第9話 急がない旅なら、寄り道する理由はいくらでもあります
ローデン馬車商会で大きな買い物を終えた翌朝、三人は朝食を済ませると、すぐには商会へ向かわなかった。
昨日、ガイルから馬具の扱いや御者の基本を教えると言われている。ルシルとしては一刻も早く焦げ茶色の馬車へ乗りたかったのだが、シモンが「その前に街道情報を整理しておいた方がいい」と提案したため、まずはヘルガスの街道組合へ足を運ぶことになった。
「馬車を買った後に道を調べるのって、順番逆じゃない?」
宿を出てしばらく歩いたところで、モモが小さく首を傾げた。
朝のヘルガスはすでに活動を始めており、石畳の道を荷車が行き交い、軒先では商人たちが品物を並べている。少し冷たい風の中へ焼きたてのパンの香りが混じり、通りの向こうでは馬の蹄が一定の音を刻んでいた。
「本来なら、もう少し先に調べるべきでした」
シモンは認めた。
「ただ、目的地が海という大まかなものしか決まっていませんでしたし、使う馬車も昨日まで確定していませんでした。車体の大きさや重量が分からない状態では、通れる道の判断も変わります」
「なるほど」
モモが素直に頷く。
「つまり、今ならちゃんと聞けるんですね」
「そういうことです」
ルシルは二人の少し前を歩きながら振り返った。
「でも、橋が通れなかったら別の道行けばいいんだろ?」
「そのためにも情報が必要です」
「急がなくていいなら、遠回りでもいいよな」
「時間だけなら問題ありません。ただし、水場や野営地、魔物の分布は確認しておくべきです」
「シモンは本当に旅向きだな」
「準備不足で困りたくないだけです」
「それを旅向きって言うんじゃないか?」
ルシルが笑うと、シモンは少し考えた後、それ以上は否定しなかった。
三人が目指している街道組合は、中央広場から少し南西へ入った場所にあった。
冒険者ギルドほど大きな建物ではないが、入口の脇には荷馬車が二台停まり、壁には何枚もの行程表や通行注意の札が貼られている。扉の上には、交差する二本の道を図案化した看板が掲げられていた。
中へ入ると、すぐに紙とインク、それから人の外套へ染み込んだ土埃の匂いが鼻へ届く。
広間には長い卓が幾つも置かれ、商人や御者らしい男たちが地図を広げて話していた。壁一面には周辺街道の簡易地図が貼られ、色の違う札によって通行可、工事中、危険区域などが分けられている。
「こういう場所も初めてだな」
ルシルは壁の地図を見上げた。
「王城にも街道資料はありましたよね?」
シモンが言う。
「もっと大きいやつは見てた。でも、こういう実際に旅する人向けのは見たことない」
地図の端には「井戸あり」「宿あり」「崩落注意」「盗賊報告なし」など、国全体の政策資料にはまず書かれない情報が細かく記されている。
ルシルにとっては、その一つ一つが新鮮だった。
「面白いな」
「まだ話を聞いていませんよ」
「地図見てるだけで面白い」
「今日は馬車より先にこっちへ来て正解だったかもしれませんね」
シモンの口元がわずかに緩む。
受付へ向かうと、中年の女性が三人へ顔を上げた。
「旅程相談かい?」
「ああ。南西へ向かいたい」
ルシルが答える。
「どこまで?」
「最終的には海」
「随分遠いね」
「急いでない」
女性はその返事を聞いて少し笑った。
「なら選択肢はいろいろあるよ。馬車は?」
「二頭立ての中型です。通常の旅客馬車より二割ほど重い車体になります」
シモンがすぐに補足する。
「荷物は?」
「ほとんど収納魔法です」
「なるほど。なら実荷重はそれほどでもないね」
女性は手元の紙へ簡単に書き込み、少し考えた。
「南西なら、詳しい奴がいるよ。今ちょうど奥にいるはずだから呼んでくる」
