第25話 馬車の名前を考えていたら、グレイの町が見えてきました
翌朝、ルシルが目を覚ました時、最初に聞こえたのは鳥の声だった。
高く短い鳴き声が一度だけ響き、少し離れた場所から別の声が返ってくる。目を閉じたまま耳を澄ませていると、テントの布を撫でる風の音や、外でトルクかベルクが地面を踏んだらしい小さな音まで少しずつ意識へ入ってきた。
背中は痛くない。
それを確かめてから、ルシルは毛布の中で伸びをした。
「……朝か」
小さく呟く。
返事はない。
モモもシモンも、まだ眠っているのだろうか。
そう思って身体を起こすと、隣にあるはずの毛布が一つ空いていた。
「また負けた」
誰に言うでもなく呟いた。
モモの寝具だ。
いつ起きたのかは分からないが、すでに外へ出ているらしい。
シモンはまだ眠っていた。
規則正しい呼吸が聞こえる。
ルシルは起こさないよう静かに靴を履き、テントの入口を開けた。
冷たい朝の空気が入ってくる。
「おお……」
思わず声が漏れた。
昨夜、薄闇の中で白く浮かんでいた花が、朝露をまとって一面に広がっていた。
数え切れないほどの小さな白い花。
東から昇り始めた太陽の光が露へ当たり、草地のあちこちで細かな光が瞬いている。昨日の夕方は橙色に染まっていた場所が、今朝は淡い青と白に包まれていた。
その花の間に、モモが立っていた。
白い外套はまだ羽織っていない。
薄い朝の光の中で長い桃金色の髪が揺れている。
少し離れたところにはトルクとベルクもいた。
モモは花を踏まない場所を選びながら二頭の様子を見ていたらしい。
「おはよう」
ルシルが声を掛ける。
モモが振り返った。
「おはようございます、ルシル様」
「何時に起きた?」
「分かりません」
「時計ないもんな」
「でも、そんなに前ではないですよ」
「また先だった」
モモが笑う。
「今日は競争していません」
「俺もしてないけど、なんか負けた気がする」
「じゃあ明日は頑張ってください」
「明日もやるの?」
「ルシル様が勝ちたいなら」
勝ちたいのかと聞かれると、そこまでではない。
ルシルは答えず、草地へ出た。
朝露で靴の先が少し濡れる。
「昨日言ってた通りだな」
「何がです?」
「朝の花。夕方と全然違う」
「はい」
モモも白い花へ目を向けた。
「こっちも綺麗です」
「どっちが好き?」
しばらく考えたあと、モモは首を傾げた。
「決めなくていいんじゃないですか?」
「それもそうか」
夕方は夕方。
朝は朝。
どちらかを選ばなければならない理由はない。
ルシルは花の先に見える空を眺めた。
雲は少ない。
今日も雨の心配はなさそうだ。
「トルクとベルクは?」
「今見ていたところです。元気そうですけど、シモン君が起きたら三人でもう一度確認します」
「水飲んだ?」
「まだです。先に様子だけ見ました」
「じゃあ俺も見る」
二人で馬たちのそばへ行く。
トルクはルシルが近づくと鼻先を寄せてきた。
「おはよう」
額を撫でる。
夜の間に変わった様子はない。
ベルクはモモを一度見てから、テントの方へ耳を向けた。
「シモン探してる?」
ルシルが尋ねる。
「たぶん違うと思います」
「即否定?」
「ベルクさんに聞かないと分かりませんけど」
「じゃあシモン探してることにしよう」
「勝手に決めると、シモン君が喜びますよ」
「それならいいじゃん」
「何の話ですか」
後ろから声がした。
振り返る。
テントの入口にシモンが立っていた。
黒髪がいつもより少しだけ乱れている。
眼鏡はかけているが、まだ完全には目が覚めていないらしい。
「おはよう、シモン」
「おはようございます」
「ベルクがシモン探してた」
「勝手なことを言わないでください」
「モモも否定しなかった」
「私は分からないと言いました」
「ほぼ同じだろ」
「全然違います」
シモンは小さく息を吐きながらベルクのところへ来た。
するとベルクが自分から鼻先を近づける。
シモンの動きが止まった。
ルシルは黙って見た。
モモも黙っている。
「……おはようございます」
シモンがベルクの額を撫でる。
ベルクはそのまま動かない。
ルシルは笑いそうになるのを堪えた。
「何ですか」
「何も」
