↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/100

第22話 石だらけの野営地を出たら、街道の様子が少し変わりました


 ルシルが目を覚ました時、最初に感じたのは背中の痛みではなく、テントの外から聞こえてくる低い物音だった。


 まだ完全には覚醒していない頭で耳を澄ませると、風が布地を撫でる音に混じって、何か硬いもの同士が触れ合う乾いた響きがする。昨夜から続いていた風が、石原に散らばる薄い石をわずかに動かしているらしい。その向こうでは馬が鼻を鳴らし、さらに遠くから鳥の声も聞こえていた。


「……朝か」


 毛布の中で身体を伸ばしたところで、腰の少し下に硬い感触が当たった。


 昨夜、身体をずらして避けたはずの石だった。


 寝返りを繰り返すうちに元の場所へ戻ってしまったらしい。


「やっぱりいたな……」


「何がいたんですか……?」


 隣から眠そうな声がした。


 モモだった。


 毛布の中から桃金色の髪だけが広がっている。いつも腰まで流れている長い髪は寝起きのせいで少し乱れ、本人はまだ目を開けていなかった。


「石」


「石……?」


「昨日、背中に当たってたやつ」


「まだ戦っていたんですか……」


「戦ってないよ」


 反対側で布が動いた。


 シモンも起きたらしい。眼鏡を掛ける前なので普段より少し幼く見える顔を上げ、二人の方へ視線を向ける。


「朝一番から何の話をしているんですか」


「石」


「聞かなければよかったです」


 シモンは小さく息を吐き、枕元へ置いていた眼鏡を掛けた。


 薄暗かったテントの中には、入口の隙間から青白い朝の光が差し込んでいる。前回の野営より地面が硬かったことを除けば、夜中に大きな問題はなかった。何度か風が強くなったものの、昨日打った杭も紐も緩まず、三人で張ったテントは朝まできちんと形を保っている。


 ルシルは毛布から出ると、昨夜背中へ当たっていた辺りを手で探った。


 敷物の下に、親指の先ほどの膨らみがある。


「これだ」


 端を持ち上げてみれば、薄い灰色の石が一つ転がっていた。


 昨日かなり丁寧に取り除いたつもりだったのに、見落としていたらしい。


 ルシルが摘まみ上げると、ようやく目を開けたモモがそれを眺めた。


「小さいですね」


「小さいのにずっと気になるんだよ」


「持って帰ります?」


「なんでだよ」


「一晩一緒に寝た記念です」


「いらない」


 即答すると、モモがくすくす笑った。


 シモンは毛布を畳みながら二人を見ていたが、やがて諦めたように首を振った。


「外へ戻しておいてください。今度こそ地面と勝負を始めないように」


「分かってるって」


 テントを出ると、朝の冷たい空気が一気に頬へ触れた。


 昨夕は橙色に染まっていた石原が、今は薄い青と灰色に包まれている。東の空はすでに明るくなっているものの、太陽そのものは低い丘の向こうに隠れており、平たい石の表面には薄い朝露が残っていた。


 遠くを流れる川の上には白い靄が漂っている。


 ラナを出た昨日の朝とは、まるで違う景色だった。


「綺麗……」


 後ろから出てきたモモが、眠そうだった目を少し大きくした。


 髪を手で簡単に整えながら、遠くの川を見つめている。


「昨日、こんなのなかったよな」


「気温差でしょうね」


 シモンもテントから出てきた。


「夜の間に冷えた空気と水面の温度差で出ているのでしょう。日が高くなれば消えると思います」


「じゃあ今だけか」


 ルシルはしばらく川を眺めた。


 見に行こうとは思わなかった。


 ここからでも十分に綺麗だったし、何より先に確認するものがある。


 馬車の近くではトルクがすでにこちらを見ていた。


 ベルクも耳を動かしている。


「おはよう」


 ルシルが近づくと、トルクは鼻を鳴らした。


 昨日一日走った疲れが残っていないか、三人で順番に確認する。立ち方に違和感はなく、脚にも目立った腫れはない。ベルクも歩かせてみると普段通りで、シモンが蹄を確認している間も大人しくしていた。


