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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第10話 馬車を動かすだけなのに、覚えることが多すぎます



 川辺で予定外の昼寝を楽しんだ三人がローデン馬車商会へ戻る頃には、午後の日差しが少しずつ柔らかくなり始めていた。


 門をくぐると、午前中と変わらず作業場から木槌や金槌の音が響いている。整備を終えたらしい小型馬車が一台、若い職人に押されて屋根の下から出てきて、その向こうでは二頭の馬が水桶へ顔を寄せていた。


 ルシルは敷地へ入るなり、真っ先に奥を探した。


「あった」


 昨日購入した焦げ茶色の馬車は、屋根付きの保管場所からすでに外へ出されていた。


 その前にはトルクとベルクもいる。


 まだ馬車へ繋がれてはいないが、二頭とも身体を軽く手入れされたのか、昨日より毛並みが整って見えた。栗毛のトルクは近くの乾草へ視線を向け、黒に近い灰毛のベルクは少し離れた場所から商会を行き来する人間を静かに眺めている。


「トルクさん」


 モモが嬉しそうに歩き出した。


「走らないでくださいよ」


 シモンがすぐに注意する。


「走ってません」


「歩幅がかなり大きくなっています」


「ルシル様にも同じことを言っていましたよね?」


「お二人とも分かりやすいので」


 ルシルは横で笑いながら、昨日ガイルに教わったことを思い出していた。


 いきなり正面から近づかない。


 声を掛ける。


 自分の存在を認識させてから距離を詰める。


 馬と付き合うには、力があるだけでは意味がない。


 それが当たり前のことなのだと、昨日初めて知った。


「おう、来たか」


 声を掛けてきたのはガイルだった。


 今日も革の前掛けを身につけ、袖を肘まで捲っている。その手には細い革紐があり、どうやら馬具の一部を確認していたらしい。


「思ったより遅かったな」


「街道組合に行ってた」


「道調べか?」


「ああ。それから魚食って、川で昼寝した」


 ガイルが数秒黙った。


「……馬車の練習に来る日の過ごし方じゃねえな」


「でもちゃんと来たぞ」


「それは見りゃ分かる」


「ガイルさん、昼寝は大事ですよ」


 モモが真面目な顔で言う。


「シモン君も寝ました」


「なぜ僕のことまで報告するのです?」


「珍しかったので」


 ガイルの目がシモンへ向く。


「お前さん、そんなに昼寝しねえのか?」


「今までは、ほとんど機会がありませんでした」


「仕事人間か」


「まあ、そのようなものです」


「今日は旅人です」


 ルシルが横から補足する。


 シモンは何か言い返そうとしたが、少し考えた後でやめた。


「……今日は、ではなく、今は旅人です」


「おお」


 ルシルが嬉しそうに反応する。


「訂正そこなんだ」


「事実ですから」


 ガイルは三人を見比べると、何となく事情を察したように笑った。


「まあ、急がねえならそれでいい。今日は乗り回すより、先に覚えることの方が多いぞ」


「まず何から?」


「馬」


 即答だった。


 ルシルは焦げ茶色の馬車へ向きかけた身体を戻す。


「馬車じゃないの?」


「馬車が自分で走ると思ってんのか?」


「思ってない」


「なら最初はこいつらだ」


 ガイルはトルクとベルクを顎で示した。


「馬車は壊れても直せる。馬はそうはいかねえ。疲れてるのに無理させりゃ怪我するし、体調崩してるのに気づかなきゃ旅どころじゃなくなる」


 昨日も似たことを言われた。


 命を預ける相手。


 その意味を、今日はもっと具体的に覚えることになるらしい。


 三人はガイルの後について馬場へ入った。


「まず朝一番に見るところからだ」


 ガイルはトルクの横へ立つ。


「旅に出たら、起きてすぐ馬車へ繋ぐんじゃねえ。馬がちゃんと立ってるか、昨日と歩き方が違わねえか、飯を食ってるか、水を飲んでるか、糞の状態はどうか。その辺を見ろ」


「糞も?」


 ルシルが少し驚く。


「当たり前だ」


「そこまで見るんですね」


 モモも目を丸くした。


「腹壊してるか分かるだろ。口が利けねえんだから、人間が気づくしかない」


 ガイルは何でもないことのように言う。


 けれどルシルは、その言葉が妙に胸へ残った。


 自分たちより遥かに弱いから守る、という話ではない。


 一緒に旅するなら、相手が伝えられないことまで見る必要がある。


「その次に脚だ」


 ガイルはトルクへ声を掛け、身体へ触れてから前脚を持ち上げる。


 蹄の裏が見えた。


「石が挟まってねえか、割れてねえか、蹄鉄が浮いてねえか確認する」


「毎日?」


