第22話 石だらけの野営地を出たら、街道の様子が少し変わりました
ルシルが目を覚ました時、最初に感じたのは背中の痛みではなく、テントの外から聞こえてくる低い物音だった。
まだ完全には覚醒していない頭で耳を澄ませると、風が布地を撫でる音に混じって、何か硬いもの同士が触れ合う乾いた響きがする。昨夜から続いていた風が、石原に散らばる薄い石をわずかに動かしているらしい。その向こうでは馬が鼻を鳴らし、さらに遠くから鳥の声も聞こえていた。
「……朝か」
毛布の中で身体を伸ばしたところで、腰の少し下に硬い感触が当たった。
昨夜、身体をずらして避けたはずの石だった。
寝返りを繰り返すうちに元の場所へ戻ってしまったらしい。
「やっぱりいたな……」
「何がいたんですか……?」
隣から眠そうな声がした。
モモだった。
毛布の中から桃金色の髪だけが広がっている。いつも腰まで流れている長い髪は寝起きのせいで少し乱れ、本人はまだ目を開けていなかった。
「石」
「石……?」
「昨日、背中に当たってたやつ」
「まだ戦っていたんですか……」
「戦ってないよ」
反対側で布が動いた。
シモンも起きたらしい。眼鏡を掛ける前なので普段より少し幼く見える顔を上げ、二人の方へ視線を向ける。
「朝一番から何の話をしているんですか」
「石」
「聞かなければよかったです」
シモンは小さく息を吐き、枕元へ置いていた眼鏡を掛けた。
薄暗かったテントの中には、入口の隙間から青白い朝の光が差し込んでいる。前回の野営より地面が硬かったことを除けば、夜中に大きな問題はなかった。何度か風が強くなったものの、昨日打った杭も紐も緩まず、三人で張ったテントは朝まできちんと形を保っている。
ルシルは毛布から出ると、昨夜背中へ当たっていた辺りを手で探った。
敷物の下に、親指の先ほどの膨らみがある。
「これだ」
端を持ち上げてみれば、薄い灰色の石が一つ転がっていた。
昨日かなり丁寧に取り除いたつもりだったのに、見落としていたらしい。
ルシルが摘まみ上げると、ようやく目を開けたモモがそれを眺めた。
「小さいですね」
「小さいのにずっと気になるんだよ」
「持って帰ります?」
「なんでだよ」
「一晩一緒に寝た記念です」
「いらない」
即答すると、モモがくすくす笑った。
シモンは毛布を畳みながら二人を見ていたが、やがて諦めたように首を振った。
「外へ戻しておいてください。今度こそ地面と勝負を始めないように」
「分かってるって」
テントを出ると、朝の冷たい空気が一気に頬へ触れた。
昨夕は橙色に染まっていた石原が、今は薄い青と灰色に包まれている。東の空はすでに明るくなっているものの、太陽そのものは低い丘の向こうに隠れており、平たい石の表面には薄い朝露が残っていた。
遠くを流れる川の上には白い靄が漂っている。
ラナを出た昨日の朝とは、まるで違う景色だった。
「綺麗……」
後ろから出てきたモモが、眠そうだった目を少し大きくした。
髪を手で簡単に整えながら、遠くの川を見つめている。
「昨日、こんなのなかったよな」
「気温差でしょうね」
シモンもテントから出てきた。
「夜の間に冷えた空気と水面の温度差で出ているのでしょう。日が高くなれば消えると思います」
「じゃあ今だけか」
ルシルはしばらく川を眺めた。
見に行こうとは思わなかった。
ここからでも十分に綺麗だったし、何より先に確認するものがある。
馬車の近くではトルクがすでにこちらを見ていた。
ベルクも耳を動かしている。
「おはよう」
ルシルが近づくと、トルクは鼻を鳴らした。
