第35話 出発できる朝でも、今日出発するとは限りません
翌朝のグレイは、前日より少しだけ雲が多かった。
雨が降りそうな厚い雲ではない。東から昇った朝日はところどころで白い雲に隠れながら、それでも石造りの建物の上へ柔らかな光を落としている。石樽亭の二階、その二〇五号室で目を覚ましたルシルは、窓を開けてからしばらく空を眺めていた。
冷たすぎない風が室内へ入り、寝起きの顔を撫でていく。
「山の方は……見えないか」
ここからでは建物が邪魔をしている。
昨日までなら、空を見た後には森のことを考えたかもしれない。
二つの沈み。
小さな盛り上がり。
地面からわずかに露出した加工石。
北木場で揺れた水桶と、井戸の底へ沈んだ灰色の細かな砂。
それらが頭から消えたわけではない。
ただ、今朝最初に考えたのは別のことだった。
「ベルク、どうかな」
昨日の朝、町を歩かせた際に一度だけ右後肢を強く置いた。
その後は異常なし。
昼前も夕方もガランが確認し、新しい蹄鉄にも問題は見つからなかった。
今朝も普通なら、馬車へつないで軽く動かしてもよいと言われている。
山へ出発できるという意味ではない。
それでも、旅を続けるために必要な確認が一つ進む。
ルシルは顔を洗い、身支度を整えた。
廊下へ出る。
今日は二〇六号室の扉が先に開いた。
「おはようございます」
モモが顔を出す。
「おはよう」
「ベルクさん、見に行きます?」
「朝飯の前?」
「……先に朝ご飯でもいいです」
「今、迷ったな」
「馬も大事ですし、ご飯も大事です」
「じゃあガランに聞いて、先に馬を見るか飯にするか決めよう」
「それがいいです」
二人で階段へ向かいかけたところで、二〇七号室の扉も開いた。
「おはようございます」
シモンが出てくる。
「今日は同時くらいだな」
「何の競争です?」
「起きる順番」
「競っていたんですか?」
「今決めた」
「なら僕は参加しません」
「シモン君、ベルクさん見に行きましょう」
モモが早速誘う。
シモンの表情が少しだけ変わった。
「朝食前にですか?」
「ルシル様と同じこと言いました」
「二人ともお腹空いてるんだな」
「ルシル様もでしょう」
「うん」
三人は結局、まず一階へ下りることにした。
食堂にはすでに朝食の匂いが漂っている。
今日は焼いた黒パンと、細かく切った根菜を煮込んだ白いスープ、それに薄切りの燻製肉らしい。厨房の入口では湯気が上がり、何人かの宿泊客が食事を始めていた。
ガランは受付にいた。
「おはよう」
「おう」
「ベルクは?」
ルシルが聞くと、ガランはすぐ答えた。
「朝見た。普通だ」
「本当?」
「俺が嘘ついてどうすんだ」
「右後ろも?」
「ああ。変に浮かせてもねえし、立ち方も普通。飼葉も食ってる」
シモンの肩から、わずかに力が抜けた。
本人はほとんど表情を変えなかったが、ルシルには分かった。
「良かったな」
「ええ」
「朝飯食ったら馬車につなぐか?」
ガランが尋ねる。
「軽くならいいんですよね?」
「いい。ただし荷を積んで遠くへ行くんじゃねえぞ」
「馬車、荷物ほとんど収納魔法だけど」
「そういう意味じゃねえ」
「分かってる」
ガランが呆れた顔をする。
「町の南側へ出て、平らなところで少し走らせて戻ってこい。北へ行くな」
「北木場があるから?」
「それもある。見物人と間違われても面倒だろ」
「確かに」
「南なら共同の水場の先に荷車が方向変える広場がある。そこまで行って戻るくらいで十分だ」
「運転は?」
「誰でもいい。今日は馬と蹄鉄の様子を見るのが目的だ。運転練習を始めんなよ」
「はい」
「ルシル様、先に言われましたね」
「俺、何も言ってないけど」
「顔に書いてあったんじゃないですか?」
「モモまで顔読むの?」
「分かりやすいですから」
ガランまで笑う。
「とりあえず飯食え。馬も食ってる」
「じゃあ俺たちも」
「はい」
三人は食堂へ入った。
◇
朝食を終えて裏庭へ出る頃には、空の雲が少し薄くなっていた。
トルクとベルクはすでに馬房から出され、ガランが立ち姿を見ている。
馬車も昨日までと同じ場所にある。
焦げ茶色の車体。
厚い車輪。
右後輪には旅の途中でついた浅い跡。
中には昨日買った鳥と植物の本が二冊、革紐で固定されている。
まだ名前はない。
「おはようございます」
モモがトルクへ近づく。
トルクはすぐに鼻先を伸ばした。
「今日は人参ありませんよ」
「毎朝それ言うの?」
「期待されている気がするので」
「昨日食べたからだろ」
「今日も期待しているかもしれません」
トルクはモモの外套の匂いを確かめるように鼻を動かす。
「ほら」
「人参探してるだけじゃん」
「それも期待です」
隣では、シモンがベルクへ近づいていた。
ベルクは逃げず、シモンの手へ鼻先を寄せる。
「歩けそうか?」
シモンが小さく声を掛ける。
当然、返事はない。
ただ、四本の脚で自然に立っている。
「よし、つなぐぞ」
ガランが言った。
三人も動く。
馬車へ二頭をつなぐ作業は、ヘルガスを出た頃よりずっと自然になっていた。
だからといって急がない。
革具の位置。
締め方。
捻れ。
