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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第28話 甘いものを買った後は、職人の仕事が気になりました


 中央広場から南へ二軒目。


 冒険者組合の受付で教えてもらった通り、店先には小さな黄色い布が掲げられていた。


 風を受けるたびに布の端が軽く持ち上がり、その下に並べられた透明な瓶へ午後の日差しが落ちている。瓶の中には琥珀色や薄茶色の小さな菓子が詰められ、店の奥からは蜂蜜を温めた時のような甘い匂いが漂っていた。


「これです」


 モモは店の前まで来ると、嬉しそうに振り返った。


「見れば分かる」


「ちゃんとありました」


「受付の人が教えてくれたんだから、そりゃあるだろ」


「売り切れていなかったという意味です」


 言いながらも、モモはすぐ瓶へ向き直った。


 店は石造りの建物の一階を使った小さな造りで、間口は広くない。外へ出された台の向こうに老婆が一人座り、膝の上で布袋の口を縫っている。


 先ほど三人が近づくのを見て笑っていた老婆だ。


「そんなに急がなくても、今日はまだあるよ」


 針を止めた老婆が言った。


 モモの肩が僅かに固まる。


「急いでいるように見えました?」


「見えたねえ」


「走ってはいません」


「そこは大事なんだ?」


「大事です」


 真面目に答えるモモを見て、老婆は声を上げて笑った。


 ルシルも隣で笑う。


 シモンだけは何も言わなかったが、眼鏡の奥の目が少し細くなっている。


「旅人かい?」


「はい。今日グレイに着きました」


 ルシルが答える。


「じゃあ組合で聞いたのかね。うちの硬い蜂蜜菓子は、旅人によく場所を聞かれるからねえ」


「ラナへ行く前から、グレイには蜂蜜を使った硬い菓子があるかもしれないって聞いてたんです」


 モモが言うと、老婆は少し意外そうに眉を上げた。


「そんな遠くから覚えてたのかい」


「はい」


「モモは甘いものに関しては記憶力が上がるから」


「普段も覚えています」


「否定はしないけど」


「ルシル様だって楽しみにしていたでしょう?」


「俺はあったら食べたいくらい」


「昨日、グレイで何食べたいか話した時に川魚と蜂蜜菓子って言ってました」


「覚えてるじゃん」


「だから普段も覚えていると言っています」


 老婆は三人のやり取りを面白そうに眺めてから、店先の瓶を順番に指した。


「硬いのなら三種類あるよ。普通の蜂蜜と麦芽。こっちは香草入り。そっちは砕いた木の実を混ぜてある」


 モモの視線が忙しく動く。


 琥珀色のもの。


 少し緑がかったもの。


 細かな木の実が透けて見えるもの。


「全部、日持ちしますか?」


「湿らせなきゃね。旅なら布より蓋つきの容器へ入れた方がいい。噛むより、口の中でゆっくり溶かす菓子だよ」


「三種類……」


 モモが呟く。


 ルシルは横顔を見る。


 以前なら、ここで「全部ください」と言っていたかもしれない。


 少なくとも旅に出たばかりの頃なら、その可能性はかなり高かった。


 けれどモモはすぐ注文せず、瓶の大きさと中身を見比べた。


「一個ずつ買えますか?」


「もちろん。試すかい?」


「いいんですか?」


「どれが好きか分からないのに袋で買ってもしょうがないだろ」


 老婆は小さな木皿を三枚出した。


 それぞれの瓶から一欠片ずつ取り出す。


 硬い菓子というだけあって、一つ一つは親指の先ほどしかない。


「三人いるなら分けな」


「ありがとうございます」


 モモが嬉しそうに受け取った。


 三人は店の前を塞がないよう端へ寄る。


 最初は普通の蜂蜜と麦芽。


 ルシルは小さな欠片を口へ入れた。


 すぐには溶けない。


 舌の上で転がすと、最初に麦芽の香ばしさがあり、その後から蜂蜜の甘さがゆっくり広がった。


「思ってたより甘すぎない」


「はい」


 モモも目を細める。


 噛み砕かず、本当に少しずつ味わっている。


「旅の途中には良さそうですね」


 シモンも同じものを口へ入れた。


「一度に食べる量も多くなりにくい」


「シモン君」


「何ですか?」


「今、私を見ましたね」


「見ていません」


「見ました」


「菓子を見ていました」


「私の手元にある菓子を?」


