第16話 最初の宿場町では、馬の宿を先に決めることにしました
ラナ宿場町の入口が近づくにつれて、街道を行き交う馬車の数は目に見えて増えていった。
ヘルガスのように高い城壁で囲まれた都市ではなく、ラナは大きな街道に沿って細長く育った町らしい。低い石壁と木柵が町の境を示し、その向こうには二階建ての宿や商店、屋根の広い厩舎が連なっている。荷車を引く馬の蹄音と車輪が石混じりの道を転がる音、客を呼ぶ店員の声が重なり、遠くから眺めていた時よりもずっと賑やかな場所だった。
風に乗って届く匂いも、昨日まで走ってきた草原とはまるで違う。乾いた藁と馬の匂いに、焼いた肉や煮込み料理、焼き上がったばかりらしいパンの香ばしさが混じっている。町の入口近くには旅人向けらしい露店まで並んでいて、串焼きを片手に歩く冒険者や、大きな荷物を背負った商人の姿も見えた。
「……腹減ってきたな」
御者台で手綱を握っていたルシルが、漂ってくる匂いにつられて思わず呟く。隣に座って町の入口を確認していたシモンは呆れたように視線だけを向けたが、すぐに前方へ戻した。
「先ほど昼食を食べたばかりでしょう。それより前を見てください。街道より人も馬車も増えていますから、今は食事のことを考えるより安全に入町する方が先です」
「分かってるって。匂いが勝手にこっちまで来るんだから仕方ないだろ」
そう答えながらも、ルシルは素直に意識を前方へ戻した。
ラナへ近づいたことで、御者として求められるものは明らかに増えている。前には先ほど応急修理を手伝った荷馬車がゆっくり進んでいるだけでなく、町から出てくる馬車もあり、道端には徒歩の旅人までいる。ガイルの練習場で置かれた木箱の間を通った時とは違い、今は周囲にあるもののほとんどが動いていた。
後ろの窓から町を眺めていたモモも、さすがに露店へ意識を奪われてばかりはいなかった。行き交う人々の間隔が狭くなるたびに前方を確かめ、ときおり左右から近づく馬車へ目を向けている。
「ルシル様、右から一台来ています。こちらへ曲がってくる感じではなさそうですけど、少し大きいですね」
「見えてる。止まるほどじゃないよな?」
ルシルが確認すると、シモンは対向してくる荷馬車と路肩の状態を見比べた。樽を何段も積んだ荷馬車は大きいものの、道幅には十分な余裕がある。
「今の位置を保てば問題ありません。ただし左へ寄せすぎないでください。路肩は中央より柔らかそうですから、車輪を落とす方が危険です」
「了解。トルク、ベルク、そのままな」
二頭へ無理に速度を落とさせることなく、ルシルは手綱を保った。やがて対向してきた荷馬車が横を通り過ぎ、その御者を務めていた中年男が軽く片手を上げてくる。
ルシルも反射的に手を上げかけたものの、今は両手で手綱を扱っていることに途中で気づき、代わりに小さく頭を下げた。向こうの御者もそれで十分だったらしく、口元を緩めて会釈を返すと、そのままヘルガス方面へ走っていった。
「今、手を振ろうとしましたね」
シモンが見逃さなかったことに、ルシルは少し気まずそうに笑った。
「ちょっとだけな。でも途中で気づいただろ?」
「ええ。ですから何もしていません。御者同士の挨拶なら、今のように前を見たまま軽く会釈する程度でも十分ですよ」
「分かった。次からそうする」
注意されることはまだ多い。それでも昨日までとは、少しだけ受け止め方が変わっていた。
一つ教えられれば、次はできる。
泥道では速度を落とした。前を走る荷馬車とは十分な距離を取った。対向車が来れば路肩へ逃げすぎず、自分たちの車幅を考えて通り過ぎる。
まだ初心者であることに変わりはない。それでも一昨日、ローデン馬車商会の練習場で初めて御者台へ座った時より、昨日より、今日の自分の方がほんの少しだけ馬車を扱えるようになっている。その小さな積み重ねが、ルシルには思っていた以上に嬉しかった。
やがて町の入口に設けられた簡素な検問所が近づいてきた。
城塞都市の門ほど厳重ではなく、木造の詰所と屋根付きの柵があり、入ってくる馬車が一度速度を落とせるよう道幅が広く取られている。二人の衛兵が交代で荷馬車や徒歩の旅人へ声を掛け、必要に応じて荷物や身分証を確認していた。
先を走っていた荷馬車もそこで止まり、御者の男が衛兵と何か話している。ルシルは慌てて距離を詰めず、トルクとベルクをゆっくり歩かせてから十分な間隔を取って停車させた。
「ここで待てばいいんだよな?」
「ええ。前の方の手続きが終わるまで、このままで大丈夫です」
シモンの返事を聞いてから、ルシルは周囲を眺めた。入口の脇には大きな町の案内板が立っており、宿、厩舎、鍛冶屋、車輪修理、食料品店、共同井戸といった旅人が必要としそうな場所が、文字と簡単な絵記号で示されている。
その中に大きな蹄の印を見つけ、ルシルは今度こそ手綱を離さず、視線だけをそちらへ向けた。
「あの蹄の印、たぶん蹄休めだよな。ハーグさんが言ってた宿」
シモンも案内板を確認し、町の簡略図へ目を走らせる。
「そうでしょうね。位置は町の西寄りで、厩舎もかなり大きく描かれています。入口からなら二つ目の大きな交差路を右へ進むのが近そうです」
「ちゃんとあるんだなあ」
「ハーグさんから実在する宿として教わったのですから、あるのは当然でしょう」
「それはそうなんだけどさ」
ルシルは案内板に描かれた宿の印を眺めながら、自然と頬を緩めた。
昨日までは地図に書かれた名前だった。
麦角亭は食事が多い。白灯亭は静か。蹄休めは馬の世話に強い。そんな話を聞きながら頭の中で想像していた場所が、今はこの町のどこかに本当に建っている。
誰かから聞いた道を自分たちで走り、聞いていた町へ辿り着き、その情報を頼りに今夜眠る場所を選ぶ。旅をしている者にとっては当たり前なのだろうが、ルシルにはその一つ一つがまだ新鮮だった。
やがて前の荷馬車の確認が終わった。四十代ほどの男が御者台から振り返ってこちらへ片手を上げ、先に町の中へ入っていく。
三人の番になった。
「こんにちは。三人でいいか?」
近づいてきた衛兵へ、ルシルは御者台から答えた。
「三人です。旅の途中で、今日はラナに泊まるつもりです」
「荷物はその馬車の中か?」
「ほとんど収納魔法に入れてあります」
衛兵は少し意外そうに馬車を見回した。確かに長旅用の馬車にしては外側の荷物が少ない。
「収納持ちか。それは便利だな。代表だけじゃなく、三人とも使えるのか?」
「三人とも使えます」
ルシルが答えると、衛兵は感心したように眉を上げたものの、それ以上深く尋ねることはなかった。
「なら冒険者証か身分証を見せてくれ」
三人はそれぞれ冒険者証を取り出した。ルシルとモモのBランク証を確認した衛兵は、その次に差し出されたシモンの金色のカードを見て、一瞬だけ目を大きくした。
「Aランクか。そっちの二人もBなら、結構な腕の三人組なんだな。最近はセイラ方面へ行く冒険者が少し増えてるから、あんたらも依頼で来たのかと思ったよ」
その言葉にシモンの視線がわずかに鋭くなったものの、必要以上に食いつくことはなかった。
「セイラ森林の魔物の目撃が増えているという話ですか?」
「ああ。ただ、今のところ街道を閉鎖するとか、町が騒ぎになるような状況じゃない。ギルドが様子を見るために討伐や巡回の依頼を少し増やしてる程度だ。南西へ抜けるなら、ラナかグレイを出る前に新しい情報だけ確認しておいた方がいい」
