第18話 大盛りの昼食を食べるだけなのに、覚悟が必要でした
蹄休めを出た三人は、昨日も今朝もまだ歩いていない町の北側へ向かった。
ラナは街道に沿って細長く伸びた宿場町だが、どこを歩いても同じ景色が続くわけではない。宿や食堂の多い大通りから一本外れるだけで人の流れは少し変わり、代わりに槌で金属を打つ音や、木を削る乾いた音が建物の間から絶えず聞こえてくるようになった。
朝の市場に満ちていた野菜や果物の匂いも、ここではほとんどしない。鼻へ届くのは削ったばかりの木材、熱せられた鉄、革へ染み込ませる油、それから時折風に混じる炭の匂いだった。
「こっちは本当に職人の店が多いんだな」
ルシルは歩きながら何度も左右へ視線を向けていた。
店先には完成した車輪を何枚も立て掛けている工房があり、その隣では馬具職人らしい男が革帯へ金具を取り付けている。さらに向かいでは、蹄鉄を扱う鍛冶屋の軒先に大小さまざまな鉄製品が吊るされ、朝の光を鈍く反射していた。
先ほど補修板を買った車軸屋バルドも職人街の端にあったが、あの時は必要な物を買うことに意識が向いていた。今は急ぐ用事がないため、同じような店を見ても目に入るものが違う。
「昨日までだったら、車輪って全部同じに見えてたかもしれない」
ルシルが一軒の工房前で足を緩める。
壁際に並んでいる車輪は、一見するとどれも似ている。それでもよく見れば直径も違えば幅も違い、外周を覆う鉄の厚みにも差があった。荷車用らしい細いものもあれば、彼らの馬車に近い太いものもある。
モモも隣へ立ち、一本の車輪を覗き込んだ。
「私たちのは、これより太いですよね?」
「たぶん。ガイルさんも普通より二割くらい太いって言ってたし」
「見比べるものがあると分かりやすいですね。買った時は『太いんだな』くらいにしか思っていませんでした」
二人が店先から眺めていると、工房の中で作業していた若い職人が顔を上げた。客だと思ったらしく最初は手を止めかけたが、ルシルが慌てて首を振る。
「ごめん。今日は修理じゃないんだ。旅を始めたばっかりで、車輪がこんなに種類あるんだなって見てた」
「なんだ、見物か」
職人は嫌な顔をするどころか、削りかけの木材から手を離して笑った。
「邪魔にならないところなら好きに見ていけよ。ただ、立て掛けてある車輪には寄りかかるな。見た目より重いから、倒れると洒落にならんぞ」
「分かった。触らない」
ルシルが素直に一歩離れると、職人は再び作業へ戻った。
円形に組まれた木の外側を少しずつ削り、手で表面を確かめてはまた刃物を動かす。その作業は派手ではないが、一定の速度で迷いなく続いていく。
ルシルはしばらく黙って見ていた。
馬車を買った時、すでに車輪は完成していた。
昨日の故障した荷馬車でも、目にしたのは壊れた後輪と応急処置の作業だった。
一本の車輪がどうやって作られるのかなど、考えたこともなかった。
「丸く作るだけでも大変そうだな」
思わず口にすると、職人は手を動かしたまま答えた。
「丸く見せるだけなら簡単だよ。荷物を積んで何百里も走れるように作るのが面倒なんだ。少し歪んでりゃ軸に負担が掛かるし、木の癖を見誤れば割れる。鉄を巻く時だって緩けりゃ外れるし、締めすぎれば木を傷める」
それだけ説明すると、男はまた作業へ集中した。
シモンはルシルの隣で完成品と作業途中の車輪を見比べていたが、細かな製法まで質問しようとはしなかった。職人が仕事中であることを忘れないよう、少し離れた位置から静かに眺めている。
「ガイルさんが、特殊な部品はどこでも直せるわけではないと言っていた理由が、少し分かる気がしますね」
「うちの馬車、普通より変わってるもんな」