「細かいことを気にしないでください」


 次は香草入り。


 こちらは甘さの後に爽やかな香りが残った。


 モモは少し考えるように首を傾ける。


「嫌いじゃないです。でも、一番好きではないかもしれません」


「俺はこれ結構好き」


「口がさっぱりしますね」


 シモンも悪い印象ではないらしい。


 最後は木の実入り。


 小さな粒の香ばしさが蜂蜜の甘みと混ざる。


 今度はモモの表情が明らかに変わった。


「これです」


「早いな」


「これが好きです」


「まだ口の中にあるだろ」


「ありますけど、好きです」


 老婆がまた笑った。


「分かりやすいお嬢ちゃんだ」


「モモです」


「そうかい。じゃあモモちゃん、どれにする?」


「木の実入りを……」


 そこでモモは瓶を見る。


 次にルシル。


 シモン。


 そして自分たちが持っている旅用の菓子のことを考えたらしい。


「小さい袋で一つください」


 ルシルは思わずモモを見た。


「一袋?」


「はい」


「三種類じゃなくて?」


「一番好きなのが分かったので」


 モモは当然のように答えた。


「普通の蜂蜜味も美味しかったですけど、まだ旅用のお菓子は残っています。食べ終わったら、またどこかで買えばいいですから」


「……そうだな」


「何ですか、その顔」


「いや。モモが成長したなと思って」


「私は最初から考えて買っています」


「それはちょっと違う気がする」


「ルシル様」


「はい」


 少しだけ睨まれた。


 とはいえ本気で怒ってはいない。


 シモンは二人の会話には入らず、香草入りの瓶を見ていた。


「シモン君は買いますか?」


 モモに聞かれ、シモンが視線を戻す。


「僕ですか?」


「香草入り、気に入っていましたよね」


「気に入ったとまでは言っていません」


「でも嫌いじゃなかったです」


「それはそうですが」


「買えば?」


 ルシルも言う。


「共有のお菓子じゃなくて、自分用」


「自分用……」


 シモンは少しだけ困った顔になった。


 旅費の管理。


 必要な補給。


 馬の餌。


 宿代。


 修理用品。


 そういうものを買う時の彼は迷わない。


 けれど自分が食べたいから買うとなると、途端に判断が遅くなる。


「小袋ならそんなに多くないよ」


 老婆が助け舟を出した。


「旅の途中で食べ切れるくらいさ」


 シモンは香草入りの瓶をもう一度見た。


「……では、小さいものを一袋」


 モモの顔がぱっと明るくなる。


「買いました!」


「なぜモモ嬢がそんなに喜ぶんですか」


「シモン君が自分のお菓子を買ったからです」


「珍しい?」


 ルシルが尋ねる。


「かなり」


「そこまでですか?」


「シモン、自分のために何か買うの少ないもんな」


 ルシルが言うと、シモンは少し黙った。


「必要なものは買っています」


「必要じゃないもの」


「それを買わないのは普通では?」


「でも欲しいものなら買ってもいいだろ」


 口にしてから、ルシルはそれ以上続けなかった。


 以前なら「旅なんだから」と何かを付け足していたかもしれない。


 今は必要ない。


 シモン自身がすでに小袋を買うと決めたのだから、それで十分だった。


「ルシル様は?」


 モモに聞かれる。


「俺?」


「自分用です」


 ルシルは三つの瓶を見た。


 香草入りも好きだった。


 木の実入りも美味しい。


 けれど、今すぐ一袋欲しいかと聞かれると少し違う。


「俺はいいかな」


「買わないんですか?」


「モモの一個もらう」


「一個だけですよ」


「分かってる」


「本当に一個です」


「信用ないな」


「食べ物に関してはあります。でもお菓子に関しては少し下がります」


「モモに言われたくない」


 老婆が二つの小袋を用意する。


 木の実入りをモモ。


 香草入りをシモン。


 代金を払い、それぞれ自分で受け取った。


「湿気だけは気をつけな」


「はい」


「ありがとうございます」


 シモンも礼を言う。


 店を離れようとしたところで、ルシルはふと瓶の奥に小さな木箱が積まれていることに気づいた。


「これ、蜂蜜?」


「そうだよ」


「グレイの近くで採れるんですか?」