昨日一日走った疲れが残っていないか、三人で順番に確認する。立ち方に違和感はなく、脚にも目立った腫れはない。ベルクも歩かせてみると普段通りで、シモンが蹄を確認している間も大人しくしていた。
モモはトルクへ水を用意しながら、その飲み方をじっと見ている。
「昨日より元気そうです」
「昨日の夕方は走った後だったからな」
「食欲もあります」
飼葉を見たトルクの反応は分かりやすかった。
ルシルが笑う。
「こいつ、食欲なくなったらすぐ分かりそう」
「それはそれで判断材料になりますが、食べるから絶対に大丈夫というわけではありませんよ」
ベルクの脚を下ろしたシモンが立ち上がる。
「ただ、今朝は二頭とも問題なさそうです」
「じゃあ今日も走れるな」
「ええ。ただし、昨日走った分があります。ラナを出た直後と同じ感覚で考えないようにしましょう」
「分かってる」
グレイへ何時までに着く、という約束はない。
今日中に必ず着かなければならない理由もない。
昨日と同じように、二頭の状態と道を見ながら進めばいい。
トルクとベルクへ飼葉を与えていると、少し離れた場所から鍋の蓋が鳴る音が聞こえた。
昨日から石原に泊まっていた中年の男だった。
小型の荷馬車の横で簡単な朝食を作っている。こちらへ気づくと、片手を上げた。
「よく眠れたか?」
「一個だけ石がいた!」
ルシルが答えると、男は一瞬きょとんとしてから大声で笑った。
「石原で石に文句言ってどうすんだ!」
「それはそうなんだけどさ!」
「次はもっと丁寧に拾っとけ!」
名前も知らない男とのやり取りに、モモが横で笑っている。
シモンも口元をわずかに緩めていた。
男はそれ以上こちらへ近づいてこなかった。
三人も朝食へ誘うことはしない。
昨夜と同じだ。
同じ場所へ泊まった旅人同士、必要なら言葉を交わす。しかし互いの時間へ踏み込みすぎない。
それくらいがちょうどよかった。
「私たちも朝ご飯にしましょうか」
モモが言った。
「その前に火を使うか決めましょう」
シモンが空を見る。
風は昨夜より弱い。
急ぐ必要もない。
ルシルは昨日の夕食で使った道具を思い浮かべたが、今朝はそこまでしっかり料理をしたい気分でもなかった。
「パンと何かでよくない?」
「私もそれでいいです。昨日いっぱい食べましたから」
「では簡単にしましょう」
朝食は硬めのパンにチーズ、干した果実、それから温めなくても食べられる薄切り肉になった。
火を起こさないぶん準備は早い。
三人は馬車の近くへ椅子を並べ、朝露の残る石原を眺めながら食べ始めた。
パンは少し硬い。
ルシルは噛みながら水を飲む。
「宿の朝飯もいいけど、これはこれで朝って感じするな」
「昨日まで蹄休めで温かいものを食べていましたから、余計にそう感じるのかもしれませんね」
シモンはパンを小さくちぎりながら答えた。
「でも毎朝これだと、たぶん温かいものが欲しくなります」
モモが干した果実を摘まむ。
「明日は作ります?」
「明日どこで起きるかによるだろ」
「あ、そうでした」
モモは少し笑った。
「グレイに着いているかもしれません」
「まだ着いてないかもしれない」
「どちらでも朝ご飯は食べます」
「それは確実だな」
三人で笑う。
グレイへ向かっているのに、到着日を厳密には決めていない。
以前のルシルなら、それを奇妙に感じたかもしれない。
けれど今は、決めていないことが不安ではなかった。
朝食を終える頃、川を覆っていた靄が少しずつ薄くなった。
東の丘から日が差し始め、石の表面に残っていた露が光る。
先客の男は三人より先に出発するらしい。
荷物を固定し、馬を繋ぎ始めている。
「もう行くの?」
ルシルが声を掛けると、男は荷台の紐を引きながら頷いた。
