第12話 最初の野営地まで、まだ半日なのに寄り道が多すぎます
ヘルガスの門を出てからしばらくの間、三人は思っていたより静かだった。
焦げ茶色の馬車は土の街道を一定の速度で進み、車輪が小石を踏むたびに、御者台から座面へ控えめな振動が伝わってくる。左右には低い草地と畑が広がり、その向こうには緩やかな丘陵が重なっていた。朝のうちは薄く残っていた雲も少しずつ切れ始め、空の青さが広がっていく。
ルシルは手綱を握りながら、何度もトルクとベルクの背中を確かめていた。
二頭の歩調は揃っている。
耳の動きも不自然ではない。
昨日ガイルから教わったことを思い出しながら見ているつもりだったが、それでも自分が本当に正しく見られているのかまでは分からない。
「シモン」
「はい」
「今のところ、トルクとベルクは大丈夫そう?」
「僕が見る限りでは問題なさそうです。歩幅も極端に乱れていませんし、呼吸も落ち着いています」
「そっか」
「ただし、まだ出発してそれほど経っていません」
「分かってる」
ルシルは前を向き直った。
昨日までは、馬車を動かすことそのものが楽しかった。
今日は少し違う。
トルクとベルクを疲れさせないようにすること。
道の状態を見ること。
馬車の後輪がどこを通るのか想像すること。
前から来る荷車との距離を考えること。
やらなければならないことが一気に増えた。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
「旅してるなあ」
思わず口から漏れる。
隣のシモンが少しだけこちらを見た。
「まだヘルガスから大して離れていませんが」
「距離じゃないんだよ」
「気分ですか?」
「そう」
後ろからモモの声が飛んでくる。
「私も分かります」
「だよな?」
「はい。窓の外がずっと動いています」
「そこ?」
「大事です」
ルシルが笑う。
「昨日まで街の中だったもんな」
「店がたくさんあって、人もたくさんいて、どこを見ても建物でした。でも今は、見ても見ても草と畑です」
「飽きた?」
「全然です」
モモは窓から顔を出しすぎないよう気をつけながら、遠くの景色を眺めているらしい。
「むしろ、ずっと見ていられます」
「分かる」
ルシルも同じだった。
王城から外の景色を見たことがないわけではない。
移動したこともある。
けれど、今までの移動には目的と時間が決められていた。
到着することが最優先で、途中の景色に気を取られることは、むしろ好ましくないものだった。
今は違う。
どこを見ても、見てはいけない理由がない。
急がなければならない理由もない。
「前を見てください」
シモンの声で、ルシルは慌てて正面へ視線を戻した。
「見てる」
「今、右の畑をかなり長く見ていました」
「……見てた」
「御者が一番景色に夢中になってどうするんですか」
「難しいな、旅」
「難しいというより、役割の問題です」
モモが後ろで笑っている。
「ルシル様、あとで交代したら景色をたくさん見られますよ」
「そうする」
その直後だった。
街道脇の草むらから、小さな茶色の影が飛び出した。
「うわ」
ルシルが一瞬だけ身体を強張らせる。
野兎だった。
細長い耳を揺らしながら道を横切り、反対側の草地へ飛び込んでいく。
「兎!」
ルシルの声が弾む。
「いましたね」
モモも嬉しそうだ。
「普通の兎です」
シモンだけが冷静だった。
「普通だからいいんじゃん」
「御者台で横を見ないでください」
「もう見てない」
「今、かなり見ていました」
「一瞬だって」
「その一瞬で何か起きることもあります」
ルシルは少し口を尖らせたが、言われていること自体は正しい。
「はい」
「素直ですね」
「昨日ガイルにも言われたし」
前を見る。
道には浅い轍がいくつも残っている。
雨の名残で柔らかくなっている場所もあり、乾いた部分との色の差がよく分かった。
ルシルは大きな窪みを避けるよう、少しだけ進路を調整する。
