第30話 山道へ行く前に、馬の靴まで選ぶことになりました
冒険者組合を出た三人は、中央広場の端でいったん足を止めた。
朝のうちは長く伸びていた建物の影が少しずつ縮み、石畳へ落ちる日差しにも暖かさが増している。広場を横切る人の数は昨日より多く、工房へ材料を運ぶ荷車と買い物籠を提げた住民、その間を抜ける冒険者たちが、それぞれ違う速度で行き交っていた。
組合の入口脇では、先ほど見た新しい掲示を読む者がまだ何人もいる。
森猪。
倒木。
浅く沈んだ地面。
旧作業道周辺への立ち入り制限。
気になることは残っている。
けれど、今日の追加調査はすでに始まっており、自分たちが今から追いかけても仕方がない。
「昼まで、どうする?」
ルシルは広場を見回しながら尋ねた。
「さっき言った通り、川魚のお店を探したいです」
モモは迷わない。
「ただし、まだ食べません」
「そこは強調するんだ」
「シモン君が心配していましたから」
「僕は食べ歩きをしないでくださいと言っただけです」
シモンは眼鏡の位置を直し、広場の西側へ視線を向けた。
「魚を扱う店なら、川に近い側へ行けば見つけやすいかもしれません。宿の方に聞いてもいいですが、せっかく時間がありますし、歩いて探しますか?」
「探そう」
「はい」
すぐに決まった。
三人は広場の西側へ向かう。
昨日歩いた北側の工房通りとは違い、こちらは食料品を扱う店と住宅が混ざっていた。干した豆を量り売りする店、香草を束にして軒下へ吊るした店、籠いっぱいの根菜を並べる露店。その間に、小さな食堂や酒場らしい看板がいくつも見える。
川そのものは町の中心から少し離れているらしく、まだ水面は見えない。
けれど風に混じる匂いは少し変わった。
「魚の匂いします」
モモが言う。
「分かる?」
「たぶん」
「甘い匂いじゃなくても分かるんだ」
「ルシル様」
「冗談だって」
モモは少し頬を膨らませたが、すぐに通りの先へ顔を向けた。
確かに、焼いた魚の皮に似た香ばしい匂いが漂ってくる。
まだ昼食には早い時間なのに、仕込みを始めている店があるらしい。
「こっちかな」
ルシルが匂いの方へ歩こうとすると、シモンが横から言った。
「匂いだけ追って路地へ入って、戻る道を忘れないでくださいよ」
「忘れないよ」
「ミレ村でも知らない道へ普通に入りましたから」
「あれは三人で決めただろ」
「今回は魚の匂いだけが案内役です」
「ちゃんと通り見てるって」
二人のやり取りを聞きながら、モモが前方を指す。
「あれじゃないですか?」
木製の看板があった。
青く塗られた魚が一匹。
その下に、波を表したらしい三本の線。
文字は『川灯り亭』。
入口脇にはまだ準備中を示す札が掛けられている。
「見つけた」
ルシルが嬉しくなって近づく。
「まだ開いてませんね」
「昼になったら来よう」
「何があるか見えます」
店の外壁には小さな木札が何枚か掛かっていた。
川魚の塩焼き。
香草蒸し。
小魚と豆の煮込み。
魚の揚げ焼き。
季節の野菜。
「塩焼き」
ルシルは最初の札を見る。
「香草蒸しも気になります」
モモはその下。
「小魚と豆の煮込みは、この辺りの家庭料理かもしれませんね」
シモンはさらに下を見る。
三人の視線が別々の札へ向いていた。
「一人ずつ違うの頼めばいいんじゃない?」
ルシルが言う。
「分けます?」
「嫌じゃなければ」
「私は大丈夫です」
「僕も構いません」
昼食の候補があっさり決まった。
まだ店は開いていない。
そこで終わりにしてもいいのだが、ルシルは看板の魚を見上げた。
「これ、何の魚だろ」
「店が開いたら聞けばいいのでは?」
「それまで覚えてたら」
「ルシル様なら食べ物のことは覚えているでしょう」
「モモに言われたくない」
「私は覚えています」
「知ってる」
三人は店の場所を覚え、そのまま西へ歩いてみることにした。
少し進むと建物の間隔が広がり、道の向こうから水の音が聞こえ始める。
グレイの西側には細い支流が流れていた。
ラナから来る途中に見た大きな川とは比べものにならないほど狭い。幅は十数歩ほどで、両岸には低い石積みがあり、洗い場らしい階段が水辺まで続いている。