「毎朝。長く走った日は休憩の時にも見ろ」


 ルシルは近づいて覗き込む。


「これが蹄鉄?」


「ああ」


「思ったより薄いな」


「厚けりゃいいってもんじゃねえ。馬によって蹄の形も違うし、道によって向き不向きもある」


「山の入口で滑り止め付きに替えた方がいいって、街道組合でも言われた」


「誰に聞いた?」


「ハーグ」


「あの爺さんか」


 ガイルが少し笑う。


「まだ街道組合にいたのか」


「知ってる?」


「昔、うちの馬車で商隊走らせたこともある」


「本当に詳しい人だったんだな」


「二十年以上御者やってたからな。あいつの言うことなら聞いとけ」


 少し離れたところでシモンが頷く。


「山の天候と橋についても教えてもらいました」


「橋?」


「ラナからグレイ村へ向かう近道です。雨で少し傷んでいるそうです」


「ああ、あそこか」


 ガイルの表情が少しだけ真面目になった。


「この馬車は丈夫だが重い。現地で止められたら素直に迂回しろよ」


「そのつもり」


「ならいい」


 ガイルはそこで話を戻した。


「今度はやってみろ」


 最初に指名されたのはルシルだった。


「俺?」


「一番やりたそうだからな」


「やる」


 返事だけはいつも通り早い。


 ルシルはトルクの横へ立つ。


 触る前に声を掛ける。


「トルク。脚見るぞ」


 当然、言葉の意味までは伝わらない。


 それでもトルクは耳を動かし、ルシルが身体へ触れるのを嫌がらなかった。


「手をここへ滑らせろ」


 ガイルに教えられ、肩から脚へ沿うように手を下ろす。


「少し体重移すように促せ」


「こう?」


「そうだ。いきなり引っ張るな」


 トルクが前脚を浮かせる。


 ルシルは受け取るように支えた。


「重っ」


「馬一頭分の身体を支えてるわけじゃねえ。力抜け」


「分かってるけど、何か緊張する」


「王子……じゃなかった、ルシル様でも緊張するんですね」


 モモが少し楽しそうに言った。


 ルシルはぎくりとして彼女を見る。


 ガイルは幸い、モモの言い直しには特に反応していない。


「当たり前だろ。蹴られたら痛そうだし」


「ルシル様なら平気そうですけど」


「俺が平気でも、トルクが驚くだろ」


 その返事に、ガイルがちらりとルシルを見た。


「そういう考え方なら大丈夫だ」


「そう?」


「自分が怪我するかだけ考える奴は、馬扱うの下手だからな」


 少しだけ褒められた気がして、ルシルは嬉しくなる。


 蹄の裏を見る。


 溝。


 蹄鉄。


 釘。


 見慣れないものばかりだ。


「今日は綺麗だ」


 ガイルが説明する。


「だが道を走れば小石や泥が詰まる。尖った石が刺さってねえかも見ろ」


「これ、自分で掃除する?」


「そうだ」


「道具は?」


「昨日売った工具の中に入ってる」


「じゃあ後で確認する」


 次はモモ。


 彼女はトルクに近づく前、どこからともなく細長い人参を一本取り出した。


「待て」


 シモンが止めた。


「まだあげてません」


「先に持たないでください」


「約束したので」


「量は僕が確認すると言いました」


「一本です」


「長いですね」


「普通ですよ」


 トルクはすでに人参へ気づいていた。


 鼻を鳴らし、モモの手元を見る。


「ほら、期待してます」


「だから訓練の前に餌で気を引かないでください」


 ガイルが笑いながら手を振る。


「一本くらいならいいぞ。ただし今やるなら小さく折れ」


「ほら」


「僕に勝ち誇らないでください」


 モモは嬉しそうに人参を三つほどに折った。


 一つ。


 手のひらを平らにして載せる。


「トルクさん、どうぞ」


 トルクは唇で器用に拾い、すぐに咀嚼を始めた。


 モモの顔が一気に明るくなる。


「食べました」


「そりゃ食うだろ」


 ルシルが笑う。


「可愛いです」


「お菓子渡す時と同じ顔してる」


「違いますよ」


「似てます」


 シモンまで加勢した。


「二人とも失礼です」


 それでもモモは楽しそうだった。


 人参を食べ終えた後、今度はちゃんと脚を確認する。


 初めこそ力加減が分からず少し戸惑ったものの、ガイルに言われた通りゆっくり触れると、トルクは素直に脚を上げた。


「トルクさん、優しいですね」


「兄貴の方は人慣れしてる」


「ベルクさんは?」


「シモン君担当でいいんじゃないですか?」


 ルシルが言う。


「担当に決まった覚えはありません」


 そう答えながらも、シモンはベルクの方へ向かっていた。


 昨日と同じように、少し距離を取って声を掛ける。


 ベルクは耳を動かし、その姿を認識すると、昨日より早く鼻先を向けた。


