第32話 森の異変が町へ近づいたように見えても、慌てて決めつけてはいけません
冒険者組合の中から、先ほどまであった夕方特有の緩んだ空気が消えていた。
北木場から駆け込んできた若い男性は受付脇の椅子へ座らされ、職員から渡された水を一息に半分ほど飲んでいる。その前ではドレンが大きな地図を広げ、別の職員が棚から何枚もの記録紙を引っ張り出していた。
窓の外では、夕日がグレイの石造りの建物を橙色に染めている。
町そのものはまだ普段通りだった。
帰宅する職人たちが通りを歩き、夕食を出す店から煙が上がり、荷を降ろし終えた馬車がゆっくり宿へ向かっている。冒険者組合の中だけを見れば何か大事件が始まったようにも思えるが、外にいる人々の多くは、北木場で水桶が揺れたことさえ知らないのだろう。
ルシルはその違いを窓越しに眺めてから、再び組合の中へ目を戻した。
「北木場って、どこだろ」
声を抑えて呟く。
「名前の通りなら町の北側でしょうけど、森との位置関係までは分かりませんね」
モモも席を立たず、受付の方を見ていた。
シモンは答えずに少し考えている。
ルシルたちは帰るのをいったんやめた。
ただし、報告へ割り込むこともしない。
今は組合が情報を整理しているところだ。そこで「何が起きた」「危険なのか」と次々尋ねても、まだ答えられることなどほとんどないだろう。
受付の向こうでは、ドレンが北木場から来た男性へ確認を続けていた。
「揺れたのは水桶だけか?」
「俺が見たのは水桶です。親方は積んであった薄板も少し鳴ったって」
「物が落ちた?」
「落ちてません」
「地面が割れたとか、沈んだとかは?」
「俺が出る時には見てません」
「馬は?」
「木場にいた一頭がちょっと落ち着かなかったです。でも、普段から音に敏感な奴だから、それが関係あるかは……」
男性は途中で言葉を弱めた。
分からないことを無理に異変へ結びつけない。
ドレンもそこを追及しなかった。
「揺れは一回か?」
「俺が見たのは二回です」
「間は?」
「そんなに長くなかったと思います。最初に水面が揺れて、みんなで見てたら一度止まって……その後、また少し」
「何十息くらいだ?」
「そこまでは数えてません」
「分かった。それでいい」
ドレンは記録役の職員へ目を向けた。
「『間隔不明、二回確認』。勝手に時間を補うなよ」
「はい」
職員の筆が紙を走る。
そのやり取りを聞いていたルシルは、思わずシモンを見た。
シモンも同じところに気づいたらしい。
「細かいな」
「必要なことです」
シモンは小声で答える。
「『少し間があった』を、記録する側が勝手に『一分』や『五分』へ変えれば、それだけで別の情報になりますから」
「覚えてないことは、覚えてないまま書くんだ」
「ええ」
ルシルは頷いた。
王城でも報告書は山ほど見た。
けれど、あの頃はすでに整理された紙を読む側だった。
誰かが現場で見たものを聞き、曖昧な部分を曖昧なまま残し、それでも後から使える情報へ変えていく過程を見る機会はほとんどなかった。
「シモンも昔こういうのやってた?」
「種類は違いますが、似たことは」
「大変そう」
「大変でしたよ」
シモンはそれだけ言って、地図を囲む職員たちへ視線を戻した。
昔話へ広げるつもりはないらしい。
ルシルも聞かなかった。
少しして、奥の卓に戻っていたエッダが立ち上がった。
猟師はドレンの横へ行き、地図を覗き込む。
「北木場ならここだ」
「こっちじゃないのか?」
「それは旧木場だ。今使ってるのは南寄り」
「ああ、移ったんだったな」
ドレンが地図上の印を指でずらす。
「最後に更新したのいつだ、この地図」
「二年前です」
職員が答えた。
「新しいの持ってこい」
「街道所の方が詳しいです」
「借りてこい。いや、写しがあったはずだ」
別の職員が奥へ走る。
ルシルは小さく息を吐いた。
「地図も全部正しいわけじゃないんだな」
「町や森の作業場所は変わりますからね」
シモンが答える。
