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『王位なんていりません! 追放された元王子は、最強の聖女(笑)?と苦労人賢者と気ままな旅を満喫します!!』  作者: 伊佐波瑞樹


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第34話 灰色の砂が増えたからといって、答えまで増えたわけではありません

 石樽亭へ戻った三人は、そのまま二階へ上がらなかった。


 朝の散歩を終えたトルクとベルクはすでに厩で休んでいるが、先ほど北木場から戻ってきた荷車の男が告げていた「井戸の水が少し濁っている」という話が、どうしても頭の片隅に残っている。とはいえ冒険者組合へ行くにはまだ早く、今すぐ北へ向かう理由などなおさらなかった。


 そこで三人は、宿の食堂の端にある空いた卓を借りることにした。


 昼食にはまだ早い時間だったため、朝の賑わいが引いた食堂は静かだった。厨房では昼の仕込みが始まっており、ときおり包丁がまな板を叩く音や、鍋を動かす金属音が聞こえてくる。開けられた窓からは工房街の槌音が遠く混じり、風が紙梟で買った二冊の本の包みをわずかに揺らした。


「まず、どっちから見ます?」


 モモが布包みへ両手を伸ばす。


「白い花」


「鳥」


 ルシルとモモの声が重なった。


 二人とも一歩も譲る気配がない。


「二冊あるんですから、一冊ずつ見ればいいでしょう」


 向かいに座ったシモンが、ごく当然の解決策を出した。


 ルシルとモモは顔を見合わせる。


「そうだった」


「そうでした」


「買った直後に何を争っているんですか」


「争ってないよ」


「意見が違っただけです」


「そういうことにしておきます」


 薄茶色の革表紙をルシルが、緑色の布張りをモモが引き寄せる。


 シモンはどちらも取らなかった。


「シモンは見ないの?」


「二人が候補を見つけたら見ます。三人で一冊を覗き込むより早いでしょう」


「効率的」


「本を見る時くらい効率を気にしなくてもいいんですけどね」


 そう言いながら、シモンは椅子へ少し深く腰を下ろした。


 ルシルは鳥の本を開く。


 紙梟で一度見た時にも思ったが、絵が細かい。羽の色だけでなく、嘴や脚、目の周囲の模様まで描き分けられている。頁の端には生息地や季節、鳴き声について短い説明があり、同じ種類でも若い個体と成長した個体で見た目が違うものまで載っていた。