「ありがとうございます。僕たちは依頼が目的ではなく旅の途中ですから、状況を見て判断します」
シモンが礼を言うと、衛兵も軽く頷いた。まだ何か重大な事件が起きているわけではないらしい。それなら今ここで詳しく聞き出す必要もない。
衛兵は今度は焦げ茶色の馬車へ目を向け、車輪や車体を眺めた。
「それにしても新しい馬車だな。車輪もまだ綺麗だ」
「一昨日買ったばかりなんだ。俺たちも御者を始めたばっかり」
ルシルが素直に答えると、衛兵は少し笑った。
「なるほど。じゃあ町中では曲がる時の後輪に気をつけろよ。ここは荷馬車が多いから、街道より余裕がない場所もある」
「そこ、今まさに練習中なんだよな……」
思わず苦笑したルシルに、もう一人の衛兵まで笑いをこぼした。からかうようなものではなく、自分も昔似た失敗をしたことがあるとでも言いたげな反応だった。
「初心者なら宿は蹄休めがいいかもしれん。あそこの親父は人間より馬の方にうるさいくらいだから、分からないことがあれば教えてくれる。二つ目の大きな交差路を右へ曲がれば、蹄の看板が見えるぞ」
「ちょうどそこへ行こうと思ってた。ありがとう」
「なら迷わないだろ。いい旅を」
柵が開き、ルシルは少しだけ姿勢を正した。
「行くぞ、トルク、ベルク。人が多いからゆっくりな」
二頭へ合図を送ると、焦げ茶色の馬車は静かに動き出した。
こうして三人は、ヘルガスを出てから最初の目的地だったラナ宿場町へ正式に入った。
町の中は、入口から眺めていた以上に馬車が多かった。
大通りの左右には宿や食堂、道具屋、食料品店が並び、その間を旅人や商人が絶えず行き交っている。ヘルガスでは徒歩の住民を多く見かけたが、ラナでは手綱を引いて馬を歩かせる者や、荷車の横を歩く商人の姿が明らかに多い。
建物の前には一時的に馬をつなぐための横木があり、店によっては水桶まで用意されている。向かいの鍛冶屋には何枚もの蹄鉄が吊るされ、奥から金属を叩く澄んだ音が一定の間隔で響いていた。
「本当に、馬と馬車のための町みたいですね」
後ろの窓から外を眺めていたモモが、感心したように呟いた。ちょうど一軒の商店では若い店員たちが大きな袋を荷車へ積み込んでおり、その隣では旅人らしい男が靴底の修理を頼んでいる。
「ヘルガスとは全然違うな。同じ街道沿いでも、こんなに変わるんだ」
ルシルも周囲をじっくり眺めたい気持ちは強かったが、今は御者を務めている。前を横切る人や荷車があるたびに意識を道へ戻し、トルクとベルクが驚かないよう速度を一定に保った。
それでも鼻から入ってくる匂いだけは止められない。
右側の食堂から香辛料をまとった焼き肉の匂いが漂ってくると、ルシルの視線がほんの少しだけそちらへ動いた。それを見逃さなかったシモンが無言で前方を指差したため、ルシルは何も言われる前に視線を戻す。
「分かってる。見てない。匂いを嗅いだだけだからな」
「何も言っていませんよ」
「その顔が言ってるんだよ」
後ろから小さな笑い声が聞こえたかと思うと、今度はモモが左側の窓へ顔を寄せた。
「こちらからは甘い匂いがします。焼き菓子でしょうか……あ、やっぱりそうです。薄く焼いたものに何か塗っていますね」
「モモまで食べ物見てるじゃん」
「私は今、御者ではありませんから」
少し得意そうに返したモモだったが、すぐに窓から離れて席へ戻った。ルシルはてっきり店の場所を覚えて今すぐ寄ろうと言い出すのかと思ったが、彼女はそれ以上騒がなかった。
「寄らなくていいのか?」
「あとで行けますから。それより先に、トルクさんとベルクさんを休ませる場所を決めたいです。ずっと私たちの馬車を引いてくれたのに、町へ着いた途端に私たちだけお菓子を買いに行ったら、ちょっと違う気がします」
モモはそう言って、御者台の向こうで歩いている二頭の背中を見つめた。
ルシルも同じ方向へ目を向ける。
「俺もそう思う。飯も店も逃げないし、まず宿だな」
腹は減っている。知らない店も気になる。それでも、自分たちがこの町まで歩いてきたわけではない。
トルクとベルクが馬車を引いてくれたからこそ、昨日の夕日の丘からここまで来られた。旅に出る前なら、町へ着いたらまず自分の食事や寝床を考えていたかもしれないが、今は二頭を休ませることが自分たちの用事の一部として自然に頭へ浮かぶ。
少し進むと、衛兵から教えられた二つ目の大きな交差路が見えてきた。
「ここを右だな。今度は後輪までちゃんと通すから、見ててくれ」
ルシルは早めに速度を落とし、右から来る人と馬車を確認した。シモンも口を挟みすぎず、必要なところだけ助言する。
「前輪だけで曲がろうとせず、少し先へ出てからです。内側へ寄せすぎなければ十分通れます」
ルシルは頷き、トルクとベルクを焦らせないようゆっくり進めた。
前輪が交差路へ入り、長い車体がそれに続く。昨日までは前輪が障害物を避けたことで安心し、後輪が同じ軌道を通らないことを忘れがちだった。今日は車体全体が曲がり切るまで意識を残し、角との間に余裕を持たせる。
やがて後輪まで何にも触れず交差路を抜けた。
「今のはちゃんとできたよな?」
嬉しさを隠しきれない声で確認すると、シモンは後方を一度見てから頷いた。
「ええ。十分余裕を取れていました。ですが、一回成功しただけで熟練者のような顔をするのは早いですよ」
「そんな顔してないだろ」
「していましたよ」
後ろからモモまで笑いながら同意したため、ルシルは少し不満そうに口を尖らせた。それでも、注意されながら失敗するのではなく、できたことを確認してもらえるのは素直に嬉しい。
曲がった先は、大通りより少し静かだった。
宿が数軒並び、その裏側には広い厩舎や馬車置き場が見える。少し進んだところで、モモが後方から身を乗り出しすぎない程度に窓を覗き込み、大きな木製看板を見つけた。
「あれですよね。蹄の絵があります」
看板には大きな馬の蹄が彫られ、その下に『蹄休め』と書かれていた。
宿は想像していたより大きい。二階建ての木造建物で、正面は落ち着いた旅籠らしい造りだが、横から奥へ続く厩舎は宿そのものに負けないほど広かった。屋根付きの馬車置き場まであり、すでに何台かの荷馬車と旅客馬車が停められている。
「名前の通り、本当に馬の場所が広いな」
ルシルが感心しながら速度を落とすと、シモンが宿の右側を示した。
「正面へ馬車をつけるのではなく、あちらの馬車口から入るようです。厩務員もいますね」
その言葉通り、若い男が三人の馬車に気づき、大きく手を振った。
「泊まりなら、そのままこっちへ入ってくれ! 二頭立てなら十分曲がれるから、ゆっくりでいいぞ!」
「泊まりです!」
ルシルも声を返し、指示された方向へ馬車を進める。広い場所まで入ったところで厩務員が停車位置を示したため、ルシルはトルクとベルクへ合図を送り、焦げ茶色の馬車を無事に止めた。
完全に車輪が止まったところで、ルシルはようやく肩から力を抜いた。
「……着いたな」
街道を走るのとは別の緊張があった。
人の多い町へ入り、初めての交差路を曲がり、自分で宿の馬車口まで運転した。ただそれだけのことなのに、御者台から降りた瞬間には小さな達成感が胸の中に残っていた。
「お疲れさまでした。町中での運転としては、十分だったと思います」
シモンからそう言われ、ルシルは満足そうに頷く。
「交差路もちゃんと曲がれたしな。昨日より上手くなってる気がする」