 モモはトルクへ水を用意しながら、その飲み方をじっと見ている。


「昨日より元気そうです」


「昨日の夕方は走った後だったからな」


「食欲もあります」


 飼葉を見たトルクの反応は分かりやすかった。


 ルシルが笑う。


「こいつ、食欲なくなったらすぐ分かりそう」


「それはそれで判断材料になりますが、食べるから絶対に大丈夫というわけではありませんよ」


 ベルクの脚を下ろしたシモンが立ち上がる。


「ただ、今朝は二頭とも問題なさそうです」


「じゃあ今日も走れるな」


「ええ。ただし、昨日走った分があります。ラナを出た直後と同じ感覚で考えないようにしましょう」


「分かってる」


 グレイへ何時までに着く、という約束はない。


 今日中に必ず着かなければならない理由もない。


 昨日と同じように、二頭の状態と道を見ながら進めばいい。


 トルクとベルクへ飼葉を与えていると、少し離れた場所から鍋の蓋が鳴る音が聞こえた。


 昨日から石原に泊まっていた中年の男だった。


 小型の荷馬車の横で簡単な朝食を作っている。こちらへ気づくと、片手を上げた。


「よく眠れたか?」


「一個だけ石がいた!」


 ルシルが答えると、男は一瞬きょとんとしてから大声で笑った。


「石原で石に文句言ってどうすんだ!」


「それはそうなんだけどさ!」


「次はもっと丁寧に拾っとけ!」


 名前も知らない男とのやり取りに、モモが横で笑っている。


 シモンも口元をわずかに緩めていた。


 男はそれ以上こちらへ近づいてこなかった。


 三人も朝食へ誘うことはしない。


 昨夜と同じだ。


 同じ場所へ泊まった旅人同士、必要なら言葉を交わす。しかし互いの時間へ踏み込みすぎない。


 それくらいがちょうどよかった。


「私たちも朝ご飯にしましょうか」


 モモが言った。


「その前に火を使うか決めましょう」


 シモンが空を見る。


 風は昨夜より弱い。


 急ぐ必要もない。


 ルシルは昨日の夕食で使った道具を思い浮かべたが、今朝はそこまでしっかり料理をしたい気分でもなかった。


「パンと何かでよくない?」


「私もそれでいいです。昨日いっぱい食べましたから」


「では簡単にしましょう」


 朝食は硬めのパンにチーズ、干した果実、それから温めなくても食べられる薄切り肉になった。


 火を起こさないぶん準備は早い。


 三人は馬車の近くへ椅子を並べ、朝露の残る石原を眺めながら食べ始めた。


 パンは少し硬い。


 ルシルは噛みながら水を飲む。


「宿の朝飯もいいけど、これはこれで朝って感じするな」


「昨日まで蹄休めで温かいものを食べていましたから、余計にそう感じるのかもしれませんね」


 シモンはパンを小さくちぎりながら答えた。


「でも毎朝これだと、たぶん温かいものが欲しくなります」


 モモが干した果実を摘まむ。


「明日は作ります?」


「明日どこで起きるかによるだろ」


「あ、そうでした」


 モモは少し笑った。


「グレイに着いているかもしれません」


「まだ着いてないかもしれない」


「どちらでも朝ご飯は食べます」


「それは確実だな」


 三人で笑う。


 グレイへ向かっているのに、到着日を厳密には決めていない。


 以前のルシルなら、それを奇妙に感じたかもしれない。


 けれど今は、決めていないことが不安ではなかった。


 朝食を終える頃、川を覆っていた靄が少しずつ薄くなった。


 東の丘から日が差し始め、石の表面に残っていた露が光る。


 先客の男は三人より先に出発するらしい。


 荷物を固定し、馬を繋ぎ始めている。


「もう行くの?」


 ルシルが声を掛けると、男は荷台の紐を引きながら頷いた。


「昼までに荷を渡したい村があるんでな。あんたらはグレイか?」


「そのつもり」


「なら道なりでいい。ただ、少し先で川から離れるところがある。そっちは昨日の雨で路肩が柔らかい場所が残ってるかもしれん。真ん中走ってりゃ問題ないと思うが、対向車が来た時は端へ寄りすぎるなよ」


