第23話 寄り道する理由なんて、気になるだけで十分でした
一本木の下へ腰を下ろしても、二本の道は変わらず目の前に伸びていた。
左へ進めばグレイ。幅が広く、何台もの荷馬車に踏み固められた街道には、乾き始めた車輪跡が何本も重なっている。対して右へ分かれる道は二頭立ての馬車でも十分通れそうではあるものの、明らかに交通量が少なく、丘の向こうへ続く先はここからでは見えなかった。
その二本の道を眺めながら、ルシルは薄焼きパンへ燻製肉を載せた。
昨日の昼に具を欲張って食べにくくしたので、今日は控えめだ。
肉を二枚。
葉野菜。
チーズも少し。
折り畳んでも、端から何も飛び出さない。
「どう?」
誰にともなく見せると、隣に座っていたモモが覗き込んだ。
「昨日より綺麗です」
「だろ?」
「でも、少なくありませんか?」
「昨日入れすぎたから」
「食べながら足せばいいでしょう」
シモンは水筒を置きながら言った。
言われてみればその通りだった。
ルシルは一口食べ、それから燻製肉を一枚追加した。
「これでいい」
「最初から普通に挟めばよかったのでは?」
「自分で加減したかったんだよ」
シモンはそれ以上追及せず、自分の昼食へ戻った。
一本木の枝が風に揺れ、三人の上で影の形をゆっくり変えている。街道を吹き抜けてきた風には昼の日差しの温かさが混じっていたが、木陰へ入れば過ごしやすい。
トルクとベルクも馬車のそばで休んでいる。
出発してからここまでの状態に問題はない。
朝に石原を出て、湿った路肩の区間を越え、途中で対向する荷馬車とも無事にすれ違った。まだ一日の半分にも届いていないが、御者を務めたモモには少し緊張する場面もあった。
だから今は、道を選ぶ前に休む。
それでよかった。
「ミレ村」
モモが干した果実を一つ口へ運んだあと、右側の道標を見た。
「どれくらいなんでしょう」
「距離ですか?」
「はい。地図では分かります?」
シモンは食事中に地図を広げようとはせず、記憶を辿るように少し考えた。
「この分岐からなら、それほど遠くはないはずです。ただ、地図の縮尺では正確な時間までは分かりません。道の状態にもよります」
「一刻もかからない?」
「おそらく。ただし保証はしません」
「じゃあ行ってみたい」
モモの答えは早かった。
けれど、すぐに「行きましょう」とは続けない。
ルシルを見る。
「ルシル様は?」
「俺も気になる」
「シモン君は?」
二人から視線を向けられたシモンは、パンを食べ終えてから水を一口飲んだ。
「寄ること自体には反対しません。ただし、村へ行ったからといって何かしなければならないわけではありませんよ」
「分かってる」
「井戸だけ使って帰ることもある?」
モモが尋ねる。
「井戸を使う必要があれば、ですが。今は水がありますから、無理に使う必要もありません」
「じゃあ、本当に見るだけになるかもな」
「それでもいいんじゃないですか?」
モモは道標へ結ばれた木札を見ながら笑った。
「どんな村か気になります」
ルシルも同じだった。
何か珍しい名物があると聞いたわけではない。
絶景があるとも、強い魔物がいるとも、美味しい料理が有名だとも聞いていない。
ただ道があった。
村の名前が書かれていた。
旅人へ井戸を使っていいと知らせる小さな板が掛かっていた。
それだけだ。
「じゃあ、ミレ村寄ってみよう」
ルシルが言う。
モモは嬉しそうに頷いた。
シモンも止めなかった。
「村を抜けた先から本街道へ戻れる道が今も使えるかどうかだけ、着いたら確認しましょう。使えないようなら、この分岐まで戻ればいい」
「それくらいなら全然いいな」
「来た道を戻るのも旅です」
モモが言った。
ルシルは彼女を見る。
「それ、前に誰かに聞いたみたいな言い方だな」
「いろんな人に似たようなことを教えてもらいましたから」
旅人の泉で出会った老夫婦のことを思い出したのかもしれない。
モモはそれ以上説明せず、残っていた果実を食べた。
昼食を終えても、三人はすぐには立たなかった。
トルクとベルクの休憩時間を取るためだ。
ルシルは一本木の幹へ背を預け、枝の間から空を見上げた。白い雲が一つだけゆっくり流れ、その形が葉の隙間から見えたり消えたりしている。
少し離れたところでは、モモがトルクのそばへ行っていた。
何かを食べさせているわけではない。
首筋を撫で、耳の動きを見ている。
シモンはベルクの近くで脚を確認したあと、馬車の日陰へ腰を下ろした。
地図はまだ開かない。
ルシルはその様子を見てから、目を閉じた。
眠るつもりはなかった。
風の音を聞いているだけでも気持ちがいい。
