第86話 海から流れ着いたものには、持ち主がいるかもしれません
南浜から青波の集落へ戻る街道には、昼過ぎの海風が吹いていた。
行きに通ったときよりも草の揺れが大きくなり、道の右手に広がる海には、細かな白い筋がいくつも浮かんでいる。それでも馬車を揺さぶるほどの強風ではなく、トルクとベルクは緩やかな坂道を落ち着いた足取りで進んでいた。
御者台に座るルシルは、手綱を握りながら、ときどき隣のシモンへ視線を向けていた。
「なあ、シモン。あれ、何だと思う?」
「南浜で拾ったものですか?」
「うん。貝殻じゃないほう」
シモンは前方の道を確認してから、少し考えるように眉を寄せた。
「現時点では判断できませんね。石に似た材質でしたが、加工されたものかどうかも確定していません。二本の溝が気になるところではありますが、それだけで用途を決めるわけにはいかないでしょう」
「船の部品だったりするのかな」
「可能性はあります。ただ、あの大きさのものが船のどこに使われるのか、私には思い当たりません」
ルシルは納得したように頷いた。
シモンは博識で、これまでの旅でも多くのことを教えてくれた。だからこそ、分からないものを分からないと言われると、かえってその物体が気になってしまう。
後ろの車内では、モモが貝殻を入れた布袋を膝に載せていた。
袋の口は閉じているものの、中身がぶつかって割れないよう、柔らかな布を間へ挟んである。南浜で拾ったものは白砂浜の貝殻より種類が多く、モモは帰ってから一つずつ並べてみるのを楽しみにしていた。
「私、船から落ちたものかなって思った」
窓越しに声が届く。
「どうして?」
ルシルが尋ねると、モモは少し考えてから答えた。
「海って船がいっぱい通るでしょ? 青波の港にもたくさんあったし、何か落としたものが流れてきてもおかしくないかなって」
「なるほど」
ルシルは海を見た。
今いる場所から港はまだ見えないが、青波へ戻れば、昨日見た舟や荷場がある。
「だったら持ち主がいるかもしれないな」
「ええ。その可能性も考えておくべきでしょう」
シモンが頷く。
「だからこそ、まず地元の方へ尋ねてみたいのです。道具であれば見覚えがあるかもしれませんし、落とし物なら扱いを確認する必要があります」
「ただの石だったら?」
「その場合は、面白い形の石を一つ拾ったということになりますね」
あまりにも落ち着いた答えだったため、ルシルは思わず笑った。
「それはそれでいいな」
「私もそう思う」
モモも楽しそうに答えた。
正体が分からないものを拾ったからといって、何か大事件が始まるわけではない。
海には貝殻も流木も石もある。
その中に、少し変わった形のものが混じっていたとしても不思議ではなかった。
ルシルは手綱を軽く整え、道の先へ目を向けた。
「とりあえず、青波へ戻ってからだな」
「はい。先に二頭を休ませて、それから宿の主人へ尋ねましょう」
シモンの言葉に、ルシルは素直に頷いた。
馬車は海風を受けながら北へ進み、やがて青波の集落を示す石標が見えてきた。
◇
青波へ戻った頃には、朝市の賑わいはすっかり落ち着いていた。
中央坂では店先の品物を並べ直す者や、午後の仕込みを始める者の姿が見える。港へ向かう荷車は相変わらず行き交っていたが、朝のように売り声が通りへ響き続けることはなかった。
ルシルは共同馬車場へ向かい、朝と同じ受付で馬車を預けた。
顔を覚えていたらしい中年の女性が、三人を見るなり笑った。
「おかえり。南浜はどうだった?」
「楽しかったです!」
モモが真っ先に答える。
「貝殻がいっぱいあって、小さい魚も見つけました」
「岩の水たまりにいたのかい?」
「はい。蟹もいました」
「それなら潮だまりだね。あそこは子どもたちもよく覗いてるよ」
女性は懐かしそうに笑った。
「うちの息子も小さい頃、毎日のように行ってたもんさ。魚を捕まえて持って帰ろうとして、何度叱ったことか」
「持って帰っちゃ駄目なんですか?」