「ほら、覚えてる」


 ルシルが小さな声で言う。


「昨日会ったばかりです」


「でも嫌そうじゃない」


「それはそうですが」


 シモンはベルクの首へ手を触れる。


 灰黒色の毛並みを撫で、そこから脚へ手を下ろしていく。


「ベルク」


 小さく声を掛けながら促すと、ベルクは少し間を置いて脚を上げた。


「おお」


「普通です」


「でもガイル、初対面だと時間かかるって言ってたぞ」


「昨日はもう触れていますから」


「シモン君、好かれてるって認めればいいのに」


 モモが楽しそうに言う。


「馬の好意を人間側が勝手に判断するのはよくありません」


 いかにもシモンらしい答えだった。


 その直後、ベルクが鼻先でシモンの肩を軽く押した。


 三人の動きが止まる。


「……今のは?」


 ルシルが聞く。


「偶然です」


「もう一回やったら?」


「しません」


 ベルクはもう一度、今度は少しだけ弱くシモンの肩へ鼻先を寄せた。


 モモが声を立てて笑う。


「二回です」


「ベルク」


 シモンが困ったように名前を呼ぶ。


 その声は、叱るにはあまりにも柔らかかった。


 ガイルまで笑いながら頷く。


「気に入られたな」


「……そういうことにしておきます」


「認めた!」


「大げさです」


 馬の状態確認を一通り終えると、次は馬具だった。


 昨日購入した一式が作業場近くの台へ並べられている。


 革製の首輪。


 胴へ回す帯。


 手綱。


 馬車と繋ぐための部品。


 予備も含めればかなりの数があった。


「これ全部、毎回付ける?」


 ルシルが少し顔を引きつらせた。


「全部じゃねえ」


 ガイルは苦笑する。


「でも必要なものは一つずつ付ける。順番を覚えろ」


「収納魔法で付けられない?」


 モモが尋ねる。


「どうやってだ」


「魔法で持ち上げて」


「やめとけ」


 ガイルの返事は速かった。


「便利だから使うのは構わねえが、馬具を付けるくらい自分の手でできるようになれ。魔法が使えない状況でも動ける方がいい」


 シモンがすぐに頷いた。


「同意します」


「シモンは絶対そう言うと思った」


「冗長性は大事です」


「じょうちょうせい?」


 モモが首を傾げる。


「一つの方法が使えなくても、別の方法で対応できる余裕です」


「つまり、魔法がなくてもできるように?」


「そうです」


「分かりました」


 ルシルも頷く。


「魔法使った方が早いけど、普通にできた方が格好いいな」


「理由はともかく、覚える気があるなら結構です」


 ガイルはまず自分でトルクへ馬具を装着してみせた。


 どこから通すか。


 どの位置で締めるか。


 締めすぎてはいけない場所。


 緩すぎても危険な場所。


 革が捩れていないか。


 毛を挟んでいないか。


 一つ一つは難しく見えない。


 けれど続けて説明されると、途端に覚えることが増える。


「ちょっと待って」


 ルシルが手を上げる。


「今何個目?」


「まだ半分だ」


「馬車動かすだけでこんなにあるの?」


「だから昨日乗って帰らせなかったんだよ」


「正しかった」


「今さら気づいたか」


 モモは横で真剣な顔をして見ていた。


「シモン君、覚えています?」


「はい」


「全部?」


「今のところは」


「ずるい」


「何がです?」


「私、最初の二つくらいもう怪しいです」


「後で一緒に復習しましょう」


「ありがとうございます」


 ルシルがシモンを見る。


「俺も」


「もちろんです」


「先生みたいだな」


「僕も習っている側です」


「もう全部覚えてるじゃん」


「見るだけと実際にできるかは別です」


 ガイルがそれを聞きながら頷いた。


「その通り。じゃあ外して、今度は三人でやれ」


 まずトルク。


 三人で相談しながら順番を確認する。


「これが先?」


 ルシルが革帯を持つ。


「そちらは後です」


 シモン。


「じゃあこれ?」


「それです」


「シモン君、もう先生ですよ」


 モモ。


「僕も間違える可能性はありますから、ガイルさんへ確認してください」


「今のところ合ってる」


 ガイルが言う。


 そうして三人で一つずつ装着していった。


 ルシルは力を入れすぎて締めようとし、ガイルに止められた。


「強けりゃいいってもんじゃねえ!」


「緩んだら危ないかと思って」


「苦しくても危ねえ!」


「ごめん、トルク」


 ルシルがすぐに謝りながら少し緩める。


 トルクは気にしていないのか、近くの乾草を見ていた。


「食い物の方しか見てませんね」


