第14話 旅の朝は、起きてすぐ出発できるわけではありません
最初に目を覚ました時、ルシルは自分がどこにいるのか分からなかった。
見慣れない布の天井がすぐ近くにあり、その向こうで風が通り抜けるたび、テント全体がほんのわずかに揺れている。王城の広い寝室でも、金の麦穂亭の小さな部屋でもないということだけはすぐに分かったが、寝ぼけた頭が昨夜までの出来事へ追いつくまでには数秒かかった。
少し離れた場所から、馬が鼻を鳴らす音が聞こえた。
「……ああ」
ようやく思い出す。
ヘルガスを出た。
旅人の泉へ寄った。
丘から夕日を眺めた。
三人でテントを張り、夕食を作って、星を見た。
そして、このテントで眠った。
旅に出てから初めて迎える朝だった。
ルシルは毛布の中で身体を少し伸ばそうとして、すぐに止まった。
右側にはモモが眠っている。
左側にはシモン。
三人用のテントは思っていたより窮屈ではなかったが、朝になって大きく手足を伸ばせるほど広いわけでもない。少し身体を動かしただけで、毛布の端が隣へ触れる。
ルシルは声を立てないように身体を起こした。
外はまだ完全に明るくなっていない。
入口の隙間から入る光は薄く、夜と朝の境目のような青白さだった。
モモは毛布を胸元まで引き上げ、横向きで眠っている。昨夜は星を見てかなり興奮していたのに、眠りにつくのは早かったらしい。
一方のシモンは仰向けだった。
眼鏡を外しているため、いつもより少し幼く見える。
王城で何度も徹夜をしていた男が、旅先のテントで普通に眠っている。
それだけの光景なのに、ルシルは少し嬉しくなった。
起こさないよう、そっと入口へ近づく。
靴を履き、布を持ち上げた。
外へ出た瞬間、冷たい空気が頬へ触れた。
「寒っ」
思わず小声が漏れる。
昼間は暖かかったが、夜を越えた草原はかなり冷えている。
息が白くなるほどではないものの、外套なしでは少し肌寒い。
東の空はすでに明るくなり始めていた。
濃い青色だった空が、地平線近くから少しずつ淡い色へ変わっている。
昨夜見た星はほとんど消え、明るいものがわずかに残っているだけだった。
ルシルはしばらく立ったまま、その景色を眺めた。
夕日は見たことがある。
朝焼けも、もちろん見たことはある。
けれど、自分で張ったテントから出て、野原の真ん中で迎える朝は初めてだった。
何か特別な光景があるわけではない。
草地。
馬車。
トルクとベルク。
遠くの丘。
それでも、昨日までとは違う一日が始まるという感じがした。
「起きていたのですか」
後ろから声がして、ルシルは振り返った。
シモンがテントから出てくるところだった。
すでに眼鏡を掛け、髪も簡単に整えている。
「シモンこそ早いな」
「外へ出る音がしましたから」
「起こした?」
「いいえ。もともとそろそろ起きる時間でした」
シモンは外へ出ると、空を見上げた。
「天気は問題なさそうですね」
「最初にそれ見るんだ」
「旅では重要でしょう」
「俺は綺麗だなって思ってた」
「それも否定はしません」
シモンは少しだけ笑った。
朝露を含んだ草が、光を受けて細かく輝き始めている。
「昨日の夜より寒いな」
「晴れた分、冷えたのでしょう。ですが日が出ればすぐ暖かくなると思います」
「モモ、起きるかな」
「もう少し寝かせておいてもいいでしょう。先に感知術式と馬の様子を確認します」
「じゃあ俺もやる」
二人で野営地を回る。
昨夜シモンが設置した感知術式には、異常な反応は残っていなかった。
小型の動物が近くを通った形跡はあるらしいが、危険な魔物が接近した様子はない。
テントにも馬車にも異常はない。
「何も起きなかったな」
ルシルが言う。
「それが一番です」
「最初の野営だから、何か来るかと思ってた」
「なぜです?」
「物語だと来そうじゃん」
「現実で毎晩魔物に襲われていたら、誰も旅をしませんよ」
