル君」
「ん?」
「ここ、また来たいね」
モモは窓の向こうへ目を向けた。
建物の間からは、港の一部が見えている。青い魚の印を付けた荷箱が運ばれ、その上を灰色の翼を持つ海鳥が横切っていった。
「朝市も、まだ全部見たわけじゃないし。風魚飾りも、夕方になると違う動き方するでしょ? それに、ほかの魚も食べてみたい」
「最後の理由が一番大きそうだな」
ルシルが笑うと、モモも笑った。
「全部同じくらいだよ」
それから彼女は、少しだけ声を落とした。
「でも、次に来たときも、あの魚が空を泳いでたらいいな」
ルシルはすぐには答えなかった。
通りの上へ吊るされた布の魚たちは、青波へ着いた日に初めて見たものだった。海辺の風を知らせるための飾りであり、集落の人々にとっては昔からそこにある、ごく普通の景色でもある。
旅人である自分たちが去ったあとも、魚たちは変わらず風を受けて泳ぐのだろう。
「きっと泳いでるよ」
ルシルはそう答えた。
「次に来たときは、今より上手に見つけられるかもしれないな」
「うん」
モモは嬉しそうに頷いた。
そのやり取りを聞いていたシモンが、静かに口を開いた。
「青波は沿岸道の要所でもあります。今後の旅で再び近くを通ることがあれば、立ち寄る機会もあるでしょう」
「シモンもまた来たい?」
モモが尋ねる。
「ええ。今度は、もう少し時間を取って港を見て回りたいですね」
ルシルは少し意外に思った。
シモンは以前にも港を訪れた経験がある。青波のような集落で、改めて何を見たいのだろう。
その疑問が顔に出ていたらしく、シモンは小さく笑った。
「仕事で港を訪れていた頃は、荷の流れや人員の配置ばかり見ていました。今回は市場の品物や、風魚飾りのようなものにも目を向けられましたから」
シモンは窓の外へ視線を移した。
「同じ場所でも、何をしに来たかで見えるものは変わるのだと思います」
ルシルはその言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなった。
以前のシモンなら、港へ来てもまず仕事のことを考えていただろう。今も道の状態や馬車の管理を気に掛けてくれるが、それだけではなく、次に見たいものを自分の言葉で話している。
その変化が、ルシルには嬉しかった。
「じゃあ、また三人で来よう」
「はい」
「約束だね」
モモが言うと、シモンは穏やかに頷いた。
「ええ。機会があれば、ぜひ」
そこへ宿の主人が、空になった器を下げに来た。
「何だ、もう次に来る話か?」
「はい!」
モモが笑顔で答える。
「また違う魚を食べに来ます」
「そりゃありがたい。次は何を食わせるか考えておかないとな」
主人は笑いながら器を重ねた。
ルシルは改めて頭を下げた。
「二日間、お世話になりました。初めての海の集落だったんですけど、すごく楽しかったです」
「そうか」
主人は少しだけ表情を和らげた。
「旅人が楽しかったって言って出ていくなら、宿をやってる甲斐があるってもんだ」
それから三人を順に見て、続けた。
「海沿いの道は、景色がよくても風や波で様子が変わる。無理せず進めよ。道が悪けりゃ戻ってくりゃいいし、腹が減ったらまた魚を食いに来ればいい」
「はい。ありがとうございます」
ルシルが答えると、主人は満足そうに頷いた。
「じゃあ、気をつけてな」
それは大げさな別れの言葉ではなかった。
けれど、ルシルにはその気軽さが嬉しかった。
ここには、戻ってきてもいいと言ってくれる人がいる。
王城を離れてから、旅先で何度も感じてきたことだったが、青波でもまた一つ、そういう場所が増えたのだと思った。
◇
共同馬車場へ向かう途中、三人は朝の中央坂をゆっくり歩いた。
市場へ向かう人々の流れはすでに始まっている。魚籠を運ぶ者、店の戸を開ける者、荷車を押す者。頭上では風魚飾りが穏やかな風を受けて揺れていた。
