第29話 旅の道具は、壊れてから直すだけじゃありませんでした
グレイで迎えた二日目の朝、ルシルは窓の外から聞こえてくる車輪の音で目を覚ました。
石造りの壁に囲まれた部屋には、まだ朝の冷たい空気が残っている。薄いカーテンの隙間から差し込む光は白く、通りを行く荷車の音に混じって、遠くから金属を叩く乾いた響きが聞こえていた。
昨日歩いた工房通りでは、もう仕事が始まっているらしい。
「朝、早いな」
寝台の上で身体を起こし、ルシルは一度大きく伸びをした。
王城にいた頃も朝は早かった。
けれど、あの頃は起きた瞬間から予定が決まっていた。
着替え。
朝食。
報告。
執務。
面会。
訓練。
次の予定へ間に合わせるため、今やっていることを終わらせるような日々だった。
今朝の予定も、一応はある。
バルガンに馬車を見てもらう。
トルクとベルクの様子を確認する。
必要なら蹄鉄について相談する。
冒険者組合へ行けば、セイラの森から戻った調査組の報告も聞けるかもしれない。
それでも、昨日の夜に何時から何をして、何刻までに全部を終わらせると決めたわけではなかった。
「……まず朝飯だな」
腹が減っている。
その事実が、今日最初の予定を決めた。
ルシルは寝台を降りて身支度を整えた。
部屋を出ると、ちょうど隣の扉も開く。
「あ、おはようございます」
白い外套を腕へ掛けたモモが顔を出した。
「おはよう。早いな」
「ルシル様も」
「外の荷車で起きた」
「私はパンの匂いで起きました」
「そっちか」
廊下には確かに焼いた穀物の香りが上がってきている。
モモは少しだけ鼻を動かし、階段の方へ視線を向けた。
「昨日の夕食も美味しかったですけど、朝も楽しみです」
「蜂蜜菓子食べた後でも普通に夕飯食べてたもんな」
「一個だけでしたから」
昨夜、夕食前にモモが木の実入りを一つ。
ルシルも約束通り一つだけ分けてもらった。
シモンは自分で買った香草入りを、結局夕食後のお茶と一緒に一つ食べた。
モモはそれを見て妙に嬉しそうにしていたが、からかえばシモンが二度と自分用の菓子を買わなくなりそうだと言って何も言わなかった。
「シモンは?」
「まだみたいですね」
二人が隣の扉を見る。
以前なら、シモンの方が先に起きて廊下で待っていた。
最近はそうでもない。
「起こす?」
ルシルが尋ねる。
「約束の時間は決めていませんし、もう少し待ちませんか?」
「だな」
階下へ先に行こうとしたところで、背後から扉が開いた。
「待たなくても起きていますよ」
シモンが出てくる。
黒髪は整えられ、眼鏡も掛けている。
「おはよう、シモン」
「おはようございます」
「おはようございます、シモン君」
「おはようございます、モモ嬢」
モモの眉が僅かに動く。
けれど今朝は何も言わなかった。
代わりに階下から漂う香りをもう一度吸い込む。
「朝ご飯にしましょう」
「それには賛成です」
三人は揃って階段を下りた。
食堂にはすでに数組の客がいる。
昨日見かけた職人らしい男たちもおり、大きなパンをちぎりながら今日の仕事について話していた。窓際では二人組の冒険者が地図を広げているが、声を潜めているため内容までは聞こえない。
三人は空いていた四人掛けの卓へ座った。
朝食は、厚めに切ったパンと炒めた豆、薄切りの燻製肉、柔らかく煮た葉野菜。それに温かい乳が付いた、宿場町らしいしっかりした内容だった。
「今日は大盛りじゃないんだな」
料理を見たルシルが言う。
「ここは麦角亭ではありませんよ」
シモンが答える。
「ラナのあれはすごかった」
「私は小さい方にして正解でした」
「その後、焼き林檎食べてたけど」
「最初からそのためです」
モモは堂々と答え、パンをちぎった。
朝食を食べながら、今日の順番だけを簡単に確認する。
「バルガンさんが来るの、朝ってだけだったよな」
ルシルが尋ねる。
「ええ。具体的な時刻は決めていません」
「じゃあ先に馬を見て、馬車のところで待つ?」
「それが自然でしょう。来るまで長く掛かるようなら、ガランさんに声を掛けておけばいいと思います」
「蹄鉄屋さんはその後ですか?」
モモが聞く。
「馬車点検の内容次第ですね。バルガンさんから山道について何か聞けるかもしれません」
「冒険者組合は?」
「午後でも構いません」
シモンは温かい乳を一口飲む。
「昨日の調査報告が戻っているとしても、朝までに整理されているでしょう。むしろ少し時間を置いた方が確認しやすいかもしれません」
「じゃあ、午前は馬車と馬だな」
「はい」
それ以上、細かな時間までは決めなかった。
食事を終える頃には、窓から入る光が少し黄色みを増していた。
三人は一度部屋へ戻り、必要なものだけ持って厩へ向かう。
外へ出ると、朝のグレイは昨日の午後とは違う顔を見せていた。
宿の前を通る荷車の数はまだ少ない。
代わりに、仕事へ向かう職人たちが目立つ。
腰に道具袋を下げた男。
長い革を肩へ掛けた女性。
二人で鋸を運ぶ若者。
パン屋の前では店員が木箱を外へ出しており、路地の奥からは湯気が立っている。
「朝の町も面白いですね」
モモが周囲を見回す。