「全部じゃないけどね。西の丘と森の手前に蜂箱を置いてる家がある。今の時期は春の花の蜜がまだ残ってるから、それを使ってるよ」


「森の近く?」


 シモンの視線が少し動いた。


 老婆はその変化に気づいたらしい。


「獣の話かい?」


「ご存じですか?」


「そりゃ町に住んでりゃね。蜂箱を置いてる連中も、ここ何日かは奥まで見回りに行ってないよ」


「何か被害が?」


「蜂箱そのものには聞いてないね。ただ、森猪を見たって話があるから、わざわざ近づかないだけさ」


「なるほど」


 シモンはそれ以上聞き出そうとはしなかった。


「ありがとうございます」


「菓子買った客に世間話しただけだよ」


 老婆はまた膝の布袋を手に取る。


「森へ行くなら気をつけな。強そうだからって、馬まで強いとは限らないんだから」


 三人の足が同時に少し止まった。


 冒険者組合でも似た話を聞いたばかりだ。


「はい」


 ルシルはしっかり頷いた。


「気をつけます」


 店を離れる。


 モモは買った小袋を大事そうに持っていたが、すぐ開けようとはしなかった。


「食べないの?」


 ルシルが尋ねる。


「さっき試食しました。それにお昼ご飯も食べたばかりです」


「なるほど」


「夜に一個食べます」


「予定立ててる」


「楽しみは決めてもいいんです」


「それは確かに」


 シモンも香草入りの小袋を収納せず、しばらく手に持っていた。


「シモンは?」


「僕も今は食べません」


「夜?」


「決めていません」


「じゃあ俺がもらう」


「自分で買えばよかったでしょう」


「冗談だって」


 そんな話をしながら中央広場へ戻る。


 午後の日差しは高いが、石造りの建物が並ぶ通りには細長い影が落ちていた。工房の扉は多くが開け放たれ、風と一緒に木を削る音、金属を叩く音、鋸を引く音が流れてくる。


 先ほど冒険者組合へ向かう時にも気になった。


 今は急ぐ目的がない。


「どこから見る?」


 ルシルが尋ねる。


「工房通りは北でしたね」


 シモンが中央広場の向こうを見る。


「ただし、見学できるとは限りません。仕事場ですから」


「外から見るだけでもいい」


「私も見たいです」


 モモが言った。


「馬具のお店もありましたよね」


「ありました」


「トルクさんとベルクさんに何か必要か見たいです」


「必要なものがあるか確認するのはいいですが、使い道が分からないものを買わないように」


「分かっています」


 モモは即答した。


「ラナで学びました」


「なら大丈夫でしょう」


「シモン君の方こそ、便利そうな帳面とか見つけたら買いそうです」


「僕は用途を考えて買います」


「否定が強いな」


 ルシルが笑う。


 三人は広場を北へ曲がった。


 通りの雰囲気は、数十歩進んだだけで変わった。


 食べ物を売る店が減り、代わりに間口の広い工房が増える。


 軒先には木材。


 壁には車輪。


 革帯。


 金属の輪。


 大小の樽。


 用途の分からない曲がった木材まで立て掛けられていた。


 路面にも細かな木屑が落ちている。


 その上を荷車が通るたび、乾いた粉がふわりと舞った。


「すごいな」


 ルシルは歩調を落とす。


 右手の工房では、男が大きな車輪を作業台へ載せていた。


 完成品ではない。


 中心の部品と外周だけが組まれ、そこへ何本もの木材を合わせている途中だった。


「車輪って、最初から丸い木を切るんじゃないんだ」


「大きな一枚板から作れば、材料も無駄になりますし強度にも問題が出るでしょう」


 シモンが答えた。


「でも、あの組み方までは僕も詳しく知りません」


「見てみたい」


 ルシルは工房の入口へ近づきかけた。


 その時、中から太い声が飛んでくる。


「そこから先は入るなよ!」


 ルシルはぴたりと止まった。


「すみません!」


「見るだけなら端にいろ。木が飛ぶことがある!」


「はい!」


 怒られたというより、安全のための注意だ。


 三人は入口の外側、それも作業の正面を避けて横へ寄った。


 工房内には四人いる。


 一番年上らしい男が車輪を見ており、若い二人が木材を削っている。奥では別の一人が鉄の輪らしいものを確認していた。


「何してるんでしょう」


 モモが小声で言う。


「車輪を組んでいるのは分かりますが、それ以上は聞かないと」


「聞いていいかな」


「作業が止まった時なら」