「難しいな」


「もうですか?」


 モモが植物本から顔を上げる。


「だって、似た鳥が多い」


「それ、さっき本屋さんでも言われてましたよ」


「実際に並んでるともっと分かるんだよ」


 川沿いで見た鳥を思い出す。


 灰色がかった身体。


 長めの首。


 細い嘴。


 岸にもいたし、水の近くにもいた。


 けれど脚の色は覚えていない。


 羽の先に黒い部分があったかどうかも曖昧だ。


「これかな」


 一羽を指差す。


 次の頁をめくる。


「……いや、こっちも似てる」


 さらにめくる。


「これも?」


「候補が増えてません?」


「増えてる」


「調べているのに」


「仕方ないだろ」


 ルシルは三羽の頁を行ったり来たりする。


 名前を知るために本を買ったのに、分からないものが増えた。


 不思議な感じだった。


「モモは?」


「こっちも増えました」


「同じじゃん」


 モモは緑の本を卓の中央へ置いた。


 開かれている頁には、小さな白い花が描かれている。五枚の花弁が星のように開き、細い葉が茎の左右へ伸びていた。


「これ、似ていませんか?」


 ルシルも覗く。


「似てる気がする」


「ですよね」


「でも、こっちも」


 モモが次の頁を開く。


 こちらも白い小花。


「似てる」


「さらにこれも」


「……似てる」


 三つ目。


 ルシルは腕を組んだ。


「白い花、多いな」


「たくさんあります」


 シモンがとうとう身を乗り出した。


「野営した場所の花は、地面を覆うように群生していましたね」


「はい」


「茎は高くなかった」


「そうですね」


「葉の形は?」


 三人とも黙った。


 あの時は、花を踏まないように馬車を入れることや、野営場所として使えるかどうかに意識が向いていた。


 白く小さな花が一面に咲いていることは覚えている。


 夕方の光の中で揺れていたことも。


 けれど、一輪を手に取って葉まで観察したわけではない。


「覚えてません」


 モモが素直に答えた。


「俺も」


「僕もです」


 シモンは本を閉じなかった。


「では、今は候補がいくつかある、で終わりですね」


「買ったのに分からなかった」


 ルシルは少し残念だった。


 だが、モモはそれほど落ち込んでいない。


「次に見た時に分かるかもしれません」


「紙梟のお爺さんと同じこと言ってる」


「本当にそうだと思ったので」


 モモは候補になった花の頁をもう一度眺める。


「今度は葉も見ます。花びらもちゃんと数えます」


「抜かないように」


「分かっています」


「根っこも特徴に書いてあるけど?」


「抜きません」


 そこは強かった。


 ルシルは鳥の本へ戻る。


「俺も次は脚を見る」


「嘴の色もですね」


「首の模様も」


「鳴き声も書いてありますよ」


「そこまで覚えられるかな」


「全部一度に見なくてもいいでしょう」


 シモンが言った。


「また会えたら、一つでも前より見られれば十分です」


「本、持ってるしな」


「ええ」


 ルシルは頁を閉じる前に、候補になった三羽の名前だけ覚えようとして――やめた。


 どうせ全部一度に覚えようとすれば混ざる。


 本は持っていける。


「馬車の棚、どこに置く?」


「湿気にくいところがいいですね」


 シモンが答える。


「窓のすぐ横は避けましょう」


「お菓子棚の隣は?」


 モモが尋ねる。


「なぜそこへ寄せたがるんです?」


「場所が空いていた気がして」


「お菓子棚を広げるために本を別へ追い出さないなら構いません」


「しませんよ」


「今、一瞬考えませんでした?」


「考えてません」


 モモは視線を逸らした。


 ルシルは笑いながら本を布へ戻す。


 森の異変。


 北木場の井戸。


 それらを忘れたわけではない。


 それでも、待っている時間をずっと不安だけで埋める必要はなかった。


 旅の途中で見つけた名前の分からない鳥と花。


 答えがすぐ出なかったことまで含めて、今は楽しかった。


     ◇


 昼が近づく頃、三人はもう一度厩へ向かった。


 ガランに頼まれていたわけではない。


 ベルクの様子が気になったのだ。


 朝の散歩中、右後肢を一度だけ強く置いた。


 その後は普通に歩き、戻ってからガランが確認しても蹄鉄の浮きや異常な熱はなかった。それでも、新しい蹄鉄へ替えた翌日でもある。


「静かに行きましょう」


 厩の入口でモモが声を落とす。


「寝てるかもしれないから?」


「はい」


 中へ入ると、トルクは立ったまま飼葉を少し食べていた。


 ベルクも立っている。


 横になってはいない。


 シモンの足音に気づいたのか、黒に近い灰色の耳がこちらを向く。


「普通そう」


 ルシルは小声で言う。


「見ただけではまだ」


 シモンも声を抑えたまま馬房へ近づく。


 ベルクは右後肢を浮かせていない。


 片側へ不自然に体重を逃がしている様子もなかった。


 シモンが鼻先へ手を差し出す。


 ベルクが軽く触れる。


「機嫌も悪くなさそうですね」


 モモが言った。


「機嫌まで分かる?」


「少なくともシモン君の手は嫌じゃなさそうです」


「それはそうかも」


 シモンは二人の会話を聞き流しながら、ベルクの首筋をゆっくり撫でた。


 そこへ奥からガランが戻ってくる。


「来てたのか」


「ベルク見に」


「俺も今から見るところだ」


