第33話 新しい蹄鉄の朝は、森より先に二頭の歩き方を見ました
翌朝、ルシルが目を覚ました時、最初に聞こえたのは馬の蹄ではなく、石畳の上を転がっていく荷車の音だった。
ごろごろと低く響く車輪の音が窓の下を通り過ぎ、少し遅れて御者の掛け声が遠ざかっていく。薄いカーテンの隙間からは朝の白い光が差し込み、二〇五号室の床へ細長い帯を作っていた。
「……朝か」
寝台の上で身体を起こす。
昨夜は、思っていたよりよく眠れた。
北木場の水桶。
二つの沈み。
森の中で聞こえた低い音。
地面の下から感じられたという弱い魔力。
気になるものはいくつもあったのに、寝台へ入ってから延々と考え続けることはなかった。
今朝やることが決まっていたからかもしれない。
「まずトルクとベルク」
口に出して確認する。
昨日、赤蹄工房で二頭とも小さな滑り止め付きの蹄鉄へ交換した。
今日は町の近くを軽く歩かせ、違和感がないかを見る。
森へ行くのは組合の調査班だ。
自分たちは、自分たちの旅支度をする。
顔を洗って身支度を整え、黒い外套を羽織る。
廊下へ出たところで、隣の扉が開いた。
「あ、おはようございます」
モモだった。
腰まで届くピンクゴールドの髪はすでに整えられ、白い外套も着ている。寝起きらしさはほとんどないが、いつもより少しだけ目元が柔らかい。
「おはよう。早いな」
「ルシル様も」
「シモンは?」
二人で二〇七号室を見る。
扉は閉じていた。
「まだでしょうか」
「珍しいな」
「昨日、たくさん考えていましたから」
「でも俺たちも考えてたぞ」
「シモン君は私たちより頭を使う量が多そうです」
「それは……否定できない」
ルシルは少し笑った。
だからといって起こす必要はない。
「先に下行く?」
「はい。朝ご飯が始まっているかもしれません」
「そこなんだ」
「馬を歩かせる前に私たちも食べた方がいいでしょう?」
「正しい」
階段を下りる。
石樽亭の一階はすでに動き始めていた。
食堂では職人らしい男たちが朝食を食べ、受付では宿泊客が勘定を済ませている。厨房からは焼いたパンと温かいスープの匂いが漂い、裏口が開くたびに朝の少し冷たい空気が流れ込んできた。
ガランは食堂にいなかった。
おそらく厩だろう。
「朝飯、二人?」
昨日と同じ店員が声を掛ける。
「三人です。あと一人来ます」
「じゃあ座っときな。今日は麦粥と卵、それに焼き腸詰め。パンもあるよ」
「全部?」
ルシルが尋ねる。
店員が笑った。
「昨日みたいに三人分を一人で食べる気じゃなきゃね」
「覚えられてる」
「そりゃ覚えるよ」
モモが隣で口元を押さえている。
「笑うなよ」
「笑ってません」
「笑ってる」
「少しだけです」
二人は空いている卓へ座った。
朝の食堂は夕食時ほど騒がしくない。
眠そうな顔で粥を食べる職人。
今日の荷を確認しながらパンを齧る御者。
すでに仕事の話を始めている二人組。
その中で、北木場について話している者もいた。
「午前は入れねえって」
「午後は?」
「組合の確認次第だとよ」
「薪は足りるのか?」
「今日一日くらいならどうにでもなるだろ」
声に不安はある。
しかし、町全体が混乱している様子ではない。
昨日ドレンが言っていた通り、北木場だけが午前中の作業を止めているらしい。
「ちゃんと伝わってるな」
ルシルが小声で言う。
「巨大な土竜の話は?」
「探すな」
「気になりません?」
「ちょっとだけ」
二人が顔を見合わせたところで、階段から足音がした。
「朝から何の話をしているんですか」
シモンが降りてくる。
「おはよう、シモン」
「おはようございます」
「おはようございます、シモン君」
「おはようございます。それで?」
ルシルとモモは一瞬黙った。
「朝飯の話」
「今、明らかに間がありましたが」
「気のせいです」
「モモ嬢までルシル様に合わせないでください」
シモンは向かいの席へ座る。
昨夜しっかり眠れたのか、顔に疲れは残っていない。
「シモン、寝坊?」
「寝坊ではありません。予定時刻を決めていなかったでしょう」
「そうだった」
「それに、まだ十分早いですよ」
窓の外を見る。
確かに朝日はまだ低い。
「じゃあ食べたら馬?」
「ええ。食後すぐに動く必要もありませんから、少し休んでからにしましょう」
「トルクさんたちも朝ご飯を食べていますかね」
「ガランさんが見ているでしょう」
そこへ朝食が運ばれてきた。
麦粥は薄い塩味で、細かく刻んだ野菜が混ざっている。卵は両面を軽く焼き、黄身が少し柔らかい。腸詰めは小ぶりだが香辛料が効いており、朝から食欲を刺激する匂いがした。
「いただきます」
三人で食べ始める。
ルシルはまず腸詰めを一口。
「うまい」
「昨日の鶏肉より味が濃いですね」
モモが言う。
「朝から動く職人が多い宿だからでしょうか」
「可能性はありますが、単にこの宿の味付けかもしれません」
シモンは粥を食べる。
「何でも理由をつける必要はありませんよ」