 三人はしばらく黙って眺めた。


 木槌が打ち込まれる。


 一度。


 二度。


 同じ場所を力任せに叩くのではなく、位置を変えながら少しずつ合わせていく。


 ルシルには何が正しい位置なのか分からない。


 ただ、職人が指先で隙間をなぞり、木槌を置いて車輪を僅かに回し、また別の位置を見る。その一連の動きには迷いがなかった。


 魔法なら、もっと簡単に形を整えられるかもしれない。


 少なくともシモンなら、土や木へ干渉する術を使えるだろう。


 けれど、目の前の職人が見ているものは、ただ丸くすることではないように思えた。


「面白い?」


 モモが聞いた。


「うん」


 ルシルは車輪から目を離さない。


「何が?」


「分かんない」


「分からないのに?」


「だから見てる」


 モモは一瞬きょとんとしてから、同じ車輪を見る。


「じゃあ私も分からないです」


「張り合わなくていいよ」


「張り合ってません」


 やがて年上の職人が腰を伸ばした。


 入口の三人へ気づき、額の汗を腕で拭う。


「さっきの旅人か。何だ、そんなに面白いか?」


「面白いです」


 ルシルが即答した。


「車輪見るだけで?」


「作ってるところ、初めて見ました」


「そうか」


 男は少しだけ嬉しそうだった。


「これ、何してたんですか?」


「今か? 輻を合わせてた」


「や?」


「輻」


 男が車輪の中心から外へ伸びる木材を指す。


「中心と輪をつなぐこいつだ。一本だけ長くても短くても駄目だ。締め方が悪きゃ荷を載せた時に歪む」


「これ一本ずつ違うんですか?」


 モモが尋ねる。


「基本の寸法は合わせる。だが木は全部同じじゃねえ。癖もあるし、乾き方も違う」


 男は一本を指先で叩いた。


「図面通り切りゃ終わりってもんじゃない」


「難しい……」


「難しくなきゃ俺らが飯食えねえだろ」


 職人が笑う。


 奥で作業していた若者も笑った。


「親方、それ新人に毎回言ってるやつじゃないですか」


「うるせえ。お前は手を止めるな」


「はいはい」


 若者は削りかけの木へ戻る。


 親方と呼ばれた男は三人を見た。


「馬車で来たのか?」


「はい。石樽亭に置いてあります」


「石樽なら荷車置き場広いからな。何か壊れたか?」


「壊れてはいません。ただ、これから山の方へ行くかもしれないので、一度見てもらった方がいいのかなって」


「新しい馬車か?」


「かなり新しいです。山間の薬草師向けに作られたものらしくて、高床で、車輪も普通より厚くて……」


「見ねえと何とも言えんな」


 男はあっさり遮った。


 ルシルは口を閉じる。


「ですよね」


「説明が悪いって意味じゃねえぞ。馬車は現物見なきゃ分からん。どれくらい走った?」


 ルシルはヘルガスからの道を頭の中で思い返す。


「ヘルガスからラナ。それから川沿いを回って、ミレ村に寄って、昨日もう一回野営して、今日グレイです」


「新品なら慣らしが進んだ頃か」


 職人の目つきが少し変わった。


「異音は?」


「ないと思います」


「片寄って引く感じは?」


「ないです」


「車輪の熱は?」


 ルシルは詰まった。


「……見てない」


「なら次から長く走った後に触ってみろ。ただし金具をいきなり握るな。異常があれば熱を持つことがある」


「はい」


「もちろん、それだけで全部分かるわけじゃねえぞ」


「はい」


 男はルシルの返事を聞いてから、少し頷いた。


「明日なら朝に一件空きがある。石樽なら持ってきてもいいし、特殊な造りなら俺が先に見に行った方がいいかもしれんな」


「来てもらえるんですか?」


「見るだけならな。分解が必要なら工房へ持ってくる」


 ルシルはモモとシモンを見る。


「どうする?」


「明日の朝なら、トルクとベルクを動かす必要もないかもしれません」


 シモンが答える。


「まず見てもらうだけならお願いしてもよいのでは?」


「私もいいと思います」


「じゃあ、お願いします」


 ルシルが職人へ向き直る。


「名前は?」


「バルガンだ。この工房で車輪と車軸を見てる」


「俺はルシル。こっちがモモで、シモンです」


「分かった。明日の朝、石樽へ行く。宿のガランに言っとけ」


「料金は?」


「点検だけなら見てからだ。何もなきゃ大した額にはならん」


「分かりました」


