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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第21話 川沿いの道では、急がなくても景色の方から変わっていきます

給水所を出てからしばらくの間、川沿いの街道は穏やかな下りを描きながら西へ続いていた。


 朝のうちは薄く残っていた雲もいつの間にか流れ、頭上には淡い青空が広がっている。右手を流れる川は場所によって姿を変え、岸辺まで近づいて銀色の水面を見せたかと思えば、次の曲がり角では柳に似た細い葉の木々へ隠れ、代わりに絶え間ない水音だけが馬車まで届いた。


 トルクとベルクの蹄が、固く締まった土を一定の調子で踏んでいる。


 焦げ茶色の馬車はその後ろを揺れながら進み、車輪が小石を踏むたび、身体へ控えめな振動が伝わってきた。


 御者台に座るルシルは、最初の頃のように手綱を強く握り込んではいなかった。


 指先へ必要以上に力を入れると、自分の肩まで固くなる。肩が固くなると、ちょっとした路面の変化にも大きく反応してしまう。それを何度か経験してから、ようやく手の中に少し余裕を作れるようになってきた。


 もちろん、景色ばかり見ていられるほど慣れたわけではない。


 前方の道。


 二頭の耳と首の動き。


 路面の石。


 対向してくる荷馬車。


 道端を歩く旅人。


 それらを順番に見る合間に、ようやく川へ視線を向けるくらいだった。


「さっきより川が近くなったな」


 ルシルが言うと、隣に座っていたシモンも水面へ目を向けた。


「街道そのものが少し低い位置へ下りていますからね。ただ、この先でまた離れるはずです。地図を見る限り、ずっと川岸ぎりぎりを走る道ではありません」


「それなら雨の時も少し安心か」


「場所によります。川から離れていても低地なら水が集まりますし、逆に川に近くても十分な高さがあれば問題ないこともあります。地図だけでは分からない部分ですね」


 ルシルは小さく頷いた。


 以前なら、地図に道が一本描かれていれば、それがどんな場所を通っているのかまで考えなかったかもしれない。


 王城にいた頃の地図は、領地や街道、河川、砦、町の位置を把握するためのものだった。そこに暮らす人々にとって道が歩きやすいのか、馬車の車輪がどこで跳ねるのか、雨が降った翌日にどの場所へ泥が残るのかまでは、紙の上から見ようとしたことがなかった。