 ルシルはすぐにシモンを見た。


 シモンも頷いている。


「ありがとう」


「別にいいさ。じゃあな」


「うん。気をつけて」


 男は荷馬車へ乗り込み、ゆっくりと街道へ出ていった。


 昨夜から一度も名前を聞かなかった。


 これからどこへ行くのかも、昼までに立ち寄る村がどこなのかも知らない。


 それでも、昨日は野営場所の低地を教えてもらい、今朝は路肩の情報をもらった。


 男の荷馬車が小さくなっていくまで、ルシルは何となく見送った。


「こういうのもいいな」


「何がですか?」


 モモが尋ねる。


「名前知らないまま、ちょっとだけ同じ場所にいるの」


 言葉にしてから、自分でも少し考える。


「また会ったら分かるかな」


「私は分かると思います」


「俺も顔は覚えてる」


「では、それで十分なのではありませんか」


 シモンは片づけた食器を収納しながら言った。


 ルシルは頷いた。


 それ以上、この出会いに意味をつける必要はない。


 三人も出発準備へ取り掛かった。


 二度目の野営撤収は、最初よりかなり早かった。


 とはいえ、急いだからではない。


 誰が何をすればいいか分かってきたからだ。


 モモが寝具をまとめている間に、ルシルは椅子や食事道具を確認する。シモンはテントの外側と地面の状態を見て、朝露が乾き始めるのを待ちながら紐を緩めていった。


 テントを畳む時も、前回のように最初の折り方で大きくなりすぎることはなかった。


「ここ、もう少し内側ですよね?」


 モモが布の端を持ったまま尋ねる。


「そうです。その線に合わせれば収納袋へ入るはずです」


「ルシル様、そちら引っ張ってください」


「これくらい?」


「もう少しです」


 三人で幅を揃え、折り畳む。


 一度で袋へ収まった。


「入った」


 ルシルは思わず袋を見る。


 ただテントを畳めただけなのに、前回やり直した記憶があるせいか妙に嬉しい。


 モモも同じだったらしく、袋の口を閉じながら満足そうにしている。


「上手くなりました」


「次はもっと早くできそう」


「速さを競う必要はありませんよ」


 シモンが言う。


「分かってる。ちゃんとできた上でだよ」


「それなら構いません」


 テントがなくなると、昨夜まで三人の場所だったところが再びただの石原へ戻った。


 地面に忘れ物がないか確認する。


 焚き火は昨夜のうちに処理済み。


 食べ物も残していない。


 ルシルは昨日拾って元へ戻した大きな石を見つけた。


「もう掘らないぞ」


「石に宣言しなくていいですよ」


 シモンに言われ、モモが吹き出した。


 最後に馬車を確認する。


 昨日の川沿い道を走ったため、車輪や下回りには薄く土埃が付いていた。


 ルシルは右後輪の近くへしゃがみ込み、目で追う。


「ここ、何か付いてる」


 金具の端に細い草が巻きついていた。


 異常ではない。


 手で取れる程度だ。


 それでも見つけたものをそのままにせず、ルシルは取り除いた。


「他は大丈夫そう」


「こちらも問題ありません」


 反対側を確認していたシモンが答える。


 モモは車内を見ていた。


「木馬もいます」


「そっちは点検項目なの?」


「落ちていたら困ります」


「まあ、それはそうだな」


 栗色と灰色の木馬は、革紐に留められたまま棚のそばにいる。


 昨日の道を一日走っても緩みはなかった。


 ルシルは革紐を指で軽く引き、しっかり固定されていることを確かめた。


「大丈夫」


「では、出発できますね」


 馬具を取り付ける。


 トルクとベルクも落ち着いていた。


 ルシルが以前より迷わず留め具を扱っている横で、モモが反対側を確認する。


 最後は三人で互いの側を見直した。


「今日は誰から?」


 ルシルが尋ねる。


「私、やりたいです」


 モモがすぐ手を上げた。


「昨日の朝はルシル様でしたから」


「じゃあモモから」