「昼までに荷を渡したい村があるんでな。あんたらはグレイか?」
「そのつもり」
「なら道なりでいい。ただ、少し先で川から離れるところがある。そっちは昨日の雨で路肩が柔らかい場所が残ってるかもしれん。真ん中走ってりゃ問題ないと思うが、対向車が来た時は端へ寄りすぎるなよ」
ルシルはすぐにシモンを見た。
シモンも頷いている。
「ありがとう」
「別にいいさ。じゃあな」
「うん。気をつけて」
男は荷馬車へ乗り込み、ゆっくりと街道へ出ていった。
昨夜から一度も名前を聞かなかった。
これからどこへ行くのかも、昼までに立ち寄る村がどこなのかも知らない。
それでも、昨日は野営場所の低地を教えてもらい、今朝は路肩の情報をもらった。
男の荷馬車が小さくなっていくまで、ルシルは何となく見送った。
「こういうのもいいな」
「何がですか?」
モモが尋ねる。
「名前知らないまま、ちょっとだけ同じ場所にいるの」
言葉にしてから、自分でも少し考える。
「また会ったら分かるかな」
「私は分かると思います」
「俺も顔は覚えてる」
「では、それで十分なのではありませんか」
シモンは片づけた食器を収納しながら言った。
ルシルは頷いた。
それ以上、この出会いに意味をつける必要はない。
三人も出発準備へ取り掛かった。
二度目の野営撤収は、最初よりかなり早かった。
とはいえ、急いだからではない。
誰が何をすればいいか分かってきたからだ。
モモが寝具をまとめている間に、ルシルは椅子や食事道具を確認する。シモンはテントの外側と地面の状態を見て、朝露が乾き始めるのを待ちながら紐を緩めていった。
テントを畳む時も、前回のように最初の折り方で大きくなりすぎることはなかった。
「ここ、もう少し内側ですよね?」
モモが布の端を持ったまま尋ねる。
「そうです。その線に合わせれば収納袋へ入るはずです」
「ルシル様、そちら引っ張ってください」
「これくらい?」
「もう少しです」
三人で幅を揃え、折り畳む。
一度で袋へ収まった。
「入った」
ルシルは思わず袋を見る。
ただテントを畳めただけなのに、前回やり直した記憶があるせいか妙に嬉しい。
モモも同じだったらしく、袋の口を閉じながら満足そうにしている。
「上手くなりました」
「次はもっと早くできそう」
「速さを競う必要はありませんよ」
シモンが言う。
「分かってる。ちゃんとできた上でだよ」
「それなら構いません」
テントがなくなると、昨夜まで三人の場所だったところが再びただの石原へ戻った。
地面に忘れ物がないか確認する。
焚き火は昨夜のうちに処理済み。
食べ物も残していない。
ルシルは昨日拾って元へ戻した大きな石を見つけた。
「もう掘らないぞ」
「石に宣言しなくていいですよ」
シモンに言われ、モモが吹き出した。
最後に馬車を確認する。
昨日の川沿い道を走ったため、車輪や下回りには薄く土埃が付いていた。
ルシルは右後輪の近くへしゃがみ込み、目で追う。
「ここ、何か付いてる」
金具の端に細い草が巻きついていた。
異常ではない。
手で取れる程度だ。
それでも見つけたものをそのままにせず、ルシルは取り除いた。
「他は大丈夫そう」
「こちらも問題ありません」
反対側を確認していたシモンが答える。
モモは車内を見ていた。
「木馬もいます」
「そっちは点検項目なの?」
「落ちていたら困ります」
「まあ、それはそうだな」
栗色と灰色の木馬は、革紐に留められたまま棚のそばにいる。
昨日の道を一日走っても緩みはなかった。
ルシルは革紐を指で軽く引き、しっかり固定されていることを確かめた。
「大丈夫」
「では、出発できますね」
馬具を取り付ける。
トルクとベルクも落ち着いていた。