モモが尋ねる。
「駄目っていうより、ちゃんと世話できないならやめときなってことだよ。小さな水たまりで暮らしてるものを、普通の桶に入れたって長くは生きられないからね」
モモは少し真面目な顔で頷いた。
「私たちは見てるだけにしました」
「それがいい。海の生き物は、海にいるのが一番だから」
その言葉を聞きながら、ルシルはトルクとベルクを馬房へ入れた。
二頭の脚を確認し、水を与える。
南浜までの往復は短い距離だったため、疲れた様子はない。それでも馬具を外してやると、トルクは気持ちよさそうに首を動かし、ベルクも落ち着いて餌桶へ顔を寄せた。
「今日はもう出ないから、ゆっくり休んでて」
ルシルがトルクの首を撫でる。
ベルクのほうではシモンが水桶を確認していた。
モモも二頭へ声を掛けてから、馬車の荷物を整理し始めた。
南浜で拾った貝殻は、乾いた布の上へ一つずつ並べる。
小さな巻き貝は欠けていない。
薄い桃色の二枚貝も、拾ったときのまま光沢を残している。
ルシルが見つけた細長い巻き貝は、先端が尖っているため、ほかのものへ当たらないよう別に置いた。
「これ、春雫へ持って帰る候補だな」
ルシルが言う。
「うん。でも、まだ決めなくてもいいよね」
「もちろん。海沿いを進めば、また違うのが見つかるかもしれないし」
モモは嬉しそうに頷いた。
その隣では、シモンがもう一つの布包みを取り出していた。
南浜で見つけた、正体の分からない小さな物体である。
「こちらは宿へ持っていきましょう。馬車に置いておくより、今のうちに尋ねたほうがよいでしょうから」
「俺が持つ?」
「いえ、私が持ちます。落としてしまうと、元の状態が分からなくなるかもしれません」
ルシルは素直に頷いた。
三人は馬車を施錠し、必要な荷物だけを持って共同馬車場を出た。
◇
網灯りの宿へ戻ると、食堂では夕食の準備が始まっていた。
厨房からは魚を煮る香りが漂い、奥の卓では宿の主人が大きな帳面へ何かを書き込んでいる。まだ客の少ない時間帯だったため、三人が入るとすぐに顔を上げた。
「おかえり。南浜はどうだった?」
「楽しかったです」
ルシルが答える。
「貝殻も拾えましたし、岩の間に小さい魚がいるのも見られました」
「そりゃよかった。あそこは白砂浜と違って、足元を見て歩くのが面白いだろ」
「本当にそうでした」
モモが頷く。
主人は満足そうに笑ったが、シモンが布包みを取り出すと、その手元へ視線を向けた。
「何か拾ったのか?」
「ええ。少しお尋ねしたいものがありまして」
シモンは空いている卓へ布を広げ、その中央へ小さな物体を置いた。
灰色で薄く、掌に収まるほどの大きさがある。
片側には平行な二本の溝が入り、角は丸く削れていた。
主人は顔を近づけた。
「……石か?」
「私たちも最初はそう思ったのですが、溝が少し整っているように見えまして。南浜の岩の間で、砂に半分埋まっていたものです」
「触ってもいいか?」
「どうぞ」
主人は指先で持ち上げ、表と裏を確かめた。
それから窓の光へかざし、少しだけ眉を寄せる。
「見たことあるような気もするが……いや、違うか」
ルシルは思わず身を乗り出した。
「何か分かります?」
「まだ分からん。船の道具に似た形のものはあるが、これは小さいし、溝の向きが妙だな」
主人は物体を卓へ戻した。
「俺が漁をしてた頃に使ってたものとは違う。もっと古い道具かもしれんし、別の場所から流れてきたものかもしれん」
「やっぱり海から流れてきたんでしょうか」
モモが尋ねる。
「それも分からんよ。南浜は波でいろんなものが寄るが、誰かが落とした可能性もある。拾った場所だけで決めるのは早いな」
主人は少し考え、食堂の奥へ視線を向けた。
「港の道具に詳しい人間なら、もう少し分かるかもしれん」
「どなたかいらっしゃいますか?」
シモンが尋ねる。
「ああ。青波水産組合の道具係を長くやってる爺さんがいる。名はバルド。今は現場へ出ることも減ったが、古い船具や漁具を見せたら、だいたい何に使うか答えられる」