「詳しい人?」
「元商隊御者。二十年以上あちこち走ってた男さ」
女性は奥へ声を掛けた。
「ハーグ! 南西街道の相談!」
少しして、奥の扉から一人の男が現れた。
年齢は六十を少し過ぎたくらいだろうか。
日に焼けた肌には深い皺があり、短い灰色の髪の下から覗く目は鋭い。それでも険しい印象はなく、むしろ長い年月を道の上で過ごしてきた者らしい落ち着きがあった。
「南西?」
ハーグは三人を見る。
「若いな」
「よく言われる」
ルシルが答える。
「旅慣れは?」
三人が少し黙った。
シモンが代表して答える。
「戦闘や野外行動の経験はあります。ただ、三人だけで長距離の馬車旅をするのは今回が初めてです」
「正直でいい」
ハーグは近くの卓へ向かい、一枚の地図を広げた。
「なら、道を知ってるつもりで走るよりずっとましだ。座れ」
三人は卓を囲む。
ハーグは地図の中央にあるヘルガスを指差した。
「今ここだ」
「それは分かる」
ルシルが言う。
「まずそこから確認するのが癖なんだよ」
「ごめん」
「謝るほどじゃない」
ハーグは少し笑い、そのまま指を南西へ滑らせた。
「海へ向かうなら、最初はこの街道を使うのが無難だ。ヘルガスを出て、一日半ほどでラナって宿場町に着く」
「一日半?」
モモが聞く。
「普通の二頭立てならな。急がず休憩を入れるなら、一泊は野営になる」
「最初から野営!」
モモの声が少し弾んだ。
周囲の卓にいた商人が一人だけこちらを見たが、すぐ地図へ戻る。
シモンがモモへ小さく視線を向けた。
「楽しみにするのは構いませんが、設営は自分たちでしますよ」
「分かっています」
「料理もです」
「それも楽しみです」
「失敗する前提では考えないでくださいね」
「失敗しても食べられれば大丈夫です」
ハーグが二人のやり取りを聞きながら笑った。
「初野営か」
「たぶん」
ルシルが答える。
「王城……じゃなくて、今まで自分で準備する野営はほとんどなかった」
言いかけて少しだけ言葉を修正する。
ハーグはそこへ特に反応しなかった。
「なら最初は街道から離れすぎるな。ラナまでの間なら、旅人が使う野営跡が幾つかある。井戸はないが、小川が近い場所もある」
「水は収納にあるけど、馬がいるもんな」
ルシルが言う。
「そうだ。人間だけなら持ち運べても、馬は別だ」
ハーグは地図の途中に印を付ける。
「この辺り。街道から少し北へ入ると緩い丘がある。後ろ側が平らで、旅人がよく天幕を張る」
「景色は?」
ルシルが聞いた。
「なんでそこを先に聞く」
シモンが呆れる。
ハーグは意外にも笑った。
「悪くないぞ。西が開けてるから、晴れてりゃ夕方が綺麗だ」
「そこ行こう」
「即決ですか?」
「野営するなら景色いい方がいいだろ」
「水場も確認してください」
「近くに水ある?」
ルシルが聞く。
「丘の裏から少し下りれば小川がある。ただし、馬を降ろすには道が狭い。水袋で汲んで運ぶ方がいい」
「じゃあそれで」
シモンは地図へ目を落とした。
「悪くないですね。初日は無理に距離を稼ぐ必要もありません」
「シモンも寄り道認めた」
「野営地選びです」
「景色で決めたのに?」
「条件が悪くないからです」
ルシルは嬉しそうに笑った。
ハーグはさらに先を指す。
「ラナは小さいが旅人向けの宿場だ。宿は四軒。どこも厩舎がある」
「おすすめは?」
モモが尋ねる。
「泊まる時の空き次第だな。飯なら『麦角亭』が量多め。静かに寝たいなら『白灯亭』。馬を優先するなら『蹄休め』だ」
「名前分かりやすいな」
「宿場町なんてそんなもんだ」
ハーグの指はラナからさらに南西へ進む。
「そこからグレイ村までが約二日」
「また野営?」
