第19話 知らない町の遊びに混ざるのも、旅の楽しみらしいです
子供たちの笑い声を追って細い道へ入ると、大通りの賑わいは建物に遮られ、少しずつ遠ざかっていった。
宿や食堂の看板はほとんど見えなくなり、代わりに洗った布を二階の窓から干している家や、軒先へ小さな椅子を出して話している住民の姿が増えていく。旅人のために整えられた大通りとは違い、ここにはラナで暮らす人々の日常がそのまま道へ滲み出していた。
石と土が混じった路地を進むたび、聞こえていた声が近づいてくる。
「そっち行った!」
「止めろ、止めろ!」
「違うって、手で触ったら駄目だよ!」
何かを追いかけているらしい。
それに混じって、からからと木が地面を転がる軽い音がした。
「喧嘩ではなさそうですね」
モモは声の方角を覗き込みながら少し安心したように言った。最初は誰かが困っている可能性も考えたらしいが、聞こえてくるのは明らかに楽しそうな声ばかりだった。
「遊んでるみたいだな。でも何してるんだ?」
「行けば分かるでしょう。ここまで来て声だけ聞いて帰る理由もありません」
シモンに促されるまでもなく、ルシルは路地の先へ進んだ。
二つ目の角を曲がったところで視界が開ける。
そこにあったのは、建物に囲まれた小さな広場だった。
市場のように石畳が敷かれているわけではなく、地面はよく踏み固められた土のままだ。中央には一本の大きな木があり、その根元には何人かの大人が腰掛けられる石組みが設けられている。端には共同井戸があり、洗濯籠を持った女性たちが子供の遊びを眺めながら話していた。
広場を走り回っている子供は八人ほど。
年齢は小さい子で六、七歳、大きい子でも十二歳前後だろう。
そして彼らが追いかけていたのは、人でも動物でもなかった。
「輪っか?」
ルシルは足を止めた。
直径が膝ほどまである木製の輪が、広場を勢いよく転がっている。
子供たちはそれを手で止めるのではなく、それぞれ細長い木の棒を持ち、横から軽く叩いたり進行方向を修正したりしながら追いかけていた。
一人が棒で輪を叩く。
木輪が少し加速する。
その先には地面へ白い線が引かれており、輪を線の間へ通そうとしているらしい。
「あっ!」
狙いが少し外れた。
木輪は線から逸れ、そのまま三人のいる路地の入口へ向かって転がってくる。
「危ない!」
子供の一人が叫んだ。
ルシルは反射的に身体を動かしかけたものの、魔法も剣も必要ない。転がってきた木輪の前へ靴の側面を出し、勢いを殺すように受け止めた。
軽い衝撃が足へ伝わり、輪がぱたりと地面へ倒れる。
「ごめんなさい!」
十歳くらいの少年が慌てて走ってきた。
「大丈夫。ぶつかってないから」
ルシルが輪を起こして渡すと、少年は何度も頭を下げた。それから見慣れない三人を改めて眺め、少しだけ警戒するように動きを止める。
その反応につられ、遊んでいた他の子供たちもこちらを見た。
共同井戸のそばにいた大人たちの視線も集まる。
旅人が多い町とはいえ、この広場まで外から来た者が入ってくることはそれほど多くないのかもしれない。
「旅の人?」
木輪を受け取った少年が尋ねた。
「うん。昨日ラナに着いて、蹄休めに泊まってる。笑い声が聞こえたから、何してるのかなと思って見に来たんだ」
ルシルが答えると、警戒より好奇心が勝ったらしい。少年の目が少し明るくなった。
「これ知らないの?」
「初めて見た」
「輪走りだよ」
少年は当然のことのように答えた。
すると少し離れていた別の子が、「ラナじゃ普通だよ」と口を挟む。その横にいた女の子は、旅人なら知らなくても仕方ないと言い返し、いつの間にか三人そっちのけで小さな言い合いが始まりかけた。
共同井戸のそばにいた女性が笑う。
「この辺の子供が勝手にそう呼んでるだけだからね。別の町じゃ違う名前かもしれないよ」
「やっぱりラナだけの特別な遊びってわけじゃないのか」
