第11話 最初の街を出る前に、ちゃんと『また来ます』と言いたい
ヘルガスで迎える最後の朝は、これまでの朝と何も変わらないように見えた。
金の麦穂亭の二階へ差し込む朝日は柔らかく、通りからは荷車の車輪が石畳を転がる音と、店を開ける商人たちの声が聞こえてくる。少し遠くでは家畜の鳴き声も混じり、宿の厨房からは焼いたパンと炒めた玉葱の香りが階段を伝って上がってきていた。
昨日までと同じ、ヘルガスの朝だった。
それなのに目を覚ましたルシルは、すぐには寝台から起き上がらなかった。
薄い掛布を胸元まで引いたまま、天井を見上げる。木の梁には細かな傷があり、その一部は朝日を受けて淡く浮かんでいた。最初の夜にも同じ天井を見たはずなのに、その時はこんなところまで気にしていなかった。
今日は、この部屋で眠る最後の朝になる。
「……そっか」
口にしてみると、思っていたより声が小さかった。
別に出発したくないわけではない。
むしろ逆だ。
海へ向かう旅は、ようやくここから始まる。
自分たちで選んだ馬車がある。
トルクとベルクがいる。
街道のことも調べた。
保存食も旅道具も揃えた。
昨日は三人とも、馬の世話と御者の基礎を教わった。
準備は整っている。
それなのに、胸の奥には少しだけ引っかかるものがあった。
出たくないほど強い寂しさではない。ただ、この街で過ごした数日が終わることを惜しいと思っている。その感覚を自覚してから、ルシルは少し不思議な気持ちになった。
王城を離れた時には、こんな感情はなかった。
あの時は、終わることばかりだった。
王位継承権。
王族としての立場。
家名。
自分へ割り当てられていた部屋。
決められた予定。
周囲から向けられる視線。
それらを失うことに未練はなかったし、むしろ肩から重たいものが落ちたように感じた。
だから草原へ出た時、思いきり叫べた。
自由だ、と。
けれどヘルガスを出る今日は、少し違う。
ここでは何かを奪われたわけではない。
自分で入った。
自分で宿を決めた。
自分で食べる物を選んだ。
自分で金を使った。
自分たちで馬車を選び、これから進む道を考えた。
そして、自分でここを出ると決めた。
同じ「場所を離れる」でも、こんなに違うものなのかと、ルシルは初めて知った。
出ていくのに、失う感じがしない。
寂しいのに、不安ではない。
むしろ胸の奥には、細い糸のような安心が残っている。
どうしてなのか考えて、しばらくしてから気づいた。
「……また来てもいいんだ」
誰も二度と戻るなとは言っていない。
門を出たら、この街が消えてしまうわけでもない。
旅の途中で、また戻ってきてもいい。
金の麦穂亭に泊まってもいい。
跳ね鹿亭で飯を食べてもいい。
春雫で菓子を買ってもいい。
ガイルのところへ馬車を見せに来てもいい。
ハーグに、どこまで旅をしたか話してもいい。
今までのルシルにとって、場所を離れることは、どこか「終わり」に近かった。
けれど旅人にとっては違うらしい。
離れることと、失うことは同じではない。
そう考えると、胸にあった引っかかりがほんの少し形を変えた。
寂しさは消えない。
けれど、消さなくてもいい気がした。
惜しいと思えるほど、この街を気に入ったのだから。
ルシルはようやく寝台から起き上がった。
顔を洗い、髪を整え、黒い外套を羽織る。その途中で何度か部屋の中へ視線を向けてしまう自分に気づき、少しだけ苦笑した。
豪華でもない。
広くもない。
王城の自室と比べれば、本当に小さな部屋だ。
それでもここは、王子ではなくルシルとして、自分で選んで泊まった最初の部屋だった。
扉を開けると、廊下の向こうでちょうどモモも部屋から出てきた。
桃金色の長い髪はすでに整えられているが、若葉色の瞳にはまだわずかな眠気が残っている。白い外套を腕へ掛けたまま、彼女も自分の部屋を一度振り返っていた。
「おはよう、モモ」
「おはようございます、ルシル様」
モモは扉を閉め、それから少しだけ名残惜しそうに取っ手へ指を置いた。
「モモも見てたな」
「何をです?」
「部屋」
指摘されると、モモは少し照れたように笑った。
「見てました」
「やっぱり」
「だって、今日で最後なので」
「寂しい?」
少し考えてから、モモは頷く。
「少しだけです。でも、出発するのもすごく楽しみです」
「俺も同じ」
「変な感じですね」
「うん」
二人はしばらく廊下に立ったまま、自分たちの使っていた扉を眺めた。
何日もいたわけではない。
それでも、朝起きて、夜戻ってきて、疲れた身体を休めた場所だ。
たったそれだけの積み重ねが、知らない場所を「泊まった場所」に変え、「泊まった場所」を少しだけ思い出のある場所へ変えていた。
「でも」
モモが小さく言った。
「また泊まれますよね」
「うん」
ルシルはすぐに答えた。
「また来ればいい」
その言葉を口にすること自体が、まだ少し新鮮だった。
二人で階段へ向かうと、下から食器の触れ合う音と、宿泊客たちの話し声が聞こえてくる。