 モモが笑う。


「助かった」


「でも次から気をつけてくださいね」


「分かってる」


 モモは逆に慎重すぎて、何度も同じ留め具を確認した。


「これ、きつくないですか?」


「大丈夫だ」


「本当に?」


「指が二本入るだろ」


「入ります」


「なら問題ねえ」


「毛、挟まってません?」


「挟まってない」


「左右同じです?」


「モモ嬢」


 シモンが呼ぶ。


「大丈夫です」


「……はい」


 モモはようやく手を離した。


「今、モモ嬢って言いました」


「言いましたね」


「モモでいいですよ?」


「今その話をしますか?」


「大事です」


 シモンが少し困ったように眼鏡の位置を直す。


「馬具の練習中です」


「では後で」


「覚えていたら」


「覚えています」


「強いな」


 ルシルが横で笑う。


 ベルクの馬具は、ほとんどシモンが中心になって付けた。


 もっとも、ルシルとモモも横で順番を確認し、交代しながら手伝う。


 ベルクはトルクより少し神経質らしく、腹の下へ革帯を回した時だけ身体をわずかに動かした。


「止める?」


 ルシルがすぐに尋ねる。


「少し待ちます」


 シモンは無理に続けない。


 ベルクの首へ触れ、落ち着くまで数呼吸待つ。


「大丈夫ですか?」


 モモも声を抑えた。


「たぶん。嫌がったというより、触られた場所を気にしたようです」


 ガイルが頷く。


「その見方でいい」


 しばらくするとベルクは落ち着き、作業を再開できた。


 馬具を付け終えた時には、思った以上に時間が経っていた。


 ルシルは一歩下がって二頭を見る。


「すごいな」


「何がです?」


 モモが聞く。


「馬車引く馬っぽくなった」


「馬車を引く馬ですからね」


 シモンが冷静に返す。


「いや、分かってるけど」


 次はいよいよ馬車へ繋ぐ。


 二頭を並べる。


 馬車を所定の位置へ動かす。


 連結部分を確認する。


 ここでも順番を間違えると危険らしい。


 ガイルは何度も「急ぐな」と繰り返した。


「旅先で毎朝これやるんだよな」


 ルシルが金具を確認しながら言う。


「そうだ」


「思ってたより出発まで時間かかる」


「慣れりゃ早くなる。ただ、早さを競うな」


「点検を飛ばしたら駄目ですね」


 シモンが言う。


「そういうことだ」


 全部が繋がる。


 ガイルが一周。


 シモンも一周。


 ルシルとモモも、教えられた箇所を順番に確認する。


 それからようやく。


「乗っていいぞ」


 ガイルが言った。


 ルシルの顔が一気に明るくなる。


「やっと!」


「待て」


「まだ?」


「御者台へ座るだけだ。いきなり走らせるな」


「分かってる」


 今度は本当に慎重に、前方の御者台へ上がる。


 隣にはガイル。


 後ろではモモとシモンが馬車の中へ乗った。


「最初は俺が横にいる。手綱持て」


 ルシルは手綱を受け取った。


 思ったより軽い。


 けれど、その先はトルクとベルクへ繋がっている。


「これで動くんだよな」


「正確には、お前が馬へ動いてもらう」


 ガイルが訂正する。


「動かす、じゃない?」


「そう思わねえ方がいい。馬は道具じゃねえからな」


 ルシルはその言葉に少しだけ目を細めた。


「……分かった」


「合図は強くする必要ねえ。声と手綱、それから慣れれば身体の動きでも伝わる」


「声は?」


「最初は短く分かりやすく。こいつらは『進め』で慣れてる」


 ルシルは前を見る。


 商会の奥には、試走用の広い土の周回路がある。


 難しい道ではない。


 それでも胸が妙に高鳴った。


 自分たちの馬車。


 自分たちの馬。


 初めて。


 自分の手で進ませる。


「トルク、ベルク」


 一度、名前を呼ぶ。


 二頭の耳が動く。


「進め」


 軽く合図する。


 馬車が。


 動いた。


「おお……!」


 後ろからモモの声が聞こえる。


「動きました!」


「動くに決まっているでしょう」


 シモンの声も続く。


「でもすごいです!」


 ルシルも同じ気持ちだった。


 車輪が土を踏む。


 ゆっくり。


 本当にゆっくり。


 それでも景色が後ろへ流れていく。


 王城でも馬車には何度も乗った。


 けれど、その時とは全く違う。


「前見ろ」


「見てる」


「今、横見た」


「ちょっとだけ」


「御者が一番やっちゃいけねえ」


「分かった!」


 ガイルに注意され、慌てて正面へ視線を戻す。


 最初の直線。


 次は緩い曲線。


「曲がる時は?」


「急に引くな。先に声と手綱で方向を伝えろ」