「昨日と人が違う感じする」
「仕事を始める時間が職種によって違うのでしょう」
シモンも足を止めずに通りを見る。
「工房は比較的早いようですね」
宿の裏へ回ると、厩にはすでにガランがいた。
灰色がかった作業着の袖をまくり、別の馬の脚を触っている。
「おはようございます」
「おう。起きたか」
ガランは作業を止めずに答えた。
「バルガンはまだ来てねえぞ」
「先にトルクとベルクを見ます」
「好きにしな。二頭とも朝飯は済んでる」
三人は馬房へ向かった。
トルクは人の気配を感じるとすぐに顔を上げる。
ベルクは一拍遅れて、隣からこちらを見た。
「おはよう」
ルシルがトルクの前へ立つ。
栗毛の鼻先が近づいてきた。
昨日一日休んだからか、目にも落ち着きがある。
モモは馬房の扉越しに脚元を見る。
「昨日より元気そうに見えます」
「昨日も元気だったけどな」
「でも、いっぱい休みました」
「それはそう」
シモンはベルクへ近づき、声を掛けてから肩へ触れた。
嫌がる様子はない。
脚を一本ずつ確認し、蹄の状態を見る。
「ベルクは問題なさそうです」
「トルクも見よう」
ルシルは昨日までに何度も教わった順番を思い出しながら、トルクの脚へ手を添えた。
声を掛ける。
肩から下へ手を滑らせる。
脚を上げてもらう。
最初の頃よりは自然にできる。
それでも、蹄のどこを見れば全て分かるのかと聞かれれば答えられない。
「石、挟まってない」
「蹄鉄の浮きも見てください」
シモンに言われ、縁へ指を当てる。
「たぶん大丈夫」
「たぶん?」
「だって俺、職人じゃないし」
「その答えでいいと思います」
シモンは意外にも訂正しなかった。
「明らかな異常がないことを毎日確認するのと、専門家が状態を判断するのは別ですから」
「じゃあ、分からないところは今日聞こう」
「はい」
モモもトルクの反対側から覗き込む。
「私も見たいです」
「順番な」
「分かっています」
ルシルが脚を下ろしてから、モモが同じように触れる。
トルクは慣れたものらしく、大人しくしていた。
「この線は何ですか?」
モモが蹄の表面を指す。
ルシルも見る。
薄い筋のようなものが横へ走っている。
「俺に聞かれても」
「シモン君」
「僕も馬の蹄専門ではありません」
「じゃあ、ガランさん?」
三人が揃って振り返る。
少し離れた場所で作業していたガランが、こちらを見ていた。
「何だ?」
「この線です」
モモが指す。
ガランが近づいてくる。
トルクの蹄を一度見ただけで、特に慌てた様子はなかった。
「成長した跡みたいなもんだ。深く割れてるわけじゃねえ。今のところ気にしなくていい」
「そうなんですか」
「蹄も伸びるからな」
モモが目を丸くする。
「爪みたいに?」
「まあ、近い」
「切るんですか?」
「削る。伸びた分を整えて、蹄鉄も合わせ直す」
「見てみたいです」
「鍛冶場へ行くなら見せてもらえるかもしれねえな。仕事の邪魔にならなきゃ」
「はい」
モモは嬉しそうに頷いた。
その時、宿の裏口の方から足音がした。
「朝から勉強熱心だな」
聞き覚えのある太い声。
ルシルが振り返る。
昨日の車輪工房で会ったバルガンが、革製の道具袋を肩へ掛けて歩いてきた。
「おはようございます!」
「おう」
「来てくれたんですね」
「来るって言っただろ」
バルガンはガランにも軽く手を上げる。
「邪魔するぞ」
「場所は空けてある」
「助かる」
それだけで話が通じたらしい。
バルガンは三人より先に荷馬車置き場へ向かった。
「どれだ?」
「あれです」
ルシルが自分たちの馬車を指す。
焦げ茶色の車体。
朝露はほとんど乾いている。
厚い車輪。
高めの床。
旅を始めてから何度も泥や石の道を走ってきたが、外見だけなら大きな傷はない。
バルガンは数歩手前で止まった。
「……へえ」
昨日とは少し違う声が出る。
「変ですか?」
「逆だ。思ったよりちゃんとしてる」
「ちゃんとしてる?」
「薬草師向けって言ってたな」
「はい」
バルガンは返事を聞きながら車体の周囲を一周した。
まだ触らない。
車輪の位置。
車体の高さ。
軸。
底部。
前側の連結部分。
見る場所を少しずつ変えている。
ルシルたちは邪魔にならない位置へ下がった。
「触っていいか?」
「もちろんです」
「荷は?」
「ほとんど収納魔法です」
「なら軽いのか」
「普通よりは」
「普段どれくらい積む?」
「旅道具はありますけど、重い物はほとんど収納しています」
バルガンは少し考える。
「この馬車、ある程度荷を載せる前提で足回り作ってるな」
「軽すぎても駄目なんですか?」
「駄目ってほどじゃない。ただ、空に近いと跳ね方が変わる。路面が悪いところじゃ、重さがある方が落ち着くこともある」
ルシルは車体を見る。
「重い方がいい時もあるんだ」
「何でも重けりゃいいわけじゃねえぞ」
「はい」
「極端に覚えるな」
昨日も似たことを言われた気がする。
バルガンは道具袋を地面へ置いた。
まず右前輪へしゃがむ。
木部を指でなぞり、鉄の外輪を小さな金槌で軽く叩いた。
甲高い音が朝の荷馬車置き場へ響く。
