第20話 次の町へ向かう道は、出発してから決めてもいいらしいです
翌朝、ルシルが目を覚ました時、窓の外から最初に聞こえてきたのは馬の嘶きだった。
まだ完全に明るくなりきっていないラナの空は薄い青灰色で、東側の屋根の向こうだけが淡く白み始めている。昨夜まで賑やかだった通りは静かだったが、宿場町そのものが眠っているわけではないらしい。どこかで馬房の戸を開ける音がし、少し離れた場所から荷車を動かす軋みまで聞こえていた。
寝台の中で身体を伸ばす。
昨夜は輪走りで思った以上に走り回ったはずなのに、身体に残っているのは軽い張りくらいだった。柔らかな寝台でしっかり眠れたこともあるのだろう。
「……よし」
ルシルは起き上がり、顔を洗って服を整えた。
今日はラナを出る。
そう考えると、胸の中に小さな高揚感が生まれた。
ヘルガスを出た朝ほど大きくはない。
あの時は、初めて自分たちだけの馬車で町を離れる日だった。何もかもが初めてで、ガイルから教わったことを頭の中で何度も確かめながら御者台へ座った。
今だって初心者であることに変わりはない。
それでも、馬車を走らせた日数は増えた。
野営もした。
泥道も走った。
壊れた荷馬車を手伝い、宿場町の中も運転した。
昨日は一日ラナに滞在し、補修板も買い足した。
同じ「町を出る」でも、ヘルガスを出た時とは少し違う。
ルシルは外套を羽織り、部屋を出た。
廊下にはまだ人影が少ない。
隣の二部屋を見る。
モモの部屋も、シモンの部屋も扉は閉まっていた。
「今日は俺が一番か?」
思わず声が弾む。
昨日の夜、モモは「一番を狙います」と言っていた。
別に競争をしているわけではない。それでも先に起きたと分かると、少しだけ嬉しい。
足音を抑えて階段を下り、一階へ向かう。
食堂は朝食の準備中だった。厨房から湯気が上がり、パンを焼く香りと温かなスープの匂いが漂っている。宿の主人は帳場ではなく食堂の奥で木箱を動かしており、ルシルに気づくと片手を上げた。
「早いな。朝飯はもう少し後だぞ」
「先に馬を見てくる」
「そうか。若いのがもう厩舎にいるから、何かあれば聞け」
「ありがとう」
裏口から外へ出る。
朝の空気は冷たく、息を吸うと身体の奥まで一気に目が覚めた。
厩舎へ向かおうとして――ルシルは足を止めた。
前方に、見覚えのある桃金色の髪があった。
「おはようございます、ルシル様」
モモが厩舎の入口から顔を出した。
白い外套はまだ着ておらず、旅装の上に薄手の上着だけを羽織っている。その手には小さな桶まであった。
「……先にいたの?」
「はい」
モモは満足そうに笑った。
「今日は私の勝ちですね」
「いつ起きたんだよ」
「少し前です。目が覚めたので、そのまま来ました」
「起こしてくれてもよかったのに」
「それでは私が一番になりません」
「そこ競うところなの?」
言いながら、ルシルも笑ってしまう。
モモはすでにトルクの馬房を覗いたらしく、桶を元の場所へ戻した。
「トルクさんは元気そうです。お水も飲んでいますし、飼葉もちゃんと食べています。ベルクさんはシモン君が来てから見た方がいいかなと思って、まだ近くから見ただけです」
「じゃあトルクから一緒に確認しよう」
二人で厩舎へ入る。
朝の厩舎は昨日の夜より明るく、屋根の隙間から細い光が差し込んでいた。乾いた藁の匂いと馬の体温が混じった空気の中で、何頭もの馬がすでに目を覚ましている。
トルクは二人の姿を認めると、馬房の奥からすぐに近づいてきた。
「おはよう、トルク」
ルシルは鼻先へ手を出し、匂いを嗅がせてから首筋へ触れた。
昨夜までに何度も繰り返した確認を、順番を思い出しながら行う。
立ち方。
目の様子。
食欲。
水。
脚。
蹄。
排泄。