「顔に出ています」
「ベルク、探してたんじゃない?」
「だから決めつけないでください」
声はいつも通りだったが、ベルクを撫でる手は止まらなかった。
それ以上からかうのはやめて、三人で朝の確認を始めた。
立ち方。
脚。
蹄。
蹄鉄。
水。
食欲。
毎朝すべてを声に出して確認することはもうしなくなっていたが、必要なところは省かない。
ルシルはトルクの前脚を持ち上げ、蹄の裏を見る。
「こっち大丈夫」
「反対も見てくださいね」
「分かってる」
モモはベルクの後脚側へ回ろうとして、シモンに一度止められた。
「急に後ろへ入らないでください」
「あ、はい」
横から声を掛け、ベルクの様子を見てから位置を変える。
モモは素直にやり直した。
「慣れてきた時の方が、忘れやすいですね」
「そういうものです」
シモンが答える。
「最初は全部気にしますから。慣れると『前も大丈夫だった』という考えが入りやすくなります」
「じゃあ慣れても気をつける」
ルシルが言う。
「お願いします」
二頭に異常はなかった。
昨夜から十分休めている。
水を与え、餌の状態を確認する。
トルクは相変わらず食欲がある。
「お前は分かりやすくていいな」
ルシルが言うと、トルクは何のことか分からないまま食べ続けた。
「ベルクさんも食べています」
「よし」
朝の確認を終えたところで、モモが両手を合わせた。
「朝ご飯です」
「昨日から楽しみにしてたもんな」
「温かいものです」
「何作る?」
「それを今から決めます」
三人は食料を出した。
昨日シモンが言った通り、まず早めに使った方がいいものから確認する。
卵が残っている。
少量の肉。
野菜。
パン。
乾燥豆。
赤根菜もまだ少しあるが、昨夜使ったばかりだ。
「卵かな」
ルシルが言う。
「私も卵がいいです」
「では卵と野菜を使いましょう」
シモンが選んだのは、小さな鍋で作る簡単な卵入りスープだった。
水を使いすぎない。
残っている野菜を細かく切る。
肉を少し入れる。
最後に溶いた卵を流す。
「温かいです」
モモが満足そうに言う。
「まだ作ってないぞ」
「完成した時の話です」
「先に喜んでるの?」
「楽しみにしていたので」
火を起こす役は、今日はルシルになった。
昨夜モモが使った火床を確認し、周囲に燃え残りがないことを確かめる。乾いた細枝と火種を用意し、火打石を使った。
一度目は火花だけ。
二度目もつかない。
三度目で火種が小さく赤くなる。
「よし」
「昨日の私と同じです」
モモが言う。
「三回?」
「はい」
「じゃあ引き分け」
「何の勝負ですか?」
シモンは野菜を準備しながら呆れていた。
「次は一回でつける」
「火起こしで競争を始めないでください。急いで雑になる方が困ります」
「分かってるって」
ルシルは慎重に火を育てた。
モモは野菜を切る。
昨夜の赤根菜より小さく刻む必要がある。
「今度は大きさ揃ってる?」
ルシルが覗く。
「見てください」
モモがまな板を少し持ち上げた。
完璧ではない。
それでも、初めて料理した時のような大きな塊と小さな欠片が混ざった状態ではなかった。
「おお、上手くなってる」
「でしょう?」
「でも一個だけ大きい」
「それはルシル様が食べてください」
「なんで俺?」
「見つけたので」
「そういうルール?」
「今決まりました」
シモンが小さく笑った。
鍋へ水を入れる。
肉と野菜を煮る。
塩と少量の香草で味を整える。
最後に卵。
「私、入れます」
モモが溶いた卵の器を持つ。
「一気に入れないで、細く流してください」
「はい」
鍋の中へ黄色い卵が細く落ちる。
熱いスープの中でふわりと広がった。
「おお」
ルシルが覗き込む。
「なんか料理っぽい」
「最初から料理ですよ」
「分かってるけど、急に完成した感じする」
モモも嬉しそうに鍋を見ている。
「綺麗です」
火を弱め、少し待つ。
完成したスープを三つの器へ分けた。
パンも軽く温める。
三人で朝の草地に座った。
「いただきます」
湯気が顔へ当たる。
ルシルは最初の一口を飲んだ。
「あったかい」
味の感想より先に出た。
朝の空気が冷えている分、身体の内側へ熱が落ちていくのが分かる。
「美味しいです」