「普通なら一泊だな。ただ、今は少し面倒がある」
声の調子が変わった。
シモンの視線もすぐ地図へ集中する。
「何が?」
「橋だ」
ハーグはラナとグレイの間を流れる一本の川を指した。
「この近道に古い石橋がある。三日前の雨で中央付近が少しやられた」
「壊れたのか?」
「完全には落ちてない。だが橋脚が一部傷んでる。昨日の情報じゃ、軽い馬車なら通してるらしい」
「重い馬車は?」
「現地判断だ」
ルシルとシモンが顔を見合わせた。
焦げ茶色の馬車は、同じ大きさの旅客馬車より二割ほど重い。
「僕たちのは少し重いですね」
シモンが言う。
「ただ、荷物重量はほぼありません」
「そういう馬車なら通れる可能性はある」
ハーグは頷く。
「でも無理するな。橋の前に管理人がいるはずだ。そこで聞け」
「駄目なら?」
「川沿いに北へ回る道がある」
地図の川に沿って指が動く。
「半日から一日余計にかかる。ただし道は安定してる」
「じゃあ、橋通れなくても問題ないな」
ルシルはあっさり答えた。
「一日増えるんですよ?」
モモが言う。
「急いでないし」
「それもそうですね」
「むしろ川沿いなら景色良さそう」
「またそこですか」
シモンが苦笑した。
ハーグは少しだけ目を細め、ルシルを見る。
「いい考えだ」
「そう?」
「旅始めたばかりの奴ほど、予定通り進むことに拘る。橋が駄目なら苛立って、無理に渡ろうとする奴もいる」
「俺たちはいつまでに海へ行かなきゃいけないとかないからな」
「その方がいい」
ハーグは地図の上へ手を置いた。
「道ってのは、目的地へ着くためだけにあるわけじゃない」
ルシルはその言葉に少し興味を引かれた。
「どういう意味?」
「長く走ってりゃ分かる」
ハーグは窓の外へ一瞬だけ目を向けた。
「予定より遅れた日にだけ見られる景色もある。道を間違えた先で、妙に美味い飯屋を見つけることもある。故障して一晩泊まった村と仲良くなって、十年後まで顔を出すことだってある」
その声は、何かを教え込もうとする教師のものではない。
ただ、自分が道の上で見てきたものを思い返しているようだった。
「目的地だけ見て走ってると、そういうもんを全部通り過ぎる」
モモが静かに笑う。
「それ、いいですね」
「私もそういう旅がしたいです」
「もうしてるだろ」
ルシルが言う。
「まだ最初の街です」
「でも昨日、馬車選ぶだけで半日使ったぞ」
「確かに」
「今日も街道組合でこんなに話してる」
「それは必要な情報収集です」
シモンが言う。
けれど、その声もどこか柔らかかった。
「ただ……道そのものを楽しむという考え方は、悪くありません」
「悪くありません、出た」
ルシルが笑う。
「何です?」
「シモンが結構気に入った時に言うやつ」
「そんな癖ありません」
「ありますよ」
モモまで頷く。
「昨日の馬車も『悪くありません』って言ってました」
「客観的評価です」
「じゃあ今日も客観的に楽しい旅になるってことで」
「勝手に変換しないでください」
ハーグは笑いながら地図へ視線を戻した。
「まだ先があるぞ」
「お願いします」
シモンが姿勢を正す。
グレイ村は、ラナよりさらに小さな集落らしい。
「宿は?」
ルシルが聞く。
「二軒あるが、片方は長期滞在の職人で埋まることが多い」
「じゃあ泊まれない可能性ある?」
「ある。村の南に共同野営地があるから、そっち使う旅人も多い」
「井戸は?」
「ある。馬用の水槽もある」
「それなら問題ないですね」
シモンは手元の紙へ細かく書き込んでいく。
「食料補給は?」
「最低限ならできる。パン、乾物、野菜。肉は日による」
「お菓子は?」
モモが尋ねる。
ハーグが一度だけ瞬きをした。
「……あるかもしれん」