ルシルは名前を覚えた。
「その人に見せても大丈夫ですか?」
「構わんと思うが、今日はもう仕事を終えてるかもしれんな。組合の事務所へ行って聞いてみるといい」
主人は卓へ置いた物体をもう一度見た。
「ただし、何か分かったからって勝手に持って帰れるとは限らんぞ。落とし物なら持ち主へ返すことになる」
「それはもちろんです」
シモンが答える。
ルシルも頷いた。
「持ち主がいるなら返します。俺たちは何なのか知りたいだけなので」
主人はその返事を聞き、安心したように笑った。
「ならいい。組合の事務所は港の荷場の北側だ。青い魚の印がある建物だから、すぐ分かる」
「ありがとうございます」
三人は礼を言い、物体を再び布へ包んだ。
夕食まではまだ時間がある。
宿の主人も、今からなら事務所へ寄る余裕はあるだろうと言ってくれた。
「行ってみる?」
ルシルが二人へ尋ねる。
「うん。気になる」
モモが頷く。
シモンも反対しなかった。
「では、先に事務所へ行きましょう。ただし、バルドさんが不在なら無理に探さず、明日改めて尋ねれば十分です」
三人は宿を出て、港へ向かった。
◇
午後の港は、朝とは違う忙しさに包まれていた。
魚を売る声は減っているが、荷車が行き交う音や、木箱を積み直す音は絶えない。岸壁では漁を終えた舟の手入れが行われ、網を干すための長い木枠がいくつも並んでいた。
頭上では風魚飾りが揺れている。
朝より強くなった風を受け、青や白の布の魚たちは同じ方向へ尾を伸ばしていた。
「今日も泳いでる」
モモが見上げる。
「昨日より元気そうだな」
ルシルが答えると、モモは楽しそうに笑った。
「馬車の魚も、帰ったら揺れてるかな」
「馬車の中には風が入らないから、あんまり泳がないだろ」
「じゃあ走ってるときだけだね」
そんな会話をしながら、三人は港の北側へ進んだ。
青波水産組合の事務所は、荷場のすぐ近くにあった。
石造りの二階建てで、入口の上には見覚えのある青い魚の印が掲げられている。
セレナスへ向かう途中の橋で見た荷印。
アゼルの詰所で由来を教えてもらった印。
それが今、建物の看板として目の前にある。
「本当に同じ印だな」
ルシルが言う。
「ええ。ここが組合の中心施設なのでしょう」
シモンは入口の案内板を確認した。
旅人や商人向けの受付は一階にあり、荷の問い合わせや落とし物の届け出も扱っているらしい。
三人は中へ入った。
受付には若い女性が座っていた。
机の上には書類が積まれ、奥の部屋からは何人かの声が聞こえる。
「いらっしゃいませ。荷のご相談ですか?」
「いえ、南浜で拾ったものについてお尋ねしたくて」
シモンが答える。
「網灯りの宿の主人から、バルドさんという方が古い船具や漁具に詳しいと伺いました」
女性は少し驚いた顔をした。
「バルドさんですか。今日は奥の倉庫にいらっしゃると思いますが……何を拾われたんですか?」
シモンは布包みを開き、物体を見せた。
女性は覗き込んだものの、すぐに首を傾げた。
「石……でしょうか?」
「私たちにも分かりません」
「少々お待ちください。確認してまいります」
女性は奥の部屋へ入り、しばらくして戻ってきた。
「バルドさん、今なら少しお時間を取れるそうです。こちらへどうぞ」
三人は案内され、事務所の奥へ進んだ。
廊下の先には広い倉庫があり、壁際へ縄や木箱、船具らしい道具が整然と並べられていた。
その中央で、一人の老人が木製の器具を手入れしている。
白髪交じりの短い髪。
日に焼けた顔。
厚い指には古い傷がいくつもあり、長年海の仕事に関わってきたことがうかがえた。
「バルドさん、お客様です」
受付の女性が声を掛ける。
老人は手を止め、三人を見た。
「南浜で変わったものを拾ったんだって?」
「はい」
シモンが布包みを差し出す。
バルドは物体を受け取り、しばらく無言で眺めた。
表面を指でなぞり、二本の溝へ爪を当てる。