「ええ。だからこそ、僕たち自身が最低限どこが普通と違うのか把握しておいた方がいいでしょう。ただし、知ったからといって何でも自分で修理しようとするのは別の話です」
「昨日それは分かったよ。分からないもの触るより、分かる人に任せた方が早い」
街道で出会った男の手際を思い出しながらルシルが答えると、シモンは満足そうに頷いた。
三人は職人へ礼を告げ、さらに先へ進んだ。
次に足を止めたのは鍛冶屋だった。
こちらは見物するまでもなく、通りへ開かれた作業場から真っ赤に熱された鉄が見える。分厚い革の前掛けを着けた男が金床の上へ鉄を置き、槌を振り下ろすたびに甲高い音と火花が弾けていた。
壁には剣や斧も何本か並んでいる。
しかし、それ以上に多いのは蹄鉄、車軸用の金具、留め具、釘、鎖といった旅や運搬に使われる品だった。
「鍛冶屋っていうと武器の印象が強かったけど、こっちの方が多いんだな」
ルシルの言葉に、シモンが店先へ並ぶ品々を見渡す。
「この町では馬車や馬の需要が大きいのでしょう。冒険者だけを相手にするより、日常的に交換が必要な部品を扱う方が仕事も多いはずです」
「蹄鉄もいっぱいありますね」
モモは棚に並ぶ蹄鉄へ興味を示した。
普通のものだけでなく、表面に小さな突起を持つものや、幅の広いものまである。今朝、厩務員から山道へ入る前には滑り止めを考えた方がいいと言われたばかりなので、三人とも自然に足が止まった。
店番をしていた女性が、彼らの視線に気づいた。
「蹄鉄を探してるのかい?」
「今すぐ交換するわけじゃないんですけど、これから先で山へ入る予定なんです。滑り止めがあるものを使った方がいいって聞きました」
モモが答えると、女性は棚の一角から二種類を取り出した。
「山道ならこういうのだね。こっちは浅い突起がある街道兼用。こっちはもっと滑りにくいけど、平地を長く走るなら馬の歩き方や路面との相性も見た方がいい。何でも滑り止めを強くすりゃいいってものじゃないよ」
「今ここで買っておいた方がいい?」
ルシルが尋ねると、女性は首を横へ振った。
「馬を見ないで蹄鉄だけ買うのは勧めないね。蹄の大きさも形もあるし、今履いてるものがまだ使えるなら無駄になる。山へ入る手前で腕のいい蹄鉄屋に見せな」
売れるはずの品を前にして、それでも必要ないと言う。
その答えが妙に信頼できて、ルシルは素直に頷いた。
「じゃあ今は見て覚えるだけにする。ありがとう」
「それがいいよ。旅を始めたばかりなら、馬の脚を守る方が先だ」
店を離れてから、モモは少し後ろを振り返った。
「売っている人から『買わなくていい』と言われることもあるんですね」
「必要のないものを売って、あとで馬に問題が出れば店の評判にも関わりますからね。それに、あの方は単純に馬を雑に扱うのが嫌なのでしょう」
「ラナって、馬のことをちゃんと考えてる人が多いな」
ルシルは昨日から会った人々を思い返す。
蹄休めの主人も、厩務員も、今の鍛冶屋もそうだった。
宿場町として馬車が多いからこそ、馬は単なる移動手段ではなく、町の暮らしそのものを支える存在なのかもしれない。
歩き続けていると、職人街の音にも少しずつ慣れてきた。
最初は一つ一つ気になっていた槌音も、いつの間にか町の背景へ溶け込んでいる。時折、修理を終えた車輪を二人掛かりで転がしていく職人が通り、荷馬車の御者が店先で金具の値段を交渉していた。
その中で、モモが一軒の小さな革細工店に目を留めた。
「これ、馬車に使えませんか?」
軒先へ吊るされていたのは、革で作られた小さな袋だった。口を紐で絞れるようになっており、腰へ下げたり、柱へ固定したりできるらしい。
ルシルも手に取らずに形を眺める。
「何入れる?」
「まだ決めていません」
「それ、今朝の俺と同じじゃん」