 ガランは桶を置き、手についた水を布で拭った。


「朝から変わったことはない。飼葉も食ってる」


「右後ろは?」


「馬房ん中じゃ変なかばい方はしてねえな。出すぞ」


 シモンが馬房を開ける。


 ベルクを通路へ出し、ガランの指示で短く歩かせる。


 朝と同じように往復。


 一度目。


 二度目。


 右へ緩く曲がる。


 左へ。


「止めろ」


 ガランがしゃがむ。


 今度は右後肢だけでなく、四本すべてを順番に確認した。


 蹄鉄の縁を指でなぞり、釘の頭を見て、蹄そのものにも触れる。


「朝と変わらんな」


 ガランが立ち上がった。


「じゃあ大丈夫?」


 ルシルが聞く。


「今はな」


「やっぱりそれなんだ」


「何だよ」


「いや、もう慣れた」


 ルシルは笑う。


 ガランは意味が分からないという顔をしたが、そのまま続けた。


「朝の一回だけなら、やっぱり何か踏んだ可能性が高そうだ。ただ、今日いっぱいは気にしとけ。夕方も同じなら、明日から普通に馬車へつないでもいいだろう」


「山道も?」


「待て」


 ガランの返事が一段低くなる。


「町中で歩けたからって、いきなり山道の話へ飛ぶな」


「ごめん」


「山へ入る日は道の状態も見ろ。蹄鉄が平気でも、泥が深けりゃ別だ」


「はい」


「それに森の話もある」


 ガランは北側を意識するように顎を動かした。


「今日出る気はねえんだろ?」


「ないです」


「なら急ぐな」


「分かりました」


 ガランはベルクを馬房へ戻す。


 ベルクは素直に入った。


 トルクが隣から鼻を伸ばす。


「トルクさんも見てください」


 モモが言う。


「朝問題なかったぞ」


「ベルクさんだけだと、トルクさんが寂しいかもしれません」


「馬がそう言ったのか?」


 ガランが尋ねる。


「……なんとなくです」


「朝は返事したって言ってたじゃん」


 ルシルが余計なことを言った。


「ルシル様」


「何?」


「言わなくていいです」


「聞こえてるぞ」


 ガランが笑い、結局トルクも軽く確認した。


 もちろん異常はない。


「二頭とも休ませとけ。午後にまた見たいなら来りゃいい」


「はい」


 厩を出ようとしたところで、モモが振り返る。


「ガランさん」


「ん?」


「北木場の井戸が濁ったって聞きました?」


「ああ。さっき薪屋が言ってた」


「どう思います?」


「どうって?」


「心配とか」


 ガランは少し考えた。


「井戸が使えねえのは困るだろうな」


「それだけ?」


「原因は俺に聞いても分からん」


 ガランは肩をすくめる。


「砂が入ったなら、井戸の壁がどっか崩れたかもしれねえし、地面が揺れて底の泥が舞っただけかもしれねえ。森と関係あるかもしれねえ。ないかもしれねえ」


「詳しいですね」


「昔、宿の井戸が濁ったことあるからな」


 三人が同時にガランを見る。


「あるの?」


「ああ。大雨の後にな」


「その時は?」


「水が入り込んだだけだった。半日使わず、井戸屋呼んで見てもらった」


「森の魔物は?」


「関係ねえよ」


 ガランは呆れた顔をする。


「井戸が濁る理由なんざ一つじゃねえって話だ」


「なるほど」


 ルシルは頷いた。


 北木場の井戸が濁った。


 それ自体は新しい事実だ。


 だが、その事実が森の異変とつながっているかは別だった。


「昼飯食ってこい」


 ガランが言う。


「そろそろ時間だろ」


「そういえば」


 ルシルの腹も、ちょうど思い出したように空腹を訴えてきた。


「川灯り亭?」


 モモがすぐ反応する。


「覚えてたな」


「ルシル様が昨日から気にしてたじゃないですか」


「モモもだろ」


「私は付き合ってあげてもいいです」


「絶対食べたい顔してる」


「どんな顔ですか、それ」


 シモンが厩の外へ出ながら口を挟む。


「行くなら今からでもいいでしょう。組合へ行くのは昼食後で十分です」


「決まり」


 三人は石樽亭を出る準備を整えた。


     ◇


 川灯り亭は、グレイの南東側へ流れる川から運ばれる魚を多く扱う小さな食堂だった。


 昨日、店先を通った時に揚げ焼きの魚の香りが漂っており、ルシルが気にしていた店である。


 昼時だけあって店内は混んでいた。


 職人だけでなく、荷運び人や買い物途中らしい住民もいる。壁際には川魚を描いた木札がいくつか掛けられ、開け放した窓からは川の方角から吹く風が入っていた。


「三人なら奥、空いてるよ!」


 店員に案内され、三人は小さな卓へ座る。


「揚げ焼き、まだあります?」


 ルシルが聞く。


「あるよ。今日は銀腹魚。骨が細いから頭以外はだいたい食える」


「それ」


「私も」


 モモが続く。


 シモンは壁の品書きを見る。


「僕は魚と豆の煮込みにします」


「違うの頼むんだ」


「味見するつもりでしょう?」


「ばれた」


「なら最初から違うものの方がいいでしょう」


「シモン君、旅の食事に慣れましたね」


 モモが嬉しそうに言う。


「以前から食事くらいしますよ」


「そうじゃなくて」


「分かっています」


 シモンは苦笑した。


 しばらくして料理が届く。


 銀腹魚は手のひらより少し大きい程度で、開いて薄く粉をまぶし、油を引いた鉄板で表面を強く焼いてある。皮はぱりっとし、身は白く柔らかい。横には酸味のある刻み野菜と、香草を混ぜた塩が添えられていた。