さらに裏側を確認すると、わずかに眉を動かした。
「……ほう」
ルシルは思わず息を止めた。
モモも隣でじっと見ている。
バルドは物体を卓へ置き、三人へ視線を向けた。
「どこで拾った?」
「南浜の奥です。大きな岩がいくつか集まっている場所で、砂に半分埋まっていました」
ルシルが答える。
「岩の間か」
バルドは少し考えた。
「最近、あの辺りで何か工事をしたって話は聞いてないな」
「これ、何か分かりますか?」
モモが尋ねる。
老人はすぐには答えなかった。
代わりに倉庫の棚へ歩き、古い木箱を一つ取り出した。
中には大小さまざまな金具や石片、木製の部品が入っている。
バルドはその中から、細長い石のようなものを取り出した。
「これと似てると思ったんだが……」
三人が覗き込む。
バルドの持ってきたものは、拾った物体より少し大きく、表面には一本の溝が入っていた。
「これは古い漁網の重りに使われていたものだ。縄を通すための溝がある」
「重り?」
ルシルが尋ねる。
「ああ。網が水へ沈むように付けるんだ。今は別の材料を使うことが多いが、昔は石を加工して使うこともあった」
モモは二つを見比べた。
「でも、こっちは溝が二本ある」
「そうなんだよ」
バルドは頷いた。
「それに形も少し違う。網の重りなら、もう少し厚みがあってもいい。これは薄すぎる気がする」
シモンが尋ねる。
「では、同じ用途とは限らないのですね」
「限らん。古い道具の一種かもしれんし、まったく別のものかもしれん」
バルドは拾った物体をもう一度手に取った。
「ただ、自然にできた石よりは、人の手が入っているように見えるな」
ルシルは目を丸くした。
「やっぱり加工されたものですか?」
「断定はしない。だが、この二本の溝は少し整いすぎてる」
バルドは物体を卓へ戻した。
「それと、表面がずいぶん磨かれてる。長く海にあったのかもしれん」
「持ち主がいる可能性はありますか?」
シモンが尋ねる。
「そりゃあるだろうな。ただ、こんな小さな部品を誰が落としたかまでは分からん。落とし物として届けておくのが一番確実だ」
三人は顔を見合わせた。
ルシルは少し考えてから頷いた。
「じゃあ、届けます」
モモも同意した。
「持ち主がいるなら返したほうがいいもんね」
シモンは受付の女性へ確認する。
「届け出の手続きはこちらでできますか?」
「はい。拾得場所と日時を記録して、一定期間保管することになります」
「ではお願いします」
女性は書類を取りに戻った。
その間、バルドはルシルたちへ尋ねた。
「お前さんたち、海は初めてか?」
「はい。昨日初めて見ました」
ルシルが答える。
「ほう。なら南浜は面白かっただろう」
「すごく。白砂浜と全然違いました」
モモが笑顔で答える。
バルドは満足そうに頷いた。
「海は場所で顔が変わるからな。砂浜もあれば岩場もあるし、潮の流れが違えば流れ着くものも違う」
「南浜の貝殻って、ほかの場所から流れてくるんですか?」
モモが尋ねる。
「全部がそうとは限らんが、海の流れに乗って来るものは多い。だから、浜に落ちてるものだけ見ても、その場所のことが全部分かるわけじゃないんだ」
ルシルはその言葉を聞き、少し考えた。
南浜で拾った物体も、青波のものとは限らない。
遠くから流れてきた可能性がある。
けれど、どこから来たのかは分からない。
「海って、いろんなもの運んでくるんだな」
「そうだな。魚も、木も、貝も、ときには人の落とした道具もな」
バルドは笑った。
「だから面白いんだが、同時に厄介でもある。浜に何か流れ着いたからって、全部持ち帰っていいわけじゃない」
ルシルは頷いた。
今回の物体を届けることにしたのも、そのためだ。
やがて受付の女性が戻り、拾得物の記録を取った。
場所は南浜の奥。
発見したのは今日の昼過ぎ。
拾ったのは三人の旅人。
物体の特徴も書類へ記される。
シモンは必要な情報を正確に伝え、最後に確認した。
「持ち主が現れなかった場合は、どうなりますか?」