モモは一瞬黙り、今朝ルシルが折り畳み籠を戻した場面を思い出したらしい。小さく笑って首を横へ振った。
「じゃあ、今はいりませんね」
「でも便利そうだよな」
「便利そうという理由で二人揃って買おうとしないでください」
シモンに言われ、二人は素直に店から離れた。
買わなくても、面白い。
必要になった時に思い出せばいい。
そんな歩き方にも、三人は少しずつ慣れ始めていた。
職人街の端まで来ると、建物の間隔が少し広くなった。
町の北側には小さな水路が流れており、その向こうには倉庫と共同の馬車置き場が並んでいる。荷を積み替える商人たちの声が響き、何人もの作業員が麻袋や木箱を運んでいた。
ルシルたちは水路沿いの石縁へ腰を下ろし、しばらく休むことにした。
朝から市場を歩き、街道詰所へ行き、一度宿へ戻ってから再び町を歩いている。馬車に乗っている時とは違う疲れが脚へ溜まり始めていた。
「結構歩いたな」
ルシルが脚を伸ばすと、モモも隣で小さく息を吐いた。
「でも、まだ見ていないところがありそうです。昨日はラナって宿と馬車の町だと思いましたけど、今日は職人さんの町にも見えます」
「見る場所で印象が変わりますね。旅人が泊まるだけなら宿と食堂しか知らずに出ていくこともできるのでしょうが、少し歩けば、その宿や馬車を支えている人たちの仕事も見える」
シモンは水路の向こうで車輪を運ぶ二人組を眺めながら答えた。
彼の言葉に、ルシルも同じ方向を見る。
昨日ラナへ着いた時、目に入ったのは宿の看板や食べ物ばかりだった。
今朝になれば市場があり、職人街があり、荷を積み替える場所がある。
一つの町を知るというのは、案内板に書かれた名前を覚えることとは違うのかもしれない。
「もう一泊にしてよかったな」
ルシルが自然に口にすると、モモは迷わず頷いた。
「はい。昨日の夕方だけだったら、ここまで見られませんでした」
シモンも異論はないらしく、水路を流れる水へ視線を落とした。
「結果としてはよかったと思います。ただ、町を見るために毎回一日ずつ増やしていたら、海へ着くのが何年後になるか分かりませんよ」
「それはそれでいいんじゃない?」
ルシルが笑って返すと、シモンは何か言いかけた。
けれど結局、否定はしなかった。
海は逃げない。
そこへ向かう道の途中で、気になる場所が増えるなら、それも悪くない。
しばらく休んでから、三人は再び立ち上がった。
太陽はかなり高くなり、職人街にも昼前の気配が漂い始めている。作業の手を止めて水を飲む者や、昼食の話をしながら店を出る職人の姿が増えていた。
そして、その変化に合わせたように、ルシルの腹が小さく鳴った。
隣にいたモモがすぐ気づいた。
「ちょうどよさそうですね」
「何が?」
「麦角亭です」
「俺の腹の音で判断したの?」
「分かりやすかったですから」
ルシルは少し恥ずかしくなったが、朝食からかなり時間が経っているのも事実だった。シモンも空を確認し、今なら昼食にはちょうどいい頃だと頷く。
「ただし、昨日見た量を忘れないでください。店へ入ったら最初に一人前の大きさを確認しましょう。勢いで三人とも大盛りを頼むのは禁止です」
「俺、大盛り頼むなんて言ってないぞ」
「昨日、窓の外から見て目を輝かせていましたから」
「見るのと頼むのは別だろ」
「それなら問題ありません」
そんな話をしながら大通りへ戻ると、麦角亭の看板はすぐに見つかった。
昨日の夕方にも前を通ったため場所は覚えている。
ただし、昼時の店は昨日以上に賑わっていた。
入口の扉が開くたびに肉を焼く匂いと人の声が外へ溢れ、窓の向こうには大皿を囲む旅人たちの姿が見える。店先の看板には今日の昼食として肉料理、豆煮込み、芋、パンなどが書かれていたが、量についての注意書きはない。
「本当に入るんですよね?」