金具。
ルシルが片側を確認し、モモも自分の側を見る。シモンはベルクの様子を見ながら必要な部分を整え、最後に三人で互いの見た箇所を確認した。
ガランはすぐ手を出さない。
少し離れて見ている。
「どう?」
ルシルが尋ねる。
「俺に聞く前に、自分らで一回見ろ」
「またそれ」
「旅先で毎回俺がいるわけじゃねえだろ」
「そうだった」
ルシルは馬車の前へ回る。
トルク。
ベルク。
左右の革具。
馬車との接続。
見える範囲を一つずつ確認する。
「俺は変なところないと思う」
「私もです」
「僕も問題ないように見えます」
三人の答えを聞いてから、ガランが近づいた。
接続部を触り、革具を一か所だけ指で持ち上げる。
「ここ、もう指一本分だけ余裕あっていい」
「あ」
「締めすぎってほどじゃねえ。ただ今日は確認で短く走るんだ。無駄にきつくする必要はない」
ルシルが直す。
「他は?」
「いい」
「やった」
「そこで達成感出すな。まだ動いてねえ」
「はい」
御者台へ上がる。
最初はルシルが手綱を持つことになった。
シモンが隣。
モモは後ろの座席から、二頭と車輪を見やすい位置を選ぶ。
「目的は馬を見ることですからね」
シモンが念を押す。
「分かってる。速くしない」
「後輪も忘れずに」
「それも」
「ベルクさんの右後ろも見ます」
モモが言う。
「頼む」
ガランが馬車の横へ立つ。
「最初は裏庭一周」
「町の南までじゃないの?」
「いきなり出るな」
「はい」
ルシルは小さく息を吐き、二頭へ合図する。
「行こう」
トルクが一歩。
ベルクも続く。
馬車がゆっくり動き出した。
車輪が踏み固められた土の上を転がる。
昨日までと同じ馬車。
昨日替えたばかりの蹄鉄。
違いを探そうと意識しすぎると、何もかも違って見えそうになる。
ルシルは手綱を握る手へ余計な力を入れないようにした。
「どう?」
「まだ十歩ですよ」
シモンが答える。
「そうだった」
裏庭を一周。
ベルクは普通に歩く。
右後肢だけを短く出す様子もない。
トルクも変わらない。
「もう一周」
ガランが言う。
二周目。
途中で緩く曲がる。
右。
左。
車輪が追従する。
ルシルは後輪の位置も意識するが、今日は狭い道ではない。
「止めろ」
ガランの声。
馬車を止める。
ガランがベルクの右後肢へ近づく。
触れる前に声を掛け、蹄鉄の周辺を確認する。
「変わりなし」
「じゃあ外へ?」
「ああ。行ってこい」
「はい」
「南だけだぞ」
「分かってる」
「途中で調子いいからって距離伸ばすな」
「分かってるって」
「ルシル様、本当にやりそうですから」
「シモンまで」
「僕も同じことを思いました」
モモまで加わる。
「信用ないなあ」
「信用してるから言うんですよ」
シモンの言葉に、ルシルは少しだけ笑った。
「じゃあ約束。南の広場まで。そこで一回確認して戻る」
「はい」
「それなら」
馬車は石樽亭の裏庭を出た。
◇
朝のグレイを、久しぶりに自分たちの馬車で走る。
ほんの数日しか停まっていないのに、ルシルには妙に久しぶりに感じられた。
馬車の速度は歩く人より少し速い程度。
石畳へ出た瞬間、トルクとベルクの蹄鉄が硬い音を響かせる。
かつ、かつ、と規則正しい。
後ろではモモが左右の脚運びを見ている。
「ベルクさん、普通です」
「トルクは?」
「普通です」
「よし」
「まだ町の入口にも着いてませんよ」
シモンが隣で言う。
「分かってる」
通りには朝の荷車が何台かいる。
前方から来る一台を見つけ、ルシルは早めに馬車を端へ寄せた。
道幅は十分。
焦る必要はない。
相手の御者が軽く手を上げる。
ルシルも片手を少し上げて返した。
「今の自然だった?」
「何がです?」
「挨拶」
「そこを気にするんですか」
「前は、ああいうのも初めてだったから」
「今はもう何度かしていますね」
シモンの声には、わずかな笑いが混じっていた。
町の南へ向かう。
工房が減り、倉庫と馬小屋が増える。
やがてグレイの外縁にある共同の水場が見えてきた。
ここへ到着した日にも立ち寄った場所だ。
「あそこ覚えてる」
ルシルが言う。
「もちろんです」
モモが後ろから答える。
「グレイに着いた時、トルクさんとベルクさんに水を飲ませました」
「町入る前だったな」
「数日前なのに、もっと前みたいですね」
「色々あったから?」
「森のことだけじゃないですよ」
モモが言う。
「お菓子も買いましたし、本も買いましたし、魚も食べましたし、蹄鉄も替えました」
「食べ物多くない?」
「四つのうち二つだけです」
「半分だよ」
「旅なら普通です」
「そうかな」
「僕に聞かないでください」
シモンが先回りする。
「まだ何も言ってない」
「次に僕へ聞く顔でした」
「顔で分かるの?」
「最近は」
馬車が水場を過ぎる。
その先に、ガランが言っていた荷車用の広場があった。
円形に近い広い土の空間。
端には荷物を積み直すための低い台と、休憩用の木陰がある。
朝はまだ空いていた。
「ここだな」
ルシルは馬車をゆっくり入れる。
大きく回る。
前輪。
後輪。
トルクとベルク。
急に曲げない。
広場の端で馬車を止めた。
