第26話 新しい町では、まず馬たちの部屋から決めることにしました
石樽亭の裏手にある厩へ近づくにつれて、表通りから聞こえていた金属音が少しずつ遠ざかり、代わりに乾いた藁の匂いと馬たちの気配が濃くなっていった。
厩は宿の建物に沿って横長に造られており、入口は荷馬車が行き交う通路より一段奥まった位置にある。屋根は高く、正面から入った風が奥まで抜けるよう両側に小さな開口部が設けられていた。外から見えた時にも広いとは思ったが、中へ入ってみると馬房同士の間隔にも余裕があり、床には新しい藁が厚すぎない程度に敷かれている。
「こっちだ。二頭一緒なんだろ?」
先ほど馬車を誘導してくれた男性が、空いている馬房を指した。
年齢は四十代ほどだろうか。日に焼けた腕は太く、腰には小さな布と馬用のブラシが下がっている。宿の客を案内するだけの人間というより、普段から厩仕事もしているらしい。
「はい。兄弟です」
ルシルが答えると、男性はトルクとベルクを交互に見た。
「なるほどな。栗毛が兄貴か?」
「トルクです。七歳」
「こっちがベルクで、六歳です」
モモが濃灰色の馬の首筋へ手を添えながら続ける。
男性は二頭へいきなり触れず、まず少し離れたところから立ち方と耳の動きを見た。それからトルクへ手の甲を差し出し、匂いを嗅がせる。
「トルクとベルクか。どっちも旅慣れしてるってほどじゃなさそうだが、手入れはされてるな」
「旅を始めてからは、まだそんなに経っていません」
シモンが答えた。
「そうか。馬車も新しそうだったしな」
男性はトルクの反応を確かめてから、軽く鼻筋を撫でた。
トルクは嫌がらない。
むしろ新しい人間に興味を持ったらしく、男性の腰に下がっている布へ鼻先を近づけようとする。
「おい、そこに食い物はねえぞ」
「こいつ、食べ物だと思ったらだいたい行きます」
ルシルが苦笑する。
「分かりやすい馬は助かることも多いぞ。食わなくなった時にすぐ気づけるからな」
男性はそう言ってからベルクへ視線を移した。
ベルクはトルクより一歩ほど後ろにいる。
耳は男性へ向いているが、自分から近づく様子はない。
「こっちは慎重か」
「他の馬もあまり好きではありません」
シモンが答える。
「人は?」
「慣れるまで少しかかることがあります」
「なら無理に触らん」
あっさりした返事だった。
男性はベルクへ手を伸ばさず、空いている馬房を確認する。
「ちょうど端が二つ空いてる。隣同士にできるぞ。反対側は壁だから、他の馬と直接顔を合わせるのは兄貴側だけだ」
シモンが馬房の位置を見る。
ベルクを端。
その隣にトルク。
さらにその向こうに別の客の馬という並びになる。
「それなら助かります」
「決めるか?」
男性に聞かれ、シモンはルシルとモモを見た。
以前なら、その程度の判断は自分一人で済ませていたかもしれない。
けれど今は、三人とも同じ二頭の持ち主だった。
「俺はいいと思う」
ルシルが先に答える。
「私もです。ベルクさんも落ち着けそうです」
「では、その二つでお願いします」
「分かった」
男性が馬房の扉を開けた。
最初にベルクを入れる。
シモンが手綱を持ち、声を掛けながら進むと、ベルクは入口で一度足を止めた。鼻を動かし、知らない藁と木の匂いを確かめている。
シモンは引っ張らない。
「大丈夫ですよ。隣にはトルクも来ます」
ベルクの耳が動いた。
後ろではトルクが待っている。
数呼吸ほど置いてから、ベルクは自分で一歩を踏み出した。
「入った」
ルシルが小さく言う。
続いてトルクを隣へ入れる。
こちらはほとんど迷わなかった。馬房へ入るなり藁を嗅ぎ、その後すぐ飼葉桶へ顔を向ける。
「まだ入ってないぞ」
ルシルが首を撫でる。
トルクは桶が空だと分かると、今度はルシルの方を見た。
「俺見ても出ないからな」
「本当に分かりやすいですね」
モモが笑った。
男性も喉の奥で笑いながら、壁際の水桶を確認している。
「水はこっちで入れる。餌は宿代に基本分が入ってるが、持ち込みがあるならそっちを使っても構わん。普段食わせてるものがあるなら急に変えない方がいい」
「持っている分があります」
「なら最初はそれがいいな。足りなくなったら言ってくれ。干し草と燕麦、それから少量なら根菜も用意できる」
「根菜」
モモが反応した。
「人間用の甘い菓子じゃありませんよ」
シモンが横から言う。