モモが念のため確認する。
「ここまで来て帰らないだろ」
ルシルは少し楽しそうに扉を開けた。
中へ入った瞬間、熱気に包まれた。
蹄休めの食堂より一回り広く、長机を中心に席が並んでいる。客の多くは商人、御者、職人、冒険者らしく、細かな礼儀を気にせず豪快に食べていた。
そして何より、皿が大きい。
昨日窓越しに見たものが特別だったわけではない。
近くの卓では、成人男性の顔より大きな木皿に肉と芋が山盛りになっている。その向こうでは細身の女性冒険者が同じ量を平然と食べており、隣の男が追いつけず苦しそうな顔をしていた。
「……やっぱり多いな」
ルシルの声から、入る前までの勢いが少し消えた。
「確認してから注文しましょう」
シモンも真顔になっている。
店員に三人だと告げると、ちょうど空いた四人掛けの卓へ案内された。
席へ着くなり、モモは周囲の料理を改めて見回した。
「昨日、外から見た時より大きく見えます」
「近いからな」
「いえ、それだけではないと思います」
運ばれていく皿には、大きな骨付き肉が二本、山盛りの芋、豆、厚切りのパンまで載っている。
そこへ注文を取りに来た店員が、三人の顔と周囲を見比べて笑った。
「初めてだね?」
「分かる?」
「初めての客はだいたい皿を見るからね。常連は座ったらすぐ注文する」
快活な女性店員は腰へ手を当て、壁の献立を指した。
「うちは普通盛りで他所の一・五人前くらい。大盛りは二人前より多い。小盛りもあるから、食べ切れる量を頼んでくれればいいよ。残したって怒りはしないけど、無理して食べるもんじゃないからね」
シモンがすぐにルシルを見る。
「聞きましたね?」
「聞いたって」
ルシルは献立を眺めた。
今日の肉盛りは香辛料で焼いた豚肉と鶏肉、芋、豆、焼き野菜、パンが一皿になっているらしい。
「普通盛りにする」
「僕もそうします」
二人が決めた横で、モモだけが小盛りと普通盛りの間で迷っていた。
「モモは小盛り?」
「普通盛りも食べられると思います。でも、食後に甘いものがあるかもしれません」
そこまで計算しているとは思わず、ルシルは笑いそうになった。
店員の方は慣れているらしく、すぐに助け舟を出す。
「甘いのなら焼き林檎があるよ。蜂蜜と砕いた木の実をかけたやつ」
「小盛りにします」
決断が早かった。
シモンが何も言わず眼鏡の位置を直す。
「今のは迷いませんでしたね」
「食べたいものが二つあるなら、両方食べられるように考えるのは大切です」
「食べ切れる範囲なら正しい判断でしょう」
店員が笑いながら注文を書き留めていった。
待っている間にも、次々と料理が運ばれていく。
近くの卓では若い冒険者が仲間に煽られて大盛りを注文したらしく、運ばれてきた瞬間に顔を引きつらせていた。皿の上には肉と芋が文字通り山になっている。
「うわ……」
ルシルが思わず見てしまう。
冒険者の仲間たちは笑っているが、本人はすでに後悔しているようだった。
「食べ物で遊ぶのはよくないですよ」
モモが珍しく真面目な声で言う。
「食べられる人が頼むならいいですけど、無理だって分かってるのに頼むのはもったいないです」
「モモからその言葉が出るとは思いませんでした」
シモンが少し意外そうにすると、彼女は不満そうに眉を寄せた。
「私は甘いものが好きなだけで、食べ物を無駄にしたいわけじゃありません」
「それはそうですね。失礼しました」
シモンは素直に認めた。
やがて三人の料理が運ばれてきた。
最初にモモの小盛り。
「……これで小盛り?」
ルシルは自分のものでもないのに驚いた。
一般的な食堂なら十分一人前と呼べる量だった。
続いてルシルとシモンの普通盛りが置かれる。
二人は揃って黙った。
