第24話 今夜の寝床を探すだけでも、馬車旅では立派な仕事でした
ミレ村から続く細い道を抜け、本街道へ戻ってからしばらくの間、三人の馬車は午後の日差しの中をゆっくりと西へ進んでいた。
午前中に通った湿った区間とは違い、この辺りの路面はよく乾いている。左右には低い草原と畑が交互に現れ、ときおり遠くに農家らしい屋根が見えたが、ミレ村を離れてからまとまった集落は一つもなかった。
御者台ではシモンが手綱を握っている。
トルクとベルクの歩調は安定していた。
急な上り坂もなく、深い轍もない。走りやすい道ではあるものの、シモンは速度を上げようとはせず、二頭の呼吸と耳の動きを時折確認しながら一定の速さを保っていた。
ルシルは車内の窓から流れていく景色を眺めていた。
ミレ村で食べた麦と豆の薄焼きの味が、まだ何となく口に残っている気がする。
「シモン」
「何ですか?」
「グレイ、今日着くと思う?」
前を向いたまま、シモンは少し考えた。
「可能性だけならあります」
「微妙な言い方だな」
「正確な現在地と残り距離を測っているわけではありませんから。ミレ村へ寄った時間もありますし、夕方まで無理に走らせるつもりもありません」
「じゃあ、着かなかったらまた野営ですね」
モモが向かい側の席から口を挟んだ。
膝の上には、ミレ村を出る前に少し乱れた白い外套が置かれている。縁についた小さな草の種を指先で一つずつ取りながら話していた。
「そうなるでしょうね」
「三回目です」
「まだ決まってないけどな」
「でも、ちょっとやりたいです」
ルシルは思わずモモを見る。
「野営を?」
「はい」
モモは最後の草の種を取り、窓の外へ捨てたりせず、掌へ集めた。
「最初は全部初めてで忙しかったですし、昨日は石がいっぱいありました。今日はどんな場所になるのかなって」
「野営地に種類を求め始めたの?」
「毎回同じ場所じゃないでしょう?」
「それはそうだけど」
モモは小さく笑ってから、集めた草の種を紙片に包んだ。
後で外へ出た時に捨てるつもりらしい。
「それに、昨日は朝ご飯を簡単にしたので、今度は朝に温かいものを作りたいです」
「そっちが本命?」
「それもあります」
「正直だな」
ルシルは笑った。
初めての野営では、テントを張るだけでも三人とも手間取った。
地面の傾きを確認し、馬車を停める場所を選び、トルクとベルクを休ませ、テントを張り、火を起こし、食事を作る。宿へ入れば誰かが用意してくれていたことを、全部自分たちでしなければならなかった。
それが面白かった。
二度目の石原では、最初より手際がよくなった。
それでも地面に石が多く、寝る場所を整えるだけで思った以上に時間を使った。
三度目があるなら、今度はどんな場所になるのか。
モモが楽しみにする気持ちは、ルシルにも分かった。
「俺も野営でもいいな」
「到着できる距離なのに、野営するためだけに途中で止まる必要はありませんよ」
シモンが釘を刺した。
「分かってるって。グレイに普通に着けるなら行くよ」
「それならいいです」
「シモン君は宿と野営、どちらがいいですか?」
モモの問いに、シモンはすぐには答えなかった。
トルクとベルクの前方に小さな窪みがあるのを見つけたらしく、少しだけ進路をずらす。前輪が窪みを避け、後輪も大きく揺れることなく通過したところで、ようやく口を開いた。
「今夜に限れば、どちらでも」
「どちらでも?」
「宿なら馬をしっかり休ませられますし、僕たちも楽です。野営なら、今のうちに慣れておく意味はあります。山へ近づけば、宿のある場所だけで一日を区切れるとは限りませんから」
「じゃあ、どっちでもいいんですね」
「ええ。条件が悪くなければ」
モモが何かを思いついたように笑った。
「前なら、宿を選んでいませんでした?」
シモンの横顔がわずかに動いた。
「安全性と効率だけを考えれば、今でも宿の方が優先される場面は多いですよ」
「そうじゃなくて」
「分かっています」
シモンはそれだけ答えた。
モモも追及しない。
ルシルも何も言わなかった。
言葉にして確かめなくても、今の返事だけで十分だった。
道は緩やかに右へ曲がり、その先で少しだけ下っていた。
遠くに、細長く光るものが見える。
「川?」
ルシルが身を乗り出しかける。
「座ったまま見てください」
「分かってる」
身体を戻し、窓から覗く。
確かに水だった。
ラナを出てから沿ってきた大きな川ではない。そこから分かれた支流なのか、幅はずっと狭く、街道としばらく並んで流れている。
水面の近くには背の高い葦が生え、その間を小さな鳥が飛び交っていた。
「また鳥います」
モモも窓の外を見る。
「今度はシモンに聞かない方がいいぞ」
「なぜ僕が知らない前提なんですか」