モモは卵を掬った。
「昨日言ってた通りだな。朝に温かいの」
「はい」
「作ってよかった?」
「すごく」
モモの返事に迷いはなかった。
シモンもスープを飲む。
「塩加減もちょうどいいですね」
「シモン、それ普通に褒めてる?」
「他に何に聞こえるんですか」
「確認」
「美味しいと言っています」
「よかった」
三人でゆっくり食べる。
途中、ルシルの器へ他より大きな野菜が入っていた。
「あった」
「見つけました?」
「これだろ」
「はい」
「普通に火通ってる」
「よかったです」
「じゃあ問題なし」
モモは笑っている。
パンをスープへ少し浸す。
柔らかくなったところを食べると、それもよく合った。
豪華な朝食ではない。
けれど冷えた朝に自分たちで作った温かい食事は、それだけで十分だった。
食べ終える頃には太陽も少し高くなっていた。
白い花についた朝露が減り始めている。
「朝の花、見られましたね」
モモが言った。
「うん。起きてすぐ見た」
「夕方と朝、どっち?」
「決めなくていいって言ったのモモだろ」
「覚えていましたか」
「数時間前だぞ」
「ルシル様、たまに大事なことより変なことをよく覚えていますから」
「どういう意味?」
「そのままです」
シモンは食器を片づけながら二人のやり取りを聞いていた。
「話している間に片づけもしてください」
「はい」
「今やる」
朝食の後は撤収だった。
火を完全に消す。
使った場所を確認する。
食器を片づける。
寝具を収納する。
テントは朝露で少し湿っていたため、日当たりのいい場所へ一度広げた。
「これ、最初の時もやったな」
ルシルが布を持ちながら言う。
「濡れたまま収納する必要はありませんから」
シモンが反対側を持つ。
「収納魔法に入るからって、何でもそのままでいいわけじゃないんだよな」
「そういうことです」
モモは杭を抜いて集めていた。
最初の野営では片づける順番にも迷った。
今日は三人が自然に別々の作業へ動いている。
途中でモモが一本だけ杭を見失い、三人で草の間を探すことにはなったが、それもすぐに見つかった。
「ありました!」
モモが白い花の近くから拾い上げる。
「踏んでない?」
「花は大丈夫です」
「杭も?」
「大丈夫です」
「じゃあよし」
乾いたテントを畳む。
一度目でほぼ収納できる大きさになった。
ルシルが少し驚く。
「やり直さなくていい?」
「これなら大丈夫でしょう」
「本当に上手くなってる」
「三回目ですから」
「さっき三回目だからまだって言ってなかった?」
「三回でも一回目より上達はします」
「都合いいな」
「矛盾していません」
最後に三人で野営した場所を見回した。
忘れ物。
食べ物。
火。
縄。
杭。
問題なし。
昨夜テントがあった場所には、少し寝た草の跡が残っているだけだ。
白い花もほとんど踏まずに済んだ。
「行くか」
ルシルが言う。
モモは一度だけ草地を振り返った。
「名前、分かりませんでしたね」
「花?」
「この場所も、花も」
「グレイで聞いたら分かるかな」
「誰か知っているかもしれません」
「じゃあ覚えておこう」
名前をつける必要はなかった。
知らないなら、知らないまま覚えておけばいい。
三人はトルクとベルクの出発前の状態を確認し、馬具を装着した。
昨夜からしっかり休めた二頭は元気そうだった。
馬車を草地から出す。
入った時と同じように、白い花と窪みを避ける。
「左、まだ余裕あります」
モモが確認する。
「右も大丈夫です」
シモンの声。
ルシルは御者台でゆっくり手綱を扱った。
後輪が花の手前を抜ける。
街道へ戻る。
「出た」
「ではグレイへ」
「その前に」
モモが言った。
「何?」
「馬車の名前です」
ルシルは一瞬黙った。
「覚えてたの?」
「昨日、今日考えるって言いました」
「そうだった」
「ルシル様が言い出したんですよ」
「じゃあ考えながら行くか」
シモンが隣へ座る。
「御者は名前ではなく道を考えてください」
「道見ながら名前くらい考えられる」
「思いついた瞬間にこちらを向かないでくださいね」
「向かないって」
モモが車内へ入る。
「私も考えます」
馬車が西へ走り始めた。