「今のは上手でした」
シモンが言う。
「ほんと?」
「前輪は」
「前輪は?」
「後輪が少し内側へ寄ります」
その言葉が終わるのとほぼ同時に、後ろからゴトンと少し大きな音がした。
「あ」
ルシルの肩が固まる。
馬車そのものが大きく傾くほどではない。
しかし後輪の片方が、避けたはずの窪みの端を踏んだらしい。
モモが後ろから顔を出した。
「今の、ちょっと揺れました」
「分かってる」
「荷物はほとんど収納なので問題ありません」
「それはそうなんだけど」
シモンは笑うでもなく、前方と後輪の位置を交互に確認する。
「昨日よりはいいです」
「慰め?」
「事実です。昨日なら、たぶん窪みの中央へ入っていました」
「それなら成長してるな」
「前向きですね」
「旅だから」
「便利な言葉にしないでください」
それでもルシルは少し気分がよくなった。
失敗してもいい。
次に少し良くなればいい。
その感覚は、王城ではあまりなかったものだった。
しばらく進むと、遠くから別の馬車がやってきた。
幌を張った小型の荷馬車で、御者台には中年の男が一人座っている。荷台の脇からは、木箱と縄で縛られた樽が見えていた。
ルシルは少し緊張した。
「すれ違い、どうすればいい?」
「基本は右へ寄りすぎず、相手との距離を見ながら速度を落としてください」
「分かった」
「路肩はまだ湿っています。草側へ逃げすぎないように」
「了解」
ルシルは速度を少し落とす。
向こうの御者も同じように進路を調整した。
近づいてくる。
道幅には余裕がある。
分かっているのに、初めてのすれ違いというだけで妙に緊張した。
相手の御者が片手を上げる。
「おう!」
「こんにちは!」
ルシルも反射的に返事をした。
「ルシル様、手は上げないでください」
「声だけ!」
「それでいいです」
馬車同士がすれ違う。
荷馬車の車輪が土を踏む音が近くを通り過ぎ、やがて後ろへ遠ざかっていった。
「できた」
「すれ違っただけですよ」
「初めてだぞ」
「そう考えると、まあ」
シモンの口元が少し緩む。
「悪くはありません」
「出た」
「何がです?」
「シモンの『悪くありません』」
「便利な評価です」
「好きな時に使うよな」
「正確なだけです」
後ろからモモが笑った。
「シモン君、それ結構気に入ってる時に言いますよね」
「そんなことはありません」
「あります」
「ありません」
「あります」
「前を見てください、ルシル様」
「俺に逃げた」
「御者の安全確認です」
三人の笑い声が馬車の中に広がる。
街道は穏やかだった。
時折旅人とすれ違い、遠くの農地では人影が見える。
それでも街の中ほど賑やかではなく、風の音と車輪の音がよく聞こえた。
一刻ほど進んだ頃、ルシルはトルクの歩調がほんの少し落ちたように感じた。
「休憩する?」
自分から言うと、シモンが二頭を確認した。
「疲労というほどではなさそうですが、最初ですから早めに休ませるのはいいと思います」
「水も?」
「はい」
少し先に道幅の広がった場所があった。
以前から旅人が休んでいるのか、草が踏み固められている。
ルシルは速度を落として馬車を寄せた。
完全に止まったところで、三人は御者台から降りる。
ガイルに教わった通り、まず二頭の様子を見る。
トルクはすぐにルシルの手へ鼻先を寄せてきた。
「元気そう」
「それだけで判断しないでください」
「分かってるって」
脚。
蹄。
馬具の擦れ。
呼吸。
大きな問題はなさそうだった。
水を与え、少量の飼葉を用意する。
モモはトルクの首筋を撫でながら、嬉しそうに笑っていた。
「自分たちでお世話するの、楽しいです」
「昨日も楽しそうだったもんな」
「はい」
「ベルクも飲んでる」
シモンが少し離れたところでベルクの水を確認している。
ルシルはその姿を見て笑う。
「ほんと仲良くなったな」
「まだそこまでではありません」
そう言いながら、ベルクがシモンの肩へ鼻先を押しつける。
モモがすぐに指を差した。