食堂には、すでにシモンがいた。
ただし以前のように、ルシルの部屋の前で待機していたわけではない。
窓際の席で温かい茶を飲みながら、小さな紙へ何かを書き込んでいる。朝日を受けた黒縁眼鏡の奥には、いつもの落ち着いた表情があった。
ルシルはその姿を見て、自然に笑った。
「ちゃんと先に自分のことしてる」
声を掛けると、シモンが顔を上げた。
「おはようございます。待機ではなく、出発前の確認作業です」
「でも俺が起きるまで廊下にいなかった」
「そこを毎朝確認されるのは、少し複雑なのですが」
「慣れるまで確認する」
「ルシル様が、ですか?」
「俺も、シモンも」
シモンは何か言い返そうとして、結局やめた。
代わりに小さく息を吐く。
「……おはようございます、モモ嬢」
「おはようございます。今日もモモ嬢ですね」
「朝一番からその話を始めるのですか」
「大事なことです」
「出発準備の方が重要です」
「両方重要です」
いつものやり取りに、ルシルの肩から力が抜ける。
今日でこの宿を出る。
でも三人が離れるわけではない。
場所が変わるだけだ。
そう思えることが、少し嬉しかった。
「ところで、何書いてるんだ?」
ルシルはシモンの向かいへ腰を下ろした。
「今日の確認事項です」
紙をこちらへ向ける。
そこには必要なことが簡潔に並んでいる。
宿の精算。
不足分の食料。
冒険者ギルドで預けていた低中級素材の査定結果受け取り。
街道組合で橋の最新情報確認。
春雫。
ローデン馬車商会で予備車輪と工具の受け取り、補修方法の確認。
最後に、出発。
「ちゃんと春雫入ってる」
「昨日の時点でモモ嬢が必ず行くと言っていましたから」
「さすがシモン君です」
「補給場所として合理的だから入れただけです」
「お菓子も立派な補給です」
「糖分という意味なら否定しません」
そこへ宿の女将が朝食を運んできた。
厚切りのパンに、豆と根菜を煮込んだスープ、焼いた卵と薄切りの肉。湯気と一緒に香ばしい匂いが立ち上り、三人の前へいつものように皿が置かれていく。
「今日出るんだって?」
女将が聞いた。
「ああ」
「南西へ?」
「まずラナまで。その先は、ゆっくり」
「そうかい」
女将はそこで、ほんの少しだけ手を止めた。
何日も泊まった客を送り出すことなど、この宿では珍しくないのだろう。それでも三人へ向けられた表情には、商売相手へのものだけではない柔らかさがあった。
「何日かいるとね、朝飯の好みくらいは分かってくるもんなんだよ」
「俺たち、そんな分かりやすい?」
「分かりやすいよ」
女将はモモを見る。
「そこのお嬢ちゃんは、果物があると少し機嫌がいい」
「……そんなに出てました?」
「出てたね」
次にシモンを見る。
「眼鏡のお兄さんは、塩気が強すぎない方がよく食べる」
「よく見ていますね」
「宿屋だからね」
最後にルシルへ視線を移す。
「あんたは、何でも楽しそうに食べる」
「俺だけ雑じゃない?」
「一番分かりやすいんだよ」
モモが口元へ手を当てて笑う。
「ルシル様、本当に食事の時は顔に出ますから」
「モモもだろ」
「私はお菓子だけです」
「もっと分かりやすいじゃん」
女将は笑いながら空いた盆を抱え直した。
「まあ、気をつけて行きな。街道は馬車が多いし、慣れないうちは無理しないこと」
「ありがとう」
「それと」
女将は一度だけ階段の方へ視線を向けた。
「またヘルガスに来たら、ここへ泊まりに来てもいいからね」
ルシルは、すぐに返事をしなかった。
朝、部屋で考えていた言葉が胸の奥へ戻ってくる。
また来てもいい。
自分でそう思うのと、誰かからそう言ってもらうのとでは、少し違った。
戻ってきてもいい場所がある。
大げさなことではないはずなのに、その事実が思っていた以上に温かかった。
「……うん」
ルシルは女将を見て、しっかり頷いた。
「また来る」
女将の目元がわずかに緩む。
「その頃には、もう少し旅慣れてるといいね」
「たぶん」
「たぶんなんですね」
シモンが横から言う。
「いや、何があるか分からないだろ」
「そこは意気込みとして断言してもいいでしょう」
「じゃあ、今よりは旅慣れて戻ってくる」
「それでいいよ」
女将は満足そうに笑った。
三人はいつもより少しゆっくり朝食を食べた。
誰かがそうしようと提案したわけではない。
ただ、もうここで食べる朝食はしばらくないと思うと、パンの香ばしさも、豆の柔らかさも、いつもより少しだけ意識に残った。
窓の向こうでは、街が普段通りに動いている。
パン屋が店先へ籠を並べ、向かいの建物から子供が飛び出し、その後ろを母親らしい女性が追いかけている。荷馬車が一台通り過ぎ、御者が知り合いへ片手を上げた。
自分たちが今日この街を離れても、ヘルガスの日常は続いていく。
それが少し寂しく、それ以上に安心した。
朝食を終えた後、三人はそれぞれの部屋へ戻った。
