第27話 森の様子がおかしいと言われても、まだ何がおかしいのか分かりません
グレイ冒険者組合の中へ入った瞬間、ルシルは外から想像していたよりも多くの人がいることに気づいた。
石造りの一階は奥行きがあり、正面には長い受付台、その右側には依頼票を貼る大きな掲示板が設けられている。左側には丸机と長椅子がいくつも並び、昼を少し過ぎた時間だというのに、十数人の冒険者が食事をしたり地図を広げたりしながら話し込んでいた。
開け放たれた窓から入る風には、外の工房から流れてくる木屑と鉄の匂いが混じっている。その一方で、室内には革鎧や油、乾いた土、薬草袋らしい青臭さも漂っていて、同じ冒険者組合でもヘルガスとは随分と空気が違った。
「人、多いですね」
モモが声を抑えて言った。
「森へ向かう冒険者が集まりやすい町なのでしょう。とはいえ、これが普段より多いのかは僕たちには分かりません」
シモンは入口付近で立ち止まらず、通行の邪魔にならない壁際へ少し寄った。
ルシルもそれに続く。
入口脇にあった掲示板へ集まっていた三人組は、まだ同じ依頼票を見ていた。
「西の林縁って、街道からそんな離れてねえだろ」
「だから追加されたんじゃねえの?」
「でも角鹿だぞ。討伐対象じゃねえし」
そんな声が聞こえる。
ルシルは思わずそちらを見た。
「角鹿」
小さく呟く。
グレイへ入る時、詰所で聞いた名前だ。
昨日、森の北寄りで群れが街道近くまで下りてきた。
ただし、人を襲ったわけではない。
それが今度は西側。
「同じ群れでしょうか」
モモも掲示板を見ている。
「まだ分かりません」
シモンが答えた。
「群れの規模も、目撃地点の距離も、同じ個体なのかも聞いていませんから」
「じゃあ、やっぱり受付だな」
「ええ」
三人は掲示板へ直接向かわず、まず受付台へ進んだ。
受付は四つある。
二つは依頼を受ける冒険者で埋まっており、一つでは大きな麻袋を持った男性が何かの素材を査定してもらっている。
残った一つが空いたところで、シモンが先に立った。
「すみません。セイラの森方面の最新情報を確認したいのですが」
受付にいた女性が顔を上げる。
二十代後半ほどだろうか。濃い栗色の髪を後ろで一つにまとめ、首元には組合職員を示す小さな金属札を下げている。
「依頼を受ける予定ですか?」
「今のところは情報確認だけです。これから森方面へ進む可能性があるので」
「分かりました。冒険者証を確認しても?」
三人はそれぞれカードを出した。
ルシル。
モモ。
そしてシモン。
女性の視線が金色のカードで止まった。
ほんの一瞬だけだった。
「……Aランクの方でしたか」
声は大きくない。
だが、隣の受付で話していた冒険者の一人がちらりとこちらを見る。
シモンは特に反応しなかった。
「ランクに関係なく、まず現在の状況を知りたいだけです」
「失礼しました。では、確認できている範囲をお伝えします」
女性は三枚のカードを返すと、受付台の下から薄い紙束を取り出した。
「どの程度までご存じですか?」
「ラナでは、灰色狼の目撃増加、森猪が街道寄りへ出る傾向があると聞きました。ゴブリンについては平常、新しいオーガの目撃情報はないとも聞いています」
シモンが答える。
「グレイ入口では、昨日、森北側で角鹿の群れが通常より街道近くまで下りたと聞きました。人への襲撃はなかったとも」
「そこまでなら、ほぼ最新ですね」
女性は紙を一枚めくった。
「今朝、新しい報告が二件入りました。ただし、現時点ではどちらも被害報告ではありません」
ルシルは少しだけ身を乗り出しかけ、それに気づいて姿勢を戻した。
モモも受付台の紙を覗き込もうとはせず、女性の言葉を待っている。
「一件目は角鹿です。昨日確認された北側の群れとは別に、今朝、西側の林縁でも五頭ほどが目撃されました。街道からは少し離れていますが、普段ならもっと森の奥にいる時期です」
「さっき外の掲示板で話してたの、それか」
「おそらくそうだと思います」
女性が頷いた。
「二件目は灰色狼。こちらは南西寄りです。二頭が街道脇まで出ています。ただ、荷馬車を追ったり、人を襲ったりはしていません。御者が大声を出したところ、そのまま森へ戻ったそうです」