場所を変えて、もう一度。
さらに別の場所。
「音で分かるんですか?」
モモが尋ねた。
「分かることもある」
「全部?」
「全部分かったら楽なんだけどな」
バルガンは笑わない。
耳を澄ませながら車輪を少し回す。
「音だけじゃねえ。緩み、割れ、外輪の浮き、輻の具合。見て、触って、叩いて、それでも怪しけりゃ外す」
「なるほど」
「昨日の親方の仕事と同じですね」
モモが言う。
「昨日も俺だ」
「あ」
「別人だと思ってたのか?」
「違います! 昨日見た時の作業と同じという意味です」
「ならいい」
バルガンの口元が少し上がる。
右前輪。
左前輪。
右後輪。
左後輪。
一つずつ同じように見ていく。
ルシルは途中から、何かを質問するより手元を眺めることにした。
バルガンは同じ動きをしているようで、少しずつ違う。
右後輪では、他より長く一か所を触った。
「そこ何かあります?」
我慢できず聞く。
「少し待て」
「はい」
バルガンは車輪を回した。
もう一度止める。
今度は軸側へ手を伸ばす。
「走ってる時、右後ろで一回大きい石か穴を踏んだか?」
「右後ろ……」
ルシルは考える。
ヘルガスを出た初日。
穴を前輪では避けた。
けれど、後輪が端を踏んだ。
「あります」
「いつ?」
「旅の最初の方です。前は避けたんですけど、後ろが穴の端を踏みました」
「その後、異音は?」
「なかったと思います」
「ならいい」
「何か壊れてます?」
ルシルの声に少し力が入った。
バルガンは首を横へ振る。
「壊れてねえ。輻の一本にごく浅い当たり跡がある。外輪も問題ない。これくらいなら普通に使ってりゃ付く」
ルシルは息を吐いた。
自分でも、少し緊張していたらしい。
「俺がぶつけたやつかな」
「断定はできねえよ」
「でも多分」
「だから極端に覚えるなって」
バルガンが顔を上げる。
「馬車は道具だ。走れば傷は付く。傷が付いたことと、壊したことは同じじゃねえ」
ルシルは浅い跡を見る。
近づいてよく見なければ分からない程度だ。
「……はい」
「それに、最初から全部避けられる御者なんかいねえ。大事なのは、ぶつけた後に変な音や傾きがないか気づくことだ」
「分かりました」
シモンが隣で何も言わずにいる。
以前のルシルなら、失敗したと分かった瞬間、もっと引きずったかもしれない。
王子として教えられてきたことは、失敗をしないこと。
少なくとも人前では、簡単な失敗を見せないこと。
けれど馬車を運転し始めてから、失敗しない日はほとんどなかった。
後輪を穴へ乗せる。
杭を強く打ちすぎる。
野菜を不揃いに切る。
肉を少し焦がす。
寝床の下に石を残す。
どれも王位や国政には関係のない失敗だ。
それなのに、その一つ一つを覚えている。
そして、次は少しだけうまくできる。
「次、下見るぞ」
バルガンの声で思考が戻る。
「支え、必要ですか?」
ルシルが尋ねた。
「今日は外さねえから潜り込まん。横から見るだけだ」
バルガンは地面へ片膝をつき、車体の下を覗く。
ルシルも見たくなったが、昨日「勝手に潜るな」と言われたばかりだ。
横でしゃがむだけにする。
「ここ、鉄が入ってるんですね」
モモも少し離れて覗く。
「軸の芯だな。全部木より丈夫だが、重くなる」
「この板が二重なのは?」
「底板か。石跳ね対策もあるだろうな。下側だけ傷んだ時に交換しやすい造りでもある」
「そこまで分かるんですか?」
「見りゃな」
「私は見ても分かりません」
「最初はそんなもんだ」
バルガンは後部へ移る。
板の接合部。
金具。
ばねに似た金属部品。
昨日ルシルが説明しようとした部分も、一つずつ確かめていく。
「これ、変わってます?」
「ちょっとな」
「やっぱり?」
「普通の荷馬車より揺れを逃がすようにしてる。山の薬草師が使うなら、瓶や乾燥薬草を傷めにくくするためだろ」
「俺たち、薬草ほとんど積んでないけど」
「別に薬草しか運べねえわけじゃない」
「そうですよね」
「ただ特殊な部品は、壊れた時にどこでも同じ物が手に入るとは思うな」
それは購入時にも聞いている。
ルシルの表情を見たのか、バルガンが続けた。
「知ってる顔だな」
「買う時に言われました」
「なら忘れるな。普通の町なら応急処置はできても、同じ部品へ交換できるとは限らん」
「予備を買っておいた方がいい?」
ルシルが尋ねる。
バルガンはすぐには答えなかった。
「何でも予備を積めば安心だと思うか?」
「……違いますね」
「何でだ?」
「必要か分からないものまで買うことになるから」
「それもある。収納魔法なら重さは気にしなくていいんだろうが、持ってるだけで使えるとは限らねえ」
バルガンは金属部品を指した。
「これが壊れるような状況なら、交換に道具と知識が要る。予備だけ持ってても自分らで直せなきゃ意味が薄い」
「じゃあ、どうするんですか?」
モモが尋ねる。
「壊れにくいように点検する。壊れた時は、壊れたままでも安全な場所まで行ける方法を知る。必要な予備だけ持つ。それでも駄目なら助けを呼ぶ」
「全部自分たちで直せなくてもいいんですね」
「当たり前だろ」
