第15話 困っている人を助けたら、思ったより旅らしくなりました
朝の泥道を抜けてから、街道はしばらく穏やかな景色の中を続いていた。
昨日までの雨を含んだ土はところどころ濃い色を残しているものの、道の中央は馬車が何台も通ったことでかなり乾き始めている。左右には草地と畑が交互に広がり、遠くには低い林と、小さく波打つような丘が見えていた。
御者台では、モモが昨日よりずっと慎重に手綱を握っている。
泥の深そうな場所を見つければ早めに速度を落とし、対向する荷馬車が見えれば余裕を持って道の端へ寄せる。昨日ガイルから注意された「楽しくなると速度を上げすぎる」という癖を、本人なりにかなり意識しているらしい。
「モモ、今日かなりゆっくりだな」
馬車の後ろから景色を眺めていたルシルが声を掛けると、モモは前を見たまま少しだけ頬を膨らませた。
「昨日、速すぎると言われましたから。今日はトルクさんとベルクさんが歩きやすい速さを覚えるんです」
「別に遅すぎるとは言ってないよ。むしろ上手くなってるなって思っただけ」
「……それなら、ありがとうございます」
褒められるとは思っていなかったのか、モモの声がわずかに柔らかくなる。
隣に座るシモンも二頭の動きを見ながら頷いた。
「今くらいなら十分でしょう。道もまだ完全には乾いていませんし、ラナまで今日中に到着しなければ困る事情もありません」
「でも今日中には着けそう?」
ルシルが聞く。
「大きな寄り道をしなければ、夕方前後には着くと思います」
「大きな寄り道をしなければ、か」
「そこだけ強調して聞かないでください」
シモンの声に、ルシルは笑った。
昨日一日で、自分たちが予定通り一直線に進むことにはあまり向いていないと分かった。
道端に兎が出れば見る。
旅人の泉という文字を見つければ寄る。
知らない旅人と話せば、そのまま昼食の時間が伸びる。
夕日が綺麗だと聞けば、わざわざ丘へ上がる。
けれど、ルシルはそれを失敗だとは思っていなかった。
むしろ、そういう時間がなければ、昨日という一日はずっと短かっただろう。
「今日は何か見つけても、いったんシモンに聞く」
「昨日も聞いていたでしょう」
「そうだっけ?」
「旅人の泉へ行く前に確認しました」
「ああ、したな」
「すでに忘れているではありませんか」
「でも許可してくれた」
「安全上問題がなかったからです」
シモンの返事に、モモが小さく笑う。
「シモン君、だいぶ寄り道を許してくれるようになりましたね」
「最初から、すべて禁止していたわけではありませんよ」
「でも王城の頃なら、予定にない場所へ行くと言ったら止めてそう」
ルシルが口を挟むと、シモンは少しだけ考えた。
「王城の頃でしたら、そもそも予定にない移動を提案されても、次の公務に間に合うかを先に考えていたでしょうね」
「今は?」
「次の公務がありません」
「最高だな」
「ルシル様は本当にその点だけは一貫していますね」
三人の笑い声が、車輪の音へ重なる。
しばらくすると、モモの運転にもさらに余裕が出てきた。
昨夜野営した丘はもう見えない。
ヘルガスも完全に地平の向こうだ。
前には、まだ知らない街道だけが続いている。
ルシルは窓枠へ腕を置き、流れていく景色を眺めた。
昨日はどこを見ても新しかった。
今日も新しい。
けれど、一日目とは少し違う。
馬車の揺れに身体が慣れ始めている。
トルクとベルクの蹄の音にも聞き覚えができた。
シモンが地図を広げる音も、モモが時々二頭へ声を掛けることも、すでに旅の中の普通の景色になりつつある。
知らないものばかりだった旅に、少しずつ「いつものもの」が増えている。
それがルシルには面白かった。
「そろそろ交代しますか?」
モモが聞いたのは、太陽がかなり高くなってからだった。
「疲れた?」