街道を一台の荷馬車が通った。
車輪音が近づき、分岐をそのまま左へ進んでいく。
御者は三人をちらりと見たが、特に声を掛けなかった。
その音が遠ざかる。
また静かになる。
「……今寝てました?」
近くからモモの声がした。
ルシルは目を開けた。
「寝てない」
「本当ですか?」
「本当。何分?」
「まだ少ししか経ってません」
「じゃあ寝てない」
「時間は関係ないと思います」
モモは笑いながら、一本木の根元へ戻ってきた。
「トルクさん、落ち着いています」
「ベルクも問題ありません」
シモンも立ち上がる。
「そろそろ行きましょうか」
「うん」
三人は昼食の道具を片づけた。
食べ残しはない。
地面にも何も落とさない。
馬車へ戻り、馬具の状態を確認する。
今度はルシルが御者台へ上がった。
「俺?」
「モモ嬢が朝から運転していましたから」
「じゃあミレ村まで俺だな」
「村までの距離次第ですよ。疲れたら途中でも交代してください」
「分かってる」
シモンが隣へ座り、モモは車内へ入った。
ルシルは一度だけ左の広い道を見る。
グレイはこちら。
目的地もこちら。
それから右を見る。
ミレ村。
「行くか」
手綱を動かす。
トルクとベルクが歩き出した。
馬車は本街道を外れ、細い道へ入っていった。
最初のうちは、思っていたより走りやすかった。
道幅は本街道ほど広くないものの、二頭立ての馬車が通るには十分ある。路面にも大きな穴はなく、村の人間が日常的に荷車を使っているのだろう。
ただし、景色はすぐに変わった。
街道の左右にあった背の高い草が減り、低い石垣が現れる。
その向こうには畑が広がっていた。
「何育ててるんだろ」
ルシルは前を見ながら言った。
畑には膝ほどの高さの緑が並んでいる。
葉が細く、風が吹くたび一斉に同じ方向へ傾いた。
「麦ではなさそうですね」
シモンも見る。
「豆?」
「僕には断定できません」
後ろからモモが顔を覗かせた。
「今日も増えましたね」
「何が?」
「シモン君が知らないものです」
「まだ続けていたのですか」
「はい」
「畑の作物まで数えるつもりですか?」
「何個目でしたっけ」
「もう覚えてない」
ルシルが答えると、モモは少し残念そうにした。
「途中から数えていませんでした」
「それでいいんです」
シモンの声には安堵が混じっていた。
畑の間を抜ける道は、緩やかに上っていく。
丘の頂上へ近づいたところで、前方から小さな荷車が現れた。
馬ではない。
茶色い毛の小型のロバが一頭、二輪の荷車を引いている。
荷台には空の木籠がいくつも積まれ、その横を十歳ほどの少年が歩いていた。
少年はルシルたちの馬車を見ると、少し驚いたように立ち止まった。
トルクとベルクの方が、ロバよりずっと大きい。
道はすれ違える幅がある。
ルシルは早めに速度を落とした。
「こんにちは」
近づいたところで声を掛ける。
少年は一度トルクを見上げ、それからルシルを見た。
「こんにちは」
「ミレ村って、この先で合ってる?」
「うん。丘越えたら見えるよ」
「ありがとう」
「旅の人?」
「そう」
少年の目が少し輝いた。
「グレイ行くの?」
「その途中。ちょっと村見てみようと思って」
「何もないよ?」
あまりにも迷いのない返事だったので、ルシルは笑ってしまった。
「何もないの?」
「畑と家と井戸」
少年は指を折るように数えた。
「あと粉挽き小屋」
「結構あるじゃん」
「それはどこの村にもあるだろ」
言われてみれば、少年にとってはそうなのだろう。
モモも後ろで笑っている。
「井戸は旅人も使っていいんですか?」
車内からモモが尋ねると、少年は彼女の姿に気づき、少しだけ目を丸くした。
「いいよ。真ん中の大きいやつ。家の横のは勝手に使っちゃ駄目だけど」
「分かりました。ありがとうございます」
「でも水あるなら、別に使わなくてもいいと思う」
「そうですね」
モモは素直に頷いた。
「村からグレイの道へ戻れる?」
ルシルが尋ねる。
「戻れるよ。村の西から行けば街道に出る。でも荷馬車なら、北の畑の方へ行っちゃ駄目」
「なんで?」
「道細いから。父ちゃんの荷車でもギリギリ」
少年はルシルたちの馬車を改めて見上げる。
「それ絶対無理」
「じゃあ西だな」
「うん。井戸のところまで行けば板あるよ」
「助かった」
少年は少し誇らしそうに胸を張った。
道を教えたことが嬉しいらしい。
ルシルはさらに何か聞こうとしたが、少年の荷車を見る。
空の籠。
これからどこかへ行く途中なのだろう。
「引き止めてごめん。ありがとうな」
「うん」