「それはそうだ」
ルシルは笑いながらトルクへ近づいた。
「おはよう」
トルクがルシルへ顔を向ける。
ベルクも少し離れたところから耳を動かした。
二頭とも落ち着いている。
昨夜より少し草の位置が変わっている程度で、暴れた様子もない。
「まず立ち方と脚ですね」
「昨日の朝、ガイルに教わったのと同じ?」
「基本は同じです。眠っている間に何かあった可能性もありますから」
ルシルはトルクの周囲をゆっくり歩く。
脚をかばっていないか。
不自然に重心を傾けていないか。
呼吸。
目。
鼻。
朝一番から確認することが多い。
「大丈夫そうに見える」
「僕もそう思います」
「ベルクは?」
「こちらも問題なさそうです」
シモンが近づくと、ベルクはいつものように鼻先を寄せた。
もはやその光景にも少し慣れてきた。
「ベルク、おはようございます」
シモンが自然に声を掛ける。
ルシルは何も言わず、その横顔を見る。
「何です?」
「いや」
「また何か言いたそうですね」
「言わない方がいいかなと思って」
「なら黙っていてください」
「でもシモン、最初よりかなり普通に話しかけるようになったな」
「……馬にも声を掛けた方がいいとガイルさんが言っていたでしょう」
「そういうことにしとく」
「そういうことです」
ベルクがシモンの肩へ鼻先を押しつける。
ルシルは笑いそうになったが、今度は本当に黙っていた。
水を与え、飼葉を用意する。
朝から馬の世話をするというだけで、昨日までの生活とは大きく違う。
けれど、すでに少しだけ当たり前になり始めていた。
「毎朝これやるんだよな」
「はい」
「大変だけど、嫌じゃない」
「まだ二日目ですから」
「シモン、すぐそういうこと言う」
「一ヶ月後も同じ感想なら本物でしょう」
「じゃあ一ヶ月後また聞いて」
「覚えていたら」
「絶対覚えてる」
二人が話していると、後ろからテントの布が動く音がした。
モモが顔を出す。
髪は少し乱れていて、若葉色の瞳もまだ半分ほど眠そうだった。
「……おはようございます」
「おはよう」
「おはようございます、モモ嬢」
モモは数秒ぼんやり立っていたが、やがてシモンの言葉を理解したらしく、少し眉を寄せた。
「朝一番でもモモ嬢なんですね」
「寝起き一言目がそこなのですか?」
「大事です」
「まだ眠そうですが」
「眠いです」
モモは正直に認めた。
そのまま外へ出ると、冷たい風が当たる。
「寒いですね」
「俺も思った」
「でも気持ちいいです」
モモは空を見上げる。
朝日がちょうど地平線の向こうから顔を出し始めたところだった。
薄い金色の光が草原へ広がり、朝露が一斉に輝く。
「……綺麗」
眠そうだった顔が、一瞬で変わった。
「な?」
「はい」
三人は少しだけ手を止めた。
昨日は夕日を見るために丘へ登った。
今日は野営したからこそ、その同じ場所で朝日を見られる。
目的地へ急いでいたら、どちらも見なかったかもしれない。
モモはしばらく空を見たあと、ふと思い出したようにルシルを見る。
「今日は私が火を起こすんですよね?」
「覚えてた?」
「もちろんです」
「朝飯より先にそれか」
「昨日、ルシル様より上手にできるかもしれないと言いましたから」
「勝負になってる」
「なってません」
「なってるだろ」
「どちらでも構いませんが、まず顔を洗ってきた方がいいのでは?」
シモンの冷静な指摘で、モモがぴたりと止まった。
「……そうします」
少し下ったところにある水場から必要な分だけ汲み、三人で簡単に身支度を整える。
冷たい水で顔を洗うと、眠気が一気に消えた。
ルシルは両手で頬をこすりながら息を吐く。
「冷たい。でも目覚めるな」
「冬は大変そうですね」
モモが水滴を拭きながら言う。
「その時は魔法で少し温めればいい」
「こういう時は使うんですか?」