「腕は大丈夫ですけど、ずっと同じ姿勢なので少し休みたいです」
「なら交代しよう。次俺やる」
「では、少し先に休めそうな場所があります。そこで一度止まりましょう」
シモンが地図から顔を上げ、前方を指した。
街道脇に数本の大きな木が立っている。
その周辺だけ道が広くなっていて、以前から馬車の休憩に使われているらしい。
モモは速度を落とし、馬車を街道の端へ寄せた。
停車すると、三人ともまずトルクとベルクの様子を見る。
昨日から何度も繰り返しているため、最初ほど動作に迷いはない。
「汗はそこまでじゃないな」
ルシルがトルクの首筋へ触れる。
「呼吸も落ち着いています」
シモンはベルクを見ながら答えた。
「少し水を飲ませて、三人も休みましょう。昼にはまだ少し早いですが、昨日より朝食も早かったですから」
「お腹空きました」
モモが即座に言う。
「それは運転したから?」
「たぶん」
「お菓子じゃなくて?」
「ご飯です」
「珍しい」
「私だって普通にお腹は空きます」
モモが少し不満そうに言う。
水と飼葉を用意し、三人は木陰へ入った。
朝作った薄焼きパンの残りと、干し肉、昨日市場で買った果物を取り出す。
野営の朝と違い、今度は火を使わない。
「これも旅の飯って感じする」
ルシルは赤い果物をかじった。
「何でも旅っぽいと言えばいいと思っていませんか?」
シモンが干し肉を切り分けながら聞く。
「でも街道の木の下で食べるの、王城じゃ絶対なかった」
「それはそうでしょうね」
「神殿でもありませんでした」
モモも果物を手に取る。
「食事は決まった場所で、決まった時間に食べるものだと思っていました」
「俺も近い」
ルシルは木の幹へ背を預けた。
「今は腹減ったら止まって食う」
「完全に好きな時ではありませんよ。馬車を安全に止められる場所が必要ですし、トルクとベルクの休憩も考えます」
「でも前よりずっと自由だろ」
「それは否定しません」
シモンも果物を一口食べる。
少し酸味が強かったらしく、眉がわずかに動いた。
「酸っぱい?」
ルシルが気づく。
「少しだけ」
「俺の方甘いぞ。交換する?」
「もう食べていますから結構です」
「じゃあ次こっち取れば?」
「そうします」
そんな会話をしていた時だった。
街道の向こうから、何かを叩くような音が聞こえた。
乾いた木を硬い物で何度か叩く音。
三人が同時に顔を上げる。
「何でしょう?」
モモも街道の先を見る。
木々の間から、荷馬車が一台見えた。
ただし動いていない。
道の端へ少し傾くように止まり、その横で二人の男がしゃがみ込んでいる。
さらに一人、年配の女性らしい姿もあった。
「馬車、止まってるな」
ルシルは食べかけの果物を持ったまま立ち上がった。
シモンもすぐ状況を見る。
「故障かもしれません」
「見に行く?」
「まず食べ終えてください」
「今?」
「口に入れたまま話しかけに行くつもりですか?」
ルシルは自分の手に残っている果物を見る。
「……確かに」
モモが笑った。
三人は残りを急がず食べ、食器代わりにしていた布を片付ける。
トルクとベルクはそのまま休ませておき、三人だけで停まっている荷馬車へ向かった。
近づくと原因はすぐ分かった。
後輪の一つが不自然に傾いている。
完全に外れてはいないが、車軸側の部品が破損したらしく、車輪が正常な位置を保てなくなっていた。
「大丈夫ですか?」
ルシルが声を掛ける。
しゃがんでいた男の一人が振り返った。
四十代くらいだろう。
日に焼けた顔に汗が浮かんでいる。
「旅人か。悪いな、道を塞いじまって」
「いや、俺たちの馬車は向こうに止めてあるから大丈夫。壊れた?」
「ああ。右後ろの軸受けが割れたみたいでな」
男は苦い顔をする。
「完全に折れちゃいないんだが、このまま走ったら車輪ごと駄目になる」