 今は、その小さな違いが自分たちの一日を左右する。


「地図って、思ったより書いてないこと多いんだな」


「全部書こうとしたら、今度は読めなくなりますよ」


「それもそうか」


「だから現地で聞く情報に意味があります。先ほどの石原もそうでしょう。正式な野営地ではないから地図には載っていない。それでも、この道を何度も使う御者には通じる」


 そこでシモンは一度言葉を切り、ルシルの横顔を見た。


「ただし、一人から聞いた話だけで絶対に安全だと思い込まないことです。現地に着いたら自分たちでも見ましょう」


「地面と、馬車停める場所と、水と……」


「風向き、周囲の痕跡、増水時に水が来そうな場所かどうか。前回の野営で確認したことと基本は同じです」


「分かった」


 答えながら、ルシルは少し先の路面へ意識を戻した。


 石が集まっている場所がある。


 大きく避けるほどではないが、真ん中を踏めば車輪が跳ねそうだった。


 左へ寄りすぎれば草地へ車輪が落ちる。


 ルシルは早めに進路を少しだけ右へずらした。


 トルクとベルクがその指示に従い、馬車も無理なく石の多い部分を避けていく。


 後輪が通り終えるまで待ってから、元の位置へ戻した。


 隣から何も言われない。


 ルシルは少しだけシモンを見た。


「今のは?」


「何がですか?」


「石」


「避けられていましたよ」


「もっと早く言ってくれてもいいのに」


「問題がなかったので」


 それだけだった。


 けれどルシルは、褒められるより少し嬉しくなった。


 以前なら、シモンが先に路面を見て「少し右へ」と教えてくれていた。


 今は自分で見つけ、自分で避けた。


 わざわざ成長したと口に出すほど大きなことではない。それでも、こういう小さなものが少しずつ積み重なっていくのだろう。


 後ろの車内から、布が擦れる音がした。


「ルシル様」


「どうした?」


「次の交代は私ですよね?」


 モモが御者台の後ろから顔を覗かせている。


 桃金色の髪は今日は低い位置で緩くまとめられ、風で何本かの髪が頬へ掛かっていた。


「まだ乗りたいの?」


「まだ、ではありません。今日は一度も運転していません」


「そうだった」


「ラナを出るところはルシル様がやると言っていましたから譲りました。でも、ずっとルシル様では練習になりません」


 言われてみれば、その通りだった。


 御者台に座っていることが自然になり始めたせいで、交代のことを少し忘れていた。


「じゃあ次に停められる場所があったら交代する?」


「はい」


「シモンは?」


「僕はその次で構いません」


 シモンは前を見たまま答えた。


「今日は道幅がありますから、三人とも経験を積むにはちょうどいいでしょう。ただし、モモ嬢」


「はい?」


「川が綺麗だからといって、横を見ながら速度を上げないでくださいね」


 モモは御者台の背後から少しだけ身を乗り出した。


「もうしません」


「一応確認しただけです」


「私だって成長しています」


「それは知っています」


 シモンが平然と答えたため、モモは一瞬だけ言葉を止めた。


 からかわれると思っていたのかもしれない。


 やがて彼女は小さく笑い、車内へ戻った。


「では、交代する場所を探しておきます」


「俺も見るよ」


 ルシルは前方へ視線を戻した。


 道はまだ広い。


 しかし荷馬車が増える時間が近づいているため、街道の真ん中で止まるわけにはいかない。


 しばらく進むと、川と反対側に道幅が膨らんだ場所が見えた。車輪の跡が何本も残っており、荷馬車がすれ違ったり、一時的に停まったりするために使われているらしい。


「そこならいける?」


「後ろを確認してから入りましょう」


 シモンが振り返る。


 後方から来る馬車はない。


 ルシルは合図を出し、ゆっくりと道端へ寄せた。


 完全に停車してから手綱を緩め、トルクとベルクの様子を見る。二頭とも息は乱れておらず、耳の動きにもおかしなところはない。


「交代だけでいいな」


「ええ。まだ休憩には早いでしょう」


 ルシルが御者台から降りると、待っていたモモがすぐに前へ出てきた。


「お願いします」


「どうぞ」


 すれ違いざま、モモの顔が思った以上に嬉しそうなのが見えた。


「そんなに運転したかった?」


「したかったです」


「景色見る方が好きなのかと思ってた」


「どちらも好きですよ。自分で進ませながら見る景色と、後ろから見る景色は違います」


 そう言って、モモは御者台へ上がった。


 ルシルは一瞬だけその言葉を考えた。


 自分で進ませながら見る景色。


 確かに違う。


 道を見なければならないから、好きなだけ川を眺めることはできない。けれど、トルクとベルクの歩調や車輪の振動まで含めて、景色の中へ自分が入っている感覚がある。


「分かるかも」


「でしょう?」


 モモは満足そうに笑い、手綱を受け取った。


 シモンが隣へ座る。


 ルシルは後ろの車内へ入り、ベンチへ腰を下ろした。


 馬車が再び動き出す。


 前に座っていた時とは、音の聞こえ方まで違った。


 車輪の軋みが近い。


 木の車体が細かく鳴る。


 窓の外を流れる景色も、御者台より少し高い位置から切り取られて見える。


 棚には二頭の木馬が固定されていた。


 栗色と灰色。


 揺れに合わせてわずかに震えているものの、革紐はしっかりしている。


 その隣には、モモのお菓子用に決めた棚がある。


 さらに下には旅道具。


 買ったばかりの時は空間ばかりが目立った車内が、少しずつ使われている馬車らしくなってきた。


「ルシル様、揺れますよ」


 前からモモの声が飛んできた。


「分かった」


 直後、馬車が少し大きく上下した。


 ルシルは反射的にベンチの端へ手をつく。


 窓から前を見ると、道を横切る浅い溝があった。


「ごめんなさい。見えていたんですけど、思ったより深かったです」


「大丈夫。木馬も落ちてない」


「そこですか?」


「俺も落ちてない」


「ならよかったです」


 シモンが横から何か言ったらしく、モモが前を向いた。


 速度が少し落ちる。


 先ほどの揺れを気にしたのだろう。


 しかし必要以上に遅くはしない。


 モモも、初日に手綱を持った時とは違っていた。


 ルシルは窓からしばらくその背中を眺めた。


 彼女は魔法なら、最初からほとんど何でもできる。


 少なくともルシルが知る限り、水も闇も恐ろしく精密に扱える。サンドワームを外側からほとんど傷つけず内部だけ破壊した時など、普通の魔法使いが見れば言葉を失うようなことを平然とやっていた。