「今の見ました?」
「見ました」
「ルシル様も?」
「見た」
「……偶然です」
「昨日から何回偶然起きてるんだろうな」
「数えなくて結構です」
三人も水を飲み、女将からもらったパンを一つずつ取り出した。
袋を開けると、朝ほどではないがまだ少し香ばしい匂いが残っている。
「これ、ここで食べるの良くない?」
ルシルが言う。
「昼には早いですが、軽食としてなら」
「賛成です」
モモはすぐに座れる場所を探した。
道端には平たい石がいくつかあり、三人はその近くへ腰を下ろす。
折り畳み椅子を出してもよかったが、ルシルはあえて石を選んだ。
「旅っぽい」
「基準が曖昧ですね」
「でも分かるだろ?」
「少しは」
パンを食べながら、ルシルは空を見上げる。
雲が少ない。
日差しはあるが、風が涼しい。
遠くでは鳥の声が聞こえる。
「今日、夕日見られそうだな」
「天気が崩れなければ」
「楽しみです」
モモがパンを小さくちぎりながら言う。
「海へ行くまで、こういう景色いっぱいあるんでしょうね」
「たぶん」
「全部止まって見てたら、海に着くのかなり遅くなりますね」
ルシルが笑う。
「それでいいじゃん」
「はい」
シモンは二人を見て、小さく息を吐いた。
「最初からそうなる気はしていました」
「嫌?」
「いいえ」
「じゃあ決まり」
「何がです?」
「気になったら止まる」
「安全と時間に問題がなければ、です」
「ほら許可出た」
「条件を省略しないでください」
休憩を終え、再び馬車を走らせる。
今度はルシルも少しずつ余裕が出てきた。
道の窪みを避ける時も、前輪だけでなく後輪の軌道を意識する。
さっきよりはましだ。
完全ではない。
それでも、失敗するたびに身体で分かってくる。
そんな中、道の脇に古びた石柱が見えた。
苔が張り付き、上部が少し欠けている。
「何か書いてある」
モモが窓から覗く。
ルシルはすぐには止めなかった。
まず道の状況を見る。
後ろから馬車は来ていない。
道幅にも余裕がある。
「止まって見てもいい?」
「構いません」
シモンの許可を得て、馬車を脇へ寄せる。
石柱には古い文字が刻まれていた。
「北へ半里、旅人の泉あり」
ルシルが読み上げる。
モモの表情が一気に明るくなった。
「泉」
「行きたい?」
「行きたいです」
聞くまでもなかった。
シモンは石柱の向こうへ続く細い道を見た。
草の間に土の跡があり、完全に使われなくなった道ではないらしい。
「馬車でも通れそうですね」
「じゃあ行ける?」
「ただし道幅が狭いので、速度は落としてください」
「行くってことだな」
「はい」
ルシルは嬉しくなった。
「最初の寄り道だ」
「出発して半日も経ってませんけどね」
「それがいいんじゃん」
細道へ入る。
街道ほど整備されておらず、左右の草が少し馬車へ触れる。
木立も近くなり、葉の隙間から差す光が地面へまだら模様を作っていた。
速度を落とした分、周囲の音がよく聞こえる。
枝が風で擦れる音。
小鳥の声。
どこかで水が流れるようなかすかな音。
「聞こえる」
モモが言った。
「水?」
「たぶん」
少し進むと、木々の間が開けた。
そこに小さな泉があった。
白っぽい石に囲まれた澄んだ水が、地面から湧き出し、細い流れとなって森の奥へ続いている。
周囲には腰ほどの草と、小さな青白い花が点々と咲いていた。
派手な場所ではない。
けれど、ルシルは思わず手綱を緩めた。
「すごい」
「綺麗ですね」
モモの声も少し小さくなる。
シモンはすぐに降り、泉の近くへ向かった。
「水、見てくる」
「俺も」
「馬車は?」
「止めてある」
「念のため、僕が先に確認します」
シモンは泉の水へ手を近づけ、簡単な魔力反応を確かめた。
少しして振り返る。
「問題なさそうです。普通の湧き水ですね」
「普通なのにこんな綺麗なんだ」
「普通だからこそ、でしょう」
ルシルは水辺へしゃがんだ。
底の白い石まで見える。
指を入れると、思ったより冷たかった。