「はい」


 シモンも異論はない。


「路肩の話だけ覚えておいてください。少し先で川から離れる区間は、昨日の雨が残っている可能性があります」


「端に寄りすぎない、ですね」


「ええ。対向車が来たからといって、無理に避ける必要はありません。向こうも状況を見ます」


 モモは真剣に頷き、御者台へ上がった。


 ルシルとシモンも乗り込む。


「行きます」


 手綱が動く。


 トルクとベルクが歩き始める。


 車輪がゆっくり回り、石原の固い地面を進んだ。


 街道へ戻る直前、ルシルは後ろを振り返った。


 昨夜テントを張っていた場所。


 先客の男がいた場所も、もう空いている。


 平たい石が朝日に照らされているだけだ。


 今度は特に何も言わなかった。


 馬車はそのまま街道へ出た。


 朝の川沿い道は、昨日より交通量が少なかった。


 モモは急がず、二頭が身体を温めるような速度で進ませる。


 出発直後から速くしないことも、もう三人の間では何度も説明する必要がなくなっていた。


 しばらくすると、昨日一度遠ざかった川が再び街道へ近づいた。


 朝靄はほとんど消え、水面が日差しを細かく反射している。


「昨日の鳥、いるでしょうか」


 モモが御者台から川を見る。


「前見ながらな」


 後ろからルシルが言う。


「見ています」


「水鳥は僕が探しますから、モモ嬢は道を見てください」


 隣に座るシモンが言うと、モモは少しだけ頬を膨らませた。


「昨日より上手になっています」


「上手になったことと、横を見ながら運転していいことは別です」


「分かっています」


 それでも機嫌を悪くしたわけではない。


 少しすると、シモンが川の方へ顔を向けた。


「いますよ」


「どこですか?」


「右手の少し前です。白いのが二羽」


「見たいです」


「道も見てください」


「だから見ています」


 ルシルも窓から探した。


 水面の端に白い鳥が二羽浮かんでいる。


 昨日見たものより首が短く、身体が丸い。


「昨日のと違うな」


「種類が違うのでしょうね」


「シモン、名前は?」


「知りません」


「三つ目」


 モモが嬉しそうに言った。


「まだ数えていたのですか」


「水鳥、石、今日の水鳥です」


「二つ目と三つ目が大雑把すぎませんか」


 ルシルは笑った。


「グレイに本屋あったら鳥の本探す?」


「買うのですか?」


「シモンが欲しいなら」


「なぜ僕が欲しい前提なのです」


「昨日ちょっと気になってただろ」


「……あれば見る程度です」


 否定しきらないところが面白かった。


「じゃあ覚えとこう」


「グレイでやること、また増えましたね」


 モモが言う。


「川魚もある」


「魔物情報の確認も忘れないでください」


「それはシモンが忘れないだろ」


「だからといって僕だけの用事ではありません」


「分かってるって」


 ラナにいた時も、気づけばやりたいことが増えていった。


 グレイでも同じかもしれない。


 けれど、まだ着いてもいない町の予定を全部決める必要はなかった。


 道は少しずつ川から離れていった。


 最初は水面が木々の間から見えていたが、やがて完全に隠れる。


 周囲の地面も変わった。


 石原周辺に多かった平たい石が減り、赤茶色の土が目立つようになる。


 道の左右には背の高い草が生え、その葉先に昨日の雨の名残らしい水滴が残っていた。


「ここからかな」


 ルシルが前を見る。


 先客の男が言っていた、路肩が柔らかい区間。


 見た目だけでも分かった。


 街道中央は多くの車輪に踏み固められているが、端へ近づくほど色が濃い。


 場所によっては車輪の跡が深く沈んでいる。


「モモ嬢、中央寄りで構いません」


「はい」


 モモは速度を少し落とした。


 路面そのものは走れる。


 ただ、昨日までの乾いた街道とは違う。


 車輪が土を踏む音も少し鈍かった。