 それでも馬車の運転では、溝の深さを読み違える。


 野営では野菜の大きさが揃わない。


 火打石も一度で成功しなかった。


 木輪を転がすだけの遊びでも子供に負けた。


 そのたびにモモは悔しがりながら、楽しそうにもう一度やる。


 ルシルはその姿が好きだった。


 聖女として何ができるかではなく、モモ自身が何をやってみたいのか。それが少しずつ増えている。


 もっとも、それを本人へ言えば大げさに受け取られそうなので、口には出さなかった。


 代わりにルシルは収納から水筒を出し、一口飲んだ。


 川の方から吹き込む風が、車内の空気をゆっくり入れ替えていく。


 昼が近づくにつれ、街道の様子も変わり始めた。


 最初に現れたのは、前方を同じ方向へ進む二台の荷馬車だった。


 大きな木箱を積んでいる。


 モモは距離を十分に取ったまま後ろについた。


「抜きますか?」


「急ぐ必要はありません」


 シモンの声が聞こえる。


「向こうもそれほど遅くありませんし、この先で道幅が変わる可能性もあります。今はこのままで」


「はい」


 以前なら、モモは前が空いていれば少し速く進みたがったかもしれない。


 今日は素直に速度を合わせている。


 荷馬車の後ろを走っていると、やがて反対側から三台の馬車が続けて現れた。


 一台目は樽。


 二台目は布を掛けた大荷物。


 三台目には籠に入った鶏が積まれている。


 道幅は十分あるものの、六頭分の馬と何台もの車輪が同じ場所へ集まると、一気に街道が狭く感じられた。


 モモは早めに右端へ寄せる。


 ただし路肩へ落とさない。


 前の荷馬車も同じように位置を整えた。


 すれ違う直前、鶏の一羽が大きな声で鳴いた。


 トルクの耳が動く。


 ベルクも一瞬だけ首を横へ向けた。


「そのままで大丈夫です」


 シモンの声は落ち着いていた。


 モモも手綱を強く引かない。


 三台目の荷馬車が横を通る。


 籠の中で鶏が騒ぎ、羽音が続いたが、トルクとベルクは歩調を大きく崩さなかった。


 最後の車輪が通り過ぎる。


 モモはすぐ中央へ戻さず、前方との距離を確認してからゆっくり位置を戻した。


「今の、どうでした?」


「問題ありません」


「ルシル様も見ていました?」


「見てた。俺だったら鶏が鳴いたところでちょっと手に力入ってたかも」


「私も入りましたよ」


「そうなの?」


「少しだけです。でも、シモン君に馬を驚かせないようにと言われたのを思い出しました」


 前を向いたままのモモの声には、少しだけ得意そうな響きがあった。


「じゃあ次は俺も気をつける」


「はい。一緒に上手くなりましょう」


 何でもない言葉だった。


 けれどルシルは、その響きが妙に心地よく感じられた。


 誰か一人が完成していて、残りが教わるのではない。


 できることも、苦手なことも違う三人が、それぞれ覚えていく。


 もちろんシモンは二人より多くの知識を持っている。


 それでも、輪走りでは子供に負けるし、水鳥の名前を知らないこともある。


 旅に必要なものを全部知っているわけではない。


 それでいいのだろう。


 昼前になると、日差しがはっきり強くなった。


 川面の反射が眩しくなり、岸辺に生えていた白い花も少なくなっていく。代わりに背の低い草原が広がり、ところどころに平たい岩が顔を出していた。


 前を走っていた二台の荷馬車が、少し先の広い待避所へ入っていく。


 御者たちが馬を休ませるらしい。


「私たちも休みますか?」


 モモが尋ねた。


 シモンは空と二頭の様子を確認する。


「ちょうどいいでしょう。昼食にも少し早いですが、馬を休ませている間に食べてしまってもいいと思います」


「賛成」


 後ろからルシルも答えた。


 モモは前の二台と距離を取り、同じ待避所へ入った。


 そこは朝の給水所ほど整備されてはいない。


 街道脇が大きく広がり、草の少ない固い地面があるだけだった。川までは少し距離があり、木陰になる大きな木が二本立っている。


 先に停まっていた荷馬車の一台は木箱を積んだ商人らしく、もう一台は布袋を山積みにしていた。


 三人は邪魔にならない端へ馬車を停めた。


「こんにちは」


 近くにいた御者へルシルが声を掛けると、日に焼けた男が軽く頷いた。


「こんにちは。ラナからか?」


「うん。朝出たところ」


「なら俺らと同じだ。今日は荷馬車多くなるぞ」


「聞いた」


「旧橋があんな状態だから、重い奴はみんなこっちへ回ってる。昼過ぎはもっと増えるかもしれん」


 男はそう言いながら、自分の馬へ水を与えている。


 特に困っている様子はない。


 ルシルたちもトルクとベルクを馬車から完全に外すほどではないと判断し、馬具を緩めて休ませた。


 二頭の呼吸を確認し、少量ずつ水を与える。


 モモがトルクの首筋を撫でると、栗毛の馬は気持ちよさそうに首を伸ばした。


「暑くなってきましたね」


「朝とは全然違うな」


 ルシルも額の汗を腕で拭った。


 川が近いため風はあるが、日差しそのものは強い。


 シモンは馬車の影と木陰を見比べた。


「僕たちもあちらで食べましょう。長く休むつもりはありませんが、日向で食べる必要はありません」


 三人は大きな木の下へ移動した。


 昼食は予定通り簡単なものだ。


 薄焼きパン。


 燻製肉。


 硬めのチーズ。


 昨日ラナで買った小さな果実。


 火を使わないため準備はすぐに終わった。


 モモは薄焼きパンへ燻製肉とチーズを挟み、少し考えてから葉野菜も加えた。


