第31話 森から戻った冒険者たちは、答えではなく新しい痕跡を持ち帰りました
石樽亭の食堂へ差し込んでいた午後の日差しが、窓枠の半分ほどまで傾いた頃、ルシルはようやく椅子から身体を起こした。
休むと決めてから、三人は本当にほとんど何もしなかった。途中でモモがもう一杯だけ茶を頼み、シモンは宿の受付から借りたグレイ周辺の簡単な案内紙を眺めていたが、それも旅程を詰めるためではなく、町にどんな店や施設があるのかを確かめる程度だった。
ルシルに至っては、一度部屋へ戻って寝台へ横になった。
眠るつもりはなかったのに、気づけば少しだけ眠っていたらしい。目を覚ました時には窓から見える荷馬車置き場の影が伸び、厩の方から馬の鳴き声が聞こえていた。
「……寝てた」
独り言を漏らし、寝台から起きる。
王城にいた頃なら、昼間に予定もなく眠るなど考えもしなかった。
だからといって、今さらその違いを大げさに喜ぶ気にもならない。昼寝をした。ただそれだけのことが、もう少しずつ当たり前になっている。
顔を洗い、廊下へ出た。
隣の二〇六号室から物音はしない。
二〇七号室も静かだ。
「まだ休んでるのかな」
急ぐ理由はない。
ルシルは階段を下りた。
食堂では夕食の準備が始まっていた。昼の客が減った代わりに、厨房から煮込み料理の匂いが漂い、若い店員が卓を一つずつ拭いている。窓の外では荷車が一台、宿の裏へ入っていくところだった。
受付の女性がルシルに気づいた。
「よく休めた?」
「はい。ちょっと寝ました」
「旅人が昼寝して悪いことはないよ。馬たちも静かにしてる」
「あとで見に行きます」
「夕飯前なら好きにしな」
ルシルは礼を言い、食堂の隅へ座った。
冒険者組合へ行くには、まだ少し早いだろうか。
森から戻ってきた四人を見たのは、昼をかなり過ぎてからだった。報告を受ける側にも整理する時間が必要だろうし、戻ってきた本人たちだって泥を落とし、怪我があるなら手当てをするはずだ。
気になる。
けれど、気になるからといって時計の針が速く進むわけではない。
「ルシル様?」
階段から声がした。
モモが降りてくる。
白い外套は着ておらず、腕へ掛けていた。
「起きてた?」
「はい。少し前から。ルシル様は?」
「寝てた」
「本当に休んだんですね」
「何、その意外そうな顔」
「だって、さっきまで森のことが気になっていたじゃないですか」
「気にはなってるよ」
ルシルは椅子の背へ身体を預ける。
「でも、寝られた」
モモは一瞬だけ目を丸くした後、柔らかく笑った。
「それなら良かったです」
「モモは何してた?」
「髪を梳いたり、窓から外を見たりしていました。あと、蜂蜜菓子をもう一個食べようか悩みました」
「食べた?」
「食べてません」
「すごい」
「そこまで褒めることですか?」
「モモにとっては結構すごいだろ」
反論しようとしたモモだったが、少し考えてから口を閉じた。
「……否定しにくいです」
二人が笑っていると、今度はシモンが階段を下りてきた。
いつもの紺色の外套を着ている。
「二人ともここでしたか」
「シモンは寝た?」
「少しだけ」
ルシルとモモが同時に彼を見る。
「何ですか?」
「いや、普通に昼寝したんだなって」
「休むと決めたのですから、休みますよ」
「シモン君が一番変わりましたね」
「モモ嬢、その話は以前にもしました」
「そうでした」
モモは素直に引いた。
何度も同じことを言う必要はない。
シモンもそれ以上反論せず、二人のいる卓へ近づく。
「そろそろ行きますか?」
「俺もそう思ってた」
「冒険者組合ですか?」
「はい。戻ってきた方々の報告も、ある程度は整理されている頃でしょう」
モモは腕へ掛けていた外套を羽織った。
ルシルも立ち上がる。
「その前にトルクとベルク見る?」
「短く様子だけ確認しましょう。今日は蹄鉄を替えたばかりですから」
三人は食堂から裏へ回った。
厩の中は午後より少し暗くなっている。
入口から伸びる西日が床の藁を照らし、細かな埃が光の中を漂っていた。馬たちは夕方の飼葉を待っているのか、ときどき馬房の中で身体を動かしている。