もう一人は二十歳前後の若い男だった。
親子なのかもしれない。
年配の女性は荷台の横に立ち、不安そうに二人を見ている。
「修理道具は?」
シモンが尋ねる。
「最低限はある。だが、当て板が足りん。こんな場所で割れると思わなくてな」
男は自嘲するように笑った。
「近くの村まで行ければどうにかなるんだが、その村まで行くために直さないといけない」
「載せてる物は?」
「野菜と乾物だ。ラナへ持ってく途中だった」
「俺たちもラナへ行くところ」
ルシルが言うと、年配の女性が少し驚いたように顔を上げた。
「旅の方なの?」
「うん。昨日ヘルガス出たばっかり」
「本当に出たばかりなんですね」
シモンが横から補足するように言う。
男は三人を見たあと、遠くに停めてある焦げ茶色の馬車へ視線を向けた。
「立派な馬車だな」
「買ったばっかり」
「それで道具、何か持ってないか?」
ルシルはすぐシモンを見た。
「補修板、あったよな」
「あります。ただし、僕たちの馬車用にガイルさんから渡されたものですから、形が合うか確認しないと」
「見せてもいい?」
「もちろんです」
三人は自分たちの馬車へ戻り、工具箱と補修材を持ってきた。
ガイルから教わったばかりの道具だ。
まさか翌日に使うことになるとは思っていなかった。
「これ、役に立つ?」
ルシルが補修板を見せる。
男は受け取り、破損箇所へ合わせた。
「厚みは少し違うが……加工すれば使えそうだ」
「じゃあ使って」
「いいのか?」
「また買えるし」
シモンがすぐにルシルを見る。
「ルシル様。使っても構いませんが、今の言い方だと何でも簡単に補充できるように聞こえます」
「あ、そうか」
ルシルは男へ向き直る。
「ごめん。旅の予備だから本当は大事なんだけど、今はこっちで必要だから使っていい」
男は少し目を丸くした。
それから声を上げて笑った。
「正直な兄ちゃんだな」
「まだ旅に慣れてないから」
「見りゃ分かる」
「今日それ何回目だろ」
「何の話だ?」
「いや、気にしないで」
男が補修板を加工し始める。
若い男も手伝う。
ルシルはしばらく横から見ていたが、すぐに手を出したくなった。
「俺もやる?」
「馬車いじったことあるのか?」
「昨日習った」
「昨日?」
「うん」
男が手を止める。
「……じゃあ、工具渡す係にしてくれ」
「分かった」
モモが笑いを堪えている。
「何?」
「安全な役割になりましたね」
「俺だって車輪くらい外せる」
「昨日一回習っただけでしょう」
シモンも落ち着いて言う。
「今回は経験のある方へ任せた方がいいです。僕たちは必要なものを出すくらいで十分でしょう」
「分かってる」
少し残念ではある。
だが、昨日ガイルにも「分からないことを分からないまま触るな」と教えられた。
力があるからといって、自分が何でもできるわけではない。
ルシルは素直に工具係へ回った。
「これ?」
「いや、細い方の金槌」
「こっちか」
「ああ。それと革紐」
「はい」
「兄ちゃん、返事いいな」
「初めて人の馬車直すの手伝うから」
「そんな嬉しそうに言うことか?」
男がまた笑う。
モモは年配の女性と話しながら、荷馬車を引いている一頭の馬へ水を与える手伝いをしていた。
ずっと停車していたため疲れは少なそうだが、不安げに足を動かしていたらしい。
「この子、名前は?」
「ルナっていうの」
女性が答える。
「女の子ですか?」
「ええ。もう九歳になるわ」
「トルクさんより年上です」
「お連れの馬?」
「はい。トルクさんとベルクさんです」
モモは遠くの二頭を指した。
トルクは相変わらず飼葉を食べ、ベルクは時々こちらへ顔を向けている。
「馬を飼い始めたばかりなの?」
「一昨日買いました」
「一昨日?」
女性の目が丸くなる。
モモは少し恥ずかしそうに笑った。
