第17話 宿場町の朝は、出発する前に見たいものが多すぎます
翌朝、ルシルが目を覚ました時、最初に聞こえてきたのは人の声ではなく、乾いた石の上をゆっくり踏んでいく馬の蹄音だった。
薄く目を開けると、見慣れない木の天井が視界に入る。昨夜までの記憶が戻るより先に身体を起こしかけ、柔らかな寝台が腰を受け止めたところで、ようやくここがラナ宿場町の蹄休めだと思い出した。窓の向こうはすでに薄明るく、閉めた鎧戸の隙間から細い朝日が床へ伸びている。
「……朝か」
昨夜の野営地では、目を覚ませばすぐ近くにモモとシモンがいた。今日は一人部屋なので当然ながら返事はなく、その静けさが少しだけ不思議に感じられる。
けれど、寂しいというほどではなかった。
隣の部屋には二人がいる。宿の厩舎にはトルクとベルクもいる。そう思いながら寝台を抜け出すと、窓を開けた途端に朝の冷たい空気と藁の匂いが一緒に入り込んできた。
ラナの朝は、思っていたより早いらしい。
宿の裏手ではすでに厩務員たちが動いており、飼葉を積んだ手押し車が通路を進んでいる。少し離れた大通りからは荷車の軋む音も聞こえ、昨日の夜には静まりかけていた町が、日の出とほとんど同時に目を覚まし始めていた。
顔を洗い、服を整えて廊下へ出る。
昨夜は日の出頃に厩舎前へ集まると決めたものの、正確な時刻を決めたわけではない。まだ二人は来ていないだろうと思いながら階段を下り、食堂を通り抜けて裏口から外へ出ると、そこにはすでに一人立っていた。
「おはようございます、ルシル様」
「……モモ?」
朝の光の中で振り返ったモモは、明らかに得意そうな顔をしていた。桃金色の長い髪はすでに整えられており、眠そうな様子もほとんどない。
「今日は私の方が早かったです」
「シモンより?」
「まだ来ていません。つまり、今のところ私が一番です」
昨日の夜に「一度くらい勝ちたい」と言っていたことを本当に覚えていたらしい。ルシルが笑いながら隣へ並ぶと、モモは厩舎の入口を見つめたまま、少しだけ声を落とした。
「実は、途中で一回目が覚めたんです。まだ暗かったので二度寝したんですけど、寝過ごしたら嫌だなと思ったら、その後はすぐ起きられました」
「そんなに勝ちたかったの?」
「それもありますけど、トルクさんとベルクさんが気になっていました。ベルクさん、知らない馬がいる場所で泊まるのは初めてでしょう?」
冗談だけではなかったのだと分かり、ルシルも厩舎へ視線を向ける。
昨夜は厩務員が端の二つの馬房を用意してくれた。ベルクの反対側は壁になっているため、知らない馬と直接向かい合うことはない。それでも、いつもと違う場所で過ごす一晩だったことに変わりはない。
「見に行こうか。シモンが来るまで入口で待っててもいいけど、厩務員さんたちはもう動いてるみたいだし」
「そうですね。でも、シモン君もすぐ来ると思います」
モモがそう言った直後、宿の裏口が開いた。
「おはようございます。二人とも早いですね」
現れたシモンはすでに身支度を整えていたが、モモが先に立っているのを見て一瞬だけ目を止めた。その反応を待っていたらしく、モモはすぐに満足そうな笑みを浮かべる。
「今日は私の勝ちです」
「何の話ですか?」
「起きる早さです。昨日、私が一度くらいシモン君より先に起きたいと言ったでしょう」
「本当に競争にしていたのですか……」
シモンは呆れたように眼鏡の位置を直したものの、朝から仕事を始めていたわけでも、二人を起こしに来たわけでもない。自分の部屋で普通に眠り、自分のために身支度をしてから降りてきたのだと思えば、ルシルにはそれだけでも十分だった。
「まあ、今日はモモの勝ちってことでいいんじゃない?」
「別に負けても困りませんから構いませんが、明日以降まで続けないでくださいよ。睡眠時間を削ってまで競うようになったら止めますからね」
「それはしません。ちゃんと寝ました」
満足したモモを先頭に、三人は厩舎へ入った。
朝の厩舎は昨夜よりずっと賑やかだった。