ルシルが尋ねると、女性は洗濯籠を抱え直しながら肩をすくめた。
「昔からあるから、誰が始めたかなんて知らないさ。壊れた小さな車輪の外輪なんかを子供にやったのが始まりだって話もあるけど、本当かどうかは分からないね」
その曖昧さに、ルシルは昨日の木彫りの馬を売っていた老婆を思い出した。
由来がはっきりしない。
誰かが始めて、いつの間にか続いている。
旅人向けの記念品も、子供の遊びも、そういうものが案外多いのかもしれない。
「どうやって遊ぶんですか?」
モモが木輪を興味深そうに覗き込むと、子供たちの空気が一気に変わった。
「やる?」
「お姉ちゃんもやる?」
「棒もう一本あるよ!」
何人かが同時に話し始める。
モモは少し驚きながらも嬉しそうに笑った。
「やってみたいです。でも、ルールを知らないので教えてください」
その一言で、子供たちは完全に三人を受け入れたらしい。
最初に話しかけてきた少年が木輪を地面へ立て、棒の使い方を実演する。棒の先端は少し平らに削られており、輪の下側を軽く押すように当てると前へ転がった。
「強く叩きすぎると飛んでくから、最初はこうやって押すんだ。倒れそうになったら横をちょっと叩く」
「なるほど……」
モモは真剣に見ている。
「で、あそこの線から始めて、白い石を回って戻ってくる。途中で輪が倒れたら、倒れた場所からもう一回。手で持って運んだら負け」
「速さを競うんですか?」
「今日はそう。でも、線の間を通すやつもあるよ」
説明を聞き終えたモモは棒を受け取った。
その瞬間、シモンが少しだけ身を乗り出す。
「モモ嬢、念のため言いますが、魔法は禁止ですよ」
モモがゆっくり振り返った。
「使いませんよ?」
「あなたなら風魔法で輪を安定させるくらいは思いつきそうなので、先に言いました」
「子供の遊びでそんなことしません」
「それなら結構です」
やり取りを聞いていた子供たちは意味が分からないながらも、何となく面白かったらしく笑っている。
ルシルも口元を緩めた。
「シモンもやる?」
「なぜ僕まで参加する前提なのですか」
「三人で来たから」
「その理屈なら、見学という選択肢もあるでしょう」
シモンはそう言ったものの、子供の一人がすでに予備の棒を持って近づいてきていた。
「お兄ちゃんもやらないの?」
「……あとで考えます」
「やる人の返事ですね」
モモが嬉しそうに言うと、シモンは聞こえなかったことにした。
まずはモモの練習から始まった。
木輪を立て、少年が手を離す。
モモは棒を下へ当て、慎重に押した。
輪がゆっくり進む。
「あ、動きました」
「もっと追いかけて! 止まっちゃう!」
言われて慌てて二歩進み、もう一度押す。
今度は少し強かった。
木輪が急に速度を上げ、モモの前から逃げるように転がっていく。
「待ってください!」
「輪は待たないよ!」
子供の声に広場が笑いに包まれた。
モモは白い外套を揺らしながら木輪を追いかける。魔物を相手にすれば恐ろしいほど正確に魔法を操れる元聖女が、今はただの木輪一つに翻弄されていた。
追いついて横から棒を当てる。
今度は反対側へ曲がった。
「あれ?」
「逆! 逆から叩くんだって!」
「分かっていますけど、思ったより難しいです!」
再び追いかける。
結局、白い石へ到達する前に輪は三回倒れた。
それでもモモは嫌がるどころか、戻ってきた時には頬を少し赤くしながら笑っていた。
「もう一回やりたいです」
「次は俺」
ルシルも完全にやる気になっていた。
棒を受け取り、木輪の前へ立つ。
「見てたから、たぶんできる」
その言葉にシモンが眉を上げる。
「昨日まで馬車でも似たようなことを言っていませんでしたか?」
「馬車より小さいから大丈夫だろ」
「大きさと難易度は必ずしも比例しませんよ」
ルシルは聞き流し、木輪を押し出した。
最初の一回は上手くいった。
「お、いける」
二回目も倒れない。
子供たちから「上手い!」という声が飛ぶ。