「二頭だけ?」
ルシルが尋ねる。
「目撃されたのは二頭です。ほかにいたかどうかは不明です」
「群れから離れていた理由も?」
「分かっていません」
女性は迷わず答えた。
ルシルは頷く。
分からない。
その言葉が、このところ妙に増えた気がする。
川辺で見た鳥の種類。
石原に平たい石が多い理由。
白い花の名前。
そして今は、森の動物たちがいつもと違う場所へ出てきている理由。
けれど、シモンが鳥の名前を知らなかった時とは違う。
今回は、その分からなさが旅の小さな楽しみだけでは済まないかもしれない。
「被害は本当にないんですか?」
モモが尋ねた。
その声からは、いつもの柔らかさが消えたわけではない。ただ、甘味や景色について話している時より少し慎重で、女性の顔をまっすぐ見ている。
「現時点で、人的被害は確認されていません」
女性は一度紙から目を上げた。
「家畜についても、組合へ正式に上がっている被害はありません。ただし、森の北にある伐採地が昨日、作業を早めに切り上げています」
ルシルとモモが同時にシモンを見る。
石樽亭で聞いた話とつながった。
「理由は獣ですか?」
シモンが尋ねる。
「正確には、作業員が森猪を二度見かけたためです。一度目は昼前、二度目は午後。どちらも人へ向かってきてはいません。ただ、普段使っている伐採道のかなり近くまで出たので、念のため撤収したと」
「同じ個体?」
「そこも不明です」
「なるほど」
シモンはそれ以上、推測を口にしなかった。
受付の後ろでは別の職員が書類を運び、隣の窓口では若い冒険者二人が薬草採取の範囲について確認している。組合全体が騒然としているわけではない。
誰も武器を手に飛び出していない。
緊急警報も出ていない。
ただ、森に関する話題だけが、いつもより少し多い。
「森へ入るのは禁止されてないんですよね?」
ルシルが尋ねた。
「はい。現時点では通行規制も立入禁止もありません。街道も通れます」
「依頼は増えてる?」
「増えています」
女性は今度は受付脇の掲示板を示した。
「討伐依頼というより、確認や護衛ですね。森周辺を通る荷馬車の護衛、林縁の巡回、目撃位置の確認。角鹿については討伐ではなく観察報告です」
「倒さないんですね」
モモが聞く。
「角鹿は本来、積極的な討伐対象ではありません。作物を荒らしたり人へ危害を加えれば別ですが、今は『いつもと違う場所にいる』というだけですから」
モモの表情が少し緩んだ。
「よかったです」
「何が?」
ルシルが聞く。
「変な場所にいるだけで倒されるのは、少し嫌だなと思って」
「確かに」
ルシルも頷く。
女性はそのやり取りを聞いてから、少しだけ笑った。
「組合としても同じです。原因が分からないうちに狩ればいい、とはなりません。むしろ角鹿が移動しているなら、何から離れているのかを知りたいところです」
「何かから逃げてる可能性がある?」
ルシルが聞いた。
「可能性の一つです」
女性はそこで言葉を区切った。
「ただし、まだそうだと決まったわけではありません」
「餌とか、水とかでも動く?」
「あります。天候でも変わりますし、繁殖期や別の群れとの競合、森の中で大きな音が続いた場合でも移動します。魔物を避けることもあります」
「候補が多いな……」
「だから調べているところです」
ルシルは腕を組みそうになり、受付であることを思い出して下ろした。
何か一つ、分かりやすい原因があるのかと思っていたわけではない。
それでも、聞けば聞くほど選択肢が増えていく。
「灰色狼も同じ理由で動くことはありますか?」
今度はモモが聞いた。
「あります。ただ、角鹿と狼が同じ理由で動いている保証もありません」
「森猪も?」
「はい」
「三種類とも別々かもしれないんですね」
「その可能性もあります」
モモは少し考え込んだ。
ルシルも同じだった。
角鹿。
灰色狼。
森猪。
全部がいつもより森の外側へ出ている。
そう並べれば、つい一つの原因を探したくなる。
だが、実際には偶然が重なっているだけかもしれない。
それを勝手に結びつけてしまえば、最初から間違ったものを見ることになる。
「シモンはどう思う?」
ルシルが尋ねた。
シモンは少しだけ眉を寄せた。
「まだ何とも」