馬房の中では何頭もの馬がすでに目を覚まし、飼葉を噛む音や水桶へ鼻先を入れる音があちこちから聞こえる。中央の通路では厩務員が藁を入れ替え、別の男は馬の脚を一本ずつ持ち上げて蹄を確認していた。宿泊客らしい商人も自分の馬を見に来ており、眠そうな顔のまま首筋を撫でている。
三人が端の馬房へ近づくと、最初にこちらへ気づいたのはトルクだった。
栗毛の耳がぴくりと動き、続いて大きな頭が仕切り越しにこちらへ向く。朝食前だというのに元気そうで、ルシルが近づくと鼻先を伸ばしてきた。
「おはよう、トルク。ちゃんと寝られたか?」
鼻先へ手を添えながら首筋を撫でる。目立った汗もなく、呼吸も落ち着いている。
隣のベルクも起きていた。
こちらはトルクほど積極的に寄ってこなかったが、シモンの姿を認めると耳を前へ向け、馬房の奥からゆっくり歩いてくる。シモンが柵越しに手を差し出すと、ベルクはその匂いを確かめてから鼻先を掌へ押し当てた。
「おはようございます。昨夜は問題なかったようですね」
シモンの声も自然と柔らかくなる。
その様子を見ていたモモは笑ったものの、昨日のようにからかうことはせず、自分はトルクの水桶と飼葉の状態を確認した。
「水はちゃんと飲んでいますね。食欲もありそうです」
「そっちは大丈夫そうか?」
「はい。ただ、私たちだけで決めずに厩務員さんにも聞きたいです。夜の様子は見ていませんから」
その判断にシモンが頷いたところで、昨日案内してくれた若い厩務員が通路の向こうからやってきた。手には小さな木桶と布を持っており、三人を見つけると軽く手を上げる。
「おはよう。早いな。二頭とも問題なかったぞ」
「ベルクも?」
「ああ。最初の見回りじゃ少し周りを気にしてたけど、兄貴が隣にいるからな。夜中の二回目に見た時は普通に休んでた。朝も飼葉に反応してるし、体調は悪くなさそうだ」
それを聞いたシモンの表情がわずかに緩んだ。
「ありがとうございます。出発前に僕たちでも脚と蹄を確認したいのですが、見ても構いませんか?」
「もちろん。むしろ自分の馬なら見てくれ。分からないところがあったら呼んでくれれば一緒に見るよ」
三人はガイルから教わった朝の確認を、急がず一つずつ始めた。
立ち方がおかしくないか。歩かせた時に脚をかばわないか。蹄に石や泥が詰まっていないか。蹄鉄が緩んでいないか。食欲、水、排泄にいつもと違うところはないか。
まだ手順を完全に身体で覚えているわけではない。
ルシルは途中で確認する順番を一つ飛ばしかけ、シモンに言われる前に自分で気づいて戻った。モモはトルクの前脚を持ち上げる時に少し戸惑ったものの、近くの厩務員から姿勢を教わると、無理に力で持ち上げずに済むようになった。
「そうそう。馬の脚を腕力だけで持とうとしなくていい。肩を寄せて、重心を少しずらしてもらう感じだ」
「こうですか?」
「そう。それなら馬も嫌がりにくい」
モモは慎重に蹄の裏を確認し、小さな泥の塊を取り除いた。終わるとトルクの脚を静かに地面へ戻し、少しほっとしたように息を吐く。
「できました」
「昨日より自然でしたね」
シモンが声を掛けると、モモは嬉しそうに頷いた。
その横ではルシルがベルクの蹄鉄を覗き込んでいる。
「これ、少し傷ついてるように見えるけど大丈夫かな」
声を聞いた厩務員が近づき、しゃがみ込んで同じ場所を確認した。
「昨日の石道か泥道で擦った跡だな。蹄鉄そのものは緩んでないし、これくらいなら問題ない。ただ、山道へ入る前にはまた見た方がいい。雨が降ると滑りやすくなるから、グレイより先へ行くなら滑り止めの蹄鉄を扱ってる店を聞いておくといいぞ」
「ハーグさんにも同じことを言われたな」
別の場所で同じ注意を受けたことで、その重要性が少し現実味を増す。
今すぐ交換する必要はない。
けれど山へ入るまでには考える。
ルシルは忘れないよう頭の中に残し、ベルクの脚を丁寧に戻した。
一通り確認を終える頃には、朝日が厩舎の入口から長く差し込んでいた。
二頭とも体調に問題はない。
だからといって、今すぐ馬車へつないで出発する必要もなかった。
「今日はどうします?」
モモがトルクの額を撫でながら尋ねた。
ルシルはすぐには答えず、シモンを見る。以前ならシモンが地図を開き、必要な移動距離から出発時刻を逆算していただろう。