「シモンが言うと説得力あるな」
「どういう意味です?」
「昨日から、分からないものは分からないって話ばっかりだから」
「ああ」
シモンも納得したらしい。
「食事くらい、素直に美味しいでいいですね」
「はい。美味しいです」
モモが卵を切る。
黄身が少し流れ、麦粥へ落ちた。
「あ」
「混ぜたらうまそう」
「やってみます」
「俺も」
ルシルも卵を粥へ乗せる。
シモンは二人を見てから、自分の卵を半分だけ同じようにした。
「シモンもやるんじゃん」
「美味しそうだったので」
「素直」
「朝からいちいち反応しないでください」
食事を終える頃には、食堂の客が少し入れ替わっていた。
仕事へ出る者たちが立ち、新しい宿泊客が降りてくる。
北木場の話もいつの間にか聞こえなくなっていた。
◇
食後に少し休んでから、三人は裏の厩へ向かった。
朝の厩には、乾いた藁と飼葉、それに馬特有の温かな匂いが満ちている。入口から差し込む日差しの中で、ガランが一頭の馬の背を布で拭いていた。
「おう。食ったか」
「食べました」
モモが答える。
「二頭は?」
「元気だ。朝も普通に食ってる」
ガランは作業を終えると、布を肩へ掛けた。
「歩かせるんだろ?」
「はい」
「じゃあ先に立ってるところ見ろ」
三人は馬房へ近づく。
トルクはすでにこちらへ顔を向けていた。
栗毛の耳が動き、モモを見る。
「おはようございます、トルクさん」
モモが鼻先を撫でる。
「今日は人参持ってませんよ」
トルクの鼻が彼女の外套の辺りを探る。
「本当にありません」
「信用されてないな」
「昨日あげたからですよ」
ベルクは隣で静かに立っていた。
シモンが近づくと耳を向ける。
「おはよう、ベルク」
低く穏やかな声。
ベルクは馬房の奥へ逃げず、そのまま鼻先を伸ばした。
シモンが手を出す。
軽く匂いを確かめてから、ベルクは鼻を触れさせた。
「もう普通になってきたな」
ルシルが言う。
「何がです?」
「ベルクがシモンに寄るの」
「良いことでしょう」
「うん」
それ以上からかわない。
昨日もデリアから同じことを言われている。
毎回騒ぐほど珍しいことではなくなりつつあるのだ。
ガランが馬房を開ける。
「まずトルクから出すぞ」
「手伝います」
モモが横へ動く。
「急ぐな。普通に引けばいい」
「はい」
トルクを通路へ出す。
四本の脚が硬い床へ乗る。
ガランはすぐ蹄鉄へ手を伸ばさず、少し離れて立ち姿を見た。
「変に片脚浮かせてねえ。重心もおかしくねえな」
ルシルも見る。
言われれば分かる。
ただ、言われなければ何を基準に見るべきか迷っただろう。
「昨日の夜も大丈夫だった?」
「ああ」
「じゃあもう平気?」
「まだ歩かせてねえだろ」
「そうだった」
ガランが鼻で笑う。
「立って平気と、歩いて平気は別だ」
「覚えます」
「全部一回で覚えようとすんな」
「それも昨日からよく言われる」
「何だそりゃ」
ガランは不思議そうな顔をしたが、深く聞かなかった。
次にベルクを出す。
シモンが引き綱を持つ。
ベルクも立ち方に目立った違和感はない。
「じゃあ歩くぞ」
「どこまで?」
「まず裏庭一周」
「それだけ?」
「それだけで変なら遠く行く必要ねえだろ」
「なるほど」
石樽亭の裏庭は、馬車が数台停められる広さがある。
地面は踏み固めた土。
端には石が敷かれた部分もあり、厩から通りへ出るところだけ石畳になっている。
最初はトルクをルシルが引く。
モモが横から見て、ガランは少し後ろ。
「普通に歩け。馬の足ばっかり見て、自分が転ぶなよ」
「はい」
ルシルは前を見る。
トルクが歩き始める。
かつ、かつ、と新しい蹄鉄が一度石へ触れ、その後は土の上で音が柔らかくなった。
速度は普段通り。
歩幅も、ルシルが見る限り不自然ではない。
「どう?」
「俺に聞くな。自分で見たこと言え」
ガランに返される。
「えっと……嫌がってない。脚を短く出してる感じもない。音も変じゃない……と思う」
「今んとこそんなもんだ」
正解を言えたことより、「分からないところを断言しなかった」ことの方が良かったらしい。
裏庭を一周。
次は石畳へ少し出す。
新しい蹄鉄が硬い石へ触れ、乾いた音を立てる。
昨日までの蹄鉄との違いを耳だけで聞き分けるのは難しい。
ただ、トルク自身は気にしていない。
「滑り止めって、歩きにくくならないんだな」
「この程度ならな」
ガランが答える。
「でかい突起付けりゃ話は別だ。だからデリアも小さいのにしたんだろ」
「はい」
モモは少し後ろから脚運びを見ている。
「右と左で歩幅も同じに見えます」
「今はな」
ガランが頷く。
「じゃあ一回戻せ」
トルクを馬房近くへ戻す。
次はベルク。
「僕が引きます」
シモンがそのまま綱を持つ。
ベルクは最初の一歩だけ少しゆっくりだった。
ルシルが気づく。
「今、遅かった?」
「馬房から出た直後だから、それだけじゃ分かんねえ」
ガランは慌てない。