「一定期間保管したあと、組合の規定に従って扱います。旅人の方へ必ず返せるわけではありませんので、その点はご了承ください」
「承知しました」
ルシルも異論はなかった。
もともと持ち帰るつもりで拾ったわけではない。
正体が気になっただけだ。
物体は組合の保管箱へ収められた。
バルドは最後にもう一度それを見てから、蓋を閉じた。
「もし古い道具の一部なら、詳しい者に見せてみる。だが、すぐ答えが出るとは限らんぞ」
「はい。ありがとうございました」
三人は礼を言い、倉庫を出た。
◇
事務所を出ると、港には夕方の光が差し始めていた。
海面は昼より少し色が濃くなり、風魚飾りの青い布も柔らかな光を受けて揺れている。
ルシルは歩きながら、少しだけ肩の力を抜いた。
「結局、何だったか分からなかったな」
「そうだね」
モモが答える。
「でも、網の重りに似てるって分かった」
「完全に同じものではないようでしたが、手掛かりにはなりましたね」
シモンも頷く。
「それに、落とし物として届けることができました。今の段階では十分でしょう」
ルシルは港のほうを見る。
昨日初めて来たときには、魚の荷や舟の多さに驚いてばかりいた。
今日はその奥にある組合の倉庫まで入り、古い道具を見せてもらった。
海辺の暮らしは、見える場所だけでできているわけではないらしい。
「バルドさん、詳しかったな」
「長く道具係をされているのでしょう。ああいう方のお話は参考になります」
「また何か分からないもの見つけたら、聞けるかな」
モモが言う。
「青波にいる間なら、可能かもしれませんね。ただし、何でも持ち込めばよいというわけではありませんよ」
「分かってるよ」
モモは笑った。
三人は中央坂へ戻った。
夕方の通りでは、朝市とは違う店が賑わい始めていた。
焼き魚の香り。
温かい汁物の匂い。
食堂へ向かう人々の声。
青波の一日は、朝から夕方までずっと海と一緒に動いている。
ルシルはふと、モモが持っている貝殻の袋へ目を向けた。
「そういえば、貝殻はまだ選んでないな」
「うん。宿に戻ったら広げよう」
「春雫へ持って帰るやつ?」
「それもあるけど、私たちの分も」
モモは袋を軽く持ち上げた。
「せっかく三人で拾ったんだもん」
シモンはその言葉を聞き、少しだけ表情を和らげた。
「では、割れていないものを確認してから分けましょう。小さな箱があれば、保管もしやすくなります」
「箱、買ったほうがいいかな」
ルシルが尋ねる。
「馬車にある小箱を使えるかもしれません。まずは確認してからですね」
「分かった」
三人は宿へ戻り、夕食までの時間を使って貝殻を整理することにした。
◇
網灯りの宿へ戻ると、主人はすぐに声を掛けてきた。
「どうだった?」
「バルドさんに見てもらいました」
ルシルが答える。
「古い網の重りに似てるけど、同じものかは分からないそうです」
「そうか。あの爺さんでも分からんか」
主人は少し考えたあと、頷いた。
「なら、今はそれ以上考えても仕方ないな。落とし物として届けたんだろ?」
「はい」
「それでいい。海から来たものは、すぐ答えが出るとは限らん」
主人は笑い、厨房へ戻っていった。
三人は二階の部屋へ上がった。
ルシルとシモンの部屋へモモも入り、卓の上へ布を広げる。
南浜で拾った貝殻を一つずつ並べると、思っていたより数があった。
白い二枚貝。
薄い桃色の貝。
細長い巻き貝。
淡い紫色の小さな殻。
シモンが拾った筋のきれいな二枚貝もある。
「こうして並べると、きれいだな」
ルシルが言う。
「うん。海の色みたいなのもある」
モモは薄い青みを帯びた殻を指先で持ち上げた。
窓から入る夕方の光にかざすと、表面が柔らかく光る。
「これ、私のにしていい?」
「もちろん」
ルシルが答える。
シモンも頷いた。
「モモ嬢が見つけたものですからね」
モモは少し嬉しそうに笑い、その殻を自分の前へ置いた。
次にルシルは、細長い巻き貝を手に取った。