 トルクとベルクの蹄が地面へ入るたび、湿った土が小さく跳ねる。


 ルシルは窓から後輪の位置を確認した。


「まだ大丈夫」


「無理に身を乗り出さないでくださいよ」


「分かってる」


 しばらくは対向車もなかった。


 モモは中央を維持しながら進む。


 前方に大きな水溜まりが見えた時には、早めに少し左へ進路を変えた。


 左側の路肩は比較的固そうだ。


「そっちなら大丈夫そうです」


 シモンが確認する。


 トルクとベルクが水溜まりを避ける。


 前輪。


 後輪。


 どちらも深い場所を踏まない。


「通れました」


 モモの声が明るくなる。


「うん。後ろも大丈夫」


「次もありますね」


 喜ぶ間もなく、シモンが先を見る。


 道の状態は一か所だけではなかった。


 小さな泥濘。


 浅い轍。


 水の流れた跡。


 どれも馬車が通れないほどではない。


 だからこそ、注意を続ける必要があった。


 モモは一つずつ見て進んだ。


 速く走るより、どこへ車輪を通すかを考える。


 ラナへ向かう前、初めて泥を踏んだ時よりも判断が早い。


 ルシルは後ろから見ながら、自分ならどう通すかも考えていた。


 その時だった。


「前から来ます」


 シモンの声が少し変わった。


 ルシルも前を見る。


 街道の先に荷馬車が一台現れた。


 二頭立て。


 荷台には大きな木箱が積まれている。


 普通なら問題なくすれ違える道幅だ。


 しかし今いる区間は、左右の路肩が柔らかい。


 相手もそれを分かっているらしく、速度を落とした。


 モモもすぐトルクとベルクを緩める。


「どうします?」


「まず止まらず、このままゆっくり。向こうの位置を見ましょう」


 シモンは対向車を観察している。


 相手の御者もこちらを見ていた。


 荷馬車は少しだけ自分たちから見て左、つまり向こうの右側へ寄る。


 ただし完全に路肩までは行かない。


「向こうも中央を残したいみたいです」


「ええ。こちらも少し右へ。ただし端まで寄せないでください」


「はい」


 モモが手綱を調整する。


 トルクとベルクがわずかに右へ。


 後輪もついていく。


 ルシルは窓から路肩を見る。


 まだ固い部分だ。


「後ろ大丈夫」


 距離が縮まる。


 相手の御者は五十代ほどの女性だった。


 日に焼けた顔で、こちらの車輪と路面を見比べている。


「そっち、それ以上寄るなよ!」


 すれ違う前に声が飛んできた。


「右後ろが柔らかい!」


 モモの肩がわずかに動く。


 ルシルもすぐ右後方を見る。


 確かに少し先、草の下の土が黒い。


「今の位置でいい!」


 ルシルが声を掛ける。


「はい!」


 モモはそれ以上寄せなかった。


 向こうの荷馬車も速度をさらに落とす。


 二台の馬車がゆっくり近づく。


 馬同士が並ぶ。


 トルクの耳が対向馬へ向く。


 ベルクも少し首を動かしたが、歩調は崩さない。


 荷台同士の間には十分な隙間がある。


 前輪が通過する。


 次に車体。


 最後に後輪。


「そのまま!」


 女性御者がもう一度言った。


 モモは余計な操作をしない。


 二台は無事にすれ違った。


 完全に通り過ぎたところで、女性御者が片手を上げる。


「上手いぞ、嬢ちゃん!」


 モモは一瞬驚いたあと、振り返らずに声だけ返した。


「ありがとうございます!」


 相手の馬車はラナ方面へ進んでいく。


 モモはしばらくそのままの速度を保ち、路肩が固くなったところでようやく中央へ戻した。


「……できました」


 声に少しだけ安堵が混じっていた。


「できたな」


 ルシルも息を吐いた。


 見ているだけなのに、身体に力が入っていたらしい。


「相手の御者が教えてくれたのも大きかったですね」


 シモンは後方を確認してから言った。