「続けろ」
シモンも速度を上げない。
「ベルク。行くぞ」
声を掛ける。
ベルクが歩く。
二歩、三歩。
そこからはトルクとほとんど変わらない。
土の上を一周。
次に石畳。
ここでも足を止めない。
「大丈夫そう?」
モモが尋ねる。
「今のところはな」
ガランはベルクの後肢を見ている。
昨日、デリアが少し減りが大きいと言っていた側だ。
「シモン、ちょっと止めろ」
「はい」
ベルクを止める。
ガランが後ろへ回ろうとして、少し斜めから近づく。
「真後ろに入らない」
ルシルが口にする。
「覚えてんじゃねえか」
「前に言われたから」
「なら続けろ」
ガランはベルクへ声を掛け、後肢を上げさせる。
新しい蹄鉄を指で確かめる。
釘の頭。
縁。
蹄との間。
「浮きなし。熱も変じゃねえ」
「熱?」
「炎症起こしたり、変な負担かかってりゃ熱持つこともある。ただ、触っただけで全部分かると思うなよ」
「はい」
「そこ返事早えな」
「昨日から何回も『一個で全部分かると思うな』って言われてるので」
今度はガランも笑った。
「随分いい教育受けてんな」
ベルクの脚を下ろす。
「もう少し歩かせていいぞ。町ん中を軽く一周してこい」
「二頭とも?」
「ああ。ただし馬車はつなぐな。今日は馬だけだ」
「分かりました」
「戻ったらもう一回見る」
「ガランさんも一緒じゃないんですか?」
モモが尋ねる。
「俺は仕事ある」
厩には他の馬もいる。
当然だった。
「三人で見てこい。何か変ならすぐ戻れ」
「はい」
ルシルはトルク。
シモンはベルク。
モモは二頭の間や横を歩き、周囲も見ることになった。
「私だけ馬がいません」
「二頭しかいないからな」
「分かっています」
「交代する?」
「途中でお願いします」
「いいよ」
朝の散歩が決まった。
◇
石樽亭を出る。
馬車を引かず、馬だけを連れて町を歩くのは少し不思議だった。
いつもなら二頭は並んで馬車を引く。
今日はそれぞれ引き綱だけ。
トルクは身軽そうに見える。
「お前、馬車ないと速く歩きたくなる?」
ルシルが尋ねる。
もちろん答えはない。
ただ、トルクは耳を一度動かした。
「会話できてる?」
モモが横から聞く。
「できてない」
「即答ですね」
「分かったふりしたら駄目だろ」
「確かに」
朝のグレイは、昨日より空気が少し冷たい。
空は晴れているが、北の山側には薄い雲がかかっていた。石造りの建物の間には朝日が斜めに入り、まだ日陰の石畳には夜の冷たさが残っている。
工房通りではすでに作業が始まっていた。
槌音。
鋸の音。
木を削る乾いた音。
その間を二頭の馬と三人が歩く。
通行人の邪魔にならないよう端へ寄り、荷車が来れば少し待つ。
「馬車じゃないと楽だな」
ルシルが言う。
「後輪を気にしなくていいですからね」
「そう、それ」
「でも馬の幅は忘れないでください」
「分かってる」
トルクは人混みを気にしない。
ベルクは時々通り過ぎる馬へ耳を向けるが、シモンの横から大きく離れようとはしなかった。
「昨日の蹄鉄屋さん、もう開いてますかね」
モモが北側を見る。
「赤蹄工房?」
「はい」
「問題なかったら行かなくていいって言われたけど」
「見るだけです」
「店を?」
「赤い蹄鉄の看板、朝はどんな感じかなって」
「同じじゃない?」
「光の当たり方が違います」
「そこ?」
モモの興味は相変わらず予想しにくい。
けれど甘い物だけを探しているより、ずっと彼女らしい気もする。
「遠回りにならないなら通る?」
ルシルが尋ねる。
「いいんですか?」
「散歩だし」
シモンが道を見てから頷く。
「この先を北へ行きすぎなければ、軽い運動の範囲でしょう」
「じゃあ決まりです」
モモが嬉しそうに歩く。
「モモが一番散歩楽しんでるな」
「トルクさんたちも楽しんでいますよ」
「分かるの?」
「なんとなくです」
「俺と同じじゃん」
「私は分かったとは言っていません」
「ずるい」
少し先で荷車が横道から出てきた。
三人は会話を止め、馬を端へ寄せる。
荷車を引く馬がベルクを見る。
ベルクも見る。
一瞬だけ身体が硬くなったように見えたが、シモンが綱を強く引くことはなかった。
「そのままでいい」
静かな声。
ベルクの耳がシモンへ向く。
荷車が通り過ぎる。
ベルクは追おうとも、逃げようともしなかった。
「今のは蹄鉄関係ないですよね?」
モモが聞く。
「おそらく」
シモンが答える。
「元々、ベルクは他の馬をあまり好みませんから」
「でも前より落ち着いてる」
ルシルが言う。
「旅に慣れた部分もあるでしょう」
シモンはベルクの首筋を軽く撫でる。
「僕たちだけでなく、二頭も旅をしているんですよ」
その言葉にルシルは少しだけ足を緩めた。
考えてみれば当然だ。
ヘルガスからここまで来たのは三人だけではない。
トルクとベルクも同じ道を歩き、同じ場所で休み、知らない町へ入ってきた。
「五人旅?」
「馬を人に数えます?」
「五人じゃ変か」