全部を大げさに時間をかけて調べるのではなく、いつもと違うところがないかを見る。
トルクは面倒そうにすることもなく付き合ってくれたが、ルシルが蹄を確認し終えたところで鼻先を彼の肩へ押しつけてきた。
「何だよ」
「朝ご飯を追加してほしいのではないですか?」
「もう食べてるだろ」
モモが笑いながら首を撫でる。
「トルクさんは食べるのが好きですから」
「モモに似たのかな」
「私は人間です」
「そこじゃないよ」
小さな笑い声を交わしていると、厩舎の入口から足音が聞こえた。
「朝から随分楽しそうですね」
シモンだった。
いつもの濃紺の外套を腕に掛け、黒縁眼鏡の位置を直しながら歩いてくる。
「遅いですよ、シモン君。今日は私が一番でした」
「競争になっていたのですか?」
「昨日からなっていました」
「僕は参加した覚えがありませんが」
そう答えながらも、シモンはまっすぐベルクの馬房へ向かった。
灰黒の馬は彼の姿を認めると、昨朝よりも早く入口近くまで寄ってくる。
シモンはすぐに触れず、まず立ち方と脚元を確認した。それから鼻先へ手を出し、ベルクが自分から近づいてきたところで額へ触れる。
「おはようございます。よく休めましたか?」
ベルクが小さく鼻を鳴らした。
ルシルとモモは少し離れたところからその様子を眺めたが、今日は何も言わない。
ベルクがシモンを頼りにしていることは、もう十分分かっている。
それを毎回からかう必要もなかった。
「どう?」
ルシルが尋ねると、シモンはベルクの脚へ視線を落としたまま答えた。
「見た限り問題なさそうです。昨日は一日休ませていますし、腫れや熱もありません。食欲もあるようですね」
ちょうど若い厩務員が奥から現れた。
「おはよう。早いな、三人とも」
「今日出ようと思ってるから、最後に一緒に見てもらっていい?」
ルシルが頼むと、男は快く頷いた。
「もちろん。昨日も問題なかったけど、一晩越した後を見るのは大事だからな」
厩務員はトルクとベルクを順番に馬房から出し、平らな通路を少し歩かせた。
三人は横から脚の動きを見る。
トルクはいつも通り落ち着いた歩調で、ベルクにも目立った違和感はない。
続いて蹄と蹄鉄を確認し、脚へ触れる。
「大丈夫だな。二頭とも休めてる。今日の道が普通なら問題ないと思うぞ」
「よかった」
ルシルは素直に息を吐いた。
自分で見て問題ないと思っていても、経験のある人から同じことを言われると安心する。
厩務員は二頭を馬房へ戻しながら、三人へ視線を向けた。
「今日どっち行くんだ? グレイ方面だろ?」
「そのつもり。旧石橋を使うか、川沿いを回るかはまだ決めてない」
「ああ、あそこか」
男は少し考え、朝の空を確認するように厩舎の外を見た。
「今日は晴れそうだから、昨日より条件が悪くなることはなさそうだけどな。ただ、俺なら急ぎじゃなけりゃ川沿いへ回る」
「やっぱり橋は避ける?」
「渡れるかどうかだけなら、普通の二頭立てで荷が軽けりゃ通れると思う。けど、あんたらの馬車は頑丈な分ちょっと重そうだろ。それに買ったばっかりなんだよな?」
「一昨日……じゃないな。もう三日前か」
旅に出てからの日数を数え直し、ルシルは少しだけ驚いた。
まだそれしか経っていない。
ヘルガスで馬車を買ったのが、もっと前のことのように感じられる。
「だったら余計に、最初から無理して傷んだ橋を選ぶ必要もないんじゃないか。川沿いは半日か、混み具合によってはもう少し余計にかかるけど、道は広い。途中に馬へ水を飲ませられる場所もある」
厩務員はあくまで自分なら、と前置きしている。
決めつけるような言い方ではなかった。
「ありがとう。朝飯食べながら相談する」
「そうしな。あと、川沿いは昼前くらいから荷馬車が増えることがある。町を出るなら早めの方が走りやすいぞ」