少年はロバの手綱を引いた。
すれ違う時、ロバがベルクを少し警戒したように耳を動かした。
ベルクも相手を見たが、シモンが隣から落ち着いた声を掛けると、そのまま歩調を保った。
完全にすれ違ったところで、後ろから少年の声がした。
「村の井戸の横に赤い屋根あるから、そこまで行けば分かるよ!」
「ありがとう!」
ルシルも声を返した。
振り返りはしない。
前には上り坂が続いている。
「親切な子でしたね」
モモが言った。
「うん。でも何もないって言われた」
「本人には普通すぎるのでしょう」
シモンが答える。
「毎日見ている畑も井戸も、あの少年には観光するようなものではありませんから」
「俺たちには初めてだけどな」
「そうですね」
丘の頂上へ近づくにつれて、トルクとベルクの歩調が少し落ちた。
ルシルは急かさない。
先ほどまでの本街道より傾斜がある。
荷物そのものは収納魔法のおかげで少ないが、馬車自体が重いことに変わりはない。
「ゆっくりでいいぞ」
声を掛ける。
トルクの耳が動いた。
ベルクも一定の歩調を保っている。
ルシルは手綱から伝わる感触を確かめながら、道の端を見た。
石垣の向こうには畑が続く。
ところどころで人が作業をしている。
鍬を持つ男性。
籠を抱える女性。
しゃがんで草を抜いている老人。
馬車の音に気づくと、何人かが顔を上げた。
知らない馬車だからだろう。
警戒というほどではない。
ただ珍しそうに見ている。
ルシルが軽く頭を下げると、一人の老人も帽子を上げて返した。
それだけのやり取りだった。
丘を上りきった瞬間、視界が開けた。
「あった」
ルシルが思わず声を漏らした。
丘の下に、小さな村が見えた。
大きな町ではない。
石と木で作られた家が二十数軒ほど集まり、その周囲を畑が囲んでいる。中心には少し広い空間があり、少年が言っていた通り、その近くに赤い屋根の建物が一つ見えた。
村のさらに向こうには、低い丘が続いている。
煙突から細い煙が何本か上がっていた。
風に乗って、微かに何かを焼く匂いが届く。
「何もなくないじゃん」
ルシルが言う。
「村があります」
モモの声が弾んでいる。
「それを本人は『何もない』と言っていたのでしょう」
シモンも村を眺めた。
華やかな建物はない。
大きな店の看板もない。
冒険者ギルドらしい施設も見当たらない。
宿場町ラナとはまるで違う。
道を行き交う馬車も少なく、人の姿も畑の方が多い。
「降りるぞ」
ルシルはトルクとベルクへ声を掛け、下り坂へ入った。
上りより慎重になる。
馬車の重さが後ろから押してくるため、速度を出さない。
シモンも路面を見ている。
「この辺りは乾いています。大きな轍もありません」
「うん」
「右側に石があります」
「見えてる」
ルシルは少し左へ寄せた。
前輪が避ける。
後輪も通る。
坂を半分ほど下りたところで、モモが後ろから言った。
「ルシル様」
「どうした?」
「いい匂いがします」
「俺も思ってた」
「パンでしょうか」
「パンかな」
「昼食を食べたばかりですよ」
シモンが言う。
「食べるとは言ってない」
「匂いの話です」
「モモ嬢が匂いの話を始めると、食べ物に到達する可能性が高いので」
「失礼です」
「違いますか?」
モモは少し黙った。
「……まだ分かりません」
「否定しないんだ」
ルシルが笑う。
坂を下りきる頃には、匂いが少し強くなっていた。
パンというより、穀物を焼いた香りに近い。
甘くはない。
香ばしい。
村の入口に門はなかった。
低い石壁の間を道がそのまま通り、最初の家の前には木製の農具が立て掛けられている。
ルシルは馬車の速度をさらに落とした。
子供が二人、道端で遊んでいる。
犬もいる。
鶏が柵の中を歩いている。
町の街道とは違い、馬車が通ることを前提に人が道から離れているわけではない。
「ゆっくり行きます」
「その方がいいですね」
シモンが頷く。
車輪の音に気づいた子供たちがこちらを見る。
一人が犬を抱えるように道端へ寄せた。
ルシルは十分に距離を取って通る。
「こんにちは!」
子供が先に声を掛けてきた。
「こんにちは」
モモが後ろから返す。
もう一人の子供も手を振った。
モモも窓から小さく手を振る。
犬だけは知らない馬に警戒しているのか、低く一度吠えた。
トルクはほとんど気にしない。
ベルクの耳が動いたが、暴れる様子もない。
村の中へ進むにつれて、住民の視線が集まった。
洗濯物を干していた女性。
家の前で籠を直していた老人。
畑から戻ってきた男性。
誰も騒ぎはしないが、見慣れない二頭立ての馬車は目立つらしい。