上流側には小さな木橋。
そのさらに向こうでは、二人の男が細長い籠を水から引き上げていた。
「魚?」
モモが立ち止まる。
「たぶん」
三人は邪魔にならない石積みの上から眺めた。
籠の中で銀色の小さなものが跳ねる。
一匹。
二匹。
男の一人が籠を傾け、別の木桶へ移していく。
「いっぱい入ってます」
「小さいな」
「全部食用とは限りませんよ」
シモンが言う。
「餌に使う魚や、育っていないものを戻すこともあります」
「詳しい?」
「一般論です。この川の漁については知りません」
「聞いてみたいな」
ルシルは漁をしている男たちを見る。
ただ、二人は手を止めず忙しそうに作業している。
「今はやめとくか」
「珍しいですね」
「シモン、それ昨日も言った」
「では訂正します。少しずつ待てるようになりましたね」
「それもなんか上からだな」
「事実でしょう」
モモがくすりと笑う。
「お店で聞きましょう。魚のことなら、料理する人も知っているかもしれません」
「そうしよう」
水辺には朝の光が細かく反射していた。
流れは穏やかだが、岸近くと中央では速度が違う。
小さな魚影が石の間を走り、すぐ見えなくなる。
「海は、これよりずっと大きいんですよね」
モモが呟いた。
声はいつもの明るさを保っている。
けれど水面を見る横顔には、少し遠くを見るような色があった。
「俺も見たことないからなあ」
ルシルは隣に立つ。
「シモンは?」
「遠くからなら一度だけ」
二人が同時に振り返る。
「見たことあるの!?」
「何で今まで言わなかったんですか!」
シモンが僅かに身を引いた。
「近くまで行ったわけではありません。外交使節に同行した際、海岸沿いの高台から見えただけです」
「海だった?」
「海でしたよ」
「どんなでした?」
モモが一歩近づく。
シモンはすぐには答えず、目の前の小さな川を見る。
「……大きかったです」
「それだけ?」
「かなり遠かったので」
「色は?」
「青かったと思います」
「音は?」
「聞こえる距離ではありませんでした」
「匂いは?」
「分かりません」
モモの肩が少し落ちた。
「シモン君、海を見た人の話として情報が少ないです」
「仕事で行ったんです。景色を見るために立ち止まったわけではありませんから」
そう言ったシモン自身が、ほんの少しだけ苦い顔をした。
ルシルはそれを見たが、何も言わなかった。
昔のシモンなら、それが普通だった。
目の前に海が見えていても、次の仕事があればそちらを見る。
「じゃあ次はちゃんと見よう」
ルシルが水面へ視線を戻す。
「三人で行った時」
シモンは一拍置いた。
「そうですね」
「その時は匂いも覚えてください」
モモが言う。
「努力します」
「音も」
「はい」
「味も」
「海水は飲まないでください」
「飲みませんよ!」
モモの声に、川辺で籠を上げていた男の一人がこちらを見た。
何の話をしているのか分からないのだろう。
目が合うと、男は笑いながら首を振った。
モモは少し恥ずかしそうに声を落とす。
「聞こえました」
「かなり大きかったからな」
「ルシル様のせいです」
「俺何もしてない」
三人は川沿いを少しだけ歩いた。
釣り糸を垂らしている老人。
桶を洗う店員。
水を汲む女性。
町の中央とは違う静かな生活の音がある。
川灯り亭の魚も、この流れか、もう少し下流で獲れたものなのだろうか。
それを確かめるのは昼でいい。
時計代わりに町の鐘が鳴るまで、三人は川辺の道をゆっくり歩いた。
◇
昼を知らせる鐘が鳴る少し前、川灯り亭へ戻ると、準備中の札はすでに裏返されていた。
店内へ入る。
広くはない。
六つの卓。
壁際に長い卓が一つ。
石造りの壁には魚を捕るための古い籠や、木製の浮きが飾られている。
厨房からは魚の焼ける香りと、香草を刻んだ爽やかな匂いが流れてきた。
「三人?」
店員らしい若い男性が声を掛ける。
「はい」
「窓際空いてるよ」
案内された卓からは、建物の間を抜けて少しだけ川が見えた。