「重要です」
「旅人の質問でそこまで真剣に聞かれたのは初めてだ」
ルシルが笑う。
「モモにとっては重要なんだよ」
「甘いもん好きか」
「はい」
「グレイ村なら蜂蜜を使った硬い菓子があった気がする。まだ作ってるかは知らんが」
「行きます」
「元々通る予定だろ」
シモンが即座に突っ込む。
ハーグはさらに地図の南西側を指した。
「グレイを抜けるとセイラ森林だ」
壁に貼られた別の注意札と同じ名前だった。
「危険?」
ルシルが尋ねる。
「街道を守って走るなら、それほどじゃない。主にDからC級の魔物だ」
「種類は?」
「グレイハウンド、フォレストボア。時期によってはゴブリン。まれにオーガが出る」
「その程度なら」
シモンが何気なく言った。
近くの卓にいた商人が、その言葉へちらりと視線を向ける。
普通の旅人なら、オーガを「その程度」とは言わない。
シモンも気づいたのか、少しだけ声を落とした。
「……冒険者としては対応可能です」
「三人とも冒険者か?」
ハーグが尋ねる。
「ああ」
ルシルはカードを出すほどではないと考え、口頭だけで答えた。
「なら魔物そのものは大丈夫そうだな。ただ、最近は森の外側で目撃数が少し増えてる」
「原因は?」
「分からん」
ハーグは首を振る。
「季節の移動かもしれんし、奥で何かあったのかもしれん。今のところ街道が危険指定されるほどではない」
「調べる必要ある?」
ルシルがシモンへ聞く。
「僕たちが通る時に異常があれば考えればいいでしょう」
「先に首突っ込まない?」
「旅の途中ですからね」
「よかった」
「何がです?」
「シモンなら原因調査まで予定に入れるかと思った」
「僕を何だと思っているのですか」
「仕事見つけると増やす人」
シモンが少し黙る。
モモが口元を押さえた。
「否定できませんね」
「モモまで?」
「王城ではそうでした」
「今は旅です」
シモンはそう言い切った。
ルシルは一瞬だけ目を丸くする。
以前のシモンなら、問題の可能性を聞いた時点で、調査価値や国への影響まで考え始めていたかもしれない。
今は違う。
必要なら助ける。
危険なら対応する。
でも、見つけた問題を全部自分たちで背負う必要はない。
「シモン」
「何です?」
「いいな、それ」
「何がでしょう」
「今は旅ってやつ」
「当然でしょう」
シモンは少しだけ視線を逸らした。
ルシルはそれ以上何も言わず、笑って地図へ戻った。
セイラ森林のさらに先は山岳地帯になる。
「ここからが本格的に道が悪くなる」
ハーグは山を示す線の周辺を指で囲った。
「雨が多い。季節に関係なく急に降ることもある」
「崖崩れ?」
シモンが尋ねる。
「ある。大雨の翌日は特に注意だ」
「焦げ茶色の馬車、重いけど山ではどう?」
ルシルが聞く。
「風には強い」
「重いのが役に立つ?」
「横風で煽られにくい。その代わり登りは馬への負担が増える」
「トルクとベルクに無理させないようにしないとな」
ルシルは自然と二頭の姿を思い浮かべる。
まだ一日しか会っていない。
それでも、これから旅を共にするのだと思うと、道の情報を聞く時にも二頭のことが頭へ浮かぶようになっていた。
「山の入口に蹄鉄屋がある」
ハーグが言う。
「雨が続いていたら、滑り止め付きへ替えた方がいい」
「覚えておきます」
シモンがすぐに書き込む。
「そこまで行ったら、天候を見て決めよう」
「そうですね」
ルシルは広げられた地図を眺めた。
ヘルガス。
ラナ。
グレイ。
セイラ森林。
山。
そのさらに先。
地図の端の向こうには、まだ海は描かれていない。
「遠いな」
小さく呟いた。
「嫌になりました?」
モモが尋ねる。
「逆」
ルシルは笑う。