「やっぱり?」
「情報が足りません。三種の移動時期が本当に一致しているのか、普段の生息範囲からどの程度ずれているのか、森のどこで最初に変化が起きたのか。それすら整理できていません」
シモンは受付の女性へ視線を戻した。
「組合では、いつ頃から目撃増加を把握していますか?」
「灰色狼は十二日ほど前からです。最初は一件、二件程度でした。森猪は九日ほど前。角鹿はここ三日ですね」
「同時ではない」
「はい」
「場所は?」
「灰色狼は最初、南寄りでした。森猪は北から北西。角鹿は昨日まで北側だけでしたが、今朝西側でも確認されました」
シモンの目がわずかに細くなる。
しかし、それだけだった。
「地図は見られますか?」
「簡略図なら」
女性は受付の下から一枚の大きな紙を取り出した。
「こちらへどうぞ。窓口を塞ぐので、横の閲覧台を使ってください」
「ありがとうございます」
三人は礼を言い、少し離れた壁際の台へ移った。
女性も紙を持って回り込んでくる。
そこにはグレイとセイラの森、その周辺の街道や伐採地、水場などが大まかに描かれていた。
精密な地図ではない。
森の内部はほとんど空白で、主要な道と目印だけが書かれている。
女性は小さな木片をいくつか置いた。
「赤が灰色狼」
南側に三つ。
少し西寄りに二つ。
「茶色が森猪」
北から北西へ複数。
「白が角鹿です」
北側。
そして西側。
三人は黙って地図を見た。
「……ばらばら」
最初に口を開いたのはモモだった。
「そう見えますね」
シモンが答える。
「もっと一か所に集まってるのかと思った」
ルシルも地図へ顔を近づける。
確かに、三種類の目撃地点は一つの場所を囲んでいるわけではない。
森の外周のあちこち。
ただ、以前より外側へ寄っている。
「森の真ん中から何かが出てきて、全部が外へ逃げてる……みたいな感じでもない?」
ルシルが尋ねる。
「少なくとも、この地図だけではそうは言えません」
シモンは即答した。
「森の内部でどこにいたかが分かりませんから。そもそも、この印は『見つかった場所』であって、『それまでいた場所』ではありません」
「ああ……」
ルシルはもう一度地図を見る。
印があると、そこから何かを読み取りたくなる。
けれど、その印自体が全部を示しているわけではない。
「難しいですね」
モモが呟く。
「そうですね」
受付の女性も頷いた。
「冒険者の中には『強い魔物が森の中央に入ったんじゃないか』と言う人もいます。逆に、今年は森の木の実が少ないから獣が外へ出ているだけだと言う猟師もいます」
「木の実、少ないんですか?」
「場所によるそうです。私は森へ入る仕事ではないので、そこは猟師からの報告ですが」
「雨は?」
シモンが聞く。
「少なすぎるほどではありません。少し前に強く降った日はありますが、長雨ではないです」
「川の水位は?」
「平年より少し高い程度だったはずです。街道所の方が詳しいですね」
「全部少しずつ違うところが詳しいんだな」
ルシルが言うと、女性が苦笑した。
「そりゃそうですよ。組合が町のことを全部知ってるわけじゃありませんから」
「そうだよな」
ルシルは素直に頷いた。
シモンが万能ではないように。
冒険者組合も万能ではない。
馬のことなら厩。
蹄鉄なら鍛冶屋。
道なら街道所。
森の細かな変化なら猟師や木こり。
それぞれが知っていることは違う。
「では、組合として今一番注意しているのは何ですか?」
シモンが尋ねた。
「現状では、街道利用者と森周辺の作業者への注意喚起です」
女性の表情が少し引き締まった。
「灰色狼は人を避けることも多いですが、飢えていたり追い詰められていれば話は別です。森猪も同じ。角鹿も大人しいだけの動物ではありません。特に雄は刺激しない方がいい」
「見つけても近づかない」
「はい。街道上で出会った場合は距離を取り、無理に追い払わない。荷馬車なら馬を驚かせないことを優先してください」
その言葉に、ルシルの表情が変わる。
「馬か」
「大型の獣より、そっちが怖い場合もあります。馬が暴れて車体を倒す事故がありますから」
ルシルは自然にトルクとベルクを思い浮かべた。
自分たち三人なら、灰色狼が二頭現れたところで戦うこと自体は問題にならないだろう。