モモは窓側。
ルシルが向かい。
シモンが隣へ座る。
「やっぱり塩焼きにする」
ルシルは木札の献立を見る。
「私は香草蒸しです」
「僕は小魚と豆の煮込みにしましょう」
「じゃあ予定通りだな」
「分けるんですよね?」
「一口ずつ」
「ルシル様の一口は大きそうです」
「普通だよ」
「先に分けてから食べましょう」
「信用ないなあ」
注文を取りに来た店員へ三品を頼む。
「この魚って、この川で獲れるんですか?」
ルシルはついでに尋ねた。
「塩焼きと蒸し魚は上流だね。小魚は町の西の流れでも獲れるよ」
「さっき籠で獲ってる人がいました」
「ああ、あれならたぶん店にも来る」
「ここの?」
「うちにも来るし、他にも卸すよ」
店員は慣れた様子で答える。
「塩焼きは何て魚ですか?」
「石鱒」
「いします?」
「岩陰にいるやつ。ここの上流は水が冷たいから身が締まる」
「香草蒸しも同じ?」
「今日は同じ。料理法が違うだけ」
モモの目が少し輝く。
「食べ比べできますね」
「できるね」
店員は笑って厨房へ戻った。
待っている間にも客が増える。
作業着姿の職人二人。
買い物帰りらしい年配の女性。
冒険者らしい四人組。
昼時になるにつれ、店内の話し声と食器の音が重なっていく。
やがて最初に運ばれてきたのは、ルシルの塩焼きだった。
「おお……」
皿から少しはみ出すくらいの魚が一匹。
皮にはきれいな焼き目がつき、粗い塩が薄く残っている。
横には酸味のある小さな実と、茹でた葉野菜。
「いい匂いです」
モモが少し身を乗り出す。
「まだ俺のだからな」
「分かっています」
続いて香草蒸し。
こちらは開いた魚に緑の香草と薄切りの根菜が載り、湯気と一緒に柑橘に似た香りが立つ。
最後は小魚と豆の煮込み。
深めの器に小さな魚と白い豆、刻んだ玉ねぎに似た野菜が入っている。
「全然違う」
ルシルが三つを見比べる。
「同じ魚でも料理で変わりますね」
「煮込みは別の魚ですけどね」
「シモン、そこは分かってる」
「一応です」
まず自分の料理を一口食べる。
石鱒の皮は香ばしく、身は思ったより柔らかい。
塩は強すぎない。
噛むと魚そのものの味が残る。
「うまい」
ルシルは思わず笑った。
「そっちは?」
モモは蒸した身を慎重にほぐしている。
「柔らかいです。香草の匂いが強いかと思いましたけど、魚の味もちゃんとします」
シモンは煮込みを一匙。
「小魚の出汁が豆へ移っていますね。見た目より味が濃いです」
「じゃあ交換」
三人は最初に決めた通り、少しずつ取り分けた。
ルシルは香草蒸しを食べる。
「本当だ。全然違う」
「どっちが好きです?」
「塩焼き」
「即答ですね」
「モモは?」
「香草蒸しです」
「シモンは煮込み?」
「僕は……」
シモンは塩焼きを一口食べた。
次に香草蒸し。
少し考える。
「塩焼きですね」
「お」
「シモン君、同じですか」
「素材の味が分かりやすいので」
「じゃあ今度二人で塩焼き頼めば?」
「モモ嬢は香草蒸しでしょう?」
「三人で来るんですから」
あまりに当然のように言われ、シモンが一瞬黙った。
ルシルは魚の骨を外しながら、その横顔を見る。
「また来る前提なんだな」
「駄目ですか?」
「全然」
モモは少し笑う。
「ヘルガスにも戻るんですよね」
「うん」
「ラナにも」
「行きたい」
「ミレ村にも」
「甘いやつ焼いてくれるって言ってたもんな」
「はい」
「増えてくな」
行きたい場所が。
戻りたい場所が。
旅に出た時は、前へ進むことしか考えていなかった。
海へ行く。
知らない場所へ行く。
王城からできるだけ遠くへ。
それだけだったはずなのに、進むほど後ろにも場所が増えていく。
けれど、それを重いとは思わなかった。
「ルシル様、骨」
「え?」
「そこ小さい骨あります」
「あ、ほんとだ」
モモに指摘され、ルシルは箸代わりの細い木具で骨を避ける。
「魚は気をつけてください」
「はい」
「モモ嬢も先ほど一本残っていましたよ」
「シモン君」
「僕は見ました」
「……はい」
今度はルシルが笑う番だった。
食事はゆっくり進んだ。