「モモ」
「はい」
後ろから降りる。
シモンも御者台を降りた。
三人でまず二頭の立ち方を見る。
トルクは普通。
ベルクも四本の脚へ自然に体重を乗せている。
「歩いてきた時、変なところあった?」
ルシルがモモへ尋ねる。
「ありませんでした。少なくとも私が見た範囲では」
「右後ろも?」
「はい」
シモンがベルクへ近づく。
ガランほど詳しく蹄鉄を判断できるわけではない。
だから無理に専門家の真似はしない。
蹄鉄が明らかにずれていないか。
釘が浮いて見えないか。
ベルクが触られるのを嫌がらないか。
自分たちで確認できる範囲を見る。
「目立った変化はありません」
「良かった」
「帰りも同じ速度で戻りましょう」
「うん」
ルシルは広場の先を見る。
道はさらに南へ続いている。
このまま走れば、町から離れられる。
馬車で旅をしている感覚が戻ってきたせいか、少しだけ先へ行きたい気持ちが湧いた。
知らない道。
まだ見ていない景色。
山。
その先。
海。
「行きたいですか?」
モモの声。
ルシルは振り返る。
「顔に出てた?」
「ちょっとだけ」
「うん。少し」
正直に答えた。
「でも今日は行かない」
「はい」
モモはそれ以上何も言わなかった。
シモンも「戻りましょう」と急かさない。
三人でしばらく、南へ続く道を眺めた。
風が草を揺らす。
遠くを一台の荷車が走っている。
空は明るい。
旅立てない天気ではない。
馬も元気そうだ。
馬車にも問題はない。
それでも今日出発しないことは、何かに縛られているのとは違った。
自分たちで選んでいる。
「戻ろうか」
ルシルが言う。
「はい」
「ええ」
三人は馬車へ戻った。
◇
帰りはシモンが手綱を持った。
「交代するんだ」
ルシルが御者台の隣へ座る。
「平地ですし、ベルクの様子も僕自身で感じてみたいので」
「なるほど」
「ルシル様も横から見ていてください」
「任せろ」
「後輪だけ見続けないでくださいね」
「もうそこまで初心者じゃないよ」
「では前も馬も周囲も見られますね」
「……頑張ります」
「まだ初心者ですね」
「初心者の上の方」
「その言い方、まだ使うんですか」
後ろからモモが笑う。
「上の方の次は何です?」
「初心者卒業?」
「誰が決めるんでしょう」
「シモン?」
「僕に押し付けないでください」
馬車が走り出す。
シモンの運転は安定している。
以前は安定しているというより慎重すぎるほどだったが、今は少し違う。
必要なところでは速度を出し、曲がる前には自然に落とす。
馬を止める必要がないところで過剰に止めない。
「シモン、前より速くなった?」
「そうですか?」
「ヘルガス出た頃より」
「道にも慣れましたから」
「怖くなくなった?」
「最初から怖かったわけではありません」
「慎重すぎた」
「それは認めます」
シモンがあっさり答えた。
「馬車を壊したくありませんでしたし、二頭にも怪我をさせたくなかったので」
「今は?」
「同じですよ」
手綱を持つ手は穏やかだ。
「ただ、慎重にすることと、必要以上に遅くすることは同じではないと分かりました」
「シモンも旅で覚えてるんだな」
「当然です」
「何でも知ってそうなのに」
「何でもは知りません」
「最近、それをよく言うな」
「最近、ルシル様が何でも聞くからですよ」
「そうかも」
ルシルは笑った。
共同水場を通り過ぎる。
グレイの町中へ戻る。
ベルクの歩調は乱れない。
トルクも元気だ。
途中で一度だけ停止し、荷車を先に通す。
再発進。
問題なし。
石樽亭の裏庭へ入る時は、シモンが後輪の位置を確認しながら大きめに曲がった。
「ただいま」
ルシルが言う。
ガランが厩から出てくる。
「馬車に言ってんのか?」
「ガランに」
「そうかよ」
「無事でした」
「見りゃ分かる。止めろ」
馬車を平らな場所へ停める。
ガランは二頭をすぐ馬車から外さず、つながれた状態で立ち方を確認した。
「ベルク、変な踏み方したか?」
「一度も」
モモが答える。
「右後ろも普通でした」
「トルクは?」
「元気です」
「そうか」
それから二頭を外す。
蹄鉄を一つずつ確認。
特にベルクの右後肢は丁寧に見る。
「問題ねえな」
「じゃあ」
ルシルが言いかける。
「馬と蹄鉄は、だ」
ガランに先を塞がれた。
「はい」
「今日一日休ませりゃ十分だろ。明日も普通なら、馬の方は旅に戻していい」
「分かりました」
「馬の方は」
モモが繰り返す。
「森と道は別ですね」
「そういうことだ」
ガランは二頭を厩へ戻す。
「これで朝の仕事終わり。お前ら、組合行くんだろ?」
「はい」
「北へ見物には行くなよ」
「行かないって」
「ならいい」
ルシルは馬車を一度振り返った。
今日、ほんの短い距離を走っただけ。
それでも、止まっていた旅が少しだけ動き出したように感じた。
◇
冒険者組合へ向かう道は、昨日までと同じだった。
けれど町の雰囲気には少し変化がある。
北木場の話をしている人はまだいる。
ただ、最初の夜ほど「何が起きたんだ」というざわめきは強くない。
代わりに、「今日は木材が入るのか」「北の仕事はいつ再開するのか」といった具体的な話が増えていた。