モモは何度も上を見上げていた。
青い魚が一匹、建物の間でゆっくり尾を振る。その隣では白い魚が風向きの変化に合わせて身体を傾けていた。
「……やっぱり、かわいい」
モモが呟く。
「馬車にも一匹いるだろ」
ルシルが言うと、モモは笑った。
「うん。でも、ここの魚はみんなで泳いでるから」
ルシルも頭上を見た。
確かに、何匹もの魚が並んで風を受ける様子は、馬車に吊るした一匹とは違う。それぞれ少しずつ動き方が違い、風が強くなると一斉に尾を伸ばす。
青波の人々が日々の暮らしの中で見上げている景色を、自分たちも二日間だけ分けてもらったような気がした。
共同馬車場では、受付の女性がすでに仕事を始めていた。
三人を見ると、すぐに笑顔を向ける。
「おはよう。今日は出発かい?」
「はい。南へ行きます」
ルシルが答える。
「そうかい。二頭とも朝から元気だったよ。特に栗毛のほうは、餌桶が空になってもまだ欲しそうな顔をしてた」
ルシルは思わず笑った。
「トルクらしいな」
「ベルクのほうも落ち着いてたよ。最初は少し警戒してたけど、今朝はこっちが近づいても平気だった」
シモンはその言葉を聞き、ベルクの首へ手を添えた。
「よく世話をしていただいたおかげです。ありがとうございました」
「何言ってんだい。預かった馬をちゃんと世話するのが仕事だよ」
女性は笑い、それから二頭を見た。
「でも、いい馬たちだね。旅慣れてるし、主人の声もよく聞いてる」
ルシルはトルクの額を撫でた。
トルクは気持ちよさそうに目を細め、ベルクもシモンの手へ顔を寄せる。
海を初めて見たときも、白砂浜へ下りたときも、南浜へ向かったときも、この二頭が馬車を引いてくれた。
人間のように景色を楽しんでいたかは分からない。
それでも、旅の思い出の中にはいつも二頭がいる。
「今日もよろしくな」
ルシルが声を掛けると、トルクは小さく鼻を鳴らした。
馬具を付け、車輪や荷物を確認する。
青波で買った本や干し海藻、南浜で拾った貝殻は、すべて所定の場所へ収めてある。折り畳み机の近くには、青い風魚飾りが小さく揺れていた。
モモは車内へ入り、その魚を指先でそっと揺らした。
「この子も青波から一緒に旅するんだね」
「そうだな」
ルシルは入口から顔を覗かせた。
「青波のこと、忘れないようにしてくれそうだ」
「忘れないよ」
モモは即座に答えた。
それから少し考え、柔らかい声で付け加える。
「でも、見たら思い出すことは増えるかもしれないね」
ルシルは頷いた。
旅先で手に入れたものは、単なる荷物ではない。それを見るたび、そこで交わした会話や、感じた風の匂いまで思い出せるのかもしれなかった。
出発の準備を終えると、受付の女性が馬車のそばへ来た。
「忘れ物はないかい?」
「大丈夫です」
シモンが答える。
「二泊、お世話になりました」
「こちらこそ。南へ行くなら、潮石の休み場でちゃんと馬を休ませるんだよ」
「はい」
女性はルシルとモモにも視線を向けた。
「また青波へ来たら寄っておくれ。今度はもっと長く泊まっていけばいい」
「絶対来ます!」
モモが元気よく答える。
ルシルも笑顔で頷いた。
「ありがとうございました!」
女性は片手を上げた。
「気をつけて行きな!」
馬車がゆっくり動き始める。
トルクとベルクは落ち着いた足取りで共同馬車場を出て、中央坂へ向かった。
御者台にはルシルとシモンが並び、モモは車内の窓から外を眺めている。
朝の通りでは、昨日と変わらず人々が働いていた。
魚を運ぶ者がいて、店先で客を呼ぶ者がいて、港へ向かう子どもが大人に手を引かれて歩いている。
旅人が出発するからといって、青波の朝が止まることはない。
ルシルはそのことに、少しだけ寂しさを覚えた。
(俺たちがいなくなっても、ここではいつもの一日が続くんだな)