バルガンは立ち上がり、腰を軽く叩いた。
「旅人が全員、車大工になってたら俺らの仕事がなくなる」
ルシルは笑った。
「確かに」
「ただ、壊れてるのに走り続ける馬鹿にはなるなよ」
「それは嫌です」
「なら異音と傾きと熱くらい覚えとけ」
「はい」
バルガンは今度は前側へ回り、牽引部分を確認した。
革の状態。
金具。
左右の遊び。
ここは馬具とも関わるらしく、ガランも途中から加わる。
「革はまだ新しいな」
ガランが触る。
「擦れも大したことねえ」
「昨日休ませて正解だったな」
バルガンが言う。
「馬も馬車も、休んだから直るってもんじゃないけど」
「でも無理して走らせるよりはいいだろ」
「そりゃな」
二人の職人が短いやり取りをする。
ルシルたちは口を挟まず聞いていた。
「山へ行くんだって?」
バルガンが尋ねる。
「セイラの森を通るかもしれません。その先の山道も」
「なら車輪は今のままでいい」
「何も交換しなくていい?」
「少なくとも俺なら交換しない」
ルシルは思わず馬車を見た。
昨日、工房を見て。
今朝、点検を頼んで。
何か一つくらい部品を交換するのだと思っていた。
「本当に?」
「何で残念そうなんだよ」
「残念じゃないです」
「新しい部品付けたかった顔だぞ」
「違います!」
モモが口元を押さえている。
シモンも視線を逸らした。
「二人とも笑ってるだろ」
「笑っていません」
「少しだけです」
「シモンは認めるんだ」
「必要のない修理をしないと分かったのは良いことですから」
バルガンは道具を袋へ戻し始めた。
「後ろの一本に浅い跡。金具に通常の擦れ。軸のがたつきなし。外輪の浮きなし。牽引部も今は問題なし。新品からそこそこ走った割にはきれいだ」
「じゃあ合格?」
「何の試験だ」
「旅の馬車として」
「使えるからここまで来たんだろ」
「それもそうか」
「ただし」
バルガンは右後輪を軽く叩いた。
「今日か次に長く走った後、四輪の軸周りの熱を自分で比べてみろ。一本だけ明らかに熱いなら、そのまま走らず見てもらえ」
「どれくらいが熱いんですか?」
「最初から手のひらで触るな。手の甲を近づけて、異常に熱を持ってないか見る。触れる程度なら左右を比べろ。走り方や天気でも変わるから、数字だけ覚えるより差を見るんだ」
「差を見る」
「そうだ」
「分かりました」
「あと山道じゃ、下りの方が気をつけろ」
「上りじゃなくて?」
「上りは馬が疲れる。下りは馬車が馬を押す」
ルシルは一瞬意味を考えた。
バルガンは車体の前から後ろへ手を動かす。
「重い馬車が坂を下りりゃ、前へ進もうとするだろ。馬は引くだけじゃなく、それを抑えなきゃならん。勾配がきつけりゃ速度を落とす。長い下りなら途中で休ませる。路面が滑るなら、なおさらだ」
「だから蹄鉄?」
「それもある。ただ蹄鉄だけ良くしたって、御者が速度出せば意味ねえ」
ルシルは真剣に頷く。
「ゆっくり行きます」
「最初はそれでいい」
「最初?」
「慣れても無茶すんなって意味だ」
「はい」
モモが横から手を上げた。
「私も運転するんですけど、同じですか?」
「同じだ」
「分かりました」
「そっちの兄ちゃんも?」
バルガンがシモンを見る。
「三人で交代しています」
「なら全員覚えとけ。坂の途中で交代するより、平らなところで代われ」
「はい」
三人が揃って答える。
バルガンは一瞬目を丸くし、それから笑った。
「学校みてえだな」
「俺たち、まだ初心者なので」
「初心者って言えるうちはまだましだ」
道具袋を肩へ掛ける。
「点検は終わりだ」
「ありがとうございました」
ルシルが頭を下げる。
モモとシモンも続く。
料金を尋ねると、バルガンは昨日言った通り少額だけを示した。
「これだけ?」
「何も直してねえからな」
「でも結構教えてもらいました」
「じゃあ次に車輪壊した時うちへ来い」
「壊さないようにします」
「それが一番だ」
バルガンが豪快に笑う。
「まあ、グレイ通ることがあったらまた見せろ。今度はどこに傷増やしたか見てやる」
「増やす前提なんですか?」
「走れば増える」
昨日聞いた言葉と同じだ。
けれど今度は、ルシルもすぐに意味が分かった。
「分かりました。また来たらお願いします」
「おう」
バルガンはガランへ一声掛け、そのまま宿の裏口へ向かっていった。
三人はしばらく馬車の前に残った。
「問題なくてよかったですね」
モモが言う。
「うん」
ルシルは右後輪へ近づいた。
浅い当たり跡。
指で触れてみる。
ほんの小さな傷だ。
「気になります?」
シモンが尋ねる。
「ちょっと。でも、嫌じゃない」
「嫌じゃない?」
「俺が運転して走った跡かもしれないから」
ルシルは車輪から手を離した。
「もちろん壊したくはないけどさ。ずっと新品みたいなままだったら、それはそれで旅してないみたいだろ」
モモが馬車を見る。
泥は落としてある。
草も取り除いている。
それでも近くで見れば、細かな傷は増えていた。
「この馬車も旅してるんですね」
「そうかも」
「でしたら、名前をつけます?」
モモが突然言った。
ルシルとシモンが同時に彼女を見る。
「今?」