それで少し調子に乗った。
白い石まで一気に行こうと、三回目の棒を強く当てる。
木輪が勢いよく加速した。
「あ」
ルシルの声と、シモンのため息がほとんど同時だった。
輪は白い石の横を大きく通り過ぎ、そのまま広場の端へ向かう。
「速い速い!」
「追いついて!」
子供たちが騒ぐ中、ルシルは本気で走った。
身体能力だけなら木輪へ追いつくことなど簡単だ。
しかし、そこで全力を出してしまえば明らかに不自然になる。
普通の旅人として、普通に走る。
その加減をしている間にも木輪は進み、最後は大木の根へ当たって倒れた。
広場に笑い声が広がった。
「お兄ちゃん、下手!」
「最初上手かったのに!」
「分かってるよ! ちょっと強くやりすぎただけだって!」
ルシルは木輪を抱えて戻ってくる。
モモは笑いを堪えきれず、口元へ手を当てていた。
「ルシル様、御者の時と同じですね」
「何が?」
「楽しくなると前へ行きすぎるところです」
「木輪と馬車を一緒にするなよ」
「でも、強くしすぎたのは同じですよ」
否定しようとしたが、似ていないとも言い切れない。
ルシルは棒を返しながら、少しだけ悔しそうに木輪を見た。
「もう一回やれば絶対できる」
「では、その前にシモン君ですね」
モモが振り返る。
シモンはいつの間にか共同井戸のそばまで少し下がっていた。
「なぜ僕を見るのですか」
「順番です」
「僕は参加すると言っていません」
ところが、先ほど棒を持ってきた小さな男の子が、今度は両手でそれを差し出した。
「お兄ちゃん、やらないの?」
シモンは棒と少年を交互に見る。
断ろうと思えば断れる。
しかし子供は純粋に待っているだけで、無理強いしている様子はない。
数秒後、シモンは静かに息を吐いた。
「一回だけですよ」
「やった!」
なぜか子供たちから歓声が上がった。
ルシルとモモもすぐに見物する側へ回る。
「シモン、理屈で考えすぎて倒すんじゃない?」
「そうですね。木輪の角度とか地面の傾きとか考え始めそうです」
「二人とも聞こえていますよ」
シモンは眼鏡を押し上げ、木輪の前へ立った。
少年から一度だけ棒の当て方を確認する。
それから押す。
木輪が進んだ。
二度目も軽く押す。
ほとんど蛇行しない。
「上手い!」
子供が声を上げた。
ルシルは少し悔しくなる。
「なんで初めてでできるんだよ」
「力を入れすぎなければいいだけでしょう」
「それが難しいんだって」
シモンは走らず、木輪の速度に合わせて一定の歩幅で進む。
白い石へ近づくと少し外側から棒を当て、輪の進行方向を変えた。
綺麗に曲がる。
「すごい!」
「お兄ちゃん上手い!」
子供たちの声がさらに大きくなる。
モモまで感心していた。
「シモン君、本当に上手ですね」
「基本的には馬車の進行方向を考えるのと似ています。動いているものへ、必要な分だけ力を――」
説明しながら一瞬だけ子供たちへ顔を向けた。
その瞬間だった。
木輪が小さな石を踏んだ。
わずかに跳ねる。
「シモン!」
ルシルが声を上げる。
シモンが慌てて棒を当てたものの、今度は修正が強すぎた。
輪が大きく横へ逸れる。
「あ」
初めて、シモンの口からそんな声が漏れた。
木輪は共同井戸の方へ向かい、慌てて追いかけたシモンがもう一度棒を当てる。
さらに曲がる。
最後は洗濯籠の少し手前で倒れた。
一瞬の静寂。
そして、広場が大きな笑い声に包まれた。
「お兄ちゃんも失敗した!」
「途中まで一番上手かったのに!」
「喋ってるからだよ!」
子供たちは容赦がない。
シモンは倒れた木輪を見下ろし、それから眼鏡を押し上げた。
「……説明しながらやるべきではありませんでしたね」
ルシルはもう我慢できずに笑った。
「シモン、今の顔すごかったぞ!」
「あなたにだけは言われたくありません」
「でも私より進みました」
「モモ嬢、それは慰めになっていません」
「慰めていませんから」