「それ美味そう」


「ルシル様も作りますか?」


「作る」


 ルシルも真似をする。


 しかし具を欲張りすぎ、折り畳んだ瞬間に端から葉が飛び出した。


「入れすぎです」


 モモが笑う。


「入ると思ったんだよ」


「食べにくそうですね」


「食べれば一緒」


 大きく口を開ける。


 燻製肉の塩気とチーズの濃さ、葉野菜の瑞々しさが混ざり、思った以上に美味かった。


「うまい」


「だからといって次をもっと増やさないでくださいよ」


 シモンは自分の分を綺麗にまとめながら言った。


「分かってるって」


 少し離れた場所では、先客の御者たちも昼食を取っていた。


 パンを齧りながら話している者。


 馬の脚を見ている者。


 木陰へ寝転がって帽子を顔へ乗せている者。


 誰も急いでいないように見える。


 けれど完全に休んでいるわけでもない。


 馬の様子を時々見て、通過する荷馬車の数を確認し、空を見上げる。


 旅の途中の休憩には、独特の空気がある。


 何もしない時間でありながら、道の続きから切り離されてはいない。


「昼寝します?」


 モモが果実を食べながら尋ねた。


「昨日あれだけ寝たのに?」


「昨日は昨日です」


「今日は石原まで行くかもしれないだろ」


「少しだけならいいと思います」


 ルシルはシモンを見る。


 判断を任せるつもりではなく、単純に意見を聞きたかった。


「長く休みすぎると、今度は日差しが強い時間に出発することになります」


 シモンはそう言ってから、木陰に寝転がっている御者を一度見た。


「ただ、食後に少し身体を休める程度なら構いません。馬にも休息が必要ですから」


「じゃあ少しだけ」


「ルシル様、昨日もそう言って結構寝ましたよ」


「今日は寝ない。横になるだけ」


「それは寝る人の言葉です」


 モモに言われ、ルシルは反論しようとした。


 しかし昨日の麦角亭の後を思い出し、やめた。


「じゃあ座ってる」


 三人は木の幹へ背を預けた。


 川はここから見えない。


 それでも風に混じって水の匂いがする。


 木の葉が擦れる音の向こうから、街道を走る車輪の響きが時折聞こえてきた。


 モモは膝を抱え、木々の間から見える空を眺めている。


 シモンは地図を出さなかった。


 ルシルも次の道について話さなかった。


 ほんの少しの間、三人は何も決めずに座っていた。


 眠るほどではない。


 話し続ける必要もない。


 同じ木陰にいるだけで、不思議と落ち着いた。


 やがてトルクが鼻を鳴らす音が聞こえ、ルシルは顔を上げた。


「そろそろ行く?」


「そうですね」


 シモンが立ち上がる。


 モモも服についた草を払った。


「次はシモン君ですよね」


「ええ。僕がしばらく御者をします」


「じゃあ俺とモモは後ろか」


「景色を見すぎて騒がないでくださいよ」


「そんなに騒いでないだろ」


「川が見えた時のモモ嬢と水鳥を見つけた時のルシル様は、十分騒いでいました」


「シモン君も鳥の図鑑が気になっていたじゃないですか」


「それと騒ぐことは別です」


 三人は笑いながら馬車へ戻った。


 トルクとベルクの状態を改めて確認する。


 呼吸は落ち着いている。


 水も飲んだ。


 脚に異常もない。


 緩めていた馬具を整え、シモンが御者台へ座った。


 午後の旅が始まった。


 シモンの運転は相変わらず安定していた。


 急加速も急な進路変更もなく、路面の悪い場所はかなり早い段階から避ける。


 ただし以前のように、少しの石でも大きく速度を落とすことは減っていた。


 後ろに座ったルシルは、その変化に気づいたものの口には出さなかった。


「シモン君、少し速くなりました?」


 代わりにモモが言った。


「道が走りやすいだけです」


「前はこのくらいの石でも、もっとゆっくりだった気がします」


「必要以上に速度を落とすと、後続の荷馬車にも迷惑になりますから」


「やっぱり速くなっています」


「適切な速度にしているだけです」


 モモはルシルを見る。


 ルシルも笑った。


 シモンには見えない位置なので、二人で黙って頷き合う。


「後ろで何をしているのですか」


「何も」


「何もしていません」


「声が揃うと余計に怪しいですよ」


 馬車の中に笑い声が広がった。


 午後になると、聞いていた通り荷馬車が増えた。


 同じ方向へ進む車両だけでなく、ラナへ向かう商人も多い。


 木材。


 穀物。


 酒樽。


 布。


 空の荷台。


 何を運んでいるのか分からない幌付きの馬車。


 そのたびにシモンは道幅と路肩を確認し、必要なら速度を調整した。


 ルシルとモモもただ乗っているだけではなく、後方から近づく馬車があれば知らせる。


 大きな荷馬車に追いつかれた時には、広い場所で先へ譲った。


 御者が通り過ぎながら片手を上げる。


 シモンも軽く返す。


「抜かれるのって、最初ちょっと悔しかったんだよな」


 ルシルが呟く。


「何と競争していたのですか?」


「分かんない。でも、前に行かれると俺たちが遅いみたいで」


「遅くても問題ないでしょう」


「今はそう思う」


 追い越していった馬車は、しばらくすると道の向こうへ小さくなった。


 追いかける理由はない。


 トルクとベルクにはトルクとベルクの歩調がある。


 馬車にも自分たちの速度がある。


 それを崩してまで前へ出る必要はなかった。


 午後の道は、朝とはまた違った景色を見せた。