「あと勝手に車輪外すなよ」


「しません!」


「いや、目がやりそうだったから」


「やりませんって!」


 工房の若者たちが笑う。


 ルシルは少しだけ恥ずかしくなった。


「そんな顔してました?」


 モモが聞く。


「してたんじゃない?」


「していました」


 シモンまで言う。


「シモンまで?」


「知らない構造を見ると触りたそうな顔をしますから」


「俺そんな顔あるの?」


「あります」


 バルガンがまた笑った。


「興味あるのは悪くねえ。ただ馬車の下へ潜る時は、支えを覚えてからにしろ。車体に潰されたら洒落にならん」


「はい」


 今度は真面目に答える。


 道端で荷馬車の修理を手伝った時にも、車体を支えることの大切さは教わった。


 できるようになったことが増えても、知らない部分はまだ山ほどある。


 ルシルはそれを少しも嫌だとは思わなかった。


「仕事中すみませんでした」


「邪魔にならん場所なら構わん。明日な」


「お願いします」


 三人は工房を離れた。


 木槌の音が再び背後で響き始める。


「明日の予定、一個できたな」


 ルシルが言う。


「これで少なくとも朝まではグレイですね」


 モモが嬉しそうに言った。


「あ」


「二泊します?」


「まだ……」


 ルシルは言いかけて止まった。


 明日の朝に馬車を見てもらう。


 その後、すぐ出ることもできる。


 だが、森の調査組が戻れば情報も更新される。


 蹄鉄もまだ相談していない。


 町の工房も、今見たのは一軒だけだ。


「二泊してもいいかも」


 今度は自然にそう思った。


 モモがにっこりする。


「私は賛成です」


「シモンは?」


 シモンは通りの先を見ながら少し考えた。


「僕も反対する理由はありません。明日朝に馬車の点検。その後、必要なら蹄鉄を相談する。森の最新情報も確認できます」


「じゃあ決まり?」


「ただし、今日のうちに宿へ延泊を伝えましょう。同じ部屋を使えるうちに」


「そうだな」


 こうして、グレイで二泊することが決まった。


 最初から予定していたわけではない。


 町へ着いて。


 馬を預け。


 食事をして。


 話を聞き。


 歩いて。


 気になるものが増えた結果、もう一日いることになった。


「次、馬具?」


 モモが尋ねる。


「見ますか?」


 シモンが答える。


「まだ午後だし」


 ルシルも賛成する。


 三人は工房通りをさらに歩いた。


 次に足を止めたのは、革製品を扱う店だった。


 入口の上には馬の頭を模した木製看板が下がっている。


 外には鞍。


 手綱。


 胸当て。


 革帯。


 小さな袋。


 用途の分からない輪のついた帯まで並んでいた。


「これ何?」


 ルシルが一本を指す。


「僕も正確には分かりません」


「聞きましょう」


 モモが店内を覗く。


「すみません」


「はいよ」


 奥から女性が出てきた。


 三十代後半ほど。


 短く切った黒髪に、厚い革の前掛け。


 手には縫い針を持っている。


「何を探してる?」


「探してるというか、これが何か気になって」


 ルシルが外の革帯を指す。


「ああ、尾革だよ」


「おがわ?」


「鞍が前へずれすぎないようにする補助具。全員が使うわけじゃない。馬の体つきと鞍、道次第」


「馬車には使わない?」


「基本そっちじゃないね」


「じゃあ俺たちにはいらないか」


「馬車旅?」


「はい」


「なら必要もないのに買うもんじゃない」


「ですよね」


 モモが小さく頷く。


 ラナで見た革袋を思い出しているのかもしれない。


「馬具は何か困ってる?」


 女性が尋ねた。


「今のところはありません。ただ、これから森と山の方へ行くかもしれなくて」


「馬は?」


「二頭立てです。トルクとベルク」


「名前じゃなくて体格を聞いたんだけど」


「あ」


 ルシルは思わず口を閉じた。


 女性が吹き出す。


「まあ名前があるのはいいことだよ。どんな馬?」


 今度はシモンが二頭の体格や年齢、現在の馬具について簡潔に説明した。


「なら、まず今のを見せてもらわないとね。山へ行くからって革帯を増やせばいいわけじゃない。合わないものを足せば擦れる」


「また同じだ」


 ルシルが呟く。


「何が?」


「現物見ないと分からないって」