「じゃあ、あれ何?」
ルシルが水辺を歩いている茶色い小鳥を指した。
シモンは一瞬だけそちらを見る。
「……分かりません」
「ほら」
「僕は鳥類学者ではありません」
「グレイで本を探さないといけませんね」
モモが楽しそうに言う。
「探すことは否定していませんが、僕のためだけのように扱わないでください」
「俺も見たいよ」
「私もです」
「なら三人のためでしょう」
「じゃあ決まり」
「まだ本屋があるかも確認していません」
そんな会話をしているうちに、支流が街道へ近づいた。
水は澄んでいる。
流れは穏やかだ。
河原には丸い石が多く、昨日泊まった石原とは違って、ところどころに柔らかそうな草地も見えた。
「ここで野営できそう」
ルシルが言う。
「まだ早いです」
シモンが即座に答えた。
「分かってるよ。場所の話」
「それなら、候補にはなり得ます。ただし水辺は増水と虫、それから地面の状態を見ないと判断できません」
「昨日より見るもの増えてない?」
「昨日も見ています」
「俺が気づいてなかっただけ?」
「そうですね」
シモンの返答が早かった。
「そこは少し迷ってくれてもいいだろ」
モモが笑う。
馬車は水辺を離れ、再び乾いた街道へ戻っていった。
午後の日差しは少しずつ傾き始めている。
まだ夕方には早い。
それでも朝から走ってきたトルクとベルクには、そろそろ一度しっかり休ませる時間が必要だった。
「次に停められそうな場所があったら休憩しましょう」
シモンが言う。
「俺もそう思ってた」
「本当ですか?」
「本当だって」
「ルシル様、さっきから野営地ばかり探していましたよ」
モモまで加わる。
「それと馬の休憩は別だろ」
「それなら結構です」
「二人して疑うなよ」
文句を言いながらも、ルシルは窓の外を見る。
以前なら、景色ばかり見ていた。
今も景色は見る。
けれど同時に、馬車を停められそうな広さや、地面の傾き、木陰があるかどうかにも目が向くようになった。
旅を始めてから覚えたことが、少しずつ目に入る景色そのものを変えている。
それが面白かった。
やがて街道の左側に、大きな楡のような木が数本まとまって生えている場所が見えた。
その手前には街道から少し外れる踏み跡があり、荷馬車が何度も入ったらしく地面が固くなっている。
「左、停められそう」
ルシルが先に気づいた。
「見えています」
シモンは速度を落とした。
入口には道標も柵もない。
ただ、木の下に古い焚き火跡があり、丸太を半分に割っただけの簡素な腰掛けが二つ置かれている。
「旅人の休憩場所かな」
「その可能性が高そうです」
シモンは周囲を確認しながら馬車を入れた。
他に旅人はいない。
地面はほぼ平ら。
街道から完全に隠れる場所でもない。
馬車を木陰へ寄せ、二頭を止める。
「休憩です」
「はーい」
モモが先に降りた。
ルシルも続く。
長く座っていた身体を伸ばすと、腰と肩が小さく鳴った。
「うわ」
「大丈夫ですか?」
「痛くはない。固まってただけ」
「少し歩いた方がいいですね」
シモンも御者台から降りる。
長時間手綱を握っていたせいか、両手を軽く開いたり閉じたりしていた。
「シモンも疲れてるじゃん」
「疲れないとは言っていません」
「交代すればよかったのに」
「この休憩までなら問題ないと判断しました」
「次は俺やるよ」
「状態を見てからお願いします」
「はいはい」
三人はまずトルクとベルクを休ませた。
馬具をすべて外すほどの長い休憩ではないが、締め付けや擦れがないか確認する。水を少量ずつ与え、呼吸が落ち着くのを待った。
トルクは水を飲み終えると、すぐに周囲の草へ興味を示した。
「食べることばっかりだな、お前」
ルシルが首筋を撫でる。
トルクは気にした様子もなく鼻を鳴らした。
ベルクは木陰へ入ると、ほっとしたように首を少し下げた。
シモンが額のあたりを撫でる。
「朝からよく走りましたね」
声は穏やかだった。
ベルクは逃げない。
しばらくその手を受け入れていた。
モモは二頭を見てから、近くの丸太へ座った。
「私も水飲みます」
「俺も」
収納から水筒を出し、三人も休む。
木陰には涼しい風が通っていた。
枝の上では虫が鳴き、時々葉が擦れる。
街道を走る荷馬車の音が聞こえても、ここまでは土埃がほとんど届かない。
「いい場所だな」
ルシルは丸太へ座りながら周囲を見た。
「昨日ここまで来てたら、石と寝なくて済んだのに」
「昨日ここまで来ようとしたら、かなり遅くなっていたと思いますよ」
「じゃあ石でよかった」
「切り替えが早いですね」
「昨日は昨日で面白かったし」
モモが頷く。
「石を見つけるのも上手になりました」
「その技術、今後使う?」