 川幅が少し狭くなり、流れが速くなる場所がある。


 岩へ水が当たり、白く泡立っている。


 その近くでは小さな舟が岸へ引き上げられ、二人の男が網を広げて修理していた。


 モモが窓から見つける。


「魚を捕る人でしょうか」


「たぶん」


「川の魚って、どんな味なんでしょう」


「食べ物の話になったな」


「気になりませんか?」


「気になる」


「グレイで川魚料理があれば食べてみますか?」


「いいな」


「まずグレイに着いてから店を探してください」


 シモンの声が前から返ってくる。


「まだ石原にも着いていませんよ」


「今食べるとは言ってないだろ」


「二人の場合、食べ物の話から予定が増えることが多いので念のためです」


 そう言いながらも、シモンの声には本気で止める響きはなかった。


 川魚。


 また一つ、先で試したいものが増えた。


 それくらいならいくら増えてもいい気がした。


 しばらくして、道は川から大きく離れ始めた。


 間に低い丘が入り、水面が完全に見えなくなる。


 代わりに、街道の左右へ平たい石が増えた。


 最初は土の中から少し顔を出している程度だったものが、進むにつれて数を増していく。


「これ、もしかして石原が近い?」


 ルシルが窓から外を見る。


「まだ早いと思います」


 シモンは御者台から答えた。


「先ほどの老御者は、小さな渡し小屋の先だと言っていました。まだそれらしい建物を見ていません」


「じゃあこの辺から石が増えるのか」


 モモは窓の外を興味深そうに見ている。


 石は灰色だけではない。


 薄茶色。


 白っぽいもの。


 少し赤みを帯びたもの。


 どれも角が丸く、長い時間をかけて水に削られたような形をしていた。


「昔はこの辺まで川だったんでしょうか」


「可能性はありますが、僕には分かりません。川の流れが変わったのかもしれませんし、別の理由かもしれない」


「シモン君でも分からないこと、今日は二つ目です」


「数えなくていいですよ」


「水鳥と石です」


「石については専門家でも地形を調べなければ分からないでしょう」


「三つ目を探しましょう」


「探す必要はありません」


 モモが楽しそうに笑う。


 ルシルもつられた。


 旅に出る前のシモンなら、知らないことを問われれば、知っている範囲を可能な限り整理して答えたかもしれない。


 今は分からないものを分からないと言う。


 そのこと自体を大げさに扱う必要はないが、三人で知らないものを見つけるのは少し楽しかった。


 やがて道の先に、小さな建物が見えてきた。


 川は丘の向こうへ隠れているが、左手へ細い脇道が伸びている。


 その入口に、古びた木の板が立っていた。


『渡し場』


「渡し小屋?」


 ルシルが身を乗り出す。


「おそらく」


 シモンは速度を少し落とした。


 脇道の先には、小さな木造の小屋が一軒ある。


 さらにその向こうは下り坂になっており、再び川が見えた。


 ただし、街道そのものは渡し場へ向かわず、そのまま西へ続いている。


「寄ります?」


 モモが尋ねた。


 ルシルは小屋を見る。


 気にはなる。


 けれど今のところ水も足りているし、渡しを利用する予定もない。


「今日は通り過ぎてもいいかな」


「私も大丈夫です」


 シモンも頷く。


「石原がこの先なら、日が傾く前に状態を見ておきたいですからね」


 馬車は渡し場の脇を通り過ぎた。


 小屋の前では老人が網を干していたが、こちらを一度見ただけで声を掛けてはこなかった。


 三人も軽く会釈するだけにする。


 すべての場所へ立ち寄る必要はない。


 気になったからといって、必ず止まらなければならないわけでもない。


 その選び方も少しずつ自然になっていた。


 渡し場を過ぎると、石はさらに増えた。


 道自体は土で整えられているが、その両側には平たい石が幾重にも重なっている。


 草も生えているものの、これまでの川沿いより明らかに少ない。


 西へ傾き始めた日差しが石の表面を照らし、一枚一枚に薄い影を作っていた。


「綺麗ですね」


 モモの声が少し静かになる。


 派手な景色ではない。


 花畑でもない。


 大きな滝があるわけでもない。


 ただ、平たい石が延々と続いている。


 それでも、同じものがこれだけ集まると不思議な景色になった。


「これが石原かな」


 ルシルも窓から見渡す。


「まだ野営できそうな広さではありませんね」


 シモンが答えた。


 確かに、道の両脇には石が多すぎる。


 馬車を乗り入れれば車輪を傷めそうだし、テントを張る場所もない。


「もう少し先ですね」


 三人は自然と周囲をよく見るようになった。


 老御者から聞いた場所。


 名前は知っている。


 でも、どんな姿なのかは知らない。


 地図にもはっきり載っていない。


 それを自分たちで見つける。


 ルシルは少しだけ胸が高鳴った。


 街道は緩やかな上りになった。


 シモンがトルクとベルクの歩調に合わせて速度を落とす。


 二頭は落ち着いているが、午前からそれなりの距離を走っている。


 上りきったところで、視界が一気に開けた。


「……あ」


 最初に声を漏らしたのはモモだった。


 街道の左側。


 川とは反対側に、広い平地があった。


 灰色や薄茶色の平たい石が点々と散らばっているものの、先ほどまでのように地面を埋め尽くしてはいない。ところどころ土と短い草が広がり、何台もの馬車が通ったらしい車輪の跡が街道から奥へ伸びている。