モモまで笑い、シモンも最後には諦めたように口元を緩めた。
そこからは、見学するだけのつもりだった三人も完全に遊びへ混ざった。
子供たちが二つ目の木輪を持ってきて、今度は二人ずつ競争する。
最初はルシルと先ほどの少年。
ルシルは一回目の失敗を踏まえて力を抑えたが、慎重になりすぎて途中で輪が倒れ、少年に負けた。
「くっそ、もう一回!」
「いいよ!」
次はモモと十歳ほどの女の子。
モモは一度目よりかなり上達していたが、白い石を回るところで逆方向から棒を当ててしまい、二人で笑いながら木輪を拾いに行くことになった。
シモンは小さな男の子と組み、今度こそ最後まで倒さずに戻ってきた。ただし速さでは負けた。
「お兄ちゃん遅い!」
「倒さないことを優先したのです」
「競争なんだから速くないと駄目だよ!」
「……それはもっともですね」
六、七歳の子供に正論を返され、シモンが黙る。
ルシルは腹を抱えて笑った。
何度か遊ぶうち、三人の周囲には自然と子供たちが集まっていた。
誰も彼らの身分を知らない。
冒険者証を見る者さえいない。
ルシルが元王子だったことも、モモが聖女だったことも、シモンが王宮で重要な役目を担っていたことも、この広場では何の意味もなかった。
木輪を倒せば笑われる。
上手く走らせれば褒められる。
それだけだった。
共同井戸のそばで見ていた大人たちも、最初は知らない旅人を気にしていたものの、いつの間にか子供たちと一緒になって笑っていた。
「あんたたち、随分本気で遊ぶねえ」
洗濯物を畳んでいた年配の女性が声を掛ける。
ルシルは息を整えながら笑った。
「思ったより難しいんだよ、これ」
「子供の遊びだからって甘く見たね?」
「最初はちょっと」
「大人の方が力があるから、かえって飛ばしすぎるんだよ。うちの亭主も若い頃、子供に混ざって井戸まで輪を飛ばしたことがある」
女性が指した共同井戸を見て、ルシルは笑う。
「それは怒られただろ」
「水汲みに来てた女房にな。まあ、私なんだけど」
周囲の女性たちが一斉に笑った。
ルシルたちもつられて笑う。
旅先で知らない誰かの昔話を聞く。
それも王城ではほとんどなかったことだった。
王宮へ来る者の話には、たいてい目的があった。
報告、陳情、交渉、挨拶。
けれど今聞いた話には、何の役にも立たない。
それが妙に楽しい。
モモは子供から木輪を受け取り、もう一度練習している。今度は競争ではなく、なるべく倒さずに広場を一周するらしい。
シモンも隣で見ていたが、途中から子供に「そこ違う」と言われて棒の角度を直されていた。
ルシルは大木の根元へ腰を下ろし、その光景を眺める。
傾いた夕日が広場へ差し込み、走る子供たちの影を長く伸ばしている。
今日は朝から一里も進んでいない。
それでも朝に感じたものより、今の方がずっと「ここへ来た」という実感が強かった。
宿の名前を知るだけでは分からない。
市場で買い物をするだけでも分からない。
その町で暮らしている子供が何をして遊ぶのか。大人がどんな顔でそれを見ているのか。夕方になるとどの路地に笑い声が響くのか。
そんなものは、地図には書かれていない。
「ルシル様!」
モモの声に顔を上げる。
今度は木輪を倒さず、広場の半分ほどまで進んでいた。
「見てください! さっきより上手くなりました!」
「おお、そのまま!」
「前を見てください、モモ嬢。こちらを見ながらやると――」
シモンが注意した直後、木輪が少し傾いた。
モモは慌てて前を向き、ぎりぎりで棒を当てる。
倒れない。
子供たちから歓声が上がった。
「できました!」
戻ってきたモモは、本当に嬉しそうだった。
魔物を倒した時とはまるで違う。
何か大きな役目を果たした時でもない。
ただ木輪を一周させただけ。
それでも、できなかったことができるようになる嬉しさに、大きいも小さいもないのだろう。
「次、ルシル様もやりましょう」