店が混み始めても、すぐ席を立つほどではない。
ただし長居しすぎないよう、食べ終えた後は水を一杯飲んで席を空ける。
会計を済ませて外へ出ると、日差しは朝より明らかに強くなっていた。
「美味しかったです」
モモが満足そうに言う。
「また食べたい」
「今度は揚げ焼きも気になります」
「もう次決めてる」
「ルシル様もでしょう?」
「まあ」
「二人とも、今食べたばかりですよ」
シモンはそう言うが、口元は穏やかだった。
「そろそろトルクとベルク迎えに行く?」
「時間としてはちょうどいいでしょう」
三人は石樽亭へ戻ることにした。
◇
昼を過ぎた厩は、朝より静かだった。
外へ出ている馬が多く、空いた馬房がいくつかある。
トルクとベルクは変わらず落ち着いていた。
「今からちょっとだけ出るぞ」
ルシルがトルクへ声を掛ける。
馬に意味が全部伝わっているとは思わない。
それでも、声を掛けずに動かすより自然になっていた。
ガランにもデリアとの約束を伝える。
「今ならいいだろ」
ガランは二頭の脚を一度見てから頷いた。
「馬車は置いてけ。引いて行くんだぞ」
「はい」
「帰ったら水飲ませろ。距離は大したことねえが、今日は朝より暖かい」
「分かりました」
三人で二頭を連れ、宿を出る。
トルクの手綱はルシル。
ベルクはシモン。
モモは二頭の間ではなく、少し外側を歩く。
馬車を引いていない二頭と町を歩くのは、少し不思議な感じがした。
「トルク、軽そう」
ルシルが言う。
「馬車がありませんからね」
「散歩だと思ってるかな」
「どうでしょう」
トルクは道端の野菜店へ一瞬顔を向けた。
「食べ物だと思ってるかも」
「そっちですね」
モモが笑う。
店主も馬に気づき、籠を少し奥へ寄せた。
「兄ちゃん、そいつ野菜好きか?」
「好きですけど、勝手には食べさせません!」
「分かってるならいい」
店主は笑いながら手を振る。
トルクには少し不満そうに鼻を鳴らされた。
「帰ったら何かもらおうな」
「約束しすぎないでくださいよ」
シモンがベルクを連れながら言う。
「人参一本くらい」
「運動量を見てからです」
「厳しい」
「普通です」
工房通りへ入ると、金属音が次第に大きくなる。
二頭とも耳を動かした。
特にベルクは、炉の方から大きな槌音が響くたびに少しだけ首を上げる。
「大丈夫ですよ」
シモンが低い声で呼びかける。
歩みは止めない。
手綱も強く引かない。
ベルクはシモンの方へ片耳を向け、そのまま歩き続けた。
ルシルはそれを横目で見る。
以前、知らない厩へ入る時にベルクが少し迷ったことがあった。
今も慎重なのは変わらない。
けれどシモンがそばにいる時の落ち着き方は、もう偶然には見えなかった。
「何ですか?」
シモンがこちらを見る。
「何でもない」
「なら前を見てください。トルクが寄っています」
「うわ」
トルクが店先の干し草へ近づこうとしていた。
「そっちは違う」
慌てず進路を戻す。
後ろでモモが笑っている。
「笑うなよ」
「トルクさんらしいです」
「俺のせいじゃないからな」
「誰も言ってません」
赤い蹄の看板が見えた。
赤蹄工房の前には、朝にはいなかった大きな鹿毛の馬が一頭つながれている。
蹄の作業中らしく、デリアとは別の若い職人が前脚を支えていた。
「少し待った方がいいですね」
モモが声を落とす。
「うん」
三人は工房から少し離れた日陰へ二頭を連れていく。
待っている間にも、金属を削る音が響く。
トルクは比較的平然としている。
ベルクは音が鳴るたび耳を向けるが、逃げようとはしない。
「こういう音にも慣れないとな」
ルシルが言う。
「無理に慣らす必要はありませんが、落ち着いていられるなら良い経験でしょう」
シモンはベルクの首筋を軽く撫でる。
モモは作業中の鹿毛を見ていた。
「蹄、削ってます」
「朝言ってたやつだな」
「見たいですけど、近づいたら邪魔ですよね」
「終わってから聞こう」
「はい」
少しして、作業が終わった。
鹿毛の持ち主らしい男性が職人へ代金を払い、馬を連れていく。
デリアが工房から顔を出した。