ルシルが以前より迷わず留め具を扱っている横で、モモが反対側を確認する。
最後は三人で互いの側を見直した。
「今日は誰から?」
ルシルが尋ねる。
「私、やりたいです」
モモがすぐ手を上げた。
「昨日の朝はルシル様でしたから」
「じゃあモモから」
「はい」
シモンも異論はない。
「路肩の話だけ覚えておいてください。少し先で川から離れる区間は、昨日の雨が残っている可能性があります」
「端に寄りすぎない、ですね」
「ええ。対向車が来たからといって、無理に避ける必要はありません。向こうも状況を見ます」
モモは真剣に頷き、御者台へ上がった。
ルシルとシモンも乗り込む。
「行きます」
手綱が動く。
トルクとベルクが歩き始める。
車輪がゆっくり回り、石原の固い地面を進んだ。
街道へ戻る直前、ルシルは後ろを振り返った。
昨夜テントを張っていた場所。
先客の男がいた場所も、もう空いている。
平たい石が朝日に照らされているだけだ。
今度は特に何も言わなかった。
馬車はそのまま街道へ出た。
朝の川沿い道は、昨日より交通量が少なかった。
モモは急がず、二頭が身体を温めるような速度で進ませる。
出発直後から速くしないことも、もう三人の間では何度も説明する必要がなくなっていた。
しばらくすると、昨日一度遠ざかった川が再び街道へ近づいた。
朝靄はほとんど消え、水面が日差しを細かく反射している。
「昨日の鳥、いるでしょうか」
モモが御者台から川を見る。
「前見ながらな」
後ろからルシルが言う。
「見ています」
「水鳥は僕が探しますから、モモ嬢は道を見てください」
隣に座るシモンが言うと、モモは少しだけ頬を膨らませた。
「昨日より上手になっています」
「上手になったことと、横を見ながら運転していいことは別です」
「分かっています」
それでも機嫌を悪くしたわけではない。
少しすると、シモンが川の方へ顔を向けた。
「いますよ」
「どこですか?」
「右手の少し前です。白いのが二羽」
「見たいです」
「道も見てください」
「だから見ています」
ルシルも窓から探した。
水面の端に白い鳥が二羽浮かんでいる。
昨日見たものより首が短く、身体が丸い。
「昨日のと違うな」
「種類が違うのでしょうね」
「シモン、名前は?」
「知りません」
「三つ目」
モモが嬉しそうに言った。
「まだ数えていたのですか」
「水鳥、石、今日の水鳥です」
「二つ目と三つ目が大雑把すぎませんか」
ルシルは笑った。
「グレイに本屋あったら鳥の本探す?」
「買うのですか?」
「シモンが欲しいなら」
「なぜ僕が欲しい前提なのです」
「昨日ちょっと気になってただろ」
「……あれば見る程度です」
否定しきらないところが面白かった。
「じゃあ覚えとこう」
「グレイでやること、また増えましたね」
モモが言う。
「川魚もある」
「魔物情報の確認も忘れないでください」
「それはシモンが忘れないだろ」
「だからといって僕だけの用事ではありません」
「分かってるって」
ラナにいた時も、気づけばやりたいことが増えていった。
グレイでも同じかもしれない。
けれど、まだ着いてもいない町の予定を全部決める必要はなかった。
道は少しずつ川から離れていった。
最初は水面が木々の間から見えていたが、やがて完全に隠れる。
周囲の地面も変わった。
石原周辺に多かった平たい石が減り、赤茶色の土が目立つようになる。
道の左右には背の高い草が生え、その葉先に昨日の雨の名残らしい水滴が残っていた。
「ここからかな」
ルシルが前を見る。
先客の男が言っていた、路肩が柔らかい区間。
見た目だけでも分かった。