「もちろん。今度は俺も一周する」
「夕食までですよ」
シモンが釘を刺す。
「分かってるって。シモンもやるだろ?」
「僕は先ほど成功しました」
「遅かったじゃん」
「倒さないことを優先した結果です」
また同じ言い訳をしているシモンへ、子供たちから「競争なら負け!」と声が飛ぶ。
「……君たちはよく覚えていますね」
困ったようなシモンの顔に、広場は再び笑いに包まれた。
その後、ルシルも何度か挑戦した。
三回目でようやく、木輪を倒さず白い石を回って戻ってくることができた。
ただし最後に喜びすぎて強く叩き、ゴールを通り越した。
「最後まで駄目じゃん!」
少年に言われ、ルシルは膝へ手をついて笑う。
「線は通っただろ!」
「止まるまでが輪走りだよ!」
「最初にそれ言ってなかったじゃん!」
「今決めた!」
「ずるいだろ!」
子供相手に本気で抗議するルシルを見て、モモは声を上げて笑った。
シモンも眼鏡の奥で目を細めている。
気づけば日差しはかなり低くなっていた。
広場の端にある家々から、夕食の支度らしい匂いが流れ始めている。煮込み、焼いた魚、香草。共同井戸に来ていた女性たちも一人、また一人と籠を抱えて家へ戻り始めた。
子供たちもそろそろ帰る時間らしい。
「俺たちも宿へ戻らないとな」
ルシルが言うと、最初に話しかけてきた少年が少し残念そうな顔をした。
「もう帰るの?」
「夕飯あるからな。それに明日はたぶん、次の町へ向かう」
「そっか」
ほんの少しだけ空気が静かになる。
しかし、少年はすぐに木輪を抱え直した。
「じゃあ、またラナに来たらやろうよ」
あまりにも自然な誘いだった。
名前も聞いていない。
どこに住んでいるのかも知らない。
次に来た時、同じ時間にこの広場へいる保証もない。
それでもルシルは、できない約束だとは思わなかった。
「いいよ。その時はもっと上手くなってるからな」
「旅してるのにどこで練習するの?」
「……似た輪っか見つける」
「練習する気なんですか?」
シモンの呆れた声に、子供たちが笑う。
モモも小さな女の子と約束していた。
「私も次は競争で勝ちます」
「お姉ちゃん、今は遅いもんね」
「次は速くなっています」
「魔法は禁止だよ!」
「使いません!」
どうやらシモンが最初に言った注意まで覚えられているらしい。
シモン自身は約束をするつもりがなかったようだが、小さな男の子が彼の外套の端を軽く引いた。
「眼鏡のお兄ちゃんも来る?」
「眼鏡のお兄ちゃん……」
呼ばれ方に少しだけ複雑そうな顔をしたあと、シモンはしゃがんで子供と目線を合わせた。
「僕たちがまたラナへ来て、その時に君たちがここで遊んでいたら、参加しましょう」
「絶対?」
「絶対とは言いません。旅をしていれば予定が変わることもありますから。ただ、会えたのに逃げるつもりはありませんよ」
「じゃあ約束!」
少年は満足したらしく、笑って仲間のところへ戻っていった。
シモンが立ち上がる。
「子供は強いですね」
「シモンでも断れないんだな」
「断る必要がなかっただけです」
「じゃあ次もやるんじゃん」
「会えたら、です」
それで十分だった。
三人は広場の子供たちへ手を振り、来た道を戻り始めた。
背後では、最後まで残った子供たちが木輪を片付けている。
何度も振り返る必要はなかった。
また来たら遊ぶ。
来られなければ、今日遊んだ時間が残る。
それくらいの距離が心地よかった。
帰り道は、来た時より静かだった。
夕食時が近づき、住民たちが家へ入っている。開け放たれていた窓からは料理の匂いが漂い、家の中から家族を呼ぶ声が聞こえる。
モモは歩きながら、自分の手を見た。
「少し痛いです」
「怪我した?」
ルシルが心配して見ると、手のひらがほんの少し赤くなっているだけだった。
「棒を握っていたからだと思います。怪我ではないです」
「俺もだ」
ルシルも手のひらを見せる。
剣を握ることには慣れている。