「実際、後輪への意識は良くなっています。ただ、明日も同じようにできて初めて身についてきたと言えるでしょう」
「じゃあ明日もやる」
そんな二人の横を通り、馬車から降りたモモは真っ先にトルクとベルクの方へ向かった。
「トルクさん、ベルクさん、お疲れさまでした。今日は昨日より人も馬車も多かったですね」
二頭へ穏やかに声を掛ける彼女を見て、若い厩務員が少し感心したように笑った。
「町へ着いて最初に馬へ声掛けるのか。いいね。ここの親父、そういう客なら気に入ると思うぞ」
「どうしてですか?」
「宿に着いた途端、自分の飯と部屋のことしか考えなくなる客もいるからさ。馬が汗かいてても放っておくようなのを見ると、親父は結構うるさいんだ」
モモは少しだけ表情を曇らせ、トルクの首筋へ手を添えた。
「それは嫌ですね。この子たちが歩いてくれたから、私たちはここまで来られたのに」
「そういうこと。ところで、見ない馬車だな。ここへ来るのは初めてか?」
ルシルは頷いた。
「この馬車で旅すること自体が初めてなんだ。買ったのは一昨日で、昨日初めて野営した」
「一昨日?」
厩務員は馬車と三人を交互に見て、本気で驚いた顔をした。
「それでヘルガスからここまで来たのか。馬の世話は誰か経験あるのか?」
「全員ほとんど初心者。ただ、買った店でかなり教えてもらった。朝と休憩と夜に脚と蹄を見て、水と飼葉も確認してる」
ルシルの説明を聞きながら、厩務員はトルクの脚や身体をざっと見た。汗を放置した跡もなく、蹄にも目立った泥が詰まったままになってはいない。
「なるほどな。教えた奴がちゃんとしてる。どこの店だ?」
「ヘルガスのローデン馬車商会。ガイルって人」
「ああ、ガイルさんか。それなら納得だ。あの人、馬を雑に扱いそうな奴には売らないって聞くからな」
その言葉を聞いた瞬間、ルシルは思いがけず嬉しくなった。
自分たちはまだ何も上手くない。御者としても、馬の世話をする者としても、旅人としても知らないことばかりだ。
それでもガイルはトルクとベルクを任せてくれた。
なら、その信頼を雑には扱いたくない。
「ここで二頭を預かってもらえる?」
「もちろん。それがうちの売りだよ。初めてなら厩舎まで一緒に来るか? 馬房も見ておいた方が安心だろ」
ルシルがすぐ頷くと、モモも当然のように同行を希望した。シモンも二頭が過ごす環境を自分の目で確認したいらしく、三人揃って厩舎へ行くことになった。
「三人とも来るのか。ずいぶん大事にされてるな、お前ら」
厩務員がトルクとベルクへそう言ってから、馬車を外す準備を始める。
三人もガイルから習った手順を思い出しながら動いた。ルシルがトルク側を確認し、シモンがベルク側へ回り、モモは外した馬具を地面へ乱雑に置かないよう受け取ってまとめる。
途中、ルシルが革紐をそのまま抜こうとしたところで、厩務員から声が掛かった。
「そこはもう少し緩めてからの方がいい。急いで引き抜くと馬の身体に擦れることがある」
「ここか。分かった、ちょっと戻す」
指摘されたことを恥ずかしがらず、ルシルは一度手を止めてやり直した。数日前まで馬具の名前さえよく分かっていなかったのだから、できないことがあるのは当然だ。
全部外し終えると、厩務員はトルクの首筋を軽く撫でながら歯や身体つきを見た。
「栗毛の方は七歳くらいか?」
「七歳。トルクっていうんだ」
「じゃあ灰黒は六歳前後だな。体つきが少し若い」
「ベルクです。六歳で、トルクの弟です」
シモンが答えると、厩務員は納得したように二頭を見比べた。
「兄弟か。それなら歩調がよく合うのも分かる。こっちへ連れていくぞ」
トルクは知らない場所にもあまり物怖じせず、厩務員に導かれるまま素直に歩き始めた。
しかしベルクは、厩舎の入口へ近づいたところで一度足を止めた。
中からは複数の馬の気配と匂いがする。鼻先を少し持ち上げ、耳を忙しく動かしながら周囲を確かめている姿を見て、シモンは無理に手綱を引かなかった。
「ベルク」
低く穏やかな声で名前を呼び、首元へ手を添える。
「知らない馬が多いですが、今日はここで休みます。トルクも一緒ですから、大丈夫ですよ」
言葉そのものをどこまで理解しているのかは分からない。それでも聞き慣れた声と触れ方には意味があるらしく、ベルクの耳がシモンの方へ向いた。
少し待つと、ベルクはもう一度厩舎の奥を見てから、自分から一歩踏み出した。
その様子を横で見ていた厩務員が、感心したように口笛を吹きかけて途中でやめた。馬を驚かせないためだろう。
「灰黒の方、お兄さんにかなり懐いてるな」
そう言われたシモンはベルクへ目を向け、それから自分の手を見た。以前ならすぐに「たまたまです」と否定していたかもしれない。
「……そう見えますか?」
「ああ。少なくとも、知らない場所で頼りにする相手だとは思ってるよ」
「そうですか」
それだけ答えたシモンは、今回は否定しなかった。
ルシルとモモは顔を見合わせたものの、わざわざ茶化すこともしなかった。ただ二人とも、少しだけ嬉しそうに口元を緩めている。
それに気づいたシモンが怪訝そうに二人を見る。
「何ですか、その顔は」
「いや、何でもない。今回は本当に何も言ってないからな」
「そうですよ。私も何も言っていません」
「顔で会話するのをやめてください」
三人のやり取りを聞いていた厩務員は事情が分からないまま笑い、先へ進んだ。
蹄休めの厩舎は、外から見た以上に広く清潔だった。
乾いた藁の匂いは強いが、鼻につくような臭気はほとんどない。中央の通路は二人が並んでも余裕があり、それぞれの馬房には丈夫な仕切りが設けられている。奥では別の厩務員が一頭の馬の脚を丁寧に拭いており、さらに向こうでは飼葉を運ぶ音がしていた。
「ベルクは知らない馬と合わないことがあるんです。兄のトルクとは問題ありませんが、隣へ別の馬を入れるなら少し注意していただけると助かります」
シモンが先に伝えると、厩務員はすぐに馬房の並びを確認した。
「それなら端の二つを使おう。トルクとベルクを隣同士にして、ベルクの反対側は壁にする。それなら他の馬と直接顔を合わせるのも少ない」
「助かります」
「夜は二回見回る。水はいつでも飲めるようにして、飼葉は持ち込みでもこっちのでも構わない。脚や蹄で気になるところがあれば言ってくれれば見るし、必要なら近所の蹄鉄屋も呼べるよ」
ルシルは説明を聞きながら、改めて厩舎を見回した。
「すごいな。宿の部屋より先に馬の説明がこんなにあるんだ」
「蹄休めって名前だからな。人間の部屋だけ立派でもしょうがない」
厩務員は笑ったが、その言葉には仕事への自信が滲んでいた。
トルクを馬房へ入れると、彼は新しい場所を軽く嗅いだだけで、ほどなく用意された水へ口をつけた。対してベルクはしばらく入口付近に立っていたが、隣にトルクがいることを確認し、シモンが馬房の外に残っていると分かると少しずつ緊張を解いていった。
「今日はここで休みましょう。僕たちも同じ宿にいますから」
シモンが額を撫でると、ベルクは鼻先を一度彼の肩近くへ寄せ、その後ようやく水桶へ顔を向けた。
その姿を確認して、シモンの肩からわずかに力が抜ける。
「これなら大丈夫そうですね」
「シモン君、本当に飼い主らしくなりましたね」
モモが嬉しそうに言うと、シモンはすぐに反論するかと思われた。しかし今回は少し考えた後、ベルクから手を離しながら穏やかに答えた。
