第13話 初めての野営は、思っていたよりずっと忙しい
夕日が地平線の向こうへ沈みきると、丘の上に残っていた橙色の光も少しずつ薄くなっていった。
昼間は遠くまで見渡せた平原も、今は輪郭を柔らかく失い始めている。西の空にはまだ赤みが残っているものの、東側ではすでに青紫の色が濃くなり、草の間を抜ける風にも昼間とは違う冷たさが混じっていた。
「……綺麗でしたね」
モモはまだ名残惜しそうに西の空を見つめていた。桃金色の髪が風に揺れるたび、夕暮れの残光をかすかに拾っている。
「うん。また、こういう場所を見つけたいな」
「見つけましょう。海へ着くまでに、きっとまだたくさんありますよ」
二人がしばらく景色を眺めている横で、シモンは空の色を確かめ、それから馬車の後ろへ広がる平坦な草地へ目を移した。
「余韻に浸るのは構いませんが、完全に暗くなる前に野営の準備を始めましょう。今日は初めてですから、慣れている時より何をするにも時間がかかります」
「やっぱりシモンならそう言うと思った。でも今日は俺も分かってる。夕日はちゃんと見たし、次は今夜寝る場所だな」
ルシルはもう一度だけ西の空へ目を向け、それから自分から馬車の方へ歩き始めた。
不思議と、先ほどまでの名残惜しさはそれほど強く残っていなかった。
見たいと思った景色を、自分たちの意思で馬車を止めて見た。
急かされることもなく、途中で切り上げさせられることもなく、満足するまで眺めた。
それなら、次へ進んでもいいと思える。
「まず何からする?」
馬車の脇まで戻ったルシルが尋ねると、シモンはすぐに荷物を取り出すのではなく、周囲をゆっくり見回した。
「最初は野営場所そのものの確認です。ハーグさんが勧めてくれた場所ではありますが、以前と同じ状態とは限りません。地面の傾きや水が溜まりそうな場所、大きな獣や魔物の痕跡、それから馬車を安全に置ける位置を見ます」
「テントを先に張るんじゃないんですね」
モモが少し意外そうに言うと、シモンは彼女とルシルを交互に見た。
「お二人とも、今すぐ張りたい顔をしていますが、順番があります」
「そんなに分かりやすい?」
「かなり」
即答され、ルシルは苦笑する。
モモも否定しきれないらしく、「私も少し楽しみにしていました」と素直に白状した。
「周囲を見終えたら張りましょう。日が完全に落ちる前には十分間に合います」
「じゃあ先にちゃんと確認しよう。せっかくの初野営で、寝てから地面が水浸しになるとか嫌だし」
「その理解で結構です」
三人は馬車から少し離れ、野営地の周辺を歩き始めた。
丘の裏側は表より風が弱く、低い草が一面に生えている。少し下った先には、ハーグが教えてくれた細い水の流れがあり、その周辺だけ草の色が濃かった。
ルシルはしゃがみ込み、掌を地面へ押し当てる。
「ここは乾いてるな。少なくとも表面は固い」
「昨日まで雨が降っていたそうですから、低くなっている場所はまだ柔らかいかもしれません。表面だけでなく、踏んだ時の沈み方も見た方がいいですね」
シモンの言葉を受け、ルシルは立ち上がって何度か足を踏み込んでみた。
強く沈み込む感覚はない。
一方、少し先まで歩いたモモは、地面がわずかに窪んだ場所を見つけて足を止めた。
「こっちは少し湿っています。草も周りより濃い気がします」
シモンも近づき、しゃがんで土の様子を確認する。
「雨が降ると水が集まりやすいのでしょう。今夜の天気が崩れなくても、わざわざここを選ぶ必要はありません。もう少し高い場所にしましょう」
「なるほどな。平らならどこでもいいってわけじゃないんだ」
ルシルは周囲の地形を改めて眺めた。
王城にいた頃なら、野営地を選ぶのは当然ほかの誰かの仕事だった。
護衛や従者が先に確認し、整えられた場所へ自分が入るだけ。
今は、自分で見る。
どこなら馬を休ませられるのか。
どこへ馬車を止めるのか。
どこなら安心して眠れるのか。
知らないことばかりなのに、その一つ一つを覚えるのが妙に楽しかった。
「獣の足跡は?」
ルシルが尋ねると、シモンは草の間に残る小さな跡を示した。
「小型のものはいくつかあります。兎か、それに近い大きさの獣でしょう。大型魔物が頻繁に出入りしたような痕跡はありません」
「それでも魔物が絶対に来ないわけではないんですよね?」
モモが少し声を低くする。
「はい。ただ、この辺りは街道から遠くありませんから、必要以上に警戒するほどではないと思います。強い結界を張るより、簡単な感知術式を周囲へ置いておく程度で十分でしょう」
ルシルはその説明を聞き、少し安心したように肩の力を抜いた。
「じゃあ、夜中ずっと交代で見張らなくてもいいんだな。初めての野営で徹夜は、さすがにちょっと嫌だった」
「僕も好きで徹夜したいわけではありませんよ」
シモンが呆れたように答えると、ルシルは彼を見て目を細めた。
「でも王城では普通にやってそうだった」
「必要ならしていましたが、それと好んでいるかは別です。今日は見張りを続ける必要がありませんから、ちゃんと寝ます」
その言葉に、ルシルとモモがほとんど同時にシモンを見る。
「何ですか、その顔は」
「いや、自分からちゃんと寝るって言ったなと思って」
「シモン君、かなり旅人らしくなってきましたね」
「二人とも、僕の休息を成長記録のように扱うのはやめてもらえませんか」