トルクは三人を見るなり顔を出した。
「元気そう」
ルシルは鼻先へ手を置く。
新しい蹄鉄を履かせてから数時間。
今日は赤蹄工房からここまで歩いただけだ。
脚をかばう様子はない。
ベルクも、シモンが近づくと顔を上げた。
「無理に脚を上げさせる必要はないでしょう」
シモンは立ち方と足元を確認する。
「明日、実際に少し歩かせてからですね」
「うん」
モモもトルクの横から脚元を見る。
「明日、散歩ですね」
「散歩だけど、確認だからな」
「分かっています」
「寄り道しすぎないようにしてくださいよ」
シモンが言う。
「まだ何も言ってないだろ」
「先に言っておきます」
ガランは別の馬房で作業していたため、三人は声だけ掛けた。
「組合行ってきます」
「おう。夕飯までに戻るなら問題ねえ」
「遅くなるなら?」
「飯は少し残しといてやる。ただ、冷めるぞ」
「戻ります」
モモの返事が妙に早い。
ガランが肩越しに振り返った。
「嬢ちゃん、飯が絡むと返事早えな」
「そんなことありません」
「今のは早かった」
ルシルが言うと、モモに肘で軽く押された。
◇
夕方のグレイには、朝や昼とは違う音があった。
工房通りの槌音はまだ続いているものの、間隔が少しずつ長くなっている。代わりに食堂や酒場が戸を開け、仕事を終えた職人たちが通りへ出始めていた。
空は晴れている。
西側には薄い雲があるものの、雨の気配はない。
それでも、北へ目を向ければ遠くの山側には雲が残っていた。
「あっちはまだ曇ってるな」
ルシルが言う。
「山の天気は町と違うとデリアさんも言っていましたね」
モモが北を見る。
「明日、聞いた方がいいですか?」
「蹄鉄の確認をした後にでも、街道所で山側の天候を確認しましょう」
シモンはそう答えたものの、すぐ続けた。
「もっとも、森の状況次第では山へ向かう日自体を決められませんが」
「まず森だな」
三人は中央広場へ向かう。
夕方になっても人通りは多い。
仕事帰りの職人。
荷を降ろし終えた御者。
これから宿を探す旅人。
買い物袋を抱えた住民。
その流れの中に、朝より多くの冒険者が混ざっていた。
冒険者組合が近づくにつれ、その割合がさらに増える。
「やっぱり何か出たのかな」
ルシルが声を落とす。
「可能性はあります。ただ、調査報告を聞きに来ただけの人もいるでしょう」
「私たちと同じですね」
「そういうことです」
組合前の掲示板には人だかりができていた。
大騒ぎではない。
けれど、朝より明らかに人が多い。
掲示板の前にいる冒険者たちは、紙を指差しながら小声で話している。少し離れた場所では荷運び人らしい男二人も様子を見ており、そのうち一人は何度か北の方角を気にしていた。
「新しい紙、増えてる」
モモが気づく。
朝にはなかった黄色い紙が二枚。
白い紙も一枚追加されている。
「先に受付」
ルシルが自分から言った。
シモンは僅かに口元を緩める。
「ええ」
組合の扉を開ける。
中は昨日よりずっと騒がしかった。
受付前には数人の冒険者が並び、壁際の卓もほとんど埋まっている。酒を飲んで騒いでいる者は少なく、地図や紙を囲んで話す者が多かった。
泥のついた装備。
森で使う短弓。
鉈。
厚手の外套。
その中に、昼過ぎに石樽亭の前を通った四人もいた。
「あ」
モモも気づいたらしい。
四人は奥の卓に座っている。
騎乗していた二人のうち一人は、今は外套を脱いでいた。腕に巻かれていた布も新しいものへ交換されている。
怪我だったらしい。
ただし腕は普通に動いている。
その隣には、四十代ほどの男性が座っていた。
日に焼けた肌。
短く刈った灰色交じりの髪。
冒険者の装備ではなく、厚手の布服と革の脚絆。
「猟師かな」
ルシルが小さく言う。
「昨日の調査組に地元猟師が一人いたと聞きました。可能性はあります」
受付を見る。
昨日と同じ栗色の髪の女性がいる。
ただ、今は一人の冒険者へ何か説明していた。
三人は列の最後へ並ぶ。
前では、若い男性冒険者が仲間と話している。
「西側も止めるのか?」
「止めるって書いてないだろ。単独採取を控えろってだけだ」
「同じようなもんじゃねえか」