「必要なら」
シモンが答える。
「便利な魔法を使わないこと自体が目的ではありません。火起こしなどは、できるようになるために試しているだけです」
「なるほど」
ルシルは納得した。
「魔法を使わない旅じゃなくて、魔法がなくても困りすぎないようにするんだな」
「そういうことです」
「じゃあ朝飯の火はモモ」
「はい」
野営地へ戻り、昨夜の焚き火跡を確認する。
完全に消えている。
そこへ改めて小枝と火口を組む。
モモは昨日のルシルの様子を思い出しながら、火打石を握った。
「見ていてください」
「めっちゃやる気じゃん」
「昨日、ルシル様は何回か失敗しましたよね」
「数えてた?」
「見ていました」
シモンが横から口を挟む。
「競うことではありませんからね。焦って手を滑らせないように」
「分かっています」
モモが火打石を擦る。
一度目。
火花は出るが、火口へうまく落ちない。
二度目も失敗。
ルシルの口元が少しだけ上がる。
「何ですか?」
「いや、まだ俺と同じくらいだなと思って」
「次でつけます」
三度目。
今度は小さな火種が生まれた。
「ついた!」
モモの声が弾む。
「おお」
「まだですよ」
シモンが即座に言う。
「昨日、ルシル様にも同じこと言ってた」
「同じ状況ですから」
モモは慎重に息を送る。
強く吹きすぎない。
細い枝へ移す。
炎が少しずつ大きくなる。
やがて小さな焚き火になった。
「できました」
モモは満足そうに笑った。
「俺より早かった?」
「回数だけなら少し」
シモンが答える。
「やった」
「本当に勝負になってる」
「なってません」
「今やったって言ったじゃん」
モモは聞こえなかったふりをして火を見つめた。
朝食は簡単にすることになった。
昨日買った薄焼きパン。
卵。
少量の肉。
残っている野菜。
それから温かい湯。
「今日は誰が何する?」
ルシルが聞く。
「昨日とは少し変えてみますか?」
シモンの提案に、モモがすぐ反応した。
「私、卵やってみたいです」
「野菜じゃなくて?」
「昨日切りましたから、違うものをやりたいです」
「じゃあ俺、野菜?」
「よろしいのでは」
シモンは肉と全体の火加減を見ることになった。
ルシルは包丁を持ち、根菜を前にする。
「モモ、昨日どれくらいで切ってた?」
「最後の方はこのくらいです」
モモが指で大きさを示す。
「じゃあそれ目標」
一切れ切る。
少し大きい。
二切れ目。
小さい。
「……これ難しいな」
「昨日私に何て言いました?」
モモが楽しそうに見る。
「俺の拳くらいあるって」
「今日は言い返してもいいですか?」
「まだ拳ほどじゃない」
「でも揃ってません」
「今から揃える」
ルシルは急に真剣になった。
力任せに切ればいいわけではない。
厚みを見る。
包丁を動かす。
数個切るうちに、少しずつ大きさが揃ってきた。
「どう?」
シモンが確認する。
「昨日のモモより上手い?」
「なぜ僕が判定役なのですか」
「気になるから」
「最初から比較するのは不公平でしょう。ルシル様は昨日のモモ嬢を見ていますから」
「確かに」
モモがすぐに同意する。
「では、私の勝ちということで」
「なんで?」
「初心者同士なら昨日の私の方が先です」
「その理屈はおかしいだろ」
二人が言い合っている間、シモンは肉を焼き始めた。
昨日ルシルが一枚目を焦がしたのと同じような薄切り肉だ。
「シモン、それ絶対焦がすなよ」
「なぜ圧を掛けるのです?」
「俺たち二人の前で完璧にやられると悔しい」
「意味が分かりません」
シモンは肉の色を見ながら、落ち着いて返す。
火加減。
返すタイミング。
慣れているように見える。
「上手い」
モモが言う。
「まだ焼いている途中です」
「でも焦げてません」
「普通です」
「それ言われると腹立つな」
ルシルが笑う。
肉はきれいに焼けた。