「冷たっ」
モモも真似して水へ触れる。
「気持ちいいです」
「飲める?」
「はい。念のため一度汲んで確認しましたが、問題ありません」
収納魔法には水もある。
それでも三人は、持っている水筒へ泉の水を汲んだ。
「収納にあるのに?」
シモンが聞く。
「こういうところで汲みたくない?」
ルシルが答える。
モモも頷く。
「旅人の泉ですから」
「理屈になっていませんが……」
シモンも最後には自分の水筒を取り出した。
ルシルが笑う。
「シモンも汲むんじゃん」
「せっかくですから」
「好きだな、それ」
「何がです?」
「せっかく」
「便利な言葉です」
「旅ですからと同じ?」
「同列にしないでください」
モモは泉の縁を歩き、小さな青白い花を見つけてしゃがみ込んだ。
「綺麗」
「持ってく?」
ルシルが聞く。
モモは花へ手を伸ばしかけた。
けれど、触れる直前で止める。
「やめます」
「いいの?」
「はい」
モモは少しだけ笑う。
「ここにある方が綺麗です」
ルシルはその言葉に少しだけ目を細めた。
持っていかなくてもいい。
見たことを覚えていればいい。
それも、旅なのかもしれない。
「俺、こういうの好きかも」
「泉ですか?」
「いや」
ルシルは周囲を見る。
「何でもない場所」
モモも立ち上がり、同じように木々と泉を見た。
「分かります」
「王城にいた時、こういう場所知ってても、たぶんわざわざ来なかったと思う」
「私もです。神殿にいた頃なら、目的がなければ来ませんでした」
「でも今は?」
「来てよかったです」
それだけで十分だった。
シモンは二人の会話を聞きながら、泉の水をもう一口飲んだ。
「小さいものほど、目的がないと見落とすのかもしれませんね」
ルシルが振り返る。
「シモンもそう思う?」
「少しは」
「また少し」
「全部同意すると調子に乗るでしょう」
「もう乗ってる」
「でしょうね」
三人はしばらく泉のそばで休んだ。
大きな出来事は何もない。
魔物も出ない。
事件も起きない。
それでも、離れる時には少し惜しいと思った。
「また来るかな」
モモが言う。
「分からない」
ルシルは正直に答えた。
「でも、道覚えてたら来られる」
「では、覚えておきましょう」
シモンが地図へ小さく印を付ける。
「旅人の泉」
モモが嬉しそうに読み上げた。
街道へ戻ると、昼が近づいていた。
少し進んだ先に、屋根付きの休憩所が見える。
低い木造の屋根と、馬を繋ぐための横木、井戸、小さな机がいくつか置かれていた。
「ここで昼にする?」
「ちょうどいいですね」
すでに先客が一組いた。
年配の男女だ。
男は白髪混じりの髭を蓄え、女は灰色の髪を後ろでまとめている。
二人のそばには小型の馬車があり、荷物はそれほど多くない。
三人が馬車を止めると、老人がこちらへ軽く手を上げた。
「若いのに立派な馬車だな」
「買ったばっかり」
ルシルが答える。
「そうか。なら旅も始めたばかりか」
「分かる?」
「顔で分かる」
「今日二回目だ」
「何が?」
「出発した顔って言われた」
老人は声を上げて笑った。
「そりゃ分かるさ。最初の旅は全部珍しく見える」
「今のところ、その通り」
三人は馬の水と簡単な確認を先に済ませる。
それから折り畳み椅子を出した。
屋根の下には備え付けの長椅子もあったが、モモが「せっかく持ってきたので」と言ったからだ。
「椅子あるのに?」
ルシルが聞く。
「旅道具を使う練習です」
「なるほど」
「モモ嬢、今それらしい理由を後付けしましたね」
「気のせいです」
昼食は簡単にした。
硬めのパン。
干し肉。
市場で買った新鮮な野菜。
泉で汲んだばかりの水。
「さっきの水だ」
ルシルが水筒を持ち上げる。
「味、違います?」
モモが聞く。
「……冷たい」
「それは分かります」
「でも、何か美味い気がする」
「気分の影響でしょう」
「それでもいいじゃん」
年配の夫婦が少し離れた場所から、そんな三人を見て笑っていた。