 少し高い位置にあるため、川そのものは遠くに見えるだけだ。


 その代わり、周囲を遮る木が少なく、空が大きい。


 平地の奥には、古い焚き火跡らしき黒い円が二つ見えた。


 さらに端の方には、馬車が一台停まっている。


 幌を張った小型の荷馬車。


 そばで一頭の馬が草を食んでいた。


「ここじゃない?」


 ルシルが御者台の後ろから顔を出した。


 シモンはすぐに馬車を入れず、街道の端へ寄せて一度停めた。


「可能性は高いですね。ただ、まず見ましょう」


「俺、降りる」


「私も行きます」


 三人は馬車を完全に街道から外さず、トルクとベルクを落ち着かせてから地面へ降りた。


 夕方にはまだ早い。


 太陽は西へ傾いているが、すぐ暗くなる時間ではない。


 だからこそ、焦って決める必要はなかった。


 ルシルは街道から平地へ続く車輪跡を見る。


 深い轍ではない。


 泥もない。


 石はあるものの、大きなものを避ければ馬車で入れそうだった。


「思ったより広いな」


「そうですね。ただ、テントを張る場所は選ぶ必要があります」


 シモンが先に歩く。


 三人は馬車から離れすぎない範囲で平地へ入った。


 足元には、手のひらほどの平たい石が多い。


 踏むと少し動くものもある。


 ルシルはしゃがみ込み、一枚を持ち上げた。


「軽い」


「投げないでくださいね」


 シモンが振り返りもせずに言う。


「投げないよ」


「ルシル様、川だったら水切りできそうですね」


「モモ嬢」


「投げません」


 シモンが今度こそ振り返った。


 二人とも石を持ったまま、何もしていない。


「……お願いしますよ」


 その表情に、ルシルとモモは顔を見合わせて笑った。


 平地の奥へ進む。


 先客の小型馬車からは十分に距離を取る。


 向こうにいるのは一人の中年男性らしい。鍋を洗っているところで、こちらに気づくと片手を上げた。


「泊まりか?」


「まだ決めてない。ここが石原?」


 ルシルが少し声を張ると、男は頷いた。


「そう呼ばれてるな。泊まるなら好きな場所使え。ただ、奥の低いところはやめとけ。昨日の水がまだ残ってる」


「ありがとう!」


 重要な情報だった。


 三人は男が指した方を見る。


 遠目では分からなかったが、平地の一部は確かに少し低くなっている。


 近づくと、石の間の土が黒く湿っていた。


「今朝の人は雨でも水が上がりにくいって言ってたけど、全部じゃないんだな」


「高い土地でも窪地には水が溜まりますからね」


 シモンはしゃがみ、湿った土へ指先を近づける。


 直接触れる前に状態を見て立ち上がった。


「少なくとも、こちら側は避けましょう」


 そこから少し高い方へ移動する。


 風は強すぎない。


 周囲に折れそうな枝もない。


 大型魔物の足跡らしいものも見当たらない。


 古い馬糞や車輪跡があり、実際に御者たちが使っていることは分かる。


 火を使った跡も複数あるが、燃え残りは少ない。


「ここなら前の野営地より広いですね」


 モモが辺りを見回す。


「馬車も停めやすそう」


「ただし石が多いので、テントの場所は掃除が必要です。寝床の下に石が残っていると、夜になってから後悔しますよ」


 シモンが言う。


「それは嫌だな」


 ルシルは足元を見る。


 平らな石なら大丈夫そうに思えるが、寝袋や敷物越しに一晩当たり続ければ確かに気になるだろう。


「で、どうする?」


 三人は自然と立ち止まった。


 泊まれる。


 それは分かった。


 けれど、泊まらなければならないわけではない。


 まだ日没までは時間がある。


 トルクとベルクも今のところ元気だ。


「もう少し進めるとは思います」


 シモンはまず事実だけを口にした。


「ここから先にも、野営できる場所が全くないとは考えにくいでしょう。ただ、確実に使えると分かっている場所は今ここです」


 モモは西の空を見た。


「私は、ここでもいいと思います」


「石原見たかったから?」


「それもあります。でも、急いで先へ行って、暗くなる前に別の場所を探すより、明るいうちにここで準備した方が今日はゆっくりできそうです」


 モモはそう言ってから、足元の石を一つ拾った。


「それに、赤根菜を切ります」


「そこ大事なんだ」


「大事です」


 ルシルは笑った。


 それから街道の方を見る。


 焦げ茶色の馬車。


 トルクとベルク。


 二頭とも静かに待っている。


 午前から走ってきた。


 途中で休ませているとはいえ、ラナで二日休んだ直後だからといって、初日に無理をさせる必要はない。


「俺もここがいい」


 二人の視線がシモンへ向く。


 シモンは少しだけ周囲を見渡した。


 地面。


 空。


 先客との距離。


 街道。


 馬車を入れる経路。


 最後に二人を見る。


「では、今日はここまでにしましょう」


 決まった。


 大きな達成感があるわけではない。


 予定通りでもない。


 朝の時点では、ここへ泊まるかどうかさえ決めていなかった。


 それでも三人で見て、考えて、今夜の場所を選んだ。


「よし。じゃあ馬車入れよう」


「先に停める位置を決めてください。入れてから動かすのは面倒です」


「前と同じだな」


「今回は石がありますから、車輪の位置も見ましょう」


 三人は平地の中で使いやすそうな場所を探した。


 先客から離れ、古い焚き火跡の一つを再利用できる位置。


 地面が比較的高い。


 馬を繋いでも街道へ近すぎない。


 テントを張れる土の部分がある。


 馬車を向け直す余地もある。


「ここ?」


 ルシルが示す。


「悪くは――」


 シモンが途中で言葉を止めた。


 ルシルがにやりとする。


「今、言いそうになった?」


「何をですか」


「いつもの」


「知りません」


 モモも笑いを堪えている。


 シモンは咳払いし、何事もなかったように続けた。


「ここで問題ないと思います。馬車の左後輪だけ、大きな石を避けるようにしてください」


「了解」


 三人は馬車へ戻った。


 今度はルシルが御者台へ座る。


 長距離を走るためではない。


 街道から野営場所まで、馬車を安全に移動させるためだ。


 こういう短い操作も練習になる。


 モモが地面から後輪の位置を見る。


 シモンは前方とトルク、ベルクを確認する。


「もう少し右です」


 モモが声を掛ける。


 ルシルは大きく切らず、ほんの少しだけ進路を変えた。


「そのままで大丈夫です。後ろも通れます」


 石の多い場所を避け、ゆっくり平地へ入る。


 前輪が一枚の石を踏み、小さく揺れた。


 トルクの耳が動く。


 ルシルは急いで修正せず、そのまま落ち着いて進ませた。


 やがて決めた場所へ馬車が収まる。


「止めるぞ」


「はい。ここです」


 手綱を引き、二頭を止める。


 車輪が完全に静止する。


 ルシルは御者台から振り返った。


 ラナの町はもう見えない。


 川もここからは遠い。


 周囲にあるのは、平たい石と短い草、広い空、それに自分たちの馬車だった。


「今日ここか」


「はい」


 モモはどこか嬉しそうだった。


 シモンはすでに車輪止めを用意している。