「何も言ってません」
「顔が少し嬉しそうでした」
「トルクさんたちが食べられるものだからです」
モモは真面目に言い返したものの、その視線が一瞬だけ宿の建物側へ向いたのをルシルは見逃さなかった。
グレイには蜂蜜を使った硬い菓子があるかもしれない。
覚えているのだろう。
ただし、今すぐ探しに行こうとはしない。
まず二頭だ。
ルシルはそれが何となく嬉しくて、何も言わずトルクの荷物を整えた。
「夜は?」
シモンが男性へ尋ねる。
「見回りは三回。夕方、夜半、それから明け方だ。水はその都度見る。具合がおかしければ部屋まで知らせるが、客が自分で見に来るのも構わん。ただし夜中に他の馬房をうろつくのはやめてくれ」
「もちろんです」
「蹄と脚も見てもらえますか?」
ルシルが聞くと、男性は少しだけ眉を上げた。
「必要なら見るが、基本は預かりと世話だな。うちには専門の蹄鉄職人はいない。何か気になるのか?」
「ベルクの蹄鉄に少し擦れがあって。ラナでは緩んでないし問題ないって言われたんですけど、山へ行く前に滑り止めのやつも相談した方がいいって」
「なるほど」
男性はベルクの足元へ視線を落としたが、勝手に脚を持ち上げようとはしなかった。
「グレイなら蹄鉄を見る鍛冶屋は何軒かある。森から先へ行く旅人も多いからな。ただ、山用に替えるなら実際の道と今の蹄鉄を見せて決めた方がいい。強い滑り止めを付けりゃ何でもいいってもんじゃない」
ラナで聞いた話と同じだった。
ルシルは頷く。
「やっぱりそうなんだ」
「平らな石道で引っ掛かりすぎても脚へ負担が出る。泥、岩、傾斜、馬の歩き方でも変わるしな。相談するなら西工房通りの奥に馬具と蹄鉄をまとめて見てる店がある」
「今日行けますか?」
「店は開いてるだろうが、馬を連れて行くなら今すぐじゃなくていいんじゃないか? 今着いたばかりだろ」
男性は当たり前のように言った。
ルシルは一瞬、口を閉じた。
相談できる場所が分かった。
すると、すぐ行ってみたくなる。
けれどトルクとベルクは朝から馬車を引いて、ようやく厩へ入ったばかりだ。
「……そうだな」
「明日でもいいですし、必要なら職人にここへ来てもらえるか聞く方法もあります」
シモンが言った。
「そっちの方が楽か」
「まだ何泊するかも決めていません。まず宿を確定させましょう」
「分かった」
ルシルは素直に頷いた。
以前なら、知らない町へ着いた興奮のまま、あれもこれもと動きたくなっていたかもしれない。
今も好奇心そのものは変わっていない。厩の外から聞こえてくる槌音が気になるし、壁際に置かれた見慣れない形の馬具にも目が向く。
ただ、それを今すぐ全部見なければならないとは思わなくなっていた。
モモも同じらしい。
彼女はトルクの水桶へ水が入るのを見届けてから、ベルクの馬房との仕切り越しに二頭が互いを確認できることを確かめている。
「隣、見えますね」
「ああ。ここの仕切りは上半分が開いてるからな」
男性が答える。
「喧嘩する馬なら板を足すが、この二頭なら大丈夫そうだ」
トルクが仕切り越しにベルクへ鼻を寄せる。
ベルクも一度だけ応じた。
それを見たモモの肩から力が抜けた。
「よかったです」
「心配だった?」
ルシルが尋ねる。
「少しだけ。ラナの蹄休めでは落ち着いていましたけど、ここは初めてですから」
「ベルクさんは特に場所を見ますからね」
シモンはそう言いながら、馬房の扉の留め具を自分でも確かめた。
厩の男性はその手元を見ていたが、嫌な顔はしない。
「ちゃんと自分らでも見るんだな」
「まだ慣れていないので」
ルシルが答える。
「だからこそか」
男性は頷いた。
「旅慣れした奴でも全部宿任せにするのはいるし、逆に宿の人間を信用せず何でも自分でやろうとする奴もいる。どっちも面倒だ。預けるなら、どこまでこっちがやるか分かってた方がいい」
「それ、馬車の修理でも似たこと言われたな」
ルシルは思い出した。
道端で壊れた荷馬車を助けた時、自分たちには道具と予備部材があっても、修理そのものは経験のある持ち主に任せた。
できることと、できないこと。
少しずつその境目が見えるようになっている。
「じゃあ、今夜はお願いします」
ルシルが男性へ頭を下げる。
モモも続いた。
「よろしくお願いします」
「お願いします」
最後にシモン。
三人から同時に頼まれた男性は、一瞬だけ目を丸くしてから笑った。