ルシルは少しだけ姿勢を正した。
「なんか見られてる」
「小さな村ですから、知らない旅人が来れば珍しいのでしょう」
「変なことしてないよな?」
「今のところは」
「今のところって何だよ」
シモンは答えなかった。
モモの笑い声だけが後ろから聞こえた。
村の中心へ近づくと、少年が言っていた赤い屋根がはっきり見えた。
屋根の下には大きな石臼がある。
粉挽き小屋らしい。
香ばしい匂いはそこから漂っていた。
建物の前では、白い粉の付いた前掛けをした女性が大きな平籠を運んでいる。
その隣に広場。
中央には石造りの大きな井戸。
「ここだな」
ルシルは井戸から少し離れた、馬車を邪魔にならず停められそうな場所を探した。
広場の端に二台分ほどの轍がある。
旅人や村人の荷車が停める場所なのかもしれない。
「そこならよさそうです」
シモンが示す。
ルシルはゆっくり馬車を寄せた。
前輪。
後輪。
建物との距離。
人が通れる幅。
全部を確認して停める。
「着いた」
ルシルが息を吐く。
グレイではない。
朝の時点では、来る予定すらなかった村だ。
モモが車内から降りる。
最初に大きく伸びをしてから、周囲を見回した。
「静かですね」
ラナの広場とは音の数が違う。
商人の呼び声はない。
何台もの馬車が連続して走る音もない。
代わりに、石臼が回る低い音がする。
鶏の声。
遠くで鍬が土へ入る音。
家の中から聞こえる話し声。
それから、風が畑を撫でる音。
ルシルも御者台から降りた。
「井戸、使う?」
「せっかくですから大量に汲む、という必要はありませんよ」
シモンも降りる。
「トルクとベルクへ少し水を与えるなら、村の人に一言聞いてから使いましょう。木札に使用可とありましたが、今の水量もありますから」
「誰に聞く?」
その疑問はすぐ解決した。
「旅の方かい?」
粉挽き小屋の方から声がした。
白い粉の付いた前掛けの女性だった。
四十代くらいだろうか。
日に焼けた腕で平籠を抱え、こちらへ歩いてくる。
「はい。グレイへ行く途中です」
ルシルが答える。
「道標にミレ村ってあったから、寄ってみた」
「そりゃまた、珍しい理由だね」
女性は笑った。
「大抵は水が足りないか、道を間違えた人が来るんだけど」
「間違えてはいないです」
モモが言う。
「たぶん」
「たぶん?」
「グレイへは村の西から戻れると聞きました」
「ああ、それなら合ってるよ」
女性は広場の向こうを指した。
「西の道を真っ直ぐ。小さな橋を一つ渡って、次の分かれ道を左へ行けば本街道へ戻る。右へ行くと北の畑だから、大きい馬車じゃ行かない方がいい」
「さっき会った子にも言われた」
「ロバの荷車の子かい?」
「うん。空の籠いっぱい積んでた」
「じゃあトーマだね。市場帰りの籠を隣村へ返しに行ったところだよ」
少年の名前を初めて知った。
しかしルシルは、それを特別なことのようには感じなかった。
旅の途中で名前を知らないまま別れる人もいれば、後から名前だけ知る人もいる。
「井戸は使っていい?」
「ああ。旅人用にしてるから好きに使いな。ただ、馬にやるならそこの桶を使っておくれ。人が飲む桶と分けてるから」
「ありがとう」
「水は足りていますけど、二頭に少し飲ませてもいいですか?」
モモが尋ねる。
「もちろん。立派な馬だねえ」
女性はトルクとベルクを見た。
「兄弟かい?」
三人が一瞬顔を見合わせた。
「分かるの?」
ルシルが驚く。
「似てるってほどじゃないけど、動きがね。片方が気にしたものを、もう片方もすぐ見るだろ」
ちょうどトルクが粉挽き小屋の方へ鼻先を向け、ベルクも少し遅れて同じ方向を見た。
女性は笑う。
「ほら」
「本当だ」
毎日一緒にいるのに、そんな見方をしたことはなかった。
モモは二頭を交互に見ている。
「トルクさんがお兄さんです」
「やっぱりそっちか。落ち着き方が少し違う」
「七歳と六歳です」
「いい年頃だ。大事にしてやりな」
「はい」
モモの返事は柔らかかった。
三人は井戸の水を借りることにした。
必要以上に汲まず、まず備え付けの馬用桶へ水を入れる。
ルシルが井戸の滑車を使おうとすると、思っていたより桶が重かった。
「うわ、結構くるな」
「水が入っていますからね」
「それは分かってる」
両手で縄を扱う。
王城にいた頃なら、井戸から自分で水を汲むことなどなかった。
けれど今は、その事実をわざわざ思い出して感慨に浸ることも減っていた。
単純に、重い。
だから落とさないように引く。
「ルシル様、代わります?」
「大丈夫。これくらいならできる」
桶が上がる。