皿の中央には厚切りの豚肉と鶏肉が重なり、その周囲を焼いた芋、豆、玉葱のような野菜が埋めている。端には厚いパンまで二切れ添えられていた。
「これ、大盛りじゃないよな?」
「普通盛りだよ」
店員は慣れた様子で笑う。
「食べ切れなかったら言って。パンみたいに持ち帰れるものなら包むから」
そう言って去っていった。
ルシルは改めて皿を見る。
「シモン」
「何ですか」
「最初に確認してよかったな」
「心から同意します」
二人とも、大盛りを頼もうなどとは言っていなかった。
それでも、もし「この店の名物なら」と勢いで頼んでいたらどうなっていたか。
考えたくない。
「いただきます」
三人で食べ始める。
量に目を奪われていたが、味はしっかり美味しかった。
豚肉は表面が香ばしく焼かれ、噛めば脂の甘みと香辛料の風味が広がる。鶏肉は少し塩を強めにしてあり、焼いた芋と一緒に食べるとちょうどいい。
「美味い」
ルシルは一口目で素直に声を漏らした。
「量だけの店じゃないんだな」
「そうでなければ、これほど客は入りませんよ」
シモンも肉を切りながら周囲を見回す。
客たちは量を面白がっているだけではなく、普通に料理を楽しんでいる。職人らしい男たちは大きな皿をかなりの速度で空にしており、長距離を走ってきたらしい御者も黙々と食べていた。
働く人間がしっかり腹を満たすための店なのだろう。
ルシルは最初こそ勢いよく食べたものの、皿の半分を越えたあたりで速度が落ち始めた。
「……まだあるな」
「最初からありましたよ」
「食べると減るはずなのに、あんまり減った気がしない」
シモンも同じ普通盛りなので余裕ではないらしい。それでも食べる順番を変え、肉の間に酢漬けの野菜を挟みながら淡々と進めている。
「急いで食べるから苦しくなるのです。少し休んだらどうですか」
「シモンは平気?」
「平気ではありません。ただ、食べ切れる範囲だとは思います」
向かいでは小盛りを選んだモモが、二人より明らかに余裕のある顔で食事を楽しんでいた。
「小盛りにして正解でした」
「焼き林檎のために?」
「もちろんそれもあります。でも、今度から初めてのお店では量を確認した方がいいですね。『普通』がどこでも同じとは限らないみたいです」
「それは俺も覚えた」
ルシルは水を一口飲み、少し休んでから再び肉へ向かった。
途中、隣の卓から大きな笑い声が上がった。
先ほど大盛りを頼んでいた若い冒険者が、ついに匙を置いたらしい。
「無理だって! これ半分で普通の店の一人前以上あるだろ!」
「だから言ったじゃねえか!」
「お前ら面白がってただけだろ!」
仲間たちは笑っているが、そのうち一人が店員へ声を掛け、残ったパンや焼き芋を包んでもらっていた。肉も保存できる分は持ち帰るらしく、店側も慣れた手つきで対応している。
それを見ていたモモが少し安心したように息を吐いた。
「無駄にはしないんですね」
「この町なら、旅人が持っていけるようにするのも普通なのかもな」
ルシルはそう言って、自分の皿へ戻る。
食べ始めた時ほどの勢いはない。
けれど、苦しくなるまで無理に詰め込むのではなく、話しながらゆっくり食べれば少しずつ減っていく。
旅へ出る前のルシルにとって、食事は時間の決まった予定の一つであることが多かった。
今は違う。
知らない店へ入り、量に驚き、三人で笑いながら食べる。
それだけの時間が、ちゃんと一日の中で大きな場所を占めている。
最後の芋を食べ終えた時、ルシルは深く息を吐いた。
「食った……」
「お疲れさまでした」
「なんで食事で労われてるんだよ」
「途中から少し戦っているような顔をしていましたから」
シモン自身も最後のパンを食べ終え、いつもよりゆっくり水を飲んでいる。
「次に来る時は、小盛りでもいいかもしれませんね」
「シモンも?」