「特に木場や仮設の作業道は、永遠に同じ場所で使うものではありません」
「地図にあるから今もある、じゃないんですね」
モモが言う。
「はい。逆に、地図にない新しい道ができていることもあります」
やがて別の地図が持ち込まれた。
今度は紙が新しい。
町の北側と森の外縁、伐採地、木材を集める場所、荷車道が細かく描かれている。
ドレンとエッダ、それに職員二人が位置を確認する。
「現在の北木場はここ」
「今日の二つ目の沈みがここだ」
「最初の沈みは?」
「こっち」
「木場までどれくらいある?」
「直線なら……」
「直線で考えるな。森だぞ」
「道でなら?」
紙の上を指が動く。
ルシルたちの席からは細部まで見えない。
ただ、三か所が同じ場所ではないことだけは分かった。
やがてドレンが顔を上げた。
「近くはない」
その声を聞き、組合内の何人かが少しだけ息を吐いた。
しかし、ドレンはすぐ続ける。
「だから無関係とも言えん。逆に、近いから関係あるとも言えん。今夜の時点ではそこまでだ」
「町は?」
入口近くにいた冒険者が尋ねた。
「町まで来てるのか?」
「分からん」
「木場は町の仕事場だろ?」
「町の北にある仕事場だ。住宅地じゃない」
ドレンは声を荒らげてはいない。
けれど、誰かが勝手に「町まで異変が来た」と広めるのを警戒しているのは分かった。
「木場と北端の家までは距離がある。今のところ町中で揺れを感じたって報告はない。組合の水桶も、酒場の樽も揺れてないだろ」
何人かが周囲を見る。
確かに卓の上の木杯は静かだった。
「じゃあ大丈夫なのか?」
別の男が聞く。
「それもまだ言ってない」
ドレンは眉間を押さえた。
「お前ら、白か黒かにするの早すぎるぞ」
組合の中で小さな笑いが起きた。
緊張が一瞬だけ緩む。
「今夜、北木場は作業停止。人は戻す。見張りを二人置くが、異常があったら調べずに町へ戻らせる。明日の朝、地面と水桶を確認する。それでいい」
エッダが頷いた。
「夜に森へ入れるなよ」
「入れない」
「音がしたから見に行くって馬鹿が出る」
「お前、今ここで言ったからな。やった奴がいたら『エッダに馬鹿と言われるぞ』って止める」
「俺を使うな」
再び笑いが漏れた。
奥にいた腕を巻いた冒険者まで笑っている。
北木場から来た男性も、ようやく少し肩の力が抜けたようだった。
ドレンは彼へ向き直る。
「親方は?」
「木場に残ってます」
「すぐ戻す。案内できる職員を一人つける」
「俺も戻った方が?」
「お前はここで休め。走ってきたんだろ」
「でも」
「連絡役は終わりだ。次の役目まで勝手に増やすな」
男性は一度口を開き、それから閉じた。
「……はい」
水をもう一口飲む。
ルシルはその様子を見ながら、昼間にドレンから「待ってろ」と言われた時のことを思い出した。
何でも自分でやらなくていい。
役割が終わったなら、次まで勝手に背負わない。
簡単そうで、意外と難しい。
「俺たちも同じかな」
「何がです?」
モモが振り返る。
「いや。今は聞くだけでいいってこと」
「そうですね」
モモはすぐ頷いた。
「気にはなりますけど」
「俺も」
二人の視線がシモンへ向く。
「僕も気になりますよ」
シモンは少し呆れたように言った。
「僕だけ何も気にしていないように見るのはやめてください」
「シモン、顔に出ないから」
「ルシル様が出すぎなんです」
「モモは?」
「かなり出ます」
「シモン君」
「事実です」
モモが頬を膨らませる。
そんなやり取りをしている間にも、組合の仕事は進んでいた。
職員が北木場へ向かう者を二人選び、装備を確認する。別の職員は街道所へ連絡を出し、今夜北から町へ戻る荷車が何台残っているかを調べ始めた。
冒険者たちも、ただ騒いでいるだけではない。
明日の護衛依頼を受けていた一組は、出発時刻を遅らせられるか受付へ確認している。薬草採取の依頼を持つ女性は、北ではなく南東へ入ることを再確認していた。
町と森の境目で働く人たちにとって、情報は不安を煽るためのものではない。