 言われた通りにする。


 少し。


 遅れる。


 思っていたより馬車の後ろが大きく膨らんだ。


「うわ」


「慌てるな。そのまま」


 ガイルの落ち着いた声に従う。


 トルクとベルクは急がず、ゆっくり曲がった。


「今、後ろの車輪かなり外側通った?」


「そうだ。馬だけ見て曲がると馬車をぶつける」


「覚えた」


 一周目はほとんどガイルの指示通り。


 二周目。


 少しだけ自分で判断。


 発進。


 停止。


 緩い曲線。


 また停止。


 ルシルは最初の興奮ほど声を上げなくなり、代わりに前方と二頭の動きを真剣に見るようになった。


「悪くねえ」


 ガイルが言う。


「本当?」


「ああ。ただ、お前は前のめりすぎる」


「身体が?」


「気持ちがだ」


 ルシルは一瞬黙った後、笑った。


「それは自覚ある」


「馬は急がせるとそのまま出るぞ。自分が楽しいからって、こいつらまで急がせるな」


「うん」


 今度は素直に頷く。


「交代するか?」


「もう?」


「三人ともやるんだろ」


 後ろを見るのを我慢し、ルシルは声だけ飛ばす。


「モモ!」


「はい!」


「次!」


「行きます!」


 停車してから御者台を交代する。


 モモは上がった瞬間から楽しそうだった。


「高いですね」


「今さら?」


「馬車の中から見るのと違います」


 ガイルが隣へ座る。


「まず手綱の持ち方から」


「はい」


 モモは意外なほど真面目に聞いていた。


 ルシルとシモンは今度は車内側から見守る。


「モモ、大丈夫かな」


 ルシルが窓から前方を見る。


「ガイルさんがいます」


「でも勢いで行きそう」


「それはルシル様も同じでしょう」


「俺より速そう」


「否定しづらいですね」


 しばらくして、前方からモモの声が聞こえた。


「進め!」


 馬車が動く。


 発進そのものは滑らかだった。


「お」


「悪くありませんね」


 シモンが言った。


 ところが、直線へ入って少ししたところで速度が上がった。


「速くない?」


「少し」


 ルシルが窓から見る。


 トルクとベルクは無理をしているわけではない。


 ただ、モモの合図が思った以上にはっきりしているらしい。


「モモ!」


「何ですかー?」


「速い!」


「気持ちいいですよ!」


「やっぱり!」


 ガイルの声も聞こえる。


「落ち着け! まだ走らせる練習じゃねえ!」


「すみません!」


 速度がゆっくり落ちた。


 シモンが目を閉じる。


「想定通りですね」


「俺より危ないじゃん」


「ルシル様は楽しくなると周りを見なくなり、モモ嬢は楽しくなると速度が上がるようです」


「分析しないでください!」


 前からモモの抗議が飛んでくる。


「聞こえてた」


「聞こえるように言いました」


 それでも二周目には、モモもかなり落ち着いた。


 感覚で覚えるのが早いらしく、曲がる時の手綱の使い方はルシルより滑らかだった。


「モモ、上手いな」


「勢いを抑えればですね」


「そこだけ問題」


「ルシル様に言われたくありません!」


 交代して戻ってきたモモは、少し頬を膨らませていた。


「でも楽しかったです」


「だろ?」


「はい」


「今度街道でやろう」


「まず安全に動かせるようになってからです」


 シモンが言いながら御者台へ向かう。


「次、シモン」


「分かっています」


「絶対一番上手い」


「まだ乗っていません」


「でもたぶん上手い」


 ルシルとモモの期待を背中へ受けながら、シモンはガイルの隣へ座った。


 手綱を受け取る。


 姿勢を確認する。


 二頭の位置。


 前方。


 車輪が通る場所。


 一通り確認してから。


「進め」


 静かに声を出した。


 馬車が動く。


「やっぱり上手い」


 ルシルがすぐに言った。


「まだ発進しただけですよ」


 モモが言いながらも、同じことを思っているらしい。


 速度。


 一定。


 曲がる前には早めに合図。


 車体が膨らむ幅も考えている。


 停止も滑らか。


「何で初めてでできるんだよ」


 ルシルは少し悔しくなる。


「シモン君ですから」


「その説明で全部済むのずるい」


 一周目を終えても、シモンはほとんど注意されていない。


 二周目。


 さらに安定。


 ガイルが感心したように言った。


「本当に経験少ねえのか?」


「馬車そのものは何度も利用しています。御者の動きも見ていますし、基礎理論は学んだことがあります」


「見て覚えたのか」


「ある程度は」


「相変わらずだな」


 ルシルが後ろから声を掛ける。