「味は気に入りました。しかし、毎回この量を食べる必要はありません」
「俺も次は小盛りにしようかな」
二人がそんな相談をしている横で、モモは食後の焼き林檎を注文した。
やがて運ばれてきた皿を見て、今度は三人とも安心する。
焼き林檎は普通の大きさだった。
「よかった……」
ルシルが思わず呟く。
「何がですか?」
「麦角亭だから、林檎三個くらい出てくるかと思った」
店員が近くで聞いていたらしく、吹き出した。
「さすがに甘味まで山盛りにはしないよ。昼飯食べたあとにそんなの出したら誰も頼まなくなるだろ」
「それもそうだな」
モモは焼き林檎を匙で割った。
柔らかくなった果肉から湯気が立ち、蜂蜜と砕いた木の実が表面からゆっくり流れる。
一口食べた瞬間、表情が分かりやすく緩んだ。
「美味しいです」
その一言だけで、本当に気に入ったことが伝わった。
ルシルは自分の腹を押さえた。
「一口もらおうと思ってたけど、今は無理だ」
「私は分けてもよかったんですけど」
「次にする」
「では、次に来た時ですね」
モモは嬉しそうに残りを食べた。
店を出る頃には、三人とも朝から歩き回った疲れとは別の理由で動きが少しゆっくりになっていた。
外の空気が気持ちいい。
大通りの端へ寄り、しばらく歩いてから、ルシルはとうとう立ち止まった。
「……宿戻らない?」
シモンも反対しなかった。
「僕も同じことを考えていました。少し休んだ方がいいでしょう」
「私も賛成です」
「モモは一番元気じゃん」
「私は小盛りでしたから」
選択の差が、ここへ来てはっきり出ていた。
蹄休めへ戻る道では、三人とも午前中ほど周囲へ寄り道しなかった。
それでも急いでいるわけではない。
腹いっぱいの状態でゆっくり歩き、時々気になる店を見つければ場所だけ覚えておく。今入らなくても、今日はまだ時間がある。
宿へ着くと、主人が三人の顔を見るなり笑った。
「麦角亭へ行ったな?」
「なんで分かるんだよ」
「初めて行った旅人はだいたいその顔で帰ってくる」
ルシルは反論できなかった。
「普通盛りにしたのに多かった」
「だからあそこは腹を空かせて行く店なんだ。味はよかっただろ?」
「美味かった。次は小盛りにする」
「それも覚え方だな」
主人は笑いながら帳場へ戻った。
三人はそのまま厩舎へ寄り、トルクとベルクの様子だけを見る。
二頭は相変わらず落ち着いていた。
トルクはルシルたちを見ると近づいてきたが、食べ物を持っていないと分かったのか、少しすると飼葉の方へ戻っていく。
「お前、分かりやすいなあ」
ルシルが苦笑しながら首筋を撫でる。
ベルクはシモンへ鼻先を寄せたあと、すぐに馬房の奥へ戻った。知らない場所で一晩過ごした緊張はほとんど残っていないようで、三人も安心して厩舎を離れることができた。
食べすぎた直後に町歩きを再開する気にはならず、三人は一度それぞれの部屋へ戻ることにした。
「夕方くらいにまた下へ集まる?」
階段の前でルシルが尋ねると、シモンは少し考えてから頷いた。
「そうしましょう。今から何か予定を入れる必要もありません。休んで、起きていたら夕方に集まる。それくらいでいいと思います」
「昼寝してもいいんですか?」
モモが確認すると、シモンは不思議そうに彼女を見た。
「今日は移動しないと決めたのですから、眠いなら寝ればいいでしょう」
「シモン君が昼寝を勧めています」
「勧めたわけではありません。眠いなら寝ていいと言っただけです」
モモは楽しそうに笑い、自分の部屋へ向かった。
ルシルも扉を開ける。
部屋へ入り、外套を椅子へ掛けて寝台へ腰を下ろした瞬間、身体が思っていた以上に休息を求めていたことに気づいた。
朝からずっと歩いていた。
市場を見て、道具を買い、街道情報を聞き、職人街を歩き回り、最後には麦角亭の普通盛りと真正面から向き合った。