しかし今朝の彼は、まず二頭の様子をもう一度見た。
「朝食を食べてから町を見ましょう。市場、補修用品、橋と街道の情報。この三つは確認しておきたいですが、全部終わった時刻と馬の状態を見てから出発するか決めれば十分です。昼を過ぎるようなら、無理に今日出る必要はありません」
「じゃあ、まだ決めないんだな」
「ええ。決めるための材料をこれから見に行くのですから、先に結論だけ出す必要はないでしょう」
ルシルはその答えが気に入った。
「よし。じゃあまず朝飯だ」
宿へ戻ると、食堂には朝の客が集まり始めていた。
昨夜とは違い、酒を飲んで長居する者は少ない。商人や御者たちは温かな麦粥やパンを手早く食べ、出発予定を確認しながら席を立っていく。入口近くでは厩務員と客が馬の状態について話しており、宿全体が「泊まる場所」から「送り出す場所」へ変わったようだった。
三人の朝食は、麦粥、焼いた卵、薄切りの燻製肉、パン、それに温かい茶だった。
「昨日の朝は自分たちで卵を焼いたんだよな」
ルシルが綺麗に焼かれた卵を見ながら言うと、モモは少しだけ気まずそうに笑った。
「今日は殻が入っていませんね」
「料理人が毎朝入れてたら困るだろ」
「次は私も入れません。たぶん」
「最後の『たぶん』が不安なんだけど」
二人が笑っている横で、シモンは食事をしながら今日の予定を書き出したりはしなかった。地図も帳面も出していない。
それでも必要なことは覚えているらしく、食後に主人へ市場と修理用品を扱う店について尋ねた。
「市場なら東の広場だ。朝の方が品は多い。補修板なら車輪屋か馬車道具屋で買えるが、お前さんたちの馬車は普通の荷馬車より少し造りが違うだろ。板だけなら問題ないが、金具まで買うなら現物を見せた方がいい」
「今日は補修板を一枚使った分だけ戻しておきたいんです。金具にはまだ余裕があります」
「それなら市場の近くにある『車軸屋バルド』で十分だ。名前は車軸屋だが、旅用の補修材も扱ってる」
主人はさらに、街道情報なら町の中央にある街道詰所か冒険者ギルドで確認できると教えてくれた。
「橋のことなら街道詰所へ行け。昨日の夕方にも向こうから来た荷馬車があったから、最新の状態を聞けるはずだ。ギルドは森林の魔物について聞く時に寄ればいい」
「ありがとうございます」
シモンが礼を言ったところで、ルシルは一つ気になった。
「市場と車軸屋と街道詰所って、歩いて回れる?」
「余裕だ。市場を見てから車軸屋へ寄って、そのまま中央へ戻ればいい。初めてなら町を見るのにも丁度いいだろ」
その言葉通り、三人は馬車を宿へ置いたまま歩いて出ることにした。
トルクとベルクは朝の確認を終えたばかりで、急いで馬車へつなぐ必要はない。荷物も収納魔法に入れられるため、徒歩で困ることもなかった。
宿を出た頃には、昨夜とは比較にならないほど町が活気づいていた。
大通りには出発する荷馬車と到着したばかりの荷馬車が入り混じり、店先では縄や飼葉、樽、木箱が次々に運ばれている。昨夜閉まっていた道具屋の戸は大きく開き、代わりに酒場の一部は静かになっていた。
東の市場へ近づくほど、人の声が増えていく。
やがて建物の間から広場へ出た瞬間、モモが思わず足を止めた。
「すごいですね……」
市場には色が溢れていた。
赤や緑の野菜、黄色い果実、籠いっぱいの豆、干した魚、燻製肉、焼きたてのパン。布を売る店では鮮やかな染物が風に揺れ、少し離れた一角には旅人向けの小さな道具や日用品まで並んでいる。
そして野菜の店先には、見覚えのある赤紫色の丸い根菜が山のように積まれていた。
「あった」
モモが嬉しそうに近づく。
昨日もらった赤根菜と同じものだが、大きさも形も少しずつ違う。店番をしていた女性がモモの視線に気づき、一つ手に取って見せた。
「赤根菜なら今朝掘ったばかりだよ。煮ても焼いてもいいし、薄く切って揚げても美味しいよ」
「揚げてもいいんですか?」
「そりゃ美味しいよ。油を使うから野営じゃ少し面倒かもしれないけどね」
モモの目が輝いたところで、ルシルも隣へ並んだ。
「俺たち昨日もらったばっかりなんだ。だから今日は買わないけど、食べ方を知りたくて」