「全然違う」
別の列では、中年の女性が受付へ尋ねていた。
「明日の薬草採取は?」
「南東区画なら通常通りです。ただし森の奥へ入らないでください」
「狼は?」
「新しい襲撃報告はありません」
「分かった」
会話を聞いているだけでも、森全体が封鎖されたわけではないと分かる。
ただ、注意する場所が増えているらしい。
やがて三人の番になった。
栗色の髪の受付女性はルシルたちを見ると、すぐ思い出した。
「来ましたね」
「戻った調査組の報告、聞けますか?」
「公開できる範囲なら」
彼女は周囲を見る。
受付前にはまだ列がある。
「少し待てますか?」
「もちろん」
「では、あちらの卓で。あとで担当者も行きます」
三人は指定された壁際の卓へ移動した。
椅子は四脚。
ルシルとモモが並び、シモンが向かいへ座る。
奥にいる調査組とは三つほど卓を挟んでいる。
声は聞こえない。
ただ、四人とも疲れているのは分かった。
一人は水を飲みながら、ほとんど喋っていない。
別の一人は何度か額を押さえている。
腕を怪我した男は、左手だけで硬いパンをちぎっていた。
「結構疲れてるな」
ルシルは声を抑える。
「朝から森へ入っていたなら当然でしょう」
シモンも彼らを凝視しない。
「それに、昨日も調査へ出た人が混ざっているかもしれません」
「腕、大丈夫でしょうか」
モモが心配そうに見る。
「重傷には見えませんが、僕らが判断することではありません」
「はい」
少し待つ。
その間にも組合へ人が出入りする。
新しい情報を求めて来る冒険者。
依頼を終えて報告する者。
普通の護衛依頼を探している者。
森に異変があるからといって、組合の仕事がそれだけになるわけではない。
やがて栗色の髪の女性が、一人の男性を連れてきた。
五十歳前後。
濃い茶色の髪に白いものが混じり、左頬に古い傷がある。装備は着けておらず、灰色の上着の胸元に組合職員を示す金属札が付いていた。
「お待たせしました」
女性が言う。
「こちら、森側の依頼をまとめているドレンです」
「ドレンだ。昨日から話を聞いてる旅人ってのは、あんたらか」
「ルシルです。こっちがモモとシモン」
「よろしくお願いします」
「お願いします」
ドレンは空いた椅子へ座る。
受付女性は仕事へ戻った。
「最初に確認するが、森へ入る予定があるんだったな?」
「通る予定です」
シモンが答える。
「セイラの森を越えて、その先の山方面へ向かう可能性があります。ただ、日程はまだ決めていません」
「それなら今は決めない方がいい」
ドレンは前置きなしに言った。
ルシルの表情が引き締まる。
「街道、閉じるんですか?」
「今のところ閉じない」
「じゃあ?」
「今日の調査で、分からないことが増えた」
朝の受付女性と同じ言葉だった。
ルシルは黙って続きを待つ。
ドレンは卓の上へ折り畳んだ紙を広げた。
昨日見たものより少し詳しい森の地図。
中央を南北に街道が走り、その東西に作業道や猟師道が細く描かれている。
「昨日見つかった場所がここだ」
北側。
伐採地より奥。
旧作業道の近く。
「森猪三頭分の足跡がばらけた。木が七本倒れていた。中心付近の地面が円に近い形で浅く沈んでいた」
「朝聞きました」
「今日の第一班は、そこを詳しく調べた」
ドレンの太い指が地図を叩く。
「まず倒木。七本全部、同じ原因とは断定できない」
「違うんですか?」
モモが尋ねる。
「折れ方が違う。三本は根元近くから倒れてる。二本は幹の途中。残り二本は根が浮いていた」
「風じゃない?」
ルシルが聞く。
「強風の記録はない。周囲の木にも風でまとまって倒れた時の特徴が薄い」
シモンが地図へ目を落としたまま尋ねる。
「魔法痕は?」
「少なくとも、調査した連中が知ってる火、水、風、土系統の明確な痕跡はなし。焦げも凍結も切断もない」
「魔力反応そのものは?」
「そこが一つ目の分からんことだ」
ドレンは腕を組む。
「薄い反応がある」
「薄い?」
「魔術師が二人入った。一人は何も感じないと言った。もう一人は地面の下から、ごく弱い魔力を感じると言った」
ルシルは無意識に足元を見た。