「任せろ。俺はガランだ。厩を主に見てる。何かあれば俺か、表の受付に言ってくれ」
「ルシルです」
「モモです」
「シモンです」
「覚えた。そっちの二頭もな。トルクとベルク」
ガランはもう一度馬房を確認し、別の客の馬がいる奥へ歩いていった。
そこで初めて、ルシルは厩全体をゆっくり見回した。
十数頭ほど入れそうな造りだが、現在埋まっているのは半分ほどだった。大型の荷馬車を引く太い脚の馬、旅人が乗ってきたらしい細身の馬、年齢を重ねた白毛混じりの馬もいる。
その一頭を手入れしていた老人が、ルシルたちへちらりと視線を向けた。
「いい兄弟馬だな」
突然声を掛けられ、ルシルは少し驚く。
「分かるんですか?」
「顔が似てる」
「そこ?」
「あと立ち方だな」
老人は笑った。
彼の馬は大人しく、ブラシを掛けられながら目を細めている。
「どこから来た?」
「ラナの方からです。川沿いを回ってきました」
「石橋を避けたか」
「はい」
「賢明だな。あれは渡れる時でも気分がよくねえ」
老人はそれ以上話を広げず、自分の馬の手入れへ戻った。
ルシルも無理に聞かない。
旅の途中では、こういう短いやり取りも増えてきた。
名前も知らない。
次に会うかも分からない。
それでも同じ厩へ馬を預けているだけで、一言二言の会話が生まれる。
「行きますか?」
シモンに声を掛けられ、ルシルはトルクへ視線を戻した。
飼葉を食べ始めている。
ベルクも隣で落ち着いていた。
「うん」
モモは馬房を離れる前に、二頭へ小さく手を振った。
「また後で来ます」
「今から宿の受付だから、そんなに遠く行かないけどな」
「でも一回お別れです」
「そういうもの?」
「そういうものです」
ルシルも真似をするほどではなかったが、トルクの首を最後に一度撫でてから厩を出た。
外へ出ると、昼前の明るい光が目に入った。
石樽亭の裏手は荷馬車置き場になっており、彼らの焦げ茶色の馬車を含めて六台が停まっている。大きさも形もばらばらで、荷台に幌を張ったもの、箱型のもの、側面に商会らしい印を描いたものもあった。
その一角では、二人の男が車輪を外している。
「修理?」
ルシルが足を止めた。
片方が木製の支えを車体の下へ入れ、もう一人が車輪中央の金具を確認している。槌を振るっているわけではなく、何かを確かめながら慎重に作業していた。
「見たいですか?」
シモンが尋ねる。
「ちょっと」
「邪魔にならない場所からなら」
「いいの?」
「見るだけなら止めませんよ」
モモも興味を持ったらしく、三人で通路の端へ寄った。
作業中の男たちはこちらに気づいたものの、特に気にする様子はない。
「軸じゃない?」
ルシルが小声で言う。
「僕にもここからでは断定できません」
「シモン君でも分からないんですね」
「分解された車輪を遠くから見ただけで全部分かったら、職人は必要ありません」
シモンは眼鏡の位置を直しながら答えた。
やがて作業していた男の一人が立ち上がり、こちらを見た。
「何だ、車輪が珍しいのか?」
「すみません。邪魔でした?」
ルシルが尋ねる。
「いや。そっちに立ってるなら平気だ。旅人か?」
「はい。今着いたところです」
「なら珍しいか。ここじゃ毎日どこかで車輪外してるぞ」
「毎日?」
「荷馬車が集まる町だからな」
男は汗を拭い、外した車輪を軽く叩いた。
「こいつは修理じゃなくて点検だ。外からじゃ分からん擦れが出てないか見てる。森へ入ってから軸が鳴き出す方が面倒だからな」
「壊れてからじゃなくて、その前に外すんだ」
「当たり前だろ」
返ってきた言葉に嫌味はなかった。
本当に当たり前のこととして言っている。
ルシルは自分たちの馬車を見る。
出発前には車輪と車軸を確認している。
けれど、自分で外して内部の摩耗まで見られるわけではない。
「うちの馬車も見てもらった方がいいかな」
「何か異常あるのか?」
「今のところはないです。ヘルガスで買って、ラナを通って、川沿いを回ってここまで」
「新品に近いなら急いで外す必要はねえだろうが、これから山へ行くなら一度職人に見せるのはありだな。車体が重そうだし」
男はルシルたちの馬車へ目を向ける。
「高床か。車輪も太いな」
「山間の薬草師向けに作られたらしいです」
「なるほど。なら普通の荷車と同じ感覚で触らん方がいいかもしれん。宿の親父に聞けば、この辺の車大工を教えてくれるぞ」