中央広場では材木商らしい男が二人、在庫について話している。
「二日なら持つ」
「三日止まると厳しいぞ」
「西から回せるか?」
「値が上がる」
その横では、まったく関係なく野菜を売る女性が客と値段を交渉している。
町は異変だけでできていない。
「北木場、今日も止まってるのかな」
ルシルが言う。
「組合へ行けば分かるでしょう」
シモンが答える。
「井戸も気になります」
モモは少し真面目な顔をしている。
「灰色の砂」
「はい」
「加工石も」
「はい」
「盛り上がった地面も」
「はい」
「全部気になるな」
「でも一個ずつです」
モモに言われた。
ルシルは目を瞬く。
「それ、俺が言われる側?」
「最近ずっとそうです」
「モモも気になってるだろ」
「気になります。でも走ってません」
「それ基準なんだ」
「大事です」
シモンが笑う。
「十分成長でしょう」
「シモン君まで」
「褒めています」
三人は冒険者組合へ入った。
◇
朝の組合は、昨日の昼より少し静かだった。
人が少ないわけではない。
依頼を探す冒険者もいるし、受付には数人並んでいる。
ただ、森の調査に関係する者たちがまだ出発前なのか、奥の一角に装備を整えた者たちが集まっていた。
エッダもいる。
昨日までと同じ革装備。
腰には短剣。
肩から小さな革袋を下げている。
「エッダさん」
モモが小さく声を出す。
猟師もこちらに気づいた。
「おう。旅人三人」
「今日も森ですか?」
「そのつもりだ」
「加工石を見る?」
「見る。触らんけどな」
「昨日も掘らなかったんですよね」
「ああ」
エッダは当然のように答えた。
「分からん物を森の中で勝手に掘るほど若くねえ」
「若かったら掘ってた?」
ルシルが聞く。
「若い頃なら、もう少し馬鹿だった」
「何したんですか?」
「話さねえ」
「気になる」
「その顔しても話さねえぞ」
エッダは笑う。
「ドレンなら奥だ。昨日の報告まとめてる」
「待ってていいですか?」
「受付に聞け」
「はい」
その時、エッダの後ろから術師らしい女性が出てきた。
二十代後半くらい。
灰色の外套。
腰に細長い筒状の道具をいくつも下げている。
昨日の調査に参加していた術具師なのかもしれない。
女性は三人を一度見たが、そのままエッダへ話しかけた。
「北側の測定杭、六本で足ります?」
「昨日の範囲ならな。広がってたら戻って取りに来い」
「森から?」
「無理に続けるなって意味だ」
「ああ」
「全部一日で終わらせようとすんな」
「エッダさんに言われたくないです」
「何でだ」
「昨日、日が傾くまで残ろうとしてたでしょう」
「……あれは帰る準備してただけだ」
「嘘ですね」
女性が笑う。
ルシルたちは少し離れる。
「エッダも止められる側なんだな」
ルシルが小声で言う。
「誰でもそういう時はあるでしょう」
シモンが答える。
「シモン君も?」
モモが聞く。
「ありますよ」
「ルシル様に止められたことは?」
「……あまりないですね」
「俺、止める前にシモンが全部終わらせてたから」
「王城の話へ広げなくていいです」
シモンは苦笑した。
受付へ行く。
栗色の髪を後ろでまとめた、いつもの女性職員がいた。
「おはようございます」
「おはようございます。今日は朝なんですね」
「来ていい時間?」
「大丈夫ですよ。昨夜の報告がまとまりましたから」
「良かった」
「ドレンさんを呼びます?」
「忙しくなければ」
「少し待ってください」
三人は空いた卓へ移動した。
今日は水ではなく、薄い茶が出てきた。
「ありがとうございます」
「朝は冷えるので」
湯気が立つ。
モモが両手で木杯を包む。
「温かいです」
「飲み物まで出してもらって、なんか申し訳ないな」
「そのうち依頼を受けて返してください」
受付職員が冗談めかして言う。
「依頼?」
「冒険者でしょう?」
「そうだった」
ルシルが言うと、職員が変な顔をした。
「忘れてたんですか?」
「旅人の方が今は長い気がして」
「冒険者になってからも旅人ではありますけどね」
「確かに」
職員は笑い、受付へ戻った。
少ししてドレンが奥から現れた。
昨日より紙が多い。
「おはよう」
「おう。馬は?」
最初に聞かれたのが森ではなかった。
「ベルクもトルクも大丈夫でした。今朝、馬車につないで南側を少し走らせました」
「問題なし?」
「はい」
「じゃあ旅の準備は進んでるな」
「馬の方は」
ルシルが言う。
ドレンが少し笑った。
「ガランに教わったな、その言い方」
「ばれた?」
「昨日までなら『出発できます』って言ってそうだった」
「俺、そんなに?」
三人のうち、モモとシモンが何も言わない。
「何で黙るの」
「否定しにくくて」
モモが答える。
「僕もです」
「二人ともひどい」
「まあ座れ」
ドレンも椅子を引いた。
「昨日の続きから話す」
卓へ地図と数枚の報告書が広げられる。
ルシルは自然に背筋を伸ばした。
「まず北木場」
ドレンが地図の東寄りにある印を指す。
「昨夜から今朝にかけて、新しい揺れは確認されてない」
「水桶も?」