井戸の縁へ置き、馬用の桶へ移す。
少しこぼれた。
「あ」
「足元濡れますよ」
モモが一歩避ける。
「ごめん」
「次は私やります」
「やりたいの?」
「はい」
「じゃあ交代」
モモは嬉しそうに縄を持った。
シモンは止めない。
ただ滑車と縄の状態を一度確認してから、少し離れて見ている。
モモが桶を下ろす。
水面へ落ちる音が井戸の底から響いた。
「深いですね」
「手を滑らせないように」
「はい」
引き上げ始める。
最初は軽そうだった表情が、途中で少し変わった。
「……重いです」
「水だからな」
「それ、さっきシモン君に言われていましたよ」
「じゃあ分かってたじゃん」
「分かっていても重いものは重いです」
モモは笑いながら引き上げた。
魔法を使えば一瞬だろう。
水魔法を使える彼女なら、井戸そのものが必要ないかもしれない。
それでも縄を引く。
ようやく桶が上がった時、近くで見ていた村の子供が二人、なぜか拍手した。
モモが驚いてそちらを見る。
「上手!」
小さな女の子が言う。
「最初なの?」
「はい。こういう井戸は初めてです」
「じゃあ上手!」
「ありがとうございます」
モモは本気で嬉しそうだった。
その隣で、少し年上の男の子が首を傾げる。
「でも旅の人なのに井戸初めてなの?」
「旅を始めたばかりなんです」
「へえ」
子供は納得したような、していないような顔をした。
粉挽き小屋の女性が笑っている。
「そのうち嫌でも上手くなるよ。水はどこでも必要だからね」
「頑張ります」
モモは桶の水を移した。
今度はほとんどこぼさなかった。
「俺より上手いじゃん」
「見ていましたから」
「一回見ただけだろ」
「一回で十分でした」
「こういうところだけ覚えるの早いよな」
モモは得意そうに笑った。
トルクとベルクへ水を与えた後、三人も自分たちの水筒へ少量だけ補充した。
元から足りているので、全部を入れ替える必要はない。
冷たい井戸水を一口飲む。
「冷たっ」
ルシルは思わず声を漏らした。
石原で朝飲んだ水よりずっと冷たい。
地下深くから汲み上げたためだろう。
モモも飲み、目を細めた。
「美味しいです」
「水の味分かる?」
「冷たいと美味しく感じます」
「それは分かる」
シモンも一口飲んだ。
「特に異臭もありませんし、綺麗ですね」
「シモン君は感想が固いです」
「飲み水ですから確認は必要でしょう」
「その後に美味しいって言えばいいのに」
モモに言われ、シモンは水筒を見る。
もう一口飲む。
「……美味しいですよ」
それで満足したのか、モモは笑った。
井戸の周囲には、いつの間にか数人の村人がいた。
わざわざ三人を見物しに集まったわけではない。
水を汲みに来た女性。
空の桶を持つ老人。
子供たち。
ただ、見慣れない旅人が井戸を使っているので、少し気にしている。
ルシルたちは邪魔にならないよう桶を戻した。
「ありがとう。助かった」
粉挽き小屋の女性へ礼を言う。
「いいよ。あの板はそのために出してるんだから」
「どうして旅人に井戸を使わせてくれるんですか?」
モモが尋ねた。
女性は少し意外そうに彼女を見る。
「どうしてって……昔からだよ」
「昔から?」
「この辺はグレイとラナを行き来する人が時々通るからね。今の本街道が広くなる前は、こっちを使う荷車ももっと多かったらしいよ。水くらい分けたって減りゃしない」
井戸を軽く叩く。
「もちろん雨が少ない年は別だけど。今年は大丈夫だ」
「だから道標にも書いてあったんですね」
「あれは何年か前に村の若いのが付けたんだよ。水を探して村の周りをぐるぐるしてた旅人がいたらしくてね」
ルシルは分岐にあった小さな板を思い出した。
『旅人へ 井戸使用可』
たったそれだけ。
けれど、その板がなければ三人は村へ来なかったかもしれない。
「付けた人にありがとうって言いたいな」
「本人は今、畑だよ」
「じゃあ邪魔しない方がいいか」
「伝えておくよ」
女性は笑った。
「変わった旅人だね、あんたたち」
「よく言われる」
「ルシル様、それは認めるんですね」
シモンが小さく言う。
「だって言われるし」
その時、粉挽き小屋の方から香ばしい匂いが一段と強くなった。
モモの顔がそちらへ向く。
ほとんど反射だった。
女性が気づく。
「気になるかい?」
「……はい」
「売り物?」
ルシルも尋ねる。
「売り物ってほどじゃないよ。粉を挽きに来た人向けに焼いてる薄焼きだ。今日は余りが出そうだから、欲しけりゃ分けるけど」
モモがシモンを見た。
すぐには「買います」と言わない。
シモンもすぐ却下しない。
「どんなものですか?」