けれど、それは嫌な寂しさではなかった。
青波の人々には青波の暮らしがある。
自分たちには、これから進む道がある。
短い間だけその二つが重なり、また別々の時間へ戻っていく。
旅とは、きっとそういうものなのだろう。
中央坂を下りきる手前で、モモが窓から顔を出した。
「ルシル君、ちょっとだけゆっくり走ってもいい?」
「いいよ」
ルシルはトルクとベルクへ声を掛け、歩調を少し落とした。
モモは頭上の風魚飾りを見上げた。
青い魚。
白い魚。
銀色の魚。
朝の光を受けて、どれも穏やかに揺れている。
「またね」
モモが小さく言った。
ルシルは何も言わず、同じ飾りを見上げた。
シモンも隣で静かに空を見ている。
その短い時間だけ、三人は同じものを眺めていた。
やがて馬車は中央坂を抜け、南門へ近づいていく。
石造りの門の向こうには、草地と海が広がっていた。
ルシルは手綱を整え、トルクとベルクへ声を掛けた。
「行こうか」
馬車が門を抜ける。
建物が少しずつ減り、青波の港が背後へ遠ざかっていく。
モモは窓から振り返っていた。
シモンも一度だけ後方へ視線を向ける。
ルシルは前方の道を見ながら、胸の奥に残るものを確かめていた。
青波へ来る前、海はまだ見たことのない憧れの景色だった。
今は違う。
海には波があり、砂浜があり、石の浜があり、魚を売る市場があり、朝早くから働く人々がいる。
そして、旅人へ「また来い」と言ってくれる人たちがいる。
それを知ったことが、何より嬉しかった。
やがて道が緩やかに曲がり、青波の家々が丘の向こうへ隠れ始めた。
最後まで見えていたのは、港の端に立つ高い柱と、その近くで風に揺れる小さな布飾りだった。
それも見えなくなると、モモはゆっくり前へ向き直った。
「……見えなくなっちゃった」
「うん」
ルシルは静かに答えた。
少しの間、誰も話さなかった。
車輪が道を踏む音と、海から吹く風の音だけが続く。
やがてモモが、いつもの明るさを少し取り戻した声で言った。
「でも、海はまだ見えるね」
ルシルは右手へ目を向けた。
草地の向こうには、青い海がどこまでも広がっている。
「本当だ」
青波の集落はもう見えない。
けれど、そこで初めて出会った海は、今も隣にある。
シモンが地図を確かめながら、穏やかに言った。
「ここから先も、しばらく海沿いの道が続きます。まずは潮草の水場まで進みましょう」
「うん」
ルシルは頷いた。
寂しさが消えたわけではない。
それでも、前へ進むのが嫌になったわけでもなかった。
青波で過ごした時間を大切に思うことと、次の場所を楽しみにすることは、きっと両立する。
ルシルは手綱を握り直し、道の先へ視線を向けた。
「よし。次はどんな海が見えるかな」
車内からモモの明るい声が返る。
「楽しみ!」
シモンも小さく笑った。
「景色を見るのは構いませんが、道の確認も忘れずにお願いします」
「分かってるって」
ルシルは笑いながら、トルクとベルクをゆっくり進ませた。
馬車の中では、青波で買った小さな風魚飾りが、揺れに合わせて尾を動かしている。
集落の空を泳いでいた魚たちとは離れてしまったけれど、そのうちの一匹は、これからも三人と一緒に旅を続けていく。
青波との別れは、そこで終わりではなかった。
あの集落で見たもの、食べたもの、出会った人々の言葉は、馬車の中にも、三人の記憶の中にも残っている。
そしてその思い出を乗せたまま、馬車は南へ続く沿岸道を進んでいった。
◇
青波を離れてしばらくすると、街道の右手に海が大きく開けた。
昨日、南浜へ向かったときにも見た景色だったが、今日は分岐を通り過ぎ、さらに先へ進んでいく。
道は緩やかな起伏を繰り返しながら南へ延びていた。
右手には海が広がり、左手には草地と低い丘が続く。ところどころに石垣があり、風を受けて傾いた草が道端を覆っている。