「五人と二頭、でもおかしいです」
モモが真剣に考える。
「三人と二頭?」
「それが普通では?」
シモンが答える。
「でも馬車もあります」
「そこまで数えなくていいでしょう」
「三人と二頭と一台」
「荷物まで数え始めないでくださいよ」
朝から妙な数え方になった。
通りすがりの老人が、三人を見て小さく笑っていく。
ルシルは少し恥ずかしくなったが、モモは気にしていない。
「三人と二頭と一台の旅です」
「決めなくていいって」
「馬車にはまだ名前もないのに」
ルシルは足を止めかけた。
「そういえば」
「忘れてたんですか?」
「忘れてない。決めてないだけ」
「候補はありましたね」
シモンが嫌そうな予感を察した顔をする。
「お菓子馬車」
「却下です」
「自由号」
「それもまだ正式ではありません」
「はちみつ号」
「昨日から蜂蜜に引っ張られすぎです」
モモが笑う。
「今決めなくていいですよ。名前も、必要になった時で」
「森と同じ?」
「馬車の名前と森の異変を一緒にするのはどうかと思います」
シモンの返しに、今度はルシルとモモが笑った。
そんな会話をしながら歩いているうちに、赤い蹄鉄の看板が見えてきた。
「あ」
モモが嬉しそうに指差す。
赤蹄工房はすでに開いていた。
炉の火も入っている。
昨日と同じように金属を打つ音が響き、入口脇には修理待ちらしい馬具が置かれていた。
「本当に光の当たり方違うな」
「でしょう?」
赤い蹄鉄の看板へ朝日が斜めに当たり、昨日より明るく見える。
それだけだった。
けれどモモは満足そうだ。
「問題なさそうだから、邪魔せず行こう」
「はい」
三人が通り過ぎようとした時、工房の奥からデリアが出てきた。
「おや」
昨日と同じ革前掛け姿。
片手に金槌を持っている。
「もう歩かせてるのかい」
「はい。朝飯の後に軽く」
ルシルが答える。
「どうだ?」
「今のところ普通です」
「『大丈夫です』じゃなくて『今のところ普通』か。ガランに何か言われたね?」
「ばれた」
「言いそうなことは分かるよ」
デリアは笑い、二頭の足元を見る。
「ちょっと止めて」
三人が二頭を止める。
デリアは手を出さず、まず歩いてきた直後の立ち方を見る。
「変にかばってないね。ベルクの後ろも悪くない」
「触ります?」
「今はいい。ガランが戻ってから見るんだろ?」
「はい」
「なら二人で同じことしても仕方ない」
デリアはトルクの鼻先を軽く撫でる。
「町を軽く歩くくらいで戻しな。調子良さそうだからって今日いきなり馬車つないで山へ行くんじゃないよ」
「行きません」
「ならよし」
モモが少し迷ってから尋ねる。
「デリアさん。北木場のこと、聞きましたか?」
「ああ」
デリアの表情が少しだけ真面目になる。
「今朝、客が話してた」
「心配ですか?」
「そりゃ多少はね。鉄も木炭も木材も、町の外から入るものが多い。森や道が止まりゃ職人も困る」
炉の奥で火が鳴る。
「でも、私が水桶見に行っても何にもならない」
また同じ答えだった。
モモが小さく笑う。
「何だい?」
「昨日から、みんな同じようなことを言うなと思って」
「そりゃ町ってのは、みんな自分の仕事があるからね」
デリアは当然のように言う。
「何か起きるたびに全員で見物へ行ってたら、誰が蹄鉄作るんだい」
「確かに」
「ほら、散歩の続き行ってきな」
「はい」
三人は礼を言い、赤蹄工房を離れた。
◇
そこからは町の中央側へ戻る道を選んだ。
トルクとベルクの歩き方に、目立った異常はない。
石畳。
固い土。
工房前に少しだけ散った細かな木屑の上。
場所が変わっても二頭は自然に歩いている。
途中でルシルとモモが交代した。
「お願いします」
ルシルがトルクの引き綱を渡す。
「はい」
モモは受け取ると、すぐ歩き始めず、トルクの顔を見る。
「今度は私ですよ」
トルクが鼻を鳴らす。
「返事しました」
「それは分からないだろ」
「今のは返事です」
「さっき自分で『分かったとは言ってない』って」
「今は分かりました」
「基準が分からない」
シモンが隣で笑いを堪えている。
「シモン、助けて」
「何をです?」
「判定して」
「僕に馬語の能力はありません」
「賢者なのに?」
「賢者を何だと思っているんですか」
トルクは三人の会話など気にせず歩き始めた。
モモの隣でも歩幅は変わらない。
そのまま中央広場へ近づく。
朝の市場が開き始めていた。
野菜を並べる店。
籠に卵を入れた店。
乾燥豆。
布。
木製の食器。
昨日歩いた時とはまた違う顔ぶれだ。
「いい匂い」
モモの顔が横を向く。
ルシルも気づく。
焼き菓子。
蜂蜜とは違う。
小麦とバターに似た脂の香ばしい匂い。
「見る?」
「見ません」
モモは前を向いたまま答える。
「早い」
「今はトルクさんを歩かせています」
「終わったら?」
「……その時考えます」
「成長してる」
「だから、その言い方やめてください」
トルクが少しだけ首を動かした。