「野営するなら使います」
「確かに」
シモンは二人の会話を聞きながら水を飲んでいたが、やがて木々の間から西の空を見た。
太陽の位置を確かめているらしい。
「ここで泊まるには早すぎますね」
「うん」
ルシルも異論はなかった。
居心地はいい。
だが、まだ十分に進める。
「あとどれくらい走る?」
「まずこの休憩を終えてから一刻半ほどを目安にしましょう。その時点でグレイまでの距離が分かるものがあれば確認します。夕方になっても到着の見込みが薄いなら、早めに野営地を探す方がいいでしょう」
「暗くなってから探すのは嫌です」
モモが言った。
「私も手伝いますけど、明るい方が地面も見えますから」
「その通りです」
「じゃあ今日は、泊まる場所探しも三人でやろう」
ルシルが言う。
「今までも三人でやっていましたよ」
「そうじゃなくて、走りながら候補を見つけるところから」
シモンが少しだけ考えた。
「いいでしょう。ただし、御者は道を最優先にしてください」
「分かってる」
「私、後ろから探します」
「では僕も交代後は反対側を見ます」
決まった。
それだけなのに、ルシルは少し楽しみになった。
宿を選ぶ時は、建物を見て決める。
野営では、まだ何もない場所を自分たちの寝床にする。
平らか。
安全か。
馬が休めるか。
水はあるか。
雨が降ったらどうなるか。
見るものは多い。
初めての野営ではシモンに教えられることの方が多かった。
今日は、自分でも見つけてみたい。
休憩を終える頃には、トルクとベルクの呼吸も完全に落ち着いていた。
脚にも問題はない。
ルシルが御者を交代する。
「お願いします」
シモンから手綱を受け取る。
「さっきの道は走りやすかったですが、この先も同じとは限りません。景色より路面を見てください」
「野営地探すって言ったのシモンだろ」
「モモ嬢と僕も見ます」
「俺も見るよ」
「まず道を」
「分かったって」
御者台へ座る。
トルクとベルクへ声を掛け、ゆっくり出発した。
街道へ戻る時には左右を確認する。
遠くに一台見えるが、十分な距離がある。
馬車は再び西へ向かった。
休憩後の二頭は足取りが軽かった。
だからといって、ルシルは速度を上げない。
手綱を握りながら、道の先を見る。
時折、左右も確認する。
木陰。
平らな空き地。
水場。
けれど「停められそう」と「泊まれそう」は違った。
ある場所は平らだが、街道に近すぎる。
別の場所は広いが、地面に水が溜まった跡がある。
木々に囲まれた小さな空き地もあったが、入口が狭く、今の馬車では入る時に枝へ車体を擦りそうだった。
「意外とないな」
「まだ探し始めたばかりです」
車内からシモンが答える。
「さっきの休憩場所、かなり良かったんだな」
「休憩場所としては、ですね。泊まるとなればまた確認項目が増えます」
「焚き火跡あったし、泊まってる人もいそうだったけど」
「ええ。候補にはなったでしょう」
「戻る?」
「今すぐ戻る理由はありません」
「だよな」
ルシルは前を見る。
道が少し上っている。
その先は見えない。
「あの丘越えたら何かあるかな」
「毎回、丘の向こうに何かを期待しますね」
モモが笑う。
「見えないから気になるんだよ」
「分かります」
「モモも?」
「はい。海も最初はそうでした」
ルシルは一瞬だけ彼女を見そうになり、すぐ前へ視線を戻した。
「まだ海はもっと先だけどな」
「だから楽しみなんです」
モモの声は明るい。
急かす響きはない。
ルシルは小さく笑った。
坂へ入る。
トルクとベルクの速度が自然に落ちた。
ルシルも合わせる。
馬車の重さを二頭へ無理に背負わせないよう、一定の歩調で上る。
途中で後方から別の馬車が近づいてきた。
車輪音で気づく。
「後ろ、一台来ています」
シモンが確認する。
「速い?」
「こちらよりは」
「広いところで先行かせる」
坂の途中で無理に寄せる必要はない。
ルシルはそのまま上りきる。
丘の上は道幅が少し広くなっていた。
右側に固い地面の張り出しがある。
「ここなら?」
「大丈夫です」
ルシルは速度を落とし、十分な幅を残して寄せた。
後ろの馬車が近づく。
一頭立ての軽い荷車だった。
御者の若い男性が片手を上げる。
「悪いな!」
「どうぞ!」
荷車が横を抜けていく。
荷台には空の樽が何個も積まれていた。
通過したあと、ルシルはゆっくり街道中央へ戻る。
「今の、ちゃんとできたよな」
「できています」
「前より慌てなくなりましたね」
モモにも言われ、ルシルは少し嬉しくなる。
「もう初心者卒業?」
「まだです」
シモンの答えは即座だった。
「早いな!」
「今の一回で卒業できるなら、御者は誰でも一日で熟練者になります」
「じゃあ初心者の上の方」