新しい情報を一つ受け取り、三人は厩務員へ礼を言った。
宿へ戻る頃には、空がかなり明るくなっていた。
食堂にも客が集まり始めている。
朝食は焼きたてのパン、野菜と豆のスープ、薄く焼いた卵、塩気のある燻製肉だった。
三人は窓際の席へ座り、まず温かなスープを口にした。
「川沿いでいいんじゃない?」
ルシルがパンをちぎりながら切り出した。
「橋も少し見てみたい気はするけど、渡れるか分からない場所まで行って戻るより、最初から川沿いを走った方がトルクとベルクも楽そうだし」
モモは少し考えてから頷いた。
「私は賛成です。川沿いなら景色も見られそうですし、お水を飲ませられる場所があるのもいいと思います」
二人の視線がシモンへ向かう。
シモンはすぐに結論を出さず、昨日時点で得た情報を頭の中で整理しているようだった。
「旧石橋を使えば距離は短くなります。一方、中央支柱に傾きがあり、大型貨物はすでに通行を止められている。僕たちの馬車が通行可能と判断される可能性はありますが、現地まで行かなければ確定しません」
「うん」
「川沿いは半日から一日弱ほど余計にかかる可能性がありますが、今のところ大きな危険情報はありません。さらに今朝、馬への給水場所があることと、道幅に余裕があるという情報が加わりました」
そこでシモンはスープを一口飲み、二人を見る。
「僕も川沿いでいいと思います」
あっさり決まった。
ルシルは少し笑う。
「なんか、もっと悩むかと思った」
「何をですか?」
「近い方と安全な方で」
「急ぐ理由があれば近い方を検討します。しかし今はありません。それなら、条件の良い方を選ぶだけでしょう」
「そっか」
それで話は終わった。
誰かが我慢したわけでもない。
危険な道を避けたからといって、冒険を諦めた気分にもならない。
橋を渡ることが旅の目的ではないのだから、通りやすい道を選べばいい。
「じゃあ今日は川沿い」
モモが嬉しそうに言う。
「途中で綺麗な場所があったら止まりたいです」
「道を塞がない場所ならな」
「分かっています」
「あと、昼飯どうする?」
ルシルが尋ねると、シモンは少し考えた。
「昨日買った薄焼きパンと燻製肉があります。赤根菜は夕方に野営するなら使ってみてもいいでしょう。昼は火を使わず簡単に済ませた方が出発後は楽だと思います」
「じゃあ夜、赤根菜を焼いてみます」
モモがすぐ反応した。
「薄く切るんだったよな」
「はい。今度は大きさを揃えます」
「俺は肉焦がさないようにする」
「そこは僕も見ます」
「信用ないな」
「一枚焦がした実績がありますから」
三人は笑いながら朝食を続けた。
食後は、いよいよ出発の準備だった。
部屋へ戻って忘れ物がないか確認する。
収納魔法があるため荷造りそのものは簡単だが、だからこそ机や寝台の周りへ小物を置き忘れないよう目で見る。
ルシルは窓辺に何もないことを確認し、寝台の毛布を軽く整えた。
二泊した部屋。
最初に入った時より、少しだけ見慣れている。
「世話になりました」
誰もいない部屋へ小さく言い、鍵を持って廊下へ出る。
下へ降りると、モモもすでに荷物をまとめ終えていた。
シモンは帳場で宿代と厩舎代を精算している。
「二泊分、確かに」
主人が帳面へ印を付け、三人を見た。
「今日は出るのか?」
「うん。グレイ方面へ。川沿いを回ることにした」
「そっちなら今の天気なら走りやすいだろう。昨日みたいに町の裏で遊びすぎて日が暮れるなよ」
「今日はちゃんと進むって」
「輪走りに混ざる旅人なら信用ならんな」
主人が笑う。
モモも思い出したように笑った。
「またラナに来たら、あの子たちと遊ぶ約束をしました」
「なら次はもっと上手くなってから来い。町の子供に負けっぱなしじゃ格好がつかんぞ」
「俺、一周はできたからな」