「昨日の魚と全然違う」


 ルシルは一口食べてすぐ言った。


「ぱりぱりです」


 モモも尾に近い部分を慎重に齧る。


「骨、本当に食べられます」


「喉に刺さるようなら無理するなよ」


「はい」


 シモンの煮込みには小さく切った魚と白豆、根菜が入っていた。


 ルシルが見ている。


「一口ならどうぞ」


「まだ何も言ってない」


「顔で言っています」


「シモンまで顔を読むようになった」


「ルシル様が分かりやすいんです」


 小皿へ少し分けてもらう。


 揚げ焼きとは違い、魚の味が汁へ溶けている。


「こっちもうまい」


「私もいいですか?」


「どうぞ」


 三人で料理を少しずつ交換する。


 モモは揚げ焼きの香草塩を気に入り、ルシルは酸味のある付け合わせを魚と一緒に食べるのが気に入った。


 店内では北木場の話も聞こえる。


 しかし朝より噂は整理されていた。


「井戸が濁ったって」


「使ってないらしいな」


「森と関係あるのか?」


「組合が調べてるってよ」


「なら待つしかねえか」


 巨大な土竜も、森の主も聞こえてこない。


「噂、落ち着いた?」


 モモが小声で言う。


「組合がちゃんと情報出したからかもしれませんね」


 シモンが答える。


「怪我人なし、地面の亀裂なし、井戸は使用停止。そこまで分かれば、少なくとも今すぐ町から逃げるような話ではないと判断できます」


「でも原因はまだ」


「ええ」


 ルシルは魚を一口食べる。


「飯食って待つ」


「今はそれでいいでしょう」


「おいしいものを食べながら待てるなら、私は好きです」


 モモが言う。


「待つのが?」


「おいしいものを食べる方です」


「そっちか」


 三人は笑った。


 昼食を終える頃には、外の日差しが朝より強くなっていた。


 いよいよ冒険者組合へ向かう。


     ◇


 グレイ冒険者組合の入口には、朝より人が増えていた。


 黄色い掲示紙の前に五、六人。


 内容は石樽亭で聞いたものと大きく変わらない。


 北木場午前作業停止。


 関係者以外立入禁止。


 井戸は安全確認まで使用禁止。


 北の古い作業道周辺への立ち入りも引き続き制限。


 主要街道は現時点で通行可能。


「街道はまだ開いてる」


 ルシルが確認する。


「はい」


「山へ向かう人もいるのかな」


「いるでしょう。ただ、僕たちは急ぐ必要がありません」


「うん」


 三人は中へ入った。


 昨日より人が多い。


 受付前には依頼の確認をする冒険者。


 奥の卓では地図を広げて話す職員。


 壁際では北側へ行く予定だったらしい商人が、出発を一日遅らせるか相談している。


 昨日対応してくれた栗色の髪の女性受付職員もいる。


 彼女は三人に気づくと、小さく手を上げた。


「ちょうど良かったです」


「結果出ました?」


 ルシルが近づく。


「一部だけです。全部はまだ」


「一部?」


「北木場側は午前の確認が終わりました。森側は、先発から中間報告が届いたところです」


 ルシルは反射的に身を乗り出しかけ、途中で止めた。


「聞いてもいいですか?」


「もちろん。ただ、まだ確定していないものもあります」


「分かりました」


「ドレンさんは?」


 シモンが尋ねる。


「奥です。今、街道所と話しています。少し待ってもらえれば来ますよ」


「待ちます」


 三人は昨日使った卓の近くへ移動した。


 受付職員が水を持ってきてくれる。


「ありがとうございます」


「長くなるかもしれませんから」


「そんなに?」


「説明そのものより、ドレンさんが途中で呼ばれる可能性が高いです」


 言った直後、奥から誰かが「ドレンさん!」と呼んだ。


 受付職員が苦笑する。


「ほら」


「忙しそう」


「今日は特に」


 彼女は仕事へ戻った。


 三人は待つ。


 昨日とは違い、何もせず不安になる感じは薄かった。


 午前中に馬を歩かせた。


 本を買った。


 ベルクを再確認した。


 昼食も食べた。


 待つまでに自分たちの一日がちゃんとあったからかもしれない。


 しばらくすると、奥からドレンが出てきた。


 手には数枚の紙。


「来たか」


「はい」


「昼過ぎって言ったの覚えてたな」


「朝、前通ったけど入りませんでした」


「偉い偉い」


「子供みたいに言わないでください」


「朝から来ると思ってたんだよ」