「感慨に浸るのは馬を外してからにしてください」


「分かってるって」


 三人は動き始めた。


 まずトルクとベルク。


 馬具を外し、脚と身体の状態を確認する。


 長く走った後だから、朝より丁寧に見る。


 トルクは疲れてはいるものの、呼吸は落ち着いている。


 ベルクも脚に異常はない。


 水を与え、身体を拭き、飼葉を準備する。


 モモはトルクの首を撫でながら、少し申し訳なさそうに笑った。


「今日は川を見てばかりでしたけど、ちゃんと走ってくれていたんですよね」


「だから休ませるんだろ」


 ルシルもベルクの背へ手を置いた。


 温かい。


 馬が走った熱が掌へ伝わる。


「お疲れ」


 ベルクはルシルを一度見たあと、少し離れたシモンの方へ鼻先を向けた。


「はいはい、シモンがいいんだな」


「ルシル様、拗ねないでください」


「拗ねてないよ」


 シモンが近づくと、ベルクは落ち着いたように首を下げた。


 三人はそれ以上騒がず、二頭の世話を続けた。


 馬を休ませた後はテントだ。


 前回より手順は分かっている。


 ただし今回は地面が違う。


 ルシルとモモは張る場所の石を拾い、端へ寄せていく。


 小さな石なら簡単だが、土へ半分埋まっているものは思ったより重い。


「これ、取れない」


 ルシルが一枚の石を持ち上げようとする。


「無理に取らなくていいでしょう。その場所を避けて張ればいいです」


 シモンが言う。


「でもあと少しで取れそう」


「旅先で地面と勝負しないでください」


 モモが横から石へ手を掛けた。


「二人なら取れます」


「モモ嬢まで参加しないでください」


「せーの」


 二人で持ち上げる。


 石はあっさり外れた。


 その下から湿った土と小さな虫が現れ、モモが一歩下がる。


「……戻します?」


「戻しましょう」


 シモンが即答した。


「ごめん」


 ルシルとモモは二人で石を元へ戻した。


 少し離れた場所で、先客の男がこちらを見て笑っている。


「何してんだ、あんたら」


「テント張る場所作ってる!」


「地面掘り返すほどやらんでいいぞ!」


「今分かった!」


 男は声を上げて笑った。


 旅人同士だからといって、必ず深く関わる必要はない。


 名前も聞かない。


 それでも同じ野営地にいる者同士、こうして少し声を掛け合うくらいの距離は心地よかった。


 今度は無理に石をどかさず、最初から平らな場所を選ぶ。


 テントを広げる。


 向きを確認する。


 前回は一度やり直したが、今日は最初から入口を馬車側へ向けた。


 ルシルが杭を打つ。


 一打目。


 少し弱い。


 二打目で入る。


 三打目は力を入れすぎない。


「どう?」


 シモンが杭を手で確認する。


「大丈夫です」


「一回で?」


「ええ」


 ルシルは思わず笑った。


「やった」


「全部終わってから喜んでください。まだ三本あります」


「分かってる」


 次の杭へ移る。


 モモは反対側で紐を整えている。


 彼女も前回より手際がいい。


 絡まった部分を一度止まって解き、無理に引っ張らない。


 少し時間はかかったが、テントは一度も倒れずに形になった。


 三人で少し離れて眺める。


 前回よりまっすぐだ。


「ちゃんとテントに見える」


 ルシルが言う。


「前もテントには見えましたよ」


「ちょっと傾いてたじゃん」


「今日は綺麗です」


 モモが満足そうに頷く。


 シモンも紐の張りを最後に確認した。


「問題ありません。風も今のところ強くないので、これで大丈夫でしょう」


 夕方の空は、まだ明るかった。


 急いで進んでいたら、今頃も野営場所を探しながら馬車に乗っていたかもしれない。


 今はもう馬を休ませ、テントまで張り終えている。


 時間が余っている。


「夕飯、まだ早いよな」


 ルシルが空を見る。


「少し早いですね」


「じゃあ何する?」


 モモは馬車を見る。


 トルクとベルクを見る。


 石原を見る。


 そして自分の手元にあった平たい石を見る。


「……水切り?」


 シモンが額へ手を当てた。


「川まで戻りませんよ」


「冗談です」


「今、半分本気だったでしょう」


「少しだけです」


 ルシルが笑う。


「じゃあ、石見ようぜ」


「石を見る?」


「さっき色いろいろあっただろ。別に持って帰らなくても、ここで見るだけならいいじゃん」


 モモの表情が明るくなる。


「探しましょう」


「遠くへ行かないでくださいよ」


「シモンも来る?」


「馬と馬車が見える範囲なら付き合います」


 三人は野営場所の周囲をゆっくり歩いた。


 ただの石。


 最初はそう思っていた。


 けれどよく見ると、形も色も違う。


 薄く層になっているもの。


 白い線が一本入っているもの。


 赤い斑点があるもの。


 掌より大きいのに驚くほど薄いもの。


 モモは淡い桃色の筋が入った一枚を見つけ、しゃがみ込んだ。


「これ、綺麗です」


「持ってく?」


「どうしましょう」


「何でも収納しないでくださいよ」


 後ろからシモンが言う。


「まだ何も言ってないだろ」


「ルシル様の顔を見れば分かります」


「俺じゃなくてモモが見つけたんだけど」


「でも『持ってく?』と最初に言ったのはあなたです」


 反論できない。


 モモは石をしばらく眺め、それから元の場所へ置いた。


「置いていきます」


「いいの?」


「はい。写真みたいに残せないのは少し残念ですけど、覚えていればいいです」


「じゃあ俺も覚えとく」


「桃色の線の石です」


「うん」


 シモンは何も言わなかった。


 ただ、二人が歩き出した後に一度だけその石へ目を向けていた。


 少し離れたところでは、先客の男が焚き火の準備を始めている。


 乾いた枝を組み、火打石を鳴らす音が聞こえた。


 その音を聞いたモモが足を止める。


「そろそろ私たちも夕食にします?」


「腹減った?」


「少し」


「俺も」


「では始めましょうか」


 シモンが頷いた。


 三人は古い焚き火跡の一つへ戻った。


 今日は前回と違い、何を作るか決まっている。


 赤根菜。


 ラナへ入る前、壊れた荷馬車を手伝った礼にもらったものだ。


 宿で煮込みとして食べ、焼いても甘いと教えてもらった。


 モモは籠から一つ取り出した。


 赤紫色の丸い根菜。


「今日は揃えます」


 妙に真剣な声だった。


「そんなに緊張しなくても」


「前は大きさが違いました」


「食べられたから大丈夫だったけどな」


「今日はもっと上手くします」


 モモは小さな包丁を持ち、まな板代わりの板へ赤根菜を置いた。


 ルシルは肉。


 シモンは火と全体の準備を担当する。


「火、俺やろうか?」


「今日は僕がやります。ルシル様は肉をお願いします」


「分かった」


 役割が自然に決まる。


 前回は何を誰がやるか一つずつ確認した。


 今日は必要な道具をそれぞれが取りに行き、足りないものだけ声を掛ける。


 モモの包丁が赤根菜へ入る。


 一枚目。


 少し厚い。


 二枚目。


 少し薄い。


 モモの眉が寄った。


「……違います」


「まだ二枚だよ」


「同じにしたいんです」