空はよく晴れていた。
遠くの水平線には薄い雲が浮かんでいるが、雨の気配はない。
「青波、見えなくなったね」
モモが窓から言う。
ルシルは後ろを振り返らず、前方の道を見たまま答えた。
「うん。でも海はずっとあるな」
「本当だね」
モモの声は楽しそうだった。
青波の集落はもう見えない。
けれど、右手の海は変わらず広がっている。
ルシルはそのことが少し不思議だった。
町や村は、離れれば見えなくなる。
森も山も、道を進めば景色が変わる。
けれど海は、どこまで進んでも隣にあるように感じられる。
「なあ、シモン」
「はい」
「海って、どこまで続いてるんだろうな」
シモンは少し考えた。
「この沿岸を南へ進めば、いくつもの村や小さな港があるはずです。さらに先の地形については、地図で確認できますが……」
「そういう意味じゃなくて」
ルシルは笑った。
「今見えてる海が、どこまで広がってるのかなって」
シモンは海へ目を向けた。
水平線の向こうは、今いる場所からは見えない。
「それは、私にも正確には分かりませんね」
「シモンでも?」
「地図上の知識はありますが、実際にすべてを見たわけではありませんから」
ルシルは少し驚いた。
シモンが分からないと言うことは、以前にもあった。
けれど、そのたびにルシルは少し嬉しくなる。
何でも知っているように見えるシモンにも、まだ見たことのない景色がある。
それなら、三人で見に行けばいい。
「じゃあ、いつかもっと遠くまで行ってみたいな」
ルシルが言う。
モモはすぐに反応した。
「海の向こう?」
「それも面白そう」
「船に乗るの?」
「いつかはな」
シモンが隣で小さく息を吐いた。
「船旅となると、馬車と二頭をどうするか考える必要がありますね」
「まだ今すぐ行くって言ってないだろ」
「分かっています。ですが、考えることは多いという話です」
「シモン君、船に乗ったことあるんでしょ?」
モモが尋ねる。
「ええ。以前、港へ赴いた際に短い船旅を経験しました」
「どんな感じだった?」
シモンは少し考えた。
「馬車とは揺れ方が違います。波の状態によっては、立っているだけでも足元が不安定になりますね」
「白砂浜みたい?」
「似ている部分もありますが、もっと大きく揺れることもあります」
モモは想像するように目を細めた。
「……面白そう」
「人によっては船酔いしますよ」
「私、酔うかな」
「乗ってみなければ分かりませんね」
ルシルは笑った。
「じゃあ、いつか試してみよう」
「ええ。ただし、準備を整えてからです」
シモンの返事に、モモも頷いた。
船旅はまだ先の話だ。
今は馬車で海沿いを進む。
それだけで十分楽しかった。
◇
昼前になると、道の左側に石造りの水槽が見えてきた。
その奥には低い風除けの壁があり、馬車を数台停められる平らな場所が設けられている。
案内所で教えてもらった『潮草の水場』だった。
「ここだな」
ルシルは馬車をゆっくり寄せた。
先客は一台だけだった。
荷車の横では、四十代ほどの男性が馬へ水を与えている。
ルシルたちが停めると、男性は顔を上げた。
「青波から来たのか?」
「はい。潮石の休み場へ向かっています」
「それならちょうどいいところだ。ここで馬を休ませておくと、先の上りが楽になる」
「ありがとうございます」
ルシルは礼を言い、トルクとベルクを休ませる準備を始めた。
水槽には澄んだ水が流れ込んでいる。
海の近くにあるため塩気が心配だったが、飲用に使える淡水だと案内板へ記されていた。
シモンは念のため水の状態を確認し、二頭へ与えた。
トルクは勢いよく飲み、ベルクも落ち着いて水を口にする。
「おいしそうに飲むね」
モモが笑う。
「朝から歩いてるからな」
ルシルはトルクの首を撫でた。