「僕だけの馬ではありませんよ。トルクもベルクも、三人で選んで三人で買った馬です。世話をするのも僕だけではなく、三人でしょう」
「それもそうですね」
モモはトルクへ目を向け、ルシルも自然に頷いた。
誰か一人のものではない。
焦げ茶色の馬車も、トルクもベルクも、三人で選んだ。
だから世話も三人でする。
「じゃあ明日の朝も三人で来よう。俺、蹄の確認もう一回ちゃんとやりたいし」
「私は水と食欲を見るのを忘れないようにします」
「では朝食より先にこちらへ来ましょう。ただし起床時間は今夜のうちに決めておいた方がいいですね」
自然に明日の話をしながら、三人は厩舎を出た。
町へ着いた。
馬車を停めた。
トルクとベルクが休める場所も決まった。
そこまで終えて初めて、自分たちの寝床を探す番になった。
宿の正面へ回ろうとしたところで、背後から聞き覚えのある声が届いた。
「兄ちゃんたち!」
振り返ると、先ほどまで街道を一緒に走っていた荷馬車の男がこちらへ歩いてくるところだった。その後ろには若い男と年配の女性もいて、荷馬車のそばでは牝馬のルナが静かに立っている。
「間に合った。ちゃんと礼を言わないまま別れるところだったよ」
四十代ほどの男は少し息を弾ませながら、応急修理した後輪を振り返った。
「こっちはこのまま馴染みの修理屋へ行く。途中で一度締め直したところ以外は問題なかったが、あんたらが言ってた通り、応急処置のまま使い続けるつもりはない。今夜中には職人に見てもらうよ」
「それなら安心した。ルナも大丈夫そうだな」
ルシルが荷馬車のそばへ視線を向けると、ルナは耳をこちらへ向けたものの、疲れ切った様子はない。
年配の女性もほっとした表情で頷いた。
「本当に助かったわ。あそこで止まったままだったら、今日中には着けなかったもの。赤根菜、ちゃんと食べてちょうだいね」
「はい。次の野営で使ってみたいです」
モモが答えると、女性は籠の中の赤紫色の根菜を指しながら、初心者でも扱いやすい調理方法を教えてくれた。
「煮るなら皮は薄く剥くくらいで大丈夫。火を入れても崩れにくいから、少しくらい煮すぎても食べられるわ。焼くなら薄めに切って油を少し引いて、塩だけでも甘みが出るから美味しいわよ」
「それなら私たちでもできそうです。昨日、野菜を切った時は大きさがかなり違ってしまったんですけど」
「多少違っても大丈夫よ。むしろ最初から何でも同じ大きさに切れたら、私の立場がないわ」
女性が笑うと、モモも安心したように笑った。
「じゃあ今度やってみます」
「宿へ着いた初日くらいは、宿のご飯を食べてもいいけどね。旅の食材は逃げないんだから」
その言葉に、ルシルは漂ってくる料理の匂いを思い出した。
「それもそうだな。今日はラナの飯を食べようかな」
「私は賛成です。さっき甘い匂いのお店も見つけましたし」
「やっぱり覚えてたんだ」
「もちろんです」
その返事に、荷馬車の三人まで楽しそうに笑った。
別れは、それ以上長くはならなかった。
互いに名前を尋ねることもなかった。
向こうもルシルたちがどこから来た何者なのかを詳しく聞こうとはしない。三人も、相手がラナのどこに住んでいるのか、何を生業としているのかまで知る必要はないと思った。
ただ、同じ街道を少しだけ一緒に走った。
困っていたから手を貸した。
赤根菜をもらった。
そして同じ宿場町まで無事に辿り着いた。
「じゃあ、俺たちはここに泊まるから」
ルシルがそう言うと、男も笑顔で手を上げた。
「ああ。あんたらも気をつけてな。いい旅を」
「そっちも。車輪、ちゃんと直してもらってくれよ」
「分かってるよ」
モモは荷馬車の横にいる牝馬へ手を振った。
「ルナさんもお元気で。今日はお疲れさまでした」
年配の女性も笑顔で手を振り返し、三人は荷馬車と共に町の奥へ向かっていった。
ルシルはその後ろ姿をしばらく見送った。
少しだけ寂しい。
けれど、ヘルガスを離れた時に感じたものとは違う。
もう会わないかもしれない。それでも、今日一緒に街道を走った時間が消えるわけではない。
「そういえば、最後まで名前を聞かなかったな」
ルシルがぽつりと言うと、モモも今になって気づいたらしく、赤根菜の入った籠へ目を落とした。
「本当ですね。でも、私はたぶん覚えていると思います。この野菜を見るたびに、しばらくは今日のことを思い出しそうです」
シモンも町の奥へ消えていく荷馬車を見送りながら、穏やかな表情をしていた。
「名前を聞かなければならないわけでもないでしょう。必要なら自然に名乗っていたでしょうし、僕たちもそうしなかった。街道では、あれくらいの距離で終わる出会いも珍しくないのかもしれません」
「名前知らなくても、ちゃんと出会ったことにはなるもんな」
「ええ」
その短い返事のあとには、無理に何かを付け足す必要もなかった。
また会おうと約束しなくてもいい。
すべての出会いを次につなげなくてもいい。
途中だけ同じ道を進み、別の道へ分かれていく。そんな縁も旅の一部なのだろう。
荷馬車の姿が完全に見えなくなったところで、三人はようやく蹄休めの正面へ回った。
扉を開けると、小さな鈴が澄んだ音を立てる。
一階は食堂を兼ねた広い空間になっており、木製の机が十卓ほど並んでいた。まだ夕食には少し早いらしく、客はまばらだったが、数人の旅人がすでに酒を飲みながら話をしている。
壁には馬具の手入れ道具や使い込まれた古い蹄鉄が飾られ、暖炉の上にはこの周辺の街道地図が掛けられていた。厨房からは肉と野菜を煮込んでいるらしい温かな匂いが漂い、外の厩舎から聞こえる馬の気配と混じって、この宿が旅人と馬の両方を迎える場所なのだと自然に伝わってくる。
「いらっしゃい。泊まりか?」
帳場から太い声が掛かった。
立っていたのは五十代半ばほどの大柄な男で、灰色の混じった髪を短く刈り、袖を肘までまくっている。宿の主人というより厩務員や職人と言われた方が納得できそうな太い腕をしていた。
「三人で泊まりたい。あと二頭と馬車は、もう向こうで預かってもらってる」
ルシルが答えると、主人はすぐに察したように頷いた。
「栗毛と灰黒の二頭立てだろ。若いのから聞いてるよ。灰黒の方は知らない馬が苦手らしいな」
「はい。兄のトルクとは問題ありませんが、他の馬には少し警戒します」
シモンが説明すると、主人は満足そうに頷いた。
「先に言ってくれるなら助かる。黙って預けて、夜中に蹴り合いになってから文句を言われるのが一番困るからな。端の二部屋へ入れたって聞いてるから、今日はそれで様子を見よう」
その言い方からも、この宿が馬を大切にしていることが伝わってくる。
「若い厩務員さんにも色々教えてもらいました。ここ、本当に馬のことをよく見てくれるんですね」
モモが嬉しそうに言うと、主人は当然だと言わんばかりに太い腕を組んだ。
「人間は寝床が硬けりゃ文句を言えるし、飯が気に入らなきゃ別の店へ行ける。でも馬は『この馬房は嫌だから変えてくれ』とは言えんだろ。なら、人間の方が見てやるしかない」
ルシルはその言葉を聞きながら、ガイルから最初に教えられたことを思い出した。
馬は喋らない。
だから、人が気づかなければならない。
場所は変わっても、馬を本当に大切にしている人が考えることは似ているらしい。
「ここにしてよかったな」
ルシルが二人へ言うと、モモは迷わず頷いた。シモンもすでに厩舎の設備を確認しているため、異論はない。