「いっぱい途中があるんだなって思った」
海だけを見ていたら。
そこまでの道は、単なる移動にしか見えなかったかもしれない。
けれど今は。
野営する丘。
宿場町。
小さな村。
森。
山。
橋が通れなければ川沿いを回る道。
その全部が、これから自分たちが選べる場所だった。
「いい顔するじゃねえか」
ハーグが言った。
「そう?」
「急いでる奴の顔じゃない」
「急いでないからな」
「なら、そのまま行け」
ハーグは地図を折らず、そのまま三人の前へ押し出した。
「この簡易地図は持ってけ」
「いいの?」
「相談料に入ってる」
「相談料あったんだ」
ルシルが驚く。
「ただで何時間も話すと思ったか?」
「思ってた」
「ルシル様」
シモンが額へ手を当てる。
「金は払えよ」
ハーグが笑った。
「払う!」
「それならいい」
街道組合を出た頃には、陽がかなり高くなっていた。
気づけば昼近い。
ルシルは通りへ出た途端、腹へ手を当てた。
「腹減った」
「予想通りですね」
「何食う?」
「昨日、魚料理の店を見かけました」
モモが言う。
「青い魚の看板がありましたよね」
「青鱗亭ですね」
シモンがすぐに名前を出す。
「知ってる?」
「昨日の市場情報にありました」
「行こう」
ルシルの決断は速かった。
「もう少し迷いませんか?」
「魚食べたい」
「僕も反対はしていません」
「じゃあ決まり」
三人は中央通りから少し東へ入り、『青鱗亭』へ向かった。
店は市場と川へ続く道の間にあり、木製看板には青い鱗を持つ魚が描かれている。入口近くには氷を敷いた桶があり、今日仕入れたらしい川魚が並べられていた。
「新鮮そうですね」
モモが覗き込む。
「これ全部食える?」
「展示を全部食べる気ですか?」
「違う。種類」
「たぶん料理になります」
店へ入ると、肉料理店とは違う香りが広がっていた。
焼いた魚。
香草。
酸味のある果実。
それから魚を煮込んだスープの匂い。
昼時だけあって客は多く、漁師らしい男たちや商人、家族連れが卓を埋めている。
三人は奥の窓際へ案内された。
窓の向こうには小さな運河が見え、そのさらに先で本流へ繋がっている。
「今日は窓側誰?」
モモが聞く。
「モモ座れば?」
ルシルが言う。
「昨日ルシル様でしたし?」
「景色見たいんだろ?」
「はい」
「じゃあそこ」
モモは少し嬉しそうに窓際へ座った。
シモンはその様子を見ながら、自然に向かい側へ腰を下ろす。
誰がどこへ座るかを、もう大げさに確認する必要もなくなってきていた。
「おすすめは何ですか?」
モモが店員へ尋ねる。
「今日なら白川魚の香草焼きと、岩鱒の塩焼き。あと魚と豆の煮込みも人気だよ」
「全部」
ルシルが言う。
「ルシル様」
「三人で分ける」
「なら量を聞いてからにしてください」
昨日とほとんど同じやり取りになりかけ、ルシルは途中で止まった。
「……三人で食べ切れる?」
店員へ聞き直す。
「その三品ならちょうどいいくらいだ」
「じゃあお願いします」
「成長しましたね」
シモンが言う。
「昨日よりちゃんと考えた」
「褒めましょう」
「やっぱり子供扱いされてる気がする」
モモが笑う。
「でも今日は本当にちゃんと聞きましたよ」
「モモまで」
料理が来るまで、三人はさっきの地図を卓へ広げた。
「最初の野営は、夕景の丘でいい?」
ルシルが尋ねる。
「天候が良ければ」
シモンが答える。
「雨なら?」
「無理に景色を見る必要はありません。その時は街道沿いの別の野営地を探します」
「そこは仕方ないな」
「ルシル様、雨でも行くって言うかと思いました」
「馬と馬車が泥だらけになるのは嫌だ」
「自分たちは?」
「濡れる」
「そこはいいんですか?」
「風呂入れば」