「楽しそうだねえ」
女性が声を掛ける。
「楽しいです」
モモが素直に答える。
「どこまで行くの?」
「海まで」
ルシルが言う。
「でも急いでない」
「いいねえ」
老人が頷いた。
「若い頃は、俺たちもそうだった」
「旅してたの?」
「今もしてるさ」
男は笑う。
「昔より遅くなったけどな」
女も微笑む。
「若い頃は、道端の変な石一つ見つけても止まってたわ」
「石?」
「妙な形してるとか、色が変わってるとか。それだけ」
ルシルは少し嬉しくなる。
「俺たち今日、泉寄った」
「いいじゃない」
「道の横に看板あって、半里入ったところ」
「ああ、旅人の泉か」
「知ってる?」
「何度か行ったことある」
老人がパンをちぎりながら言う。
「昔は、そこへ行くだけで半日使ったこともあったな」
「それ、旅になってる?」
ルシルが聞くと、老人はしばらく笑った。
「なってるさ」
「目的地に着かなくても?」
「別に着かなくてもいい」
その答えがあまりに当然そうで、ルシルは少し黙った。
「旅ってのはな」
老人は遠くの街道へ目を向ける。
「進み続けることだけじゃねえよ。止まるのも、戻るのも、どこかに住むのも、そのあとまた出るのも旅だ」
女が隣で頷く。
「私たち、三年くらい同じ町に住んでたこともあるの」
「それでも旅?」
「ええ」
「また出たから?」
「それもあるけど」
女性は少し考えてから笑った。
「今思えば、その三年も途中だったのよ」
ルシルは朝から何度も考えていたことを思い出す。
戻ってもいい。
離れても終わりではない。
ここでも似た話を聞くとは思わなかった。
老人が肩をすくめる。
「何度戻っても、また出りゃ旅だ」
ルシルはその言葉を胸の中で繰り返した。
「それ、いいな」
「そうか?」
「うん」
海へ着いたら終わりではない。
ヘルガスへ戻ることもできる。
また別の場所へ行くこともできる。
そう考えると、旅は思っていたよりずっと長い。
モモも同じようなことを考えていたらしい。
「じゃあ、海を見たあとも旅できますね」
「もちろん」
女が笑う。
「海の向こうへ行ったっていいし、帰ってきてもいい」
「楽しそうです」
シモンは少し離れたところで静かに話を聞いていた。
老人がその様子に気づく。
「眼鏡の兄ちゃんはどうだ?」
「何がです?」
「旅」
シモンは一瞬だけ黙った。
ルシルもモモも、何も言わず彼を見る。
昨日までなら、何か理屈を先に出したかもしれない。
けれど今のシモンは、少しだけ考えたあとで答えた。
「楽しいです」
モモの目が少し大きくなる。
ルシルも思わず笑った。
「素直」
「何ですか、その反応は」
「いや、嬉しくて」
「昨日も言いましたが、旅の方がいいと」
「それとこれは違うだろ」
「どう違うのです?」
「今の方が普通に『楽しい』って言った」
シモンは少しだけ視線を逸らした。
「……実際そうですから」
その返事に、年配の夫婦が温かく笑った。
「ならいい旅になる」
老人が言う。
「行き先より、一緒にいる奴と楽しい方が大事なこともある」
ルシルはそれ以上何も言わなかった。
ただ、少しだけ胸が温かくなった。
昼食を終え、出発の準備をする。
別れ際、老夫婦はこの先の話も少し教えてくれた。
「グレイより西へ行くなら、山へ入る前に花谷って場所がある」
「花谷?」
「時期が合えば、斜面一面に花が咲く」
モモがすぐ反応する。
「行きたいです」
「まだかなり先です」
シモンが言う。
「でも候補には入れよう」
ルシルも乗る。
「寄り道候補が増えましたね」
「いいじゃん」
「否定していません」
老夫婦と別れ、今度はモモが御者台へ座った。
シモンが隣につく。
ルシルは後ろで休む。
「任せた」
「はい」
「速くしすぎるなよ」
「昨日一回言われただけです」
「一回でも言われた」
「ルシル様は後輪を窪みに入れました」
「端だけ」
「二人とも、出発前に喧嘩しないでください」
シモンが間へ入る。
「喧嘩じゃない」