困ったような声ではあったが、以前のように「休む必要はありません」と否定しない。
ルシルはそれ以上からかわず、ただ少し嬉しくなった。
周囲の確認を終えた三人は馬車へ戻った。
次はトルクとベルクだ。
まず馬車そのものを、より平らで地面の固い場所へ移動させることになった。ルシルが御者台へ戻り、シモンが外から車輪の位置を見ながら誘導する。
「もう少し左へ寄せてください。そのままゆっくり……はい、そこです。これ以上行くと後輪が柔らかい場所へ入ります」
ルシルは手綱から停止の合図を送り、トルクとベルクが落ち着いて止まったことを確かめてから御者台を降りた。
すぐに馬車の後ろへ回り、後輪の位置を確認する。
「ちゃんと固いところに乗ってる。さっき街道で窪みの端を踏んだ時より、少し上手くなってない?」
「今は僕が外から誘導しましたから、全部ルシル様の技術というわけではありませんよ」
「でもちゃんと止めた」
「それはそうですね。昨日より余裕もありますし、少しずつ慣れてはいます」
シモンが素直に認めると、ルシルは満足そうに笑った。
「それで十分。最初から上手い必要ないってガイルも言ってたしな」
次に馬具を外す。
昨日習った順番を思い出しながら、ルシルはトルク、シモンはベルクを担当し、モモは外した馬具が地面で絡まないよう受け取ってまとめていく。
「ここを緩めてから腹帯だったよな?」
「はい。一気に外そうとせず、トルクの様子も見ながらで大丈夫です」
「覚えてた。昨日よりは早い」
ルシルが少し誇らしげに言うと、モモも馬具を抱えながら笑った。
「本当に昨日より自然ですよ。最初に触った時は、ルシル様もかなり緊張していましたから」
「今も少しは緊張してるけどな。蹴られるのが怖いっていうより、変なことしてトルクを驚かせるのが嫌なんだよ」
「その感覚なら忘れない方がいいと思います」
シモンはベルクの腹帯を外しながら静かに答えた。
昨日ガイルにも似たことを言われた。
自分が頑丈かどうかは関係ない。
馬へ無理をさせないこと。
その考え方は、ルシルの中に思った以上に深く残っていた。
馬具を外した後は、二頭の脚と蹄を確認する。
街を出てからまだ一日目だが、路面は石畳から土や小石へ変わっている。蹄には少し泥もついていた。
「トルク、ちょっと足見せてくれ」
声を掛けながらルシルが脚へ触れると、トルクは昨日より素直に蹄を持ち上げた。
「おお、ありがとう。ちゃんと覚えてくれてるのかな」
「もともと人に触られるのに慣れているのでしょう。でも、ルシル様の触り方にも慣れ始めているかもしれませんね」
シモンの言葉に、ルシルの顔が明るくなる。
「それなら嬉しいな」
モモはその隣へしゃがみ込み、邪魔にならない距離から蹄を覗き込んだ。
「石は入っていませんか?」
「大きいのはない。泥を少し取れば大丈夫そう」
「ベルクも似たようなものです」
少し離れた場所で確認していたシモンが答える。
ベルクは大人しく脚を預けていたが、ときどき首を曲げてシモンの方を見ている。
それに気づいたモモが、楽しそうに頬を緩めた。
「ベルクさん、ずっとシモン君のことを見ていますね。ちゃんとお世話できているか確認しているみたいです」
「そこまで人間的な意味を持たせなくてもいいでしょう」
シモンはそう言ったものの、ベルクの脚を下ろすと自然に首筋へ手を伸ばした。
「少なくとも、触られるのを嫌がってはいないようです」
「もう『偶然です』って言わないんだな」
ルシルが笑う。
「毎回言っていても意味がないと学びました」
「そこも成長ですね」
「モモ嬢まで言わなくていいです」
三人の声が夕暮れの草地へ柔らかく広がった。
脚と蹄の確認を終えると、水と飼葉を用意する。
モモは収納から人参を一本取り出し、シモンへ確認するように見せた。
「昨日と同じくらいなら、少しあげても大丈夫ですよね?」
「はい。一度に多く与えなければ問題ありません。トルクだけに偏らないように、ベルクにも同じくらいを」
「もちろんです」
モモは人参を小さく折り、まずトルクへ差し出した。
トルクは迷いもなく口へ入れ、もっとないかとでも言うように鼻先を寄せてくる。
「美味しかったみたいです」
「どうして分かるんだ?」
「もっとくださいという顔をしています」
「俺にはいつもの顔に見える」
「違います」
妙に自信たっぷりのモモに、ルシルは笑った。
ベルクにも同じ量を渡す。
ベルクは人参へ鼻先を近づけたあと、一度だけシモンの方へ顔を向けた。
「ほら、また見ました」
「別に僕へ許可を求めているわけではありませんよ。ただこちらへ意識を向けただけです」
そう説明するシモンの口元が、ごくわずかに緩んでいる。
ルシルはそれを指摘しようとして、やめた。
今は黙っていた方がいい。
ベルクとシモンの間に少しずつ何かができていくのを見るのも、旅の楽しみの一つになりそうだった。
二頭の世話が一通り終わった頃には、空の明るさがさらに薄くなっていた。
そして、いよいよルシルが待ち望んでいた時間になる。
「よし。テントだ」
声が明らかに弾んだ。
シモンが収納から三人用のテント一式を取り出す。
地面へ敷く布。
支柱。
杭。
ロープ。
買った時には畳まれた状態しか見ていなかったため、三人とも実際に組み立てるのは初めてだった。
「広げると結構大きいな。馬車でも三人で寝られるけど、これなら中も思ったより余裕ありそうだ」