もちろん、ここは組合の石床だ。
森とは関係ない。
「地面の下……」
「深さは?」
シモンが尋ねる。
「分からん」
「属性は?」
「それも分からん」
「一定ですか?」
「現場にいた間は、強くなったり弱くなったりしたらしい」
シモンの目が細くなる。
考えている。
けれど、すぐに結論は出さない。
「地下水脈や魔石鉱床の可能性は?」
「当然考えた。グレイ周辺には小規模な魔石脈がいくつかある。ただ、あの地点で知られてるものはない」
「知られていないだけの可能性は残りますね」
「ああ」
ドレンは頷いた。
「だから今は、それ以上言えん」
ルシルは地図を見る。
地面の下から弱い魔力。
それだけなら、まだ動物の移動と結びつかない。
「森猪は?」
「今日、新しい足跡を追った」
指が三方向へ動く。
「西へ行った二頭は、その後さらに離れてる。南へ向かった一頭は途中で街道近くまで出たが、また東へ入った」
「逃げ続けてる?」
「そう見えるが、何から逃げてるのかは分からん」
「灰色狼は?」
「別班が確認した」
ドレンの指が少し南へ下がる。
「群れは少なくとも二つ。片方は普段より西寄り。もう片方は、むしろいつもの範囲に戻りつつある」
ルシルは眉を寄せる。
「揃ってない」
「そうだ」
モモも地図を見る。
「全部の動物が一つの場所から逃げているなら、もっと同じ方向へ動きそうですよね」
「俺たちも最初はそう考えた」
ドレンは言った。
「だが今のところ、そんなきれいな動きじゃない」
「角鹿は?」
「昨日西へ移動した群れは、今朝さらに西で確認された。ただし別の小さい群れが北東側で普通に餌を食ってたって報告もある」
「分からないですね」
モモが小さく呟く。
「だから困ってる」
ドレンは苦笑した。
苛立っているというより、情報が増えるほど単純な説明から遠ざかっていることに疲れているようだった。
「今日の調査組が早く戻ってきた理由は?」
シモンが尋ねる。
ルシルも気になっていた。
ドレンの表情が少し変わる。
「二つある」
彼は地図の北側へ指を戻した。
「一つは、第二班が新しい沈みを見つけた」
「新しい?」
ルシルが身を乗り出しかけ、途中で止めた。
「昨日の円とは別ですか?」
「別だ」
「どこ?」
「ここ」
昨日の場所から西へ離れた地点。
旧作業道からも少し外れている。
「大きさは?」
「最初のより小さい。直径三歩ほど。深さは同じくらいで、数寸」
「木は?」
「倒れてない」
「動物の足跡は?」
「周囲に鹿の古い足跡がある。新しいものかは判別できなかった」
シモンが顎へ指を添える。
「二つの沈みの間に、地表上の連続した痕跡は?」
「見つかってない」
「亀裂や隆起も?」
「今のところなし」
「地下で何かつながっている可能性は?」
「否定はできん。ただし確認もできん」
ドレンは一つ一つ慎重に答える。
分からないことを、分かったようには言わない。
ルシルはその姿勢に少し安心した。
「もう一つは?」
モモが尋ねた。
「調査組が戻った理由」
「ああ」
ドレンは奥の卓へ一度視線を向けた。
昼に見た四人がいる。
「音だ」
「音?」
「第一班と第二班が合流した後、北東側から低い音を聞いた」
ルシルは地図を見る。
「魔物の鳴き声?」
「分からん」
「どんな音ですか?」
モモが聞く。
ドレンは少し考えた。
「報告した連中の言い方が揃ってない。一人は遠くで岩が転がる音。一人は地面の下で何かが擦れた音。一人は大木が軋むような音と言ってる」
「もう一人は?」
ルシルが奥の四人を見る。
「聞こえなかったそうだ」
「同じ場所にいたのに?」
「ああ」
意外な答えだった。
モモが首を傾げる。
「小さい音だったんですか?」
「小さかったとは言ってる。ただ、三人は確かに聞いたと」
「方向は?」
シモンが尋ねる。
「北東。ただし森の中は音が反響する。断定はできん」
「それで戻った?」
「音だけなら、すぐ撤収したかは分からん」
ドレンは指で地図をなぞる。
「その直後、馬が嫌がった」
「馬?」
ルシルの視線が上がる。
「騎乗してた二頭か」