収納魔法があるため、大きな荷物をまとめる必要はない。それでも念のため、窓際や棚、寝台の脇、机の上を一つずつ確認していく。
ルシルは窓を少し開けた。
朝の空気が入ってくる。
この窓から、何度か街を眺めた。
初めて自分で宿を選んだ夜。
仲間へ飯を奢った夜。
馬車を買った日の夜。
どれも、王城にいた頃ならわざわざ記憶へ残そうとも思わなかったような、小さな出来事ばかりだった。
けれど今は、その一つ一つを忘れたくないと思う。
「不思議だな」
呟いてから窓を閉める。
部屋を出る前に、もう一度振り返った。
豪華な装飾はない。
寝台と机と椅子があるだけだ。
それでも、ここで眠った夜は自分で選んだ夜だった。
「ありがとう」
小さく言って、扉を閉める。
隣ではモモも同じように、自分の部屋へ頭を下げていた。
「モモも言った?」
「はい」
「俺も」
そのやり取りを廊下の先で聞いていたシモンが、少しだけ眉を上げる。
「部屋にお礼を?」
「数日お世話になったので」
モモが答える。
「変かな」
ルシルが聞くと、シモンは少し考えた後で首を横に振った。
「いいえ」
彼も自分が使っていた部屋の扉へ視線を向ける。
「僕も、嫌いではありませんでした」
「じゃあ言えば?」
「そこまではしません」
「まだ恥ずかしいんだ」
「違います」
だが階段へ向かう前、シモンはほんの一瞬だけ自分の部屋へ振り返った。
ルシルもモモも、それには何も言わなかった。
一階で宿代を精算すると、女将が小さな紙袋を三つ差し出した。
「これ、持ってきな」
「何?」
「昼までに腹が減った時用。焼いたパンが少し余ったから」
紙袋はまだわずかに温かい。
「いいの?」
「最後くらいサービスだよ」
モモが両手で受け取る。
「ありがとうございます」
シモンも丁寧に頭を下げた。
「いただきます」
ルシルも受け取ったが、すぐには収納へ入れなかった。
手の中にある温かさが消えるのが少し惜しくて、しばらくそのまま持っていた。
女将はそんなルシルを見て、何も言わずに笑った。
「じゃあ」
ルシルが言う。
「行ってくる」
口から出た後で、自分でも少し驚いた。
さようならでも、世話になったでもない。
行ってくる。
まるで戻ってくることを最初から前提にしたような言葉だった。
女将も一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに笑みを深くする。
「行っといで」
その返事を聞いた瞬間、ルシルの胸の奥が少しだけ熱くなった。
モモも嬉しそうに笑っている。
「行ってきます」
シモンは二人を見てから、少しだけ間を置いた。
「……行ってまいります」
「そこだけ急に堅いな」
「癖です」
「帰ってくる頃には直ってるかも」
「期待しすぎないでください」
宿を出る。
扉の上の鐘が軽く鳴った。
外へ一歩出ると、朝のヘルガスの空気が頬へ触れる。石畳には昨夜の湿り気が少し残り、道の端では店先を掃く音がしていた。
三人はすぐには歩き出さなかった。
ルシルが振り返る。
金の麦穂亭の看板が、朝の風に揺れている。
ここへ来た初日は、ただ「今日泊まる場所」としか思っていなかった。
今は違う。
名前を見れば、女将の顔が浮かぶ。
朝食の匂いが浮かぶ。
二階の廊下と、自分たちの部屋が浮かぶ。
「また来ます」
ルシルが言った。
今度は、女将へというより、この場所そのものへ言うように。
「はい」
モモも頷く。
「次もここに泊まりたいです」
「異論ありません」
シモンも穏やかに答えた。
三人はようやく歩き出した。
最初に向かったのは冒険者ギルドだ。
朝のギルドはすでに混み合っており、掲示板の前では冒険者たちが依頼書を見比べている。受付には何組か列ができ、奥の解体場からは刃物と木台が触れ合う鈍い音が響いていた。
三人が入ると、以前の模擬戦を見ていた者の何人かが気づいたらしい。
「あの三人だ」
「眼鏡の兄ちゃん、Aランクだったよな」
「まだいたのか」
小さな声は聞こえるが、以前のような探る視線ばかりではない。
少し見慣れた顔へ向ける程度のものも混じっている。
その変化を、ルシルは少し面白く感じた。
壁際にいたガルドがこちらへ手を上げる。
「おう」
「ガルド」
隣にはベックとドーマもいた。
「今日出るんだってな」
「何で知ってるの?」
「宿の近くで馬車商会の小僧が話してたのを聞いた」
「街って狭いな」
「冒険者が集まる街は特にな」
ガルドは少し気まずそうに首の後ろを掻いた。
「この前は悪かった」
「もう謝っただろ」
「まあ、そうなんだがな」
ベックが横から笑う。
「こいつ、まだ気にしてんだよ。初対面で喧嘩売ったこと」
「お前もだろ!」
「俺はちゃんと反省してる」
「俺もしてる!」
ドーマが二人を見て肩を落とす。
「どっちも同じだ」
モモが小さく笑い、シモンもわずかに口元を緩めた。
ガルドは一度咳払いする。
「次にヘルガス戻ってきたら、今度は戦うんじゃなくて飲もうぜ」