「私たち、全部始めたばかりなんです」
その言葉が、ルシルの耳にも届いた。
全部始めたばかり。
確かにそうだ。
馬車。
馬の世話。
野営。
料理。
御者。
知らない旅人へ声を掛けることさえ、これまでほとんどなかった。
だからこそ毎日、何かしら初めてのことが起きる。
修理には思ったより時間がかかった。
壊れていた金具を応急的に固定し、補修板を削って当て、革紐と金具で動かないよう締める。完全な修理ではないため、ラナまで速度を落として進み、到着したら必ず専門の職人へ見せる必要があるという。
「これで、ゆっくりなら動けるはずだ」
男が立ち上がり、腰を伸ばした。
「助かった。本当に」
「俺ほとんど工具渡してただけだけど」
「板がなかったらどうにもならなかった」
「じゃあ板のおかげ」
「その板を持ってたのはあんたらだろ」
男は笑い、シモンへ向き直った。
「いくら払えばいい?」
「いえ、そこまで高価なものではありませんから」
「でも旅用の予備なんだろ?」
「そうですが、ラナで補充できると思います」
男は少し困った顔をする。
ルシルが口を開こうとすると、その前に年配の女性が荷台から籠を一つ持ってきた。
「だったら、これを持っていって」
中には、丸い赤紫色の野菜がいくつも入っている。
「これ何?」
ルシルが覗き込む。
「赤根菜よ。煮ても焼いても甘くて美味しいの。うちの畑で採れたものだから、お金よりこっちの方がいいでしょう?」
モモがすぐに興味を示す。
「甘いんですか?」
「野菜としてはかなりね」
「いただきましょう」
「即決だな」
ルシルが笑う。
シモンも籠を見て、少しだけ頷いた。
「では、ありがたくいただきます。ただ、こんなにたくさんでなくても」
「助けてもらったんだから持っていって。それにラナへ持っていく分はまだ十分あるわ」
「じゃあ今日の夕飯に使える?」
ルシルが聞く。
「使えます。煮込みでも焼いてもいいでしょう」
「楽しみです」
モモは赤根菜を一つ持ち上げた。
「今度は同じ大きさに切ります」
「昨日の覚えてる?」
「もちろんです」
年配の女性が二人の会話を聞いて笑う。
「料理も始めたばかりなの?」
「昨日初めて三人で作りました」
「それはいいわね。失敗しても、火を通せば大抵どうにかなるものよ」
「それ、安心します」
モモは本気で頷いた。
修理を終えた荷馬車は、試すように数歩進んだ。
傾いていた車輪は、まだ少し違和感があるものの、先ほどのように大きく歪んではいない。
男が一度止め、もう一度金具を確認する。
「これならラナまでは行ける。途中で何度か締め直せば大丈夫だろう」
「俺たちもラナへ行くから、一緒に行く?」
ルシルが何気なく言った。
男は少し考える。
「ありがたいが、こっちはかなりゆっくりになるぞ」
「別に急いでない」
「本当に急いでないな、あんた」
「うん」
シモンが地図と空を確認した。
「僕も構いません。ここからラナまでは、急がなくても日暮れ前には十分着ける距離です。むしろ応急修理した車輪の状態を途中で確認できるので、一緒に走る方が安全でしょう」
「じゃあ決まり」
モモも嬉しそうに頷く。
「ルナさんも一緒ですね」
年配の女性が微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ甘えさせてもらうわね」
三人は自分たちの馬車へ戻る。
予定より休憩時間はかなり長くなった。
昼食も済ませたため、もう太陽は高い。
「これって寄り道になる?」
ルシルが御者台へ座りながら聞いた。
シモンは隣へ乗り込み、少しだけ考えた。
「道から外れてはいませんから、厳密には寄り道ではないでしょう」
「じゃあ予定変更?」
「それくらいですね」
「でもラナ到着遅くなる」
「多少は」
「嫌じゃない?」