明日の仕事をどうするか決めるためのものなのだ。
「ルシル様」
シモンが小さく呼ぶ。
「ん?」
「先ほどの話、聞きましたか?」
「護衛?」
「はい」
「出発遅らせるってやつ?」
「ええ。街道そのものは閉じていなくても、利用する人が自分で時間を調整することはできます」
「俺たちも?」
「必要なら」
ルシルは少し考える。
「でも明日は元々出ない」
「そうです」
「じゃあ、今決めることないな」
「ありません」
それだけだった。
以前なら、明後日出るのか、その次の日なのか、今のうちに決めておきたくなったかもしれない。
けれど明日の調査結果も、トルクとベルクの蹄鉄の具合も分からない。
分からないものを使って予定を固めても仕方がない。
ルシルは背もたれへ軽く身体を預けた。
「夕飯、冷めるかな」
モモがぽつりと言った。
「今それ?」
「だってガランさん、遅くなるなら残してくれるけど冷めるって」
「覚えてたんだ」
「大事なことです」
「もう少しだけ待ちましょう」
シモンまで真面目な顔で言う。
「シモンも腹減った?」
「昼からそれなりに時間が経っていますから」
「じゃあ三人とも同じじゃん」
「ルシル様はさっきまで森の話をしていたのに、急に夕食へ行きましたね」
「モモから始めたんだけど」
「そうでした」
少しだけ笑う。
それで不安がなくなるわけではない。
ただ、不安だからといって腹が減らなくなるわけでもなかった。
◇
北木場へ向かう職員二人が組合を出てから、半刻ほどが過ぎた。
外はすっかり夕暮れになっていた。
西の空には赤みが残っているが、東側の屋根はもう薄い青灰色の影へ沈み始めている。組合の中では壁の灯具へ火が入り、昼間とは違う柔らかな光が卓を照らしていた。
「今日はここまでだな」
ドレンがようやく三人の卓へ戻ってきた。
「待たせた」
「いえ」
ルシルは座り直す。
「何か分かりました?」
「位置だけな」
ドレンは先ほどの新しい地図を持っていた。
「見せても?」
「そのために持ってきた」
卓の上へ広げる。
今度は三人にも見える。
グレイの町が下側。
北へ伸びる街道。
その西側に森林。
北木場は、町から北へ進み、森の縁に沿って少し西へ入った場所にあった。
「思ってたより町から離れてる」
ルシルが言う。
「歩きならそれなりにかかる」
ドレンの指が北木場を示す。
「最初の沈みがここ」
さらに北西。
「二つ目がこっち」
そこから西寄り。
三か所を線で結べば三角形になる。
けれど、距離は均等ではない。
「今日、音を聞いたのは?」
シモンが尋ねる。
「この辺り」
調査組がいた地点へ印を置く。
北木場から見れば北西方向。
「音の方向は北東だったんですよね?」
「そう聞いてる」
「なら、木場の方向とは一致しない」
「地図上ではな」
ドレンは頷いた。
「ただしエッダも言ったが、森じゃ音の方向は当てにならんことがある。地面の下から響いたなら、なおさらだ」
「木場の人が聞いた音は?」
「『下から』って言ってる奴が一人いるだけだ。ほかは聞いてない」
「水桶の揺れは三人が見た」
「そうだ」
シモンは地図をじっと見る。
ルシルも真似して見るが、線を眺めているだけで何か答えが浮かぶわけではない。
「これ、線で結ばない方がいい?」
思ったまま尋ねる。
ドレンがルシルを見る。
「何でそう思った?」
「いや、三か所あると、つなぎたくなるから」
最初の沈み。
二つ目の沈み。
北木場。
紙の上へ三点があれば、どうしてもその間に線を引きたくなる。
「でも、つながってるって分かってない」
「その通りだ」
ドレンは少し笑った。
「今のところ、この地図に線は引かん」
「印だけ?」
「印だけだ」
モモが地図へ顔を近づける。
「じゃあ、明日の人たちはどこから調べるんですか?」
「二班に分ける」
ドレンが説明する。
「予定していた森側の調査はそのまま。魔術師と術具師を連れて、二つの沈みの魔力反応を比べる。もう一班は北木場。こっちは地面、建物、水桶、積んである木材、馬の様子を見る」