「来たね」
「お願いします」
「二頭とも入れなくていい。まずそっちの栗毛から見よう」
トルクが選ばれた。
「名前は?」
「トルクです」
「今度は名前を聞いたんだよ」
「昨日は体格って言われたから!」
デリアが笑う。
「真面目だねえ」
ルシルは少し恥ずかしくなる。
「七歳でしたね」
モモが小声で助ける。
「そう、七歳」
「そこは覚えてるよ」
デリアはトルクの前へ立ち、まず顔や姿勢を確認した。
すぐ脚へ触るわけではない。
「普段、嫌がる?」
「蹄を見る時ですか?」
「そう」
「ほとんどありません」
「なら持つよ」
声を掛けながら肩へ触れ、前脚を上げる。
トルクは素直に応じた。
デリアは蹄鉄の縁へ指を滑らせる。
釘。
蹄壁。
減り方。
地面へ接する部分。
ルシルは少し横から覗く。
「昨日、こっちの蹄に線があったんですけど」
「どれ?」
「ここ」
「ああ」
デリアは一度見て、指でなぞった。
「問題ない。伸びた時期の違いで出ることがある。割れも深くない」
「ガランさんも同じこと言ってました」
「なら何でまた聞いたの」
「別の人にも確認したかったから」
「慎重だね」
「初心者なので」
「それ便利な言葉にしてない?」
「してません」
デリアは笑いながら、別の脚へ移った。
四肢すべて。
左右を比べる。
歩かせる。
少し曲がらせる。
硬い地面と土の上で足運びを見る。
「今の鉄、まだ使える」
「交換しなくていい?」
「平地だけならね」
「山だと?」
「そこを考える」
デリアは店先に並べた蹄鉄のうち、一つを持ってきた。
朝ルシルが見ていたものより、突起はずっと小さい。
「この程度の滑り止めなら、今の二頭と馬車には候補になる」
「朝の大きいのじゃないんだ」
「あれはもっと条件の悪い場所向けだ。冬場や、ぬかるみのきつい作業道で使うことが多い」
「強い方がいいわけじゃない」
「やっと分かってきたね」
ルシルは頷いた。
「ちょっとだけ」
「全部分かった顔しないのは偉い」
次はベルク。
シモンが連れてくる。
デリアが近づくと、ベルクは一度だけ鼻を鳴らした。
「慎重な方?」
「トルクよりは」
「無理に押さえなくていいよ」
デリアはすぐ脚を取らず、まず首筋へ触れた。
ベルクが匂いを確認する。
少し待つ。
それから肩。
脚。
順番に触れていく。
「この子は、人を見てから決めるね」
「そうかもしれません」
シモンが答える。
「兄貴は平気そうだけど」
「トルク以外の馬とはあまり仲良くないそうです」
「人は?」
「慣れれば」
「この兄ちゃんには慣れてる」
デリアが何気なく言った。
シモンの表情が一瞬止まる。
「そう見えますか?」
「見えるよ。さっきから何かあるたびそっち見てる」
ベルクがまるで言葉を理解したように、シモンへ顔を向けた。
モモが口元を緩める。
ルシルも笑いそうになったが、今回は我慢した。
「何ですか?」
シモンが二人を見る。
「何も」
「何でもありません」
「絶対何かありますよね」
「ベルクさんがシモン君を好きなんだなって思っただけです」
「モモ嬢」
「本当のことです」
デリアが声を立てて笑った。
「馬に好かれて困ることはないよ」
「困ってはいません」
シモンはそう答え、ベルクの鼻先へ手を置いた。
声こそいつも通りだが、手つきは柔らかい。
デリアはベルクの蹄も一つずつ確認する。
「こっちも今の鉄自体は悪くない。ただ、栗毛より後ろが少し減ってるね」
「ベルクの方が?」
「そう。歩き方の差だ」
「問題ですか?」
「今すぐは。ただ山へ入るなら、二頭とも同じ日に合わせ直した方が管理しやすい」
「滑り止め付きに?」
「私はそう勧める」
デリアは断言した後、二頭を見る。
「ただし、山へ行くのが明日か明後日か、それより先かで少し変わる」
「どうして?」
「付けた直後に長距離を走らせるより、一度短く歩かせて違和感がないか見たいから」
「なるほど」
「今日替えるなら、明日は町の近くを少し歩かせて確認。問題なければその次の日以降に山へ向かうのが無難」
ルシルは二人を見る。