朝の街道はまだ交通量が少ない。
昨夜通った荷馬車の車輪跡が残っている。
ルシルは前を見ながら、頭の片隅で馬車の名前を考えた。
「自由号」
「却下です」
シモンが即答した。
「早くない!?」
「もう少し考えてください」
後ろからモモの笑い声が聞こえた。
「私はいいと思いますよ」
「本当?」
「分かりやすいです」
「ほら」
「分かりやすすぎます」
「じゃあシモン案は?」
「まだ考えていません」
「人のだけ却下したの?」
「今後何年使うか分からない馬車ですよ。もう少し考えてもいいでしょう」
「自由号、何年でもいけるだろ」
「十年後に名乗る自信がありますか?」
ルシルは想像した。
知らない町の馬車置き場。
受付で聞かれる。
『馬車の名前は?』
『自由号です』
「……ちょっと恥ずかしいかも」
「でしょう」
「でも、馬車って名前を受付で聞かれるんですか?」
モモが素朴に尋ねた。
シモンが黙る。
「普通は所有者名や特徴で確認する方が多いでしょうね」
「じゃあ今の想像、いらなかったじゃん」
「例えです」
「シモン君、ずるいです」
「なぜ僕まで責められるんですか」
朝の街道に三人の声が響く。
ルシルは笑いながらも前方から目を離さない。
「モモ案は?」
「考えています」
「今?」
「はい」
少し間が空く。
「お菓子馬車」
「却下」
今度はルシルとシモンがほぼ同時だった。
「どうしてですか?」
「モモ専用みたいになってる」
「実態とも違います」
「一段だけお菓子の棚があります」
「一段しかないでしょう」
モモは不満そうだった。
「じゃあ、はちみつ号」
「もっとお菓子寄りになった」
「春雫で買ったお菓子が最初に乗りました」
「他にもいっぱい乗ってるよ」
「では赤根菜号」
「食べ物から離れてください」
シモンが言った。
ルシルは笑いすぎて手綱がぶれないよう気をつけた。
「シモン案、早く」
「そうですね……」
シモンはしばらく考える。
「三路号」
今度はルシルとモモが黙った。
「……どういう意味?」
「三人の道、という意味です」
「真面目」
「真面目ですね」
二人から同時に言われ、シモンの眉がわずかに動いた。
「名前を考えろと言ったのはあなた方でしょう」
「悪くないけど」
「格好いいですけど」
「けど?」
ルシルは前を見ながら考える。
「なんか商会の馬車みたい」
「分かります」
モモが同意した。
「荷台に紋章がありそうです」
「では二人で考えてください」
シモンが少し拗ねたように前を向いた。
「いや、候補には残そう」
「はい。三路号、候補です」
「自由号も?」
「それは別に」
「なんでだよ」
名前は決まらない。
けれど、考えること自体が面白かった。
トルクとベルクの名前から取る案。
三人の頭文字のようなものを組み合わせる案。
海へ向かうから海に関係する名前。
色が焦げ茶だから茶色に関係する名前。
最初に買ったヘルガスから取る名前。
いくつも出た。
どれも決め手がない。
「急いで決めなくてよくない?」
ルシルが言った。
「言い出した本人がそれを言いますか」
「だって、まだ何か増えるかもしれないし」
「何がです?」
「この馬車で行った場所とか。三人だけが分かる何か」
モモが少し静かになった。
シモンもすぐには返さない。
ルシルは続けた。
「今つけてもいいけど、もっと『これだ』っていうのが出るかもしれないだろ」
「では保留ですか?」
「俺はそれでもいい」
モモは車内から二頭の木馬が置かれた小さな棚を見た。
「私もいいです」
「シモンは?」
「異論はありません」
「三路号は?」
「忘れてください」
「候補に残すって」
「忘れてください」
「ちょっと気に入ってたんじゃん」
「ルシル様」
「前見る」
言われる前に前へ意識を戻す。
ちょうど街道の向こうから荷馬車が一台来ていた。
道幅は十分。
互いに少し速度を落とす。
ルシルは左側の路肩を確認し、必要以上に寄らない。
対向する御者が片手を上げた。
ルシルも軽く頭を下げる。
すれ違う。
後輪も問題ない。
もう、初めての時のように一度すれ違っただけで大騒ぎすることはなかった。
それでも上手く通れたことは、少し嬉しい。
「今のは?」