「俺も行きたかったけど」


「行きたかったんですか」


 モモが横を見る。


「気にはなった」


「私もです」


「僕もですよ」


 シモンまで言う。


 ドレンが三人を見て笑った。


「まあ座れ」


 卓へ四人で座る。


 ドレンはまず一枚目の紙を置いた。


「北木場からだ」


 紙には簡単な見取り図と、確認した項目が並んでいる。


「まず怪我人なし。建物の損傷なし。地面に新しい亀裂なし。目立った沈下もなし」


 ルシルは息を吐く。


「良かった」


「そこはな」


「馬は?」


 モモが尋ねる。


「今朝は普通。昨夜落ち着かなかった一頭も、飼葉を食って歩き方に問題なし」


「良かったです」


「水桶は?」


 シモンが続ける。


「朝は揺れてない。昨夜の二回以降、確認された揺れなし」


「井戸だけ変化?」


「今のところは」


 ドレンは次の紙を出す。


「井戸の水は、朝一番で少し濁ってた。汲んだ直後より、しばらく置いた方が分かりやすい」


「灰色の砂?」


 ルシルが尋ねる。


 ドレンの眉が少し動いた。


「もう聞いたか」


「木場から来た荷車の人が、工房街で言ってました。灰色ってところまでは聞いてないけど、濁ったって」


「灰色の砂だ。細かい」


 ドレンは指先で粒の小ささを示す。


「泥?」


「術具師じゃなく、木場に詳しい井戸屋が先に見た。そいつは『泥より砂に近い』って言ってる」


「どこから入ったんですか?」


 モモが尋ねる。


「それがまだ分からん」


「井戸の壁が壊れた?」


「見える範囲では崩れてない」


「底?」


「そこまで潜って見てない」


 ドレンは紙を指で叩く。


「井戸は深くないが、人を入れるなら準備がいる。今は水を使わず、午後に井戸屋が道具を持って戻る」


「砂そのものは調べるんですか?」


 シモンの問いに、ドレンが頷く。


「少量を持ち帰ってる」


「魔力反応は?」


「今の簡易検査では、はっきりした反応なし」


 ルシルは少し意外だった。


「ないんだ」


「『簡易検査では』だ」


「あ」


「そこ大事だからな」


「はい」


 ドレンは少し満足そうに頷く。


「それから、井戸水そのものにも毒や強い魔力反応は今のところ出てない。ただし飲用再開はまださせない」


「安全だと決まったわけじゃないから?」


「そうだ」


「北木場の人たち、水どうするんです?」


 モモが尋ねる。


「町から樽で運ぶ。午後に作業を再開するかはまだ決めてない」


「午前だけ停止だったのに?」


「情報が増えたからな」


 予定を守るために危険を無視する必要はない。


 状況が変われば予定も変える。


「じゃあ北木場はまだ止まったまま?」


「今のところな」


 ドレンは一枚目と二枚目を重ねる。


「ここまでが北木場」


「森側は?」


 ルシルの声が少しだけ早くなった。


 ドレンは三枚目の紙を出した。


「こっちは面倒だ」


 三人の表情が引き締まる。


「危ないことが?」


「いや。今のところ怪我人も戦闘もない」


 先にそれを言ってくれた。


 モモの肩から少し力が抜ける。


「ただ、分からんことが増えた」


「増えた?」


「ああ」


 ドレンは簡単な地図を卓へ置く。


 これまでに確認された二つの浅い沈み。


 七本の倒木。


 猪の足跡が分かれた場所。


 昨日、低い音を聞いた地点。


「今朝は魔術師と術具師を連れて、まず二つの沈みを調べた」


「魔力は?」


 シモンが尋ねる。


「両方で、ごく弱い残留反応が出た」


 三人とも黙った。


「昨日は片方だけじゃ?」


 ルシルが確認する。


「昨日の簡易確認では、二つ目で弱い反応。最初の沈みははっきりしなかった」


「今日は両方」


「そうだ」


「同じ魔力ですか?」


 シモンが聞く。


「そこがまだ分からん」


 ドレンは首を振る。


「術具師の中間報告だと、強さが弱すぎて性質の比較まではできない。ただ、どっちも地表より少し下で反応が強いらしい」


「深さは?」


「測れてない」


「地下に魔法がある?」


 ルシルが口にした直後、シモンを見る。


「……とはまだ言えない?」


「ええ」


 シモンは穏やかに頷く。


「地表にあった魔力が土へ残った可能性もありますし、魔力を持つ何かが通過した痕跡かもしれません。地下に術式や魔道具が存在する可能性も否定はできませんが、現時点では候補の一つです」