「ありがとうございます」
「礼を言うほどじゃねえよ」
男は再びしゃがみ込み、作業へ戻った。
ルシルたちも長居しない。
表へ回る途中、ルシルは何度か自分たちの馬車を振り返った。
「また増えた」
「何がです?」
「グレイで聞きたいこと」
「まだ到着して半刻も経っていませんよ」
「蹄鉄と、馬車の点検」
「それから森の情報です」
モモが加える。
「蜂蜜のお菓子」
「それは必要事項に混ぜないでください」
「必要です」
「モモにはな」
「ルシル様も食べるでしょう?」
「あるなら食べたい」
「ほら」
「僕を巻き込まないでください」
「シモン君も一個は食べます」
「なぜ決まっているんですか」
三人の会話は、石樽亭の裏口を抜けたところで自然に途切れた。
宿の中へ入ると、外とは違う熱と匂いに包まれたからだ。
石造りの一階は想像していたより広かった。
正面には受付台。
右側には食堂があり、昼前だというのにすでに何人かの客が座っている。壁際には仕事道具らしい革袋や筒を持った男たちが多く、厚手の作業着を着た者、木屑を肩につけた者、指先を黒く汚した者もいた。
左側には長椅子と、小さな掲示板。
その奥に二階へ上がる階段がある。
煮込み料理の匂いに、焼いたパンと木の煙の匂いが混ざっていた。
「お腹空いてきた」
ルシルが呟く。
「朝ご飯からそれほど経っていませんよ」
「匂い嗅いだら別」
「分かります」
モモが同意する。
「二人とも食堂を見る前に受付です」
シモンに促され、三人は受付台へ向かった。
中にいたのは五十歳前後の女性だった。
肩までの茶髪を後ろでまとめ、袖を肘までまくっている。帳面を確認していたが、三人が近づくと顔を上げた。
「いらっしゃい。さっき裏へ入った三人だね?」
「はい」
「ガランから声が来てるよ。馬二頭、馬車一台。それと三人で泊まり」
「部屋は空いていますか?」
シモンが尋ねる。
「空いてる。二人部屋が二つと、一人部屋が三つ。大部屋ならもっと空いてるけど、どうする?」
三人は顔を見合わせた。
ラナでは一人部屋を三つ選んだ。
今も、それを変える理由はない。
「一人部屋三つで」
ルシルが答えた。
モモも頷く。
「お願いします」
「では三部屋だね。隣同士にできるよ」
「それでお願いします」
女性は帳面へ書き込んだ。
「何泊?」
ペン先が紙の上で止まる。
三人も止まった。
ルシルがシモンを見る。
シモンはモモを見る。
モモがルシルを見る。
「……決めてません」
ルシルが正直に言った。
女性は一瞬きょとんとした後、声を上げて笑った。
「そういう客もいるよ。じゃあ一泊分で取っとくかい? 延ばすなら明日の朝までに言ってくれれば、今のところは同じ部屋を押さえられる」
「それでお願いします」
シモンが答える。
「分かりました。まず一泊で」
「旅は急ぎか?」
「いえ」
「なら好きに見てから決めればいい。グレイは通り抜けるだけの奴も多いけど、職人仕事を見るのが好きなら二、三日いる奴もいるからね」
女性は三人の服装を順番に見た。
「冒険者?」
「はい」
「森へ?」
「いずれはその方向へ行く予定です」
シモンが慎重に答える。
女性はそれ以上詮索せず、棚から鍵を三本取った。
「二階の奥、二〇五、二〇六、二〇七。食堂は朝と昼と夜。昼はもうすぐ始まる。風呂は裏の湯場で、夕方から。洗濯を頼むなら昼過ぎまでに出しな」
「厩代は?」
「部屋と一緒に精算できる。馬の餌を持ち込みにするか、こっちを使うかで少し変わるから、ガランと決めてからでいい」
「分かりました」
シモンが料金の説明を聞き、必要な分だけ確認する。
ルシルはその間、食堂の方を見ていた。
大きな皿が運ばれていく。
茶色い煮込み。
厚いパン。
焼いた魚らしいもの。
「ルシル様」
「聞いてる」
「僕は何も言っていません」
「顔で言った」
「では受付が終わるまで我慢してください」
「はい」
女性がまた笑った。
「腹減ってるなら昼飯は食べていきな。今日の煮込みは石鍋牛と根菜だ。魚は川鱒の塩焼き」
「川魚」
今度はルシルとモモが同時に反応した。
シモンが二人を見る。
「ラナを出てから気にしていましたね」
「食べたい」
「私もです」
「なら昼食はここでいいのでは?」
「いいの?」
「宿の食堂を利用するのに何か問題がありますか?」
「ない」
「ありません」