けれど細い木の棒を握って走り回るのは別らしく、普段とは違う場所に軽い疲れが残っていた。
シモンも黙って自分の手を見た。
「シモンも?」
「少しだけですね」
「三人ともじゃん」
ルシルが笑う。
誰かを助けた傷でもない。
戦った跡でもない。
子供の遊びに本気になっただけで残った小さな赤み。
それすら少し面白かった。
「今日、何したっけ」
ルシルが歩きながら考える。
「朝にトルクさんとベルクさんを見て、市場へ行って、補修板を買って、橋のことを聞きました」
モモが指を折りながら続ける。
「それから馬車に木彫りを飾って、職人街を歩いて、麦角亭で昼食を食べて、昼寝しました」
「最後に子供と輪走りですね」
シモンが付け足す。
「結構いろいろやってるな」
「移動はしていませんけどね」
「でも疲れた」
「それは麦角亭と輪走りの影響が大きいと思います」
確かにそうかもしれない。
三人は笑いながら蹄休めへ戻った。
宿の扉を開けると、昨日と同じ鈴の音が響く。
夕食前の食堂はすでに少しずつ客が増え始めていた。
帳場にいた主人が三人を見つけ、泥や傷ではなく、少し乱れた服と妙に疲れた顔を見て眉を上げる。
「何してきたんだ?」
「輪走り」
ルシルが答えると、主人は一瞬黙った。
それから大声で笑った。
「ああ、裏の広場か! 旅人があそこまで入り込むのは珍しいな」
「知ってるの?」
「そりゃ町の人間だからな。俺もガキの頃はやったぞ」
「主人も?」
「何十年前の話だと思ってる。今やったら腰を痛めるわ」
そう言いながらも、主人は少し懐かしそうだった。
「昔は今より車輪の出来が悪かったから、小さい荷車の壊れた輪が結構出たんだ。それを子供が拾って遊んでたって話は聞いたことがある。まあ、本当かは知らんがな」
「広場の人も似たこと言ってた」
「だったら案外本当かもしれんな」
また一つ、曖昧なままの話が増えた。
けれど確かめる必要はない気がした。
ルシルたちは一度部屋へ戻って手と顔を洗い、服を整えてから食堂へ下りた。
昼に麦角亭でかなり食べたため、三人とも昨日ほど腹は減っていない。
主人へ相談すると、夕食は量を少なめにしてもらえることになった。
「今日は昼が多かったからな」
ルシルが言うと、主人は事情を察しているだけに笑いながら厨房へ伝えてくれた。
出てきたのは野菜の入った薄いスープ、焼いた白身魚、少量のパン、それに酸味のある葉野菜だった。
「今日はこれくらいがちょうどいいですね」
シモンがスープを口にし、ほっとしたように息をつく。
「麦角亭の普通盛り、まだちょっと残ってる気がする」
「ルシル様、途中から意地になっていましたものね」
「残したくなかったんだよ」
「次は小盛りにしましょう」
「そうする」
モモも今日は甘味を追加しなかった。
昼に焼き林檎を食べたことで満足しているらしい。
三人は急がず夕食を取った。
昨夜とは違い、周囲の客の話へ意識を向けることもほとんどない。必要な街道情報は朝に確認しているため、今は明日のために何かを集める必要もなかった。
食後、シモンが温かい茶を飲みながら口を開いた。
「明日のことですが、朝の馬の状態と天候に問題がなければ、出発するつもりでいいですか?」
「俺はいいよ」
ルシルは迷わず答えた。
ラナをもっと見たい気持ちがなくなったわけではない。
まだ歩いていない道もあるだろう。
入っていない店もある。
けれど今日一日を過ごしたことで、昨日の夕方よりずっと満足していた。
「私も大丈夫です。また来た時に見ればいいですから」
モモも穏やかに頷いた。
「では朝食前に厩舎へ行きましょう。二頭に問題がなければ朝食を取って、その後に荷物と馬車を確認して出発。旧石橋と迂回路の分岐については、出発時の天候を見て改めて考えます」
「橋を渡るかどうかはまだ決めない?」
「ええ。急ぐ必要はありませんし、今日聞いた情報ではどちらも選べます。今夜のうちに決めつける必要はないでしょう」