甘い匂いに反応したのか、モモの声に反応したのかは分からない。
「トルクも気になる?」
「人間の菓子は駄目です」
モモが即座に言う。
「そこはしっかりしてるな」
「人参なら後で」
「昨日も食べただろ」
「少しなら」
「ガランに聞いてからな」
「はい」
中央広場を抜ける。
冒険者組合の前も通った。
入口は開いている。
掲示板には新しい黄色い紙が貼られていた。
人が数人集まっている。
「見る?」
ルシルが足を緩める。
シモンは少し考え、首を振った。
「今は馬を歩かせている途中です」
「だよな」
「昼過ぎでいいんでしたよね」
モモも前を向く。
「ドレンさんがそう言ってた」
ルシルは掲示板から視線を外した。
気になる。
とても気になる。
けれど、昨日と同じ情報を朝から確かめるために二頭を待たせる必要はない。
「帰ろう」
「はい」
石樽亭へ向かう。
その途中でベルクが一度だけ、右後肢を少し強く地面へ置いた。
「あれ?」
ルシルが気づく。
シモンもすぐ止まった。
「ベルク」
ベルクも止まる。
モモがトルクを少し前へ出し、道を塞がない位置へ移動させる。
「どうしました?」
「今、右後ろ強く踏まなかった?」
「僕も感じました」
シモンはすぐ脚へ触らない。
ベルクの立ち方を見る。
片脚を浮かせてはいない。
「石?」
足元を見る。
石畳の隙間に、小さな硬い欠片が落ちている。
木片にも見える。
「一回歩かせてみます」
「ゆっくり」
「はい」
シモンが数歩進む。
ベルクも歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
今度は普通だ。
「もう一回」
少し進む。
異常なし。
「さっきの場所、何か踏んだだけかな」
「可能性はあります」
シモンは断言しない。
「でも戻ったらガランさんに言いましょう」
モモが言う。
「そうだな」
「赤蹄工房へ戻る?」
ルシルが尋ねる。
「今の一度だけなら、まずガランさんへ」
シモンが答える。
「歩き方がおかしくなれば、その場で止めます」
「分かった」
ルシルは少し緊張したままベルクを見る。
けれどベルク自身は、シモンの横で普通に立っている。
ここで慌てて騒げば、かえって馬を不安にさせるかもしれない。
「ゆっくり戻ろう」
「ええ」
速度を少し落とす。
それから石樽亭まで、ベルクが同じ動きをすることはなかった。
◇
「一回だけ?」
戻って報告すると、ガランは最初にそこを確認した。
「はい」
シモンが答える。
「右後ろを少し強く置いたように見えました。その後は普通です」
「場所は?」
「中央広場から石樽亭へ戻る途中。石畳です」
「何か踏んだ?」
「小さい欠片はありました。ただ、それが原因かは分かりません」
「よし」
ガランはベルクを厩前の平らな場所へ立たせた。
「歩かせろ」
シモンが短い距離を往復する。
ガランは正面。
次に横。
最後に後ろから見る。
「もう一回」
今度はルシルもよく見る。
右後肢。
左後肢。
歩幅。
着地。
自分に分かる範囲では左右差はない。
「止めて」
ガランがベルクへ近づく。
声を掛けてから右後肢を上げる。
蹄鉄。
釘。
蹄。
縁。
指で触れ、軽く押す。
「浮いてねえ」
別の場所へ触る。
「変な熱もねえ」
「じゃあ大丈夫?」
「今見た限りはな」
ルシルは昨日から何度目か分からない言葉を聞き、少し笑った。
「何だ?」
「いや、『今のところ』ばっかりだなって」
「当たり前だろ。明日のことまで今日見えるか」
「そうだよな」
「一回変な踏み方しただけなら、石踏んだか、足場が悪かったかもしれん。これが何度も続くなら話が変わる」
ガランはベルクの脚を下ろす。
「昼まで休ませろ。夕方もう一回立ち方見る。今日は馬車につながなくていい」
「分かりました」
「デリアさんに見せなくて大丈夫ですか?」
モモが尋ねる。
「今すぐ連れてくほどじゃねえ。心配なら俺が昼に一度見とく。悪くなりゃ呼びに行く」
「お願いします」
「そのための厩だ」
ガランはトルクも簡単に確認する。
こちらは何もない。
「二頭とも朝の運動はこれで終わり」
「人参は?」
モモが尋ねる。
「嬢ちゃん、それ覚えてたのか」
「約束しました」
「馬と?」
「はい」
「いつ?」
「さっきです」
「馬は返事したのか?」
「しました」
ルシルが笑う。
「それ俺も聞いたけど、たぶん返事してない」
「ルシル様」
「少量ならやっていい」
ガランが助け舟を出す。
「ただし朝飯食った後だから、本当に少しだぞ」
「はい!」
結局、モモは宿の厨房から小さな人参を一本分けてもらい、三つほどに切ってもらった。
トルクに一つ。
ベルクに一つ。
残り一つはどうするのかと思えば、さらに半分に割って二頭へ追加する。
「平等です」
「最初から二本にすればよかったんじゃ」
「大きさが違うかもしれないじゃないですか」
「そこまで?」
「大事です」
トルクは何の迷いもなく食べた。