「これ、春雫へ持って帰る候補にしたい」
「いいと思う」
モモが頷く。
「でも、まだ決めないんでしょ?」
「うん。これからもっと南へ行くなら、ほかにも見つかるかもしれないし」
シモンは小さな布を取り出し、貝殻を一つずつ包む準備を始めた。
「では、候補として保管しておきましょう。割れないようにしておけば、あとから選べます」
三人はそれぞれ気に入った貝殻を一つずつ選び、残りは共同の袋へ戻した。
シモンが拾った白い二枚貝も、彼自身のものとして小さな布へ包まれた。
「シモン君、それどうするの?」
モモが尋ねる。
「どうしましょうかね」
シモンは少し考えた。
「旅の記念として、しばらく持っておきます」
「いいね」
モモは笑った。
「三人とも南浜の貝殻持ってる」
ルシルも頷いた。
高台で初めて海を見たとき、三人は同じ景色を眺めていた。
白砂浜では、三人とも初めて波へ足を入れた。
南浜では、それぞれ違う貝殻を拾った。
同じ場所へ行っても、持ち帰るものは少しずつ違う。
それが何となく面白かった。
貝殻を整理し終えると、モモは旅帳面を取り出した。
今日の出来事を書くためだ。
南浜の石の音。
潮だまりの小さな魚。
拾った貝殻。
そして、正体の分からなかった物体。
モモはしばらく考えながら筆を動かした。
『南浜で貝殻を拾った。石の間には小さな魚や蟹がいた。砂の中から変わったものも見つけたけど、何なのかはまだ分からない。青波水産組合へ届けた。』
そこまで書いてから、少しだけ筆を止める。
さらに一行を加えた。
『海から来たものには、持ち主がいるかもしれない。』
モモは書き終えた頁を眺め、満足そうに頷いた。
「できた」
ルシルが隣から覗き込む。
「今日もいっぱい書いたな」
「だって、いっぱいあったから」
「そうだな」
シモンも帳面を見た。
「モモ嬢の記録は、あとから旅を振り返るときに役立ちそうですね」
モモは少し照れたように笑った。
「じゃあ、ちゃんと続ける」
「無理に毎日書く必要はありませんよ」
「書きたいときに書くよ」
その返事に、シモンは静かに頷いた。
夕食の時間が近づき、三人は卓を片づけた。
窓の外では、青波の港に少しずつ灯りが増えている。
海は夕方の色へ変わり、波の音も昼より落ち着いて聞こえた。
ルシルは窓際へ立ち、港のほうを眺めた。
「明日、どうする?」
モモが尋ねる。
ルシルは振り返った。
「南へ進んでみたいな」
「私も」
モモはすぐに頷いた。
シモンは地図を取り出し、卓へ広げた。
「では、明朝の風と道の状態を確認してから、南の沿岸道へ進む方向で考えましょう。潮石の休み場までの距離も、改めて確認しておきたいところです」
「決まりだな」
ルシルは笑った。
青波で過ごした二日間は、思っていたより長く感じられた。
海を初めて見て、波へ触れ、港を歩き、朝市で魚を見て、南浜で貝殻を拾った。
そして、正体の分からない小さな物体を見つけ、地元の人々へ尋ねた。
答えが出なかったこともある。
けれど、分からないものを分からないまま預けておくことも、旅では大切なのかもしれない。
ルシルはもう一度海を見た。
明日もこの海は続いている。
その先には、まだ知らない浜や村があるのだろう。
「楽しみだな」
小さく呟くと、隣へ来たモモが頷いた。
「うん。次はどんな海かな」
シモンも地図を畳み、二人の隣へ立った。
「まずは明日の天気次第ですね」
ルシルは笑った。
「分かってるって」
三人はしばらく、夕暮れの海を眺めていた。
港の灯りが一つずつ増え、頭上の風魚飾りがゆっくりと揺れている。
その向こうでは、青い水面が夜の色へ変わり始めていた。
海から流れ着いた小さな物体の正体は、まだ分からない。
けれど、南浜で拾った貝殻は三人の手元に残り、今日の景色もそれぞれの記憶へ刻まれている。
明日になれば、また新しい道が始まる。
ルシルはそのことを楽しみにしながら、夕食の待つ一階へ向かった。