「それなら無理に買わなくていいよ。皮ごと焼く人もいるし、細く切って塩と酢で漬ける家もある。甘いから子供にも人気だね」
買わない客にも嫌な顔をせず教えてくれる女性へ礼を言い、三人は店を離れた。
「揚げるのも食べてみたいです」
モモが未練を残した声で言うと、シモンは市場の先を見ながら答えた。
「油は持っていますが、野営で大量に使うのは後処理もあります。宿や食堂で出しているところがあれば、先にそちらで食べてみてもいいでしょう」
「じゃあ、今度見つけたらですね」
それだけで納得し、モモは次の店へ視線を移した。
ルシルも気になるものはいくらでもあった。
馬の形に焼かれた小さなパン。旅人向けに紐を通せる木製の杯。折り畳める簡素な籠。色の違う塩を小瓶へ入れた香辛料店。
以前なら市場を歩く時にも、目的の品を探す者と、それを案内する者がいた。今日は自分の足で好きな方向へ寄り、値札を見て、買うかどうか考えられる。
だからといって何でも買う必要はない。
見て、面白いと思って、それで終わってもいい。
「これ、馬車にあると便利かな」
ルシルが折り畳み式の小さな籠を持ち上げると、シモンが使い道を考えるように眺めた。
「何を入れるつもりですか?」
「……まだ決めてない」
「なら今は必要ありませんね」
「やっぱり?」
「欲しい理由が『使い道は分からないけれど便利そう』だけなら、少なくとも今日買う必要はないでしょう。必要になった時に似たものを探せばいいと思います」
以前なら管理されているように感じたかもしれない。
今はルシル自身も、確かにその通りだと思えた。
「じゃあ戻しとく。でも、こういうのあるって覚えとく」
「それで十分でしょう」
棚へ丁寧に戻し、さらに市場を歩く。
途中でモモが蜂蜜を売る店へ吸い寄せられそうになったが、昨日春雫で買った旅菓子がまだ残っていることを自分で思い出し、試食だけで満足して戻ってきた。店主からラナ近郊では赤根菜の花が咲く頃に蜂が集まりやすいと聞き、甘いもの以外の話にも興味を示している。
シモンも必要品だけを確認して終わるのではなく、地元で使われている荷紐の編み方や雨除け布を眺めていた。仕事として調査しているのではなく、単純に旅道具として面白いらしい。
「シモン、それ気になるの?」
ルシルが声を掛けると、シモンは厚手の布を指先で確かめた。
「ええ。今の馬車には雨戸もありますし、荷物の大半は収納できますから必要性は低いのですが、こういう布を一枚持っていると作業中の簡易的な雨除けには使えそうです。ただ、今すぐ必要ではありませんね」
「シモンも『今すぐいらないから買わない』できてるじゃん」
「僕を何だと思っているのですか」
「必要そうな物を見つけたら全部揃えようとする人」
シモンは反論しようとしたが、これまでの自分を思い返したのか、結局何も言わず布を棚へ戻した。モモが横で笑っている。
市場を一通り見終える頃には、太陽もかなり高くなっていた。
それでも、まだ昼には遠い。
三人は主人に教えられた車軸屋バルドへ向かった。
店は市場から少し外れた場所にあり、正面には大小さまざまな車輪と木材が立て掛けられている。中では職人らしい男が削り台へ木材を固定し、鉋を走らせていた。
「いらっしゃい。修理か?」
「補修板を一枚買いたいんだ。昨日、街道で壊れた馬車に一枚使ったから、その分を戻しておきたくて」
ルシルが答えると、職人は作業の手を止めた。
「自分の馬車じゃなく、他人のに使ったのか?」
「道端で止まってたんだ。俺たちも修理を習ったばかりだったから、直したのは向こうの人だけど」
「なるほどな。じゃあ元々積んでた板の大きさは分かるか?」
そこでルシルは少し詰まった。
使った板そのものはもうない。
おおよその長さと厚みは覚えているが、正確な寸法となると自信がない。
シモンが口を開きかけたものの、ルシルは先に首を振った。
「だいたいは分かるけど、正確には自信ない。馬車をここまで持ってきた方がいい?」
「いや、補修板なら用途を聞けば何種類か絞れる。車体の造りは?」
三人は自分たちの馬車について、必要な範囲だけ説明した。