ベルクはシモンの手から受け取る。
モモは自分であげたそうな顔を一瞬したが、無理に手を出さなかった。
ベルクがシモンから食べるなら、それでいい。
「よし」
モモが満足そうに頷く。
「何が?」
「朝の予定、終わりました」
「確かに」
ルシルは厩の外を見る。
朝より日が高くなっている。
まだ昼には早い。
冒険者組合へ行くには早すぎるとドレンに言われている。
「じゃあ」
ルシルは二人を見る。
「何する?」
モモがすぐに答えようとして、止まった。
「……甘い匂いのところ?」
「やっぱり覚えてた」
「でも、行くかは今決めました」
「さっきから考えてただろ」
「少しだけです」
シモンが眼鏡を直す。
「別に構いませんよ」
二人が同時に彼を見る。
「いいの?」
「朝の馬の確認は終わりました。昼過ぎまでは組合へ行く必要もない。買うかどうかは別として、町を見る時間にしてもいいでしょう」
「シモン君」
「何です?」
「今日は優しいですね」
「普段が優しくないように言わないでください」
「そういう意味じゃありません」
「それに、僕も昨日見た工房通りの先が少し気になっています」
ルシルが目を丸くする。
「シモンから寄り道候補出した」
「だから毎回そこに反応しないでください」
「どこ?」
「北東側に紙と本を扱う店の看板がありました」
「本!」
ルシルの興味が一気に向く。
「鳥の本あるかな」
「可能性はあります」
「白い花も調べられる?」
モモも乗る。
「植物図鑑があれば」
三人の予定が急に増えた。
けれど、全部行く必要はない。
「まず甘い匂い?」
ルシルが言う。
「本屋さんでもいいですよ」
モモが意外なことを言った。
「いいの?」
「お菓子は逃げません」
シモンが少し笑う。
「昨日、僕が言った台詞に似ていますね」
「覚えました」
「じゃあ本屋?」
「その前に」
シモンが厩の外へ目を向ける。
「一度、宿の受付で北木場の掲示について聞いてみましょう。町側に新しい注意が出ているなら、散策する範囲を考えた方がいい」
「なるほど」
「でも、組合には行かない?」
「行きません。宿に届いている情報だけで十分です」
「分かった」
三人はガランへ声を掛け、厩を出た。
◇
受付の女性に聞くと、北木場について新しい情報はほとんどなかった。
「午前中は作業停止。北側の荷車道は関係者以外入らないように、って連絡が来てるよ」
「町の中は?」
「何もなし」
「揺れたとか?」
「うちじゃ感じてないね」
女性は受付台の上に置かれた水差しを見る。
「これも静かなもんだよ」
「じゃあ町歩いても大丈夫?」
「北木場を見物に行かなきゃね」
「行きません」
三人の返事が揃った。
「よろしい」
女性は満足そうに頷く。
「朝から二組くらい『見に行けるか』って聞いてきたからね」
「行ったんですか?」
モモが尋ねる。
「止めたよ。仕事でもないのに邪魔しに行ってどうするんだい」
「みんな気になるんだな」
ルシルが言う。
「気になるのと、行っていいのは別だよ」
また一つ、似た言葉が増えた。
「じゃあ、町の北東側へ行ってきます」
「工房街かい?」
「本屋を見たいです」
「それなら『紙梟』かな」
「かみふくろう?」
「紙と本を扱ってる店。工房の帳面や設計紙が多いけど、旅人向けの本も少しあるよ」
新しい店の名前が出た。
「どこです?」
ルシルが少し身を乗り出す。
女性は簡単な道を教えてくれた。
中央広場から北東へ。
桶屋の角を曲がり、青い軒布の店を過ぎる。
木の看板に、紙を咥えた梟が彫られている。
「分かりやすそう」
「見落とさなければね」
「見落とすことある?」
「初めての町じゃ、看板見ながら別の店に気を取られる客なんていくらでもいるよ」
モモがルシルを見る。
「何で俺?」
「ルシル様ならありそうです」
「モモもだろ」
「私は大丈夫です」
「甘い匂いしたら?」
「……シモン君がいます」
「僕を道標にしないでください」
受付の女性が笑った。
三人は礼を言い、石樽亭を出た。
◇
朝から昼へ向かうグレイの通りは、活気を増していた。
工房の扉が大きく開き、木材を運ぶ者、金具を箱へ詰める者、修理した車輪を転がす者が行き交う。
北木場の一部が止まっているとはいえ、町全体の仕事が止まったわけではない。
ルシルたちは人の流れを邪魔しないよう歩く。
馬を連れていないだけで、先ほどより身軽だ。
「桶屋」
モモが先に見つけた。
店先に大小の桶が積まれている。
「ここ曲がるんだっけ」
「はい」
シモンが答える。
曲がった先に青い軒布。
その向こう。
「あった」
ルシルが看板を見つける。
木板に丸い目の梟が彫られ、その嘴には一枚の紙。
下に小さく『紙梟』と書かれている。
「かわいいです」
モモが看板を見上げる。
「梟って紙食べるのかな」
「咥えているだけでしょう」
「分かってるよ」
「ルシル様なら本気で聞いている可能性が少しあります」
「ひどい」