代わりに尋ねる。
「麦粉に豆粉を混ぜて、水と塩で練って石板で焼くだけ。甘くないよ」
女性はモモを見て、なぜか最後の一言を付け加えた。
モモが瞬きをする。
「私、甘いものを探している顔をしていました?」
「してたね」
近くの老人が笑った。
子供たちも笑う。
モモは少し頬を赤くした。
「甘くなくても食べてみたいです」
「昼食を食べたばかりですよ」
シモンが言う。
「今すぐ全部食べなくてもいいでしょう?」
「保存できますか?」
女性が答える。
「今日中なら問題ないよ。明日の朝まで取っとくなら、ちょっと硬くなるね」
ルシルも匂いを嗅ぐ。
香ばしい。
さっき昼食を食べたばかりなのに、一枚くらいなら食べられそうだった。
「三人で一枚だけ買って分ける?」
モモが提案した。
ルシルは少し驚いた。
「一枚でいいの?」
「味を知りたいだけですから」
シモンも彼女を見る。
モモはその視線に気づき、少し眉を寄せた。
「何ですか?」
「いえ。では一枚いただきましょうか」
「毎度あり」
女性は粉挽き小屋へ戻り、少しして焼きたての丸い薄焼きを一枚持ってきた。
表面には焦げ目が点々と付き、まだ湯気が出ている。
値段はごくわずかな銅貨だった。
共有資金からシモンが支払う。
「熱いから気をつけな」
「ありがとう」
三人は井戸のそばを離れ、馬車の近くへ戻った。
薄焼きを三つにちぎる。
完全に同じ大きさではない。
「モモ、どれ?」
ルシルが尋ねる。
「一番小さいので」
「いいの?」
「昼食を食べましたから」
「じゃあ俺これ」
「僕は残りで」
三人で口へ運ぶ。
外側は少し硬い。
中はもっちりしている。
麦だけのパンとは違い、豆粉の香りが後から広がった。
塩味も薄い。
「素朴だな」
「でも美味しいです」
モモはゆっくり噛んでいる。
「肉を挟んでも合いそう」
「煮込みにも合うでしょうね」
シモンも食べながら粉挽き小屋を見る。
「この辺りで採れた麦と豆なのでしょうか」
ルシルが笑った。
「気になってるじゃん」
「食材の産地くらいは気になりますよ」
「聞いてみる?」
「わざわざ戻ってまで聞かなくても――」
「この辺のだよ!」
少し離れた粉挽き小屋から女性の声が飛んできた。
聞こえていたらしい。
三人がそちらを見る。
「麦は村の南! 豆は東の畑だ!」
「ありがとう!」
ルシルが返す。
周囲にいた村人たちが笑った。
シモンは眼鏡の位置を直しながら、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「聞こえていましたね」
「聞こえてたな」
「シモン君、知れてよかったですね」
「ええ、まあ」
薄焼きを食べ終わる。
一枚を三人で分けただけなので、腹が重くなることもない。
モモは指先についた粉を払いながら、粉挽き小屋をもう一度見た。
「甘くないものもいいですね」
「そりゃそうだろ」
「私だって甘いものしか食べないわけではありません」
「知ってるよ」
ルシルは何気なく答えた。
モモが一瞬こちらを見る。
それから小さく笑った。
「はい」
村へ寄った目的らしい目的は、もう済んでいた。
井戸を借りた。
道も聞いた。
ついでに薄焼きも食べた。
それなら、そろそろグレイへ向かってもいい。
ルシルがそう考えた時、広場の向こうから甲高い声が聞こえた。
「待って! そっち行っちゃ駄目!」
子供の声だった。
三人が同時に顔を向ける。
鶏が一羽、柵の隙間から飛び出していた。
白と茶色のまだら模様。
その後ろを、先ほど井戸のところにいた小さな女の子が追いかけている。
鶏は当然、言うことを聞かない。
広場を横切り、井戸の周りを回り、こちらの馬車の方へ走ってきた。
「こっち来る」
ルシルは立ち上がった。
「捕まえます?」
モモも腰を上げる。
「魔法は使わないでくださいね」
シモンが先に釘を刺した。
「使いませんよ」
「なんで俺じゃなくてモモだけに言ったの?」
「アクアニードルで鶏を捕まえられたら困るからです」
「使いません!」
モモが珍しく強めに否定した。
鶏はそんな三人の事情など知らず、馬車の下へ潜り込んだ。
「あっ!」
追ってきた女の子が立ち止まる。
息を切らし、泣きそうな顔で馬車の下を見る。
「ミミが……」
「ミミってこの鶏?」
「うん……」
ルシルもしゃがんだ。
馬車の下。
反対側近くに鶏がいる。
こちらを警戒し、首を忙しなく動かしていた。
「俺、反対から行く?」
「追い込むとトルクたちの方へ逃げるかもしれません」
シモンもしゃがみ、位置を見る。