「そうだ。調査用に二頭連れていた。片方が急に北へ進まなくなった。もう片方も落ち着かなくなった」
昼に見た二頭。
町へ戻る時は普通に歩いていた。
「何か見えたんですか?」
「人間には何も」
「匂い?」
「それも分からん」
「魔力?」
「可能性はあるが、そこで測れるほど余裕はなかった」
ドレンの声は淡々としている。
「動物が嫌がる。未知の音。地面の沈み。あの時点で、無理に先へ進む理由はない。だから戻した」
「怪我した人は?」
モモが奥の卓を気にする。
「あれは撤収中に枝へ引っ掛けて馬からずり落ちた。腕を少し捻っただけだ」
モモの肩から少し力が抜けた。
「良かった」
「本人は格好悪いから言うなって言ってるけどな」
ドレンが小さく笑う。
ちょうどその瞬間、奥の卓にいた腕を巻いた男がこちらを見た。
「ドレンさん!」
聞こえていたらしい。
周囲の冒険者から笑いが漏れる。
「余計なこと言わないでくれよ!」
「重傷じゃないって説明しただけだ!」
「落ちたところまで言う必要ねえだろ!」
男の隣にいた仲間が肩を揺らしている。
張り詰めていた組合の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
モモも安心したように笑った。
ルシルは男へ軽く頭を下げる。
男は恥ずかしそうに顔を逸らし、そのままパンへ噛みついた。
「……まあ、そういうわけだ」
ドレンが咳払いする。
「人への直接被害は、今のところなし。魔物の襲撃もなし」
「でも、異変は増えた」
ルシルが言う。
「そうなる」
「街道は?」
「今日の情報だけで閉じるつもりはない」
ドレンの指が中央の街道へ移る。
「今日も荷馬車が何台も通ってる。街道上で異常は確認されていない。森の外縁や作業道へ出てる動物は増えてるが、人を襲った報告もない」
「じゃあ普通に通っていい?」
「普通に、の意味次第だ」
ドレンはルシルを見る。
「昼間に複数人で通る。馬や馬車の様子がおかしくなったら無理をしない。街道から外れない。夜に入らない。今ならその条件で通行を止める理由はない」
「俺たち二頭立ての馬車です」
「なら馬の反応には気をつけろ」
「今日、蹄鉄替えました」
「蹄鉄?」
「山道用に、小さい滑り止め付きへ」
ドレンが一瞬だけ目を瞬いた。
「準備いいな」
「初心者なので」
「初心者だからって、そこまで先に準備する奴ばかりじゃないぞ」
「褒められた?」
「たぶんな」
ルシルは少し嬉しくなる。
ただ、すぐ森の地図へ意識を戻した。
「俺たち、明日は馬を軽く歩かせて蹄鉄の確認をする予定です」
「なら明日出るつもりはないんだな?」
「はい」
「ちょうどいい」
ドレンは地図を畳まず、別の紙を取り出した。
「明日、組合でもう一度調査を出す」
「同じ場所?」
「半分はな。残りは別方向を見る」
紙には簡単な線だけが描かれている。
「北東側?」
シモンが聞く。
「そうだ。今日聞こえた音の方向へ、街道側から近づける範囲まで行く。それと、地面の沈み二か所の間をもう少し詳しく見る」
「掘るんですか?」
モモが尋ねる。
「明日はまだ掘らん」
「どうして?」
「原因が分からない場所をいきなり掘るのは怖いだろ」
「……確かに」
「まず地表と魔力反応を調べる。必要ならその次だ」
ルシルは少しだけ考えた。
「調査、人は足りてる?」
ドレンが彼を見る。
「今のところは」
「じゃあ、俺たちは?」
「待ってろ」
あまりに簡潔で、ルシルは瞬きをした。
「待つ?」
「あんたら、森を通りたい旅人なんだろ?」
「はい」
「組合の調査員じゃない。人が足りないなら頼むかもしれんが、今は足りてる。だったら旅の準備でもしてろ」
ルシルは何か言おうとした。
だが、反論する理由が見つからない。
自分たちは強い。
シモンはAランク冒険者。
モモも規格外の魔法を使える。
自分だって、普通の魔物に苦戦するつもりはない。
けれど、それと「今、自分たちが行く必要があるか」は別だった。
「……分かりました」
「素直だな」
「最近、待つのも覚えてきたので」
「何だそりゃ」
ドレンが笑う。
モモとシモンは何も言わなかった。