「やっぱりシモン上手いじゃん」
「知識があるだけです」
「じゃあ今度は火起こしで失敗して」
「失敗を期待しないでください」
卵を担当したモモは、平たい鉄板の端へ慎重に割り入れた。
一つ目はきれいに入る。
「できました」
二つ目。
殻の欠片が小さく落ちた。
「あ」
モモの動きが止まる。
「入った?」
「少しだけです」
「取ればいいじゃん」
「見えなくなりました」
三人で卵を覗き込む。
「そこじゃない?」
ルシルが指す。
「違います。黄身の横です」
「これ?」
「それ白身です」
「全部白身だろ」
シモンがため息をつきながら細い木匙を使い、小さな殻を取り除いた。
「これくらいなら問題ありません。次から割る時は、強く打ちつけすぎないようにしてください」
「はい」
モモは少し恥ずかしそうに頷いた。
「料理って、昨日から小さい失敗が多いですね」
「それで覚えるんだろ」
ルシルは切った野菜を見せる。
「俺も最初の三個かなり違うし」
「それを見ると安心します」
「安心材料にされてる」
「三人とも料理人ではありませんからね」
シモンがそう言うと、モモも笑った。
朝食が出来上がる頃には、日もかなり高くなっていた。
火のそばへ三脚の椅子を並べる。
薄焼きパンに肉と卵。
軽く火を通した野菜。
昨夜より簡単だが、朝食としては十分だった。
「いただきます」
三人で食べ始める。
冷えた朝の空気の中で食べる温かい料理は、それだけで美味しい。
モモの卵も殻の問題さえ除けば普通に焼けている。
「美味しいです」
「自分で作ったから?」
ルシルが聞く。
「それもあります」
「俺の野菜は?」
「ちゃんと食べられます」
「それ褒めてる?」
「昨日シモン君がよく言ってました」
「真似しなくていいですよ」
シモンは肉を挟んだパンを食べながら、少し呆れている。
「でも、昨日より準備早くなった気がする」
ルシルが言う。
「少しは。ただ、朝はここから片付けがあります」
シモンが何気なく答えた。
ルシルの手が止まる。
「……これで終わりじゃない?」
「当然でしょう」
モモも同時に固まった。
「テント」
「はい」
「畳むんですよね」
「はい」
「馬車も」
「出発できる状態へ戻します」
「馬具もつける」
「そうです」
「旅の朝って忙しいな」
ルシルが心から言うと、シモンは苦笑した。
「起きて、朝食を食べて、そのまま歩き出せるわけではありませんからね」
「宿って便利だったんだな」
「今さら気づきました?」
「宿は寝て起きたら出られる」
「会計はありますが、基本はそうですね」
モモも少し考えながら頷く。
「野営だと、自分たちで作ったものを全部元に戻さないといけないんですね」
「そしてゴミや跡もできるだけ残さない」
シモンが付け加える。
「次にここを使う旅人がいるかもしれませんから」
ルシルはその言葉に少し目を細めた。
「俺たちも、前の人が残した焚き火跡使ったもんな」
「はい」
「じゃあ綺麗にしていこう」
朝食を終えると、本格的な撤収が始まった。
まず食器。
昨日と同じように汚れを拭き、水で洗う。
火を消すのは最後だ。
その間に毛布を畳み、敷物を外へ出す。
朝露でテントの外側が少し湿っていた。
「これ、そのまま畳んでいい?」
ルシルが聞く。
「できれば少し乾かした方がいいですね。濡れたまま収納すると、次に出した時に匂いや傷みの原因になります」
「収納魔法でも?」
「時間停止に近い性質なら問題ないかもしれませんが、僕たちの収納は物によって状態保持に差があります。わざわざ濡れたまま入れる必要はありません」
「じゃあ乾かす」
テントの入口を開き、風を通す。
その間に杭を抜いていく。
昨夜最初にルシルが打ち込みすぎた場所もある。
「これだ」
ルシルがしゃがむ。
「昨日一回抜いて打ち直したやつ」
「今度は普通に抜けますよ」
モモが隣で見ている。