高めの車高、太い車輪、二重底、通常より重い車体。特殊な部分もあるため、万能な板一本で何でも直せるわけではない。
職人は話を聞きながら何度か頷き、店の奥から厚みの違う三枚を持ってきた。
「応急用ならこの辺だな。ただ、お前さんらの馬車なら一番薄いのは避けた方がいい。削って合わせる前提で、少し厚い方を持っとけ。重さは増えるが収納があるなら問題ないだろ」
「じゃあ、これにする」
「一本でいいのか?」
問われたルシルはシモンを見る。
シモンは残っている補修用品を思い返し、少し考えてから答えた。
「使った分を戻すだけで十分です。予備を増やし続ければ際限がありませんから」
「分かった。じゃあ一枚」
代金を払い、板を収納する。
店を出たところで、ルシルは少し笑った。
「昨日だったら、俺、たぶん二枚買ってたかも」
「どうしてです?」
「また誰かに使うかもしれないから、念のためって」
モモも納得したように頷く。
「私も買っていたかもしれません。でも、必要になったらその時に補充できますよね」
「ええ。旅の途中で町へ寄る意味は、食事や宿だけではありません。消耗したものを必要な分だけ戻していけばいいのです」
持てるから持つのではなく、必要なものを必要な時に揃える。
収納魔法がある三人だからこそ、意識しなければ何でも抱え込めてしまう。旅が長くなるほど、こうした小さな判断も大切になるのだろう。
次に向かったのは町の中央にある街道詰所だった。
昨日入口で見た案内板より大きな地図が建物の前へ掲げられ、周辺の街道と宿場、川、橋が描かれている。入口には何人かの御者や商人が集まり、紙に書かれた最新情報を確認していた。
建物へ入ると、壁際には街道別の掲示板が並んでいた。
ラナからヘルガス方面。
ラナからグレイ方面。
周辺農道。
橋梁情報。
天候による注意箇所。
シモンが真っ先に向かったのは橋梁情報だったが、掲示だけを読んで終わらせず、窓口にいる職員へ声を掛ける。
「グレイ方面へ向かう予定なのですが、旧石橋の最新状況を教えていただけますか?」
職員は地図を広げ、三人にも見える向きへ回した。
「昨日夕方の報告が最新ですね。中央支柱の傾きは前回確認時から大きく変化していません。ただし大型貨物馬車は引き続き通行禁止。一台ずつ、現地の監視員が車体重量と道路状況を見て通しています」
「二頭立ての中型馬車です。一般的なものより車体が少し重いのですが、荷物の大半は収納魔法なので積載重量は軽いです」
「それなら現地判断ですね。車体そのものが重いなら、ここで『通れる』とは言えません。監視員が止めた場合は川沿いの迂回路へ回ってください」
シモンは素直に頷いた。
「迂回路の状態はどうですか?」
「昨日までは問題なし。半日から一日弱ほど余計に掛かりますが、道幅は十分です。ただし川沿いなので、強い雨が降った後はぬかるみやすい。今日明日は大きな雨の予報は出ていません」
ルシルは地図を覗き込みながら、旧石橋と迂回路の分岐を確かめた。
「橋まで行って、駄目だったらそこから迂回できる?」
「できる。ただ、橋の直前から戻るより、その手前の分岐で迂回を選んだ方が楽だ。橋の手前は馬車が並ぶことがあるからな」
「じゃあ、橋を絶対に渡る必要はないんだな」
「もちろん。急ぐ商人は橋を選ぶが、時間に余裕があるなら最初から迂回する者も多いよ。川沿いは景色も悪くない」
最後の一言に、ルシルとモモが同時に反応した。
「景色いいの?」
「季節にもよるがな。川幅が広くなる場所があって、水鳥も多い。道そのものは橋より遠回りだ」
シモンは二人の顔を見た。
「まだ何も言っていませんよ」
「俺も何も言ってないけど」
「顔に出ています」
昨日、自分が言われた言葉を返されたルシルは笑ってしまった。
橋が通れるなら近道。
迂回すれば半日から一日ほど長くなる。
普通ならどちらが効率的かを考えるのだろう。
しかし三人に急ぐ理由はない。
「決めるのは分岐まで行ってからでもいい?」
ルシルが尋ねると、職員は頷いた。
「構わない。ただ、出発前に天候だけもう一度見ておけ。川沿いを選ぶなら雨の後は避けた方がいい」