「木場から森へ入る?」
「異常がなければ、明日は入らせないつもりだ」
「どうしてです?」
「一度に調べる範囲を広げすぎると、何を見に行ったのか分からなくなる」
モモは納得したように頷いた。
「水桶が揺れたなら、まず水桶の周りですね」
「そういうことだ」
「森側で何か見つかったら?」
「それはその時だ」
ドレンは地図を畳まない。
「あと、明日から北側の木材運搬は午前中だけ止める」
「街道も?」
「街道は止めない。木場へ入る荷車だけだ」
「町の人にはどう伝えるんですか?」
ルシルが尋ねた。
「掲示を出す。『北木場で小規模な揺れの可能性。安全確認のため午前作業停止』。それ以上は書かん」
「地下で何か起きてる、とかは?」
「書かん」
「魔物かも、とか」
「もっと書かん」
ドレンは即答した。
「分からんことを掲示したら、翌朝には『巨大魔物が町の地下を掘ってる』くらいまで育つ」
「そんなに?」
モモが目を丸くする。
近くで話を聞いていた職員が苦笑した。
「育ちますよ」
「昨日は角鹿が街道へ出ただけで、『森の主が追い出した』って話になってましたから」
「森の主?」
「誰も見たことないのに」
職員は肩をすくめる。
「噂ってすごいですね」
「すごくなくていいんですが」
ドレンが疲れた顔をする。
ルシルは思わず笑った。
だが、すぐに少しだけ考える。
王城にも噂はあった。
貴族の間でも、使用人の間でも、町でも。
一つの出来事へ誰かの推測が加わり、それを聞いた別の誰かが事実として受け取り、気づけば最初とは違う話になる。
自分自身についても、きっと今頃いろいろな話があるのだろう。
追放された第一王子。
失意に沈んでいるのか。
復讐を企んでいるのか。
どこかで野垂れ死んだのか。
そんなものを確かめに戻りたいとは思わない。
今の自分は、グレイの冒険者組合で森の地図を眺め、夕飯が冷めることを気にしている。
それで十分だった。
「ルシル様?」
モモがこちらを見ている。
「ごめん。ちょっと考えてた」
「森のことですか?」
「半分くらい」
残り半分を説明する必要はない。
モモも無理に聞かなかった。
「ドレンさん」
シモンが地図へ指を置かずに尋ねる。
「北木場周辺に地下施設はありますか?」
「俺が知る限りない」
「古い坑道は?」
「グレイの西には小さい採掘跡があるが、北じゃない」
「井戸は?」
「木場に一つ。深くない」
「明日、それも見ますか?」
ドレンが一瞬止まる。
「……見る価値はあるな」
横にいた職員へ向く。
「木場の井戸も確認項目に入れろ。水位と濁り。今夜は使うなって伝えろ」
「はい」
職員が書き留める。
「何か考えてるのか?」
ドレンがシモンへ尋ねた。
「いいえ」
「本当に?」
「地下で何かが起きているなら、水へ変化が出る場合もあるという程度です。ただし、井戸が何も変わっていなくても、それで地下異変を否定できるわけではありません」
「なるほどな」
「僕の推測を原因候補として扱わないでください」
「分かってる」
ドレンは苦笑する。
「Aランクが言った、ってだけで勝手に重く受け取る奴もいるからな」
「それを避けたいんです」
シモンの声は穏やかだった。
「僕はこの土地の地質にも、森にも詳しくありません」
「でも魔法は詳しいんだろ?」
「ある程度は」
「ある程度、ねえ」
ドレンは少しだけ疑わしそうに見る。
ルシルとモモは何も言わない。
シモンの「ある程度」は、たぶん世間一般の「かなり」より上だ。
けれど、ここでそれを説明しても意味はない。
「必要になったら頼む」
「その時は」
それで話は終わった。
ドレンが地図を畳む。
「今日はもう帰っていいぞ。今夜、旅人ができることはない」
「明日の朝、また来た方がいい?」
「朝一番は来なくていい」
ルシルは少し驚く。
「駄目?」
「駄目じゃないが、朝来ても報告は増えてない。調査班が出るところを見るだけだ」
「そっか」
「昼過ぎか夕方で十分だ」
「じゃあそうします」
「馬の確認があるんだろ?」