「何です?」


「何でもできる」


「できないこともあります」


「昼寝下手」


「今日できました」


「じゃあ一個減った」


 モモが吹き出した。


「ルシル様、それはできることに数えるんですか?」


「大事だろ」


「さっきは馬車の練習中ですよ」


 シモンの声には呆れが混じっていたが、怒ってはいない。


 三人の練習はその後も続いた。


 一人ずつ。


 何度も交代する。


 発進。


 停止。


 曲がる。


 狭い場所での方向転換。


 御者台から後輪が通る場所を意識する。


 今度は荷車に見立てた木箱の間を抜ける。


 ルシルは一度、左後輪を木箱へ近づけすぎた。


「止まれ!」


 ガイルの声。


 すぐに停止する。


「危なかった」


「ぶつかってはない」


「あと少しだったぞ」


「ごめん」


 ルシルは馬だけでなく、自分の後ろにある車体の大きさを改めて見る。


「前だけ見てればいいわけじゃないんだな」


「そうだ。だから広い道でも端へ寄りすぎんな」


「分かった」


 モモは速度管理を何度も注意されたが、一度指摘された曲がり方はすぐに修正した。


「モモ嬢は感覚型ですね」


 シモンが分析する。


「悪いですか?」


「いいえ。ただし、感覚が合っている時ほど油断しないでください」


「シモン君みたいなこと言いますね」


「僕です」


「あ、そうでした」


「どういう間違いですか」


 ルシルが横で笑い転げる。


 シモンは最も安定していたが、逆に慎重すぎる場面があった。


「遅いぞ」


 ガイルに言われる。


「安全確認をしています」


「そこまで確認してたら街道で日が暮れる」


「必要以上ですか?」


「今はな」


 ルシルが嬉しそうに反応する。


「シモンも注意された」


「僕も初心者ですから当然です」


「もう少し悔しがってよ」


「なぜです?」


「俺だけ下手みたいじゃん」


「比較する必要はありません」


 モモも頷く。


「そうですよ。それぞれ違うんですから」


「モモに慰められた」


「慰めてません」


「でも優しい」


「ルシル様、もう一周してきたらどうです?」


「逃がされた」


 陽がかなり傾く頃には、三人とも最初よりずっと自然に馬車を動かせるようになっていた。


 もちろん、街道へ出て長距離を走れるほど慣れてはいない。


 それでも、朝の自分たちと比べれば大きな違いだった。


「今日はここまでだ」


 ガイルが声を掛ける。


「もう?」


 ルシルは御者台から名残惜しそうに降りる。


「馬も休ませろ」


「あ」


 言われてトルクとベルクを見る。


 二頭は荒い呼吸をしているわけではない。


 けれど何周も馬車を引いた。


「ごめん」


「謝るほど無理はさせてねえ」


 ガイルが言う。


「ただ、休ませる判断を忘れんな」


「うん」


 馬車を停める。


 今度は馬具を外す。


 付ける時より簡単だと思っていたが、外す順番にも注意が必要だった。


「そこ先に外すな」


「また?」


「馬車との連結が残ってるだろ」


「本当だ」


「ルシル様、今日は何回目の『本当だ』でしょう」


 モモが笑う。


「数えないで」


「僕は数えていません」


 シモンが答える。


「シモンは絶対覚えてる」


「七回です」


「数えてるじゃん!」


 ガイルまで笑い始める。


 馬具を全部外した後は、水と飼料。


 身体を軽く拭く。


 脚をもう一度見る。


 朝だけではなく、走った後にも確認する。


「毎回ここまで?」


 ルシルが汗を拭きながら尋ねる。


「旅なら当然だ」


「馬車乗るより大変だな」


「だから最初に教えてる」


「でも嫌じゃない」


 ルシルはトルクの首を撫でた。


 栗毛の馬は疲れたのか、昼より少し大人しい。


「むしろ、これも旅って感じする」


「まだ商会の敷地ですけどね」


 モモがベルク用の水桶を運びながら言う。


「旅に出てから急にやるよりいいだろ」


「それはそうです」


 シモンは馬具の革部分を布で拭いていた。


 汚れや汗をそのままにすると傷みやすいらしい。


 何でも丁寧だ。


 ベルクは水を飲み終えると、またシモンの近くへ寄ってくる。


「見て」


 ルシルが小声で言う。


「見えてます」


「好かれてる」


「もう否定しても無駄な気がしてきました」


 シモンが諦めたように笑う。


「シモン君、ベルクさんと仲良くなりましたね」


 モモが嬉しそうに言う。


「まだ二日目です」


「でも、これから毎日です」


「……そうですね」


 シモンはベルクの首へ手を置いた。