トルクとベルクは少し離れたところにいるが、鶏が急に足元へ来れば驚く可能性がある。
「じゃあどうする?」
モモは女の子へ目線を合わせるようにしゃがんだ。
「ミミちゃん、いつもどうやって戻します?」
「お母さんが餌持つと来る……」
「餌はありますか?」
女の子は柵の方を見る。
「ある!」
すぐに走っていった。
ルシルは馬車の下を覗いたまま待つ。
「捕まえた方が早くない?」
「早さだけならそうでしょうね」
シモンは鶏を刺激しないよう声を落としている。
「でも、普段戻す方法があるならそれを試した方が安全です」
「なるほど」
しばらくすると女の子が戻ってきた。
小さな器に穀物を入れている。
「ミミ!」
しゃがんで器を揺らす。
さらさらと乾いた音がした。
馬車の下にいた鶏の首が動く。
「ミミ、おいで」
女の子は今度は追わない。
その場で待つ。
鶏が一歩動く。
止まる。
また一歩。
ルシルたち三人も動かなかった。
やがて鶏は馬車の下から出てきた。
女の子の方へ近づく。
穀物を一粒啄む。
女の子はすぐ掴もうとせず、少しずつ柵の方へ下がった。
「上手ですね」
モモが小声で言う。
「毎日やってるのかな」
ルシルも囁く。
ミミは完全に餌へ釣られている。
そのまま女の子について柵の方へ戻っていった。
柵の中へ入った瞬間、近くにいた女性が入口を閉める。
「もう、また出たの!」
どうやら女の子の母親らしい。
「ごめんなさい」
「あなたじゃなくてミミよ。板、また浮いてた?」
「うん」
女性は柵の下を確認し、溜息をついた。
そこには少しだけ隙間がある。
「昨日直したのに……」
ルシルは近づきかけて、足を止めた。
自分が直せるとは限らない。
ラナへ来る途中の壊れた馬車でも、経験のある持ち主へ任せた。
ここでも同じだ。
「手伝えることある?」
直す、と言わずに尋ねる。
女性は柵とルシルを見比べた。
「じゃあ、そこの板を押さえてもらえる? 釘を打ち直すから」
「分かった」
それならできる。
ルシルが板を押さえる。
女性は家の脇から金槌と釘を持ってきた。
シモンは柵の状態を見たが、口を出さない。
モモは女の子と一緒にミミが再び逃げないよう見ている。
「もう少し上」
「ここ?」
「そうそう。そのまま」
女性が釘を打つ。
乾いた音が広場へ響いた。
一か所。
二か所。
板のぐらつきがなくなる。
「ありがとう。助かったよ」
「俺、押さえてただけだけど」
「一人で押さえながら打つより楽だもの」
女性は笑った。
ルシルは板から手を離し、軽く押してみる。
今度は動かない。
女の子も確認するようにしゃがんだ。
「ミミ、もう出られない?」
「たぶんね。でもあんたもちゃんと見てなさい」
「はーい」
返事だけは元気だった。
モモが柵の中の鶏を見る。
「ミミちゃん、逃げるの上手ですね」
「褒めちゃ駄目ですよ」
シモンが言う。
「そういう意味ではありません」
女の子が笑う。
母親も笑った。
何か大きなことをしたわけではない。
逃げた鶏が戻るのを待ち、板を押さえただけ。
それでもルシルは、妙に楽しかった。
「旅の人、ありがとう!」
女の子が言う。
「どういたしまして」
ルシルが答えると、モモも手を振った。
三人は今度こそ馬車へ戻った。
村へ入ってから、それなりに時間が経っている。
日差しも少し西へ傾き始めていた。
「そろそろ行きましょう」
シモンが空を確認する。
「今から本街道へ戻れば、まだ十分進めます。ただし、今日中にグレイへ着くことは前提にしない方がいいでしょう」
「うん」
「どこかで野営ですか?」
モモが尋ねる。
「可能性はあります。西へ出てから道の状況を見ましょう」
「じゃあ、次の泊まる場所もまだ決まってないな」
「そうですね」
ルシルは少し笑った。
「それでいいや」
馬具を確認する。
トルクとベルクも休めた。
水も飲んだ。
今度はシモンが御者台へ座ることになった。
「村の中はゆっくりな」
「言われなくても分かっています」
「子供と犬と鶏がいるから」
「特に鶏ですね」
モモが言う。
「ミミちゃんがもう一度逃げてきたら大変です」
「さっき柵直しただろ」
「別の場所から出るかもしれません」
「そこまで心配しなくていいですよ」
シモンが手綱を持つ。
馬車がゆっくり動き始めた。
粉挽き小屋の前を通る。
女性がこちらへ気づき、平籠を持ったまま手を上げた。
「もう行くのかい?」
「うん。ありがとう!」
「西へ真っ直ぐだよ! 橋渡って左!」
「分かった!」
「また通ったら寄りな!」
ルシルは一瞬だけ目を丸くした。
それから笑う。
「うん!」
モモも窓から手を振る。