「荷物をほとんど収納へ入れられるのが大きいですね。普通なら三人分の荷物を置く場所も必要ですから」
モモも布の端を持ち上げる。
「今日、せっかく張るならテントで寝たいです。馬車も楽しみですけど、最初の野営なので一度やってみたいです」
「俺もそのつもり。シモンは?」
「設営練習の意味もありますし、張った以上は使ってみましょう。寝心地や必要な改善点も分かります」
「よし、三人とも決まりだな」
さっそく地面へ布を広げたところで、最初の問題が起きた。
ルシルは一方の端を持ち、モモも反対側を伸ばしているのだが、どう見ても形がおかしい。
「これ、入口どっちだ?」
「こちらの印がある側だと思いますが……」
シモンは説明書きを確認し、それからモモの手元を見て眉を寄せた。
「モモ嬢、そちら側だけ布が裏返っています。途中で一度捻ったようですね」
「え?」
モモが自分の手元から中央まで視線をたどり、ようやく気づく。
「本当です。いつ捻ったんでしょう」
「広げた時じゃない?」
「私にも分かりません」
ルシルは歪んだ布を見て、思わず吹き出した。
「まだテント張る前なのにもうやり直しだ」
「ルシル様も入口がどちらか分かっていなかったので、同じです」
「それはそう」
誰か一人が失敗したというより、三人ともよく分かっていない。
その事実が妙に可笑しかった。
いったん全部戻して、もう一度広げ直す。
今度は正しい向きになった。
「これでいいな」
「はい。入口は馬車側へ向けます。ただ風がこちらから流れているので、真正面ではなく少し角度をつけた方がいいでしょう」
「なるほど。寝る時まで風が入ってきたら寒いもんな」
「今は穏やかですが、夜中に強くなる可能性もあります」
支柱を組み立てる。
ルシルは接続部分を見ながら、力を入れて押し込もうとした。
しかし途中で止まる。
「これ、結構固いな」
隣で見ていたシモンが手元を覗き込んだ。
「ルシル様、それは向きが逆です。力を入れて押し込むものではありません」
「え?」
指摘された通り反対へ向けると、ほとんど抵抗もなく入った。
ルシルはしばらく支柱を見つめる。
「……道具って、力があっても関係ないこと多いな」
「むしろ無理に力を掛けると壊しますよ。剣だって力任せでは扱えないでしょう」
「それはそうだけど、テントと剣で同じこと言われると思わなかった」
モモが口元へ手を当てて笑う。
「でも分かりやすかったです。ルシル様、今ので完全に納得した顔をしていました」
「俺も言われて思った。道具ごとの扱い方を覚える方が大事なんだな」
次は杭だった。
ルシルは手斧の背を使って最初の一本を打ち込む。
最初の一打はよかった。
二打目。
三打目。
少し楽しくなり、力が入る。
気づいた時には、杭の頭が地面すれすれまで沈んでいた。
三人の視線がそこへ集まる。
「……しっかり入りましたね」
モモが慎重に言う。
「入りすぎです」
シモンは即座に訂正した。
ルシルはしゃがみ込み、杭をつまもうとする。
「抜けるかな」
力を入れる。
びくともしない。
「……かなり頑丈」
「それを頑丈とは言いません。今夜撤収するわけではありませんが、明日の朝抜けなくなりますよ」
「じゃあ今のうちにやり直す」
三人で周囲の土を少し緩め、ようやく杭を引き抜く。
ルシルは二本目を手に取ると、今度は慎重に構えた。
先ほどの反省を生かし、かなり軽く打つ。
一度。
二度。
「それでは浅すぎます」
シモンが言った。
「さっき入りすぎって言ったじゃん」
「ちょうどよくしてください」
「その『ちょうどよく』が一番難しいんだよ」
ルシルが真剣な顔で杭を見つめていると、モモが「私もやってみてもいいですか」と手を出した。
手斧を渡す。
モモは杭の頭を確かめながら、一定の強さで何度か叩いた。
ほどよい深さで止まる。
「できました」
「何で?」
「普通に叩いただけですが……」
「俺も普通にやったつもりだった」
「最初は地面の中まで埋めかけて、二回目はほとんど置いただけでしたよ」
シモンが淡々と言う。
「極端なんだな、俺」
「魔力や身体能力が高い分、細かな力加減を意識しないとそうなりやすいのでしょう」
シモンはそう分析したあと、ほんの少し横を向いた。
肩が揺れている。
「今笑った?」
「笑っていません」
ルシルがすぐに追及すると、モモが素直に告げる。
「少し笑っていました」
「モモ嬢、なぜそこで僕を売るのですか」
「事実だからです」
三人で笑いながら残りの杭を打っていく。
ロープを張り、支柱を固定し、布を持ち上げる。
途中ではモモが足元のロープへ引っ掛かりそうになり、身体を傾けた。
すぐ近くにいたルシルが腕を伸ばし、肩と肘を支える。
「危ない。大丈夫?」
「はい。ありがとうございます」
モモは姿勢を戻し、少し恥ずかしそうに足元を確認した。
「テントって、思っていたより見るところが多いですね。布と棒を組み立てれば終わりだと思っていました」
「俺も。見てる時はもっと簡単そうだった」
「僕も理屈としては知っていましたが、自分でこの形式のテントを三人で張るのは初めてです」
その言葉に、ルシルが支柱から顔を上げた。
「シモンも初めてなんだ?」
「まったく野営経験がないわけではありません。ただ、王城にいた頃は設営そのものを担当する立場ではありませんでしたから」