 その様子は昨日よりずっと自然だった。


 全ての作業を終えた頃には、空が橙色へ染まり始めていた。


 三人は焦げ茶色の馬車の横へ並んで座る。


 今日は買った折り畳み椅子ではなく、商会に置かれていた長い木箱を借りた。


「疲れた」


 ルシルが言う。


「私もです」


 モモも肩を軽く回す。


「馬車に乗ってるだけなら楽だと思ってた」


「乗客ならそうでしょうね」


 シモンが眼鏡を外し、布で軽く拭く。


「自分たちで管理するとなると、かなり違います」


「嫌だった?」


 ルシルが尋ねる。


「何がです?」


「今日の全部」


 シモンは少し考えた。


 馬の体調を見る。


 馬具を付ける。


 馬車へ繋ぐ。


 御者台へ座る。


 走る。


 戻って、また外す。


 水を飲ませる。


 道具を手入れする。


 王城にいた頃のシモンなら、そのどれも自分でやる必要はなかった。


 専門の者へ任せれば済むことだった。


「面倒ではあります」


 シモンは正直に答える。


「覚えることも多いですし、毎日となれば時間も使います」


「やっぱり?」


「でも」


 そこで言葉が続く。


「悪くありません」


 ルシルとモモが同時に反応した。


「出た」


「出ました」


「何がです?」


「気に入った時の言葉」


「です」


「まだ言うのですか」


 シモンは少し呆れたように笑った。


 その表情を見て、ルシルも笑う。


「でも本当に、嫌じゃないんだな」


「ええ」


 返事は今度は早かった。


「王城では、自分がやらなくていいことをする時間はほとんどありませんでした」


 夕方の商会では、昼間より作業の音が減っていた。


 職人たちは片付けを始め、馬場の方からは乾草を噛む小さな音が聞こえる。


 シモンはその音を聞きながら、静かに続けた。


「必要な仕事が多すぎましたから。起きた瞬間から今日やるべきことがあり、それが終われば明日の準備がありました。食事をしながら資料を見ることも珍しくありませんでしたし、休むことに理由が必要だった時期もあります」


 ルシルの顔から少しだけ笑みが消える。


 自分が知らなかったわけではない。


 シモンが働きすぎていたことには気づいていた。


 何度か休めとも言った。


 それでも、自分が王子でいる限り、シモンの仕事そのものを無くすことはできなかった。


「俺のせいでもあるな」


 小さく言う。


 シモンはすぐに首を横へ振った。


「その話にするつもりはありません」


「でも」


「ルシル様」


 穏やかな声だった。


「僕がついてきたのは、命令されたからではありません」


 ルシルが顔を上げる。


「王家へ忠誠を誓ったからでもありません」


 モモも何も言わず、二人を見ている。


「僕は自分で決めて、あなたについてきました」


 シモンは一度、焦げ茶色の馬車へ目を向けた。


「今日だってそうです。馬の世話も、馬具の手入れも、御者の練習も、本来なら僕がする必要などないことばかりです」


「じゃあ何で?」


「やりたいからです」


 その返事に、ルシルは少しだけ目を見開いた。


 シモンが「やりたい」という言葉をこんなに素直に使うことは、以前ならほとんどなかった。


「自分で馬車を選んで、馬を選んで、道を調べて、自分たちで走らせる。そのために必要なら、覚えたいと思います」


 シモンは一度だけ眼鏡の位置を直す。


「昼に川辺で寝たのも、僕がそうすると決めたからです」


「寝落ちしてたけどな」


「そこは黙っていてください」


 少しだけ空気が軽くなった。


 ルシルが笑う。


「じゃあ、聞いていい?」


「どうぞ」


「王城と旅、どっちが楽しい?」


 シモンは一瞬、答えに詰まったようだった。


 けれど、逃げなかった。


「旅です」


 はっきり言った。


 ルシルの胸の奥が、少し熱くなる。


「即答?」


「比較するまでもありません」


「そんなに?」


「王城では寝不足でしたから」


「そこ?」


「大きな差です」


 モモが楽しそうに笑う。


「私も旅の方が好きです」


「モモは聞いてないぞ」


「言いたくなりました」


「じゃあ聞く」


 ルシルはモモへ向き直る。


「神殿と旅、どっちがいい?」


「旅です」


 こちらはシモン以上の即答だった。


「早い!」


「比べる必要ありません」


「シモンと同じこと言ってる」


「神殿へ戻りたいと思ったこともありませんよ」


 モモは少しだけ遠くを見る。


「神殿にいた頃は、私が何をしたいかを聞かれることはほとんどありませんでした。聖女だから、こうする。聖女だから、あそこへ行く。聖女だから、笑う。そういうものだと思っていました」