「分かった」
ルシルは茶を飲みながら、食堂の壁に掛かった街道地図へ視線を向けた。
ラナから先へ延びる線。
グレイへ向かう道。
途中で分かれる旧石橋と川沿いの迂回路。
さらにその先にはセイラ森林がある。
地図を見れば、次に進む道はいくらでも考えられる。
それでも今夜は、地図の前へ立って細かな予定を詰めようとは思わなかった。
明日の朝に決めればいい。
食事を終えると、三人は厩舎へ向かった。
夜の見回りが始まる少し前で、若い厩務員が水と飼葉を確認しているところだった。
トルクは三人を見るとすぐに寄ってくる。
モモが首筋を撫でながら笑った。
「今日は一日お休みでしたね。明日はまた走るかもしれませんよ」
トルクは意味を理解した様子もなく、モモの手元を嗅いでいる。
「今日はお菓子持ってませんよ」
「人間の菓子をやらないでくださいよ」
「分かっています」
シモンはベルクの馬房へ向かった。
ベルクは昨日とは違い、彼が来る前から馬房の手前側で落ち着いて立っている。シモンが額へ触れると、鼻先を軽く腕へ寄せた。
「ここにも慣れたようですね」
若い厩務員も頷いた。
「今日はずっと落ち着いてた。明日出るなら、朝もう一度脚を見て問題なければ大丈夫だと思うぞ」
「ありがとうございます。朝に確認します」
ルシルもトルクとベルクを順番に撫でた。
「明日、また頼むな」
二頭に任せるだけではない。
自分も御者台へ座る。
モモも手綱を持つ。
シモンも交代する。
三人と二頭で、また次の道へ進む。
厩舎を出ると、空はすっかり暗くなっていた。
ラナの大通りには宿や酒場の灯りが並び、昨日初めて見た時より少しだけ見慣れた景色に感じられる。
明日には、この町を離れる。
それでもルシルの胸に、ヘルガスを出た朝のような大きな感情は湧かなかった。
ラナで過ごした時間が軽いからではない。
むしろ逆だった。
もう、町を離れるたびに「失う」と考えなくてもいいことが分かっている。
今日遊んだ子供たちの顔も、麦角亭の大皿も、職人街の槌音も、馬車に取り付けた二つの木彫りも、明日町を出たからといってなくなるわけではない。
「ルシル様?」
モモに呼ばれ、ルシルは足を止めていたことに気づいた。
「何でもない。行こう」
三人は宿へ戻った。
二階へ上がり、それぞれの部屋の前で立ち止まる。
「じゃあ明日の朝、また厩舎で」
「はい。明日も私が一番を狙います」
「まだ続けるの?」
「起きられたらです。無理はしません」
モモはそう言って笑い、自分の部屋へ入った。
シモンも扉へ手を掛ける。
「ルシル様も今日は早めに休んでください。明日は御者をするのでしょう?」
「もちろん。町を出るところ、俺がやっていい?」
「朝の状態に問題がなければ構いません。ただし、町中では昨日と同じように後輪まで意識してください」
「分かってる。今度は成功一回で得意げな顔もしない」
「それなら結構です」
シモンの口元がわずかに緩んだ。
「おやすみなさい、ルシル様」
「おやすみ、シモン」
部屋へ戻り、ルシルは窓を開けた。
夜のラナの空気が入ってくる。
遠くから酒場の声が聞こえ、さらにその向こうでは遅い時間まで働いているのか、金属を打つ音が数回だけ響いた。
明日はまた道へ出る。
旧石橋へ向かうかもしれない。
川沿いへ回るかもしれない。
その先で何があるのかは、まだ分からない。
けれど今夜のルシルが思い出していたのは、先の道ではなかった。
木輪を追いかけて走るモモ。
子供に「遅い」と言われて言葉を失ったシモン。
自分が勢いをつけすぎて広場の端まで飛ばした木輪。
思い出しただけで、自然と笑みが浮かぶ。
「……楽しかったな」
誰に聞かせるでもなく呟き、窓を閉めた。
明日の朝になれば、また旅が動き出す。
だから今夜は、ラナで過ごす最後の夜を静かに眠ればいい。
ルシルは寝台へ入り、ほどなく目を閉じた。