「問題ありません」
シモンが答える。
「初心者の上の方?」
「その分類はまだ続いていたんですか」
「続いてる」
「では、初心者の上の方でいいです」
「認めた!」
「運転に集中してくれるなら何でもいいです」
「雑だな」
モモが後ろで笑っている。
午前の街道を進む。
少しずつ交通量が増えてきた。
荷馬車。
一人旅の冒険者。
徒歩の商人らしい二人組。
東へ向かう空荷の馬車。
ラナを出た直後の川沿い道ほど景色は開けていないが、グレイへ近づいていることは人の流れからも感じられた。
しばらくして、前方に三台の荷馬車が連なっているのが見えた。
ルシルは追いつきすぎないよう速度を調整する。
「抜かないのですか?」
モモが尋ねる。
「別に急いでないし」
「その判断でいいでしょう」
シモンが頷いた。
「前の馬車も極端に遅いわけではありません」
「じゃあこのまま」
荷馬車の後ろを一定の距離で進む。
先頭の荷台には木箱。
二台目には布をかけた荷物。
三台目には樽。
何を運んでいるのかは分からない。
それでも、同じ方向へ進む馬車が増えたことで、町が近いという実感が強くなった。
「グレイって、どんな町だったっけ」
ルシルが尋ねる。
「宿が二軒あるって聞きました」
モモが先に答えた。
「一軒は職人がよく使う」
「それから町の南側に共同野営地があります」
シモンが続ける。
「井戸と馬用の水場もあるそうです。補給もできます」
「蜂蜜の硬いお菓子」
「それも聞いた」
ルシルが笑う。
「ちゃんと覚えてた」
「当然です」
「道の情報より早かったぞ」
「道はシモン君が覚えています」
「役割分担です」
「そこだけ堂々と言わないでください」
シモンが呆れた。
「あとセイラの森の情報も確認するんだよな」
「ええ」
今度はシモンの声が少しだけ真面目になる。
「ラナでは灰色狼の目撃が増えていることと、森猪が街道寄りまで出ているという話がありました。ゴブリンは平常。オーガの新しい目撃はなし。グレイの方が森に近いですから、情報も新しいでしょう」
「道、閉まってなかったよな?」
「ラナを出た時点では」
「じゃあグレイで聞いてから」
「そのつもりです」
ルシルは頷く。
自分たちなら、灰色狼程度で困る可能性は低い。
けれど、それと情報を確認しなくていいことは別だった。
魔物が増えている理由も分からない。
道の状況も変わる。
馬車と二頭の馬がいる以上、自分たち三人だけならどうにでもなる、では済ませたくなかった。
「山の靴も相談する」
「蹄鉄ですね」
「それ」
「靴でも意味は通じますけど」
モモが笑う。
「トルクさんとベルクさんの靴です」
「本人たちは靴って思ってるのかな」
「聞いてみます?」
「どうやって?」
「トルクさん?」
モモが窓から呼ぶ。
トルクの耳が後ろへ動いた。
「返事した」
「名前に反応しただけでしょう」
シモンの冷静な指摘が入る。
「靴はどうですか?」
トルクは前を歩き続ける。
「返事しない」
「質問の意味が分からないでしょうからね」
「シモン君は夢がありません」
「馬の気持ちを勝手に決める方が問題でしょう」
「じゃあ本人が話せるようになったら聞きます」
「その機会があればどうぞ」
ルシルは二人の会話を聞きながら、前の荷馬車との距離を保った。
しばらくすると道が広くなる。
左右に畑が増え始めた。
今朝までの草原とは違い、人の手が入った景色が多くなる。
低い石垣。
灌漑用の溝。
作業小屋。
遠くで荷車を動かす人。
「近い?」
「おそらく」
シモンも周囲を見る。
前を走る三台の荷馬車も、少しだけ速度を落とした。
道の先に人影が増えている。
そして、緩やかな坂を上った時だった。
「あ」
モモの声がした。
ルシルも同時に気づいた。
坂の向こう。
まだ距離はある。
けれど、今までの村とは明らかに違う数の屋根が見えた。
低い丘に沿うように建物が広がっている。
町の外側には畑と牧草地。
南側には馬車が何台か集まっている広い場所も見える。
さらに奥には、煙突から上がる煙。
「グレイ?」
「位置から考えて間違いないでしょう」
シモンが答えた。
ルシルは御者台で少し身体を起こした。