「飲む?」
「酒だよ」
ルシルは少し考えた。
「俺たち、あんまり飲まないけど」
「じゃあ飯でもいい」
「お菓子でもいいですよ」
モモがすかさず加わる。
「それはお前の希望だろ」
「平和でいいじゃないですか」
周囲で聞いていた冒険者が何人か笑った。
ほんの数日前、彼らは喧嘩を売ってきた相手だった。
それが今では、次に会った時の飯の話をしている。
旅に出る前から「次」ができていくことが、ルシルには何だか嬉しかった。
「じゃあ、またな」
ガルドが手を上げる。
「うん。また」
今度は自然に言えた。
受付では、預けていた低中級素材の査定が終わっていた。
「最終査定額は、七十一金十二銀になります」
「思ったより多いですね」
シモンが帳票へ目を落とす。
「銀狼の毛皮が良好でした。それと魔石も全体的に質が高かったので」
「収納魔法のおかげかな」
「劣化が少ないのでしょう」
受付嬢は少し困ったように笑った。
「ただ、今後もし高位素材を大量にお持ちになる場合は、できれば事前に一報をいただけると助かります」
「やっぱり?」
「今回は本当に解体場が大変でしたので」
奥から響く作業音を聞けば納得できる。
「分かった。次は少しずつ出す」
「ぜひお願いします」
シモンが金貨と銀貨を受け取り、共有資金として収納する。
「それと、素材商のバルガスさんから伝言があります」
「何て?」
「『次に来る時も面白い素材を持ってこい。ただし一度に山ほど出すな』とのことです」
ルシルは思わず笑った。
「後半がかなり重要なんだな」
「だと思います」
受付嬢も苦笑した。
ギルドを出る前、ルシルは建物の中を一度見渡した。
初めて来た時には、シモンの金カードで注目され、素材を出して驚かれ、その後には模擬戦までした。
数日しか経っていない。
それでも、今ではここにも知っている顔がいる。
「また来よう」
「はい」
モモが頷く。
「次はもう少し静かに素材を持ち込みましょう」
シモンが言う。
「俺、そんな騒がせた?」
「少なくとも、秘密にしたい素材名を口にするのはやめてください」
「もう言わないって」
「本当にお願いします」
三人は街道組合へ向かった。
朝の組合は昨日より人が多く、御者や商人たちが壁の地図を囲んでいる。入口近くでは若い職員が道路状況を書いた札を差し替えていた。
ハーグも奥の机にいる。
「お、出る顔だな」
三人を見るなり老人は言った。
「そんな顔あるの?」
「ある。昨日より前を見てる」
「そういうものなんだ」
「そういうもんだ」
ハーグは机に置いていた紙を一枚寄せる。
「橋の続報だ」
シモンの表情が少し引き締まった。
「どうなりました?」
「今朝入った話じゃ、一台ずつならまだ通してる。ただ中央の支えが少し傾いてるらしくてな。大型の荷馬車は止められた」
「普通の二頭立ては?」
「荷が軽けりゃ通すこともある。だが最終的には現地の見張りが決める」
「うちの馬車は少し重い」
ルシルが言う。
「そうだったな」
「でも外へ積む荷物はほとんどない」
「なら、見た目ほどの重さにはならねえだろう。ただし橋は橋だ。現地で止められたら従え」
「もちろん」
ルシルは迷わず答えた。
「閉じてたら迂回する」
「急がねえのか?」
「急ぐ理由ないし」
ハーグは満足そうに頷く。
「それならいい」
「昨日教えてもらった夕日の丘、天気がよければ行くつもり」
「今日なら雲も少ねえ。無理に急がなけりゃ、ちょうど夕方くらいに着けるかもな」
モモの表情が明るくなった。
「楽しみです」
「ただし、景色に夢中で馬の水を忘れるなよ」
「それはシモン君がいます」
「僕へ丸投げしないでください」
「一緒にやります」
「それなら結構です」
ハーグが笑った。
「最初の旅なんて、失敗するもんだ。忘れもんもするし、道も間違える」
「昨日、後輪ぶつけそうになった」
「まだぶつけてねえなら上出来だ」
「モモは速くしすぎた」
「ルシル様!」
「シモンは慎重すぎた」
「僕まで言う必要がありますか?」
老人は声を上げて笑った。
「三人とも違うならちょうどいい。交代しながら覚えろ」
「そうする」
「戻ってくる頃には少し上手くなってりゃ十分だ」
また、戻ってくるという言葉。
今朝から何度も聞いた。
けれど何度聞いても嫌ではなかった。
「ハーグ」
「何だ」
「また来るよ」
老人は少し目を細める。
「その時は、どこまで行ったか聞かせろ」
「海まで行ってるかも」
「途中で一ヶ月くらい寄り道してるかもしれねえぞ」
「それもあり」
「なら話が増えていい」
街道組合を出た後は、市場で不足分だけを買った。
小麦粉。
油。
日持ちのする薄焼きパン。
少量の新鮮な野菜。
馬用の人参。
すでに保存食や旅道具は揃っているため、大掛かりな買い物ではない。
「これ、トルクさん用です」
モモが人参を選ぶ。
「ベルクにもやれよ」
「もちろんです」
「量は僕が確認します」
「シモン君、それ毎回言いますね」