「分かった。ありがとう」
橋の情報は確認できた。
次にシモンが掲示板で見たのは、セイラ森林方面の注意書きだった。
灰色狼の目撃増加。
森猪の活動範囲が一部街道寄りへ移動。
ゴブリンについては例年並み。
オーガの新しい目撃情報なし。
内容だけを見る限り、今すぐ街道を閉じるような異常ではない。
「昨日の衛兵が言っていた通りですね」
シモンは掲示を一度読んだだけで、必要以上に深刻な顔はしなかった。
「気になる?」
ルシルが尋ねる。
「気にはなります。ただ、現時点で僕たちが原因を調べる必要はありません。セイラ森林へ近づく頃に、グレイでも新しい情報を確認しましょう。状況が変わっていれば、その時に対応すればいいです」
モモも掲示を眺めながら頷いた。
「魔物がいるなら全部倒しに行く、という話でもないですものね」
「ええ。街道へ出て人を襲っているなら別ですが、森に魔物がいること自体は異常ではありません」
三人には対処できる力がある。
だからといって、目についた問題すべてへ自分たちから首を突っ込む必要はない。
困っている人が目の前にいれば手を貸す。
危険が迫れば戦う。
けれど、何でも自分たちが解決しなければならないわけではない。
街道詰所を出ると、太陽はすでに朝の低い位置からかなり昇っていた。
市場を歩き、補修板を買い、橋と街道の情報を確認した。
予定していたことは、思っていたより順調に終わっている。
「まだ昼前ですね」
モモが空を見上げる。
「今から宿へ戻って馬車を出せば、今日中に結構進めそうです」
「そうだな」
ルシルもそう答えたが、すぐに「じゃあ出よう」とは言わなかった。
昨日までなら、先へ進めるなら進みたいという気持ちがもっと強かったかもしれない。
今は少し違う。
市場で見つけたもの。
朝のラナ。
まだ入っていない店。
宿の主人から聞いたこと。
そして、昨日町へ入ったばかりだという感覚。
「シモンはどう思う?」
ルシルが尋ねると、シモンも即答しなかった。
「馬の状態に問題はありませんでした。天候も今のところ安定しています。移動する条件だけを見るなら、今日出発しても問題ないと思います」
「うん」
「ですが、それは『出発できる』というだけです。『今日出発しなければならない』とは違います」
シモンはそこで言葉を切り、町の大通りへ目を向けた。
朝から動き続けていたラナは、これから昼へ向けてさらに賑やかになろうとしている。食堂では昼の仕込みが始まり、市場とは別の店も次々に開いていた。
「僕は、もう少しこの町を見てもいいと思っています。グレイまで二日程度なら、明日の朝に出ても予定上の問題はありません。それに、今日出るならこれから馬をつないで昼前に出発することになりますが、せっかく馬を宿で休ませたのですから、丸一日休養させる選択もあります」
モモは少し驚いたようにシモンを見た。
「シモン君から、もう一泊しようって言っているみたいです」
「『絶対に泊まりましょう』とは言っていませんよ。選択肢として合理的だと言っているだけです」
「でも、シモンが先に言ったのは珍しいよな」
ルシルが笑うと、シモンは少し困った顔をした。
「二人とも、僕が予定通り移動することしか考えられない人間だと思っていませんか?」
「前はちょっと」
「私もちょっとだけ」
「……否定する材料が少ないのが腹立たしいですね」
その反応がおかしくて、三人とも笑った。
答えは、ほとんど決まったようなものだった。
それでもルシルは、二人だけで決めたくなかった。
「宿へ戻ろう。トルクとベルクをもう一回見て、それから決めようぜ。俺たちが泊まりたいからって、二頭が元気余って走りたそうなら、それも考えたいし」
「そうですね。馬の状態を見てからにしましょう」
モモもすぐ同意する。
三人は来た道を蹄休めへ戻り始めた。
途中、昨日買った木彫りを思い出し、ルシルは足を止めかけた。
「そうだ。馬車にトルクとベルクの木彫り置く場所も決めてない」
「それを理由に一泊するつもりですか?」
「理由の一個にはなるだろ」
「なりません」
即座に否定され、モモが笑う。