「はい」
「そっちやっとけ」
ドレンはそう言って立ち上がる。
ルシルも席を立った。
「ありがとうございました」
「礼なら原因が分かってからにしろ」
「原因が分からなくても、教えてくれたことへのお礼です」
ドレンが一瞬黙った。
「……そうか」
それ以上は何も言わず、地図を持って受付へ戻っていった。
◇
冒険者組合を出ると、グレイはもう夜の入口に立っていた。
西の空だけに淡い橙色が残り、通り沿いの店には灯りがともっている。工房の多くは作業を終え、昼間ずっと響いていた槌音の代わりに、酒場から人の話し声や笑い声が流れてきた。
「お腹空きました」
モモが最初に言った。
「俺も」
「僕もです」
三人の意見は完全に一致した。
「急ぐ?」
ルシルが尋ねる。
「走りません」
「聞いてないけど」
「先に言っておきます」
モモは少し胸を張った。
「昨日の蜂蜜菓子のお店でも走りませんでした」
「確かに」
「成長しました」
「そこ自分で言う?」
「いいじゃないですか」
シモンが小さく笑う。
「歩いて帰りましょう。夕食は逃げません」
「冷めるかもしれません」
「モモ嬢、さっきからそこだけは心配しますね」
「温かいものは温かいうちに食べたいです」
「それは分かる」
ルシルも同意した。
三人は中央広場を横切る。
昼とは違う店が目立つ。
昼間は閉じていた酒場。
湯気を上げる屋台。
串に刺した肉を焼く店。
甘い匂いも一瞬漂ったが、モモはそちらへ向かわなかった。
「見た?」
ルシルが尋ねる。
「何をですか?」
「今、甘い匂いした」
「しましたね」
「行かないんだ」
「夕食前です」
「本当に成長したな」
「だから、そこまで褒められると逆に嫌です」
モモが不満そうに頬を膨らませる。
ルシルは笑いながら歩いた。
町の北へ近づくにつれ、工房と倉庫が増える。
その先に北木場があるのだろう。
もちろん、ここからは見えない。
通りを歩く住民たちも、特別慌ててはいなかった。
「まだ噂、広がってないのかな」
ルシルが言う。
「北木場の作業員が戻れば、ある程度は広がるでしょう」
シモンは周囲を見ながら答える。
「ただ、組合が掲示を出すなら、それを見た方が余計な憶測は減るかもしれません」
「逆に増えたりしない?」
「完全には防げません」
「森の主が出た、とか?」
モモが言う。
「それはさっきの噂でしょう」
「じゃあ、地下の主」
「モモ」
「冗談です」
本人はすぐ笑ったが、シモンは眼鏡越しにじっと見る。
「組合の前で言わなくて良かったですね」
「本当に冗談です」
「誰か一人が聞いて、『元聖女が言っていた』などと広がったら困ります」
モモの表情が止まった。
「元聖女とは知られてません」
「そこじゃないだろ」
ルシルが吹き出す。
モモも自分で気づいたらしく、少し恥ずかしそうに口元を押さえた。
「もう言いません」
「その方がいいです」
「でも、シモン君も少し面白かったですよね?」
「何がです?」
「地下の主」
「面白くありません」
「今、ちょっと口元動きました」
「気のせいです」
「動いた」
ルシルも見た。
「ルシル様まで」
「二対一」
「多数決で表情を決めないでください」
三人の声が夜の通りへ混ざる。
森では何かが起きている。
北木場でも小さな揺れがあった。
それでも、ずっと眉間に皺を寄せていなければならないわけではない。
分からないものは、分からないまま専門家が調べている。
自分たちは今夜、宿へ戻る。
それでいい。
◇
「遅かったな」
石樽亭へ戻ると、受付近くにいたガランが言った。
「組合で追加の報告が入って」
ルシルが答える。
「森か?」
「北木場で水桶が少し揺れたらしいです」
ガランの表情が僅かに変わった。
「北木場?」
「知ってます?」
「そりゃ知ってる。ここの薪も一部あそこから来る」
「町から結構離れてるって」
「ああ。歩いてふらっと行く場所じゃねえ」
ガランは少し考える。
「地面割れたのか?」
「確認されてません」
「怪我人は?」