ただ、モモの表情はどこか柔らかい。
「一つ、聞いてもいいですか?」
シモンが言った。
「何だ?」
「明日の調査で、魔力反応を確認する担当者は?」
「組合の魔術師一人と、町の術具師一人を連れていく」
「術具師?」
「簡易測定器を持ってる。精密なもんじゃないが、地面から出てるなら場所ごとの差くらいは見られるかもしれん」
「なるほど」
「何か気になるか?」
「いいえ。適切だと思います」
シモンはそれ以上口を出さなかった。
Aランクだからといって、自分のやり方を押し付けない。
ドレンもシモンの金色のカードを知っているはずだが、必要以上に持ち上げたりしなかった。
「他に聞きたいことは?」
三人はそれぞれ少し考えた。
「北側以外は?」
モモが尋ねる。
「西の角鹿。灰色狼。森猪以外に、変な動きをしている動物は増えましたか?」
「今日入った報告では、南側の鳥が一部騒がしかったって話がある」
「鳥?」
ルシルが反応する。
「ただし、これは異変扱いしてない」
「どうして?」
「猛禽が飛んでも騒ぐ。人が森へ入っても騒ぐ。天気でも変わる。鳥だけで何か起きてるとは言えん」
「なるほど」
以前、川沿いで鳥の種類すら分からなかったことを思い出す。
今度は知識がないまま意味をつけない。
「他は?」
「小動物の報告は多すぎて整理中。兎を見た、狐が出た、鼠が増えた。そういうのは普段からある。異常かどうか判断するには地元の猟師や木こりの話が必要だ」
「地元の人の感覚って大事なんですね」
モモが言う。
「森じゃ特にな」
ドレンは奥にいる灰色交じりの髪の男性を顎で示した。
「今日入った猟師も、地面の沈みより森猪の動きの方を気にしてる」
「どうしてですか?」
「本人に聞いてみるか?」
三人が少し驚く。
「いいんですか?」
「今ならな。向こうも報告終わって休んでる」
ドレンは立ち上がった。
「ちょっと待ってろ」
奥の卓へ行き、猟師らしい男性と短く話す。
男性はこちらを見る。
少し考えてから、水の入った木杯を持って立ち上がった。
調査組の他の三人はそのまま。
猟師だけがこちらへ来る。
「ドレンから聞いた。森を抜ける旅人だって?」
声は低い。
目尻に深い皺がある。
「はい。ルシルです」
「モモです」
「シモンです」
「エッダだ」
男性はドレンが使っていた椅子へ腰を下ろした。
「聞きたいのは猪か?」
「はい」
モモが頷く。
「地面の沈みより気になるって」
「俺はな」
エッダは木杯を卓へ置く。
「森猪は臆病じゃない」
「そうなんですか?」
「用心深くはある。だが、何かあるたびに尻尾巻いて逃げるような獣でもない。でかい雄なら、相手によっちゃ向かっていく」
「魔物にも?」
「相手次第だ」
「今回の三頭は?」
「足跡の大きさじゃ、成獣二頭と若いの一頭。雄か雌かまでは分からん」
エッダは指で卓を軽く叩いた。
「変なのは、三頭が同じ場所で散ったことだ」
「一緒に逃げなかった?」
「そうだ。狼に追われたなら、走り方が違う。人間を警戒したなら、あそこまでばらけることも少ない」
「大きい魔物が出た可能性は?」
ルシルが尋ねる。
エッダはすぐに頷かなかった。
「あるかもしれん。だが足跡がねえ」
「飛ぶ魔物?」
「それも考えられる。だが上から襲われた跡もない」
「じゃあ、地面?」
「それも分からん」
エッダはそう言ってから、少しだけ目を細めた。
「ただな。俺が気になるのは、猪が何かを見て散ったんじゃなく、何かを感じて散ったんじゃないかってことだ」
ルシルは息を止める。
「感じた?」
「匂いか。音か。地面の揺れか。俺には分からん」
「今日の馬と同じ……?」
モモが小さく言う。
エッダは頷いた。
「俺もそこが引っ掛かってる」
「でも、馬が嫌がったのは今日ですよね。森猪は昨日より前」
「だから同じ原因かは分からん」
エッダは念を押す。
「森で一番危ないのは、分からんことを勝手につなげることだ。似てるから同じ。近いから関係ある。そう決めつけて奥へ入ると、違った時に死ぬ」
ルシルは黙ってその言葉を受け取った。
昨日から、何度も同じようなことを別の人から聞いている。