主人は帳面を開きながら部屋の種類を説明した。
「三人一緒の部屋も空いてるし、一人部屋を三つでも取れる。三人部屋の方が少し安いが、どうする?」
昨夜は三人で一つのテントに並んで眠った。
それはそれで楽しかったし、モモが言ったように近くに誰かがいる安心感もあった。
だからこそ、今日は別の選択をしてもいい。
「俺は一人部屋でもいいかな。今日はちゃんと寝台で寝てみたい」
「私もです。テントが嫌だったわけではないですけど、宿へ来たなら宿の寝台も楽しみたいです」
モモがそう言ってからシモンを見ると、彼も料金表を確認したうえで頷いた。
「資金には十分余裕がありますし、無理に節約する必要はありません。昨夜は一緒に眠りましたから、今日はそれぞれの部屋で休むのもいいでしょう」
「じゃあ三部屋で」
ルシルが決めると、主人は二階の奥に並んだ三部屋を割り当てた。
「夕食は日が落ちてからだ。今日は赤根菜と豆の煮込み、それに鳥肉の香草焼きがある」
三人の視線が揃って主人へ向いた。
「赤根菜?」
ルシルが聞き返すと、主人は少し不思議そうに眉を上げた。
「嫌いなのか?」
「逆。さっき街道で助けた人たちからもらったんだ」
収納せず籠に入れたまま持っていた赤根菜を見せると、主人はすぐ納得した。
「この辺じゃよく作ってるからな。ラナ周辺のは特に甘みが強い。煮込みにすると豆や肉にも合うぞ」
「それなら先に宿の料理を食べて、どういう味になるか覚えたいです」
モモが真剣な顔で言う。
「自分たちで作る時の参考にします」
「旅し始めたばかりなのに自炊もしてるのか?」
「昨日が初めてでした。私は野菜を切ったんですけど、大きさがかなり違いました」
正直に告白するモモへ、主人は豪快に笑った。
「食えたなら上出来だ。最初から料理人みたいに切れたら、料理人が困る」
その言葉が先ほどの年配女性と似ていて、三人もつられて笑った。
夕食までにはまだ一刻半ほどあるという。
主人から三つの鍵を受け取ったところで、シモンが馬車置き場の方向へ一度目を向けた。
「出かける前に、工具箱だけ確認しておきたいですね。補修板を一枚使いましたから、残りを把握しておいた方がいいでしょう」
「補充も今日する?」
ルシルが尋ねると、シモンは一瞬だけ考えた。
以前の彼なら、そのまま店の場所を聞き、今日のうちに買えるものはすべて揃えようとしたかもしれない。
「いえ。残数だけ分かれば十分です。補充する店を探すのは明日で構いませんし、橋の情報も明日確認しましょう。今日中に終わらせる理由はありませんから」
その答えを聞いたルシルとモモは、揃って少し驚いた顔をした。
シモンが眉を寄せる。
「何ですか?」
「いや、ちゃんと明日に回せるようになったなって」
ルシルが笑うと、シモンは眼鏡を押し上げながら反論しかけた。しかし少し考えた後、以前の自分なら確かに今日中に片付けていただろうと思い直したらしく、苦笑する。
「……否定しづらいですね。ですが、今日は町を少し見て、夕食を食べて休みます。橋は今夜突然消えるわけではありませんし、補修板も明日の朝すぐ必要になるわけではないでしょう」
「賛成です。私は町を見たいです」
モモも嬉しそうに頷いた。
三人はまず二階へ上がった。
廊下は一階の食堂より静かで、窓から厩舎の屋根が見える。割り当てられた三部屋は隣り合っており、どの部屋も豪華ではないが清潔だった。
寝台、小さな机、椅子、荷物置き、水差し。
旅人が一晩休むために必要なものが、過不足なく揃っている。
自分の部屋へ入ったルシルは扉を閉め、まず寝台の端へ腰を下ろした。
身体が柔らかく沈む。
「……これはいいな」
昨夜は地面の上に敷物と毛布を重ねて眠った。十分眠れたし、テントで過ごす夜そのものが楽しかった。
それでも寝台へ腰を下ろしてみれば、その柔らかさはやはりありがたい。
野営を嫌いになったわけではない。
むしろ一度経験したからこそ、宿の寝台がどれほど身体を休ませてくれるのか分かるようになった気がした。
ルシルは窓を開けた。
夕方の風と共に、乾いた藁の匂いが入ってくる。
ここからではトルクとベルクの馬房までは見えないが、同じ敷地の中で二頭が休んでいると思うと、それだけで不思議と安心できた。
昨日は夕日の丘の裏で眠った。
今日はラナの宿。
明日の夜は、まだ分からない。
毎日眠る場所が変わる生活など、少し前の自分には想像もできなかった。それなのに今は、落ち着かないと感じるより、次はどんな場所で夜を迎えるのだろうと考える方が楽しい。
しばらく窓辺で町の音を聞いていると、扉が二度叩かれた。
「ルシル様、準備できましたよ」
モモの声だった。
「今行く」
ルシルも顔と手を洗い、街道の埃を落としてから部屋を出た。
廊下ではモモとシモンが待っている。モモは長い桃金色の髪を軽く整え直しており、シモンも外套についた埃を払っていた。
「どこから行く? さっきの菓子屋?」
ルシルが尋ねると、モモは一瞬だけ考えた後、意外にも首を横へ振った。
「まず町を歩いてみたいです。お菓子屋さんも気になりますけど、それだけ見て戻るのはもったいないですから」
「珍しいな。てっきり一直線かと思った」
「私だって町そのものを見たいですよ。それに、お菓子は見つけた時に入ればいいんです」
少し胸を張るモモを見て、シモンは口元を緩めた。
「では夕食まで一刻ほど、目的を決めず歩いてみましょう。買い物をする必要も、情報を集める必要もありません。気になるものがあれば立ち寄る程度で十分です」
「それ、いいな」
何かを買わなければならないわけではない。
次の道を調べなければならないわけでもない。
依頼もない。
ただ、知らない町を歩く。
三人は揃って宿を出た。
夕方のラナは、馬車で入ってきた時より少し柔らかな色に変わっていた。
西へ傾いた日差しが木造の建物を橙色に染め、荷馬車の影が長く道へ伸びている。商いを終え始めた店では店員たちが荷物を片付けている一方、食堂や酒場はこれからが本番らしく、軒先へ灯りを出し始めていた。
歩いてみると、馬車の上からでは気づかなかったものがいくつも見つかる。
壁に掛けられた古い車輪。
宿ごとに形の違う馬つなぎ。
旅人向けの靴修理屋。
乾燥させた薬草を束で吊るした店。
荷紐だけを専門に扱っている小さな商店。
そして通りの端には、掌に乗るほどの木彫り細工を並べた露店があった。
「これ、可愛いです」
モモが足を止めた。
並んでいるのは馬を模した木彫りだった。走る姿、草を食べる姿、座り込むように脚を折った姿まであり、どれも少し丸みを帯びている。
モモが栗色に塗られた一体を手に取ると、ルシルも隣から覗き込んだ。
「トルクっぽい?」
「色は似ていますけど、トルクさんより細いですね」
「トルク太いのか?」
「太ってはいません」
少し離れて見ていたシモンが、そこだけはすぐ訂正した。
「骨格がしっかりしているだけです。あれくらいの体格なら、二頭立ての馬車を引くにはむしろ頼もしいでしょう」
ルシルは木彫りよりシモンの方へ顔を向けた。
「シモン、馬のことになると説明が早くなったよな」
「間違った認識を訂正しただけです」
やり取りを聞いていた露店の老婆が楽しそうに笑った。
「自分たちの馬がいるのかい?」
「二頭いるんだ。栗毛と灰黒で、兄弟」
「それならちょうどいいのがあるよ」
老婆が棚の奥からもう一体取り出した。
こちらは灰色に塗られている。