「どうする?」
モモはトルクの脚を見る。
「私は今日お願いして、明日確認したいです」
「僕も同意します」
シモンが答える。
「森の調査結果も今日中に確定するとは限りません。少なくとも急いで出る理由はありませんから」
「じゃあ俺も」
ルシルはデリアへ向き直る。
「お願いします」
「分かった」
「二頭とも今日できる?」
「できる。さっきの一頭が終わったから時間もある」
デリアは工房の若い職人へ声を掛けた。
道具が運ばれてくる。
モモは少し離れた位置から目を輝かせた。
「見ていてもいいですか?」
「馬が落ち着いてるならね。正面には立つな。後ろにも回るな」
「はい」
「ルシルも」
「俺も?」
「一番近づきそうだから」
「分かりました」
「否定しないんですね」
シモンが言う。
「今日はもう何回も言われてるから」
作業はトルクから始まった。
古い蹄鉄を外す。
釘を抜く。
ルシルは、釘が蹄へ刺さっているのを見て少し顔をしかめた。
「痛くないの?」
「打つ場所を間違えなきゃね」
デリアが答える。
「蹄の外側は、人の爪と近い。もちろん深く打てば駄目だし、雑にやっていいって意味じゃない」
「だから職人がやるんだ」
「そういうこと」
古い蹄鉄が外れる。
その下にあった蹄を削り、形を整える。
モモは本当に声を出さず見ていた。
朝、ガランから「削る」と聞いた時から気になっていたのだろう。
「思ったより少しずつですね」
作業が一段落したところで、ようやく口を開く。
「一気に削ったら戻せないからね」
「料理と同じです」
「料理?」
「野菜も厚く切ったら薄くできないので」
「それはちょっと違うんじゃない?」
ルシルが言う。
「でも、やりすぎたら戻せないのは同じです」
デリアは面白そうに笑った。
「まあ、考え方は近いかもね」
新しい蹄鉄は、そのまま付けるわけではなかった。
炉で熱する。
金床へ置く。
槌で形を微調整する。
トルクの蹄へ合わせる。
また直す。
「最初から馬ごとに作るんじゃないんだ」
「大まかな型はある。そこから合わせるんだよ」
「服みたいですね」
モモが言う。
「今度はそれ、結構近い」
「やった」
「何の勝負だよ」
「別に勝負ではありません」
熱した鉄を蹄へ合わせる時、一瞬だけ焦げたような匂いが立った。
ルシルは思わずトルクの顔を見る。
「大丈夫?」
トルクは意外なほど平然としている。
「痛くない範囲で合わせてる」
デリアが説明する。
「嫌がったらすぐ離す。煙が出るから初めて見る人は驚くけどね」
「俺が驚きました」
「馬より先に?」
「はい」
モモが笑いをこらえている。
「モモも最初びっくりしただろ」
「少しだけです」
「絶対俺と同じ顔してた」
「してません」
トルクの四肢が終わるまでには、それなりに時間が掛かった。
ただ待っているだけなのに、退屈はしない。
足ごとに微妙に鉄の形が違う。
削る量も違う。
釘を打つ位置も同じではない。
完成した四つを見ても、素人のルシルにはほとんど違いが分からない。
「これで終わり?」
「まだ」
デリアはトルクを歩かせた。
数歩。
曲がる。
戻る。
硬い場所。
少し柔らかい場所。
脚の運びを見る。
「問題なし」
「よかった」
「次、灰色」
ベルクの番になる。
最初は少し緊張した。
古い鉄を外す音に耳を動かし、脚を戻そうとしたことも一度ある。
「大丈夫ですよ」
シモンが近くから声を掛ける。
無理に押さえない。
デリアも待つ。
数呼吸。
ベルクの身体から力が抜ける。
「もう一回いくよ」
再び脚を取る。
今度は大丈夫だった。
「シモン君、すごいです」
モモが小声で言う。
「僕が何かしたわけではありません」
「声掛けました」
「それくらいです」
「でもベルクさん、ちゃんと聞いてました」
シモンは答えず、ベルクを見ていた。
ルシルはその横顔を見て、今度こそ何も言わなかった。
ベルクがシモンを頼っている。
シモンもそれを受け入れている。
もう毎回言葉にして確認するようなことではない。
二頭目の作業が終わる頃には、太陽が少し西へ傾き始めていた。