ルシルが引く。
少し抵抗はあるが、抜けた。
「おお」
「成功ですね」
「次から一発でこれくらいにする」
「覚えていたら」
「覚えてる」
ロープを外す。
支柱を抜く。
順番を間違えると布が一気に落ちてくるため、三人で声を掛けながら進めた。
「モモ、そっち持って」
「はい。これを外せばいいですか?」
「まだです」
シモンが止める。
「先に中央を支えてください。今外すと、ルシル様の上へ全部落ちます」
「俺は別に大丈夫だけど」
「布が汚れます」
「そっち?」
「ルシル様が潰れるとは思っていません」
「信用されてるのか雑に扱われてるのか分からない」
モモが笑いをこらえながら中央の支柱を支える。
今度は問題なく畳めた。
ただし、次の問題が出る。
「……これ、袋に入らない」
ルシルが畳んだ布を収納袋へ押し込もうとしている。
昨日出した時より明らかに大きい。
「畳み方が違うのでしょう」
シモンが説明書きを見る。
「もう一度広げます」
「せっかく畳んだのに」
「袋に入らなければ意味がありません」
三人で広げ直す。
折る位置。
空気の抜き方。
支柱やロープを入れる場所。
やり直してみると、今度は少し小さくなる。
「入った」
「最初からできる人すごいな」
モモが感心する。
「慣れでしょう」
「いつか俺たちも、話しながらできるようになる?」
「毎日使えばかなり早くなると思います」
「じゃあそのうち、今日のこと笑うかもな」
「昨日の杭のことはもう笑っていますけど」
「モモ、覚えてるなあ」
「面白かったので」
テントを収納する頃には、朝露もほとんど乾いていた。
野営地に落ちているものがないか確認する。
食べ物の欠片。
紐。
紙。
何も残さない。
焚き火へ水を掛け、熱が残っていないことも確かめた。
「昨日来た時とほぼ同じになった?」
ルシルが周囲を見渡す。
「石組みは元からありましたし、大きな跡は残っていませんね」
「よかった」
モモは昨日テントが立っていた場所を眺めた。
「ちょっと寂しいですね」
「何が?」
「さっきまでここに私たちの寝る場所があったのに、もう何もないです」
ルシルも同じ場所を見る。
確かに、草が少し倒れているくらいだ。
昨夜は焚き火があった。
料理をした。
星を見た。
テントで三人並んで寝た。
今は、ほとんど元の野原へ戻っている。
「でも、また別の場所で作るんだろ」
「はい」
「それが野営なのかもな」
必要な時に場所を借りる。
朝になれば片付け、次へ進む。
何も持っていかないのではなく、思い出だけを持っていく。
ルシルはそんなことを考えた。
「ルシル様」
シモンが少し離れたところから呼ぶ。
「そろそろ馬具を付けますよ」
「今行く」
トルクとベルクへ最後にもう一度水を与える。
蹄と脚も確認する。
朝食後も状態に変化はない。
馬具を付ける作業は、昨日よりさらに少しだけ自然になっていた。
「これ、捻れてない?」
ルシルが確認する。
「大丈夫です」
「締めすぎてない?」
「指が入る程度なら問題ありません。昨日よりいいですね」
「やった」
モモはベルク側でシモンを手伝う。
「この革紐、ここで合っていますか?」
「はい。ただ毛を挟んでいないか見てください」
「大丈夫です」
三人で一つずつ確認する。
急げばもっと早くできるかもしれない。
でも今は早さより、間違えない方が大事だ。
やがて二頭と馬車の連結も終わった。
「出発できる?」
ルシルが聞く。
シモンは馬車の周囲を一周する。
車輪。
軸。
連結部分。
荷物。
トルクとベルク。
一つずつ見てから、ようやく頷く。
「はい。問題ありません」
「朝起きてから長かったな」
太陽はもうすっかり高くなっている。
ルシルは空を見上げた。
「宿だったら、朝飯食べてすぐ出てた」
「これが野営との違いですね」
「でも、嫌じゃない」