「最後に飛ばしすぎたでしょう」
シモンが即座に補足する。
「それは言わなくていいだろ」
主人はますます楽しそうに笑った。
その声に、食堂で朝食を取っていた何人かの旅人までこちらを見ている。
恥ずかしさはあったが、不快ではなかった。
ルシルは鍵を帳場へ返した。
「ありがとう。馬もよく休めたし、飯も美味かった」
「ああ。また来るなら好きな時に来い。ただし満室の時は諦めろよ」
「その時は麦角亭か白灯亭にする」
「もう他の宿まで見てきたのか」
「昨日散歩したから」
「二日で随分ラナを楽しんだな」
主人は太い腕を組み、少しだけ満足そうに頷いた。
「旅人の町なんだから、それでいい。道中気をつけろ」
「ありがとう」
三人は宿の正面を出ず、そのまま厩舎側へ回った。
馬車置き場では、焦げ茶色の馬車が昨日と同じ場所に停まっている。
その車内には昨日取り付けた二つの小さな木彫りの馬がある。
栗色と灰色。
補修板を買いに行った職人街で手に入れた細い革紐を使い、棚の端に作った小さな固定場所へ収めたものだ。走行中に落ちないよう紐で押さえ、必要なら簡単に外せる。
モモが馬車へ入るなり、真っ先に二体を確認した。
「ちゃんといます」
「夜の間に動くわけないだろ」
「分かっています。でも見たかったんです」
モモは灰色の木馬の向きをほんの少しだけ直した。
「これで今日から一緒に走りますね」
「本物は外だけどな」
「中にも二頭です」
ルシルも棚を覗き、思わず笑った。
名前のない馬車の中に、少しずつ三人のものが増えている。
菓子用の棚。
旅道具。
使い慣れ始めた食器。
そして二頭の木馬。
買った時と同じ馬車なのに、もう完全に同じではない。
「確認を始めますよ」
外からシモンの声が飛んできた。
「はいはい」
三人は馬車の周囲へ集まった。
昨日、職人街で見てもらったばかりとはいえ、出発前の確認は別だ。
車輪。
車軸。
金具。
革。
荷台。
工具。
補修材。
ルシルは右後輪の前でしゃがみ込み、昨日教わった部分を指で触れた。
「ここ、昨日締めてもらったところだよな」
「ええ。緩みは?」
「ないと思う」
「見るだけではなく、触れて確認してください」
「今やってるって」
モモは反対側から車体を見ている。
「こちらも大丈夫そうです。木彫りも外からは見えません」
「木彫りは走行確認の項目ではありません」
「大事です」
「落ちないことは大事ですが、車輪より先に確認するものではありませんよ」
「車輪はもう見ました」
「なら結構です」
そんなやり取りをしながら一周する。
大きな異常はない。
補修板も昨日買い足してある。
工具箱の中身も揃っている。
旅に出た最初の日なら、シモンがほとんど一人で確認していただろう。
今は三人で分けて見られる。
もちろんシモンほど正確ではない。
見落とす可能性もある。
それでも、自分たちの馬車を自分たちで確認することには意味があった。
やがてトルクとベルクが厩舎から連れてこられた。
朝の光を受けた栗毛と灰黒の身体は、二日間しっかり休んだためか艶がある。
トルクは馬車を見ると迷わず近づいた。
ベルクも兄の後を追う。
「帰る場所だって分かってるのかな」
ルシルが言うと、若い厩務員は馬具を渡しながら笑った。
「馬車を引く馬なら、自分の車体は覚えるよ。匂いも音も違うからな」
「そっか」
ルシルは焦げ茶色の車体へ手を触れた。
自分たちだけでなく、トルクとベルクにとってもこの馬車は見慣れ始めている。
三人で馬具を取り付ける。
初日に比べれば手は止まらない。
ルシルがトルク側。
シモンがベルク側。
モモが中央で左右を確認しながら必要なものを渡す。
それでも急がない。
一度付けた革紐をルシルが見直し、少し位置が気になって付け直す。