また二人の返事が重なった。
「元気だねえ」
受付の女性は三本の鍵を台へ置いた。
「荷物を部屋へ置いてからでもいいし、そのまま食べてもいいよ」
「先に部屋見たい」
ルシルが言う。
「私もです」
「では部屋を確認してから昼食にしましょう」
鍵を受け取る。
三人で階段へ向かった。
食堂の横を通る時、仕事着の男たちの会話が耳へ入る。
「……北側の材が遅れてるらしい」
「森道か?」
「いや、伐り出し場の方だ。獣が出たってんで昨日は早仕舞いしたらしいぞ」
「またか」
ほんの短い会話だった。
ルシルの足がわずかに緩む。
シモンも聞こえていたらしく、視線だけがそちらへ動いた。
モモも笑顔を消したわけではないが、先ほどまで食堂を見ていた目が男たちへ向いている。
ただ、三人とも立ち止まらなかった。
二階へ上がる。
廊下へ出てから、ルシルが声を落とした。
「今の」
「聞こえました」
「獣って、入口で言ってたやつかな」
「可能性はありますが、まだ分かりません」
シモンはすぐに結びつけなかった。
「森道ではなく伐り出し場と言っていました。場所も種類も不明です。町へ着いたばかりですから、断片だけで判断しない方がいいでしょう」
「うん」
モモも頷く。
「ご飯を食べてからでも、情報は逃げません」
ルシルは彼女を見る。
「モモがそれ言うと、ご飯優先に聞こえる」
「違います」
少しだけ頬を膨らませてから、モモは声を落ち着けた。
「トルクさんとベルクさんも休んでいます。私たちも朝から移動してきました。何かあったとしても、何も知らないまま飛び出す方が危ないと思います」
ルシルはすぐには返さなかった。
階段の下から食器の触れ合う音が聞こえる。
窓の外では、相変わらずどこかの工房が金属を叩いていた。
「そうだな」
ようやく頷く。
シモンが何も付け加えなかったことにも気づいた。
たぶん同じ考えなのだろう。
だから説明する必要がない。
三人は奥の部屋へ向かった。
二〇五。
二〇六。
二〇七。
ルシルが二〇五。
モモが二〇六。
シモンが二〇七。
「じゃあ開ける」
ルシルが鍵を回す。
扉の向こうは、ラナの蹄休めより少し狭かった。
ベッド。
小さな机。
椅子。
壁掛け。
窓。
豪華ではないが、清潔だ。
窓からは裏手の荷馬車置き場が少し見えた。
「あ、馬車見える」
ルシルは窓へ近づいた。
焦げ茶色の自分たちの馬車が、他の荷馬車に混じって停まっている。
遠目でも車輪の太さで分かる。
「私の部屋からも見えるでしょうか」
モモが隣へ戻り、自分の部屋を開ける。
すぐに窓を確認した。
「見えます!」
廊下まで声が届く。
「モモ嬢、宿の中です」
シモンが少し声を抑えるよう促した。
「あ……すみません」
モモは顔を出し、近くに人がいなかったか確認する。
ちょうど廊下の反対側から作業着姿の男性が一人歩いてきていた。
目が合う。
男性は少し笑った。
「馬車、見えたか?」
「はい……」
「俺も最初にここ泊まった時やったから気にすんな」
そのまま階段へ向かっていく。
モモはしばらく廊下で固まっていた。
ルシルは笑いを堪える。
「仲間いたじゃん」
「恥ずかしいです」
「大丈夫だって」
「ルシル様は笑っています」
「ちょっとだけ」
シモンも口元を僅かに緩めていた。
「シモン君もです」
「気のせいです」
「絶対笑いました」
「部屋を確認してください」
モモは納得していない顔で部屋へ戻った。
三部屋とも大きな違いはない。
寝具も清潔。
窓の留め具も問題ない。
必要な荷物を置き、貴重品は収納へ入れたままにする。
「昼食の後、どうする?」
ルシルが廊下で尋ねた。
シモンは即座に予定表を出したりはしなかった。
少し考えてから答える。
「まず食べましょう。その後、トルクとベルクの様子をもう一度見ます。落ち着いているなら、町の情報を聞きに行くのはありだと思います」
「冒険者組合?」
「候補ですね。街道所でも構いません。どちらが近いか、下で聞けばいいでしょう」
「工房は?」
「今日すべて回る必要はありません」
「分かってる。聞いただけ」
「蜂蜜のお菓子は?」
モモが尋ねる。
「それも今日である必要はありません」
「聞いただけです」
「二人とも同じ顔をしていますよ」
「どんな顔?」
「今日行けたら行きたい顔です」
ルシルはモモを見る。
モモもこちらを見る。
「合ってる」