「勝手に段階を作らないでください」
「でも上手になっていますよ」
モモが助け舟を出した。
「ほら」
「上達していることは否定していません」
「じゃあいいや」
丘の頂上を越えた。
その先に広がっていたのは、緩やかな下りと遠くまで続く草地だった。
グレイらしい町影は、まだ見えない。
代わりに、かなり遠くの街道脇へ小さなものが立っている。
「道標かな」
「そう見えますね」
「あそこまで行こう」
「馬の様子を見ながらです」
「分かってる」
下り坂を慎重に進む。
平地へ出てからは、再び一定の速度へ戻した。
道標らしきものは少しずつ大きくなる。
途中で一度、トルクが耳を頻繁に動かした。
ルシルは気づいて速度を落とす。
「どうした?」
前方を見る。
草むらから小さな獣が一匹飛び出した。
灰色の毛。
長い耳。
「兎だ」
道を横切り、反対側の草むらへ消える。
トルクは少し首を動かしたが、追おうとはしなかった。
ベルクも落ち着いている。
「びっくりした?」
ルシルが声を掛ける。
トルクが鼻を鳴らす。
「最初の頃なら、ルシル様の方がもっと驚いていましたね」
モモが後ろから言う。
「今も嬉しいけど、前見てたから」
「普通の兎であれだけ喜んでいた人が」
「だって最初だったし」
「今のもかわいかったです」
「だろ?」
「二人とも、兎一匹で盛り上がれるのは結構ですが、御者は前を」
「見てる!」
今度は言われる前から見ていた。
少しして道標へ着いた。
ルシルは速度を落とす。
石柱には簡単な文字が刻まれている。
『グレイ 西』
その下に距離を示す数字。
シモンが窓から確認した。
「この距離なら、今から普通に進んでも日没前の到着は難しいですね」
「じゃあ野営?」
「その方がいいでしょう。無理に速度を上げる必要はありません」
「三回目ですね」
モモの声が少し弾む。
「嬉しそうだな」
「だって、朝ご飯を作れます」
「もう朝の話?」
「夕食も作りますよ」
「そっちは?」
「もちろん楽しみです」
シモンが車内から顔を出す。
「では、ここからは本格的に場所を探しましょう。日が落ちるまで余裕はありますが、条件のいい場所があれば早めに決めます」
「了解」
ルシルは御者台から西の空を見る。
太陽はまだ山際から離れている。
しかし、光は昼より明らかに柔らかくなっていた。
今日の目的地は、グレイではなくなった。
今夜を安全に過ごせる場所。
それを三人で探す。
道標を過ぎてから、ルシルは今まで以上に周囲へ注意を向けた。
最初に見つけたのは、左側の広い草地だった。
「ここは?」
「少し低いです」
シモンが答える。
「奥の草の色も濃いですね。雨が降ると水が集まるかもしれません」
「じゃあ駄目か」
「今日は雨の予報はありませんが、わざわざ低い場所を選ぶ必要はないでしょう」
通過する。
次は右側。
数本の木と、平らそうな地面。
「こっちは?」
モモが先に見つけた。
ルシルも速度を落とす。
入口は広い。
だが、近づくと木の根が地表へ大きく出ている。
「テント張りにくそう」
「馬車を停める場所も限られますね」
これも通過。
さらに進む。
今度は街道から少し離れたところに、浅い窪地がある。
中央に水が残っていた。
「なしだな」
「判断が早くなりましたね」
「昨日の石より寝づらそうだし」
「基準がそこなんですか?」
「水の中では寝られないだろ」
「それはそうですが」
モモが笑う。
野営地を探すこと自体が、少し遊びのようになっていた。
もちろん安全は真面目に見る。
けれど緊張し続けているわけではない。
三人で「あそこはどう」「これは駄目」と話しながら進む時間が楽しい。
四つ目の候補は、ルシルが見落とした。
「左奥、少し開けています」
モモが気づいた。
「どこ?」
「あの白い花の向こうです」
言われて見る。
街道から二十歩ほど離れたところに、低い白花がまとまって咲いている。その奥に木々が途切れた場所があり、平らな草地が広がっているように見えた。
「入口ある?」
「少し先です」
シモンが見つけた。
街道から斜めに入る古い車輪跡がある。
草に半分覆われているが、馬車一台なら通れそうだった。
「見に行ってみる?」
「入口で一度止めましょう」
ルシルは馬車をゆっくり寄せた。
完全には入らず、街道から外れたところで停止する。
三人で降りる。
「俺、見てくる」
「三人で行きましょう。馬から離れすぎない範囲で」
シモンが言う。
トルクとベルクを馬車に繋いだまま、まず徒歩で草地へ入った。
白い花は足首ほどの高さしかない。
踏まないよう端を回る。
奥へ進むと、想像していたより広かった。
馬車を一台停め、テントを張っても十分余裕がある。
地面もほぼ平らだ。