今度はシモンから注意される前に、手綱と前方から目を離さない。
「見えたな」
「見えました」
モモが嬉しそうに窓から町を眺めている。
「昨日着かなくてよかったかもしれません」
「なんで?」
「朝から見えた方が、ゆっくり入れます」
「確かに」
昨日、日暮れぎりぎりに無理をして走っていたら、この景色を見る余裕もなかったかもしれない。
今はまだ午前中。
トルクとベルクの状態もいい。
急ぐ必要はない。
「まずどうする?」
ルシルが尋ねる。
「町へ入る前に、一度休憩を挟んでもいいでしょう」
「もう?」
「到着してから宿や馬の場所を探すことになります。町の入口で疲れさせるより、少し手前で水を与えておいた方がいいですね」
「じゃあ休めるところ探す」
「はい」
「私も見ます」
モモも窓から周囲を見る。
町が見えたからといって、そこへ一直線に飛び込むわけではない。
それも、今では三人にとって自然になっていた。
少し進むと、街道脇に石造りの水槽が見つかった。
農作業用なのか、旅人用なのかは分からない。
その横に小さな木札がある。
「何て書いてる?」
ルシルは近づきすぎる前に速度を落とした。
シモンが読む。
「『旅人・荷馬利用可。飲用は煮沸推奨』です」
「馬はいい?」
「そのようですね」
「じゃあここ」
馬車を邪魔にならない場所へ寄せた。
先に走っていた三台の荷馬車は、そのままグレイへ向かっていく。
三人は御者台と車内から降りた。
町はもう見えている。
それでも、まずトルクとベルクだ。
「もうちょっとだからな」
ルシルがトルクの首を撫でる。
水を与える。
二頭とも落ち着いて飲んだ。
脚の様子も見る。
大きな疲れはない。
「大丈夫そう」
「ええ。このままなら問題ありません」
シモンも確認する。
モモは水槽のそばからグレイを見た。
「ラナと違いますね」
「まだ外からだけどな」
「屋根の色が違います」
言われて、ルシルも見る。
ラナは木造と石造りが混ざり、長い街道沿いに宿や店が並ぶ町だった。
グレイは少し違う。
建物の多くが灰色がかった石を使っている。
屋根は濃い茶や黒。
町の外側にも作業場らしい建物が点在していた。
「名前通り灰色」
「それが名前の由来かどうかは分かりませんよ」
シモンが言う。
「また分からないもの増えた」
「町の名前の由来まで僕に求めないでください」
「誰かに聞けばいいじゃん」
「そうですね」
シモンは否定しなかった。
モモが微笑む。
「鳥の名前も聞きます」
「それは鳥に詳しい人がいたら、でお願いします」
「本屋も」
「まだあると決まっていません」
「蜂蜜のお菓子も」
「それは探すんだな」
「はい」
「宿も探してくださいね」
「もちろんです」
ルシルは笑った。
やることが少しずつ増えていく。
けれど全部を今日やる必要はない。
グレイへ着いたら、まず馬。
それから宿。
新しい情報を聞く。
町を歩くのは、その後でもいい。
「馬車の名前は?」
ルシルがふと思い出して尋ねた。
モモが馬車を見る。
「まだです」
「グレイまでに決まらなかったな」
「いいんじゃないですか?」
「うん」
シモンも水筒をしまいながら言う。
「必要になった時に決めればいいでしょう」
「必要になるの?」
「それは知りません」
「じゃあずっと決まらないかも」
「それでも困らないなら構わないでしょう」
ルシルは焦げ茶色の馬車を見た。
名前はない。
けれど、自分たちの馬車だ。
トルクとベルクが引いている。
小さな棚には二頭の木馬。
一段だけのお菓子棚。
修理用の板。
テント。
鍋。
三人の旅に必要なものが少しずつ増えている。
「じゃあ、まだ名無し」
「はい」
「名無しのままグレイ入りですね」
モモが言う。
「なんかそれもいいな」
休憩を終える。
三人はもう一度、二頭と馬具を確認した。
今度はシモンが御者を交代しようかと尋ねたが、ルシルは首を振った。
「俺、このまま入っていい?」
「疲れていませんか?」
「大丈夫。町の中はゆっくり行く」
シモンは少し考え、頷いた。
「ではお願いします。入口が混んでいたら無理に進まず止まってください」
「了解」
モモも車内へ戻る。
馬車が動き出した。
グレイが近づく。