「競ってるだけです」
「もっと悪い気がします」
馬車が動き出す。
モモの運転は、昨日より落ち着いていた。
手綱の扱いも柔らかい。
それでも時々、道が開けると速度を上げたそうな気配がある。
「モモ嬢」
「まだ何もしてません」
「する前に言っています」
「シモン君、先読みしますね」
「昨日見ましたから」
ルシルは後ろの長椅子へ身体を預けた。
窓から景色が流れていく。
自分が御者台にいる時とは違い、好きなだけ横を見ていられる。
「いいな、これ」
「何がです?」
モモが前を向いたまま聞く。
「景色」
「でしょう?」
「運転も楽しいけど、乗ってるのもいい」
「交代制で正解でしたね」
シモンが言う。
ルシルは窓枠へ肘を置き、外を眺めた。
草原。
低い林。
遠くの丘。
ときどき小さな鳥。
似た景色が続いているはずなのに、不思議と飽きない。
風に揺れる草の向き。
雲の形。
土の色。
場所ごとに少しずつ違う。
気づけばまぶたが重くなっていた。
「眠い」
「寝ていいですよ」
モモが言う。
「いいの?」
「昨日シモン君も寝ました」
「僕を基準にしないでください」
「でも旅では休むんだろ?」
「休める時に休むのは合理的です」
「じゃあ寝る」
ルシルは長椅子へ横になった。
車輪の音。
馬の蹄の音。
モモとシモンが時折交わす声。
その全部が遠くなっていく。
次に目を開けた時、光の色が少し変わっていた。
「……寝てた?」
起き上がると、モモが笑う。
「かなり」
「どれくらい?」
「一時間くらいです」
「そんなに?」
「気持ちよさそうでした」
シモンが前を向いたまま付け加える。
「少しだけ寝息が大きかったです」
「え」
「大丈夫です。いびきと言うほどではありません」
「言わなくていい」
モモが笑いを堪えている。
「笑ってるじゃん」
「少しだけです」
「シモンも笑ってる?」
「僕は前を見ています」
「口元見えない」
「なら確認しなくていいでしょう」
ルシルは身体を伸ばしながら窓の外を見た。
太陽は西へ傾き始めている。
影が少し長くなっていた。
「丘、そろそろ?」
「あとそれほど遠くありません」
シモンが地図を確認する。
「ハーグさんの説明が正しければ、この先で街道から少し北へ入ります」
「夕日に間に合う?」
「余裕があります」
ルシルの眠気が一気に飛んだ。
「じゃあ俺運転する」
「さっき起きたばかりですよ」
「目覚めた」
「本当に?」
「完全に」
休憩を兼ねて一度止まり、御者を交代する。
トルクとベルクにも水を与え、脚を確認した。
問題はない。
ルシルは御者台へ座る。
今度はモモが後ろへ。
シモンは引き続き隣だ。
少し進むと、ハーグに教わった分かれ道が見えてきた。
街道から北へ向かう緩い坂道。
道幅は馬車一台分より少し広い。
上の方には草の多い丘が見える。
「あれかな」
「おそらく」
登り始める。
坂は急ではない。
それでも平地よりトルクとベルクの歩みが少し重くなる。
ルシルは急かさないよう、手綱へ余計な力を入れない。
「頑張れ、二人とも」
馬へ声を掛ける。
「速度はこれくらいで十分です」
シモンが言う。
「分かってる」
昨日の自分なら、もう少し速く進みたくなっていたかもしれない。
今は違う。
夕日は逃げない。
少し遅れたところで、大した問題ではない。
トルクとベルクの歩調に合わせて進む。
やがて坂が緩くなる。
丘の上へ出た。
「うわ……」
ルシルは思わず声を漏らした。
西側の視界が大きく開けている。
遠くまで続く平原。
その向こうへ沈み始めた太陽。
空はまだ青さを残しているのに、地平線近くは橙色へ染まり、その間に薄い金色が混ざっていた。
草の穂も光を受け、風が吹くたび波のように揺れる。
「綺麗……」
モモが後ろから降りてきた。
シモンも御者台から降りる。
三人とも、しばらく言葉が出なかった。
ルシルは馬車を安全な場所へ寄せ、トルクとベルクの状態を確認してから、丘の西側へ歩いた。