三人は店へ入った。
扉についた小さな鐘が鳴る。
中は外の工房街とは別世界のように静かだった。
紙の匂い。
革表紙。
木の棚。
乾いたインク。
入口近くには帳面や束ねた紙が並び、奥の棚には本が詰まっている。
高価そうな厚い本もあれば、薄い冊子もある。
「いらっしゃい」
奥から声がした。
現れたのは、細身の老人だった。
白髪を後ろへ撫でつけ、鼻の先に小さな眼鏡を掛けている。
「帳面かい、紙かい、それとも読む方かい?」
「読む方です」
ルシルが答える。
「旅人向けの本を探してて」
「どんな?」
「鳥」
「植物」
ルシルとモモが同時に言う。
老人の視線が二人の間を行き来する。
「別々か」
「はい」
シモンが答えた。
「川沿いで見た鳥と、道中の野営地で見た白い花を調べられる本があればと思いまして」
「どの辺から来た?」
「ラナ方面です」
「なら地方本で足りるかもしれんな」
老人は店の奥へ歩く。
「ついておいで。ただし、見ただけで絶対に分かるとは思わんことだ」
三人は顔を見合わせた。
「ここでも言われた」
ルシルが小声で呟く。
「何をだい?」
老人が振り返る。
「いえ、何でもないです」
「変な客だな」
老人は気にせず進む。
奥の棚から二冊を抜き出した。
一冊は薄茶色の革表紙。
もう一冊は緑色の布張り。
「こっちが『西部河川と湿地の鳥』。こっちは『街道沿いの草花百選』」
「百種類」
モモが嬉しそうに受け取る。
「白い花、あるかな」
「特徴は?」
老人が尋ねる。
「小さくて、白くて、たくさん咲いていました」
「それだけじゃ十種類以上ある」
「ですよね」
モモは落ち込まず、本を開く。
「葉は?」
「細かった……と思います」
「花弁は?」
「五枚……だったでしょうか」
ルシルも記憶を探る。
「俺、そこまで見てない」
「私もちゃんとは」
「なら、似た花を見つけても断定するな」
老人が言う。
「旅人は花の色だけ覚えて名前を決めたがるが、葉や茎や咲く時期で違うことがある」
「写真……じゃなくて絵は?」
「絵入りだ」
本を開くと、細かな植物画が描かれている。
モモの目が輝いた。
「きれい」
花を探すより先に、絵そのものを楽しんでいる。
ルシルは鳥の本を開いた。
「俺たちが見たの、どんなだったっけ」
「灰色っぽくて、首が長めでした」
シモンが答える。
「嘴も長かった気がする」
「水に浮いてた?」
「岸にもいました」
「大きさは?」
「このくらい?」
ルシルが両手で示す。
老人が見ている。
「その説明じゃ三種類は候補がある」
「やっぱり?」
「鳥は遠目だと色も変わって見える」
頁をめくる。
一羽の絵でルシルの手が止まった。
「これ似てない?」
灰白色。
長い首。
細い嘴。
水辺に立っている。
シモンが覗く。
「似ていますね」
「これだ!」
「待ってください」
シモンに止められる。
「似ている、です」
「……はい」
老人が満足そうに頷いた。
「そっちの兄さんは慎重だな」
「昨日からそういう練習をしてる気分です」
ルシルが答える。
「何の練習だ?」
「分からないものを、分かったことにしない練習」
老人は数秒黙った。
「悪くない」
そう言って別の棚へ向かう。
「なら、その二冊は向いてる。名前を当てる本じゃなく、見分け方が書いてある」
ルシルは鳥の頁をもう一度見る。
候補は三種類。
脚の色。
嘴の太さ。
首の模様。
季節。
確かに、あの日はそこまで見ていない。
「次に見たら分かるかも」
「そのために本を持つなら役に立つ」
「買います」
即答した。
老人が目を瞬く。
「値段見たか?」
「まだ」
「先に見ろ」
本の裏に小さく価格が書かれている。
ルシルは読む。
「……シモン」
「何です?」
「相談」
「だから先に値段を見るんですよ」
シモンが本を受け取る。
旅人向けとはいえ、絵入りの専門本だ。
安くはない。
ただ、買えない額でもない。
「共有の本にしますか?」
「共有?」
「旅で使うなら、三人の荷物として」
「それがいい」
モモが植物本から顔を上げる。
「こっちも欲しいです」
「まだ白い花見つかってないだろ」
「見つからなくても、これから見る花を調べられます」
理由はしっかりしている。
シモンも植物本を確認する。
「二冊とも、旅で使う本としてなら無駄ではないでしょう」
「買っていい?」
「僕が許可する話ではありません」
「あ」
ルシルは笑った。
「またやった」
「共有資金を使うなら相談は必要です。ただし、僕が一人で許可を出すわけではありません」
「じゃあ三人で」
「私は欲しいです」
モモ。
「俺も」
ルシル。
二人がシモンを見る。
「僕もあって困らないと思います」
「決まり」
二冊を買うことになった。
老人は会計をしながら、本を薄い布へ包んでくれる。
「旅なら濡らすなよ」
「収納魔法に入れます」
シモンが答える。
老人の手が一瞬止まる。
「便利な旅人だな」
「助かっています」