「そこ、昨日ならそのままにしてたかもしれないな」
若い厩務員が横から言った。
「気づいたのなら直した方がいい。慣れてくると速くなるけど、速さより雑にならない方が大事だ」
「覚えとく」
全部を取り付け終える。
厩務員が最後に一度見て、問題ないと頷いた。
「よし。いいと思う」
「二日間ありがとう」
ルシルが礼を言う。
「またラナに来たら頼んでいい?」
「もちろん。次に来る頃には、もう少し御者らしくなってるといいな」
「なるよ」
「言い切ったな」
「そのつもりだから」
厩務員は笑い、トルクの首を軽く叩いた。
「お前らも気をつけてな」
モモも二頭へ近づく。
「今日からまたお願いします」
シモンはベルクの額へ一度触れ、それから馬車へ目を向けた。
「では行きましょうか」
「俺が御者でいい?」
「そのつもりだったのでしょう?」
「うん」
ルシルは嬉しそうに御者台へ上がった。
シモンが隣へ座り、モモは最初だけ後ろではなく二人の間から前を見られる位置に身体を寄せた。
「町を出るところまで見たいです」
「じゃあ行くぞ」
手綱を握る。
初めてヘルガスを出た時より、手の中の感触に戸惑いは少ない。
それでも慣れたつもりにはならない。
トルクとベルクへ合図を送る。
二頭が歩き始め、焦げ茶色の馬車がゆっくりと馬車置き場から動き出した。
「右側、空いています」
モモが確認する。
「前も大丈夫です」
シモンの声を聞き、ルシルは馬車口を抜けた。
蹄休めが少しずつ後ろへ離れていく。
大通りへ出る前の交差路で一度止まり、荷馬車を先に通す。
その後、ルシルはゆっくり右へ曲がった。
前輪。
車体。
後輪。
全部が通るまで意識を残す。
「今のどう?」
「問題ありません」
「得意げな顔は?」
「少ししています」
「成功したんだからちょっとくらいいいだろ」
モモが後ろで笑った。
大通りはすでに朝の活気を取り戻し始めている。
荷馬車へ荷物を積む者。
宿を出る旅人。
馬へ水を飲ませる御者。
焼きたてのパンを並べる店。
昨日歩いた時に見た景色が、今朝は別の顔を見せていた。
麦角亭の前を通る。
さすがに朝から巨大な肉料理を食べている者はいなかったが、店先では大鍋から湯気が上がっている。
「次は小盛り」
ルシルが呟く。
「覚えていたんですね」
「忘れないよ」
「私は焼き林檎も食べたいです」
「モモ嬢、朝から次回の甘味を決めないでください」
「次に来た時の話ですよ」
白灯亭へ続く細い道も通り過ぎる。
昨日遊んだ広場は大通りから見えない。
子供たちはまだ家にいるのか、それとももうどこかで遊び始めているのか。
ルシルは少しだけそちらへ目を向けたが、馬車を止めることはしなかった。
会いに行かなければならないわけではない。
昨日は昨日。
今日は今日だ。
やがて町の西側へ近づく。
建物の数が少しずつ減り、馬車の通行が増えていく。
ラナを出る側にも簡素な詰所があり、一人の衛兵が通行する馬車を確認していた。
「グレイ方面か?」
「はい。川沿いの迂回路を使う予定です」
ルシルが答えると、衛兵は空を見て頷いた。
「今日は天気も持ちそうだ。川沿いなら問題ないだろう。ただ、昼前から商隊が何組か通る予定だから、狭いところじゃ無理に抜こうとするなよ」
「分かった」
「あと、昨日までの情報じゃセイラ方面の目撃数はまだ少し多いままだ。グレイへ着いたら、またギルドか門で聞いておけ」
「ありがとうございます」
シモンが礼を言う。
衛兵は馬車を一度見回した。
「新しい馬車だな」
入町時にも似たことを言われた。
ルシルは笑う。
「まだ四日目」
「なら傷を増やさないようにな」
「気をつける」
詰所を抜ける。
町の建物が途切れる。
視界が一気に広がった。
朝の光を受けた街道が、西へ向かって伸びている。