森猪でも同じだ。
だが、馬車を引いている時は違う。
倒せるかどうかだけを考えればいいわけではない。
「モモ」
「はい」
「もし道で出ても、いきなり魔法撃たない方がいいな」
「撃ちませんよ」
モモは少し頬を膨らませた。
「私だって、何でもすぐ倒したりしません」
「いや、サンドワームの印象が強くて」
「あれは襲ってきたじゃないですか」
「それはそう」
「それに、トルクさんとベルクさんの近くで大きな魔法を使う必要がないなら使いません」
モモはそう言ってから、地図上の白い木片を見た。
「角鹿さんたちは何もしてないですし」
「そうだな」
シモンも頷く。
「戦闘になった場合でも、まず馬車と馬の安全確保です。僕たちは収納魔法がありますから荷物の損失は小さいですが、車体が横転すればトルクとベルクが負傷する可能性があります」
「じゃあ、森に入る前にそういう時の動きも決めよう」
ルシルが言った。
「それは必要ですね」
シモンの返答は早かった。
だが、そのまま具体的な作戦会議には入らない。
「ただし今ではありません。まず道を通るのか、いつ通るのかを決めてからで十分です」
「了解」
受付の女性は三人の会話を聞きながら、地図の木片を戻していく。
「皆さん、森へ行く依頼を探しているわけではないんですよね?」
「はい。旅の途中で通る可能性があるだけです」
ルシルが答える。
「なら、今日明日で無理に何か受ける必要はないと思います。調査依頼は出ていますけど、今は地元の猟師や森に慣れた冒険者を優先しています」
「俺たちがAランクいても?」
ルシルがシモンをちらりと見る。
女性もシモンを見る。
「強いことと、森を知っていることは別ですから」
はっきりした答えだった。
ルシルは一拍置いてから笑った。
「それ、いいな」
「何がですか?」
「いや。そういうの」
強ければ何でもできる。
そんな話ではない。
森の道を知る猟師。
馬の脚を見る職人。
車輪を直す車大工。
旅を始めてから、そういう人間に何度も会った。
王城で学んだ知識も、冒険者として持っている力も、三人の魔法も剣も、役に立つ時はある。
それでも、それだけで世界の全部が分かるわけではない。
「地元の人たちはもう調査に?」
モモが尋ねた。
「はい。今日も二組入っています。一組は南側の灰色狼。もう一組は北側の伐採地周辺です」
「戻るのは?」
「早ければ夕方。遅ければ明日の午前ですね」
「じゃあ、今日の夕方には情報が増えるかもしれない?」
ルシルが聞く。
「可能性はあります」
「なら明日また来ればいいな」
ルシルは自然に言った。
その瞬間、モモがぱっと顔を上げる。
「二泊します?」
「まだそれは決めてないって」
「でも明日また来るなら」
「朝来て、そのまま出ることもできるだろ」
「できますけど」
モモの口元が少しだけ尖る。
「何ですか、その顔」
シモンが尋ねる。
「別に何でもありません」
「蜂蜜菓子を探す時間が減ると思っています?」
「思っていません」
「今、目が少し泳ぎましたよ」
「泳いでません」
受付の女性が堪えきれず笑った。
「蜂蜜菓子なら、中央広場の南側に一軒あるよ」
モモが勢いよく振り向いた。
「本当ですか?」
「硬いやつだろ? 旅人がよく買っていく。蜂蜜と麦芽を煮詰めたやつ」
ルシルも興味を持つ。
「日持ちする?」
「するよ。歯には気をつけた方がいいけどね」
「行きましょう」
モモがルシルを見る。
「情報確認は終わったし、いいんじゃない?」
「シモン君」
二人の視線が同時にシモンへ向いた。
シモンは少しだけ黙った。
受付の女性まで面白そうに答えを待っている。
「……僕が許可を出す話ではないでしょう」
その返事に、モモが一度瞬きをする。
「三人で決めることです。今日は宿も決まりました。馬も休ませています。森へ今すぐ向かう必要もない。なら、町を見る時間にしても問題ありません」
「じゃあ」
「ただし」
「ありますよね」
「買う量は考えてください」
「分かっています」
モモは胸を張った。
「最近の私は、ちゃんと考えて買っています」
「それは本当だな」
ルシルが頷く。
ラナでも、使い道のない袋や籠を見て、その場で買わなかった。