ルシルは昨日から何度目か分からない言葉を口にする。
モモも笑った。
「私もです。全部自分たちでやるから、出発する時に『準備できた』って感じがします」
「確かに」
ただ外へ出るのではない。
眠った場所を片付ける。
馬の様子を見る。
食事をする。
水を確保する。
道具を収納する。
馬車を確認する。
それを全部終えて、ようやく進める。
面倒ではある。
でも、出発そのものに少し意味が生まれる。
「今日は誰から運転する?」
ルシルが聞く。
「昨日最後はルシル様でしたから、今日は私からでいいですか?」
モモが手を挙げる。
「いいよ」
「朝から飛ばさないでくださいね」
シモンが言う。
「昨日よりゆっくり走ります」
「昨日も最初はそう言っていました」
「今日は本当に」
「なら任せましょう」
モモが御者台へ乗る。
隣にはシモン。
ルシルは後ろへ乗り込もうとしたところで、一度足を止めた。
野営地を振り返る。
昨夜の夕日。
焚き火。
星空。
朝日。
どれも、もう同じ形では見られない。
でも、それでいい。
「ありがとう」
小さく言う。
昨日、金の麦穂亭の部屋へ言ったのと同じだった。
「今度は野原にですか?」
モモが御者台から聞く。
「一晩使わせてもらったから」
「私も言います」
モモも野営地へ顔を向ける。
「ありがとうございました」
シモンは二人を見て、少しだけ困ったような顔をした。
「毎回野営地へ挨拶するつもりですか?」
「駄目?」
「駄目ではありませんが」
ルシルは笑う。
「シモンは言わない?」
少し間があった。
シモンは眼鏡を押し上げ、誰もいない草地へ視線を向ける。
「……世話になりました」
声は小さい。
それでも確かに聞こえた。
「言った」
「聞こえました」
「二人とも、いちいち反応しないでください」
シモンは少しだけ耳を赤くしながら前を向いた。
三人は笑いながら馬車へ乗り込む。
モモが手綱を握る。
「トルクさん、ベルクさん。今日もお願いします」
二頭の耳が動く。
「では、行きますね」
モモが合図を送る。
馬車がゆっくり動き始めた。
丘の裏側から、昨日登ってきた緩やかな道へ向かう。
朝露の残る草が車輪の近くで揺れ、次第に野営地が後ろへ遠ざかっていく。
ルシルは窓からしばらく眺めたあと、前方へ目を移した。
今日はラナへ向かう。
順調なら、明日には着くはずだ。
ただし、順調に進むことと、急いで進むことは違う。
「今日も何か面白いものあるかな」
ルシルが後ろから聞く。
「まだ出発したばかりですよ」
シモンが答える。
「だからだよ」
「何もない可能性もあります」
「それはそれでいい」
「珍しいですね」
「だって昨日分かった。何も起きなくても、飯作ったり景色見たりするだけで結構楽しい」
モモが御者台で笑う。
「私もそう思います。今日は何があるか分からない方が楽しみです」
「安全上、ある程度は分かっていた方がいいのですが」
「シモン君はそういうところがありますね」
「旅程管理をしているのは僕ですから」
「でも寄り道は許してくれる」
「安全なら、です」
ルシルは馬車の壁へ背中を預けた。
車輪の音が一定の間隔で続く。
昨日より、その音が少しだけ馴染んで聞こえる。
馬車に乗ること。
野営すること。
朝、自分たちで片付けること。
まだ何一つ慣れたとは言えない。
それでも、一つ一つがもう自分たちの旅の一部になり始めている。
丘を下りきると、昨日離れた街道が見えてきた。
モモは慎重に周囲を確認し、馬車を本線へ戻す。
前にも後ろにも、今のところ他の馬車はいない。
「右よし、左よし」
モモが小さく言う。
「昨日より慎重ですね」
「昨日、速いって言われましたから」
「覚えていて何よりです」
「今日は完璧に走ります」
「そこまで気負わなくていいですよ。安全に走れれば十分です」
シモンの言葉に、モモは少し考えて頷いた。