「動いてない。建物にも変化なし。馬も普通」
「井戸は?」
モモが尋ねる。
「今朝も使用停止。水自体は昨日より澄んできてる」
「灰色の砂は?」
「まだ底に少し出る」
「井戸の底が崩れた?」
「井戸屋が昨日の午後に見た」
ドレンは別の紙を出した。
「見える範囲で壁の崩れなし。井戸底そのものも大きく崩れた形跡なし。ただし、底の西側にある石の隙間から細かい砂が少し入った跡がある」
「西側」
シモンが反応する。
「森側ですか?」
「方向だけ見ればな」
「距離は?」
「北木場から森の縁まではそれなりにある。だから、その隙間が森まで続いてるなんて話じゃないぞ」
「もちろんです」
「砂は調べた?」
ルシルが聞く。
「ああ」
ドレンの指が報告書の一行へ落ちる。
「昨日持ち帰った分を、石工と術具師、それから街道所の土に詳しい奴が見た」
「いっぱい見たな」
「俺らじゃ分からんからな」
「何の砂でした?」
モモが尋ねる。
「特別なもんじゃない」
「え?」
三人の声が少しだけ重なった。
「少なくとも今のところは、だ。灰色なのは石の細かい粉が混じってるかららしい。毒性なし。簡易検査で魔力反応なし。森の北西側でも似た色の石は普通にある」
「じゃあ森から?」
「だから飛ぶな」
ドレンに止められる。
「似た石があるだけだ。グレイの周辺に同じ種類の岩が地下まで続いてる可能性もある」
「なるほど」
「加工石と同じ?」
モモが尋ねる。
「そこもまだ分からん」
「加工石の欠片は取ってないから?」
「そうだ」
ドレンは頷く。
「昨日は露出してる部分へ傷をつけなかった。だから材質を細かく比べられない」
「今日見る?」
「その予定」
シモンが茶を一口飲み、地図へ視線を落とした。
「井戸の砂が入った時期は、昨夜の揺れと一致していますか?」
「そこが分からん」
「揺れる前の水を保存してないから?」
「当たり前だろ。井戸水を毎朝瓶に詰めて取っとく奴はいない」
「そうですよね」
ルシルは思わず笑った。
シモンも自分で少し笑う。
「質問が悪かったですね」
「いや、確認としては必要だ。木場の連中も、前日の水が澄んでたかは覚えてる。ただ、砂がいつ入り始めたかまでは分からん」
「じゃあ、『揺れた後に濁りを確認した』だけ」
「そういうことだ」
ルシルは頷く。
前なら「揺れたから砂が入った」と頭の中でつないでいたかもしれない。
今は、その間にまだ空白があると分かる。
「北木場は今日どうするんです?」
モモが尋ねる。
「午前はまだ停止。井戸は引き続き使わない。午後は井戸屋と組合がもう一度見て、作業再開するか決める」
「水は?」
「町から樽で運んでる」
「大変ですね」
「多少はな。でも一日二日ならどうにかなる」
ドレンは北木場の紙を横へ置いた。
「次、森」
三人の意識がそちらへ向く。
「昨日の調査班は全員、日が落ちる前に戻った。怪我人なし。戦闘なし」
「良かった」
モモが小さく息を吐く。
「低い音は?」
「昨日は確認されなかった」
「地面の揺れも?」
「なし」
「動物は?」
「調査範囲では猪を新しく見てない。角鹿もなし。鳥や小動物はいる」
「森全体が静かってわけじゃない?」
「少なくとも昨日の場所はな」
ルシルは地図を見る。
「沈みは変わった?」
「一つ目、二つ目とも広がってない。深さも昨日とほぼ同じ」
「盛り上がりは?」
「そこも大きな変化なし」
「じゃあ止まってる?」
「異変が止まった、とは言えん。見た範囲が変わってないだけだ」
「はい」
ドレンが少し笑う。
「返事だけは早くなったな」
「何回も言われてるから」
「で、魔力反応だ」
シモンの目がわずかに鋭くなる。
「二つの沈みと、盛り上がりの端。昨日午後に測り直したが、やっぱり弱い反応がある」
「同じ性質か分かったんですか?」
「少しだけ」
ドレンは術具師の報告らしい紙を取り出した。
「完全に同じと断定はできない。ただ、三か所とも土系統の魔力に近い反応が混じってるらしい」
「土魔法?」
ルシルが聞く。
「そう決めるな」
今度は自分で言う前に、ルシルは口を閉じた。
ドレンが笑う。
「先に止まったな」
「土系統に近い反応があるだけ」
「そうだ」
シモンが紙を見せてもらう。
「自然に魔力を含む鉱石でも、似た反応が出ることがあります」
「術具師も書いてる」
「地脈は?」
「それも候補にあるらしい」
「地脈って?」
モモが尋ねる。
シモンは少し考えてから答えた。
「土地そのものを流れる魔力、と考えれば十分です。ただ、川のように一本の線が地面の下を流れていると考えると少し違います。地域や学派で説明も変わりますから」
「じゃあ、地下に魔力があること自体は珍しくない?」
「場所によります。微弱なものなら珍しくない土地もあります」
「グレイは?」
「僕は知りません」
シモンははっきり言った。
ドレンが頷く。
「だから今日は、この辺の地質と魔力に詳しい奴にも聞く。術具師一人で決めない」
「加工石は?」
ルシルが待ちきれずに尋ねる。
「昨日の午後に、露出してる部分だけ測った」
「魔力あった?」
「石そのものからは、ほとんど出てない」
「じゃあ普通の石?」