「毎回必要だからです」
市場を歩きながら、ルシルは何度も周囲を見た。
初めて来た時には、どの店も同じように知らない店だった。
今は「あそこで保存食を買った」「あの露店は果物がうまかった」と分かる。
数日で街そのものが変わったわけではない。
変わったのは、自分の中にある街の見え方だった。
だから離れることを惜しいと思うのだろう。
最後に春雫へ向かう。
扉を開けると、蜂蜜と焼き菓子の甘い香りが迎えてくれた。
「あら」
店主が三人に気づく。
「また来てくれたのね」
「今日、街を出るんです」
モモが言った。
「それで旅用のお菓子を買いに」
「そう。なら日持ちする方がいいわね」
店主はすぐ棚からいくつか取り出した。
蜂蜜を練り込んだ固焼き菓子。
砂糖を薄く絡めた木の実。
乾燥果実へ少量の蜜を塗ったもの。
「暑すぎなければ何日か持つわ。収納魔法があるならもっと余裕ね」
「全部ください」
モモが即答する。
「全部?」
シモンが横を見る。
「種類を全部です。量は相談します」
「先にそこまで言ってください」
「成長しました」
「そこは認めます」
店主は笑いながら小分けに包んでいく。
「海を見に行くんだったわよね?」
以前の話を覚えていたらしい。
「はい」
モモの表情が明るくなる。
「私、一度も見たことがないんです」
「海はね、晴れた日はすごく眩しいわよ」
店主は少し遠くを見るような目になった。
「ずっと先まで水なの。端が見えないくらい」
「端が見えない……」
モモの声が小さくなる。
「波の音も大きいし、風も潮の匂いがする。初めて見た時は、世界って広いんだなって思ったわ」
ルシルはモモを見る。
若葉色の瞳が、まだ見たことのない景色を想像するように輝いていた。
「楽しみです」
「行ったら、貝殻でも拾ってきて」
「貝殻?」
「海辺に落ちてるの。小さいのでいいから、もしまたこの街へ来ることがあったら見せてちょうだい」
モモはすぐに頷く。
「はい。持ってきます」
その言葉を聞いたルシルは、なぜか胸が温かくなった。
海へ着く未来と、その後もう一度ヘルガスへ帰ってくる未来。
今までは海だけを見ていた。
けれど旅というものは、目的地へ着いたら終わるわけではないらしい。
行って、戻って、またどこかへ行く。
そんな未来もある。
「忘れないようにしておきましょう」
シモンが言う。
「シモン君が覚えていてくれるなら安心です」
「モモ嬢自身も覚えていてください」
「今またモモ嬢って言いました」
「今日はその話を何度するのですか」
店主が楽しそうに笑った。
「仲がいいのね」
三人は顔を見合わせる。
「まあ」
ルシルが先に答えた。
「旅仲間だから」
モモが微笑み、シモンも否定しなかった。
春雫を出る時、モモは何度も店主へ手を振った。
「また来ます!」
「気をつけてね!」
通りへ出てからも、モモはしばらく店の方を見ている。
「名残惜しい?」
ルシルが聞く。
「少し」
「俺も」
「でも、海へ行ったら貝殻を拾わないといけなくなりました」
「それ、楽しそうじゃん」
「はい。だから戻ってくる理由が一つ増えました」
ルシルはその言葉に笑った。
「戻ってくる理由って、増えていくんだな」
最後にローデン馬車商会へ向かう。
商会の敷地へ入ると、木と油と馬の匂いが混じった空気が迎えた。作業場では職人たちが荷馬車の車輪を外しており、別の場所では若い男が飼葉を運んでいる。
焦げ茶色の馬車は、すでに表へ出されていた。
昨日まで商会の敷地に置かれていた時より、なぜか少し違って見える。
今日から、本当に自分たちの旅の場所になるからだろう。
トルクとベルクも近くにいる。
「トルクさん」
モモが歩幅を少し速める。
「走らないでください」
「走ってません」
「昨日も同じことを言いましたね」
ルシルが笑った。
トルクはモモへ気づくと、すぐ鼻先を向けてくる。
「覚えてます」
「人参の匂いかもしれないぞ」
「どちらでもいいです」
ベルクは少し離れたところから三人を見ていたが、シモンが近づくと耳を動かす。
「おはようございます」
シモンが手を伸ばすと、ベルクは昨日より自然に鼻先を寄せた。
「やっぱり好かれてる」
「もう否定はしません」
「認めた!」
「昨日かなり証拠がありましたから」
そこへガイルが作業場から出てきた。
「来たな」
「最終確認、お願いします」
「その前に渡すもんだ」
予備車輪。
工具箱。
予備金具。
革紐。
補修用の板。
予備の蹄鉄。
「昨日の契約分だ」
「結構あるな」
「旅先で都合よく馬車屋が出てくると思うなよ」
「思ってない」
「なら覚えろ」
そこからは、最低限の補修方法を改めて教わった。
車輪の外し方。
馬車を支える位置。
触れてはいけない場所。
簡易的な固定。
応急処置で済ませてよい範囲と、無理に直そうとしてはいけない故障。
ルシルもモモも実際に工具へ触れ、シモンは手順を簡潔に紙へまとめていく。
「シモンが書いてるから安心」