その先で道は二つへ分かれているはずだった。
旧石橋へ向かう近道。
川沿いを進む迂回路。
ルシルは手綱を握り直した。
「ラナ、出たな」
「出ましたね」
モモの声は明るい。
振り返れば、まだ宿場町の屋根がよく見える。
ヘルガスを出た時、ルシルは振り返らなかった。
また戻れると思いたかったから。
今回は少しだけ振り返った。
蹄休めがどの建物なのかまでは、もう分からない。
それでもラナの町並みを一度見て、前へ向き直る。
「またな」
小さく言った。
それだけだった。
胸が締めつけられることもない。
特別な決意も必要ない。
トルクとベルクは変わらない歩調で進んでいる。
しばらく走ると、街道脇の畑が増え始めた。
赤根菜を育てているらしい畑もある。赤紫色の葉柄が土から伸び、朝露を受けて光っていた。
「あれ、昨日食べたやつかな」
ルシルが視線で示す。
モモも後ろの窓から確認した。
「たぶんそうです。土の中にあるから実は見えませんけど、葉の色が似ています」
「今夜、あれを焼くんだよな」
「はい。薄く、なるべく同じ大きさに切ります」
「期待してる」
「ルシル様は肉です」
「分かってるって」
シモンは二人の会話を聞きながら地図を開いていた。
「分岐まではそれほど遠くありません。今の速度なら、一刻もかからないでしょう」
「そこで川沿い?」
「ええ。標識もあるはずです」
ラナから離れるほど、街道を行く人の数は少なくなった。
それでもヘルガスとラナの間より荷馬車の割合は高い。
前から来る馬車とすれ違う。
今度はルシルも片手を上げようとはせず、前を見たまま軽く会釈した。
向こうの御者も同じように返す。
シモンは何も言わなかった。
言われなくてもできたからだ。
それが少し嬉しい。
さらに進むと、道の先に大きな木製標識が見えてきた。
道が二方向へ分かれている。
左はやや細く、丘の間へ向かって伸びていた。
右は緩やかに下りながら、遠くに見える川の方角へ続いている。
標識にはそれぞれ文字が刻まれていた。
『グレイ近道 旧石橋経由』
『グレイ川沿い道 荷馬車推奨』
その下には新しい板が追加されている。
『旧石橋 大型車通行不可 一台ずつ確認』
「本当に書いてあるな」
ルシルは馬車を少し減速させた。
左の道へ入っていく小型の荷馬車が一台見える。
通行止めではない。
行こうと思えば行けるのだろう。
「どうする?」
ルシルは念のため二人へ尋ねた。
モモは右側の道、その先に見える川へ目を向けた。
「私は右がいいです」
シモンも標識と道の状態を見比べる。
「予定通りでいいでしょう。右へ行きましょう」
「了解」
それだけで決まった。
ルシルはトルクとベルクへ合図を送り、右側の道へ馬車を進めた。
近道を捨てた、とは思わなかった。
今日はこっちを選んだ。
ただそれだけだ。
道は緩やかに下っていく。
少しずつ川の音が聞こえ始めた。
最初は風と区別できないほど小さかった水音が、進むにつれてはっきりしてくる。
やがて木々の間から、朝日に輝く広い水面が見えた。
「川!」
モモが思わず声を上げる。
昨日まで見た小さな流れとは違う。
幅のある川が街道と並ぶようにゆったり流れていた。
対岸まではかなり距離があり、水面には朝の空が淡く映っている。岸辺には低い草と白い小花が広がり、ところどころに丸い石が露出していた。
「結構大きいな」
ルシルも思わず速度を少し落とした。
「海はもっと大きいんですよね」
モモの声が聞こえる。
「比べものにならないでしょうね」
シモンが答えた。
「向こう岸が見えないんだろ?」
「場所によっては水平線しか見えません」
「水平線……」
モモが小さく繰り返す。
川を見つめる緑色の瞳が、少しだけ遠くを見るように細められた。