「まだ分からん」
「ですよね」
今度はモモが先に答えた。
「ただ、形は人工物でほぼ間違いないとエッダと石工が見てる。表面の一部が平らに削られてて、角も自然に割れた形じゃない」
「建物?」
「候補」
「道?」
「候補」
「昔の何か?」
「それは確実だろうな。昨日置いたわけじゃない」
ドレンが地図の一点を指す。
「問題は、ここが今使ってる道から外れてることだ」
「昔の道があった?」
「それを調べてる」
別の古い地図が出てきた。
紙は黄ばんでいる。
「これ、何年前?」
「二十八年前の森林管理図」
「古い」
「組合にあった中じゃ、まともに読める古い図面がこれだった」
現在の地図と重ねるように並べる。
「昔は今より北側まで伐採してた時期がある。だが、加工石の場所に建物や道の印はない」
「じゃあもっと古い?」
「かもしれん」
「地図に載せなかっただけかも」
シモンが言う。
「そうだ」
ドレンは頷いた。
「二十八年前の地図にないから、それ以前の物だと断定はできない。小さい施設や一時的な作業物なら、そもそも記録されないこともある」
「古い記録は?」
「今、街道所と町役場が探してる」
「役場まで」
「森は町の仕事にも関わるからな」
モモが加工石の簡単な図を見つめる。
「掘らないんですよね?」
「今日は周囲の落ち葉と、上に薄く乗ってる土だけを慎重にどける予定だ」
「昨日より進めるんだ」
「ああ。ただし石を動かさない。深く掘らない。何か模様や継ぎ目が出たら止める」
「慎重ですね」
「正体不明だからな」
ドレンが言う。
「何も起きないかもしれん。古い道の縁石かもしれん。それなら笑い話で終わる」
「それが一番?」
「俺としてはな」
ルシルも少し想像した。
森猪が散った。
木が倒れた。
地面が沈んだ。
盛り上がった。
魔力反応。
加工石。
北木場の井戸。
これだけ並ぶと、どうしても大きな何かを想像したくなる。
けれど、全部が一つの原因だとはまだ誰も言っていない。
「今日の調査で、何か分かるかな」
「分かるかもしれんし、また分からんことが増えるかもしれん」
ドレンは苦笑した。
「調査ってそういうもんだ」
「俺、もっとこう……調べたら少しずつ答えに近づくと思ってた」
「近づいてはいるんじゃないか?」
「そうなの?」
「最初は猪が変だ、木が倒れてる、くらいだった。今は地面の形も魔力反応も加工石も分かってる」
「でも答えはない」
「答えがないことと、何も分かってないことは別だ」
その言葉に、ルシルは少し黙った。
確かにそうだった。
分からないものが増えたように見えても、それは以前なら存在さえ知らなかった情報を見つけたからだ。
「なるほど」
「納得した?」
モモが尋ねる。
「ちょっと」
「全部じゃないんですね」
「だって石の正体は気になる」
「私もです」
「結局そこか」
ドレンが笑った。
「で、ここからがお前らに関係する話だ」
三人の空気が少し変わる。
「街道?」
シモンが尋ねる。
「ああ」
ドレンは現在の地図を引き寄せた。
「セイラ方面へ抜ける主要道は、今日も開ける。昨日、街道所が途中まで確認してる。北の異変地点とは距離がある」
「通っていい?」
「組合としては禁止しない」
「山道は?」
「花谷へ向かう辺りまでは問題なし。その先、山へ入ってからは日陰に泥が残ってる場所がある。昨日下りてきた荷車の話じゃ、通れないほどじゃない」
「馬車も?」
「普通の荷馬車が通ってる」
「じゃあ俺たちの馬車でも」
「馬と御者と天気次第だ」
「はい」
「即答するようになりましたね」
モモが笑う。
「もう覚えたよ」
ドレンはさらに続ける。
「ただし、森側の異変については原因不明のまま。主要道に異常が出た報告はないが、絶対安全だとも言わん」
「それはどこでも同じじゃない?」
ルシルが尋ねる。
「まあな」
「旅の道で絶対安全なんてない」
シモンが静かに言う。
「天候も、落石も、魔物もありますから」
「そういうことだ」
ドレンが頷いた。
「だから組合から『待て』とは言わん。『行け』とも言わん。旅人が自分で決める段階だ」
三人は顔を見合わせた。
昨日までなら、森の調査が終わるまで残るという選択が自然だった。
しかし調査は今日も続く。
明日終わる保証はない。
加工石の正体を調べ始めれば、さらに数日かかるかもしれない。
それどころか、何週間も答えが出ない可能性だってある。
「今日出るのは?」
モモが尋ねる。
ルシルはすぐ首を振った。
「出ない」
「私もです」
「僕もです」
三人とも同じだった。
「馬も今日は休ませる予定だし」
「ガランさんも、明日の朝普通なら旅へ戻していいと言っていました」
「なら今日は残る」
ルシルはそこで一度言葉を切った。
「でも、明日は?」
誰もすぐ答えなかった。
決められないからではない。
ちゃんと考えるための間だった。
シモンが先に口を開く。
「僕は、明日の朝の馬の状態と天気を確認して、問題がなければ出発を検討していいと思います」
「森の調査が終わってなくても?」
「ええ」
「気にならない?」
「気になりますよ」
シモンは地図を見る。