「いません」
「なら、今はそれでいい」
ガランの返事は早かった。
「心配じゃない?」
「心配したって地面の下は見えねえよ」
エッダと似たことを言う。
「組合が動いてるんだろ?」
「はい」
「じゃあ俺は馬見る。お前らは飯食え」
「それでいいんだ」
「俺が森へ行って何すんだ」
「……確かに」
「何でも自分の仕事にすんな」
今日は似た言葉を何度も聞く日だった。
ただし、同じ説明を繰り返されている感覚はない。
それぞれが自分の仕事を知っているから、結果として同じところへ行き着くのだろう。
「夕飯、まだ温かいですか?」
モモが尋ねる。
ガランは一瞬黙った。
それから豪快に笑った。
「嬢ちゃん、森よりそっちか!」
「森も心配です!」
「飯も心配なんだろ?」
「はい」
「正直でよろしい。まだ温けえよ」
モモの顔が明るくなる。
「良かったです」
「ほら、食ってこい」
三人は食堂へ向かった。
夕食時の石樽亭は賑わっている。
昼とは違い、仕事を終えた職人や荷運び人が多い。大きな卓では六人ほどの男たちが木杯を合わせ、別の卓では二人の御者が明日の道について話していた。
空いていた端の卓へ座る。
すぐに店員が来た。
「今日の夕飯は麦飯と鶏肉の香草焼き、豆と根菜のスープ。パンも付けられるよ」
「全部」
ルシルが答える。
「俺も」
シモンが横を見る。
「ルシル様」
「何?」
「店員さんは三人分の注文を聞いています」
「あ」
モモが笑う。
「私は同じもので」
「僕も」
「じゃあ三人とも全部だ」
店員も笑いながら厨房へ戻った。
「恥ずかしい」
「お腹空いてたんですね」
「モモに言われたくない」
「私はちゃんと一人分で頼みました」
「俺も一人分のつもりだったんだよ」
しばらくして料理が運ばれてくる。
鶏肉には細かく刻んだ香草がまぶされ、皮が香ばしく焼けている。スープには白い豆と赤みのある根菜、薄切りの玉ねぎに似た野菜が入り、湯気と一緒に優しい香りが立った。
「温かいです」
モモが満足そうに言う。
「良かったな」
「はい」
三人は食べ始める。
昼は魚。
夜は鶏。
同じ町にいても、食卓は違う。
ルシルは鶏肉を一口食べ、香草の匂いを楽しんだ。
「これ、昼の魚に使ってたのと違うな」
「昼は少し柑橘っぽかったです」
モモも気づいた。
「これは苦みがありますね」
シモンが香草を一片見る。
「山側で採れるものかもしれません」
「聞く?」
「食事時に厨房へ押しかけないでください」
「後で」
「それなら」
会話の途中、隣の大卓から「北木場」という言葉が聞こえた。
三人は意識して聞こうとはしなかったが、声が大きい。
「明日休みだってよ」
「午前だけだろ?」
「親方から連絡来た。地面見てもらうまで入るなって」
「揺れたって本当か?」
「水が揺れたらしい」
「地震か?」
「町は揺れてねえぞ」
「じゃあ森か?」
「知らねえよ」
そこへ別の男が割り込む。
「巨大な土竜でもいるんじゃねえか?」
「お前、昨日は森の主って言ってただろ」
「主が土竜かもしれん」
「何でも主にすんな」
卓全体が笑う。
ルシルはスープを飲みながら、モモを見る。
モモもこちらを見る。
「地下の主」
口の形だけで言う。
ルシルは危うくスープを吹きそうになった。
「やめろ」
小声で言う。
「言ってません」
「今言った」
「声は出してません」
「同じだよ」
シモンが額を押さえる。
「二人とも、変な噂へ参加しないでください」
「してないって」
「顔で参加してます」
「顔で?」
「楽しそうです」
ルシルとモモは同時に真顔を作った。
「そういうことではありません」
シモンがさらに疲れた顔をした。
けれど、数秒後には本人も僅かに笑っていた。
隣の卓ではすでに別の話へ移っている。
木材の値段。
壊れた荷車。
明日の仕事。
北木場の異変は気になる話題ではあるが、それだけで一晩が埋まるわけではない。
食事が半分ほど進んだ頃、ガランが食堂へ入ってきた。
「おう」
「馬、大丈夫?」
ルシルが尋ねる。