「はい」
シモンは眼鏡の奥で目を細めた。
「まず昼食です」
三人で階段を下りた。
食堂は先ほどより客が増えていた。
木工職人らしい者。
荷馬車の御者。
革の前掛けをした若者。
冒険者らしい四人組。
それぞれが昼食を取りながら、仕事や道の話をしている。
ラナの麦角亭ほど騒がしくはない。
けれど静かでもない。
低い声が幾重にも重なり、時折大きな笑い声が上がる。
「空いてるところへどうぞ!」
食堂側から女性の声が飛んだ。
三人は窓際ではなく、壁寄りの四人掛けを選んだ。
ルシルとモモが向かい合い、シモンがルシルの隣へ座る。
卓上には水差しと木の杯。
壁には今日の料理を書いた板が掛かっている。
「川鱒」
モモがすぐ見つけた。
「見えてる」
「塩焼きです」
「俺それ」
「私も」
二人の視線がシモンへ向く。
「僕も同じものを頼まなければいけないんですか?」
「別に」
「でも三人で食べたら感想言えます」
「同じ感想になるとは限りませんよ」
「シモンは何食べる?」
シモンは板を見る。
「石鍋牛の煮込みにします」
「じゃあ一口」
「注文する前から僕の料理を取らないでください」
「交換しようよ。魚あげるから」
「私も魚を少しあげます」
「二人から一口ずつもらったら、僕の煮込みが二口減るのでは?」
モモが少し考えた。
「大きい一口を一つでいいです」
「何も解決していません」
近くを通った給仕の少女が、会話を聞いて小さく吹き出した。
三人がそちらを見ると、少女は慌てて口元を押さえる。
「す、すみません」
「いや、こっちこそ」
ルシルも笑う。
「魚二つと煮込み一つお願いします」
「はい。パンは全部つきます。魚は焼くので少しかかりますけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「じゃあお待ちください」
少女は注文を厨房へ伝えに行った。
待つ間、ルシルは食堂を見回した。
隣の卓では三人の職人らしい男が、木材の乾燥具合について話している。
少し離れた場所では、二人の御者が道の泥について言い合っていた。
冒険者の卓からは「灰色狼」という言葉が一度だけ聞こえたが、声が重なって内容までは分からない。
情報は確かに町の中へ流れている。
けれど、今すぐ全部拾おうと耳を澄ませる必要もなかった。
ルシルは水を一口飲んだ。
「なんかさ」
「何ですか?」
「グレイって、みんな何か作ってるか、直してる感じする」
モモも周囲を見る。
「服も違いますね」
「作業着が多いですね」
シモンが言う。
「ラナは宿と馬車の出入りが町の中心に見えましたが、ここは工房の比重が大きそうです。もちろん、まだ石樽亭周辺しか見ていませんけど」
「明日歩きたいな」
「今日ではなく?」
「今日も少しは歩きたい。でも、工房ちゃんと見るなら時間ある時の方がいいだろ」
自分で言ってから、ルシルは少し意外に思った。
以前なら、気になるものを見つけた瞬間に行きたいと言っていた。
今も行きたい。
ただ、急いで表面だけ見るより、時間を取って見たいと思うようになった。
「では、少なくとも二泊しますか?」
シモンが尋ねる。
「まだ決めない」
ルシルは笑った。
「今日見てからって言っただろ」
「覚えていたんですね」
「それくらい覚えてるよ」
モモが頬杖をつきそうになり、途中で姿勢を直した。
「私は二泊でも三泊でもいいです」
「理由は?」
「まだお菓子を見ていません」
「やっぱりそこ?」
「工房もです」
「後から足した?」
「最初からです」
モモは真面目な顔を作ったが、目元が笑っている。
やがて料理が運ばれてきた。
最初に置かれたのは、ルシルとモモの川鱒の塩焼きだった。
丸ごと一尾。
表面は香ばしく焼け、皮の端が少しだけ反っている。横には酸味のある香草と、小さく切った茹で根菜が添えられていた。
「おお……」
ルシルは思わず身を乗り出す。
「いい匂いです」
モモの表情も明るくなる。
続いてシモンの煮込み。
深い器に、濃い茶色の汁。
大きめの肉と根菜。
湯気と一緒に香草の匂いが上がった。
「そっちも美味しそう」
「交換する前提で見ないでください」
「一口だけ」
「食べてから決めます」
三人で手を合わせる。
ルシルはまず魚の身を慎重にほぐした。
川魚は骨が細かいと聞いたことがある。
皮を開き、白い身を取る。
「これでいい?」