「旅の途中に毎回風呂はありませんよ」
「……じゃあ嫌だな」
モモが楽しそうに笑う。
「ルシル様、だんだん旅の現実を知ってきましたね」
「まだ始まってもないけどな」
「それでもです」
「橋はどうする?」
ルシルが聞く。
「現地まで行って判断しましょう」
シモンは地図の橋を指す。
「通行可能なら渡る。危険だと言われたら川沿いへ迂回。これで十分です」
「閉まってても残念がらない?」
「僕ですか?」
「予定変更嫌いそう」
シモンは少し考えた。
「以前なら嫌だったかもしれません」
「今は?」
「一日増えるだけでしょう」
ルシルとモモが同時にシモンを見る。
「何です?」
「いや」
ルシルは笑った。
「旅人っぽくなったなって」
「まだ出発もしていません」
「でもさっきハーグも言ってただろ。道も旅だって」
「ええ」
「迂回したら、そこも旅」
「そうですね」
シモンは穏やかに頷いた。
「悪くありません」
「また出た」
「何がですか?」
「悪くありません」
「ただの言葉です」
「気に入ってる時のやつ」
「違います」
否定はしたものの、シモンの声は少し笑っていた。
やがて料理が運ばれてきた。
白身魚の香草焼きは表面が香ばしく焼かれ、上から緑色の香草と薄い果汁がかけられている。岩鱒の塩焼きは丸ごと一本で、皮の端がぱりぱりに焼けていた。
「美味そう」
ルシルの目が輝く。
「昨日の肉と同じ顔してます」
モモが言う。
「美味そうなもの見たら同じ顔になるだろ」
「分かりやすいです」
最後に魚と豆の煮込みが来る。
淡い白色のスープの中にほぐした魚、豆、根菜が入り、湯気と一緒に優しい香りが立っていた。
三人はそれぞれ少しずつ取り分ける。
「これ好き」
ルシルは白身魚を一口食べてすぐに言った。
「今日は『美味い』以外ですね」
シモンが指摘する。
「昨日言われたから」
「意外と気にしていたのですね」
「ちょっと」
モモは岩鱒の皮を慎重に切り分ける。
「これ、皮も食べられます?」
「食べられると思います」
シモンが答える。
「では」
一口。
すぐに目が少し大きくなる。
「美味しいです」
「結局モモもそれじゃん」
「美味しいものは美味しいんです」
「俺と同じこと言ってる」
そんなやり取りをしながら、三人はゆっくり昼食を楽しんだ。
店の中は賑やかだった。
近くの卓では商人らしい二人が荷物の値段を話し、少し離れた場所では子供が魚の骨を上手く外せず父親へ助けを求めている。
ルシルは時々そちらへ視線を向けた。
王城の食事では、同じ部屋にいる者たちの会話まで全てが意識されていた。
誰が誰と話すか。
誰の表情が変わったか。
誰が何を残したか。
今ここでは、誰もルシルを見ていない。
自分たちも周囲を気にしすぎない。
それが心地いい。
「この店も、また来たいな」
ルシルが言う。
「ヘルガスへ?」
モモが尋ねる。
「ああ」
「旅に出る前から戻る話ですか?」
「戻っちゃ駄目?」
「いいえ」
モモは少しだけ考えた後、柔らかく笑った。
「戻れるんですよね」
その言葉に、ルシルも少し黙った。
追放された時は。
戻る、という言葉を考えなかった。
王城へ戻りたいとは思わなかったし、戻る場所とも思わなかった。
でもヘルガスは違う。
自分たちで来た。
自分たちで店を選んだ。
自分たちで泊まった。
「そうだな」
ルシルは窓の向こうへ目を向けた。
「また来てもいいんだ」
シモンも静かに頷く。
「旅先は、一度しか行ってはいけない場所ではありませんから」
「当たり前だけど、なんかいいな」
「ルシル様、今日そういうの多いですね」
「今日は道の話いっぱい聞いたからかな」
食事を終えた後、三人はすぐ商会へ戻らなかった。