それ以上、シモンの魔法について聞かない。
会計を終える。
「ありがとうございます」
「次に同じ鳥を見たら、脚まで見てみろ」
「はい」
「花は抜くなよ」
モモに言う。
「見るだけ?」
「調べるだけならな。場所によっちゃ採っていいものもあるが、知らん花を片っ端から抜く旅人は嫌われる」
「しません」
「ならいい」
三人は紙梟を出た。
外の工房音が一気に戻ってくる。
「本買った」
ルシルは妙に嬉しかった。
「買いましたね」
「旅の本、初めてじゃない?」
「地図や案内紙はありましたけど、こういう本は初めてですね」
「馬車に置こう」
「棚に場所ありますか?」
モモが尋ねる。
「お菓子棚以外に」
「ありますよ」
シモンが答える。
「何でわざわざお菓子棚を除外するんです?」
「モモが守りそうだから」
「守ります」
「ほら」
モモは当然のように頷いた。
その時だった。
工房街の北側から、一台の小さな荷車が入ってきた。
荷は積んでいない。
御者台には男が二人。
どちらも作業着。
車輪と荷台の側面に泥がついている。
周囲の職人たちが何人か顔を上げた。
「あれ」
ルシルも見る。
「北木場の人かな」
断定はしない。
ただ、荷車は北から来た。
御者の一人が通り沿いの工房へ声を掛ける。
「午前はまだ止めるぞ! 親方から連絡だ!」
「何かあったのか?」
職人が聞き返す。
「井戸の水が少し濁ってる! 組合が見るまで使うなって!」
周囲の音が、完全に止まったわけではない。
けれど近くの数人は手を止めた。
ルシルたちも足を止める。
「濁った?」
モモが小さく呟く。
昨日、シモンが確認項目に加えるよう提案した井戸。
その水に変化があった。
シモンの表情が僅かに引き締まる。
「シモン」
「まだです」
ルシルが何か言う前に返された。
「まだ、何も分かりません」
「うん」
井戸の濁り。
それが地下の異変を意味するのか。
昨夜の揺れで泥が混じっただけなのか。
井戸自体の問題なのか。
原因はいくらでも考えられる。
荷車の男はさらに声を張った。
「怪我人はいねえ! 地面も今のところ割れてねえ! 勝手に木場へ来るなってよ!」
その一言で、周囲の職人たちのざわめきが少し落ち着いた。
「怪我人なし」
モモが確認するように言う。
「はい」
シモンが頷く。
「まずはそれで十分です」
ルシルは北の通りを見る。
行こうと思えば、北木場へ向かう道を探すことはできる。
けれど行かない。
組合はすでに調査している。
木場からも「来るな」と伝えられている。
「昼過ぎに組合だな」
「ええ」
「それまでは?」
モモが尋ねる。
ルシルは少し考え、紙梟で買った二冊の本を包んだ布を見る。
「宿戻って、本読む?」
モモの顔が明るくなる。
「読みます」
「甘い匂いの店は?」
「……本を読んだ後でも間に合います」
「かなり迷ったな」
「迷ってません」
「間があった」
「ルシル様だって昨日、北木場の話を聞いた後に夕飯を心配していました」
「それとこれ関係ある?」
「あります」
「どこが?」
「どっちも大事です」
シモンが二人の間で小さく息を吐いた。
「とりあえず戻りましょう。ベルクの様子も、昼頃にもう一度見ておきたいです」
「そうだな」
「はい」
三人は石樽亭へ向かって歩き始めた。
背後では、北木場から来た荷車の男が、別の工房にも同じ情報を伝えている。
井戸の水が少し濁った。
怪我人はいない。
地面の亀裂も確認されていない。
北木場へ勝手に来るな。
分かったことと、分からないこと。
その境目は、今朝もまだはっきり残っていた。
ルシルは歩きながら、一度だけ北の空を見る。
晴れたグレイの上空とは違い、遠い山側には薄い雲が残っている。
森の地下で何が起きているのかは、まだ分からない。
けれど今日は、朝から何もしていなかったわけではない。
トルクとベルクを歩かせた。
ベルクの一度だけの足運びを見逃さず、ガランに伝えた。
旅で使う鳥と植物の本も買った。
そして北木場では、調査する人たちが調査を続けている。
それぞれが、自分のやるべきことをやっている。
「ルシル様」
少し前を歩いていたモモが振り返る。
「何?」
「白い花、宿で探しましょう」
「見つかるかな」
「見つからなかったら、次に通った時もっとよく見ます」
「鳥もだな」
「はい」
シモンが二人の横へ並ぶ。
「それくらいでいいんですよ」
ルシルは頷いた。
知らなかったものを、一度で全部知る必要はない。
旅はまだ続く。
同じ鳥を見ることも、同じ花を見ることもあるだろう。
森の異変についても、おそらく同じだった。
一つ新しい情報が増えたからといって、すぐ答えになるわけではない。
だから今は、昼まで待つ。
三人は新しく買った二冊の本を持って、朝のグレイを石樽亭へ戻っていった。
その頃、北木場では組合の職員が濁った井戸水を小さな透明瓶へ汲み取り、朝日へ透かしていた。
底へ沈み始めたのは、ごく細かな灰色の砂だった。