「ですが、僕たちはこの調査の担当者ではありません。今のところ組合から協力要請もない。主要道も開いている。ここへ残り続ける理由が『答えを知りたいから』だけになるなら、それは旅を止める理由として十分かどうか、三人で考えるべきでしょう」
モモも少し考えてから頷く。
「私は、海へ行きたいです」
声は穏やかだった。
「森のことも気になります。石も見てみたいです。でも、全部分かるまでここにいるって決めたら、いつ出られるか分かりません」
「うん」
「それに、私たちがいなくても調べてくれる人がいます」
昨日まで何度も見てきた。
ドレン。
エッダ。
術具師。
井戸屋。
石工。
街道所。
木場の人々。
町役場。
自分たちがいなければ何も進まない事件ではない。
「ルシル様は?」
シモンが尋ねる。
ルシルは地図から目を離し、二人を見る。
「俺も行きたい」
答えは自然に出た。
「森のこと、すごく気になる。でも、ここに来たのは森の謎を解くためじゃない」
グレイへ来た理由は旅の途中だったからだ。
馬を休ませ。
馬車を見てもらい。
町を歩き。
食事をして。
菓子を買い。
本を買い。
蹄鉄を替えた。
その間に、たまたま森で異変が起きていた。
「明日の朝、馬も天気も道も問題なかったら、俺は出発していいと思う」
言葉にしてから、少し胸が軽くなった。
森の答えを置いていくことが、無責任なのではないかという小さな引っかかりがどこかにあった。
けれど、最初から自分たちの責任ではない。
必要なら協力すると伝えた。
今は必要とされていない。
「二人は?」
「私は賛成です」
「僕も」
三人の意見が揃った。
ドレンは黙って聞いていた。
「なら、それでいいんじゃないか」
「ドレンさんは止めない?」
「止める理由が今はない」
「もし今日の調査で危なくなったら?」
「夕方までに街道規制が必要だと判断したら、宿と街道所へ連絡を回す」
「石樽亭にも?」
「ああ」
「じゃあ夕方、わざわざ聞きに来なくてもいい?」
「規制が出るほどならな。細かい調査結果まで知りたいなら来てもいい」
ルシルはモモとシモンを見る。
モモが少し笑った。
「どうします?」
「……夕方になってから決めよう」
「それがいいです」
「僕も賛成です」
今、夜の予定まで固定する必要はない。
「それと宿」
シモンが言う。
「今夜の分は?」
三人とも止まった。
「……二泊までだっけ?」
ルシルが尋ねる。
「元々二泊へ延長しましたが、すでに二泊しています」
「じゃあ今日の夜、部屋ない?」
「まだ確認していません」
「忘れてた」
モモも目を丸くする。
「私もです」
ドレンが呆れた顔をした。
「旅人が宿忘れるなよ」
「森の方に気を取られてた」
「戻ったら最初に聞け」
「はい」
「満室だったら?」
モモが心配そうに聞く。
「別の宿探せ」
「灰羽亭?」
「空いてればな」
「荷物は収納魔法だから大丈夫だけど、馬と馬車が」
「石樽亭で厩だけ借りられるか聞けばいいでしょう」
シモンはすでに現実的な選択肢を考えている。
「まあ、まず空室確認ですね」
「帰ったらすぐ」
「今度は忘れないでくださいよ」
「三人とも忘れてたじゃん」
「そうでした」
三人で笑う。
森の異変について真面目に話していたはずなのに、最後に宿の延長を忘れていたことが判明した。
ドレンまで肩を揺らしている。
「お前ら、妙なところで抜けてるな」
「旅に慣れてきたと思ったのに」
「慣れた頃が一番忘れるんじゃないか?」
「気をつけます」
ルシルは立ち上がった。
「ありがとうございました」
「おう」
「今日の調査、気をつけてってエッダさんたちに」
「自分で言ってけ。まだ出てない」
「じゃあ言ってくる」
三人は調査組の方へ向かった。
◇
エッダたちはちょうど出発準備を終えたところだった。
術具師の女性。
昨日腕に布を巻いていた冒険者とは別の、盾を持った男性。
弓を背負った女性。
それに地元の案内役らしい男が一人。
今日は五人で入るらしい。
「エッダさん」
「話終わったか」
「はい。明日、出発するかもしれません」
「そうか」
エッダは驚かなかった。
「森、まだ終わってないけど」
「お前らの旅は森の調査じゃねえだろ」
ルシルは少し笑った。
「みんな同じこと言うな」
「当たり前のことなんじゃねえか?」
「そうかも」
「街道通るなら山の天気見ろよ。平地晴れてても上は降ることある」
「デリアさんにも言われました」
「なら覚えてるな」
「はい」
「それと花谷の先、日陰の坂は急ぐな」
「行ったことある?」
「何度も」
「花、今咲いてます?」
モモが尋ねる。
「時期なら咲いてるはずだ」
モモの目が少し明るくなる。
「どんな花です?」
「行って見ろ」
「教えてくれないんですか?」
「旅人なんだろ」
エッダは笑った。
「先に全部聞いてどうする」
モモも笑う。
「それもそうですね」
「森の石は?」
ルシルが尋ねる。
「気になるか?」
「すごく」
「俺もだ」
「エッダさんも?」
「当たり前だろ。何十年もこの辺歩いてて、知らん加工石が土から出てきたんだぞ」
その顔には、警戒だけではないものがあった。