「だよな」


「成長したな」


 ドレンが言う。


「だから子供扱いしないでください」


「昨日より早く止まったからな」


「そこ褒めるところ?」


「大事だろ」


 モモがくすくす笑う。


「続きがある」


 ドレンの指が地図の北側へ動く。


「二つ目の沈みから北へ少し離れたところで、もう一か所、地面の違和感が見つかった」


「三つ目の沈み?」


「いや」


 ドレンは首を振る。


「沈んでない」


「じゃあ?」


「地面が少し盛り上がってる」


 今度は三人ともすぐには口を開かなかった。


「盛り上がってる?」


 ルシルがゆっくり聞き返す。


「ああ。ただし山みたいになってるわけじゃないぞ。周囲より指二、三本分程度、高くなってる範囲がある」


「広さは?」


 シモンが尋ねる。


「まだ正確には測ってない。中間報告では、大人が三、四人並ぶくらいの範囲」


「円形ですか?」


「そこもまだ。草と落ち葉があるから、輪郭が分かりにくい」


「新しいもの?」


「エッダは昨日は気づかなかったと言ってる。ただ、昨日そこを細かく見たわけじゃない」


「今日できたとは限らない」


「そういうことだ」


 ドレンが頷く。


「魔力反応は?」


 シモンの問いに、ドレンは少し間を置いた。


「ある」


 組合の周囲の声が遠く感じられた。


「強い?」


「いや。沈みと同じで弱い。ただ――」


 ドレンが紙を見る。


「盛り上がった場所の中心じゃなく、端の一部で反応が出てる」


「端?」


「ああ」


「じゃあ、沈みと同じ原因かも分からない」


「分からん」


 ルシルは地図を見る。


 二つの沈み。


 一つの盛り上がり。


 七本の倒木。


 散った猪。


 低い音。


 北木場の揺れ。


 井戸の灰色の砂。


 情報は確実に増えている。


 なのに、昨日より答えへ近づいた感じがしない。


「本当に分からないこと増えてる」


「だろ?」


 ドレンが疲れたように笑う。


「しかも、もう一つある」


「まだ?」


「ある」


 モモが姿勢を正す。


「何ですか?」


「盛り上がった場所の近くで、古い石が出た」


「石?」


 ルシルは首を傾げる。


「森なんだから石くらいあるんじゃ」


「ただの石なら報告に書かん」


 ドレンは紙を裏返す。


 そこには簡単な絵が描かれていた。


 四角に近い平たい石。


 端の一部だけが土から出ている。


「加工されてる?」


 ルシルが気づく。


「らしい。角が直線的で、自然石には見えないって」


「掘り出したんですか?」


 モモが尋ねる。


「掘ってない」


「どうして?」


「何か分からんからだ」


 ドレンの答えは即座だった。


「地面の異変を調べてる最中に、正体不明の加工石が出てきた。勝手に引っ張り出して何か起きたら笑えん」


「正しい判断です」


 シモンが言う。


「術式の一部である可能性もあります。単なる古い道標や建物の基礎かもしれませんが」


「エッダも似たようなこと言ってた」


「文字は?」


 ルシルが聞く。


「見えてる面にはない」


「模様?」


「それも今のところなし」


「どのくらい古い?」


「分からん」


 また、それだった。


 だが今度は誰も焦らない。


「午後はどうするんです?」


 シモンが尋ねた。


「加工石の周りを掘らずに確認する。露出してる部分の大きさ、向き、魔力反応。あと、盛り上がりとの位置関係」


「沈みは?」


「術具師がもう少し詳しく測る」


「北木場は?」


「別班のまま」


「人、足りてます?」


 ルシルが聞く。


 ドレンがこちらを見る。


「今はな」


「じゃあ俺たちは?」


「まだ待機」


「分かりました」


 今回はすぐに答えられた。


 ドレンの眉が少し上がる。


「何だよ」


「いや。『俺たちも行く』って言うかと思ってた」


「気にはなるよ」


 ルシルは正直に言う。


「石も見たいし、盛り上がってる地面も見たい。でも今行ったら邪魔だろ?」


「ああ」


「なら行かない」


 自分で言ってみると、思ったより簡単だった。


 強いから行く。


 できるから関わる。


 そんな決まりはない。


「ただ」


 ルシルは続ける。


「必要になったら呼んでください」


 ドレンが少しだけ表情を変えた。


 昨日までなら「Aランクのシモンがいるから」と受け取られたかもしれない。


 けれどルシルは三人を指している。


「俺たちにできることがあるなら」


「分かった」


 ドレンは短く答えた。


「その時は頼む」


 モモも頷く。


 シモンは何も付け加えなかった。


「それと、旅人として聞きたいんだけど」


 ルシルが地図を見る。


「街道は?」


「今のところ開ける」


「山へ続く道も?」


「セイラ方面の主要道は通行可能。ただし北の森側へ寄る旧作業道は引き続き禁止。山道は昨日までの雨の影響で、日陰に泥が残ってるって報告がある」


「蹄鉄替えたからって急がない方がいい?」