街道中央は多くの車輪に踏み固められているが、端へ近づくほど色が濃い。
場所によっては車輪の跡が深く沈んでいる。
「モモ嬢、中央寄りで構いません」
「はい」
モモは速度を少し落とした。
路面そのものは走れる。
ただ、昨日までの乾いた街道とは違う。
車輪が土を踏む音も少し鈍かった。
トルクとベルクの蹄が地面へ入るたび、湿った土が小さく跳ねる。
ルシルは窓から後輪の位置を確認した。
「まだ大丈夫」
「無理に身を乗り出さないでくださいよ」
「分かってる」
しばらくは対向車もなかった。
モモは中央を維持しながら進む。
前方に大きな水溜まりが見えた時には、早めに少し左へ進路を変えた。
左側の路肩は比較的固そうだ。
「そっちなら大丈夫そうです」
シモンが確認する。
トルクとベルクが水溜まりを避ける。
前輪。
後輪。
どちらも深い場所を踏まない。
「通れました」
モモの声が明るくなる。
「うん。後ろも大丈夫」
「次もありますね」
喜ぶ間もなく、シモンが先を見る。
道の状態は一か所だけではなかった。
小さな泥濘。
浅い轍。
水の流れた跡。
どれも馬車が通れないほどではない。
だからこそ、注意を続ける必要があった。
モモは一つずつ見て進んだ。
速く走るより、どこへ車輪を通すかを考える。
ラナへ向かう前、初めて泥を踏んだ時よりも判断が早い。
ルシルは後ろから見ながら、自分ならどう通すかも考えていた。
その時だった。
「前から来ます」
シモンの声が少し変わった。
ルシルも前を見る。
街道の先に荷馬車が一台現れた。
二頭立て。
荷台には大きな木箱が積まれている。
普通なら問題なくすれ違える道幅だ。
しかし今いる区間は、左右の路肩が柔らかい。
相手もそれを分かっているらしく、速度を落とした。
モモもすぐトルクとベルクを緩める。
「どうします?」
「まず止まらず、このままゆっくり。向こうの位置を見ましょう」
シモンは対向車を観察している。
相手の御者もこちらを見ていた。
荷馬車は少しだけ自分たちから見て左、つまり向こうの右側へ寄る。
ただし完全に路肩までは行かない。
「向こうも中央を残したいみたいです」
「ええ。こちらも少し右へ。ただし端まで寄せないでください」
「はい」
モモが手綱を調整する。
トルクとベルクがわずかに右へ。
後輪もついていく。
ルシルは窓から路肩を見る。
まだ固い部分だ。
「後ろ大丈夫」
距離が縮まる。
相手の御者は五十代ほどの女性だった。
日に焼けた顔で、こちらの車輪と路面を見比べている。
「そっち、それ以上寄るなよ!」
すれ違う前に声が飛んできた。
「右後ろが柔らかい!」
モモの肩がわずかに動く。
ルシルもすぐ右後方を見る。
確かに少し先、草の下の土が黒い。
「今の位置でいい!」
ルシルが声を掛ける。
「はい!」
モモはそれ以上寄せなかった。
向こうの荷馬車も速度をさらに落とす。
二台の馬車がゆっくり近づく。
馬同士が並ぶ。
トルクの耳が対向馬へ向く。
ベルクも少し首を動かしたが、歩調は崩さない。
荷台同士の間には十分な隙間がある。
前輪が通過する。
次に車体。
最後に後輪。
「そのまま!」
女性御者がもう一度言った。
モモは余計な操作をしない。
二台は無事にすれ違った。
完全に通り過ぎたところで、女性御者が片手を上げる。
「上手いぞ、嬢ちゃん!」
モモは一瞬驚いたあと、振り返らずに声だけ返した。
「ありがとうございます!」
相手の馬車はラナ方面へ進んでいく。
モモはしばらくそのままの速度を保ち、路肩が固くなったところでようやく中央へ戻した。
「……できました」
声に少しだけ安堵が混じっていた。
「できたな」