「全部まったく同じでなくても、火の通りが近ければ大丈夫ですよ」


 シモンは火を起こしながら言った。


「厚すぎるものだけ少し薄くすればいいでしょう」


「分かりました」


 モモは速度を落とした。


 急いで切らない。


 一枚切るたび、次の厚さを見る。


 少しずつ揃っていく。


 ルシルも肉を切りながら時々横を見る。


「前より全然揃ってる」


「本当ですか?」


「うん。俺の肉より揃ってるかも」


「ルシル様のは大きさを変えているだけでしょう?」


「よく分かったな」


「さっき大きい方を自分の近くに置いていました」


「見てたの?」


「見えました」


 モモが笑う。


 ルシルも誤魔化すように肉を混ぜた。


「これで分かんない」


「子供みたいなことをしないでください」


 シモンの呆れた声が飛ぶ。


 焚き火が安定する。


 浅い鉄板へ少量の油を引き、赤根菜を並べる。


 じゅっと小さな音がした。


 赤紫色の表面が油を弾き、すぐに甘い香りが立ち始める。


「もう美味しそうです」


「まだ生ですよ」


「匂いがです」


 隣では肉も焼き始めた。


 今日は火へ近づけすぎない。


 ルシルは一枚ずつ様子を見て返す。


 前回、最初の一枚を少し焦がしたことは覚えている。


 同じ失敗をしないよう気をつける。


「ルシル様、そちらいい色ですよ」


「だろ?」


「今度は裏を焦がさないでください」


「分かってる」


 赤根菜も返す。


 焼けた面は少し色が濃くなり、縁が柔らかくなっていた。


 モモが一枚を箸で押す。


「これくらい?」


 シモンが確認する。


「もう少しでしょう。厚いものだけ少し長めに」


「はい」


 すべてを同じ時間で上げるのではなく、厚さによって順番を変える。


 モモは一枚ずつ見ながら皿へ移した。


 最後に塩を少しだけ振る。


 夕食が完成する頃には、太陽が石原の向こうへ大きく傾いていた。


 灰色だった石が橙色に染まり、長い影を伸ばしている。


 風も昼より冷たくなっていた。


 三人は折り畳み椅子へ座る。


「いただきます」


 まず赤根菜。


 モモが自分で焼いた一枚を口へ運んだ。


 噛んだ瞬間、目が少し大きくなる。


「甘いです」


 ルシルも食べる。


 表面は軽く焼け、中は柔らかい。


 塩気が加わることで、宿の煮込みとは違う甘さがはっきり分かる。


「これうまいな」


「焼くだけでも十分ですね」


 シモンも頷いた。


 モモは皿に並んだ赤根菜を見た。


「ちゃんと全部火が通っています」


「大きさ揃えたからな」


「少し違いますけど」


「前よりずっといいだろ」


「はい」


 その返事には、ほんの少し誇らしさが混じっていた。


 魔物を倒したわけでもない。


 誰かに褒め称えられたわけでもない。


 根菜を前より揃えて切れただけ。


 それでもモモは嬉しそうだった。


 ルシルも肉を一口食べる。


 焦げていない。


「俺も成功」


「今回は最初から最後まで大丈夫ですね」


 シモンが言う。


「シモンは?」


「何がですか?」


「今日の料理で成長したところ」


「なぜ僕にも必要なのですか」


「俺とモモだけだと不公平だろ」


 シモンはしばらく考えた。


 火の状態を見る。


 鍋を見る。


 自分の皿を見る。


「……今日は二人へ口を出す回数を減らしました」


 ルシルとモモは一瞬黙った。


 それから同時に笑った。


「それ成長なの?」


「僕にとっては十分でしょう」


「確かに」


 モモも楽しそうに頷いた。


「でもシモン君、結構言っていましたよ」


「必要な時だけです」


「石を掘り出した時とか?」


「あれは必要でした」


「虫出てきたもんな」


 三人の笑い声が夕暮れの石原へ溶けていく。


 少し離れた先客の男も、自分の焚き火の前で食事をしている。


 時々こちらへ視線を向けるが、会話へ入ってはこない。


 三人も無理に声を掛けない。


 それぞれの旅人が、それぞれの夕食を取る。


 空は橙から紫へ変わり始めた。


 川の音はここまでほとんど届かない。


 代わりに風が平たい石の上を抜ける音がする。


 前回の野営地とはまるで違う夜になりそうだった。


「明日はどこまで行くんだろうな」


 ルシルが食後、空を見ながら言った。


「今から決めますか?」


 シモンが尋ねる。


 ルシルは少し考えた。


 グレイへ向かう。


 それだけは分かっている。


 けれど明日どこで休み、何時まで走り、途中で何を見るかはまだ知らない。


「朝でいいかな」


「私もそれでいいです」


 モモは空になった皿を膝へ置いた。


「トルクさんとベルクさんを見てから決めたいです」


 シモンは二人を見たあと、小さく頷いた。


「では、今夜はここまでにしましょう。食器を片づけたら、火の始末だけ確実に」


「うん」


 三人は立ち上がった。


 食器を洗う。


 食べ物を片づける。


 火を消す。


 灰の状態を確認する。


 馬をもう一度見る。


 前回より手順は滑らかだったが、急いではいない。


 辺りが暗くなる頃には、焚き火跡から熱もほとんど消えていた。


 トルクとベルクも落ち着いている。


 テントへ入る前、ルシルは一度だけ石原を振り返った。


 昼間はただの灰色に見えた平たい石が、今は月明かりを薄く反射している。


 遠くには先客の小さな灯り。


 そのさらに向こうには、街道が暗闇の中へ続いている。


「昨日は宿だったんだよな」


「そうですね」


 隣に立ったシモンが答える。


「同じ旅なのに全然違うな」


「明日もまた違うかもしれません」


 それ以上の言葉は必要なかった。


 モモがテントの入口から顔を出す。


「二人とも、寒くなる前に入りませんか?」


「今行く」


 三人はテントへ入った。


 地面の石はできるだけ取り除いたはずだが、横になると一か所だけ妙な硬さがあった。


「……背中に何かある」


 ルシルが身体を少しずらす。


「石ですか?」


「たぶん」


「場所を変えてください。今からテントを動かしませんよ」


「分かってる」


 モモも自分の寝床を確かめる。


「私は大丈夫です」


「シモンは?」


「僕も問題ありません」


「俺だけ?」


「昼間に地面と勝負したからではないですか?」


「関係ないだろ」


 小さな笑い声がテントの中に広がった。


 ルシルは身体を少し右へずらす。


 それだけで硬さは消えた。


「これなら寝られる」


「では寝ましょう」


 外では風が石原を渡っている。


 前回の野営では木々の葉音や小さな水音があった。


 今夜は風と、ときどき聞こえるトルクかベルクの気配、それから遠くを一台だけ通り過ぎていく馬車の車輪音。


 場所が変われば、夜の音も変わる。


 ルシルは毛布の中で目を閉じた。


 明日になれば、またグレイへ向かう。


 どこまで進むかは朝に決める。


 その前に、まずはこの石の多い野営地で一晩眠る。


 それで十分だった。


 石原の夜は、三人が思っていたよりも静かに更けていった。

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