ルシルが言う。
「安心しすぎないでください。自分でも覚えてください」
「覚えてる」
「では今の固定具の順番は?」
「……先にこっち?」
「違います」
「今覚えた」
ガイルが大きく笑う。
「最初はそんなもんだ」
車軸や車輪の確認も終える。
次に馬具。
最後にトルクとベルクの脚と蹄。
やることは多い。
その一つ一つを終えるたび、出発が近づいてくる。
ルシルは最初こそ早く馬車へ乗りたいと思っていた。
だが途中から、不思議と急ぐ気持ちが薄れていった。
工具を受け取る。
馬具を確かめる。
ガイルの説明を聞く。
モモがトルクへ声を掛ける。
シモンがベルクの脚を確認する。
その時間さえ、今だけのものなのだと思うと、早く終わらせるのが惜しくなる。
「最後に一つ」
ガイルが言った。
「予定より馬を優先しろ」
三人の表情が自然に真面目になる。
「疲れてるなら止まる。食わねえなら様子を見る。脚を気にしてたら走らせない。雨で道が悪いなら無理に距離を稼がない」
「うん」
「急がない旅ですから」
モモが言う。
「それが一番だ」
「川辺で昼寝してもいい?」
ルシルが聞く。
「馬も休ませるならな」
「じゃあいいんだ」
「何でそこを確認した」
「昨日楽しかったから」
ガイルは呆れながらも笑った。
やがて、やることがすべて終わる。
馬車の周りを三人で一周した。
車輪。
軸。
連結部。
窓。
棚。
長椅子。
折り畳み机。
昨日まで商会の商品だったものが、今日からは三人の生活場所になる。
ルシルは御者台へ手を置いた。
「名前、まだ決めなくていいよな」
「昨日もそう言いましたね」
シモンが答える。
「使ってから自然に出てくるかもしれません」
モモも頷く。
「何か思い出ができてからがいいです」
「じゃあその時までなし」
「それでいい」
ガイルも言う。
「無理に決める必要はねえ」
トルクとベルクへ馬具を付ける。
昨日より少しだけ手際がいい。
ルシルは締め方を一度ガイルへ確認し、モモは毛が挟まっていないか丁寧に見て、シモンはベルクの機嫌を確認しながら進める。
連結が終わった。
馬車がいつでも動ける状態になる。
そこで、三人とも一度手が止まった。
これで本当に出発できる。
そう思った瞬間、今までの準備がすべて一つにつながった。
旅道具を買った。
馬車を選んだ。
馬と出会った。
道を調べた。
御者の練習をした。
そして今、出発する。
モモがトルクの首筋へそっと触れる。
「これからよろしくお願いします」
トルクは穏やかに鼻を鳴らした。
シモンもベルクの首へ手を置く。
「無理はさせません。よろしくお願いします」
ベルクは少しだけ顔を寄せた。
ルシルは二頭を交互に見る。
「一緒に行こう」
その言葉を口にした瞬間、ルシルの中で「旅に出る」というものが急に現実になった。
草原へ追い出された時とは違う。
今回は、自分で選んだ仲間と、自分で選んだ馬と、自分で選んだ馬車で、自分で選んだ道へ行く。
だからこそ、胸が高鳴る。
同時に、少し寂しい。
その両方を抱えて出発していいのだと、今なら思える。
「出るなら今くらいがちょうどいい」
ガイルが空を見上げる。
「ラナまでは一日半。今日の夕方、聞いてる丘で野営するなら無理のない距離だ」
「そこへ行く予定」
「なら途中で休憩を入れろ。最初から長く走らせるな」
「分かった」
ルシルは御者台へ足を掛けた。
けれど、乗り込む直前で止まった。
何か足りない気がした。
振り返る。
ガイルが腕を組んで立っている。
その後ろでは、商会の職人たちが仕事をしながらも、時折こちらを気にしている。
ルシルは御者台から一度降りた。
「どうした?」
「いや」
少し考えてから、ガイルの前へ立つ。
「ちゃんと言ってなかったと思って」
「何をだ」
「ありがとう」
ガイルが目を瞬く。
「馬車を売ってもらっただけじゃなくて」
ルシルは焦げ茶色の馬車を見る。
「何も知らない俺たちに、馬のことも、御者のことも、直し方も教えてくれた」
「商売の一部だ」
「それでも」
ルシルは笑った。
「俺にとっては、初めての馬車だから」
ガイルはしばらく何も言わなかった。
それから大きな手で首の後ろを掻く。
「今も知らねえことだらけだぞ」
「うん」
「壊すかもしれねえ」
「できれば壊したくない」
「道に迷うかもしれねえ」
「その時は戻る」
「馬に嫌われるかもしれねえ」
「それは困る」
ガイルの口元が緩む。
「なら十分だ」
彼は馬車の側面を軽く叩いた。
「こいつも、トルクもベルクも、ちゃんと使ってやれ」
「使うっていうより、一緒に旅する」
「そういう奴なら、売った甲斐はある」
モモも一歩前へ出た。
「ガイルさん、ありがとうございました」
「おう」
「次に来た時、トルクさんとベルクさんが元気だったって報告します」
「元気に連れて戻ってこい」
シモンも頭を下げる。
「世話になりました」
「眼鏡の兄ちゃんは、少しくらい力抜けよ」