「問題ねえ。新しい鉄も今のところ浮いてない」
「もう見たんですか?」
「ついでにな。明日歩かせるんだろ?」
「はい」
「朝飯の後くらいでいい。いきなり長く歩かせんなよ」
「どのくらい?」
「町の外へ出なくてもいい。石畳と土の両方を歩かせて、変な足運びしねえか見ろ」
「赤蹄工房まで行く?」
「異常なきゃ行かなくていい。気になるならデリアに見せろ」
「分かりました」
ガランはそのまま厨房へ向かい、自分の夕食を受け取る。
「明日の予定、一個決まったな」
ルシルが言う。
「朝食後にトルクさんとベルクさんのお散歩です」
「確認」
「確認を兼ねたお散歩です」
「それならいいか」
「ルシル様、甘いですね」
「何が?」
「モモ嬢に」
「普通だろ」
「普通です」
モモが当然のように言う。
シモンは何も言わずスープを飲んだ。
「その後どうする?」
ルシルが尋ねる。
「明日のことは明日でいいって話じゃなかった?」
モモに返される。
「あ、そうだった」
「忘れるの早いですね」
「馬の話したら、その先も考えたくなった」
「昼までは決めなくていいでしょう」
シモンが言う。
「歩かせるのにどれくらいかかるか分かりませんし、馬の状態次第では赤蹄工房へ行くかもしれません」
「じゃあ昼飯も決めない?」
「そこまで予約する必要あります?」
「川灯り亭の揚げ焼き」
「もう次を考えてたんですか」
「昼に気になったから」
モモが少し考える。
「私も気になります」
「ほら」
「だからといって明日行くとは決めません」
「モモまで待てるようになった」
「私、元々待てますよ」
「蜂蜜菓子」
「それとこれは別です」
食卓にまた笑いが生まれる。
その後は森の話をほとんどしなかった。
料理を食べる。
昼に見た川の話。
赤蹄工房でトルクが平然としていたのにルシルの方が煙へ驚いた話。
ベルクがシモンの声を聞いて落ち着いた話をモモが出しかけ、シモンが「それはもう十分でしょう」と止める。
普通の夕食だった。
それが妙に心地よかった。
◇
食事を終えた後、三人はすぐ部屋へ戻らず、宿の外へ出た。
遠くへ行くつもりはない。
食後の風に当たりたかっただけだ。
夜のグレイは冷え込みすぎず、昼間に石壁が蓄えた熱がまだわずかに残っている。空は濃い藍色へ変わり、建物の間から星がいくつか見えていた。
工房通りは静かだ。
昼間あれほど響いていた金属音がないだけで、同じ町とは思えない。
「静かですね」
モモが言う。
「馬車の音はするけどな」
少し離れた通りを一台の荷車が進んでいる。
車輪が石畳を転がる音。
馬の蹄。
御者の短い掛け声。
それが遠ざかると、また静かになる。
三人は石樽亭の前から少しだけ北へ歩いた。
角を一つ曲がる程度。
それ以上は行かない。
北木場を見に行くつもりなどない。
「森ってどっちです?」
モモが夜空の下を見回す。
「北西かな」
「この建物じゃ見えませんね」
「見えなくていいでしょう」
シモンが言う。
「今夜は見に行かないんですから」
「分かっています」
モモは怒らず答えた。
少し歩いて、道端の低い石壁へルシルが腰を預ける。
「なあ」
「はい?」
「今日、いろんな人に『自分で全部やるな』みたいなこと言われた気がする」
モモとシモンが足を止める。
「ドレンさん」
モモが指を一本立てる。
「エッダさん」
二本目。
「ガランさん」
三本目。
「デリアさんも近いこと言ってましたよね。蹄鉄だけに安全を任せるなって」
「それはちょっと違わない?」
「でも、一つだけで全部何とかしようとしないという意味では似ています」
「そう言われると似てるか」
ルシルは夜空を見る。
「王城だと、何かあったら俺が知ってないと駄目だと思ってた」
口に出してから、少し考える。
昔を嘆きたいわけではない。
ただ、今との差を思っただけだ。
「全部を自分で調べるって意味じゃないけど。報告が上がってきて、最後に判断するなら、知らないって言えないだろ」
「立場としては、そういう面もあったでしょうね」