「大きな骨は見えていますが、小骨に気をつけてください」
「分かった」
口へ運ぶ。
表面の塩味。
皮の香ばしさ。
中の身は柔らかく、思っていたより癖がない。
「うまい」
ルシルの声が自然に出た。
モモも一口食べ、ゆっくり噛んでから頷く。
「美味しいです。昨日まで見ていた川に、こういう魚がいたんでしょうか」
「同じ種類かは分かりませんよ」
シモンが煮込みを食べながら答える。
「また分からない」
「川が同じか、漁場がどこかも聞いていないでしょう」
「じゃあ聞けばいい」
「必要なら」
モモは魚を見た。
「鳥の次は魚ですね」
「シモンに覚えさせるの?」
「三人でです」
「なら僕だけを見ないでください」
シモンも少し笑った。
ルシルは魚をもう一口食べてから、シモンの器へ視線を向ける。
「煮込みは?」
「美味しいですよ」
「一口」
「本当に欲しいんですか?」
「欲しい」
シモンは少し迷った末、自分の小皿へ肉と根菜を一つずつ取り分けた。
「二人で分けてください」
「ありがとう」
「ありがとうございます」
代わりにルシルとモモも魚の身を少しずつ取り分ける。
結果、シモンの小皿には二人分の川鱒が載った。
「ほら、得した」
「量の問題ではありません」
そう言いながらも、シモンは両方を食べた。
「どう?」
「塩が強すぎず、美味しいですね」
「じゃあ次は魚?」
「次に同じものを食べる必要もないでしょう」
「それもそうだな」
食事はゆっくり進んだ。
途中で給仕の少女が水を足しに来る。
モモが魚の骨をかなり綺麗に分けているのを見て、少女が感心したように言った。
「上手ですね。旅の人、たまに骨ごと苦戦するんですよ」
「途中から慣れました」
「この魚、グレイの近くで獲れるんですか?」
モモが尋ねる。
「はい。南東の川です。朝に漁師さんが持ってきます。今の時期は川鱒が多いですよ」
「昨日見た川とつながってるかな」
ルシルが言う。
少女は少し考えた。
「ラナの方から来たなら、たぶん途中で見た支流とつながってると思います。でも私、川の全部までは分からないです」
「ありがとう。それで十分」
ルシルが答える。
知らないなら知らないと言う。
それでいい。
少女は水差しを持って次の卓へ移った。
昼食を食べ終える頃には、食堂の客がさらに増えていた。
入口から新しい荷馬車客が入ってくる。
奥の卓では、先ほど材木の話をしていた男たちが立ち上がり、仕事へ戻る準備をしていた。
そのうちの一人が仲間へ言う。
「午後は北の荷を待つしかねえな。来なきゃ明日に回すぞ」
「森側が落ち着くまで遅れるかもな」
「狼だけなら護衛つけりゃ済むんだがなあ」
そこで声は遠ざかった。
ルシルは食べ終えた皿を見たまま、少しだけ考えた。
入口の男。
食堂の職人。
冒険者たち。
同じ「獣が落ち着かない」という話が、少しずつ別の場所から聞こえてくる。
まだ何が起きているのかは分からない。
大きな事件なのかも分からない。
ただ、ラナで聞いた時より、生活へ近いところまで影響が出始めているようには感じた。
「ルシル様」
シモンの声で顔を上げる。
「考えていました?」
「うん」
「森?」
「うん。でも、今すぐ行こうとは思ってない」
シモンはそれを聞いて、何かを評価するような顔はしなかった。
「では予定通りでいいでしょう」
「馬見て、それから情報?」
「そうですね。受付で冒険者組合か街道所の場所を聞きましょう」
「両方行く?」
「必要なら。まず片方で十分な情報が得られるか確認します」
モモは最後の水を飲み、杯を置いた。
「その後、時間があったら町を歩きたいです」
「それはいいんじゃない?」
ルシルも賛成する。
「ただし、情報次第ですね」
シモンが言った。
「道が今日急に閉鎖されたとかなら、考えることも増えます」
「でも入口では開いてた」
「ええ。ですから、今のところ慌てる理由はありません」
三人は席を立った。
食堂を出る前に、受付の女性へ冒険者組合の場所を尋ねる。
「組合なら中央通りを西へ。歩いて十分もかからないよ。街道所は南門寄りだから、森の依頼を見るなら組合の方が早い」
「ありがとうございます」
「森へ行くのかい?」
「まだ決めていません。情報を聞くだけです」
シモンが答える。
「それがいいよ。ここ二、三日は話がころころ変わるからね」
女性は帳面へ目を戻しかけ、ふと思い出したように付け加えた。