午前中ずっと街道情報を聞き、昼食もかなりしっかり食べたせいか、身体が少し重い。
「少し歩く?」
ルシルが言う。
「いいですね」
モモも賛成する。
「商会へ戻るにはまだ少し早いです」
シモンが時刻を確認した。
「ガイルさんには午後からでも問題ないと言われていますし、一刻ほど休んでもいいでしょう」
「シモンから休もうって言った?」
ルシルが驚いた。
「別に僕から提案したわけではありません」
「今、一刻休んでもいいって」
「予定上可能だと言っただけです」
「休む気ある?」
「あります」
「すごい」
「何がですか」
「王城なら、昼休みなんてまともに取ってなかっただろ」
シモンは少し黙った。
「……そうですね」
「じゃあ今日は休もう」
ルシルは迷わず言った。
青鱗亭を出た三人は、店の近くを流れる川へ向かった。
街の中心部を少し外れると、人通りは急に減った。
川沿いには低い石壁があり、その先へ草地が広がっている。水は陽の光を反射しながらゆっくり流れ、少し離れた場所では水鳥が二羽、岸近くを泳いでいた。
「ここいいですね」
モモが目を細める。
「風もある」
ルシルは草地へ降りる。
少し湿った草の匂い。
流れる水の音。
街の喧騒は遠くなり、代わりに鳥の声が聞こえてくる。
「椅子出そう」
ルシルが言った。
「ここならいいでしょう」
シモンが今回は止めなかった。
「やった」
ルシルは収納魔法から、昨日買った折り畳み椅子を三脚取り出す。
「初使用ですね」
モモが嬉しそうに一脚を受け取る。
「並べよう」
三人は川へ向けて椅子を並べた。
座る。
ただそれだけ。
「……いいな」
ルシルが呟く。
「何がです?」
モモが聞く。
「椅子」
「そこ?」
「自分たちで買った椅子を、好きなところに出して座ってる」
「本当に何でも楽しめますね」
シモンが言う。
「だって楽しいだろ」
「否定はしません」
シモンも背もたれへ少し身体を預けた。
風が通る。
水の音が続く。
誰も何も話さない時間が流れた。
モモは最初こそ川を眺めていたが、しばらくすると目を細め始めた。
「眠い?」
ルシルが尋ねる。
「少し」
「寝れば?」
「椅子で?」
「草に寝てもいい」
「服汚れます」
「毛布あるぞ」
収納から毛布を一枚出す。
「旅道具便利だな」
「まだ街の中でしか使っていませんけどね」
シモンが苦笑する。
モモは結局、草の上へ毛布を広げ、その上へ横になった。
「少しだけです」
「おやすみ」
「寝るとは言ってません」
そう言ってから、数分もしないうちに目を閉じた。
ルシルとシモンは顔を見合わせる。
「寝たな」
「寝ましたね」
声を少し落とす。
モモの呼吸はすぐに一定になった。
日差しは暖かい。
風は涼しい。
昼食後。
確かに眠くなる条件が揃っている。
「シモンも寝れば?」
ルシルが言う。
「僕はいいです」
「またそれ?」
「今は眠くありません」
「本当に?」
「ええ」
そう答えながら、シモンは椅子へ深く座り直した。
「では目を閉じるだけにします」
「それ寝るやつじゃん」
「休憩です」
黒縁眼鏡を外し、胸元の袋へしまう。
ルシルは少し驚いた。
シモンが人前で眼鏡を外す姿は、王城にいた頃でもあまり見なかった。
「眼鏡外すんだ」
「眠るなら邪魔です」
「寝るって認めた」
「休むだけです」
シモンは目を閉じた。
ルシルは笑いながら川へ目を戻す。
そして。
しばらくして。
「……シモン?」
返事がない。
呼吸。
ゆっくり。
「寝た」
ルシルは声を押し殺して笑った。
モモも。
シモンも。
昼寝。
何の仕事もない。
急ぐ旅程もない。
午後に少し遅れても、誰も困らない。
ルシルは椅子へ深く身体を預けた。
自分は寝ない。