シモンが隣へ立つ。
「でも今は違う」
「はい」
「俺が森の原因を知らなくてもいい」
「今は、ですね」
「必要になったら知ればいい?」
「必要になった時、必要な分だけ」
ルシルはその言葉を何度か頭の中で転がした。
必要な時。
必要な分だけ。
「楽だな」
「そうですか?」
「うん」
ルシルは笑った。
「知らないままでいいって、結構楽だ」
モモが少し考えるように夜空を見上げる。
「私は、知らないの嫌いじゃないです」
「怖くない?」
「怖い時もあります。でも、知らないから見に行きたい場所もあります」
「海とか?」
「はい」
返事はすぐだった。
「海がどんな匂いなのか、どんな音なのか、私は知りません。でも、今シモン君に全部教えてもらえたとしても、自分で見たいです」
シモンが苦笑する。
「そもそも僕は教えられるほど覚えていません」
「だからちょうどいいです」
「それ、褒められてませんよね?」
「褒めてません」
モモは笑う。
「森のことも、いつか分かるんでしょうか」
「さあ」
ルシルは答えた。
「分からないまま通り過ぎるかもしれない」
「それでもいいですか?」
今度はルシルが少し考える。
以前なら、気になったことを放っておくのは嫌だったかもしれない。
今だって気になる。
地面の下に何があるのか。
森猪はなぜ散ったのか。
馬は何を嫌がったのか。
北木場の水桶はなぜ揺れたのか。
全部知れたら面白い。
けれど――。
「俺たちが知らないままでも、ちゃんと解決するなら、それでもいいかな」
シモンが静かにルシルを見る。
モモは一度瞬きをして、それから柔らかく笑った。
「私も、それでいいです」
「僕もです」
三人の間に短い沈黙が落ちる。
夜風が通りを抜けた。
どこかの宿から笑い声が聞こえる。
遠くで馬が一度鳴いた。
「戻ろうか」
ルシルが石壁から離れる。
「はい」
「明日は朝食後に二頭の確認ですね」
「うん」
「それ以外は?」
モモが尋ねる。
ルシルは歩きながら振り返った。
「起きてから決めよう」
「いいですね」
シモンも異論はなかった。
三人は石樽亭へ戻った。
◇
その夜。
グレイの北木場では、組合から派遣された二人が作業員を町へ戻し、火の落ちた作業小屋の前で周囲を確認していた。
月明かりは弱い。
森の縁は黒い壁のように見える。
「水桶は?」
一人が尋ねる。
「今は動いてない」
もう一人が灯具を近づける。
大きな木桶の水面は静かだった。
小さな虫が一匹、表面へ触れて波紋を作る。
それ以外に変化はない。
「地面も割れてないな」
「見える範囲はな」
二人は命じられた通り、それ以上調べようとはしなかった。
森へも入らない。
井戸も今夜は使わない。
異常が起きたら町へ戻る。
それだけだ。
しばらくして、一人が小さな焚き火へ薪を足した。
「何も起きなきゃいいけどな」
「何も起きなかったって報告も、ちゃんとした報告だろ」
「そうだな」
薪がぱちりと弾ける。
夜の森からは虫の声が聞こえていた。
木々が風に擦れる。
それ以外に、変わった音はない。
水桶も静かだった。
だから二人は、何もない夜を見張り続けた。
少なくとも、その時までは。
そして石樽亭では、森から離れた二階の三つの部屋で、ルシルたちがそれぞれ眠りにつこうとしていた。
明日の朝になれば、まずトルクとベルクを歩かせる。
森へ入るのは、自分たちではない。
調査をするのも、自分たちではない。
今夜はそれでいい。
答えの出ないものを無理に追いかけず、眠るべき時には眠る。
旅を始めたばかりのルシルなら、それを退屈だと思ったかもしれない。
けれど今は、何も起きない時間にも意味があることを、少しずつ知り始めていた。
グレイの夜は静かに更けていく。
森の地下に何があるのか。
二つの沈みと北木場の揺れに、本当に関係があるのか。
それはまだ、誰にも分からない。
翌朝の調査は、その答えを出すためではなく――まず、分からないものを一つずつ減らすために始まることになっていた。