畑の間を抜けると、町へ入る馬車が増えた。
ラナほど細長くはない。
街道が町の手前で二つに分かれ、一方は南側の広い馬車置き場らしい場所へ、もう一方は町の中心へ向かっている。
入口には低い石造りの詰所があった。
城壁はない。
代わりに町の境を示す石柱が左右へ立っている。
「止まります」
ルシルは前の荷馬車に合わせて速度を落とした。
三台待ち。
急がない。
トルクとベルクも落ち着いている。
前の荷馬車が一台ずつ確認を受けて進んでいく。
冒険者らしい二人組はカードを見せて、そのまま町へ入った。
ルシルたちの番が来る。
詰所から出てきたのは、灰色の上着を着た中年の男性だった。
「こんにちは。グレイへようこそ。旅か?」
「はい」
ルシルが答える。
「三人?」
「三人です」
モモとシモンも姿を見せる。
冒険者カードを求められ、それぞれ提示した。
男性はルシルのカード。
モモのカード。
そしてシモンの金色のカードを見たところで、一度だけ眉を上げた。
「Aランクか」
「はい」
「珍しいな。森の依頼か?」
「いえ。今のところは旅の途中です」
「そうか」
それ以上深く聞かれない。
元王子も元聖女も元側近も、誰にも気づかれない。
ただの旅人三人。
「セイラ方面へ抜けるなら、町の冒険者組合か街道所で最新情報を聞いてから行ってくれ。ここ数日、森側の獣が少し落ち着かない」
シモンの表情がわずかに引き締まった。
「灰色狼と森猪ですか?」
「聞いてるのか。今朝の段階じゃ、そいつらが中心だ。ただ昨日、森の北寄りで角鹿の群れが街道近くまで下りたって話も入った。襲ってきたわけじゃないが、普段より位置がずれてる」
「道は通行できますか?」
「今はできる。閉鎖も規制もなし。ただ、単独の徒歩旅人には夕方以降の通行を勧めてない」
「分かりました。町で改めて確認します」
「そうしてくれ」
男性は馬車を見る。
「二頭ともいい馬だな。宿は決まってるか?」
「まだです」
「馬を預けるなら、北寄りの『石樽亭』か、西の『灰羽亭』が厩付きだ。石樽亭は職人と荷馬車客が多い。灰羽亭は少し小さいが静かだな」
ルシルとモモが顔を見合わせた。
ハーグから聞いた「職人がよく使う宿」は、おそらく石樽亭のことだろう。
「南の共同野営地も使えるぞ。井戸と馬用の水場あり。ただし町へ着いたなら、今日は宿の方が楽だと思うが」
「ありがとうございます」
ルシルが礼を言う。
男性は通行を示すように手を上げた。
「ようこそ、グレイへ」
トルクとベルクが歩き出す。
石柱の間を通る。
車輪が町の道へ入った。
最初に聞こえたのは、金属を叩く音だった。
次に木を削る音。
さらに人の声。
ラナとは違う。
もっと低く、重い音が多い。
石造りの建物。
軒先に積まれた木材。
樽。
車輪。
金具。
作業着姿の人々。
グレイは、旅人を泊めるための宿場町というより、旅と荷物を支える物を作り、直し、送り出す町に見えた。
「すごい」
ルシルは速度を落としたまま周囲を見る。
「前も見てください」
「見てるって」
右側の工房では、大きな木製の車輪が壁へ立て掛けられている。
左では樽職人らしい男が金属の輪を木槌で叩いていた。
その先には馬具を吊るした店。
「シモン」
「何ですか?」
「俺、ここ好きかもしれない」
「まだ入って数十歩ですよ」
「でも面白そう」
「私もです」
モモが窓から店を見ている。
「何を作っているのか分からないものがいっぱいあります」
「触らないでくださいね」
「まだ降りてもいません」
「先に言っておきます」
「シモンも気になってるだろ?」
少し間が空く。
「……まあ、興味はあります」
「じゃあ三人だ」
ルシルは笑った。
ただし、今すぐ店へ飛び込むことはしない。
まずトルクとベルクを休ませる。
「宿、どっち?」
ルシルが尋ねる。
「石樽亭と灰羽亭」
モモが指を折る。
「職人が多い方、気になります」
「俺も」
「馬車の相談もしやすいかもしれないな」
「だからといって宿の客へいきなり質問しないでくださいよ」
「しないって」
シモンは町の案内板を探す。
少し先の交差点に木製の標識があった。
北へ『石樽亭・荷馬車宿』。
西へ『灰羽亭』。