遠くにヘルガスが見える。
もう建物一つ一つは分からない。
ただ、小さな街のまとまりとして地平の一角に残っている。
「あれ、ヘルガスですよね」
モモが指を差す。
「たぶん」
「小さくなりましたね」
「うん」
朝、街の中から出た時とは全然違う。
もう戻ろうと思っても、歩いてすぐという距離ではない。
それでも、不安はなかった。
「また行ける」
ルシルが言う。
「はい」
モモが頷く。
シモンも横で静かに景色を見ている。
「シモン」
「何でしょう」
「これ、寄り道してよかった?」
シモンはすぐには答えなかった。
夕日の光が黒縁眼鏡へ反射する。
「はい」
少しだけ笑う。
「これは、かなり悪くありません」
「かなり付いた」
「珍しいですね」
モモも笑った。
「僕だって綺麗なものは綺麗だと思います」
「じゃあ、またこういうところ探そう」
「安全と旅程に問題がなければ」
「もう分かってる」
ルシルは空を見る。
実用的な意味はない。
この丘へ登ったからといって、目的地へ近づくわけではない。
金が増えるわけでもない。
強くなるわけでもない。
何かを解決したわけでもない。
ただ、夕日を見るために来た。
それだけだ。
なのに、今日一日で一番心に残る景色になる気がした。
「こういうのが旅なら」
ルシルはゆっくり言う。
「かなりいいな」
「まだ一日目です」
シモンが答える。
「だからいいんじゃん」
「先が長そうです」
「長い方がいいってモモも言ってた」
「はい」
モモは夕日を見たまま笑う。
「長い方がいいです」
風が吹いた。
三人の外套が揺れる。
丘の後ろには、ハーグが教えてくれた通り、比較的平らな場所が広がっている。
そこなら馬車も止めやすい。
少し下れば小さな流れもある。
「今日はここで泊まるんだな」
ルシルが言う。
「はい」
「初めての野営です」
モモの声が少し弾む。
「夕飯も自分たちで作るんだよな」
「その予定です」
シモンが頷く。
「まず馬の世話と、野営地の確認からですが」
「分かってる」
「テントも張りますよね?」
モモが聞く。
「張る」
ルシルは即答した。
「馬車で寝られるけど、最初だからやりたい」
「練習としても必要ですね」
「じゃあ決まり」
三人はもう一度夕日を見る。
太陽は少しずつ地平へ近づいている。
今日一日だけでも、すでにいくつもの寄り道をした。
野兎を見て。
泉へ行って。
知らない旅人と話して。
昼寝をして。
そして今、夕日を見るために丘へ登っている。
最初の野営地へ着くまで、ただ街道を進めばもっと早かったはずだ。
でも、ルシルには今の方がずっといいと思えた。
急いで着くことより、途中で何を見たかの方が大切な日もあるらしい。
太陽の下端が地平線へ触れる。
モモが小さく息を呑む。
シモンも何も言わない。
ルシルも言葉を探さなかった。
三人で同じ景色を見ている。
今はそれだけで十分だった。
やがて太陽がゆっくり沈み、空の橙色が濃くなる。
丘の上へ夕暮れの冷たい風が混じり始めた。
「そろそろ準備しないと」
シモンが言う。
「うん」
ルシルは名残惜しそうに夕空を見る。
「でも、また見られるよな」
「同じ景色は二度とないかもしれません」
シモンが答える。
「でも、別の夕日は見られます」
モモが続けた。
ルシルは少し考えてから笑った。
「それもいいな」
三人は馬車の方へ戻る。
今夜は、旅に出て初めての野営になる。
テントを張る。
トルクとベルクを休ませる。
自分たちで火を起こし、自分たちで夕飯を作る。
たぶん、失敗もする。
けれど、それすら今は少し楽しみだった。
焦げ茶色の馬車の向こうで、最後の夕日が丘を赤く染めている。
ヘルガスを出てから、まだ一日も経っていない。
それなのにルシルは、もう昨日までとは違う道の上にいる気がしていた。
最初の野営地へ着くまで、まだ半日もなかったはずなのに。
寄り道だけで、今日という一日はずいぶん長く、豊かになっていた。