栗色と灰色の二体を並べると、偶然とはいえトルクとベルクのように見えなくもない。
「この辺じゃ、最初の宿場で馬の飾りを買う旅人もいるよ。旅の安全のお守りみたいなもんだね」
「そういう風習があるんですか?」
モモが興味を示すと、老婆は自分で言ったくせに肩を揺らして笑った。
「風習なんて立派なもんじゃないよ。昔どこかの商売人が売るために言い始めたのかもしれないし、旅人が勝手に縁起を担ぎ始めたのかもしれない。誰も本当のところは知らないさ」
その曖昧さが、ルシルには妙に気に入った。
王家の儀礼のように由来も手順も意味も厳密に決められたものではない。
誰かがなんとなく始めて、気に入った人が続けた。
それくらいでいい。
「二つ買おうかな」
ルシルが言うと、シモンはすぐ止めるのではなく、まず値札を確認した。
「何でも旅の記念品にしていると際限がなくなりますよ。収納魔法があるからといって、不要なものを全部買っていいわけではありません」
「でもこれはトルクとベルクの分だぞ。馬車に飾れるし」
「お菓子棚の隣は駄目です」
モモがまだ何も言っていないのに先回りされ、目を丸くした。
「私、まだそこに置きたいとは言っていませんよ?」
「言いそうだったので」
「では窓の近くはどうですか?」
「走っている途中で落ちないよう固定できるなら構いません。明日、馬車を確認しながら場所を決めましょう」
結局、買うこと自体には反対しなかった。
高価なものでもなかったため、ルシルは共有資金ではなく自分の手元に残している小銭から二体分を支払った。モモが包んでもらった木彫りを大切そうに受け取り、二つ並べてもう一度眺める。
「馬車に置いたら、もっと私たちの馬車らしくなりそうですね」
「まだ名前もないけどな」
「名前は急いで決めなくてもいいでしょう」
シモンの言葉に、ルシルも素直に頷いた。
何かきっかけがあれば、その時に決めればいい。
三人は再び通りを歩いた。
やがて、ハーグから聞いていた麦角亭も見つかった。
外からでも食堂の様子が見える造りで、窓の向こうでは大柄な冒険者が山のように盛られた肉と芋を前にして固まっている。向かいに座る仲間たちは、明らかに面白がって笑っていた。
「……でかいな」
ルシルは思わず足を止めた。
「ハーグさん、全然大げさに言ってなかったんだな」
「むしろ説明が控えめだった可能性がありますね」
シモンまで少し驚いた顔で料理を見ている。
モモは皿と冒険者を交互に見た。
「次にここへ来た時は、お昼を少なくしておいた方がよさそうです」
「泊まる気なの?」
「だって一度は食べてみたいじゃないですか」
「俺も」
ルシルが笑いながら頷く。
まだ蹄休めに一泊もしていないのに、すでに次にラナへ来た時の話をしている。
けれど、それが不自然には感じなかった。
少し歩いた先では白灯亭も見つけた。こちらは大通りから一本入った場所にあり、店先の人通りも少ない。窓辺には小さな灯りが置かれ、確かに静かに休みたい旅人には向いていそうだった。
「同じ町でも、宿で全然違うんだな」
ルシルが二軒を振り返る。
「その日の予定で選べばいいのでしょうね。馬をしっかり休ませたい時、静かに眠りたい時、食事を楽しみたい時。毎回同じ宿を選ぶ必要はありません」
シモンの言葉に、モモも頷いた。
「全部泊まってみたくなりますね」
「何回来るつもりですか」
「分かりません。でも、また来たら選べます」
モモの答えに、ルシルは少し笑った。
以前なら「また来る」という言葉だけでも、どこか特別な響きがあったかもしれない。
今はもっと気軽だ。
また来た時に考えればいい。
やがて入町時にモモが見つけた焼き菓子屋の前まで来た。
店先には薄く焼かれた丸い菓子が並び、その表面には蜂蜜らしい艶がある。甘い匂いが夕方の風へ流れ、モモの足がぴたりと止まった。
ルシルは横顔を見て笑った。
「入る?」
モモはすぐ頷きかけたが、店と蹄休めの方向を見比べた。しばらく悩んだ末、名残惜しそうに一歩だけ店から離れる。
「夕食の後にまだ開いていたら来ます。今食べたら、宿のご飯が入らなくなるかもしれませんから」
その答えには、シモンも少し意外そうな顔をした。
以前なら自分が止める側だった。
しかし今はモモ自身が、食べたい気持ちとこの後の夕食を比べて決めている。
「では場所だけ覚えておきましょう。夕食後なら一つくらいは構いません」
「一つですか?」
「まだ夕食前ですよ」
「分かりました。今は交渉しません」
完全に諦めたわけではないらしい。
それでも三人は店へ入らず、夕食の時間に間に合うよう蹄休めへ戻った。
食堂は先ほどとはまるで違う賑わいになっていた。
商人、御者、冒険者、徒歩の旅人が机を囲み、十卓ほどある席の大半が埋まっている。食器が触れ合う音、注文を運ぶ店員の声、今日の街道について話す旅人たちの声が重なり、その間を厨房から立ち上る湯気が流れていた。
三人は窓際の卓へ案内された。
ほどなく、赤根菜と豆の煮込み、鳥肉の香草焼き、焼きたてのパン、葉野菜の酢漬けが運ばれてくる。
昼間にもらったものと同じ赤紫色の根菜が煮込みの中に見えた。
「これが宿で作るとこうなるのか」
ルシルは匙ですくい、まず一口食べてみた。
柔らかいのに形は崩れていない。
噛むと根菜そのものの甘みが広がり、豆や肉から出た塩気のある汁とよく合う。
「甘いな。でも菓子みたいな甘さじゃなくて、飯に合う」
モモも続いて口へ運び、しばらく味わってから嬉しそうに頷いた。
「美味しいです。これなら次の野営で使ってみたいですね。私が切ってもいいですか?」
「昨日より大きさ揃えられる?」
ルシルが少しからかうように聞くと、モモは匙を持ったまま胸を張った。
「今日の朝よりも上手くなります。昨日より今日、今日より次です」
「それ、御者でも使えそうだな」
「ルシル様も肉を焦がさないようにしてください」
「一枚だけだっただろ」
言い返しながらも、ルシルは笑っていた。
シモンは二人のやり取りを聞きながら煮込みを味わい、赤根菜の火の通り方を確かめるように一度断面を見た。
「煮崩れしにくいという話は本当のようですね。これなら野営でも扱いやすいでしょう。最初から同じ味を再現する必要はありませんから、次は僕たちなりに作ればいいと思います」
自分たちなりに。
その言葉が、ルシルには少し嬉しかった。
昨日の料理は完璧ではなかった。
肉は一枚焦げ、野菜の大きさも揃っていなかった。それでも三人で作って食べた夕食は、ちゃんと美味しかった。
周囲では別の旅人たちの会話が聞こえてくる。
隣の卓では商人が明日の空模様について話し、少し離れた席では冒険者らしい四人組がセイラ森林で見かけた灰色狼について話していた。声を潜めている様子もなく、深刻な事件というより最近少し遭遇しやすくなったという程度の話らしい。
シモンは一度だけそちらへ視線を向けたが、席を立って情報収集を始めることはしなかった。
明日確認すると決めたのだから、今日は食事を楽しむ。
そのまま鳥肉の香草焼きを切り分ける。
「これも美味しいですね。香草は強めですが、鳥肉には合っています」
「シモン、今日は本当に仕事しないんだな」
ルシルが感心したように言うと、シモンは少し眉を寄せた。
「食事中に仕事をしないだけで褒められるのは、さすがに複雑なのですが」
「でも前だったら、今の冒険者に話聞きに行ってたかもしれないだろ?」