「前から名前をつける話はありましたよね」
「あったけど」
「ずっと決まってません」
確かにそうだ。
馬車を買った時から、名前をつけるかどうか何度か話題にはなった。
けれど、これだというものが出ないまま今日まで来た。
「モモ、何か思いついた?」
「今はまだ」
「じゃあ何で言ったの」
「今なら前より考えやすいかなと思ったんです」
モモは焦げ茶色の車体を見上げる。
「買った時は、まだこの馬車で何もしていませんでした。でも今は、トルクさんとベルクさんと一緒にいろんな道を走りました」
ヘルガスを出た。
最初の街道。
旅人の泉。
夕日の丘。
初めての野営。
泥道。
壊れた荷馬車との同行。
ラナ。
川沿いの道。
石原。
柔らかな路肩。
ミレ村。
そしてグレイ。
「確かに」
ルシルは少し考えた。
「でも急いで決めなくてもいいんじゃない?」
「はい。私もそう思います」
「じゃあ、何で今言ったの」
「候補を考え始めてもいいかなって」
「なるほど」
シモンは馬車を見ながら、特に案を出さない。
「シモンは?」
「今決めないのでしょう?」
「候補」
「ありません」
「即答」
「適当につけるよりいいでしょう」
「それもそうだ」
名前の話は、それで終わった。
決めない。
けれど、忘れたわけでもない。
いつか三人が同じ名前を気に入った時に決めればいい。
「次は蹄鉄?」
モモが尋ねる。
「その前にガランさんにも聞こう」
ルシルは厩へ戻った。
ガランはちょうど別の馬へ飼葉を足している。
「馬車終わったか?」
「問題ないそうです」
「そりゃ良かった」
「それで、蹄鉄なんですけど」
「二頭とも今すぐ替える必要はねえぞ」
「やっぱり?」
「今朝見た限りじゃな」
ガランは作業を終え、手についた草を払った。
「ただ山へ入る前に、赤蹄の連中へ一度見てもらうのは悪くない。路面の情報も持ってる」
「滑り止めって、普通の蹄鉄とかなり違うんですか?」
モモが尋ねる。
「形もあるが、馬と道次第だ。溝を深くしたり、小さい突起を使ったりすることもある。ただ何でも引っかかりゃいいってもんじゃねえ」
「また現物ですね」
「当たり前だ」
三人とも少し笑った。
ガランは不思議そうに眉を上げる。
「何だ?」
「昨日から、何回も同じことを教えてもらってる気がして」
ルシルが答える。
「現物を見ないと分からないって」
「そりゃそうだろ」
「やっぱり言うんだ」
「何の話だ?」
「こっちの話です」
ガランは首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
「赤蹄へ行くなら、馬は置いてけ。まず話して、必要なら連れていけばいい」
「はい」
「場所は覚えてるか?」
「赤い蹄の看板」
「工房通りを北へ行って右だ」
「分かりました」
三人はもう一度トルクとベルクへ声を掛け、厩を出た。
朝の空気はすでに少し暖かくなっている。
「今から蹄鉄屋?」
ルシルが尋ねる。
「いいと思います」
「私もです」
中央広場へ向かい、昨日歩いた工房通りへ入る。
朝は昨日より仕事の音が強い。
車輪工房の前を通ると、バルガンはまだ戻っていないらしく、若い職人二人が昨日の車輪を作っていた。
一人が三人に気づく。
「親方、馬車見に行っただろ?」
「今戻ってくるところです」
ルシルが答える。
「壊れてた?」
「大丈夫でした」
「そりゃ残念」
「何でですか!」
「仕事増えたのに」
若者が笑う。
奥から別の職人が「客の馬車壊れて喜ぶな!」と怒鳴り、通りまで笑い声が響いた。
三人も笑いながら先へ進む。
「こういう町、面白いな」
ルシルが言う。
「職人さんが多いからですか?」
「うん。それぞれ見てるところが違う」
「昨日の冒険者組合でも同じことを言っていましたね」
シモンが言う。
「森も?」
「ええ。冒険者、猟師、木こり、街道所。立場によって持っている情報が違います」
「じゃあ、蹄鉄屋も道のこと知ってるかも」
「ガランさんもそう言っていました」
「聞いてみよう」
赤い蹄の看板はすぐ見つかった。
黒く煤けた木の看板に、赤く塗られた蹄鉄が打ちつけられている。
工房の奥では炉が赤く光り、朝だというのに周囲の空気が熱い。
入口の脇には完成した蹄鉄が大きさ別に並べられていた。
「形、全部違います」
モモが見比べる。
「大きさも」
「馬の蹄が全部同じではありませんからね」
シモンが答える。
「でも、あれは突起ある」
ルシルが一つを指す。
普通の蹄鉄より縁が厚く、いくつか小さな突起が付いている。
「山用かな」
「勝手に触らないでくださいよ」
「触らないって」
その時、工房の奥から女性が出てきた。
四十代ほど。
肩までの茶髪を布でまとめ、厚い革手袋を片方だけ外している。
「何か用?」
「蹄鉄の相談です」
ルシルが答える。
「馬は?」
「石樽亭で休ませています。先に相談した方がいいって言われて」
「誰に?」
「ガランさんと、馬具屋さん」
「なら正解」
女性は三人を順番に見る。
「山へ行くの?」
「セイラの森の先へ進む予定です」
「いつ?」
ルシルは答える前に二人を見る。