「当たり前だよ」


 女性は笑う。


「馬も木も革も、一つ一つ違うんだから」


 車輪職人とよく似た答えだった。


 けれど、同じ言葉を繰り返しているようには感じない。


 扱うものが違っても、職人たちは自分の目で見ることを大切にしているのだろう。


「明日、車輪を見てもらうんです」


 ルシルが言う。


「バルガンに?」


「知ってるんですか?」


「隣の通りで二十年以上やってるんだ。知らない方がおかしい」


「そっか」


「蹄鉄も見るなら、ここを出て北へもう少し行ったところに鍛冶場がある。赤い蹄の看板だ。馬を連れていく前に相談だけしてもいい」


「今日聞きに行っても大丈夫かな」


「今の時間ならいると思うけど、夕方前は預かった仕事で忙しいかもね」


 ルシルは外の光を見る。


 まだ夕方ではない。


 ただ、ここまでですでにかなり歩いている。


「明日でもいいか」


「私は明日がいいと思います」


 モモが言った。


「トルクさんとベルクさんも今日は休む日です」


「だな」


 ルシルはあっさり頷いた。


「今日は見るだけにします」


「それがいい。馬具は逃げないよ」


 女性の言葉に、ルシルは少し笑った。


 道も逃げない。


 店も逃げない。


 旅に出てから似たようなことを何度か聞いた気がする。


 急ぐ必要がないというのは、何もしないことではない。


 今やらなくてもいいものを、明日へ残せることなのだろう。


「ありがとうございました」


「どういたしまして」


 三人は店を出た。


 工房通りをさらに進むと、今度は金属を叩く音が強くなる。


 赤い蹄の看板も遠くに見えた。


「あれですね」


 モモが指す。


「場所だけ覚えよう」


 ルシルが言う。


「今日は行かない?」


「うん。明日、トルクとベルクの状態見てから」


 シモンが隣で頷いた。


「それがいいでしょう」


 モモも不満そうにはしなかった。


 むしろ、明日見るものが増えたことを楽しんでいるようだった。


「じゃあ、もう少し歩きます?」


「どこまで?」


「決めずに」


「それいいな」


 三人は工房通りの終わりまで行ってみることにした。


 車輪。


 馬具。


 金具。


 樽。


 家具。


 工具。


 店先に置かれているものは、どれも王城では完成品としてしか見たことがないものばかりだった。


 ルシルは樽工房の前でも足を止めた。


「樽って、板を曲げてるんだな」


「今さらですか?」


「知識では知ってるよ。でも作ってるところ見たことなかった」


 職人が細長い板を輪の中へ並べている。


 まだ隙間だらけなのに、少しずつ形が丸くなっていく。


 モモはその隣で、小さな木箱を作っている若い女性の手元を見ていた。


「釘が少ないです」


「組んでるんじゃない?」


「どうやって外れないんでしょう」


「聞く?」


「仕事中なので、今日は見るだけにします」


 先ほどルシルが言われたことを覚えていたらしい。


 三人は立ち止まりすぎないよう歩く。


 道の向こうから、木材を積んだ小さな荷車が来た。


 先ほどより荷の量が少ない。


 引いているのは馬ではなく、二人の男だ。


 三人は壁際へ寄って道を空ける。


「ありがとう!」


 荷車を押す男が声を掛け、そのまま通り過ぎていった。


 その荷台に積まれた木材を見て、ルシルは石樽亭で聞いた会話を思い出す。


 北からの材木が遅れている。


 森猪が伐採道近くに出て、作業が早く終わった。


 今見た木材がどこから来たものかは分からない。


 ただ、森の変化は依頼票の中だけにあるのではなく、こういう仕事にも少しずつ触れている。


「気になりますか?」


 シモンが尋ねた。


「ちょっと」


「材木?」


「うん。でも、今のが北から来たのかも分からない」


「そうですね」


「だから聞かない」


 ルシルが言うと、シモンは僅かに笑った。


「珍しいですね」


「何が?」


「ルシル様が気になったことをその場で聞かないのが」


「失礼だな」


「否定できます?」


「……できない」


 モモが笑う。


「でも、明日分かるかもしれません」


「調査の人たちが戻ればな」


「はい」


 工房通りを抜ける頃には、午後の日差しが少し柔らかくなっていた。