シモンは否定しようとして、途中で口を閉じた。
そして少し考えてから、諦めたように小さく笑う。
「……可能性はありますね。ですが今日はやめておきます。必要な情報は明日、きちんと確認できる場所で聞けばいいでしょう」
「その方がいいですよ」
モモもパンをちぎりながら穏やかに続けた。
「せっかく美味しいご飯があるのに、冷めたらもったいないです」
「その理由には反論できませんね」
三人は再び料理へ戻った。
誰も彼らを特別扱いしない。
シモンのAランク証をどこかで見たらしい冒険者が一度だけこちらへ視線を向けたが、それも長くは続かなかった。元王子も、元聖女も、元側近もここにはいない。
今この食堂にいるのは、二頭の馬と一台の馬車で町へやってきた三人の旅人だけだった。
食事が半分ほど進んだところで、ルシルはふと窓の外を見た。
通りには少しずつ灯りが増えている。
昨日の同じ頃には、夕日の丘で野営地を探していた。
今日は宿の食堂で温かな煮込みを食べている。
「野営も楽しかったけど、宿もいいな」
ルシルが自然に口にすると、モモも窓の外を見ながら頷いた。
「はい。私はどちらも好きです。テントで近くに寝るのも安心しましたけど、今日は自分の寝台があるのも嬉しいです」
シモンはパンを一口食べてから、二人の言葉をゆっくり受け止めるように頷いた。
「毎日同じである必要はないのでしょう。野営したい日は野営して、宿へ泊まりたい日は宿へ泊まる。予定や馬の状態に合わせて決めればいいと思います」
「旅って、思ってたより選ぶことが多いんだな」
ルシルが煮込みを口へ運びながらそう言うと、モモは楽しそうに頷いた。シモンもすぐには答えず、手元の料理を一口味わってから、静かに二人へ視線を向ける。
「そうですね。どの道を通るか、どこで休むか、何を食べるか、どこへ泊まるか。小さなことばかりですが、実際に旅へ出てみると、その一つ一つを自分たちで決める必要があります。もっとも、全部を事前に決めてしまったら、それはそれで息苦しくなりそうですが」
「じゃあ、決めることも楽しめばいいんじゃないですか? 今日だって、麦角亭の大盛り料理も気になりましたけど、トルクさんとベルクさんのことを考えて蹄休めにしました。でも、ここのご飯も美味しいですし、厩舎も安心できました。選ばなかった方が間違いだったわけではないですよね」
モモの言葉に、ルシルは昼間見た麦角亭の巨大な皿を思い出して笑った。
「そうだな。あっちに泊まってたら、今頃とんでもない量の肉と芋を前にしてたかもしれない。それも楽しそうだけど、今日はこっちでよかったと思う」
選ばなかったものを惜しむのではなく、今日選んだものを楽しむ。
それは簡単なことのようでいて、以前のルシルにはあまり馴染みのない感覚だった。決められた予定に従うのではなく、自分たちで考えて選び、その結果を三人で味わう。それだけで、同じ一日でもずいぶん違って感じられる。
食事を終える頃には、三人とも十分に腹が満たされていた。
特に赤根菜と豆の煮込みは気に入り、次の野営で使うことがほぼ決まった。宿と同じものを作るのではなく、自分たちでどんな料理になるのか試してみる。そう考えるだけで、昼間にもらった籠の中身が単なる食材ではなく、次の楽しみへ変わっていく。
「ごちそうさまでした」
三人が揃って食事を終えると、近くを通った店員が空いた皿を手際よく重ねていった。ルシルは食堂を見回しながら、もう一度窓の外へ目を向ける。
すでに日は落ちているが、ラナの通りはまだ眠る時間ではないらしい。宿や酒場の前には明かりが灯り、昼間とは違った賑わいが続いている。
そしてルシルは、食事前に通った一軒の店を思い出した。
「そういえば、さっきの焼き菓子屋ってまだ開いてるかな」
その瞬間、モモの顔がぱっと明るくなった。夕食を優先して自分から我慢したものの、忘れていたわけではなかったらしい。
「私も今、同じことを考えていました。夕食はちゃんと食べましたし、少しくらいなら大丈夫ですよね?」
期待を隠そうともしない視線を向けられたシモンは、食べ終えた皿とモモを交互に見た。以前なら即座に量を決めていたところだが、今回は少し考えてから口を開く。
「一つなら構いません。もっとも、店がまだ開いていればですが。閉まっていたとしても、明日がありますからね」
「はい。一つで大丈夫です。今日は夕食もたくさん食べましたから」
珍しく交渉を始めなかったモモに、今度はルシルの方が少し驚いた。
「本当に一つでいいの?」
「いいんです。旅はまだ始まったばかりですから、今日見つけたお菓子を今日全部食べなくてもいいんです」
「……モモがすごいこと言ってる」
「どういう意味ですか?」
不満そうに頬を膨らませたモモを見て、ルシルは笑いながら立ち上がった。シモンも眼鏡の位置を直しつつ席を立ったが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいる。
食堂を出る前に、三人は帳場の主人へ少しだけ外へ出ることを伝えた。
「焼き菓子屋なら、まだ開いてると思うぞ。夜の客向けに少し遅くまでやってる店だからな。ただし、馬を見に行くなら戻ってからにしろ。今は飼葉を食わせたばかりだ」
「分かった。じゃあ今日は邪魔しないようにする」
「朝は日の出くらいから厩舎を開けてる。自分たちで様子を見たいなら、その頃に来ればいい」
主人の言葉に三人は礼を言い、宿の外へ出た。
夜のラナは、夕方までとはまた違った町に見えた。
大通りから聞こえてくる馬車の音は少なくなり、代わりに宿や酒場から人の話し声や笑い声が漏れている。軒先に吊るされた灯りが道を淡く照らし、その光の間を旅人たちがゆっくり歩いていた。
昼間のラナが先を急ぐ者たちのための町だとすれば、夜は一日の移動を終えた者たちが足を止めるための町なのかもしれない。
三人も急がなかった。
焼き菓子屋へ向かってはいるが、一直線に歩く必要はない。昼間には開いていた道具屋の扉が閉じていたり、逆に酒場の前には新しく看板が出ていたりと、同じ道でも時間が変われば見えるものが違う。
「明日の朝も歩いたら、また違うんだろうな」
ルシルが何気なく呟くと、モモは隣を歩きながら町並みを見渡した。
「朝は市場が早そうですね。さっき野菜を運んでいる人がいましたし、赤根菜も売っているかもしれません。もらった分がありますから今すぐ買う必要はないですけど、どんなものが並んでいるのか見てみたいです」
「明日は橋や街道の情報を確認する予定もありますから、朝食後に市場を通ってみてもいいでしょう。ただ、出発時刻は馬の状態を見てから決めましょう。ラナからグレイまでは二日ほど掛かるとしても、急ぐ必要はありません」
シモンが予定を口にしても、それは以前のように一日の行動を隙間なく埋めるものではなかった。
朝に馬を見る。
食事をする。
市場を覗く。
必要な情報を確認する。
補修に使った道具を補充できそうなら探す。
その後、出発するか、もう少しラナへ滞在するかを決める。
決まっているようで、決まりすぎてはいない。
「明日、絶対に出なきゃいけないわけじゃないんだよな?」
ルシルが確認すると、シモンは当然のように頷いた。
「ええ。天候や馬の状態に問題がなく、三人とも出発したいなら出ればいいですし、もう一日ラナを見たいなら泊まっても構いません。ただ、部屋が空いているかは確認する必要がありますが」