「ただ、モモ嬢が急に避けなかったのは良かったです。あそこで驚いて右へ切っていたら、後輪が柔らかい場所へ入った可能性があります」


「声を掛けられた時、少し動かしそうになりました」


 モモは正直に答えた。


「でも、ルシル様も今の位置でいいと言ってくれたので」


「俺、後ろ見えてたから」


「助かりました」


 御者台からモモが少しだけ振り返りかけ、すぐ前へ戻る。


 その頬には嬉しそうな笑みがあった。


 ルシルも自分の胸の中に小さな満足感が残っているのを感じた。


 運転していたのはモモだ。


 シモンが前を判断した。


 ルシルは後輪を見た。


 三人で一台の馬車を動かした。


 それが何となく嬉しかった。


 少し先で地面が乾き始めたため、モモは道幅の広い場所へ馬車を寄せた。


「一度見ます?」


 自分からの提案だった。


「そうしましょう」


 シモンもすぐ同意する。


 馬車を停め、三人で右後輪を確認した。


 泥が少し跳ねているものの、深く沈んだ形跡はない。


 車輪にも異常はない。


「大丈夫そう」


 ルシルがしゃがんだまま言う。


 モモも隣から覗き込む。


「よかったです」


「馬も見ましょう」


 シモンに言われ、二頭の脚も確認する。


 トルクもベルクも問題ない。


 長く止まる必要はなかった。


 それでもモモは御者台へ戻る前、トルクの首を一度撫でた。


「ありがとう」


 トルクは鼻先を動かし、彼女の肩へ軽く触れた。


「お菓子はありませんよ」


「馬に人間用の菓子をあげないでくださいね」


「分かっています」


「まだ何も出してないじゃん」


「念のためです」


 張っていた空気が少し緩む。


 三人は再び馬車へ乗った。


 路肩の柔らかい区間は、それから半刻ほどで終わった。


 地面の色が明るくなり、草地も乾いている。


 モモはそこでようやく普段の速度へ戻した。


「疲れた?」


 ルシルが尋ねる。


「少し。でも楽しかったです」


「今のすれ違いが?」


「はい。怖くなかったわけではないですけど、三人で見ていたので」


 モモは前を向いたまま答えた。


「一人だったら、たぶんもっと緊張しました」


「俺も一人なら嫌だな」


「僕も一人なら確認できる範囲が減ります」


 シモンがさらりと言った。


 モモが隣を見る。


「シモン君でも?」


「目は二つしかありませんから」


「魔法があります」


「普通に通れる道で、周囲を確認するためだけに常時魔法を使う必要はないでしょう」


「それもそうですね」


 モモは笑った。


 何でも魔法で解決できる。


 三人なら、本当にそうなのかもしれない。


 泥濘があれば土魔法で固めることもできる。


 馬車を浮かせることさえ、やろうと思えば不可能ではない。


 けれど、今は誰もそうしようとはしなかった。


 普通に通れる道を、普通に馬車で進む。


 分からなければ相談する。


 危なければ止まる。


 それだけで十分だった。


 太陽が高くなり始める。


 道の先には低い丘が連なっていた。


 川はもう見えない。


 代わりに、遠くの丘の上に一本だけ大きな木が立っている。


「次の休憩、あの辺かな」


 ルシルが言う。


「距離がありますよ」


「見えてるから近いと思った」


「旅を始めてから何度目の勘違いですか」


「遠くの山よりは近いだろ」


「それはそうですが」


 モモが笑う。


「行ってみましょう。近いか遠いか分かります」


「じゃあ、あそこまで?」


「トルクとベルクの様子次第です」


 シモンが条件を付ける。


「分かってる」


 それからしばらく進んだ。


 一本木はなかなか近づかなかった。


「遠いな」


「言ったでしょう」


「でもさっきより大きくなってる」


「進んでいますからね」


「ルシル様、あの木まで着いたらお昼にします?」


「いいな」


「だから馬の状態次第です」