「でも、今日は時間がありますから決められますね。落ちない場所にちゃんと固定しましょう」
「お菓子棚の横は駄目ですよ」
「まだ言っていません」
「昨日も同じやり取りをしましたから、先に言いました」
「同じことを二日続けて言わなくても分かります」
モモが少し頬を膨らませたため、ルシルは笑いながら二人の間を歩いた。
蹄休めへ戻ると、朝の出発客が減ったことで馬車置き場には少し余裕ができていた。
厩舎へ向かう前に主人へ今夜の部屋について尋ねる。
「昨日と同じ三部屋、もう一泊できる?」
「ああ、今夜なら空いてるぞ。どうした、出発やめたのか?」
「まだ決めてない。でも、泊まりたくなった時に部屋がなかったら困ると思って」
主人はそれを聞いて豪快に笑った。
「なら昼までに決めてくれればいい。部屋は押さえておく。馬房も今の場所をそのまま使えるぞ」
「ありがとう」
そのまま三人は厩舎へ向かった。
トルクは馬房の中で飼葉を食べ終え、のんびりと立っていた。ルシルたちの姿を見つけると顔を向けるが、朝のようにすぐ近づいてはこない。
「なんか、すごいくつろいでない?」
「落ち着いている証拠でしょう」
モモも笑いながらトルクの様子を眺めた。
ベルクも朝よりさらに周囲へ慣れたようで、隣の馬房にいる兄の気配を確かめながら静かに休んでいる。シモンが近づけばこちらへ顔を向けるものの、昨夜のような警戒はほとんど見えない。
若い厩務員へ、もう一日泊めるかもしれないと伝える。
「いいんじゃないか? 二頭とも昨日それなりに走ってるし、新しい馬車と新しい御者で旅を始めたばかりなんだろ。疲れ切ってるわけじゃないが、一日休ませて困る状態でもない。むしろ灰黒の方は、ここに慣れたところで今日一日ゆっくりさせれば次も楽だと思うぞ」
「走りたくて仕方ない感じでもない?」
ルシルが尋ねると、厩務員は二頭を見てから笑った。
「少なくとも『今すぐ馬車につないでくれ』って顔じゃないな。栗毛の方は『昼の飼葉はまだか』って顔に見えるけど」
まるで言葉を理解したかのように、トルクが鼻を鳴らした。
モモが吹き出す。
「トルクさんらしいですね」
「じゃあ、今日は休ませるか」
ルシルは二頭を眺めながら、今度は迷わなかった。
「俺、ラナにもう一泊したい。市場も全部見たわけじゃないし、馬車の中も整理したい。それにトルクとベルクも休めるなら、今日出なくていいと思う」
「私もです。せっかく来た町ですから、もう少し見てみたいです。それと、赤根菜を揚げた料理がどこかにないか探してみたいです」
最後の一つだけ妙に具体的だったが、モモらしい理由だった。
二人の視線を受け、シモンも静かに頷く。
「では今日はラナに滞在しましょう。橋と街道の情報は確認できましたし、補修板も補充できました。出発は明日の朝、もう一度馬と天候を見てから。それで問題ありません」
こうして、三人は旅へ出てから初めて、自分たちの意思で一つの町に予定より長く滞在することを決めた。
大げさな理由はない。
事件が起きたわけでも、道が閉ざされたわけでもない。
ただ、もう少しここにいたいと思った。
トルクとベルクを休ませたいと思った。
それだけで、一日先へ進まない理由としては十分だった。
「じゃあ、主人に正式にもう一泊するって言ってくる」
ルシルが馬房を離れようとした時、モモが何かを思い出したように声を上げた。
「ルシル様、その前に馬車へ行きませんか?」
「木彫り?」
「はい。昨日買ったのに、まだ飾っていません」
「よし、やろう」
「落下しない固定方法を考えてからですよ」
シモンが念を押し、三人は馬車置き場へ向かった。
焦げ茶色の馬車は昨日停めた場所で静かに待っていた。
買ってまだ数日しか経っていない。
それでも車輪にはヘルガスから走ってきた道の薄い泥が残り、車体の下には小さな土汚れがついている。新品だった時とは少し違うその姿を見ても、ルシルは汚れたとは思わなかった。
「ちょっと旅した馬車っぽくなってきたな」
車体へ手を添えながら呟く。
モモは収納から昨日の包みを取り出した。
中には栗色と灰色の二頭の木彫りが並んでいる。
「どこがいいでしょう。外だと雨に濡れますし、走っている時に落ちたら嫌です」