「いいんじゃない?」
ルシルは足元を踏んだ。
柔らかすぎない。
石も少ない。
「まだ決めないでください」
シモンは周囲を見回している。
「水の流れた跡は……目立ちませんね。少なくとも最近ここが冠水した形跡はなさそうです」
少し離れたところには緩い斜面があり、雨水はそちらへ流れそうだった。
モモは草の間を見ている。
「大きな足跡はないです」
「僕も見ます」
三人で地面を確認する。
小さな動物の痕跡はいくつかあった。
鳥。
兎らしいもの。
それ以外に、大型の獣が頻繁に通っている様子はない。
シモンは周囲へ意識を向けた。
派手な魔法を放つわけではない。
近辺に大きな魔力反応や危険な気配がないか、簡単に探る。
「今のところ問題はなさそうです」
「水は?」
ルシルが尋ねる。
「それが一つ気になりますね」
見える範囲に川や泉はない。
手持ちの水は十分ある。
ミレ村でも少し補充した。
だから一晩過ごすだけなら困らない。
「水場なくても大丈夫?」
「今夜と明朝だけなら足ります。馬用も含めて余裕があります。ただし、ここで大量に使う料理は避けた方がいいでしょう」
「じゃあ煮込みは?」
モモが尋ねる。
「作れないほどではありません。必要量を考えてください」
「朝の分も残す」
「そうしてください」
ルシルはさらに奥を見る。
木が数本。
風除けにはなる。
しかし頭上に大きな枯れ枝は見当たらない。
街道からも離れすぎていない。
何かあれば道へ戻れる。
「ここ、かなりよくない?」
「候補としてはいいですね」
「他も見る?」
モモが西の空を見る。
まだ明るい。
もう少し探す時間はある。
シモンも同じように考えたらしく、すぐには決めなかった。
「あと少し進む選択肢もあります。ただ、ここ以上の場所が必ず見つかる保証はありません」
「戻ってくるのは?」
「できます。ただし、暗くなってから戻ることになれば意味がありません」
三人は黙って草地を見た。
風が白い花を揺らす。
その向こうでトルクが鼻を鳴らした。
ベルクも落ち着いている。
モモが最初に口を開いた。
「私、ここがいいです」
「理由は?」
ルシルが聞く。
「白い花が綺麗だから」
あまりにも素直な理由だった。
シモンが眼鏡の奥から彼女を見る。
「それだけですか?」
「平らです。水が溜まりにくそうです。大きな足跡もありません。馬車も入れます。街道から離れすぎていません」
一つずつ挙げてから、モモは最後に白い花を見る。
「その上で、綺麗です」
シモンがわずかに笑った。
「それなら十分ですね」
「決まり?」
「ルシル様はどうですか?」
聞かれたルシルは、足元の地面をもう一度踏んだ。
昨日のような石はほとんどない。
平ら。
風も強くない。
何より、三人で見つけた場所だった。
「ここにしよう」
決まった。
馬車へ戻る。
今度は入口をどう通るか確認した。
古い車輪跡はあるものの、途中に少しだけ深い窪みがある。
「右前をこっちに通して……」
ルシルは徒歩で位置を見た。
「左は花だから踏みたくない」
「花を避けるために無理な角度にしないでくださいね」
「分かってる。普通に通れる範囲で避ける」
シモンとモモが左右へ分かれる。
ルシルは御者台へ戻った。
ゆっくり進む。
「右、まだ大丈夫です」
シモンが声を掛ける。
「左もあります」
モモが白い花との距離を見る。
トルクとベルクが草地へ入る。
前輪が窪みを避けた。
後輪も続く。
花を踏まずに抜けられた。
「入った!」
ルシルが笑う。
「まだ停めるところまでですよ」
「分かってる」
草地の中央より少し木側へ馬車を寄せる。
完全な木の真下には置かない。
地面を見ながら向きを調整する。
風向き。
テントを張る場所。
馬を休ませる空間。
シモンと相談し、二度ほど位置を直した。
「ここ」
「いいでしょう」
馬車を止めた。
手綱を緩める。
「お疲れ」
トルクとベルクへ声を掛ける。
今夜の寝床が決まった。
まだテントも張っていない。
火もない。
夕食も作っていない。
それなのに、ルシルは少し達成感を覚えていた。
「野営地を見つけるだけで結構時間かかるな」
「条件の悪い場所で一晩過ごすよりいいでしょう」
「うん」
モモが馬車の横で白い花を眺めている。
「ここ、名前あるんでしょうか」
「地図には特に記載がありませんでした」
シモンが答える。
「じゃあ名前ないの?」
「誰かが呼んでいる名前はあるかもしれません。僕たちが知らないだけで」
「勝手につける?」
ルシルが言う。
シモンの視線が向く。
「馬車の名前も決まっていないのにですか?」
「あ」
ルシルは自分たちの焦げ茶色の馬車を見る。
モモも見る。
三人の間に短い沈黙が落ちた。
「……まだ決めてなかったな」