「じゃあ今回は、三人ともほとんど同じところから覚えてるんだな」
ルシルの声には、どこか嬉しそうな響きがあった。
シモンが不思議そうに見る。
「それが嬉しいのですか?」
「うん。誰か一人だけ全部できて、その人の後ろについていくんじゃなくてさ。三人で失敗しながら覚えてる感じがする」
モモはその言葉を聞くと、支柱を押さえていた手を少し緩め、柔らかく笑った。
「私も好きです。できないことがあっても、今なら恥ずかしいと思わなくていいので」
かつて聖女だった彼女なら、「知らない」「できない」と言うことにも周囲の目があったのかもしれない。
ルシルはそこまで口にはしなかったが、モモの表情を見れば十分だった。
シモンも少し間を置いてから頷く。
「……そういう意味なら、確かに悪くありませんね」
「出たな」
「何がです?」
「シモンがかなり気に入ってる時の『悪くありません』」
「勝手に意味を付けないでください」
否定するシモンの声も、どこか柔らかかった。
時間はかかったが、やがてテントが形になった。
三人は少し離れた場所まで歩き、並んで眺める。
完全ではない。
入口側の片方がわずかに低く、ロープの張り具合にも少し差がある。
それでも、ちゃんと立っている。
「……いいじゃん」
ルシルは満足そうに腕を組んだ。
「右側が少し下がっていますが、初回としては十分でしょう。今夜雨が降る予報もありませんし、危険なほどの歪みではありません」
「じゃあ成功だな」
「成功です」
モモも嬉しそうに頷く。
「初めて自分たちで張ったテントです」
その言葉だけで、少しくらい歪んでいることまで愛着に変わった。
ルシルはすぐ中を覗こうとしたが、シモンに「夕飯が先です」と止められた。
「まだやることあるんだよな。野営って思ってたより忙しい」
「だから最初に言いました」
「でも嫌じゃない。むしろ次々やることが出てくるのが面白い」
「それなら何よりです。今のところ全部楽しんでいますね」
「最初だしな」
次は火の準備だ。
以前誰かが使ったらしい焚き火跡の石組みを確認し、周囲の乾いた草を少し遠ざける。風向きを見て、火の粉がテントや馬車へ飛びにくい位置であることも確かめた。
「ここなら大丈夫そう?」
「はい。ただ、火を大きくしすぎないでください」
「分かってる。今日は魔法じゃなくて火打石でやってみたいんだけど、それでもいい?」
ルシルが尋ねると、シモンは少し考えて頷いた。
「実際に使えるようになっておいた方がいいですからね。魔法を使える状況ばかりとは限りませんし、練習としてもいいでしょう」
「じゃあ今日は俺。明日の朝はモモがやる?」
「やりたいです」
モモはすぐに頷く。
「シモン君もその次にやりましょう」
「僕もですか?」
「三人ともできた方がいいですよね?」
そう言われると反論できず、シモンは小さく息を吐いた。
「分かりました。その次は僕がやります」
乾いた小枝と火口を組み、火打石を使う。
数回は火花が散るだけだった。
「意外と難しいな。もっと簡単に火が移ると思ってた」
「火花を出すだけでは足りません。火口へきちんと落として、そこから消えないように育てます」
シモンの助言を聞きながら角度を変える。
何度目かで、小さな火種が生まれた。
「ついた」
「まだ大きく息を吹きかけないでください。優しく空気を送って、細い枝へ移していきましょう」
ルシルはいつになく慎重に顔を近づけ、少しずつ息を送る。
赤かった火種が徐々に広がり、小枝へ小さな炎が移った。
そこから少し太い枝を重ねる。
ようやく火が安定した。
「できた……」
思わず声が低くなる。
ただ火を起こしただけなのに、妙な達成感がある。
「そんなに嬉しいですか?」
シモンが少し可笑しそうに尋ねる。
「嬉しいよ。魔法なら一瞬なのに、今日は自分で火を作った感じがする」
「では明日は私ですね。今見ていたので、ルシル様より上手くできるかもしれません」
「急に勝負になったな」
「杭では私の方が上手でした」
「まだ覚えてる?」
「今日のことですよ」
モモが楽しそうに笑う。
火が安定したところで夕食の準備へ移る。
予定していた通り、ルシルは火と肉、モモは野菜、シモンは鍋と調味を担当することになった。
今夜は肉と野菜の簡単な煮込み、それから薄切り肉の鉄板焼きだ。
モモは小さな包丁を握り、根菜を前にかなり真剣な顔をしている。
最初の一切れを切る。
次も切る。
それを見ていたルシルが、少し首を傾げた。
「モモ、それちょっと大きくない?」
「そうですか? 口には入ると思います」
「俺の拳くらいある」
「そこまで大きくありません」
モモは不服そうに自分の手と根菜を見比べた。
確かにルシルの拳ほどではないが、煮込みに入れるにはかなり大胆な大きさだった。
シモンも鍋を準備しながら覗き込む。
「もう少し小さくして、大きさも揃えた方がいいですね。火の通り方が変わるので、大きいものだけ硬いまま残るかもしれません」
「なるほど。では、これくらいでしょうか」
モモは二個目を切る。
今度はかなり小さい。
ルシルが見比べる。
「さっきの半分以下になったぞ」
「……料理も加減が難しいですね」
「分かる。杭と同じだな」
「ルシル様、少し嬉しそうなのはなぜですか?」
「仲間ができた感じするから」
「失敗仲間を増やして喜ばないでください」