「まだ決めてない」
「なら急いで馬を連れてこなくていい」
女性は店先の蹄鉄を一つ取った。
「今の鉄が悪くなければ、そのままでも通れる道は多い。ただ、上の道が濡れてる時は滑りやすい」
「昨日、二日前に山で雨が降ったって聞きました」
シモンが言う。
「それならまだ残ってるだろうね。日陰は乾きにくい」
「この突起があるやつを付ければ大丈夫?」
ルシルが尋ねる。
「大丈夫なんて言葉を蹄鉄一個に背負わせるんじゃないよ」
即座に返された。
「はい」
ルシルは姿勢を正した。
モモが隣で少し笑っている。
「馬の体格、蹄、今の鉄、荷の重さ、道。それを見て決める。滑りにくくした分、平地で引っかかりが強すぎることもある。付けりゃ万能ってもんじゃない」
「昨日から何度も聞く話だ……」
「何?」
「何でもありません」
女性は首を傾げた。
「二頭立て?」
「はい。七歳の栗毛と六歳の濃い灰色です」
「体格は?」
今度は名前ではなく、きちんと説明する。
シモンも補足した。
「馬車は少し重めです。ただ、荷は収納魔法を使うので通常は軽い方だと思います」
「御者は?」
「三人で交代です」
「山道経験は?」
三人が黙った。
「ありません」
ルシルが代表して答える。
「なら蹄鉄より先に、下りで速度出すな」
「今朝も言われました」
「誰に?」
「バルガンさん」
「あの親父なら言うだろうね」
「知り合いなんですか?」
「この町で車輪見てる人間と蹄鉄見てる人間が知らないわけないだろ」
昨日の馬具屋と同じような返事だ。
小さな町ではない。
それでも、旅を支える職人たちは互いに仕事がつながっているらしい。
「馬は今日休ませる?」
「できれば」
「なら午後遅くじゃなく、昼過ぎくらいに連れてきな。見るだけなら二頭で半刻もかからない。替える必要があるなら、その時決める」
「今日で大丈夫なんですか?」
「今ならな。午後に荷馬車が一台入る予定だから、それより前がいい」
「お願いします」
「名前は?」
「ルシルです。モモとシモン」
「私はデリア。馬を連れてくる時、石樽のガランに一言言ってから来な。道中で乗らずに引いてくればいい」
「分かりました」
「あと」
デリアは三人を見た。
「森の街道へ行くなら、今朝の掲示は見た?」
三人の表情が変わった。
「まだです」
シモンが答える。
「何か出たんですか?」
「私は仕事しながら聞いただけだから詳しくは知らない。北の調査組が昨夜戻ったらしいよ」
「北って、伐採地の?」
「たぶんね」
「何があったんですか?」
ルシルが尋ねる。
デリアは首を横へ振った。
「だから詳しくは知らないって言っただろ。森猪の足跡がどうとか、木こりが使う道より奥で何か見つけたとか、その程度しか聞いてない」
ルシルは口を閉じる。
知りたい。
すぐ冒険者組合へ行けば確認できる。
けれどデリアの話は又聞きだ。
ここで推測しても仕方がない。
「分かりました。組合で聞きます」
「そうしな。私から聞くより百倍ましだ」
「じゃあ、午後にまた来ます」
「おいで」
三人は赤蹄工房を出た。
炉の熱から離れると、朝の風が思った以上に涼しく感じられる。
通りには職人たちの声が行き交い、荷車が一台ゆっくり横を通り過ぎていった。
ルシルは中央広場の方向を見る。
「組合、行く?」
「行きましょう」
今度はシモンも迷わなかった。
「午後まで待つ理由はありません。蹄鉄を見てもらうのは昼過ぎですし、その前に確認できます」
「モモは?」
「もちろん行きます」
三人は歩き出す。
昨日と同じ道。
けれど、今日は知りたいことが一つ増えている。
「木こり道より奥って何だろう」
ルシルが呟く。
「まだ分かりません」
シモンが答える。
「足跡があっただけかもしれません。木が倒れていたのかもしれない。別の魔物の痕跡かもしれない」
「いっぱいありますね」
モモが言う。
「ええ。だから、先に情報を聞きます」
中央広場が見えてくる。
昨日と同じように人が行き交っている。
パンを買う人。
工房へ材料を運ぶ人。
宿から出てくる旅人。
その向こうに冒険者組合の建物がある。
入口脇の掲示板には、昨日より何枚か紙が増えているように見えた。
「あれかな」
ルシルが少し歩調を速める。
「走らないでくださいよ」
シモンが言う。
「走ってない」
「昨日のモモ嬢と同じことを言っています」
「私は本当に走っていませんでした」
「俺も本当に走ってない」
「二人とも歩幅が広がっています」
言われて、ルシルとモモが互いを見る。
確かに二人とも少し速い。
「シモンも早く歩けば?」
「なぜ僕が合わせるんですか」
「三人で早く行ける」
「普通に歩いてもすぐ着きます」
そんな話をしているうちに、結局すぐ着いた。
冒険者組合の入口前には昨日より多くの人がいる。
ただ、騒ぎになっているわけではない。
数人の冒険者が新しく貼られた紙を読み、その内容について低い声で話している。
「北側、しばらく採取も止めるってよ」
「伐採地だけだろ?」
「いや、奥の旧道まで確認入れるらしい」
「猪だけじゃねえのか?」
「だから調べるんだろ」