「そうだ。工房を見たいなら、組合へ行く途中の中央広場から北へ入るといい。車大工も金具屋もある。ただ昼過ぎは職人が仕事中だから、見学できるかは店次第だよ」
「今日は外から見るくらいにします」
ルシルが言う。
「それなら邪魔にならない場所からな」
「はい」
宿を出る前に、三人はもう一度裏の厩へ向かった。
トルクは飼葉を食べ終え、落ち着いている。
ベルクも馬房の奥で休んでいた。
シモンが近づくと顔を上げるが、出してほしそうに騒ぐことはない。
「大丈夫そうだな」
ルシルは少し安心した。
「休ませておきましょう」
モモも馬房の外から二頭を見るだけに留めた。
「行ってきます」
「また言ってる」
「今度は本当に町へ行きます」
「それなら合ってるか」
ベルクの耳がモモの声へ向き、トルクも顔を上げる。
三人は厩を出た。
石樽亭の正面へ回る。
昼を過ぎたグレイの通りには、到着した時より多くの人がいた。
荷車を押す職人。
木材を肩に担ぐ若者。
買い物籠を持った女性。
冒険者。
馬車。
工房から流れる木屑の匂いと、熱した鉄の匂い。
少し遠くからは、昼食を売る屋台らしい香ばしい匂いも混ざってくる。
モモが一瞬そちらを向いた。
「食べたばかりだぞ」
「匂いを嗅いだだけです」
「何も言ってませんよ」
「ルシル様の顔が言いました」
今度はモモが同じ言葉を返した。
シモンが二人の横を通り過ぎる。
「置いていきますよ」
「待って」
「シモン君、早いです」
三人は並んで中央通りへ向かった。
目的は、まず情報を聞くこと。
それだけは決まっている。
けれど道の左右には、気になるものがいくつもあった。
大きな車輪を軒先へ並べた工房。
革製の馬具を吊るした店。
色の違う金属片を箱へ分けている金具屋。
木製の樽を積み上げた倉庫。
「見たい」
ルシルが小声で言う。
「帰りに時間があれば」
「分かってる」
モモは反対側を見ていた。
「あれは何でしょう」
店先に細長い木枠が何本も並んでいる。
用途が分からない。
「僕にも分かりません」
「聞いてみたいです」
「仕事の邪魔にならない時にしましょう」
「はい」
今は通り過ぎる。
その選択も、もう残念には感じなかった。
見たいものがあるなら、また来ればいい。
石樽亭には部屋がある。
トルクとベルクも休んでいる。
グレイを今日中に出る理由もない。
中央広場へ近づくにつれ、冒険者らしい姿が増えてきた。
剣を腰へ下げた者。
弓を背負った者。
革鎧の若者たち。
荷物を抱えた商人もいる。
広場の端には大きな掲示板があり、紙が何枚も貼られていた。
「あれ?」
モモが足を緩める。
「冒険者組合の掲示板でしょうか」
シモンが見る。
建物はその向こうにあった。
石造りの二階建て。
入口の上に、剣と杖を交差させた見慣れた印。
「ここだな」
ルシルは建物へ目を向けた。
扉は開いている。
中から人の声が聞こえる。
出入りする冒険者の数も、ヘルガスで見た組合より少し多い。
森へ近い町だからなのかもしれない。
入口脇の掲示板には、討伐や採取らしい依頼票が並んでいる。
その中で、一か所だけ人が集まっている場所があった。
三人の冒険者が紙を見ながら話している。
「また追加かよ」
「北だけじゃねえじゃん」
「今朝は西側でも出たって?」
聞こえてきた言葉に、ルシルの視線が止まる。
モモも同じだった。
シモンは人だかりへ近づく前に、二人へ目を向けた。
「まず受付で確認しましょう」
声は落ち着いている。
「貼り紙だけでは条件も経緯も分かりません」
「うん」
ルシルは頷いた。
気にはなる。
何が追加されたのか。
北だけではないとは、何の話なのか。
今朝、西側で何が出たのか。
それでも、人の肩越しに断片を拾って勝手に答えを作る必要はない。
「行きましょう」
モモも小さく頷いた。
三人は冒険者組合の扉へ向かった。
背後ではグレイの工房から、絶えず槌の音が響いている。
町へ着いたばかりの昼下がり。
宿は決まった。
馬たちも休んでいる。
昼食も食べた。
そして今、ようやく三人は、ラナを出る前から少しずつ耳へ入っていたセイラの森の変化を、噂ではなく自分たちで確かめる場所まで来ていた。
ただし、森へ向かうかどうかはまだ決めていない。
ルシルは開いた扉の向こうを見ながら、先に入ったシモンとモモの後へ続いた。