ルシルも息を吐いた。
見ているだけなのに、身体に力が入っていたらしい。
「相手の御者が教えてくれたのも大きかったですね」
シモンは後方を確認してから言った。
「ただ、モモ嬢が急に避けなかったのは良かったです。あそこで驚いて右へ切っていたら、後輪が柔らかい場所へ入った可能性があります」
「声を掛けられた時、少し動かしそうになりました」
モモは正直に答えた。
「でも、ルシル様も今の位置でいいと言ってくれたので」
「俺、後ろ見えてたから」
「助かりました」
御者台からモモが少しだけ振り返りかけ、すぐ前へ戻る。
その頬には嬉しそうな笑みがあった。
ルシルも自分の胸の中に小さな満足感が残っているのを感じた。
運転していたのはモモだ。
シモンが前を判断した。
ルシルは後輪を見た。
三人で一台の馬車を動かした。
それが何となく嬉しかった。
少し先で地面が乾き始めたため、モモは道幅の広い場所へ馬車を寄せた。
「一度見ます?」
自分からの提案だった。
「そうしましょう」
シモンもすぐ同意する。
馬車を停め、三人で右後輪を確認した。
泥が少し跳ねているものの、深く沈んだ形跡はない。
車輪にも異常はない。
「大丈夫そう」
ルシルがしゃがんだまま言う。
モモも隣から覗き込む。
「よかったです」
「馬も見ましょう」
シモンに言われ、二頭の脚も確認する。
トルクもベルクも問題ない。
長く止まる必要はなかった。
それでもモモは御者台へ戻る前、トルクの首を一度撫でた。
「ありがとう」
トルクは鼻先を動かし、彼女の肩へ軽く触れた。
「お菓子はありませんよ」
「馬に人間用の菓子をあげないでくださいね」
「分かっています」
「まだ何も出してないじゃん」
「念のためです」
張っていた空気が少し緩む。
三人は再び馬車へ乗った。
路肩の柔らかい区間は、それから半刻ほどで終わった。
地面の色が明るくなり、草地も乾いている。
モモはそこでようやく普段の速度へ戻した。
「疲れた?」
ルシルが尋ねる。
「少し。でも楽しかったです」
「今のすれ違いが?」
「はい。怖くなかったわけではないですけど、三人で見ていたので」
モモは前を向いたまま答えた。
「一人だったら、たぶんもっと緊張しました」
「俺も一人なら嫌だな」
「僕も一人なら確認できる範囲が減ります」
シモンがさらりと言った。
モモが隣を見る。
「シモン君でも?」
「目は二つしかありませんから」
「魔法があります」
「普通に通れる道で、周囲を確認するためだけに常時魔法を使う必要はないでしょう」
「それもそうですね」
モモは笑った。
何でも魔法で解決できる。
三人なら、本当にそうなのかもしれない。
泥濘があれば土魔法で固めることもできる。
馬車を浮かせることさえ、やろうと思えば不可能ではない。
けれど、今は誰もそうしようとはしなかった。
普通に通れる道を、普通に馬車で進む。
分からなければ相談する。
危なければ止まる。
それだけで十分だった。
太陽が高くなり始める。
道の先には低い丘が連なっていた。
川はもう見えない。
代わりに、遠くの丘の上に一本だけ大きな木が立っている。
「次の休憩、あの辺かな」
ルシルが言う。
「距離がありますよ」
「見えてるから近いと思った」
「旅を始めてから何度目の勘違いですか」
「遠くの山よりは近いだろ」
「それはそうですが」
モモが笑う。
「行ってみましょう。近いか遠いか分かります」
「じゃあ、あそこまで?」
「トルクとベルクの様子次第です」
シモンが条件を付ける。
「分かってる」
それからしばらく進んだ。
一本木はなかなか近づかなかった。
「遠いな」
「言ったでしょう」