断片的な声が耳へ入る。
ルシルは掲示板へ向かおうとして、一度止まった。
「受付からにする?」
昨日と同じだ。
紙だけ見て勝手に考えるより、まず確認する。
「そうしましょう」
シモンが頷く。
「昨日の方、いますかね」
モモが中を覗く。
受付台の向こう。
栗色の髪を後ろでまとめた女性が、ちょうど一人の冒険者から書類を受け取っていた。
「いる」
三人は組合へ入った。
昨日より、森から戻ったらしい冒険者が多い。
泥のついた靴。
湿った外套。
枝で擦れた革鎧。
壁際では弓を持った男性が仲間と地図を囲んでいる。
その近くに置かれた机には、土のついた布袋が一つ載っていた。
ルシルは気になったが、覗き込まない。
受付の女性が書類を受け取り終え、顔を上げる。
三人に気づいた。
「ああ、昨日の」
「おはようございます」
「おはよう。早速来たね」
「北の調査組が戻ったって聞きました」
ルシルが言うと、女性の表情から少しだけ笑みが消えた。
「戻りました」
「何か分かったんですか?」
「分かったこともあります」
女性はそこで言葉を切った。
「ただ、分からないことも増えました」
三人は互いに顔を見合わせる。
昨日、森の様子がおかしいと言われても、何がおかしいのか分からなかった。
一晩経てば、少し答えに近づくのだと思っていた。
けれど、どうやらそう単純ではないらしい。
「聞かせてもらえますか?」
シモンが静かに尋ねる。
「もちろん。そのために掲示も更新しました」
女性は受付台の下から、昨日とは違う紙束を取り出した。
その一番上には、森の北側を簡単に描いた地図があった。
「まず、森猪の足跡についてです」
彼女の指が地図の一点へ置かれる。
「伐採道の近くで見つかった足跡は、少なくとも三頭分。ここまでは予想の範囲でした」
指が少し奥へ動く。
「問題は、その先です」
ルシルは息を整え、地図を見る。
女性の指先が止まったのは、伐採地よりさらに森の奥。
街道からも離れた場所だった。
「古い作業道の途中で、森猪の足跡が突然ばらけています」
「ばらける?」
「三頭とも、同じ方向へ移動していた形跡がそこで崩れています。二頭は西。一頭は南へ向きを変えています」
「何かに驚いた?」
モモが尋ねる。
「その可能性はあります」
女性は頷いた。
「そして、その場所で――」
一度、言葉を選ぶように視線を落とす。
「木が何本か倒れていました」
「風?」
ルシルが聞く。
「昨日も一昨日も、そこまで強い風は吹いていません」
「魔物?」
「まだ分かりません」
女性は、はっきりそう答えた。
「倒れた木には爪痕も噛み跡も確認されていません。切断された形でもありません。根元から倒れているものもあれば、途中で折れているものもあるそうです」
シモンが地図を見る目を細める。
「範囲は?」
「確認できたのは七本。広い範囲ではありません」
「地面に何か痕跡は?」
「あります」
女性の声が少し低くなった。
「ただ、それが何の痕跡なのか、調査した冒険者たちにも判断できませんでした」
ルシルは地図から顔を上げた。
「どんな?」
「木が倒れていた中心付近で、土が浅く沈んでいます」
「足跡じゃなくて?」
「足跡なら、もう少し話は簡単だったんですけどね」
女性は苦笑しなかった。
「円に近い形で、地面そのものが少し下がっているそうです」
モモの表情からも、先ほどまでの軽さが消える。
「穴ですか?」
「穴と呼ぶほど深くはありません。数寸程度。直径は……」
女性が紙を確認する。
「およそ五歩から六歩」
「大きいな」
「はい」
「魔法の跡?」
ルシルがシモンを見る。
シモンはすぐには答えなかった。
「現物を見なければ分かりません」
そして、昨日から何度も聞いてきた言葉を自分でも口にしたことに気づいたのか、僅かに眉を動かした。
ルシルも気づいた。
モモも気づいた。
三人の視線が一瞬だけ交わる。
だが、今は笑わなかった。
「調査組は、それ以上奥へ行ったんですか?」
シモンが尋ねる。
「行っていません」
「理由は?」
「日没までに戻るなら、そこで引き返す必要があったこと。それと、未知の痕跡を見つけた状態で少人数のまま奥へ進むべきではないと判断したためです」
「何人だったんですか?」
「四人。森に慣れたCランク三名と、地元猟師一名です」
ルシルは小さく頷いた。
強いか弱いかではない。
知らないものを見つけたから戻った。
それは、今朝バルガンから聞いた「壊れているのに走り続けるな」という話と、どこか似ている気がした。
「今日、また調べに行く?」
「その予定です。ただし人数を増やし、別方向からも確認します」
「俺たちに何かできる?」
口から出た言葉に、受付の女性がルシルを見る。
隣でシモンは止めなかった。
モモも黙っている。
「依頼を受けたいという意味ですか?」
女性が尋ねる。
ルシルは少し考えた。
目の前で困っているなら助けたい。
気になるなら見たい。
それは本当だ。
けれど、自分たちはこの森を知らない。
地元の猟師より道を知らず、木こりより地形を知らない。
強いからというだけで、先頭に立つ理由にはならない。