そう思っていた。
川を見る。
水。
流れる。
陽光。
揺れる。
風。
頬。
撫でる。
その心地よさに、まぶたが少し重くなる。
「……ちょっとだけ」
誰へ言うでもなく呟いた。
目を閉じる。
次にルシルが目を開けた時、太陽の位置が少しだけ変わっていた。
「……寝た?」
自分で驚く。
隣を見る。
シモンもまだ目を閉じている。
毛布の上ではモモが丸くなるように眠っている。
三人。
全員。
昼寝していた。
ルシルはその光景をしばらく眺めた。
王城なら。
昼間に三人揃って寝るなどあり得なかった。
自分には予定があった。
モモには神殿の役目があった。
シモンには、それ以上に仕事があった。
誰かが必ず何かをしていた。
今は違う。
何もしない時間がある。
それを無駄だと思う必要もない。
ハーグの言葉がふと浮かぶ。
目的地だけ見て走っていたら、通り過ぎてしまうものがある。
もしかしたら。
こんな昼寝だって。
その一つなのかもしれない。
「悪くないな」
ルシルは小さく笑った。
「……何がです?」
突然、隣から声がした。
見るとシモンが目を開けていた。
「起きてたの?」
「今起きました」
「寝てた?」
少し沈黙。
「……少し」
「初めて素直に認めた」
「別に隠していません」
「どうだった?」
「何がです?」
「昼寝」
シモンは眼鏡を掛け直しながら、川の方へ目を向けた。
「悪くありません」
ルシルは吹き出した。
「やっぱり気に入ってるじゃん」
「だから、その言葉に特別な意味はありません」
「でも今日は二回目」
「数えていたのですか?」
「今から数える」
「やめてください」
その声でモモも目を覚ました。
「……お菓子?」
「寝起き一言目がそれ?」
「夢に出ました」
「どんな夢だよ」
「春雫のお菓子が馬車いっぱいに」
「シモンが怒るやつだ」
「夢の中でも一段まででした」
「僕は夢にまで出て管理しているのですか」
三人の笑い声が川辺へ広がった。
予定より少し長い休憩になった。
けれど誰も焦っていない。
ガイルのところへ戻れば、いよいよ馬車を動かす練習が始まる。
その前に、こうして三人で何もしない時間を過ごした。
ルシルは立ち上がり、椅子を畳みながらもう一度川を見た。
「なあ」
「何です?」
「今日も旅してるな」
モモが少し不思議そうに首を傾げる。
「まだヘルガスを出てませんよ?」
「でも、さっきハーグが言ってただろ」
ルシルは笑った。
「道そのものも旅だって」
街道組合へ行った。
魚を食べた。
川で寝た。
海へは一歩も近づいていないかもしれない。
それでも。
「こういうのも、たぶん旅なんだよ」
シモンは何も否定しなかった。
モモも笑って頷く。
「では、次は馬車の練習ですね」
「ああ」
「ルシル様、最初から飛ばさないでくださいね」
「分かってる」
「返事が不安です」
「シモンも乗るだろ」
「もちろんです」
「モモも?」
「はい。私もやります」
三人は椅子と毛布を収納へ戻し、川辺を離れた。
午後の陽が少し傾き始めたヘルガスの街を、今度はローデン馬車商会へ向かって歩く。
明日か。
明後日か。
まだ分からない。
それでも近いうちに、この街を出る。
その先には、夕日が綺麗だという丘があり、ラナという宿場町があり、損傷した橋があり、グレイ村があり、セイラ森林がある。
さらにその先には山がある。
そして、もっとずっと先に海がある。
けれど、ルシルはもう海だけを見てはいなかった。
そこへ至るまでに何を見るのか。
どこで止まるのか。
誰と話すのか。
何を食べて、何に笑うのか。
そういう一つ一つまで、自分たちで選べる。
それが今は、目的地そのものよりずっと楽しみに思えた。