 通りの先には小さな石橋があり、その下を細い水路が流れている。


 畑へ水を送るためのものだろうか。


 橋の向こうには家が増え、工房の音が遠くなっていく。


「ここまでかな」


 ルシルが立ち止まる。


「戻ります?」


「うん。宿に二泊するって言わないと」


「忘れてなかったんですね」


 モモが言う。


「さすがに覚えてるよ」


「それからトルクさんとベルクさんを見たいです」


「そうだな」


「僕も賛成です」


 三人は来た道を引き返した。


 帰りは、行きよりも少しだけ歩く速度が速い。


 見たいものがなくなったわけではない。


 ただ、一度見た景色の中を戻ると、今度は別のものが目に入る。


 店の裏で革を干している職人。


 削った木片を集める子供。


 完成した車輪を二人で転がして運ぶ若者。


 小さな傷のある樽を店先で安く売っている工房。


 ルシルは何度か足を緩めたが、今日は立ち止まらなかった。


「明日も来られるしな」


 誰に言うでもなく呟く。


「二泊にしてよかったですね」


 モモが答えた。


「まだ宿に言ってないけど」


「部屋が取れますように」


「朝までなら大丈夫って言ってたから平気だろ」


「絶対とは限りません」


「シモン、急ぐ?」


「走りませんよ」


「ですよね」


 中央広場まで戻ると、人の流れが少し変わっていた。


 昼にいた職人の一部が姿を消し、代わりに森側から戻ってきたらしい冒険者が何人かいる。


 泥のついた靴。


 肩に掛けた弓。


 背負った小さな獲物袋。


 ルシルは冒険者組合の建物へ目を向けた。


 入口には昼より人が多い。


「戻ってきたのかな」


「可能性はあります」


 シモンも見る。


「寄ります?」


 モモが尋ねた。


 三人は少しだけ足を止めた。


 昼に受付の女性は、調査組が早ければ夕方に戻ると言っていた。


 今聞けば、新しい情報があるかもしれない。


「どうする?」


 ルシルが二人を見る。


 シモンは組合と空の明るさを見比べた。


「今すぐ確認しなければ困る状況ではありません。石樽亭へ戻って延泊を確定させ、馬の様子を見る方が先でしょう」


「私もそう思います」


 モモが答えた。


「調査の人が戻っていても、報告を整理する時間が必要かもしれませんし」


「じゃあ明日だな」


「ええ」


 三人は冒険者組合の前を通り過ぎた。


 気になる。


 それでも入らない。


 昼に小さな渡し場を通り過ぎた時とは、また少し違う。


 今度は「必要なら明日聞ける」と分かった上での選択だった。


 石樽亭へ戻る頃には、入口から夕食の仕込みらしい匂いが漂い始めていた。


「またお腹空きそう」


 ルシルが言う。


「まだ早いですよ」


「匂いは時間関係ない」


「それは少し分かります」


 モモが同意する。


「昼食を食べたのは数刻前です」


 シモンが言った。


「シモンはお腹空いてない?」


「まだです」


「香草の蜂蜜菓子食べる?」


「なぜ僕の菓子を食べさせようとするんですか」


「買ったから」


「買ったからといって今すぐ食べる必要はありません」


 受付へ向かう。


 昼にいた女性がまだ帳面を見ていた。


「おや、お帰り」


「ただいま……でいいのかな」


 ルシルが言う。


「泊まってるなら、いいんじゃないかい」


「じゃあ、ただいま」


 女性が笑う。


「町はどうだった?」


「まだちょっとしか見てないです。でも、もう一泊したくなりました」


「そうかい」


「同じ部屋、延ばせますか?」


「明日の分だね。三部屋とも大丈夫だよ」


「お願いします」


 シモンが手続きを進める。


 こうして、グレイでの二泊目が正式に決まった。


 明日の朝にはバルガンが馬車を見に来ることも伝える。


「ああ、バルガンなら問題ないよ。朝来たら裏へ通す」


「ガランさんにも言った方がいいですか?」


「私から伝えとく。ただ馬を出すなら自分たちでも話しておくれ」


「はい」


 手続きが終わると、三人はそのまま厩へ向かった。


 午後の厩には柔らかな斜光が入り、空中に浮く細かな藁埃を金色に照らしている。


 トルクは馬房の中で立っていた。


 ベルクも落ち着いている。


 三人が近づくと、トルクがすぐに顔を上げた。


「ただいま」


 ルシルが声を掛ける。


 トルクが鼻を鳴らす。