「……今すぐ俺たちが行った方がいいなら」
ルシルはそう答えた。
「でも、地元の人たちで調べられるなら、勝手に入るつもりはないです」
女性は少しだけ目を細めた。
「現時点では、追加の戦力が足りない状況ではありません」
「なら、行かない」
「ただ」
女性は続ける。
「皆さんが今後セイラの森を通る予定なら、今日の調査結果は確認してから出た方がいいと思います」
「それはもちろん」
シモンが答えた。
「今日中に出発する予定はありません」
「それなら助かります」
ルシルは地図へ視線を戻した。
七本の倒木。
ばらけた森猪の足跡。
浅く沈んだ地面。
それだけでは、何が起きたのか分からない。
「角鹿と灰色狼は?」
モモが尋ねた。
「西側の角鹿については、昨日午後に別の観察報告がありました。五頭のうち四頭はさらに西へ移動。一頭は森へ戻った形跡があります。灰色狼は新しい被害報告なしです」
「じゃあ、やっぱり全部が同じ方向に逃げてるわけじゃない」
ルシルが言う。
「今の情報だけなら、そうですね」
女性が答える。
シモンは地図をじっと見ている。
ルシルは彼に意見を求めようとして、やめた。
まだ材料が少ない。
昨日、シモン自身がそう言っていた。
「今日の調査は、いつ戻る予定ですか?」
「日帰り組は夕方です。ただ、状況によっては現場近くで一泊する班も出ます」
「無理に夕方戻らない?」
「はい。明るいうちに安全な場所へ移れることを優先します」
「分かりました」
ルシルは受付台から少し身体を離した。
「じゃあ俺たちは、予定通り町にいます」
「蹄鉄も見てもらいます」
モモが付け加える。
女性が一瞬きょとんとする。
「蹄鉄?」
「これから山道へ行くかもしれないので」
「ああ、なるほど」
「馬車も今朝見てもらいました」
「ずいぶん堅実ですね」
「俺たち初心者なので」
ルシルが答えると、女性は少し笑った。
「それなら、そのまま慎重に行ってください」
「はい」
三人は礼を言って受付を離れた。
掲示板へ向かう。
新しく貼られた注意書きには、森北側の一部採取依頼を一時停止すること、旧作業道周辺へ無断で入らないこと、街道自体は現時点で通行可能であることが記されていた。
「街道は通れる」
ルシルが確認する。
「今は、ですね」
シモンが答える。
「今日の調査で変わる可能性はあります」
「じゃあ、出発決めるのはその後」
「ええ」
モモは掲示の一番下まで読み、それから二人を見る。
「今日はまだグレイですね」
「嬉しそうだな」
「だって、まだ町を全部見ていません」
「森が気にならないわけじゃない?」
「気になります」
モモは少しだけ声を落とした。
「でも、私たちが今すぐ行っても何ができるか分かりません。それなら、必要な準備をして待つ方がいいと思います」
ルシルは頷いた。
「俺も」
シモンは二人を見てから、眼鏡を軽く押し上げる。
「では、昼過ぎにトルクとベルクをデリアさんへ見てもらいましょう。その後は自由時間で構いません」
「自由時間」
ルシルが笑う。
「何ですか?」
「シモンが言うと、ちょっと面白い」
「予定を詰めないという意味です」
「分かってるって」
「私は何か食べたいです」
モモが言う。
「朝食からそんなに経ってないぞ」
「今すぐとは言ってません」
「何食べたい?」
「昨日、ルシル様が言っていた川魚」
「あ」
すっかり忘れていた。
グレイで食べたいものとして、蜂蜜菓子と一緒に挙げていた。
「昼に探す?」
「はい」
「シモンは?」
「構いませんよ」
「じゃあ決まり」
森の中では、まだ何かが分からないまま残っている。
調査は今日も続く。
その答えを待つ間に、三人には三人のやることがある。
トルクとベルクの蹄を見てもらう。
昼になったら川魚を食べる。
気になった店があれば覗く。
そして夕方、必要ならもう一度ここへ来る。
ルシルは組合の扉を開けた。
外では、グレイの朝がもうすっかり動き始めている。
職人の槌音。
荷車の軋み。
パンを売る声。
遠くで鳴く馬。
森に異変があるかもしれなくても、町の時間は今日も流れていた。
「昼まで何する?」
ルシルが尋ねる。
「川魚のお店を探しながら歩きます?」
モモが答える。
「それ、結局食べ物中心じゃない?」
「途中で何か面白いものがあったら見ます」
「順番が逆だろ」
「どちらでも同じです」
シモンが二人の後ろからついてくる。
「昼食の前に食べ歩きだけはしないでくださいよ」
「しません」
「俺まで見ないで」
「昨日、モモ嬢の蜂蜜菓子を一つもらったでしょう」
「一個だけじゃん」
「だから今日は買えばいいんです」
「何を?」
「それを僕に聞かないでください」
三人の声が、朝の広場のざわめきへ混ざっていく。
森の答えは、まだ出ない。
けれど、それを急いで決めつける必要もなかった。
分からないなら、分からないまま待つ。
必要なものを整えながら、次の情報を待つ。
旅を始めたばかりのルシルなら、その時間を退屈だと思ったかもしれない。
今は違う。
待っている間にも、知らない町には見るものがいくらでもあった。