馬車。
蹄鉄。
森。
対象は違っても、知っていることと知らないことを分ける大切さは同じなのかもしれない。
「エッダさんは明日も行くんですか?」
「いや」
「行かない?」
「今日は歩きすぎた」
あっさりした答えだった。
「それに俺が必要なのは、獣の痕を見る時だ。明日は魔力を調べるんだろ。術具師の仕事だ」
「役割が違う」
「そういうことだ」
エッダは水を一口飲む。
「何でも自分で見なきゃ気が済まん奴は、森じゃ長生きしない」
シモンが小さく頷いた。
「良い言葉ですね」
「あんた冒険者だろ?」
「一応」
「一応って顔じゃねえな」
エッダの目がシモンの胸元へ向く。
カードは出していない。
それでも立ち方や装備で分かるのだろう。
「どのくらいだ?」
「Aランクです」
エッダの眉が僅かに上がる。
大声を出すことはなかった。
「なるほど」
それだけだった。
「なら余計なこと言わなくていいな」
「いえ。森についてはあなたの方が詳しいでしょう」
「ランク高い奴はそういうこと言えるから厄介なんだよな」
「厄介?」
「こっちが偉そうに喋っちまう」
エッダが笑う。
シモンも僅かに笑った。
「助かっています」
「ならいい」
モモが地図へ視線を戻す。
「エッダさん。今日、森に入っていて怖かったですか?」
少し意外な質問だった。
エッダもすぐには答えない。
奥では冒険者の笑い声が一度上がり、受付では紙をめくる音が続いている。
「怖かったよ」
やがて、彼は普通の声で言った。
「何がいるか分からん場所は怖い」
モモは真剣に聞いている。
「でも、慣れているんですよね?」
「慣れてるから怖くないわけじゃない」
エッダは自分の手を見る。
節が太く、細かな傷がいくつもある。
「怖いから音を聞く。足跡を見る。風を嗅ぐ。帰る場所を覚える。今日は馬が嫌がった時点で、俺も戻る方に賛成した」
「強くても?」
「強さで地面の下が見えるなら楽なんだがな」
モモの口元が少し緩んだ。
「そうですね」
「嬢ちゃんたちも森へ入るなら、怖くなった時に無理して平気な顔するなよ。馬が嫌がるなら馬を信じろ。仲間が止まれって言うなら、一度止まれ」
「はい」
モモは素直に頷いた。
ルシルも同じだった。
シモンだけでなく、自分やモモが異変を感じた時にも止まる。
それは三人で旅をするなら当然のことなのだろう。
「ありがとう、エッダさん」
「礼言われるほどのことじゃねえ」
エッダは立ち上がる。
「俺は明日休む。あんたらも急ぐ理由がないなら急ぐな」
「そうします」
「じゃあな」
エッダは元の卓へ戻った。
ドレンは少し離れた場所で別の冒険者と話している。
三人は卓に残った。
すぐには立たなかった。
情報が増えた。
けれど答えはない。
地面の下の弱い魔力。
二つ目の沈み。
北東から聞こえた低い音。
嫌がった馬。
ばらけた森猪。
それらが一つの原因から生まれているのかさえ、まだ分からない。
「どう思う?」
ルシルはシモンを見る。
シモンは少し考えた。
「現時点では、何とも」
「やっぱり?」
「魔力反応が本当に地中からなら気になります。ただ、地下水や未確認の魔石脈、古い術式、魔物、自然現象。候補はいくらでもあります」
「古い術式もあるの?」
「可能性を挙げただけです」
「そっか」
「それに、魔力反応と動物の移動が無関係という可能性も残っています」
モモが地図のあった場所を見つめる。
「別々のことが同時に起きているかもしれない」
「はい」
「難しいですね」
「難しいです」
シモンは珍しく、簡単にそう認めた。
ルシルは椅子へ深く座り直す。
「でも、明日は俺たちが行かなくていいんだよな」
「ドレンさんがそう言いました」
「なら馬の確認しよう」
「はい」
モモの返事に迷いはない。
「それから?」
「それからは、その時決めればいいのでは?」
シモンが言う。
「調査の結果が昼に出るのか、夕方になるのかも分かりません。明日の朝から予定を詰める必要はありませんよ」
「じゃあ、トルクとベルク歩かせて」
「はい」
「何か食べて」
「そこ入ります?」
モモがルシルを見る。