甘いものを食べるために昼食を小さくした時も、残すのが嫌だからと自分で考えていた。
甘味好きなのは変わらない。
変える必要もない。
ただ、好きだからこそ、自分で選ぶようになっている。
「じゃあ、蜂蜜菓子見て、それから町歩く?」
「その前に」
シモンが言った。
「もう一つだけ確認したいことがあります」
受付の女性へ向き直る。
「セイラの森を抜けた先の山道について、現時点で何か情報はありますか?」
「山道?」
「雨や崩落です。ラナでは山に入る前に路面と蹄鉄を確認した方がいいと聞いています」
「ああ。それなら今のところ大きな崩落は聞いてません。ただ、二日前に上の方で雨が降ったらしいので、一部ぬかるみが残っている可能性はあります」
「通行止めは?」
「なし。ただし、その情報も昨日夕方のものです。山へ向かう直前にもう一度確認した方がいいですね」
「ありがとうございます」
シモンはそこで質問を終えた。
「もう大丈夫です」
「なら、これ」
女性は地図を片づけ、代わりに小さな紙片を一枚渡した。
「森周辺を通る旅人向けの注意事項。組合で配ってる。簡単なものだけど持っていきな」
「いただいていいんですか?」
「そのための紙だからね」
ルシルが受け取る。
書かれているのは、日没後の単独行動を避けること、獣を見ても不用意に追わないこと、馬や荷車を伴う場合は退避場所を確保すること、異常を見つけたらグレイまたは次の街道所へ報告することなどだった。
「役に立ちそう」
「馬車へ置いておきましょう」
「木馬の近く?」
「なぜそこなんです?」
「見つけやすいから」
「紙が落ちない場所にしてください」
「じゃあ机のところかな」
三人は受付の女性へ礼を言った。
「ありがとうございました」
「どういたしまして。森へ行くなら、出発前にまた情報を確認していってください」
「はい」
「それと」
女性はモモを見る。
「蜂蜜菓子の店は、黄色い布を出してる小さい店。広場から南へ二軒目」
モモの顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「そっちの情報の方が嬉しそうですね」
シモンが呟く。
「森の情報も大事です」
「声の大きさが違いましたよ」
「気のせいです」
受付を離れ、三人は依頼掲示板の方へ向かった。
最初に人が集まっていた場所は少し空いている。
ルシルは先ほど話題になっていた依頼票を確認した。
『セイラ西側林縁 角鹿目撃位置確認』
討伐ではない。
目撃地点を確認し、足跡や移動方向を記録する依頼。
報酬もそれほど高くない。
隣には灰色狼の巡回確認。
さらに荷馬車護衛。
「本当に調べる依頼なんだな」
「ええ」
シモンが横から見る。
「全部倒して終わり、ではありません」
「こういう依頼もあるんですね」
モモが興味深そうに一枚ずつ眺める。
「薬草採取、道標の補修確認……あ、落とし物探しもあります」
「冒険者組合だからって魔物だけじゃないんだな」
「地域によりますよ」
シモンが答えた。
「ヘルガスにも小規模な雑務依頼はありました。僕たちがあまり見ていなかっただけです」
「今度ちゃんと見よう」
「依頼受けるの?」
「面白そうなのがあったら」
「旅程との兼ね合いですね」
「急ぎじゃなければいいじゃん」
「内容次第です」
ルシルは掲示板の端まで目を動かした。
報酬の高いもの。
低いもの。
危険なもの。
地味なもの。
誰かの荷物を運ぶ依頼まである。
王城にいた頃、冒険者という言葉から思い浮かべていたのは、剣を持って魔物を倒す姿ばかりだった。
実際に旅へ出てみれば、道端で壊れた馬車を直す人がいて、井戸を使う村人がいて、町の遊びに混ざる子供たちがいる。
冒険者の仕事も、同じなのかもしれない。
派手な討伐だけで世界が回っているわけではない。
「ルシル様?」
「ん?」
「また考えていました?」
モモが覗き込んでいる。
「ちょっと」
「何を?」
「冒険者って、思ってたより何でもやるんだなって」
モモも掲示板を見る。
「聖女も、思っていたより何でもやらされましたよ」
「それはちょっと違う話じゃない?」
「似ています」
「似てるかな」
「僕に振らないでくださいよ」