三人で馬車の中へ入り、棚や窓枠を見比べる。
モモのお菓子用として決めた棚は早々に候補から外された。折り畳み机の上では走行中に動く。窓際は見栄えがいいが、固定しなければ危ない。
最終的に、前方寄りの小さな棚の上に置き、細い革紐を通して木製の仕切りへ固定することにした。
作業そのものは簡単だった。
それでも三人は位置を少し右へ動かし、やっぱり左へ戻し、二体の間隔を狭めたり広げたりした。
「トルクがこっちで、ベルクがこっち」
「兄弟なら並べておいた方がいいですよね」
「走行中に互いへぶつからない程度には離してください。木が削れますから」
「シモン、こういう時だけ現実的なこと言うよな」
「こういう時だから必要なのです」
最後に革紐を締め、馬車を軽く揺らしても動かないことを確認する。
栗色と灰色の小さな馬が、並んで前を向いた。
ただそれだけなのに、三人とも少し離れた場所から眺めてしまった。
「いいな」
ルシルが最初に言った。
「はい。可愛いです」
モモも嬉しそうに頷く。
シモンは二人ほど分かりやすく喜んではいなかったが、木彫りの固定をもう一度確かめたあと、位置を直そうとはしなかった。
「これなら問題ないでしょう」
まだ名前のない馬車だった。
けれど棚には旅菓子があり、工具箱には自分たちが使うための道具があり、今日からはトルクとベルクに似た木彫りも並んでいる。
どこかの誰かのために作られ、試走だけで倉庫に置かれていた馬車が、少しずつ三人の旅の道具へ変わっていく。
ルシルはそのことを言葉にせず、しばらく車内を眺めた。
「さて」
シモンが馬車から降りながら、空を見上げる。
「今日は移動しないと決めました。昼までにはまだ時間がありますが、どうしますか?」
その問いに、ルシルはすぐ答えなかった。
行かなければならない場所は、もうない。
確認しなければならない情報も、ひとまず揃った。
だから今度は、何をしなければならないかではなく、何をしたいかを考えればいい。
モモも同じことを考えたらしく、宿場町の屋根越しに見える大通りへ顔を向ける。
「さっき市場は見ましたけど、まだ町の反対側はほとんど歩いていませんよね」
「そうだな。あと、俺は鍛冶屋とか車輪屋が並んでるところも見てみたい。買うものなくても、どうやって作ってるのか気になる」
「僕は構いません。ただし職人の仕事を邪魔しないようにしてください」
「分かってるって」
「それから、お昼はどうします?」
モモの問いに、ルシルは一瞬だけ考えた。
そして三人の頭に、昨日窓越しに見た巨大な皿がほとんど同時に浮かんだらしい。
視線が重なった。
「……麦角亭?」
ルシルが口にすると、モモの表情が明るくなる。
「昨日は『次に来た時』って言いましたけど、まだラナにいますよね」
「確かに次に来るまで待つ必要はありませんね」
シモンまで否定しなかった。
ただし、昨日見た料理の量を思い出したのか、少しだけ慎重な表情になる。
「朝食を食べたばかりですから、今すぐではありませんよ。町を歩いて、十分腹が空いてからにしましょう。注文する前に量も確認してください」
「了解」
「分かりました」
三人は馬車を降り、扉を閉めた。
栗色と灰色の小さな木彫りは、車内の棚で並んだまま残る。
トルクとベルクは厩舎で休んでいる。
明日になれば、また馬車を引いて新しい道へ進むかもしれない。
けれど今日は走らない。
今日はラナにいる。
そう決めた途端、昨日到着したばかりの宿場町が、通過するための場所ではなく、一日を過ごす場所へ変わったようにルシルには感じられた。
「じゃあ行こうか。腹減らすためにも歩かないとな」
「食事のために歩くのが目的になっていませんか?」
「町を見るついでだって」
「順番が逆になっている気がします」
シモンの指摘にルシルが笑い、モモもその横で麦角亭の料理を思い浮かべているのか楽しそうに歩き出す。
三人の後ろで、蹄休めの厩舎からトルクの大きな鼻息が聞こえた。
今日一日、どこへも進まない。
けれど、何もしない一日になるわけでもない。
ラナで見たいものは、まだいくらでも残っていた。