シモンが苦笑する。
その後はシモンに大きさの目安を教わりながら、モモも徐々に同じ程度へ揃えられるようになった。
「今のはほぼ同じ大きさです」
「本当ですか?」
「はい。最初よりかなり良くなっています」
褒められたモモは目に見えて嬉しそうになり、次の根菜へ包丁を入れる。
その様子を見ながら、ルシルは鉄板へ油を引いた。
「じゃあ俺も負けてられないな。肉は焼くだけだし、こっちは簡単そう」
薄切り肉を熱した鉄板へ置く。
じゅう、と気持ちのいい音が響き、すぐに香ばしい匂いが立ち上った。
「すごくいい匂いです」
モモの視線が野菜から肉へ移る。
「だろ? これは簡単かもしれない」
ルシルが少し得意そうにした、その直後。
シモンの鼻がわずかに動いた。
「ルシル様、裏を見た方がいいですよ」
「え?」
慌てて肉を返す。
端がかなり黒くなっていた。
「……早くない?」
「薄切りですから。火も思ったより強いですね」
「匂いが良かったから、まだ大丈夫だと思った」
「焦げ始めも香ばしい匂いはします」
モモが口元を押さえながら笑う。
「ルシル様も加減ですね」
「さっき言われた仕返し?」
「少しだけです」
最初の一枚は端が焦げた。
だが二枚目からは火加減を少し弱め、肉の色を見ながら返す。
「今度は?」
「いいと思います。火も通っています」
「よし」
ルシルは本気で嬉しそうだった。
「一枚目も捨てるほどではありません。焦げた部分が少し苦いくらいでしょう」
シモンが言うと、ルシルはその肉を三等分した。
「じゃあ三人で食べよう。俺が焦がしたのにシモンだけ食べるとかなしな」
「私は構いませんよ」
モモも笑いながら一切れ受け取る。
「失敗も三人分ですね」
一方、鍋ではシモンが水と野菜、少量の干し肉を入れ、火の通りを見ながら香草と塩を加えていた。
モモの切った根菜は大きさに少しばらつきがあるものの、湯の中でゆっくり柔らかくなっていく。
「シモン、普通に料理できてるように見えるけど」
ルシルが肉を返しながら言う。
「簡単な煮込み程度です。野営や遠征時の知識として覚えていただけで、料理人のような技術があるわけではありません」
「でも俺たち二人よりは慣れてる」
「比較対象が、杭を地面へ埋めかけた人と、根菜を拳大に切った人ですからね」
「それを言われると何も返せない」
「私もです」
三人とも笑った。
鍋から湯気が上がる。
干し肉と根菜、香草の匂いが混ざり、夕暮れの冷え始めた空気の中ではそれだけで食欲を刺激した。
モモは鍋の近くまで寄り、嬉しそうに鼻を動かす。
「もう美味しそうです」
「匂いだけで決めるのはまだ早いですよ」
「でも美味しい匂いです」
「それは僕も否定しません」
シモンが木匙ですくい、味を確かめる。
少し考えてから、塩をほんのわずかに足した。
「僕はこれくらいでいいと思います。二人も味見しますか?」
「する」
「私もお願いします」
ルシルは渡された木匙から一口含み、すぐに目を見開いた。
「熱っ……でも美味い」
「鍋から直接すくったばかりなんですから、先に冷ましてください」
「次はそうする。でも普通に美味しいぞ」
モモも少し冷ましてから口へ運ぶ。
表情がぱっと明るくなった。
「本当です。ちゃんと夕ご飯になっています」
「その感想、少し失敗前提ではありませんか」
シモンが苦笑する。
「初めてなので、もっと大変なものができるかと思っていました」
「俺も」
「二人とも、僕の味付けを信用してください」
そう言うシモン自身も、完成した鍋を見て少し満足そうだった。
やがて料理が出来上がった。
肉と野菜の煮込み。
鉄板で焼いた肉。
パン。
豪華な料理ではない。
跳ね鹿亭で食べたものと比べれば、盛り付けも素朴で、野菜の形も完全には揃っていない。
それでも三人は、椅子を焚き火のそばへ並べて料理を前にすると、自然に笑顔になった。
「これ、全部俺たちで作ったんだよな」
ルシルが鍋を眺めながら言う。
「はい。野菜は少し不揃いですけど、私が切りました」
「肉は一枚焦げたけど、残りは俺」
「そして鍋と味付けは僕です。一応、予定通り三人で作れましたね」
「一応じゃなくて成功って言おう」
ルシルが笑う。
シモンは少しだけ考え、それから仕方なさそうに頷いた。
「では、初回としては成功です」
「よし」
三人で手を合わせる。
「いただきます」
声が自然に重なった。
まずは煮込み。
ルシルは根菜と干し肉を一緒にすくい、今度はちゃんと冷ましてから口へ運んだ。
塩気は強すぎず、香草の風味があり、身体が内側から温まっていく。
「美味い」
「本当ですか?」
モモがすぐに身を乗り出す。
「うん。この大きいやつ、モモが最初の方に切っただろ」
「分かります?」
「周りの倍くらいある」
「……でも火は通ってますよね?」
「ちゃんと柔らかい。だから問題なし」
モモも同じ鍋から一口食べる。
少し大きめの根菜を噛み、ほっとしたように笑った。
「よかったです。次はもう少し揃えます」
「俺も次は一枚目から焦がさない」
「では、次回も同じ担当を続けて練習しますか?」
シモンが尋ねる。
ルシルは少し考えて首を傾げた。
「それもいいけど、交代しても面白そう。モモは明日の朝、火をやりたいって言ってたし」
「はい。せっかくなので、全部少しずつ覚えたいです」
「なら僕もいずれ肉や野菜を担当することになりそうですね」