馬車を引いている二頭にとって、海の景色がどれほど面白いかは分からない。
それでも、こうして休みながら進む旅に慣れてくれていることがありがたかった。
水場の近くには、潮風に強そうな草が一面に生えていた。
細長い葉が地面へ広がり、ところどころに小さな白い花が咲いている。
モモはその草を見つけ、しゃがみ込んだ。
「これ、青波へ来る途中にも見たよね」
「そうだな」
ルシルも近づく。
「潮草っていうのかな」
「水場の名前はそうですが、植物の名前まで同じとは限りませんよ」
シモンが言う。
モモは頷いた。
「じゃあ、あとで調べよう」
今朝買った海辺の本には植物の情報が少ない。
以前から持っている草花の本なら載っているかもしれない。
モモは花の形や葉の様子を覚えようと、しばらく観察していた。
その間、ルシルは先客の男性と少し話した。
「この先、海がもっと近くなるんですか?」
「ああ。潮石へ向かう途中は、右手がずっと海になるところがある。景色はいいが、風が強い日は気をつけな」
「今日は大丈夫そうですか?」
「今のところはな。ただ、午後は少し上がるかもしれん。青波でも聞いただろ?」
「はい」
男性は頷いた。
「なら大丈夫だ。無理せず進めばいい」
ルシルは礼を言った。
休憩を終えたあと、三人は簡単な昼食を取ることにした。
青波で買っておいたパンと保存肉、豆を使った軽い食事である。
風除けの壁の内側へ座ると、海からの風が少し弱まり、落ち着いて食べられた。
モモはパンを食べながら、右手の海を眺めていた。
「青波の魚、もうちょっと買っておけばよかったかな」
「保存できるものならよかったかもな」
ルシルが答える。
「でも、次の村にも魚はあるでしょう」
シモンが言う。
「海沿いを進むのですから、青波だけで買い込む必要はありません」
「そっか」
モモは納得したように頷いた。
「じゃあ次の村でも食べよう」
「そのつもりだろうとは思っていました」
シモンが苦笑する。
ルシルも笑いながらパンを食べた。
海辺の旅は、まだ始まったばかりだ。
◇
昼食を終え、トルクとベルクを十分に休ませてから、三人は再び出発した。
潮草の水場を離れると、道は少しずつ高くなっていく。
右手には海が広がり、左手には低い丘が続く。
やがて道の脇に石垣が現れ、その向こうで海面が陽光を受けて輝いていた。
「わあ……」
モモが窓から声を漏らした。
ルシルも思わず海へ目を向けた。
高台で初めて海を見たときとは違い、今は海がずっと近い。
それでも、少し高い場所から見下ろす水面は、白砂浜や南浜で見たものとはまた違っていた。
波が岸へ寄せる様子が、上からよく分かる。
白い泡が岩へ当たり、細く広がっていく。
その少し沖では、水面がゆっくりと盛り上がり、また下がっていた。
「きれいだな」
ルシルが呟く。
「本当に」
モモの声が返る。
シモンは道の先を確認しながら、海へも視線を向けた。
「この辺りは見晴らしがよいですね。ただし、道の端には寄らないようにしましょう」
「分かってるよ」
ルシルは馬車を道の中央寄りへ保ち、速度を少し落とした。
風は昼前より強くなっていたが、走行に支障はない。
トルクとベルクも落ち着いている。
しばらく進むと、道の右側に小さな石造りの見晴らし場が現れた。
馬車を一台停められる程度の広さがあり、海側には低い石壁が設けられている。
ルシルは少し迷った。
案内所では、景色を見るために何度も止まるなら時間に気をつけるよう言われていた。
けれど、まだ午後の早い時間だ。
潮石の休み場までの距離も、地図ではそれほど残っていない。
「少しだけ寄ってもいい?」
ルシルが尋ねる。
シモンは空と風を確認した。
「短時間なら問題ないでしょう。ただし、馬車は風を受けにくい向きへ停めてください」
「了解」
ルシルは馬車を見晴らし場へ入れた。