南へ『共同野営地』。
「北」
ルシルが言う。
「石樽亭を見て、厩の状態を確認しましょう。合わなければ灰羽亭へ移ればいいです」
「決まり」
交差点へ入る。
今度はラナで経験した町中の曲がり方を思い出す。
内側へ寄りすぎない。
前輪だけでなく後輪の軌道も考える。
通行人がいる。
荷車も来る。
「右から小型荷車」
シモンが声を掛ける。
「見えてる。待つ」
ルシルは交差点手前で止まった。
荷車が先に通る。
御者の老人が軽く頭を下げた。
完全に抜けたのを確認してから進む。
「曲がる」
トルクとベルクへ声を掛ける。
ゆっくり右へ。
前輪。
後輪。
店先の樽との距離も十分。
曲がりきる。
「どう?」
「問題ありません」
「初心者の上の方?」
「まだ言うんですか」
モモが吹き出した。
「グレイでも続くんですね」
「シモンが認めたから」
「運転中に機嫌よく前を見てもらうためです」
「認めてるじゃん」
シモンは答えなかった。
北へ続く通りは、中心よりさらに工房が多かった。
荷馬車も多い。
その分、道幅も広い。
少し進んだところで、大きな石造りの一階部分と木造の二階を持つ建物が見えた。
軒先には樽を模した木の看板。
『石樽亭』
その横には広い厩。
馬が何頭も見える。
さらに裏手には荷馬車を停める空間があるらしい。
「あれだ」
ルシルは速度を落とした。
入口付近には店の者らしい男性が一人立っている。
こちらへ気づき、手を上げた。
「泊まりかー?」
「まだ空いてますか?」
ルシルが声を返す。
「三人なら部屋あるぞ! 馬二頭と馬車もか?」
「はい!」
「なら裏へ回してくれ! 誘導する!」
男性が厩の横へ走る。
ルシルはシモンを見る。
「ここでいい?」
「まず厩を見てからですが、対応は慣れていそうですね」
「行ってみよう」
馬車を裏へ回す。
男性が広い場所で待っていた。
「こっちだ。右から入れてくれ。隣の荷車とは間を空けてな」
「分かりました」
ルシルはゆっくり進む。
旅に出てから何度も経験した。
それでも知らない場所へ馬車を入れる時は少し緊張する。
シモンが右。
モモが左。
二人が距離を見る。
「右、余裕あります」
「左も大丈夫です」
馬車が指定された場所へ入る。
「そこでいい!」
男性の声。
ルシルは止めた。
手綱を緩める。
大きく息を吐いた。
「到着」
モモが車内から降りた。
「グレイです」
「ああ」
シモンも御者台から降りる。
「まず二頭を」
「分かってる」
三人でトルクとベルクのところへ向かう。
町を見たい。
工房も気になる。
蜂蜜のお菓子も、鳥の本も、森の情報もある。
それでも順番は変わらない。
今日ここまで自分たちを運んでくれた二頭からだ。
宿の男性もそれを見ていた。
「自分たちで外すか?」
「はい。お願いします」
「分かった。終わったら厩へ案内する。水は中にあるからな」
余計に手を出さず待ってくれる。
三人は馬具を外し始めた。
ルシルの手は、最初にヘルガスで教わった時ほど迷わない。
モモも同じ。
シモンだけに任せることもない。
作業を終える。
「よし」
トルクの首を撫でる。
「着いたぞ」
トルクが鼻を鳴らした。
ベルクも隣で耳を動かす。
「グレイです」
モモが二頭へ教えるように言った。
「分かってるかな」
「匂いが違うことくらいは分かっているでしょうね」
シモンが答える。
厩から乾いた藁の匂いが流れてくる。
その向こうでは、また金属を叩く音が響いていた。
ルシルは顔を上げる。
知らない町。
知らない店。
知らない人。
そして、この先のセイラの森へ続く新しい情報。
やりたいことはいくつもある。
けれど今日は、まだ午前だ。
「なあ」
「何ですか?」
「グレイ、何泊する?」
シモンは少しだけ考えた。
「今決める必要がありますか?」
ルシルは笑った。
「ないな」
「はい」
モモも嬉しそうに頷く。
「まず、今日を見てからです」
三人はトルクとベルクを連れ、石樽亭の厩へ歩いていく。
何泊するのか。
いつ森へ向かうのか。
次にどこで野営するのか。
馬車の名前がいつ決まるのか。
どれも、まだ分からない。
グレイへ着いたばかりなのだから、それでよかった。