「蹄鉄のことは俺よりデリアに聞け」


「そうだった」


「ただ、森の調査結果を見てから出るつもりなら、今日明日くらい待って損はないと思うぞ」


「それは組合からの命令?」


「いや」


 ドレンは明確に首を振る。


「俺個人の意見だ。街道は閉じてない。行く旅人を止める段階でもない」


「分かりました」


 確定した情報と、個人の意見。


 そこも混ぜない。


「今日の夕方、また結果出る?」


「出るかもしれん。ただ、遅くなるなら無理に来なくていい」


「明日の朝?」


「その方がまとまってる可能性は高いな」


 ルシルはモモとシモンを見る。


「どうする?」


「私は明日の朝でもいいです」


 モモが答える。


「今日はベルクさんももう一度見たいですし」


「僕も賛成です」


 シモンも頷く。


「夕方の報告を待つためだけに組合へ居続ける必要はありません」


「じゃあ戻るか」


「そうしろ」


 ドレンは紙をまとめる。


「こっちはこっちで仕事する」


「ありがとうございました」


「まだ礼を言うのか」


「教えてもらったから」


「そうだったな」


 昨日と似たやり取り。


 けれどドレンは今度、少しだけ笑った。


     ◇


 組合を出ると、午後の日差しが石畳を明るく照らしていた。


 朝、北の山側に残っていた薄い雲も少し減っている。


 通りには荷車が行き交い、店も工房も動いている。


 町の北では一つの木場が止まり、森では調査が続いている。


 それでもグレイ全体が息を止めているわけではない。


「加工された石か」


 ルシルは歩きながら呟いた。


「気になりますね」


 モモが素直に同意する。


「すごく見たい」


「私もです」


 二人でシモンを見る。


「僕も見たいですよ」


「本当に?」


「僕を何だと思っているんですか」


「止める人」


「今は止めます」


「やっぱり」


 シモンは苦笑した。


「見たいことと、見に行っていいことは別でしょう」


「分かってる」


「ならいいんです」


 三人は中央広場を横切る。


 朝、甘い匂いがした場所へ近づいた。


 モモの歩みが、ほんの少しだけ遅くなる。


 ルシルは気づいた。


「行く?」


「何がです?」


「朝の焼き菓子」


 モモは店の方を見た。


 小さな屋台。


 丸い薄焼き菓子を鉄板で焼いている。


 昼を食べたばかりだ。


「……一枚を三人で分けるなら」


「食べたいんじゃん」


「ルシル様も気になってたでしょう?」


「うん」


「僕まで含まれているんですね」


 シモンが言う。


「嫌?」


「一口くらいなら」


「じゃあ一枚」


 三人で屋台へ寄った。


 買ったのは、麦粉に砕いた木の実を混ぜて薄く焼き、少量の蜜を塗っただけの素朴な菓子だった。


 店の横で三つに割る。


「モモ、一番大きい?」


「同じくらいです」


「本当に?」


「では測りますか?」


「そこまでしなくていい」


 ルシルが一片を口へ入れる。


 焼いた木の実の香ばしさ。


 蜜は少なく、思ったほど甘くない。


「これ、うまいな」


「甘すぎないです」


 モモも嬉しそうに食べる。


 シモンは最後に一口。


「携帯食にも近いですね」


「すぐ実用で考える」


「日持ちするなら、ですが」


 屋台の主人に聞くと、蜜を塗ったものはその日のうち、蜜なしなら二、三日は持つという。


「買う?」


 ルシルが聞く。


 モモは少し考えた。


「今日はいいです」


「いいの?」


「蜂蜜菓子もまだありますから」


 シモンが一瞬、モモを見る。


「何です?」


「いえ」


「今、何か思いました?」


「自分で在庫を考えたな、と」


「それくらいできます」


「褒めてるんですよ」


「本当ですか?」


「本当です」


 モモは少し疑いながらも、最後には笑った。


 三人は屋台を離れる。


 ほんの少し前まで、森の地下にあるかもしれない何かについて話していた。


 今は焼き菓子の話。


 その切り替わりを、ルシルはもう不思議だと思わなくなっていた。


 旅の一日は、一つのことだけでできているわけではない。


     ◇


 石樽亭へ戻る前に、三人は馬車の様子も見た。


 裏庭に停めた焦げ茶色の馬車は、昨日バーガンに確認してもらった時と変わらず静かにそこにある。


 右後輪の浅い傷。


 旅の途中で付いた跡。


 ルシルはそこへ一度目を向けた。


「本、置く?」


「今置いてもいいですね」


 シモンが収納魔法から二冊を取り出す。


 馬車の扉を開ける。


 中は旅立った頃より少しだけ生活感が増えていた。


 木の馬の小さな置物。


 必要な道具。


 モモのお菓子棚。


 まだ名前のない馬車。


「ここ」


 ルシルが窓から少し離れた棚を指す。


「いいんじゃない?」


「固定できるようにしましょう」


 シモンが細い革紐を使い、走行中に本が落ちないよう簡単に留める。


「二冊だけだと寂しいですね」


 モモが言う。


「増やす?」