「はい」
「何回か考えようって言って、そのままですね」
モモが言う。
「今決める?」
「野営の準備が先です」
シモンの答えは現実的だった。
「それもそうだな」
ルシルは笑い、馬具を外す作業へ向かった。
三回目の野営。
最初の時ほど迷わない。
けれど、慣れたと言えるほどでもない。
トルクとベルクの馬具を外し、水を用意する。脚と蹄を確認し、汗を拭う。
モモはトルクの左前脚を持ち上げた。
以前より姿勢が自然になっている。
「石、入ってません」
「こっちも大丈夫」
ルシルは反対側を見る。
シモンはベルクを担当していた。
「蹄鉄の緩みもありません。ラナで見た擦れも悪化していませんね」
「山の前に替えるんだよな?」
「状態を見て、鍛冶屋に相談してからです。滑り止めが必要な道へ入る前には、一度見てもらいたいですね」
「グレイで?」
「できるなら確認しておきましょう。ただ、実際の山道まではまだ距離があります。早すぎる交換が最善とも限りません」
「ラナの鍛冶屋でも言ってたな。強く引っ掛かればいいわけじゃないって」
「覚えていたんですね」
「それくらい覚えてるよ」
少しだけ得意になる。
シモンは余計なことを言わず、頷いた。
「では、グレイでは相談だけでもしてみましょう」
「うん」
馬の世話が終わる。
次はテント。
モモが収納から三人用のテントを出した。
「今日は一回でできます」
「言ったな?」
「できます」
「俺もできる」
「競争ではありませんよ」
シモンの声を聞きながら、三人で地面へ布を広げた。
まず向きを決める。
入口を風上へ向けすぎない。
馬車との距離を空ける。
火を使う場所とも離す。
前回まで教えられたことを、一つずつ思い出す。
「こっち?」
ルシルが布の端を持つ。
「もう少し右です」
「これくらい?」
「はい」
モモも反対側を合わせる。
骨組みを通す。
最初の野営では、どの穴へ何を通すのか確認するだけで時間がかかった。
今日は違う。
迷う場面はあっても、誰かが思い出す。
「そこ、先に立てるんじゃなかった?」
モモが言う。
「あ、そうだ」
「ルシル様、こちらを持ってください」
「はい」
テントが少しずつ形になる。
杭を打つ。
ルシルは一度目から力を入れすぎない。
地面は適度に柔らかく、石も少ない。
木槌の音が夕方の草地へ響く。
「入った」
「次、反対です」
「分かってる」
全部の杭を打ち終える。
紐を張る。
シモンが最後に一周して確認した。
「問題ありません」
モモがテントを見る。
「一回でできました」
「できたな」
形も以前より整っている。
大きく傾いていない。
張り直しもない。
ルシルは腰へ手を当てて眺めた。
「俺たち、野営上手くなってる」
「まだ三回目です」
「でも最初よりは上手いだろ?」
「それは間違いありません」
シモンが認めた。
それだけで十分だった。
寝具を中へ運び、夕食の準備へ移る。
太陽はもうかなり傾いている。
草地の白い花が橙色の光を受け、昼間とは違う色に見えた。
「今日、何作る?」
ルシルが食料を確認する。
「赤根菜、まだあります」
モモが言う。
ラナへ来る途中で助けた荷馬車の人たちからもらったものだ。
宿で料理された赤根菜は食べた。
市場では調理法も聞いた。
しかし、自分たちで調理するのはまだだった。
「使う?」
ルシルが尋ねる。
モモは少し考えた。
「使いたいです」
「煮る? 焼く?」
「市場で薄く切って焼くって言っていました」
「皮ごと焼くのも言ってたな」
「今日は水を使いすぎない方がいいので、焼く方がいいかもしれません」
シモンが食料を見ながら答える。
「では赤根菜を焼いて、肉も焼きましょう。あとはパンと、残っている葉野菜で十分でしょう」
「簡単だな」
「野営の夕食を毎回大仕事にする必要はありません」
「じゃあ火、俺やる」
「私もやりたいです」
モモがすぐ言う。
「前やっただろ?」
「一回だけです」
「じゃあモモやる?」
「はい」
役割が決まる。
火を使う場所は、古い焚き火跡がないため自分たちで選んだ。
周囲の草から十分に離す。
地面を整える。
必要以上に大きな火にはしない。
モモが火打石を持つ。
最初の野営ではルシル。
二度目の朝はモモが挑戦し、三回目で火種を作れた。
今日はどうなるか。
「見てないでください」
モモが言った。
「見ないと危ないだろ」
「そういう意味じゃありません。じっと見られると緊張します」
「じゃあちょっとだけ見る」
「同じです」
ルシルは笑いながら赤根菜の籠へ向かった。
背後から火打石の乾いた音がする。
一回。
二回。
「……」
三回目。
「つきました!」
声が弾んだ。
振り返ると、小さな火種から細い煙が上がっている。