「分かってるって」


 同じ返事をしながら、ルシルは笑った。


 街道は丘の間へ入る。


 上り坂では自然と速度が落ちた。


 モモも急かさない。


 トルクとベルクの呼吸を見ながら進む。


 丘を一つ越えたところで、一本木がようやくはっきり見えた。


 その根元には、小さな石造りの道標が立っている。


 さらに、その向こう。


 街道が二方向へ分かれていた。


「分かれ道?」


 モモが速度を落とす。


 シモンも身を乗り出し、道標を見る。


「地図では……」


 そこで言葉を止めた。


 ルシルも車内から前を見る。


 左の道は広い。


 車輪跡も多い。


 おそらくグレイへ向かう本街道だろう。


 右側は少し細く、緩やかに丘の向こうへ伸びている。


 道標へ刻まれた文字が読める距離まで近づいた。


『左 グレイ』


 そこまでは予想通りだった。


 右側には、小さな村の名前らしき文字が刻まれている。


『右 ミレ村』


 その下。


 比較的新しい木の板が、石の道標へ括り付けられていた。


『旅人へ 井戸使用可』


 三人は同時に右の道を見た。


 モモが最初に口を開く。


「……井戸、使えるそうです」


「書いてあるな」


「昼にはちょうどいいかもしれません」


 ルシルはシモンを見る。


 シモンはすぐ答えず、地図を取り出した。


 紙を広げ、現在地らしい場所を確認する。


「ミレ村……地図にはあります。小さな農村ですね」


「グレイから外れる?」


「少しだけです。この道が今も地図通りなら、村を抜けた先で別の道から本街道へ戻れます。ただ……」


「ただ?」


「わざわざ寄る必要もありません」


 シモンは地図から顔を上げた。


「水は足りています。食料もある。馬にも今すぐ休ませなければならない様子はない。左へ進めば、そのままグレイ方面です」


 正しい。


 寄らなくても困らない。


 だからこそ三人は、すぐには決めなかった。


 モモは右手の細い道を見ている。


 丘の向こうに村はまだ見えない。


「どんな村でしょう」


「行けば分かる」


 ルシルが答える。


「でも行かなくても困らない」


「はい」


 モモは笑った。


 シモンが二人を見る。


「どうします?」


 以前なら、最短の左を選んでいたかもしれない。


 今はシモン自身が、どちらにするか二人へ聞いている。


 ルシルはトルクとベルクを見る。


 二頭の状態は悪くない。


 空も晴れている。


 時間にも余裕がある。


 それでも、右へ行く理由は「気になる」くらいしかなかった。


「昼飯食べながら決めない?」


 ルシルが一本木を指した。


「ちょうど木陰あるし」


 モモの顔が明るくなる。


「賛成です」


「では、まず休憩ですね」


 シモンも地図を畳んだ。


 モモは分岐へ入る前の広い場所を選び、馬車をゆっくり停める。


 一本木の影が、昼前の日差しを遮っていた。


 トルクとベルクを休ませる。


 三人も馬車を降りる。


 右へ行くか。


 左へ行くか。


 まだ決めない。


 目の前には、まっすぐグレイへ向かう広い道と、丘の向こうにある小さな村へ続く細い道が並んでいる。


 ルシルは二本の道を見比べたあと、まず収納から昼食を取り出した。


「腹減った」


「私もです」


「道を決める前に食事ですか」


「腹減ってる時に決めなくてもいいだろ」


 シモンは一瞬だけ黙り、それから一本木の影へ腰を下ろした。


「それもそうですね」


 モモも隣へ座る。


 グレイへ急ぐ理由はない。


 ミレ村へ寄らなければならない理由もない。


 昼食を食べながら考えればいい。


 二本の道は逃げないのだから。


 風が一本木の枝を揺らし、その向こうで、右へ続く細い街道の草が静かになびいていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。