「シモンの野菜の大きさ、モモと比べたい」
「なぜ競技のようにするのですか」
「面白そうだから」
「絶対負けません」
モモが妙な対抗心を見せる。
「モモ嬢、そこで張り合うのですか?」
三人で笑いながら、今度は焼いた肉を食べる。
最初に焦がした一枚は三等分されていた。
ルシルが先に口へ入れる。
「……ちょっと苦い」
モモも一口かじり、同じように眉を寄せた。
「端だけかなり苦いですね。でも中は普通です」
シモンも食べてから頷く。
「次に焦がさなければ問題ありません。失敗としては軽い方でしょう」
「なんか、これもいいな」
ルシルは焦げた肉を見ながら笑った。
「何がです? 焦げ味が気に入りましたか?」
「違う。店だったら、焦げた肉なんて出てこないだろ?」
「普通は出しませんね」
「でも自分たちで作ると、失敗したのも含めて今日の飯になる。次はこうしようって分かるし、それがちょっと面白い」
モモは残った焦げ肉をもう一口食べ、ゆっくり頷いた。
「分かります。私も、最初に大きく切った野菜のことを多分覚えていると思います」
「じゃあ次はもっと上手くなるな」
「はい」
シモンも二人を見て、少し口元を緩めた。
「失敗を楽しめるなら、覚えるのも早いでしょうね」
食事をしている間、トルクとベルクは少し離れた場所で休んでいた。
トルクは時折こちらへ視線を向け、焚き火の近くで食べている三人を気にしている。
「トルク、ずっと見てるな。肉の匂いかな」
「人間用の味付けをしたものは与えないでくださいね」
「分かってる。見るだけなら止められないし」
モモもトルクを見て微笑む。
「トルクさんは、本当に食べ物が好きですね。私とは気が合いそうです」
「モモは甘いもの限定じゃなかった?」
「そこは重要な違いです。私は何でも欲しがるわけではありません」
ルシルはトルクとモモを見比べ、少し笑う。
「じゃあ食へのこだわりが強い仲間」
「それならいいです」
一方のベルクは、こちらへほとんど興味を示さず落ち着いて草を食んでいた。
「ベルクはシモンっぽいな。静かだし、自分のペースだし」
突然自分に話が向けられ、シモンが眉を上げる。
「僕を馬と比較し始めるのはやめてもらえませんか」
「でも似てない?」
「少なくとも、食事中に人の料理をじっと見つめたりはしません」
「シモンは気になる料理があると、さりげなく見てますよ」
モモが思いがけない情報を足した。
シモンが彼女を見る。
「いつの話です?」
「跳ね鹿亭です。ルシル様が頼んだ料理を、運ばれてきた時に見ていました」
「料理が来れば普通は見ます」
「やっぱり似てるかも」
「ルシル様まで乗らないでください」
野営地にまた笑い声が広がった。
食事を終える頃には、空は完全に夜へ変わっていた。
西に残っていた夕焼けはもうなく、焚き火の炎と頭上の星だけが周囲を照らしている。
三人は食器を簡単に片付けた。
水を無駄にしないよう、まず布で油や汚れを拭き取り、その後に少量の水で洗う。
「食べたら終わりじゃないんだな」
ルシルが皿を拭きながら言う。
「宿なら片付けてもらえますからね。自分たちで生活するなら、食事の前後まで全部含めてやることになります」
「神殿でも、自分で洗うことはほとんどありませんでした」
モモは洗った器を布で丁寧に拭きながら、小さく笑った。
「王子と聖女と側近だった三人が、今は野原でお皿を洗っていますね」
「俺は今の方が好き」
ルシルは迷わず答えた。
「面倒だけど、自分たちのことを自分たちでやってる感じするから」
「私もです。できなかったことが少しずつできるようになるのが楽しいです」
シモンも洗い終えた鍋の内側を確認しながら頷く。
「僕も異論はありません。少なくとも、書類を見ながら食事をしていた頃よりはずっと健全でしょう」
「それ比較として酷くない?」
「事実です」
片付けが終わると、シモンは野営地の周囲へ簡単な感知術式を配置した。
地面へ小さな魔力の印をいくつか置き、一定以上の大きさの生き物が近づけば分かるよう繋げていく。
ルシルとモモも近くで見ていた。
「これなら魔物が来たら起きられるんだよな?」
「はい。ただし兎や小型の動物、虫程度では反応しないよう調整しています。何でも反応させると、今夜一睡もできなくなりますから」
「それは嫌だな」
「なので、このくらいで十分です。それから寝る前には火を完全に消します。風が弱くても、火種を残したまま眠るのは危険です」
「そこは覚えた。水掛けて終わりじゃなくて、熱も確認するんだろ?」
「はい。よく覚えていますね」
褒められたルシルは、少し得意そうに笑った。
その時、少し離れたところにいたモモが空を見上げたまま動かなくなった。
「ルシル様、シモン君。上、見てください」
二人も顔を上げる。
そして、そのまま言葉を失った。
ヘルガスでも星は見えた。
王城からも、神殿からも、夜空そのものを見たことはある。
けれど街の明かりがほとんど届かない丘の裏では、空の印象がまるで違った。
濃い紺色の中に、数え切れないほどの光が散らばっている。
小さなもの。
強く輝くもの。
淡い光が集まり、帯のように見える場所まである。
「こんなにあったんだな」
ルシルが自然と声を落とした。
王城にいた頃も、同じ空は頭上にあったはずだ。
それなのに、こんなふうに長く眺めた記憶がない。