シモンはルシルを見る。
どうしてそんなことを聞くのかという顔だった。
「困っている人を置いてまで予定通り進む必要はないでしょう」
「そっか」
「何です?」
「いや」
ルシルは少し笑う。
「シモンも本当に変わったなと思って」
「以前でも、街道で故障した馬車を放置はしませんよ」
「でも予定は気にしてた」
「それは……まあ、気にはしたでしょうね」
シモンは少しだけ苦笑した。
「今は、遅れたところで誰かに叱られるわけでもありませんから」
「最高だな」
「またそれですか」
御者はルシルに交代した。
後ろにはモモ。
少し先を、応急修理した荷馬車がゆっくり進む。
最初は三人の馬車が後ろについたが、荷馬車の速度があまりに遅いため、途中から並走できる広い場所では様子を見ながら位置を変えた。
「ルシル様、近づきすぎないでください」
「これくらい?」
「もう少し距離を空けて。前の車輪で何か起きた時、すぐ止まれるように」
「分かった」
昨日までなら、前の馬車が遅いことを気にしたかもしれない。
今は不思議とそうでもない。
速度が遅い分、周囲を見られる。
ただし御者なので、見すぎるとシモンに注意される。
「右に花咲いてる」
「前を見てください」
「一瞬見ただけ」
「ルシル様の『一瞬』は信用しません」
後ろからモモが笑う。
「私は見ました。黄色い小さい花です」
「やっぱ咲いてた」
「情報共有しなくていいですから」
「シモンも見れば?」
「僕は前方と馬車を見ています」
「真面目だな」
「隣にルシル様がいるので」
「それどういう意味?」
「そのままです」
街道を進むうちに、周囲の風景にも少しずつ変化が現れた。
畑が増えた。
道沿いに低い石垣が見える。
遠くには小さな家屋も点在している。
「ラナ近い?」
後ろからモモが聞く。
「おそらく、あと一刻もかからないでしょう」
シモンが答えた。
「宿場町なら馬車多い?」
「増えると思います。ヘルガスほど大きくはありませんが、街道を使う商人や旅人が集まりますから」
「どの宿にする?」
ルシルが聞く。
ハーグからは三軒の特徴を聞いている。
大きな食事が売りの麦角亭。
静かに休める白灯亭。
馬の世話に強い蹄休め。
モモは少し考える間もなく答えた。
「私は蹄休めが気になります」
「俺も」
ルシルが同意する。
「トルクとベルク連れて初めて泊まる宿だし」
シモンも反対しなかった。
「僕も今回はそこがいいと思います。まだ二頭の扱いに慣れていませんから、厩舎の評判がいい宿の方が安心でしょう」
「食事は?」
「ハーグさんは特に悪いとは言っていませんでした」
「じゃあ決まり」
モモが後ろから口を挟む。
「でも、麦角亭の大きなご飯も気になります」
「次来た時に泊まればいいじゃん」
ルシルが何気なく言った。
その言葉が、自分でもずいぶん自然に出てきたことに気づく。
ヘルガスを出る朝までは、どこかへ戻るという発想そのものが新鮮だった。
今はもう、「次に来たら」という言葉を普通に使える。
「そうですね」
モモも嬉しそうに答える。
「ラナにも、また来るかもしれません」
「まだ着いてないけどな」
「気が早かったです」
少し先を走る荷馬車が止まった。
三人もすぐに速度を落とす。
男が降り、後輪を確認している。
「どう?」
ルシルも馬車から降りて近づいた。
「金具が少し緩んでる。締め直せば大丈夫だ」
「手伝う」
「じゃあ今度も工具頼む」
「まだそこ?」
「昨日習ったばかりなんだろ?」
「今日で二日目」
「変わらねえよ」
男が笑う。
ルシルも笑いながら工具箱を開いた。
今度はどの工具を渡せばいいのか、さっきより少し早く分かった。
「これだろ?」
「お、覚えたな」
「成長した」
「そこだけ聞くと子供みたいだな」
「でも本当に昨日まで知らなかったし」
金具を締め終え、再出発する。