「早くなったじゃん」
「はい!」
「火を育てるところまでが作業ですよ」
シモンが言う。
「分かっています」
モモは慎重に息を送り、細い枝へ火を移していく。
ルシルは赤根菜を一つ手に取った。
赤紫色の丸い根。
「俺、切る?」
「私が切ります」
「均等に?」
ルシルが聞くと、モモの動きが一瞬止まった。
最初の野営で切った野菜は、大きさがかなり不揃いだった。
本人も覚えている。
「今日は揃えます」
「じゃあ任せる」
「ルシル様はお肉をお願いします」
「了解」
浅い鉄板を用意する。
シモンは全体を見ながら、調味料とパン、葉野菜を準備した。
火が安定する頃、モモは赤根菜を切り始めた。
一枚目。
少し厚い。
二枚目。
今度は薄い。
モモは二つを並べて見比べた。
「違います」
「違うな」
「言わなくていいです」
「自分で言ったじゃん」
三枚目は、その中間。
四枚目も近い。
少しずつ厚さが揃っていく。
「おお」
「まだ見ないでください」
「もう切れてるからいいだろ」
「最後までです」
ルシルは自分の肉へ戻った。
前回、最初の一枚を少し焦がした。
今日は火の強さを見る。
鉄板を熱しすぎない。
肉を置く。
脂が弾け、香りが広がった。
「いい匂いです」
モモがすぐ反応する。
「赤根菜切って」
「切っています」
シモンは葉野菜を整えながら二人を見ていた。
「今日は前より静かに料理できるかと思いましたが、あまり変わりませんね」
「楽しいからいいだろ」
「悪いとは言っていません」
その返事に、ルシルは何も言わなかった。
以前なら「悪くありません」と言っていたかもしれない。
今のシモンは、もっと普通に言う。
それもわざわざ指摘するほどのことではなかった。
肉が焼ける。
裏返す。
焦げていない。
「成功」
「まだ中を確認してください」
「はい」
少し切って火の通りを見る。
問題ない。
次に赤根菜を鉄板へ並べた。
薄いものから火が通る。
焼けるにつれて、赤紫色だった表面が少し濃くなり、甘い匂いが混じり始めた。
「これ、宿で食べたのと違う匂いする」
「煮込みでは豆や香草も入っていましたからね」
シモンが答える。
モモは鉄板を覗き込む。
「端が少し焦げた方が美味しそうです」
「焦がしすぎるなよ」
「ルシル様に言われたくありません」
「今日は焦がしてない」
「今日は、ですね」
「覚えてるなあ」
三人で笑う。
夕日がさらに低くなる。
肉と赤根菜を焼き終え、パンと葉野菜を並べた。
椅子を三つ出す。
今日も同じ高さ。
同じ火を囲む。
「いただきます」
三人の声が重なる。
まず赤根菜。
ルシルは少し焦げ目のついた一枚を口へ入れた。
噛んだ瞬間、思ったより強い甘みが出る。
「甘い」
「本当です」
モモも目を丸くした。
「煮たのより味が濃い気がします」
「水分が飛んだ分、甘みを強く感じるのでしょう」
シモンも一枚食べる。
「塩を少しだけ振っても合いそうですね」
「やる」
ほんの少量。
もう一枚へ塩を振る。
甘さがさらに分かりやすくなった。
「こっち好き」
「私もです」
「次に作る時は?」
ルシルがモモを見る。
モモは鉄板の上に残った赤根菜を確認した。
厚さは完全に同じではない。
けれど、最初の野営の野菜よりずっと揃っている。
「もう少し薄く揃えます」
「そこ?」
「大事です」
「確かに焼ける時間変わったもんな」
「はい」
モモは満足そうに一枚食べた。
肉も今日は焦げていない。
シモンが用意した葉野菜と一緒にパンへ挟むと、それだけで十分な夕食になった。
豪華ではない。
麦角亭のような大盛りでもない。
蹄休めのように誰かが料理してくれたわけでもない。
それでも、三人で場所を探し、テントを張り、火を起こして作った食事だった。
ルシルは二つ目のパンを食べながら、周囲を見る。
白い花。
夕焼け。
馬車。
少し離れた場所で休む二頭の馬。
火の向こうにはモモとシモン。
「今日ここ見つけたの、モモだったな」
「はい」
「いい場所だった」
モモは赤根菜を食べる手を止め、周囲を見た。
「白い花が見えたので」
「花がなかったら通り過ぎてたかも」
「そうかもしれません」
「じゃあ花のおかげだな」
「明日の朝も残っていますよ」
「そりゃ残ってるだろ」
「朝の色も見たいです」
モモはそう言って、また食事へ戻った。
シモンは何も急かさない。
グレイの地図も出さない。
明日の予定を細かく決めようともしなかった。
食事を終える頃には、空の橙色が薄くなっていた。
火を完全に処理する。
食器を片づける。
食べ物を残さない。
馬たちの夜の確認をする。
三度目になると、一つ一つの作業の順番が少しずつ身体へ入ってきていた。
全部をシモンへ聞かなくても進められる。