「食べ物じゃないぞ」


 もう一度鼻を鳴らした。


「絶対何か期待してる」


「ルシル様が戻ってくると、たまに人参をもらえるからでは?」


「それ俺だけのせい?」


「私もあげています」


「じゃあ二人のせいじゃん」


 ベルクは隣の馬房からシモンを見ていた。


 シモンが近づく。


「どうでした?」


 問いかけに答えるはずはない。


 それでもベルクは鼻先を少し前へ出した。


 シモンが手を差し出すと、その掌へ鼻を寄せる。


「落ち着いていますね」


 声が僅かに柔らかい。


 モモはトルクの水桶を見た。


「ちゃんと飲んでます」


「餌も食べてるな」


 ルシルも確認する。


 朝からグレイまで歩き、昼前に厩へ入った。


 今は脚を休め、知らない場所にも慣れ始めている。


「明日は馬車見てもらうけど、二頭はどうする?」


 ルシルがシモンへ尋ねた。


「バルガンさんが車体を見るだけなら、まず馬をつながずに確認してもらえばいいでしょう。走行状態まで見る必要があると言われたら、その時に相談です」


「蹄鉄も明日?」


「二頭の状態が変わらなければ、鍛冶屋へ相談だけしてみてもいいと思います。ただ、今日一日休んだ後の脚を明朝もう一度見てからですね」


「分かった」


 モモはトルクの頬を撫でる。


「明日もいっぱい歩かせるわけじゃないですからね」


「必要な分だけにしよう」


「はい」


 馬房の奥からガランが姿を現した。


「戻ったか」


「はい。二頭どうでした?」


「何も問題ねえよ。水も飲んだし、餌も食った。栗毛の方は隣の馬が餌もらってる時にちょっと羨ましそうにしてたくらいだ」


「やっぱり」


 ルシルがトルクを見る。


 トルクは知らない顔をしている。


「ベルクは?」


 シモンが尋ねる。


「静かだった。兄貴が見えるからだろうな。最初だけ人が通るたび耳を向けてたが、今は気にしてねえ」


 シモンの肩がほんの僅かに緩んだ。


「ありがとうございます」


「仕事だからな」


「明日の朝、バルガンさんが馬車を見に来ることになりました」


「あいつか。分かった。場所は空けとく」


「蹄鉄も相談したくて」


「赤蹄工房か?」


「たぶんそこです。赤い蹄の看板って聞きました」


「なら腕は確かだ。だが馬を連れていく前に話しとけ。混んでる日に二頭連れてっても待たせるだけだからな」


「はい」


 今日だけで、何度も似たことを教えられている。


 まず聞く。


 現物を見る。


 必要なら動かす。


 強い魔法で何でも片づける三人にとって、普通の旅は不思議なくらい順番が多い。


 けれど、その順番を一つずつ覚えることを、もう面倒だとは感じなかった。


「じゃあ、そろそろ戻る?」


 ルシルが二人へ尋ねる。


「はい」


 モモは頷きながら、小さな蜂蜜菓子の袋へ手を触れた。


「夕食までまだ少しあります」


「食べるの?」


「一個だけ」


「俺にも一個」


「約束通り一個ですよ」


「分かってるって」


「シモン君も食べます?」


「僕は自分のがあります」


 シモンが答えた。


 モモが一瞬黙る。


 それから、とても嬉しそうに笑った。


「そうでした」


「何ですか?」


「何でもありません」


 三人は厩を出た。


 夕方へ向かうグレイの空は、まだ明るい。


 工房の槌音も続いている。


 冒険者組合には、おそらく森から新しい報告が届き始めている。


 けれど、それを確かめるのは明日でもいい。


 馬車の点検も。


 蹄鉄の相談も。


 森の続報も。


 今日一日で全部を終わらせる必要はなかった。


 石樽亭の裏口へ入る直前、ルシルは振り返った。


 荷馬車置き場には、自分たちの焦げ茶色の馬車がある。


 まだ名前はない。


 明日、その車輪を職人に見てもらう。


 それから、また少し先へ進む準備をする。


「ルシル様?」


「今行く」


 モモの声に答え、ルシルは宿へ入った。


 その夜までに決めなければならないことは、もうほとんどない。


 だからまずは、買ったばかりの蜂蜜菓子を一つだけ味わって。


 夕食を食べて。


 眠る前にもう一度、トルクとベルクの顔を見る。


 グレイで迎える最初の夜は、それくらいでちょうどよかった。

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