 声は暗くない。


 過去を責めるような響きもなかった。


「でも今は、お菓子を買うのも、馬車の棚を一段もらうのも、自分で決められます」


「そこにお菓子入るんだ」


「大切です」


「でも、一段です」


 シモンが念を押す。


「まだ覚えてるんですか?」


「当然です」


 三人で笑う。


 その笑いが落ち着いた後、シモンが静かにルシルへ向き直った。


「ですから、もう一度言っておきます」


「何?」


「僕は、あなたについてきたことを後悔していません」


 今度こそ、ルシルは言葉を失った。


「今の生活が何年続くかは分かりません。旅の途中で面倒なことも起きるでしょうし、今日より大変な日はいくらでもあると思います」


 シモンの声は普段と変わらない。


 だからこそ、一つ一つの言葉が真っ直ぐに届く。


「それでも、王城へ戻って元の生活をしたいとは思いません」


「私もです」


 モモも続く。


「ルシル様についてきたこと、後悔してません」


 ルシルは二人を見る。


 胸の奥にずっと残っていたものがある。


 自分は王位なんていらない。


 王城から追い出されたことも、むしろ解放だと思った。


 けれど、二人まで同じものを捨てる必要があったのか。


 自分についてきたせいで、いつか二人が後悔するのではないか。


 その不安は、形を変えながらずっと残っていた。


 今、二人は自分の意思で否定している。


「……そっか」


 ようやく出たのは、それだけだった。


 モモが少し首を傾げる。


「泣きます?」


「泣かない」


「目、少し赤いですよ」


「夕日」


「便利ですね、夕日」


「夕日のせい」


 シモンは追及しなかった。


 ルシルも無理に言葉を増やさなかった。


 この気持ちを説明しようとすれば、また自分が二人を連れ出した責任の話へ戻ってしまう気がした。


 だから今日は。


「ありがとう」


 それだけを言った。


 シモンが静かに頷く。


 モモも柔らかく笑った。


「どういたしまして」


 三人の間へ、短い沈黙が落ちる。


 気まずいものではない。


 むしろ、言葉を足さなくてもいいと思える沈黙だった。


 その向こうで、トルクが大きく鼻を鳴らした。


「お腹空いたんでしょうか」


 モモがそちらを見る。


「さっき飼料食べてましたよ」


 シモンが言う。


「トルクならまだ食えるんじゃない?」


 ルシルが笑う。


「だからといって与えすぎないでください」


「人参一本くらい」


「今日はもうモモ嬢からもらいました」


 モモがすぐにシモンを見る。


「今またモモ嬢って言いました」


「……」


「約束、覚えてますよね?」


「約束はしていません」


「二人きりじゃなくても、モモでいいんですよ?」


「それは別の問題です」


「いつになったら呼んでくれるんでしょう」


「旅は長いですから、そのうちでいいんじゃない?」


 ルシルが笑う。


「ルシル様、シモン君の味方ですか?」


「どっちの味方でもない」


「ずるいです」


「旅仲間だからな」


 その言葉を口にした時、ルシルは少しだけ笑った。


 旅仲間。


 もう、それが一番しっくりくる。


 王子でも。


 聖女でも。


 側近でもない。


 三人で同じ馬車を選び、同じ馬の世話をし、誰が一番御者が上手いかで笑い合う。


「そうだ」


 ルシルは立ち上がった。


「明日は何する?」


「街道へ出る前の最終確認です」


 シモンがすぐに答える。


「まだあるの?」


「あります。食料の追加、馬用の水と飼料、工具の確認、街道組合でもらった情報の整理。宿の精算も必要です」


「多いな」


「旅立つ前ですから」


「でも、その後は?」


「問題なければ、出発できます」


 ルシルの顔が一気に明るくなる。


「明日?」


「最終確認が終われば」


「やっと!」


「急ぐなと今日何度言われました?」


「出発は急いでもいいだろ」


「よくありません」


「じゃあ普通に準備する」


「それでお願いします」


 ガイルが作業場の方から戻ってきた。


「そろそろ閉めるぞ」


「分かった」


「明日は?」


「最終確認して、問題なければ出る」


「なら午前中に一度寄れ。予備車輪と工具を渡す」


「補修方法は?」


「明日、最低限だけ教える」


「忘れてなかった」


「商売だからな」


 ガイルは焦げ茶色の馬車へ目を向ける。


「出る前にもう一度、俺も足回りを見る」


「ありがとう」


「金もらってるから当然だ」


「でもありがとう」


 ガイルは少しだけ困ったような顔をした後、鼻で笑った。


「明日壊すなよ」


「壊さない」


「その自信が一番不安だ」


「酷い」


 三人はトルクとベルクへもう一度声を掛け、宿へ戻ることにした。


 商会を出る前、ルシルは振り返る。


 夕方の光の中に焦げ茶色の馬車がある。


 昨日までは、買ったばかりの大きな道具だった。


 今日は少し違う。


 馬具を自分たちで付けた。


 車体を自分の手で動かした。


 失敗した。


 注意された。


 トルクとベルクの脚を触り、水を飲ませ、終わった後の手入れまでした。


 ほんの一日。


 それでも昨日より少しだけ、あの馬車と二頭が自分たちに近づいた気がする。


「ルシル様?」


 モモが先で振り返る。


「どうしました?」


「何でもない」


 ルシルは二人へ追いついた。


「明日、ちゃんと全部準備してから出よう」


「もちろんです」


 シモンが答える。


「寄り道は?」


 モモが聞く。


「出た瞬間から?」


「何か面白そうなものがあったら」


「あり」


 ルシルが即答する。


「僕は条件次第です」


 シモン。


「つまり、あり?」


「時間と安全に問題がなければ」


「それ、ほぼありだろ」


「旅ですから」


 シモンが何気なく言った。


 ルシルは歩きながら、少しだけ目を丸くする。


 けれど今度は何も指摘しなかった。


 ただ笑う。


 ヘルガスで過ごした数日間。


 食事を選び。


 菓子を買い。


 旅道具を揃え。


 馬車を選び。


 馬と出会い。


 道を調べ。


 川辺で昼寝までした。


 旅に出る前なのに、もう十分すぎるほど旅をしている気がした。


 明日、いよいよこの街を出る。


 けれど急がなくていい。


 最初の一歩から、全部自分たちで決めていけばいい。


 三人の歩く先へ、夕方のヘルガスの通りが続いていた。

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