それでも、確認すべきところでは確認する。
「水、朝の分大丈夫?」
ルシルが尋ねる。
「余裕があります。予定外に大量に使わなければ問題ありません」
「朝何作る?」
「もう決めるんですか?」
「モモが温かいの作りたいって」
モモは少し考えた。
「卵、まだあります?」
「ありますよ。ただ、先に使った方がいいものから考えましょう」
「じゃあ明日の朝に決める?」
「それでいいと思います」
「起きてから決める朝飯か」
ルシルはそれも気に入った。
日が沈む。
草地の色が少しずつ失われ、白い花だけが薄闇の中でぼんやり浮かんで見える。
空には一番星が出た。
「星」
モモが気づいた。
三人とも、すぐテントへは入らなかった。
椅子を片づける前に、少しだけ空を見る。
最初の野営でも星を見た。
あの時は、野営そのものが初めてだった。
今日は三回目。
同じ星空でも、立っている場所が違う。
「グレイ、明日かな」
ルシルが言った。
「この距離なら、朝に問題なく出発できれば明日中には着くでしょう」
「今度はかなり言い切ったな」
「今日の道標で距離が分かりましたから」
「なるほど」
モモは空を見たまま尋ねる。
「着いたら何します?」
「まず宿?」
「馬の状態を見てからですね。到着時間にもよります」
「川魚」
「本屋」
ルシルが言う。
シモンがこちらを見る。
「なぜ本屋が僕より先に出るんですか」
「鳥の本」
「ルシル様も見たいと言ったでしょう」
「見るよ」
「私はお菓子も見たいです」
「それは知ってる」
「あと、町も歩きたいです」
「それも」
「全部初日にする必要はありませんからね」
シモンが二人を見る。
ルシルとモモは同時に頷いた。
「分かってる」
「分かっています」
返事が重なった。
少し間があって、三人で笑った。
グレイへ着いたら、また知らないものがある。
けれど、今夜はまだその手前だ。
白い花の草地で眠る。
明日の朝は温かいものを作る。
それからテントを畳み、馬車へ乗る。
今はそれだけ分かっていれば十分だった。
「そろそろ寝る?」
ルシルが尋ねる。
「その前に、もう一度周囲を確認します」
シモンが立ち上がった。
「俺も行く」
「私も」
三人で草地の外周を短く見て回る。
危険な痕跡はない。
街道を遠く一台の馬車が通ったが、こちらへ入ってくることもなかった。
戻る途中、ルシルは白い花のそばで足を止めた。
摘まない。
モモも同じだった。
「明日の朝、どんな色に見えるかな」
「夕方と違うでしょうね」
「起きたら見よう」
「はい」
テントへ戻る。
入口を閉じる前、ルシルは馬車を一度振り返った。
暗闇の中でも輪郭は見える。
その中には、ラナで買った二頭の木馬がいる。
「そういえば」
ルシルが言う。
「何ですか?」
「馬車の名前」
モモが「あ」と声を漏らした。
シモンも少しだけ目を細める。
「今度こそ決める?」
「寝る直前に始める話ではないでしょう」
「じゃあ明日?」
「グレイへ向かいながらでも考えればいいのではありませんか」
「それいいな」
「私も考えます」
「変なのやめてよ」
「ルシル様もです」
「俺は普通の考えるよ」
「その自信はどこから来るんですか」
小さな言い合いをしながら、三人はテントへ入った。
外では風が草を揺らしている。
昨日の石原より柔らかな地面へ寝具を敷き、毛布へ潜り込む。
ルシルは仰向けになった。
背中に石はない。
「今日は痛くない」
「よかったですね」
モモの声が隣から聞こえる。
「石、探さなくていいんですか?」
「もう探した」
「いた?」
「いなかった」
「残念です」
「何が?」
「記念に持って帰れません」
「持って帰らないって」
暗いテントの中で、モモが笑う。
シモンの溜息も聞こえた。
「明日の朝になったら、その会話を忘れていてください」
「シモンも覚えてるじゃん」
「聞こえてしまっただけです」
しばらくして、会話が途切れた。
外から聞こえるのは草と風の音。
遠い街道を走る車輪の音も、もうほとんどしない。
ルシルは目を閉じた。
ラナを出て二日目。
グレイまでは、あと少し。
けれど今日一日を思い返した時、最初に浮かんだのは目的地ではなかった。
湿った路肩ですれ違った荷馬車。
丘の分かれ道。
ミレ村の井戸。
麦と豆の薄焼き。
逃げた鶏。
そして、夕方に三人で探した白い花の草地。
寄り道した分だけ、進んだ距離は短くなった。
それでも、今日という一日は十分に長かった。
明日になれば、また馬車を走らせる。
その先にグレイがある。
今夜はまだ、名前も知らない白い花のそばで眠ればいい。
風がテントの布を優しく揺らす。
三度目の野営の夜は、昨日より少しだけ静かに更けていった。