まだ何も言われていないシモンが先に防いだ。
ルシルとモモが同時に笑う。
近くで依頼票を見ていた若い冒険者が、何事かと一瞬こちらを見たが、すぐ自分の仲間との話へ戻った。
「じゃあ出るか」
ルシルが掲示板から離れる。
「蜂蜜菓子です」
モモがすぐ続く。
「町を見る、でしょう」
シモンが訂正する。
「その途中に蜂蜜菓子です」
「順番を逆にしないでください」
「同じ道です」
「まだ店の正確な位置しか聞いていないでしょう」
「南へ二軒目です」
「覚えてるなあ」
「もちろんです」
三人は冒険者組合を出た。
外の光は、入った時より少し傾いていた。
とはいえ、夕方にはまだ早い。
中央広場では荷車が行き交い、職人らしい男が大きな木枠を二人がかりで運んでいる。端では果物を売る屋台が声を上げ、その向こうでは旅人が道を尋ねていた。
森の異変を聞いた後でも、町の日常は止まっていない。
それがルシルには少し不思議だった。
もっと町全体が怯えているのかと思っていた。
けれど実際には、職人は仕事をし、商人は物を売り、子供が広場を走っている。
危険がないわけではない。
だから注意し、調べる人がいる。
それでも、何もかもを止めるほどではない。
「どうしました?」
シモンが隣から尋ねる。
「いや。普通だなって」
「町が?」
「うん」
ルシルは前を歩く荷車を避け、モモとシモンと一緒に道の端へ寄った。
「森の話聞いたら、もっとみんな怖がってるのかと思った」
「まだ被害が出ていませんからね」
シモンは広場を見回す。
「もちろん、森で働く人や荷を運ぶ人には影響が出ています。石樽亭で聞いた材木の遅れもそうでしょう。ただ、今の段階で町全体が生活を止める理由もありません」
「怖くないわけじゃなくて、気をつけながら普通に暮らしてるんですね」
モモが言った。
「たぶん」
ルシルはその言葉をゆっくり受け取った。
旅に出る前は、何か問題が起これば、それを解決する人間がいて、報告書が上がり、会議が開かれ、命令が出る。
そんな流れを見てきた。
けれど、問題が何なのかすら分からない時間にも、人は暮らしている。
昼食を食べる。
馬を休ませる。
車輪を直す。
菓子を買う。
その間にも誰かが森を調べている。
「じゃあ俺たちも、今日は普通に町見よう」
「はい」
モモが頷いた。
「ただし夕方には組合から新情報が出る可能性があります」
シモンが言う。
「戻ってくる調査組?」
「ええ。ただ、今日中に聞く必要があるかは別です。明日でも間に合います」
「じゃあ明日」
「まだ明日も泊まるって決めてませんよ」
モモが先ほどのルシルの言葉をそのまま返した。
「あ」
「忘れました?」
「忘れてない」
「では、今日を見てから決めましょう」
シモンの口元に、ごく薄い笑みが浮かぶ。
「それでいいと思います」
三人は広場を南へ歩いた。
黄色い布。
二軒目。
モモの視線はすでに店を探している。
「あれじゃないですか?」
彼女が指差した先に、小さな黄色い布が風に揺れていた。
店先には瓶が並び、その一つには琥珀色の小さな欠片が詰まっている。
モモの歩幅がほんの少しだけ広がった。
走らない。
ルシルとシモンを置いていかない。
それでも明らかに速くなった。
「モモ」
「普通に歩いています」
「まだ何も言ってない」
「言われると思いました」
ルシルは笑いながら後を追う。
森で何が起きているのかは、まだ分からない。
灰色狼。
森猪。
角鹿。
それぞれが普段とは少し違う場所に現れ始めている。
同じ原因なのか。
別々なのか。
危険が近づいているのか。
ただの一時的な変化なのか。
答えはまだない。
だから今は、分からないものを分かったことにはしない。
必要な情報は集める。
馬たちは休ませる。
明日になれば、森から戻った冒険者たちの報告が増えるかもしれない。
そして、それまでは。
「ルシル様、早くしてください。売り切れたら困ります」
「はいはい」
「走らないでくださいよ、二人とも」
「走ってません!」
「俺も走ってない!」
黄色い布の下で、店の老婆が三人を見て笑っていた。
グレイで過ごす最初の午後は、森の謎を追いかける時間ではなく、まずこの町を知る時間になりそうだった。