夜になれば翌日の予定があり、学ぶことがあり、確認することがあった。
空を見上げるためだけに立ち止まる理由など、当時の自分は持っていなかった。
「神殿の中庭でも星は見えました」
モモも同じように小さな声で話す。
「でも、長く見ていると誰かが迎えに来たんです。夜は冷えますとか、明日の祈りがありますとか。今思えば、何も言われずに好きなだけ見たことはなかったかもしれません」
「今日は誰も呼びに来ないな」
「はい。寒くなったら自分で戻ればいいだけです」
モモは嬉しそうに笑った。
ルシルも星空を眺めながら、自分の中にある「自由」という言葉が少しずつ変わっているのを感じていた。
草原へ追い出された日に叫んだ自由は、重い役割から放された喜びだった。
今は、それだけではない。
火を自分で起こすこと。
野菜を切って失敗すること。
寄り道して泉へ行くこと。
夕日を眺めること。
星を好きなだけ見ること。
疲れたら眠り、また明日起きること。
小さな選択を誰にも取り上げられないことも、同じくらい大切なのだと思える。
「ルシル様、また難しい顔していますよ」
モモの声で、ルシルは我に返った。
「そんな顔してた?」
「少し。星を見ながら何か考えていたので」
「大したことじゃないよ。ただ、今まで自由ってもっと大きなものだと思ってたなって」
「大きなもの?」
「王位がなくなったとか、王城から出られたとか。でも、今日みたいなのも自由なんだなって思っただけ」
モモは少し考え、空へ視線を戻した。
「私は、こっちの自由も好きです」
「俺も」
シモンは二人の会話を聞きながら、少しだけ目を細めている。
「大きな選択だけ自由でも、日々の小さなことを自分で選べなければ息苦しいでしょうからね」
「シモンが言うと重いな」
「事実を言っただけです」
その直後だった。
空の端を、一筋の光が走った。
三人がほとんど同時に息を呑む。
短い光は夜空を横切り、すぐに消えた。
「流れ星……」
モモは慌てて両手を合わせたが、もう遅い。
「消えちゃいました」
「何お願いしようとしたの?」
ルシルが笑いながら尋ねる。
「お菓子がたくさん食べられますように、です」
「そこは一切迷わないんだな」
「大事ですから」
モモは真剣だった。
「ルシル様は何か願いましたか?」
「俺も間に合わなかった。シモンは?」
「僕もですよ。そもそも一瞬でしたからね」
「じゃあ、今考えるなら?」
急な問いに、シモンは少し黙った。
星空から視線を下ろし、火の小さな炎を一度見る。
それからルシルとモモへ目を向けた。
「そうですね……この旅が、長く続けばいいと思います」
その言葉のあと、ほんの少しだけ静かな時間が生まれた。
昨日のように過去を振り返るための言葉ではない。
誰かへの忠誠でも、役目でもない。
今が楽しい。
だから続いてほしい。
ただそれだけの願いだった。
ルシルの胸の奥へ、温かなものがゆっくり広がる。
「俺も、それがいい」
「私もです」
モモも柔らかく笑う。
「じゃあ三人とも同じですね」
「モモは最初、お菓子だったけどな」
「願い事が一つだけとは決まっていません」
「流れ星は一個だったぞ」
「次に見た時、旅の分をお願いします」
「順番、逆じゃない?」
「どちらも大事です」
最後には、また三人とも笑っていた。
寝る前に焚き火を消す。
水を掛け、土をかぶせ、残った熱も確認する。ルシルは手を近づけてみて、ほとんど熱気が上がってこなくなるまで待った。
トルクとベルクの様子も、最後にもう一度見る。
二頭とも落ち着いていた。
異常はない。
「これで、今度こそ寝られる?」
ルシルが尋ねると、シモンはテントを指した。
「中へ敷物と毛布を入れれば、本当に終わりです」
「やっとだ」
「思ったより長かったですね」
モモも笑う。
「でも楽しかったです」
三人でテントの中を整える。
地面へ敷物を広げ、その上へ毛布を置く。
荷物の大半を収納しているため、中は想像していたより広かった。
ルシルは嬉しそうに入口から中へ入ろうとしたが、すぐ後ろからシモンの声が飛んだ。
「靴を脱いでください」
「あ」
ルシルは片足を入れた状態で止まる。
「まだ入口だからいいかと思った」
「今日自分たちで張ったテントを、初日に自分で汚すつもりですか?」
「それは嫌だ」
すぐに戻り、靴を脱ぐ。
モモがそれを見て笑った。
「ルシル様、すごく入りたかったんですね」
「だって初テントだぞ。モモだって早く入りたいだろ?」
「……はい。でも私はちゃんと靴を脱ぎます」
「そこはもう分かったって」
三人で中へ入る。
横になってみると、思ったより余裕がある。
ただし三人が完全に離れて眠れるほど広くはなく、自然と肩や毛布の距離が近くなる。
「思ったより狭くないな。でもやっぱり三人いると近い」
ルシルが天井を見ながら言う。
「三人用ですから、このくらいでしょう。荷物が多ければもっと狭かったはずです」
「私はこのくらい好きです」
モモは毛布へ入ると、ほっとしたように息を吐いた。
「近くに二人がいる方が、初めての野営では安心します」
ルシルも同じ気持ちだった。
「分かる。馬車の中も三人だから、たぶん似た感じなんだろうな」
「実際に寝る時には、また配置を考えましょう」
シモンも横になる。
外では風が草を撫で、テントの布がかすかに揺れている。
虫の音。