そこからは大きな問題もなかった。
やがて道の向こうに、複数の屋根が見えてきた。
石造りと木造の建物。
街道沿いへ細長く広がる町。
ヘルガスほど高い建物はない。
代わりに、遠くからでも分かるほど馬小屋と荷馬車の数が多い。
「見えた」
ルシルの声が弾む。
「ラナ?」
「はい。あれがラナ宿場町でしょう」
シモンが地図と見比べる。
モモが後ろから窓へ顔を寄せた。
「新しい町です」
その声には、昨日ヘルガスを出た時の寂しさとは違う、純粋な期待があった。
ルシルも同じだった。
ヘルガスを離れた。
最初の野営をした。
そして今、旅に出て初めて次の町へ着こうとしている。
「なんか変な感じ」
「何がです?」
シモンが聞く。
「本当に進んでるんだなって」
「朝からずっと進んでいましたよ」
「そうじゃなくてさ」
ルシルは少し考えた。
「昨日までは、まだヘルガスの近くって感じだった。でも別の町が見えると、本当に旅してるって分かる」
シモンも前方の町を見る。
「なるほど」
後ろからモモが笑った。
「私も分かります。ヘルガスとは屋根の形も違いますね」
「そこまで見える?」
「見えます」
「じゃあ着いたら見よう」
先を行く荷馬車から、年配の女性が振り返って手を振った。
モモも窓から手を振り返す。
ラナの入口へ近づくにつれ、街道を行き交う馬車が増えていく。
荷を積んだ商人。
徒歩の旅人。
馬に乗る冒険者らしい一団。
町の外には大きな共同厩舎らしい建物も見えた。
ルシルは手綱を少し握り直す。
「シモン」
「はい」
「俺、ちゃんと町の中運転できるかな」
「ここまで来たのですから大丈夫でしょう。ただし人と馬車が多いので、街道よりさらにゆっくり進んでください」
「後輪も見る」
「直接後ろを見続けないでください。曲がる時に位置を意識すれば十分です」
「分かった」
ルシルは少し緊張しながら、それでも笑っていた。
困っている馬車を見つけたせいで、予定より到着は遅くなった。
補修板も一枚使った。
工具を出し入れし、何度か道端で止まった。
それでも、損をしたとはまったく思わない。
むしろ今日という日の中に、新しい出来事が一つ増えた。
知らない誰かへ声を掛けた。
持っているものを貸した。
代わりに赤根菜をもらった。
名前も知らなかった人たちと、一緒に同じ町へ向かった。
それだけなのに、朝ただラナへ向かっていた時より、町へ到着するのが少し嬉しくなっている。
「なあ、シモン」
「何でしょう」
「旅って、こういうのも含まれるんだな」
「どういうのです?」
「知らない人と途中だけ一緒に走るとか、困ってたらちょっと手伝うとか」
シモンは前を見ながら、少しだけ口元を緩めた。
「そうでしょうね。街道には僕たち以外にも旅をしている人がいますから」
「また会うかな」
「分かりません」
「会わなくてもいい?」
「いいのではありませんか。今日助けられたなら、それで十分でしょう」
ルシルはその答えを聞き、ゆっくり頷いた。
誰かを助けたからといって、仲間にならなくてもいい。
恩を返してもらわなくてもいい。
次に会う約束をしなくてもいい。
道の途中で少しだけ関わって、そのまま別れる。
そういう出会いもあるらしい。
「それも旅か」
「おそらく」
「いいな」
焦げ茶色の馬車が、応急修理された荷馬車とともにラナの入口へ近づいていく。
ヘルガスを出て二日目。
三人と二頭は、ようやく最初の宿場町へ辿り着こうとしていた。
昨日とは違う町。
知らない宿。
知らない料理。
知らない人々。
また、新しいものが増える。
ルシルは前方へ続く道を見ながら、自然に笑った。
急がなくても、ちゃんと前へ進んでいる。
寄り道しても。
立ち止まっても。
誰かを手伝って少し遅れても。
旅は、止まってはいなかった。