「でもさっきより大きくなってる」
「進んでいますからね」
「ルシル様、あの木まで着いたらお昼にします?」
「いいな」
「だから馬の状態次第です」
「分かってるって」
同じ返事をしながら、ルシルは笑った。
街道は丘の間へ入る。
上り坂では自然と速度が落ちた。
モモも急かさない。
トルクとベルクの呼吸を見ながら進む。
丘を一つ越えたところで、一本木がようやくはっきり見えた。
その根元には、小さな石造りの道標が立っている。
さらに、その向こう。
街道が二方向へ分かれていた。
「分かれ道?」
モモが速度を落とす。
シモンも身を乗り出し、道標を見る。
「地図では……」
そこで言葉を止めた。
ルシルも車内から前を見る。
左の道は広い。
車輪跡も多い。
おそらくグレイへ向かう本街道だろう。
右側は少し細く、緩やかに丘の向こうへ伸びている。
道標へ刻まれた文字が読める距離まで近づいた。
『左 グレイ』
そこまでは予想通りだった。
右側には、小さな村の名前らしき文字が刻まれている。
『右 ミレ村』
その下。
比較的新しい木の板が、石の道標へ括り付けられていた。
『旅人へ 井戸使用可』
三人は同時に右の道を見た。
モモが最初に口を開く。
「……井戸、使えるそうです」
「書いてあるな」
「昼にはちょうどいいかもしれません」
ルシルはシモンを見る。
シモンはすぐ答えず、地図を取り出した。
紙を広げ、現在地らしい場所を確認する。
「ミレ村……地図にはあります。小さな農村ですね」
「グレイから外れる?」
「少しだけです。この道が今も地図通りなら、村を抜けた先で別の道から本街道へ戻れます。ただ……」
「ただ?」
「わざわざ寄る必要もありません」
シモンは地図から顔を上げた。
「水は足りています。食料もある。馬にも今すぐ休ませなければならない様子はない。左へ進めば、そのままグレイ方面です」
正しい。
寄らなくても困らない。
だからこそ三人は、すぐには決めなかった。
モモは右手の細い道を見ている。
丘の向こうに村はまだ見えない。
「どんな村でしょう」
「行けば分かる」
ルシルが答える。
「でも行かなくても困らない」
「はい」
モモは笑った。
シモンが二人を見る。
「どうします?」
以前なら、最短の左を選んでいたかもしれない。
今はシモン自身が、どちらにするか二人へ聞いている。
ルシルはトルクとベルクを見る。
二頭の状態は悪くない。
空も晴れている。
時間にも余裕がある。
それでも、右へ行く理由は「気になる」くらいしかなかった。
「昼飯食べながら決めない?」
ルシルが一本木を指した。
「ちょうど木陰あるし」
モモの顔が明るくなる。
「賛成です」
「では、まず休憩ですね」
シモンも地図を畳んだ。
モモは分岐へ入る前の広い場所を選び、馬車をゆっくり停める。
一本木の影が、昼前の日差しを遮っていた。
トルクとベルクを休ませる。
三人も馬車を降りる。
右へ行くか。
左へ行くか。
まだ決めない。
目の前には、まっすぐグレイへ向かう広い道と、丘の向こうにある小さな村へ続く細い道が並んでいる。
ルシルは二本の道を見比べたあと、まず収納から昼食を取り出した。
「腹減った」
「私もです」
「道を決める前に食事ですか」
「腹減ってる時に決めなくてもいいだろ」
シモンは一瞬だけ黙り、それから一本木の影へ腰を下ろした。
「それもそうですね」
モモも隣へ座る。
グレイへ急ぐ理由はない。
ミレ村へ寄らなければならない理由もない。
昼食を食べながら考えればいい。
二本の道は逃げないのだから。
風が一本木の枝を揺らし、その向こうで、右へ続く細い街道の草が静かになびいていた。