「昼になったら腹減るだろ」
「それなら入ります」
「モモもじゃん」
「食事は必要です」
「正論みたいに言ってる」
先ほどまでの緊張が少しだけほどける。
シモンも小さく息を吐いた。
「夕食もありますから、今から食べないでくださいよ」
「分かってる」
「私は何も言ってません」
「モモ嬢には先に言っておきます」
「どうしてですか」
三人の声に、近くの卓にいた冒険者が一度こちらを見た。
深刻な森の話をしていたはずなのに、急に食事の話になったからだろう。
目が合うと、その男は少しだけ笑って自分の仲間へ向き直った。
「そろそろ戻る?」
ルシルが尋ねる。
「夕食の時間にはちょうどいいでしょう」
「石樽亭の今日の夕飯、何でしょう」
「戻れば分かります」
「魚だったら昼と重なるな」
「肉でもいいです」
「モモ、本当に何でも食べるよな」
「好き嫌いが少ないんです」
「良いことです」
シモンが言う。
立ち上がろうとしたところで、組合の入口が開いた。
外から入ってきたのは、若い男性だった。
冒険者には見えない。
泥のついた作業着。
肩から下げた革鞄。
額には汗。
走ってきたのか、扉の前で一度大きく息を吸っている。
「すみません!」
声が組合内へ響いた。
受付にいた何人かが振り返る。
ドレンも会話を止めた。
「どうした?」
「北の木場からです!」
男性は息を整えながら受付へ進む。
「さっき、木場の水桶が――」
一度言葉を切る。
「勝手に揺れました」
組合内のざわめきが少し弱くなった。
ルシルたちも動きを止める。
ドレンが眉を寄せた。
「馬か荷車が近くを通ったんじゃないのか?」
「違います。仕事を止めてる時間でした。誰も近くにいなくて、それなのに水面が何度も揺れて……」
「どれくらい?」
「ほんの少しです。でも、俺だけじゃありません。三人で見ました」
男性は鞄を握り直す。
「それと、地面から音がしたって言う奴もいます」
奥の卓で、エッダが顔を上げた。
ドレンの表情が変わる。
「いつだ?」
「半刻くらい前です」
「今も?」
「分かりません。親方に組合へ知らせろって言われて、すぐ来ました」
ドレンはすぐ隣の職員へ声を掛けた。
「北木場の位置を確認。今日の調査地点との距離を出せ。街道所にも連絡しろ」
「はい!」
職員が動く。
周囲の冒険者たちもざわつき始める。
「地震か?」
「でも町じゃ何も感じてねえぞ」
「木場だけ?」
「森の音と同じなのか?」
憶測が飛び交う。
ドレンが声を張った。
「まだ何も分かってない! 勝手に話を広げるな!」
ざわめきが少し収まる。
ルシルはシモンを見る。
シモンもこちらを見ていた。
モモは何も言わず、両手を身体の前で軽く重ねている。
地面の下の魔力。
浅い沈み。
森で聞こえた低い音。
そして、北の木場で揺れた水。
似ている。
けれど、同じものだとはまだ言えない。
ルシルは立ったまま、ドレンが地図を広げるのを見た。
「……帰るの、もう少し待つ?」
小さく尋ねる。
シモンはすぐに答えなかった。
受付では北木場の位置を確認する声が続いている。
ドレンが別の紙を引き寄せ、エッダも席を立った。
少ししてから、シモンは静かに頷いた。
「ええ。今の情報がどこまで確認できるか、それだけ聞いてからにしましょう」
「私もそうしたいです」
モモの声も落ち着いていた。
三人は再び椅子へ腰を下ろした。
森の中だけだと思っていた異変が、森で働く人々の場所へ少し近づいた。
それでも、まだ誰かが襲われたわけではない。
街道が壊れたわけでもない。
だからこそ、今は騒ぐより、何が起きたのかを一つずつ確かめるしかない。
窓の外では、夕暮れの光がグレイの灰色の石壁を淡い橙色へ変えていた。
工房の槌音は、いつの間にかほとんど聞こえなくなっている。
代わりに冒険者組合の中では、紙を広げる音、地名を確認する声、誰かが椅子を引く音が重なっていた。
ルシルはその一つ一つを聞きながら、卓の上で手を組んだ。
答えは、まだない。
ただ、昨日まで森の奥に散らばっていた小さな違和感が、少しずつ同じ地図の上へ集まり始めていた。