移動しない日なのに、何もしていないわけではない。
「休むか」
靴を脱ぎ、寝台へ横になる。
窓の外からは、昼のラナの音が聞こえていた。
車輪の転がる音。
遠くの槌音。
誰かが馬へ声を掛ける声。
宿の下から微かに聞こえる食器の音。
昨日までなら、昼間に寝台へ横になることへ少し落ち着かなさを覚えたかもしれない。
何かすることがあるのではないか。
先へ進めるのではないか。
そう考えてしまったかもしれない。
けれど今日は、自分たちでここに残ると決めた。
やるべきことは午前中に済ませた。
トルクとベルクも休んでいる。
なら、自分も休んでいい。
ルシルは目を閉じた。
眠るつもりはそれほどなかったのに、次に目を開けた時には、窓から入る光の角度が大きく変わっていた。
「……寝たな」
身体を起こす。
腹の苦しさはかなり消えている。
水を飲み、顔を洗ってから窓を開けると、昼の強い光はすでに柔らかくなり始めていた。
町の音はまだ賑やかだが、朝とは違う。
今日の自分たちは、この時間まで一里も先へ進んでいない。
それでも不思議と、無駄にしたとは思わなかった。
知らない町を歩いた。
車輪が作られるところを見た。
蹄鉄について少し知った。
大きすぎる昼食を食べた。
そして昼寝をした。
旅に出る前に想像していた冒険とは、たぶんずいぶん違う。
けれどルシルは、こういう一日をかなり気に入り始めていた。
しばらくすると、廊下から扉を開ける音がした。
ルシルも部屋を出る。
ちょうど向かい側ではモモが扉を閉めているところで、目が合うと少し気まずそうに笑った。
「寝た?」
「少しだけです」
「俺も」
「たぶん、少しではないと思います」
「俺もそんな気がする」
二人で笑っていると、もう一つの扉が開いた。
シモンが出てくる。
髪や服装は整っている。
しかし眼鏡を掛け直す動作が、普段よりほんの少しゆっくりだった。
ルシルとモモは同時に彼を見た。
シモンが怪訝そうに眉を寄せる。
「何ですか?」
「シモン君も寝ました?」
モモが尋ねる。
ほんの短い沈黙があった。
「……少しだけです」
その答えを聞いた瞬間、ルシルとモモの顔に笑みが広がった。
「三人ともじゃん」
「今日はそういう日だったんですね」
「だから、なぜ二人ともそんなに嬉しそうなのですか。昼食後に少し休んだだけでしょう」
シモンは困ったように言いながらも、本気で嫌がってはいなかった。
三人揃って階段を下りる。
夕食までは、まだ時間がある。
今日中に片付けなければならない用事は、もう何もない。
外へ出れば、傾き始めた日差しがラナの通りを照らしていた。
ルシルは宿の軒先で一度立ち止まり、左右を見た。
「夕方はどうする?」
モモもすぐには答えなかった。
シモンも予定を提示しない。
三人で町を眺めながら、それぞれに考える。
するとモモが、少し離れた場所から聞こえてきた音へ顔を向けた。
子供たちの笑い声だった。
宿や職人の店が並ぶ方角とは違う。大通りから外れた町の内側、昨日も今日もまだ歩いていない場所から聞こえている。
「あちら、何があるんでしょう?」
ルシルも耳を澄ませた。
笑い声に混じって、何か木製のものが転がるような軽い音がする。
「行ってみる?」
「はい」
モモはすぐ頷いた。
シモンもその方角を一度確認しただけで、止める理由を探そうとはしなかった。
「夕食までには十分戻れるでしょう。行ってみましょうか」
目的は分からない。
何があるのかも知らない。
ただ、少し気になったから行ってみる。
そんな理由で道を選ぶことにも、もう三人はほとんど迷わなくなっていた。
昼寝を終えた三人は、子供たちの声が聞こえてくる細い道へ並んで歩き出した。