彼女が海を見たいと言ったから、この旅の大きな方向が決まった。
まだ海までは遠い。
地図の上でも、いくつもの町と森と山を越えなければならない。
けれど今、モモは大きな川を見ただけでこんなに嬉しそうにしている。
「海まで行ったら、モモどうなるんだろうな」
ルシルが笑う。
「どうなるとは何ですか?」
「嬉しすぎて走って入っていきそう」
「そんなことしません」
「菓子屋には走っていきそうになりますけどね」
シモンが淡々と加える。
「最近は我慢できます!」
「昨日も焼き林檎を食べていましたよ」
「あれは昼食の甘味です」
「分類の問題なの?」
三人の声が馬車の中へ広がる。
トルクとベルクは気にする様子もなく、川沿いの道を進んでいった。
道幅は聞いていた通り広かった。
ところどころに荷馬車同士がすれ違えるよう広く整えられた場所があり、路面も比較的固い。
旧石橋を選ばなかったことに、今のところ後悔はない。
むしろ川が見える分、景色は昨日までの街道より変化があった。
水鳥が二羽、水面近くを飛んでいく。
モモが窓から目で追う。
「白い鳥です」
「魚取るのかな」
「たぶん水辺の鳥でしょう。ただ、僕も種類までは分かりません」
シモンの答えに、ルシルが少し驚いた。
「シモンでも知らないの?」
「僕を何だと思っているのですか」
「何でも知ってる人」
「そんな人間はいません」
「でも王都のことは何でも知ってたじゃん」
「必要だったから覚えていただけです。水鳥の種類まで執務に必要になることは、ほとんどありませんでした」
そう言ってから、シモンは飛んでいく二羽を見た。
「……次にどこかで鳥の図鑑でも見かけたら、少し確認してみてもいいかもしれませんね」
「買う?」
「見るだけで十分です。何でも買っていたら本当に荷物が増えます」
「収納あるよ」
「そういう問題ではありません」
昨日も似たようなことを言われた。
それでも、知らないものを知りたいと思うこと自体は悪くないらしい。
ルシルは川と街道を交互に見ながら手綱を保った。
しばらく進んだ頃、トルクの耳が少し動いた。
ルシルはその変化に気づき、前方を見る。
道の先に、屋根のある小さな休憩所が見えた。
横には木製の水桶と、川から水を引いているらしい細い水路がある。
「さっき聞いた給水場所かな」
シモンも地図を確認する。
「位置としてはそうでしょう。まだ出発してそれほど経っていませんが、町中を歩かせた分もあります。水を飲むかだけ見てもいいと思います」
「じゃあ寄ろう」
ルシルは早めに速度を落とし、休憩所へ馬車を寄せた。
すでに一台の荷馬車が停まっている。
御者らしい老人が馬へ水を飲ませていたため、邪魔にならない場所へ停車する。
「おはよう」
老人が軽く手を上げた。
「おはようございます。ここ使って大丈夫?」
「ああ。水は上から流してるから、馬に飲ませる分なら好きに使え」
「ありがとう」
ルシルたちは馬車を降りた。
トルクとベルクへすぐ大量に飲ませるのではなく、状態を見ながら水を与える。
老人はその様子を少し眺めていた。
「若いのに丁寧だな」
「まだ始めたばっかりだから、教わった通りにやってる」
「それが一番だ。慣れた頃に雑になる奴の方が多い」
どこかで聞いたような言葉だった。
ガイルも、蹄休めの厩務員も、似たことを言っていた気がする。
経験のある者ほど、慣れることより慣れた後を気にするらしい。
「おじさんはグレイから来たの?」
「ああ。昨日の昼に出て、途中で一泊した。今からラナへ入るところだ」
その言葉に、シモンが自然に顔を向ける。
「グレイまでの道はどうでしたか?」
「川沿いなら特に問題ない。昨日は荷馬車が多かったが、今日はまだ少ないな。夕方まで走るなら、途中の石原で野営する奴が多い。川から少し離れてて地面が高いから、雨が降っても水が上がりにくい」