「……善処します」
「それ絶対やらねえ奴の言い方だな」
ルシルとモモが笑う。
「最近、昼寝するようになりました」
ルシルが言う。
「まだ一度です」
「一度でも進歩です」
モモまで加わる。
「お前ら、出発前に仲間いじってんじゃねえよ」
ガイルも笑った。
その笑いが収まってから、少しだけ静かな時間が流れた。
風が商会の看板を揺らす。
馬が足を踏み替える。
遠くから金槌の音が響く。
ほんの数日前まで知らなかった場所で、ほんの数日前まで知らなかった人たちに見送られようとしている。
ルシルはそれが不思議で、そして嬉しかった。
「また来る」
ルシルが言った。
「おう」
ガイルは短く答える。
「その時は、今よりマシに馬車動かせるようになってろ」
「絶対?」
「それくらいは言え」
「じゃあ、今よりは上手くなって戻る」
「よし」
今度こそ御者台へ上がる。
最初に運転するのは自分だと決めていた。
隣にはシモン。
モモは後ろへ乗り込み、窓を開ける。
ルシルは手綱を持った。
昨日とは感触が違う気がした。
練習の時には、動かすことだけで胸がいっぱいだった。
今は、この手綱の先にトルクとベルクがいて、その後ろに自分たちの馬車があり、その中にはこれからの生活がある。
「準備いい?」
「はい」
モモが答える。
「問題ありません」
シモンも周囲を確認してから頷く。
ルシルはトルクとベルクへ視線を向ける。
「……行こうか」
二頭の耳が動いた。
ここで進めと命じれば、馬車は動く。
ヘルガスを出るための最初の一歩になる。
分かっているのに、ルシルは数呼吸だけ手綱を動かさなかった。
「ルシル様?」
シモンが隣を見る。
「いや」
ルシルは商会の敷地を見渡した。
「ちゃんと見ておこうと思って」
作業場。
車輪。
ガイル。
職人たち。
自分たちが昨日何度も走った練習場所。
「次に来た時、今と同じじゃないかもしれないから」
シモンは少しだけ目を細めた。
「そうですね」
モモも窓から外を見る。
「私も覚えておきます」
誰も急かさなかった。
ガイルも腕を組んだまま待っている。
だからルシルは、数秒だけその景色を胸へ置いた。
それから前を向く。
不思議だった。
後ろをちゃんと見たからこそ、前へ行ける気がした。
「今度こそ」
ルシルは息を吸う。
「行こう」
手綱から合図を送る。
トルクとベルクがゆっくり歩き始めた。
焦げ茶色の馬車の車輪が、商会の土を踏む。
ほんの数歩。
それだけなのに、ルシルの胸が強く鳴った。
昨日の練習では何度も動かした馬車だった。
けれど今は違う。
もう戻って同じ場所へ止めるためではない。
このまま道へ出る。
その事実が、少しずつ身体へ染み込んでくる。
「気をつけろよ!」
ガイルの声が後ろから飛んだ。
「また来い!」
職人たちも手を上げる。
モモが窓から大きく手を振った。
「また来ます!」
ルシルも思わず振り返りそうになるが、隣のシモンがすぐに声を掛ける。
「前を見てください」
「分かってる!」
「御者になって一日で忘れないでください」
「じゃあ声で言う!」
ルシルは前を向いたまま、大きく息を吸った。
「ガイル! またな!」
「おう!」
背中から返事が来る。
それだけで十分だった。
馬車が商会の門を抜ける。
車輪が土から石畳へ乗り、少しだけ硬い振動が御者台へ伝わった。
ヘルガスの通りへ出る。
まだ、街の中だ。
門までは少し距離がある。
だから本当の意味では、まだ旅立っていない。
けれどルシルには、今この瞬間から出発が始まったように感じられた。
いつも歩いていた道を、今日は馬車で進む。
市場の前を通る。
何度も買い物をした店。
青鱗亭へ続く通り。
少し離れたところに春雫の看板。
金の麦穂亭へ向かう道も見える。
ルシルは速度を落としすぎない範囲で、一つ一つ目へ焼きつけた。
「ルシル様」
後ろからモモが声を掛ける。
「何?」
「私、今すごく変な気持ちです」
「どんな?」
「早く街の外へ行きたいのに、もう少し街を見ていたいです」
ルシルは少し笑った。
「俺も」
「矛盾してますね」
「でも、たぶんそれでいいんだ」
隣でシモンが静かに前を見ている。
「寂しいと思える場所ができたのは、悪いことではありません」
ルシルはその言葉に少しだけ目を細めた。
「シモンも寂しい?」
「多少は」
「素直」
「否定する必要がありませんから」
以前なら、「旅程上必要な場所だっただけです」とでも言っていたかもしれない。
そう思うと、ルシルは嬉しくなった。
「じゃあ三人とも同じだ」
「そうみたいですね」
街の南西門が見えてくる。
その姿を認めた途端、胸の奥が少しざわついた。
あそこを越えれば、本当にヘルガスの外だ。
門の前には、出発を待つ荷馬車が数台並んでいる。
商人。
御者。
旅人。
荷を満載した馬車。
家族を乗せた小さな幌馬車。
誰もがそれぞれの目的地へ向かおうとしている。
三人もその列へ加わった。
少しずつ前へ進む。