「では、安全に楽しく走ります」
「それでいいと思います」
馬車が街道を進み始める。
朝日を受けた道は、昨日の夕方とは違う色をしていた。
同じ道でも、時間が違えば景色も違う。
ルシルは窓から外を見ながら、そのことを面白く思った。
やがて街道の脇に小さな木立が見えた。
その手前で、地面の色が少し変わっている。
「シモン君」
モモの声が少しだけ真面目になる。
「前、道が濡れています」
「速度を落としてください。昨日の雨が残っているのでしょう」
モモがすぐに手綱を調整する。
トルクとベルクの歩調が緩やかになる。
道の一部は泥が深そうだ。
完全に通れないほどではないが、轍が複数重なっている。
ルシルも後ろから顔を出した。
「ここ通れる?」
「通れます。ただし、真ん中の深い轍へ入らない方がいいですね」
シモンが地面を見ながら答える。
「左側の方が少し固そうです。モモ嬢、ゆっくり寄せてください」
「分かりました」
モモは慎重に進路を変えた。
昨日なら少し勢いをつけて抜けようとしたかもしれない。
今は違う。
速度を落とす。
トルクとベルクの歩幅を見る。
前輪の位置を見る。
後輪の通る場所も意識する。
馬車が泥の部分へ入る。
車輪が少し沈む。
重たい感触が御者台へ伝わる。
「大丈夫です。急がないで」
シモンが落ち着いて言う。
モモも余計な力を入れず、二頭へ一定の合図を送った。
トルクとベルクがゆっくり進む。
一度、後輪が少し滑った。
モモの肩が強張る。
「そのままで大丈夫です」
シモンの声がすぐに続く。
「二頭も慌てていません」
「はい」
モモは呼吸を整える。
馬車はさらに進む。
数呼吸後、前輪が固い地面へ出た。
後輪も続く。
最後に小さく泥を跳ね上げ、馬車全体が安定した道へ戻った。
「……抜けました」
モモが息を吐いた。
「抜けたな」
ルシルも後ろから笑う。
「昨日なら、もっと勢いで行ってた?」
モモは少し考えた。
「たぶん」
「今日は違った」
「はい」
モモはトルクとベルクの背中を見る。
「ゆっくりでも進めるって分かりました」
シモンが静かに頷いた。
「馬車は、自分たちだけで動いているわけではありませんからね」
「昨日ガイルさんに言われたこと、少し分かった気がします」
馬を急かせない。
自分が楽しいからといって速度を上げすぎない。
道が悪ければ、予定より進みが遅くてもいい。
知識として聞くのと、自分で泥道を越えるのとでは違う。
「旅って、毎日ちょっとずつ覚えるんだな」
ルシルが言った。
「たぶん、そういうものなのでしょう」
シモンが答える。
「僕たちはまだ二日目です」
「じゃあ百日目には何でもできる?」
「それは極端です」
「でも今よりはできる」
「それは間違いないでしょうね」
モモも前を向きながら笑った。
「百日目、楽しみです」
「その頃どこにいるかな」
「海へ着いてる?」
「僕たちの寄り道次第ですね」
「じゃあ分からないな」
「分からない方が楽しそうです」
昨日と同じような答えだった。
けれど今日は、少しだけ意味が違って聞こえる。
旅の朝は、起きたらすぐ出発できるわけではない。
馬を見て。
火を起こして。
朝食を作って。
テントを畳んで。
道具を片付けて。
昨夜借りた場所を綺麗にして。
ようやく出発する。
面倒なことは、昨日より確実に増えている。
それなのに三人とも、それをやめたいとは思わなかった。
できなかったことが少しずつできるようになる。
知らなかったことを一つずつ覚える。
そして、その全部を終えた先で、また新しい道が始まる。
焦げ茶色の馬車は、朝の街道をゆっくり進んでいく。
トルクとベルクの蹄が、一定の音を刻む。
今日も急ぐ必要はない。
まずは次の休憩場所まで。
その途中で何か見つけたなら、その時考えればいい。
三人の旅は、まだ二日目だった。