「石原?」
ルシルが聞く。
「名前通り、平たい石が多い場所だ。野営地ってほど整ってはいないが、馬車を停める場所はある。もう少し先に小さな渡し小屋があって、その先だ」
新しい場所の名前が出てきた。
シモンは地図へ視線を落とす。
「この辺りでしょうか」
「たぶんな。地図によっちゃ名前も載ってないぞ。地元の御者がそう呼んでるだけだから」
「なるほど」
また、正式な名前ではない場所。
ルシルは少し面白くなる。
「今日そこまで行ける?」
「普通に走れば余裕だろ。ただし、先を急ぐならもっと行ける。グレイまで一日じゃ無理でも、かなり近づけるぞ」
「別に急いでないから、その時になって決めるよ」
老人は一瞬だけルシルを見て、それから笑った。
「そうか。なら馬と相談しな」
「うん」
短い会話を終え、老人は先に出発した。
荷馬車がラナ方面へ向かっていく。
三人はトルクとベルクの水分補給を終え、自分たちも少し水を飲んだ。
モモは川辺へ近づきすぎない場所から水面を眺めている。
「石原、行ってみたいです」
「野営したい?」
「名前が気になります。平たい石がいっぱいあるんですよね」
「たぶん」
「料理もしやすいかもしれません」
シモンはその発想に少し首を傾げた。
「石が多いから料理しやすいとは限りませんよ。平らな場所が少なければ、むしろテントには向かない可能性もあります」
「行ってから見ればいいです」
「それはそうですね」
ルシルは二人の会話を聞きながら笑った。
「じゃあ、とりあえず石原を今日の候補にしよう。着いた時にまだ早くて、みんな元気なら先へ行く。疲れてたら泊まる」
「それでいいと思います」
シモンが頷く。
「野営地を絶対そこにすると決める必要はありません。馬の状態と時刻を見て判断しましょう」
「よし」
三人は再び馬車へ乗った。
今度もルシルが御者台へ座る。
トルクとベルクへ合図を送り、川沿いの道へ戻る。
朝より日が高くなり、水面の色も変わっていた。
青灰色だった川が、今は空の青と日差しを映してきらきら光っている。
ルシルは前を見ながら、ふと笑った。
「なあ、シモン」
「何ですか?」
「今日の寝る場所、まだ決まってないんだよな」
「そうですね」
「なんか、それ結構好きかも」
シモンは少しだけ考えるように川を見た。
「不安ではありませんか?」
「全然ないって言ったら嘘だけど、道もあるし、飯もあるし、トルクとベルクも元気だろ。それなら、今決めなくてもいいかなって」
後ろからモモの声がする。
「私は楽しみです。石原がどんな場所かまだ分かりませんし、その前にもっといい場所があるかもしれません」
「そうだな」
行き先はグレイ。
けれど今日どこまで進むかは、まだ決めない。
旧石橋を使わなかったことで、予定より少し遠回りになる。
それでも焦る者はいなかった。
川の音が隣にある。
馬車の車輪が一定のリズムで回る。
トルクとベルクの蹄が土を踏む。
後ろの棚では、固定した二頭の木馬が揺れに合わせてほんの少し震えている。
ラナで増えたものを乗せたまま、馬車は次の町へ向かって進んでいく。
昼前には荷馬車が増えるかもしれない。
途中でまた誰かと出会うかもしれない。
石原へ泊まるかもしれないし、その先まで進むかもしれない。
まだ何も決まっていない。
だからこそ、今は目の前の道を走ればいい。
ルシルは手綱を握る手から余計な力を抜き、二頭の歩調に合わせた。
「トルク、ベルク。今日もよろしくな」
二頭の耳がわずかに動いた。
返事の代わりのように、馬車が少しだけ速度を整える。
ルシルは笑い、川沿いに伸びる道の先を見た。
ラナでの二日間は終わった。
そして三人と二頭の旅は、またゆっくりと動き始めた。