「旅の途中で必要になったら」


「今度は海の本?」


 ルシルが尋ねる。


 モモが一瞬考えた。


「海は……本で先に全部見たくないです」


「そっか」


「魚の名前くらいなら見てもいいですけど」


「結局見るんじゃん」


「全部じゃありません」


 モモは棚の二冊を眺める。


「知らないまま見たいものもあります」


 ルシルはその言葉を聞き、海を想像しようとした。


 広い。


 塩辛い。


 波がある。


 知識としては知っている。


 けれどモモが見たい海は、そういう言葉の集まりではないのだろう。


「じゃあ海の本は、海を見た後だな」


「それがいいです」


 シモンも異論はなかった。


 馬車の扉を閉じる。


「名前は?」


 モモが突然言う。


「馬車の?」


「はい」


「今決める?」


「聞いただけです」


 ルシルは焦げ茶色の車体を見る。


 ヘルガスを出て。


 ラナへ行って。


 川沿いを走って。


 石原で泊まって。


 ミレ村へ寄って。


 白い花の野営地で夜を過ごして。


 グレイまで来た。


 右後輪には小さな旅の跡がある。


 それでも、まだ名前は浮かばない。


「もう少し後でいいかな」


「私もです」


「僕も今はありません」


「じゃあまだ名無し」


「名無しって名前みたいに言わないでください」


「名無し号」


「それは嫌です」


 シモンが珍しく即答した。


「じゃあ却下」


 モモが笑う。


 急いで決める必要はない。


 本と同じだ。


 名前が必要になった時、三人が自然に気に入るものが出てくればいい。


     ◇


 夕方。


 ベルクの右後肢には、結局それ以上の異常は出なかった。


 ガランがもう一度歩かせ、蹄鉄を確認し、朝から状態が変わっていないことを確かめた。


「明日の朝も普通なら、馬車につないで軽く動かしていい」


「出発していいってこと?」


「馬だけ見りゃな」


「森と道は別」


「分かってんじゃねえか」


「今日いっぱい言われたから」


「なら覚えとけ」


 トルクも元気だった。


 二頭とも夕方の飼葉を食べ始める。


 ルシルたちはしばらくその様子を見てから厩を出た。


 西日が宿の壁を赤く染めている。


「今日は組合行かないんですよね」


 モモが確認する。


「うん。明日の朝」


「気になる?」


 シモンがルシルへ尋ねる。


「気になる」


「行きますか?」


 意外な返事だった。


 ルシルはシモンを見る。


「いいの?」


「行ってはいけない理由はありません。ただ、行っても報告が戻っていない可能性があります」


 ルシルは北の方角を見た。


 森は建物の向こうで見えない。


「……明日でいい」


「そうですか」


「うん」


 自分でも少し驚いた。


 我慢している感覚はない。


 今夜報告が出たとしても、明日の朝には聞ける。


 森の異変は、自分が早く聞けば早く進むものではない。


「じゃあ夕飯ですね」


 モモが言う。


「今日もそこへ戻るな」


「夕方ですから」


「正しい」


「今日は何でしょう」


「宿入れば分かる」


「予想するのも楽しいですよ」


 三人は並んで石樽亭の入口へ向かう。


 その頃、グレイ北西の森では、午後の調査を終えようとしていた術具師が、土からわずかに露出した加工石の横へ測定具を置いていた。


 細い針が、ほんの僅かに振れる。


「まだ反応あるか?」


 エッダの声に、術具師は頷いた。


「弱い。だが、ある」


「石からか?」


「……いや」


 術具師は測定具を少し動かした。


 石の真上。


 反応は弱まる。


 盛り上がった土の端。


 針が僅かに振れる。


 さらに外側。


 止まる。


「石そのものじゃないのか」


「少なくとも、露出している部分から強く出ているわけじゃない」


 エッダはしゃがまず、離れた位置から加工石を見る。


「掘るなよ」


「分かってる」


「明日までそのままだ」


「ああ」


 調査員の一人が周囲へ目印の杭を立てる。


 誰かが誤って踏み込まないためのものだ。


 森は静かだった。


 昨日のような低い音もない。


 地面が揺れることもない。


 鳥の声も戻っている。


「今日は終わりだ」


 エッダが言った。


「暗くなる前に戻るぞ」


 誰も異論を唱えなかった。


 答えを得るために来た調査で、今日分かったことは多い。


 二つの沈みには弱い魔力反応がある。


 新たに小さな盛り上がりが見つかった。


 その近くには加工されたらしい石が露出している。


 けれど、それらが何を意味するのかは、まだ分からない。


 北木場の灰色の砂との関係も分からない。


 調査隊は何も掘り返さず、何も持ち去らず、今日見つけたものをそのまま残して森を離れた。


 そして、その判断が正しかったのかどうかさえ――今の時点では、まだ誰にも分からなかった。

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