遠くで何か小さな獣が鳴く声。
トルクかベルクが足を動かす気配。
薄い布一枚を隔てただけで、すぐそこに夜の野原がある。
それなのに、不思議と怖くはなかった。
「シモン」
暗くなったテントの中で、ルシルが声を掛ける。
「何でしょう」
「本当に寝るんだよな? 俺たちが寝たあと、地図整理とか帳簿とか始めない?」
「始めませんよ。明日でもできる仕事を、わざわざ今日やる必要はないでしょう」
一瞬、ルシルは返事を忘れた。
すぐ隣でモモが小さく笑う。
「シモン君、自分から『明日でいい』って言いましたね」
「だから、いちいち成長確認をしないでください」
「でも嬉しい」
ルシルが素直に言う。
シモンはしばらく黙っていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……僕も、今夜は眠りたいと思っています。それで十分でしょう?」
「十分」
モモも満足そうに毛布を引き上げる。
「では、おやすみなさい。ルシル様、シモン君」
「おやすみ、モモ」
「おやすみなさい」
三人の声が静かなテントの中で重なった。
しばらく誰も話さなかった。
夜は静かだ。
けれど、完全な無音ではない。
風。
草。
虫。
二頭の馬。
ときどき遠くから聞こえる小さな鳴き声。
王城や神殿の夜とは違う音ばかりだった。
ルシルは目を閉じていたが、なかなかすぐには眠れなかった。
緊張しているわけではない。
今日一日の出来事が、頭の中をゆっくり流れている。
「……今日、長かったな」
小さく呟くと、まだ起きていたらしいモモが「本当ですね」と返した。
「朝は金の麦穂亭にいたんですよ。それが今は、知らない丘の裏でテントの中です」
「まだ一日目なんだよな。もっと何日も経った気がする」
シモンの声も隣から聞こえる。
「新しいことが多かったからでしょうね。初めて見るものや、初めて自分でやることが多い日は、後から振り返ると長く感じるものです」
「寄り道もかなりしたしな」
「それもあります」
「でも俺、そっちの方が好きだ」
ルシルは目を閉じたまま笑った。
「泉に行って、知らない夫婦と話して、昼寝して、夕日見て。全部なくても目的地には近づけたんだろうけど、あった方が今日を覚えていられそうだ」
モモが毛布の中で少し動く気配がした。
「私もです。青い花のこと、きっと覚えています。持ってこなかったですけど、あの場所に咲いていたことは覚えていたいです」
「俺は最初に焦がした肉かな」
「もっと綺麗なものを覚えてください」
「夕日も覚えてるって」
三人の笑いが、小さくテントへ広がる。
それが収まったあと、シモンが静かに言った。
「明日も、急ぐ必要はありません。ただし今日と同じだけ寄り道をすると、本当にラナへ着く日が延びるかもしれませんよ」
「延びたら駄目?」
「駄目とは言っていません。トルクとベルクの状態と、食料や天候に問題がなければ」
「じゃあ大丈夫だな」
「まだ明日の寄り道候補すら分かっていません」
「見つけてから考える」
「そうしてください」
その返事には、もう呆れだけではなく笑いが混じっていた。
ルシルは今日一日をもう一度思い返す。
金の麦穂亭を出た。
ヘルガスの人たちへまた来ると約束した。
初めて自分たちの馬車で門を抜けた。
兎を見つけた。
旅人の泉へ寄った。
知らない老夫婦と話した。
馬車で昼寝をした。
丘の上から夕日を見た。
トルクとベルクの世話をした。
三人で歪んだテントを張った。
火を起こした。
肉を焦がした。
野菜の大きさで笑った。
星を見た。
どれも国を揺るがすような出来事ではない。
王子だった頃なら、日記の一行にすら残らなかったかもしれないことばかりだ。
けれど今のルシルにとっては、その一つ一つが今日を形作っていた。
「旅って、思ってたより忙しいな」
眠気が混じり始めた声で言う。
「その感想、さっきも言っていましたよ」
シモンの声も少し遠くなっている。
「でも嫌じゃない」
「それも知っています」
「明日も忙しいかな」
「たぶん」
モモが静かに答えた。
「でも、明日も楽しいと思います」
「うん」
ルシルは毛布の中で少し身体の力を抜いた。
外で、トルクかベルクが小さく鼻を鳴らす。
感知術式からは何の反応もない。
風の音も穏やかだ。
初めての野営は、思っていたよりずっと忙しかった。
テント一つ張るだけでも失敗した。
火を起こすだけでも時間がかかった。
夕飯だって、完璧ではなかった。
けれど、その忙しさのどこにも嫌なものはなかった。
誰かに命じられたからするのではない。
決められた役目を果たすためでもない。
自分たちがここで夜を過ごし、明日また旅を続けるために必要だから、一つずつ覚えていく。
できないことがあれば笑い、少しずつできるようになる。
隣には、それを一緒にやってくれる二人がいる。
そのことが、ルシルには何より嬉しかった。
眠りへ落ちる直前、彼の耳にもう一度草を揺らす風の音が届いた。
明日になれば、また知らない道を進む。
また知らない景色を見る。
きっと、今日とは違う失敗もする。
それでも三人なら、それすら旅の思い出になる気がした。
そう思いながら目を閉じたルシルは、ほどなく静かな眠りへ落ちていった。
旅の最初の夜は、大きな事件が起きることもなく、三人と二頭を穏やかに包みながら更けていった。