待っている間、ルシルは街の方へ目を向けた。
ここへ入ってきた時のことを思い出す。
あの時は、自分たちが何日いるのかも知らなかった。
馬車を買うことになるとも思っていなかった。
トルクやベルクと出会うことも。
知らない相手と模擬戦をして、その相手から「また飯を食おう」と言われることも。
宿の女将から「行っといで」と送り出されることも。
何も知らなかった。
旅はたぶん、この先も同じなのだろう。
知らない場所へ行き、知らない人と会い、知らなかったものが少しずつ増えていく。
そう考えると、門の向こうが急に広く見えた。
「次です」
シモンの声で意識を戻す。
馬車を進める。
門兵がこちらへ近づいた。
「旅か?」
「ああ」
「行き先は?」
「まずラナ。その先は南西へ」
「長旅か」
「たぶん」
「たぶん?」
「急いでないから」
門兵は少し笑う。
「なら無理すんな。昨日までの雨で道端がぬかるんでる場所もある」
「ありがとう」
「馬も最初はゆっくりな」
「分かった」
確認が終わる。
前方が開いた。
門の向こうには街道が伸びている。
ルシルはすぐには馬を進めなかった。
ほんの一度だけ、横へ視線を向ける。
後ろを振り返るわけではない。
それでも視界の端には、ヘルガスの建物が残っている。
「行くぞ」
小さく言う。
「はい」
モモが答える。
「お願いします」
シモンの声が続く。
ルシルは一度だけ深く息を吸った。
寂しい。
でも嬉しい。
離れたくないわけではない。
それでも、ここを好きになった。
だからこそ、また来たい。
その全部を抱えたまま、ルシルは手綱を握り直す。
「進め」
トルクとベルクが歩き出した。
焦げ茶色の馬車が、ゆっくりとヘルガスの門を抜けていく。
車輪の下から石畳の硬さが少しずつ消え、やがて土の街道へ変わった。
門を越えた瞬間、何かが劇的に変わるわけではない。
空は同じ。
風も同じ。
背中にはまだ街の音が届いている。
それでもルシルには、世界が少しだけ広がったように感じられた。
「ルシル様」
後ろからモモが声を掛ける。
「何?」
「ヘルガス、まだ見えます」
「うん」
「見たいですか?」
ルシルは一瞬だけ迷った。
けれど御者台にいる以上、今は前を見ていなければならない。
「今はいい」
「いいんですか?」
「うん」
前方の街道を見つめる。
「また戻るから」
言葉にした瞬間、朝から胸の中にあったものが静かに落ち着いた。
後ろを見ないことは、忘れることではない。
前へ進むことは、戻れなくなることでもない。
それは、ルシルにとって初めて知る別れ方だった。
シモンが隣で何も言わず、ほんの少し口元を緩める。
「何?」
「いえ」
「絶対何か思っただろ」
「以前のルシル様なら、そういう言い方はしなかったと思いまして」
「そう?」
「はい」
「変わった?」
「少しずつ」
ルシルは前を見る。
街道はずっと先まで伸びている。
その先には、まだ見たことのない宿場町がある。
村がある。
森林がある。
山がある。
そして、そのずっと先には海がある。
でも今のルシルには、目的地だけが大事ではなかった。
今日の夕方には、ハーグが教えてくれた丘がある。
その途中にも、何かあるかもしれない。
腹が減ったら飯を食う。
トルクとベルクが疲れたら休む。
道を間違えたら戻る。
橋が渡れなければ迂回する。
面白そうな場所を見つけたら寄ってみる。
「モモ」
「はい?」
「海まで、どれくらいかかるかな」
「分かりません」
「シモン?」
「道だけなら計算できますが、僕たちの場合は意味がないでしょうね」
「何で?」
「寄り道するからです」
モモが笑う。
「今日も夕日を見るために止まりますし」
「いいじゃん」
「僕も否定していません」
「じゃあ、本当に何日か分からないな」
「それでいいです」
モモの声は嬉しそうだった。
「私は、長い方が楽しそうです」
ルシルも同じ気持ちだった。
目的地へ着くことだけが旅なら、最短の道を選べばいい。
けれど自分たちは、そういう旅をしたいわけではない。
ヘルガスで教わったのは、馬車の動かし方や街道の名前だけではなかった。
止まってもいい。
寄り道してもいい。
予定を変えてもいい。
戻ってもいい。
そして、一度離れた場所へまた帰ってきてもいい。
風が少し強くなった。
草の匂いが流れてくる。
トルクとベルクは、同じ歩調で街道を進んでいる。
焦げ茶色の馬車の車輪が、一定の音を刻む。
後ろには、また帰ってもいい街。
前には、まだ何も知らない道。
そしてその間にいるのは、もう追放された王子でも、役目を背負った聖女でも、主君のためだけに働く側近でもない。
三人で選んだ馬車に乗り、三人で選んだ道を進む、ただの旅仲間だった。
ルシルは前方に続く街道を見つめながら、ゆっくり笑った。
今度の旅立ちは、何かを失うためのものではない。
大切に思える場所を一つ背中に増やして、次の場所へ向かうための旅立ちだった。