「歩かせるよ」
デリアがベルクを引く。
最初の数歩。
問題なし。
少し速く。
曲がる。
戻る。
「よし」
「終わり?」
「終わり」
ルシルは二頭の足元を見る。
見た目では、朝と大きく違わない。
けれど新しい蹄鉄には小さな滑り止めが付いている。
「これで山道大丈夫?」
口にしてから、ルシルは自分で気づいた。
「あ。大丈夫って蹄鉄だけに背負わせるな、だった」
デリアが笑った。
「覚えてるじゃないか」
「今日だけで何回も似たこと言われたから」
「これで滑りにくくはなる。でも、濡れた石、泥、急な坂、馬の疲れ、馬車の速度。全部別だ」
「はい」
「明日、一度軽く歩かせる。違和感がなければ問題ない。釘の浮きも見る」
「自分たちでも?」
「毎朝見てるんだろ?」
「一応」
「なら今まで通りでいい。何か変なら聞け」
「分かりました」
代金を支払う。
二頭分なので小さな買い物ではない。
それでも必要な準備だ。
シモンも金額を確認し、異論はなかった。
「ありがとうございました」
「明日、何か変なら連れておいで」
「はい」
「山へ行く日が決まったら、前日の天気も見なよ」
「天気?」
「上で雨降りゃ、町が晴れてても道は濡れる」
「それも聞いてから行きます」
「よし」
三人はトルクとベルクを連れて赤蹄工房を出た。
来た時より二頭の歩き方が変わったように見える。
けれど、それが本当に蹄鉄の違いなのか、ルシルが意識して見ているからなのか分からない。
「変じゃない?」
「今のところは」
シモンもベルクの歩みを見ている。
「ただ、デリアさんが言った通り、明日改めて確認しましょう」
「はい」
モモもトルクの脚を見る。
「トルクさん、歩きにくくないですか?」
当然、返事はない。
代わりにトルクは道端の別の野菜店へ顔を向けた。
「それより食べ物らしい」
「元気そうですね」
「判断基準それでいいの?」
「食欲は大事ですよ」
「それはそうだけど」
石樽亭へ戻る。
ガランは二頭の新しい蹄鉄を見ると、しゃがんで一つずつ確認した。
「小さい滑り止めにしたか」
「デリアさんがこれくらいでいいって」
「ならいいだろ」
「明日軽く歩かせます」
「そうしな。今日はもう馬房で休ませろ」
「はい」
二頭を戻す。
水。
状態。
脚。
いつもの確認を簡単に済ませる。
トルクには約束した人参を少量。
ベルクにも同じだけ。
「シモン、あげる?」
ルシルが一本差し出す。
「僕が?」
「ベルクに」
シモンは一瞬だけ迷ったが、受け取った。
ベルクへ差し出す。
鼻先が近づき、人参を取る。
噛む音が小さく響く。
「食べた」
「見れば分かります」
「嬉しい?」
「普通です」
その返事に、モモとルシルは顔を見合わせた。
今度は二人とも笑わない。
ただ、同じことを考えたのは分かった。
「何ですか、その顔は」
「何でもない」
「何でもありません」
「二人とも同時に言うと余計怪しいですよ」
厩に穏やかな空気が流れた。
外からは、午後の荷車の音。
少し離れた工房から槌音。
馬が飼葉を噛む音。
今日はもう、トルクとベルクを動かす必要はない。
「これで今日やること終わり?」
ルシルが尋ねる。
「必須のものは、ですね」
シモンが答える。
「森の調査結果は?」
「戻るなら夕方でしょう。今すぐ組合へ行っても、まだ早い可能性があります」
「じゃあ、それまでどうします?」
モモが尋ねる。
三人は少し考えた。
町を見る。
休む。
宿でお茶を飲む。
川へもう一度行く。
工房通りへ行く。
選択肢はいくらでもある。
「何もしない?」
ルシルが言った。
モモが瞬きをする。
シモンも僅かに眉を上げた。
「何もしない?」
「うん。宿戻って、ちょっと休む」
「ルシル様からそれを言うとは思いませんでした」
「俺だって休むよ」
「昨日までずっと何か見たがっていたので」
「今日は朝から馬車見て、組合行って、魚食べて、蹄鉄見てたし」
「十分動いていますね」
シモンが言う。
「じゃあ休もう」
「賛成です」
モモも頷く。
「私、お茶飲みたいです」
「蜂蜜菓子?」
「一個だけ」