「それなら明日の朝に決めよう。今はまだ、今日のラナを楽しんでる途中だし」
その言葉にモモも頷いたところで、目的の焼き菓子屋が見えてきた。
店はまだ開いていた。
木製の小さな窓口の向こうに、昼間見た薄い丸型の焼き菓子が並んでいる。表面に塗られた蜂蜜が灯りを受けて艶やかに輝き、近づくだけで甘く香ばしい匂いが鼻へ届いた。
「まだありました」
モモの足取りが明らかに軽くなる。
店番をしていた若い女性が三人に気づき、笑顔で焼き菓子を一枚持ち上げた。
「いらっしゃい。蜂蜜薄焼き、焼きたてがまだあるよ。今夜の分はこれで最後だから、ちょうどよかったね」
「一つください」
モモが迷わず注文した。
ルシルは横から商品を眺め、結局自分も一つ頼む。シモンは必要ないと言いかけたものの、二人から同時に視線を向けられたことで少し考え、自分の分も一つ注文した。
「シモンも食べるんだ」
「食べてはいけない理由もないでしょう。僕は甘いものが嫌いなわけではありませんから」
「じゃあ三人で一つずつですね」
モモが満足そうに言うと、店員は焼きたての三枚を薄い紙へ包んで渡してくれた。
まだ温かい。
店の前には立ったまま食べる客のためらしい小さな台があったため、三人は通行の邪魔にならない場所へ寄った。
薄い生地は縁がぱりっと焼かれているが、中央には少し柔らかさが残っている。表面の蜂蜜は甘いだけでなく、わずかに香ばしく焦げており、噛むと小麦の風味と一緒に口の中へ広がった。
「美味しいです」
モモは一口目を食べたあと、すぐ二口目へ進まず、珍しくじっくり味わっている。
「春雫のお菓子とは全然違いますね。向こうは持ち歩けるものが多かったですけど、これは温かいうちに食べるのが美味しい気がします」
「町によって菓子も違うんだな。海まで行ったら、もっと知らないのがあるのかな」
「ありますよ、きっと。海のお菓子が甘いのかは分かりませんけど」
「そこはお菓子なんだから甘いんじゃない?」
「塩を使ったものもあるかもしれません」
そんな話をしながら食べているうちに、一枚は思っていたより早くなくなった。
モモは空になった紙を少し名残惜しそうに見つめたが、追加を頼むため店へ戻ろうとはしなかった。
「もう一つ欲しい?」
ルシルが尋ねると、モモは正直に頷いた。
「欲しいです。でも、今日はこれでいいです。また食べたくなったら来ます」
我慢しているというより、自分で区切りを決めた顔だった。
シモンも余計な注意を加えず、食べ終えた紙をまとめる。
「では戻りましょう。明日の朝は厩舎へ行くのでしょう?」
「はい。ベルクさん、ちゃんと眠れているといいですね」
「トルクはもう寝てそうだな」
「彼は環境への適応が早そうですからね」
三人は来た道を蹄休めへ戻った。
夜の空気は少し冷えていたが、昨日の野営地ほどではない。道沿いの宿から漏れる灯りがあり、誰かの笑い声があり、遠くではまだ一台の馬車がゆっくりと町へ入ってくる音が聞こえていた。
宿へ戻ると、食堂の賑わいはまだ続いていた。
主人へ戻ったことを伝え、三人は二階へ上がる。
部屋の前で別れるところまで来て、ルシルは少しだけ足を止めた。
昨夜は同じテントだった。
寝る前まで三人で話し、互いの寝息が聞こえる距離で眠った。今日は扉一枚ずつ隔てた別々の部屋へ入る。
けれど、不思議と離れたようには感じなかった。
「じゃあ、明日の朝。起きたら厩舎前でいい?」
ルシルが二人へ確認すると、シモンは廊下の窓から空を一度確認した。
「日の出頃でいいでしょう。起きられなければ無理に合わせる必要はありませんが、トルクとベルクの様子を自分で見たいなら、そのくらいがちょうどいいと思います」
「私は起きます。今日はシモン君より先に起きたいです」
「競争ではありませんよ」
「でも一度くらい勝ちたいです」
モモが楽しそうに笑い、ルシルもつられて笑った。
「俺も起きる。じゃあ、また明日な」
「はい。おやすみなさい、ルシル様。シモン君」
「おやすみなさい。二人とも、今日はゆっくり休んでください」
三人はそれぞれの部屋へ入った。
扉を閉めると、食堂の賑わいは一気に遠くなる。
ルシルは外套を外して椅子へ掛け、窓を少しだけ開けた。昼間より冷えた風が室内へ入り、遠くから馬の鼻を鳴らす音が聞こえる。
トルクだろうか。
ベルクだろうか。
それとも別の馬かもしれない。
分からないまま、ルシルはしばらく窓辺に立っていた。
ヘルガスを出てから、まだ二日しか経っていない。
それなのに、ずいぶん多くのことがあった気がする。
最初の街道。
何でもない兎。
旅人の泉。
名前も知らない老夫婦。
夕日の丘。
初めて張ったテント。
自分で起こした火。
朝露の中で片付けた野営地。
泥道。
壊れた荷馬車。
赤根菜。
そして、最初の宿場町。
どれも王国の歴史に残るような出来事ではない。
巨大な魔物を倒したわけでも、誰かに称えられたわけでもない。今日手伝った荷馬車の人たちに至っては、最後まで名前さえ知らなかった。
それでも、ルシルにとっては全部が自分の一日の中に残っている。
窓を閉め、寝台へ横になる。
柔らかな敷布が身体を受け止めた瞬間、思っていた以上に疲れていたことに気づいた。馬車に乗っていただけの時間も長かったが、御者をしている間は道や馬や周囲へ意識を向け続けていた。町へ入ってからも初めて見るものばかりで、身体より頭の方が疲れているのかもしれない。
「明日は、どうするかな」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
グレイへ向かってもいい。
もう一日ラナにいてもいい。
橋の状態を聞き、道具を補充し、市場を見て、それから決めればいい。
少し前までなら、翌日の予定が決まっていないことは不安の種になったかもしれない。決められた時刻に起き、決められた服を着て、決められた場所へ向かい、決められた相手と会う。そんな日々では、明日の予定が空白になることなどほとんどなかった。
けれど今、その空白は不安ではなかった。
まだ何をするか決めていないからこそ、明日の朝に決められる。
自分一人ではなく、モモとシモンと話して、トルクとベルクの状態を見て、その時に一番いいと思うものを選べばいい。
ルシルは毛布を胸元まで引き上げた。
宿の外から聞こえていた人々の声も、時間が経つにつれて少しずつ小さくなっていく。
やがて眠りへ落ちる直前、ふと思い出したのは、今日買った二つの木彫りだった。
「どこにつけようかな……」
焦げ茶色の馬車には、まだ名前がない。
けれど、最初に買った時よりも少しだけ、自分たちの馬車になってきた気がする。
棚にはモモのお菓子を置く場所があり、工具箱にはガイルから教わった修理道具が入り、これから栗色と灰色の小さな木彫りも加わる。
傷一つなかった車体には、これからきっと小さな傷も増えていくだろう。
車輪には泥がつき、修理することもあるかもしれない。
その一つ一つが増えていった先で、いつか自然に呼びたい名前が浮かぶのかもしれない。
今はまだ、それでいい。
ラナで迎える最初の夜。
厩舎ではトルクとベルクが休み、隣の部屋にはモモとシモンがいる。
明日の行き先は、まだ決まっていない。
それでもルシルは何も心配することなく目を閉じた。
次にどちらへ進むのかは、朝になってから三人で決めればいいのだから。