「ごちそうさまでした!」
「今度は甘いのも焼いとくよ!」
「本当ですか!?」
「モモ嬢、馬車から身を乗り出さないでください」
「はい!」
村人たちの笑い声が聞こえた。
井戸のそばにいた子供も手を振っている。
柵の中では、ミミが何事もなかったように穀物を啄んでいた。
馬車は村の西へ向かう。
来た時とは違う道だ。
家が少しずつ減り、再び畑が増える。
「何もない村だったな」
ルシルが言った。
モモが振り返る。
「何もなかったですか?」
「うん。たぶん、あの子が言ってた意味なら」
大きな店はなかった。
観光地もなかった。
冒険者ギルドもない。
珍しい魔物もいない。
けれど、冷たい井戸水があった。
麦と豆の薄焼きがあった。
ミミという逃げ足の速い鶏がいた。
畑があり、粉挽き小屋があり、そこで暮らす人たちがいた。
「寄ってよかった」
ルシルが続ける。
「はい」
モモの返事は短かったが、満足そうだった。
シモンは御者台から何も言わなかった。
ただ、馬車の速度は急いで本街道へ戻ろうとするものではなかった。
村を出てしばらくすると、少年が教えてくれた小さな橋が現れた。
幅は馬車一台分ほど。
下を流れているのは川ではなく、畑へ水を引くための細い水路だった。
シモンは手前で速度を落とす。
「欄干が低いので、中央を通ります」
「後ろ見る」
ルシルは窓から車輪の位置を確認した。
モモも反対側を見る。
「こちら大丈夫です」
「こっちも」
馬車が橋へ乗る。
木の板が車輪の下で低く鳴った。
一歩ずつ。
トルクとベルクも落ち着いて渡る。
橋を越えた先に分岐があった。
右は畑へ。
左は少し広い道へ。
小さな木札に『街道』と書かれている。
「左ですね」
シモンが馬車を曲げる。
ミレ村が少しずつ後ろへ遠ざかる。
ルシルは振り返らなかった。
また来ると約束したわけでもない。
けれど、あの分岐を通ることがあれば、きっと思い出す。
道はしばらく畑の間を進んだ。
やがて低い林へ入り、木漏れ日の中を抜けていく。
村の音はもう聞こえない。
代わりに鳥と虫の声が増えた。
「本街道までどれくらい?」
ルシルが尋ねる。
「それほど遠くないはずです」
「今度は当たる?」
「地図通りなら」
「じゃあ見てみよう」
しばらく進む。
道は緩やかに下っていった。
木々の間から、前方に広い空間が見え始める。
さらに車輪音。
一台ではない。
複数の荷馬車が走る音だった。
「街道だ」
林を抜ける。
目の前を左右に、広い道が横切っていた。
朝に走っていた本街道と同じ程度の幅がある。
右手遠くには荷馬車が二台。
左からも一台近づいている。
道標には、右方向へ大きく『グレイ』と刻まれていた。
「戻れた」
モモが嬉しそうに言う。
「迷ってはいませんでしたけどね」
シモンは交差地点の手前で馬車を止め、左右の交通を確認した。
「でも、違う道を通って同じ道に戻ってくるのって、ちょっと面白いです」
「分かる」
ルシルはミレ村へ続く林道を一度見た。
分岐で右へ曲がらなければ、知らないまま通り過ぎていた場所だ。
それで困ることはなかった。
グレイへはもっと早く近づけた。
それでも今日は、あの道を選んだ。
「右からは来ていません。左の荷馬車が通ってから入ります」
シモンの声で、ルシルは前へ意識を戻した。
一台の荷馬車が目の前を通過する。
御者がこちらへ軽く手を上げた。
シモンも返す。
道が空く。
「行きます」
トルクとベルクが歩き始めた。
焦げ茶色の馬車が再びグレイへ続く本街道へ入る。
太陽はすでに午後の位置にあった。
今日はまだ進める。
けれど、どこまで行くかは決めていない。
グレイが今日なのか、明日なのかもまだ分からない。
それでも一つだけ、朝にはなかったものが増えていた。
「豆の薄焼き、また食べたいな」
ルシルが呟く。
「今度はお肉を挟んでみたいです」
モモもすぐ続けた。
「二人とも、村を出たばかりですよ」
「また通ったらだよ」
「次は甘いのも焼いてくれるそうです」
「それ、モモだけの目的じゃん」
「ルシル様も食べるでしょう?」
「食べる」
「でしょう?」
シモンが小さく息を吐いた。
けれど、その声は困り果てたものではない。
午後の風が馬車の窓から入り、棚に固定された二頭の木馬をわずかに揺らす。
ラナで増えたもの。
石原で覚えたこと。
そして今日、予定になかったミレ村で知った味と人々。
馬車はそれらを一つずつ乗せたまま、西へ進んでいく。
グレイへの距離は、寄り道をした分だけ少ししか縮まなかった。
けれど三人の誰も、それを惜しいとは思っていなかった。