「俺も欲しい」
「自分で買ってください」
「まだ昨日の一個しかもらってない」
「昨日、一個だけって約束しました」
「今日の分は?」
「約束してません」
「厳しい」
「ルシル様が自分用を買わなかったんです」
シモンが横から言う。
「シモンの香草入り一個」
「嫌です」
「即答」
「自分で買ってください」
三人は厩を出る。
宿の中へ戻ろうとした時だった。
通りの向こうから、馬の蹄音が聞こえた。
一頭ではない。
数頭。
速すぎる走りではないが、町の中としては少し急いでいる。
三人は自然に振り返った。
石樽亭の前の通りを、四人の冒険者が歩いてくる。
馬に乗っている者が二人。
残り二人は徒歩。
全員の外套に泥がついていた。
一人は腕へ布を巻いている。
血で濡れているようには見えないが、森から戻ったばかりなのは明らかだった。
「調査組?」
モモの声が少し低くなる。
「可能性はあります」
シモンが答える。
四人は宿へ入らず、そのまま中央広場の方向へ進んでいく。
先頭の男が、道を空けた住民へ何か言った。
声は小さく、内容までは聞こえない。
ただ、住民の表情が変わった。
「何かあったのかな」
ルシルは彼らの背中を見る。
追いかければ、すぐ分かるかもしれない。
けれど、ここから冒険者組合までは遠くない。
正式な報告が済んでから聞けばいい。
「休むんじゃなかったんですか?」
シモンが尋ねた。
ルシルはしばらく調査組らしき四人を見送った。
「……休む」
「いいんですか?」
今度はモモが聞く。
「報告する前に捕まえて聞くより、終わってからの方がいいだろ」
「そうですね」
「夕方になったら行こう」
「はい」
三人は宿へ入った。
食堂の隅に空いた卓を見つける。
温かい茶を三つ頼む。
モモは宣言通り木の実入りの蜂蜜菓子を一つだけ出した。
ルシルはそれを羨ましそうに見たが、今回は要求しない。
「そんなに見てもあげませんよ」
「見てるだけ」
「欲しそうです」
「欲しいけど」
「お店、まだ開いてますよ」
「今から買いに行くのもなあ」
「明日買えばいいでしょう」
「そうする」
シモンは自分の香草入りを出さない。
代わりに茶を一口飲み、椅子の背へ少し身体を預けた。
外では町が動いている。
調査組が戻ったらしい。
森で何かがあったかもしれない。
それでも今、三人ができることは報告を待つことだけだ。
ルシルも茶を飲む。
熱い。
少し冷ましてからもう一口。
「休むのも慣れてきたな」
「そうですか?」
モモが蜂蜜菓子を口の中で転がしながら尋ねる。
「前だったら、あの人たち追いかけてたかも」
「ルシル様ならやりそうです」
「だよな」
「今でも気になっているでしょう?」
シモンが言う。
「気にはなる」
「なら、それでいいのでは?」
「どういう意味?」
「気になることと、今すぐ動くことは同じではないというだけです」
ルシルは少し考える。
それから頷いた。
「うん」
窓の外では、午後の日差しが石畳を照らしている。
その先。
建物の向こう。
さらに北にはセイラの森がある。
森猪がばらばらに逃げた場所。
七本の倒木。
円形に浅く沈んだ地面。
そして今、泥だらけの調査組が戻ってきた。
何を見つけたのかは、まだ知らない。
知らないからこそ、勝手に答えを作らない。
ルシルは卓の上へ両腕を置き、ゆっくり息を吐いた。
「夕方まで、ちゃんと休もう」
「はい」
「賛成です」
三人の返事の後、しばらく誰も話さなかった。
沈黙は重くない。
厨房から食器を洗う水音が聞こえ、外を荷車が通り過ぎる。少し離れた卓では、二人の職人が昼からの仕事について話し、宿の受付では客が今夜の部屋を尋ねていた。
グレイの日常は、森の異変だけで止まったりしない。
ルシルたちも同じだった。
答えが来るまで、休む。
そのための時間も、旅の一日なのだ。
そして夕方。
冒険者組合へ向かう頃には、森から戻った調査組の報告が、きっと何かを一つ増やしている。
それが答えなのか。
それとも、また新しい「分からないこと」なのか。
今はまだ、誰にも分からなかった。