トルクとベルクを落ち着かせ、三人は石壁の近くへ歩いた。
目の前には、海が広がっていた。
青波の港も、白砂浜も、南浜も、もう見えない。
けれど海は続いている。
ルシルは石壁へ手を置き、遠くの水平線を眺めた。
「本当に、どこまで行っても海だな」
「うん」
モモが隣へ立つ。
「昨日まで、海を見るために来たのにね」
「今は海の隣を走ってる」
ルシルが答える。
シモンも二人の隣へ来た。
三人はしばらく無言で海を眺めた。
風が外套を揺らし、遠くから波の音が届く。
海鳥が一羽、低いところを飛んでいった。
モモはその鳥を目で追い、少し笑った。
「シオハネかな」
「たぶん。でも、ここからだとよく分からないな」
ルシルが答える。
「本で見た特徴には似ていますね」
シモンも頷いた。
モモは嬉しそうに笑った。
「名前が分かると、見つけるの楽しいね」
「そうだな」
ルシルは海を見た。
知らなかったものに名前が付く。
見たことのなかった景色が、少しずつ身近になる。
旅を続けるほど、世界が広がっていくように感じられた。
やがてシモンが時間を確認した。
「そろそろ出発しましょう。風も少し強くなってきました」
「うん」
ルシルは石壁から手を離した。
モモも最後にもう一度海を見てから、馬車へ戻る。
三人は再び御者台と車内へ分かれ、潮石の休み場へ向かって走り始めた。
◇
午後の風が少し強くなった頃、道の先に低い石壁が見えてきた。
その内側には広い平地があり、馬車を停められる区画がいくつも設けられている。
入口には『潮石の休み場』と彫られた石標が立っていた。
「着いた!」
ルシルが声を上げる。
車内からモモが顔を出した。
「もう?」
「うん。潮石だ」
シモンは周囲を確認した。
休み場には先客の馬車が二台あり、風除けの石壁の内側で旅人たちが休んでいる。
水場も見える。
簡単な屋根付きの休憩所もある。
「予定どおりですね」
シモンが言った。
「今日はここで休みましょう。風が強くなる前に入れましたし、二頭も十分に休ませられます」
「了解」
ルシルは馬車を指定された区画へ進めた。
トルクとベルクを外し、水を与える。
二頭とも疲れはあるが、異常はない。
今日の移動は、青波から潮石まで。
途中で水場へ寄り、海を眺めながらゆっくり進んだ。
急がず、無理をせず、それでも確実に先へ進んでいる。
モモは馬車から降りると、休み場の石壁へ近づいた。
その向こうには、まだ海が見えていた。
「ルシル君、ここからも海見えるよ」
「本当?」
ルシルも近づく。
休み場は少し高い場所にあり、石壁の向こうには海が広がっている。
青波で泊まった宿の窓から見えた海とは違い、ここには港の灯りも家々の屋根もない。
ただ、草地と海がある。
「今夜も波の音、聞こえるかな」
モモが尋ねる。
「聞こえるんじゃない?」
ルシルが答える。
シモンも二人の隣へ立った。
「風向きによるでしょうが、海は近いですからね」
三人はしばらく景色を眺めた。
青波を離れた。
けれど、海はまだ隣にある。
そして明日も、きっとこの海に沿って進んでいくのだろう。
ルシルは小さく笑った。
「いいな、こういう旅」
モモが頷く。
「うん。私も好き」
シモンも穏やかな表情で海を見た。
「私もです」
その返事を聞いて、ルシルは嬉しくなった。
王位も、王城も、決められた予定もない。
ただ、行きたい場所へ行き、見たいものを見て、疲れたら休む。
そんな旅を、三人で続けている。
夕方の風が石壁を越え、外套を揺らした。
海の向こうでは、陽光が少しずつ柔らかくなっている。
ルシルはその景色を眺めながら、明日の道を思い描いた。
まだ知らない海辺の村。
まだ見たことのない浜。
まだ食べたことのない魚。
そのどれもが、今は楽しみだった。
潮石の休み場で迎える夜は、もうすぐ始まろうとしていた。