猟師として長く森を知っているからこその好奇心。
「でも掘らない?」
「勝手にはな」
「我慢できる?」
「お前に言われたくねえ」
「何で」
「顔が同じだからだよ」
周囲の調査員が笑う。
術具師の女性まで小さく笑った。
「エッダさん、昨日ずっと石の周りうろうろしてましたからね」
「測ってたんだ」
「私が測ってました」
「周りを見てた」
「三周くらい」
「森では周囲確認が大事なんだよ」
「はいはい」
長く組んでいるのか、二人のやり取りは慣れている。
ルシルは少し安心した。
緊張していないわけではないだろう。
それでも、未知の場所へ怯えて入る集団には見えない。
「気をつけて」
モモが言った。
「おう」
「何かいたら無理しないでください」
「そっちも山で無理すんな」
「はい」
「じゃあ行ってくる」
調査組が組合を出ていく。
三人は入口から見送った。
エッダたちは北西方向へ歩いていき、やがて通りの人混みに紛れた。
「行っちゃった」
ルシルが言う。
「仕事ですから」
「うん」
「私たちも戻りましょう」
モモが石樽亭の方角を見る。
「部屋」
「そうだった!」
「また忘れかけましたね」
「今は忘れてない」
「モモ嬢が言わなかったら?」
「……危なかった」
シモンがため息をつく。
「まず宿です」
「はい」
三人は急がず、それでも少しだけ歩く速度を上げた。
◇
石樽亭へ戻ると、ガランは受付にいなかった。
代わりに昨日もいた女性が帳面を整理している。
「あの」
ルシルが受付へ近づく。
「今夜、部屋空いてます?」
女性の手が止まった。
「三人とも?」
「はい」
「二〇五、二〇六、二〇七をそのまま?」
「できれば」
女性は帳面を見る。
三人は妙に緊張して待った。
「……空いてるよ」
「良かった!」
モモが一番大きく反応した。
「ただ、今日の昼までに延長の話がなかったから、一応空室扱いに戻してたところ」
「すみません」
シモンが頭を下げる。
「森のことに気を取られて忘れてました」
「旅人が部屋忘れちゃ駄目だよ」
「組合でも同じこと言われました」
「もう怒られたのかい」
「怒られてはいません」
「じゃあ私からも言っとこう。次は気をつけな」
「はい」
三人の返事が揃う。
「一泊延長でいいの?」
「はい」
ルシルが答える。
「明日の朝、馬と天気と道を見て、問題なければ出発を考えます」
「分かった。三部屋そのまま」
「厩も?」
「トルクとベルクもそのまま。馬車も裏でいいよ」
「ありがとうございます」
シモンが支払いを済ませる。
これで今夜の寝床は確保できた。
「危なかった」
受付から離れて、ルシルが息を吐く。
「本当に」
モモも胸へ手を当てる。
「満室だったらどうしてたんだろ」
「別の宿へ行くしかありません」
シモンが答える。
「灰羽亭?」
「まずそこでしょうね」
「馬車動かす?」
「必要なら」
「それはそれで新しい宿見られたな」
ルシルが言う。
モモが目を瞬く。
「確かに」
「二人とも、部屋が取れた直後に別の宿へ興味を持たないでください」
「行かないよ」
「今夜は石樽亭です」
「分かってるならいいです」
そこへ裏からガランが入ってきた。
「何してる」
「宿延長した」
「今?」
「忘れてた」
「馬鹿か」
「ドレンより厳しい」
「泊まる場所忘れる旅人があるか」
「ここに」
「胸張るな」
ガランが呆れた顔をする。
「馬は?」
「休んでる。問題なし」
「良かった」
「明日出るかもしれないんだって?」
受付の女性から聞こえたらしい。
「はい。朝の状態と天気と道を見てから」
「それでいい」
「ガランさんは森が解決するまで待てって言わない?」
「言わねえよ」
「やっぱり」
「何だ」
「みんな同じだなと思って」
「お前らの旅だろ」
ガランは短く言った。
「行ける時に行きゃいいし、止まりたきゃ止まれ。危ねえ時だけ無茶すんな」
ルシルは少し笑った。
「分かった」
「で、昼は?」
「まだ」
「食ってこい」
「またそれ」
「昼時に帰ってきた奴へ他に何言うんだ」
確かにそうだった。
◇
その日の昼食は、石樽亭で食べることにした。
外へ店を探しに行ってもよかったが、午前中に馬車を動かし、組合で長く話し、宿の延長までしている。三人とも、今日は少し落ち着いて食べたい気分だった。
出てきたのは、厚切りのパンと肉団子を煮込んだ赤いスープだった。
トマトに似た酸味のある実を使っているらしく、昨日までのスープとはまったく味が違う。
「これ好き」
ルシルが一口目で言う。
「早いですね」
モモも食べる。
「あ、おいしいです」
「モモも早いじゃん」
「本当においしかったので」
シモンは肉団子を半分に割る。
「香草も入っていますね」
「昨日の鶏と同じ?」
「少し違うと思います」
「また本欲しくならない?」
ルシルが尋ねる。
「香草の?」
「食べ物の本」
「料理本ですか?」
モモの目が明らかに輝いた。
「それ、欲しいです」
「言うと思った」
「旅先の料理が載っている本なら楽しそうじゃないですか?」
「確かに」
「待ってください」
シモンが止める。
「今すぐ買いに行く話ではありませんよね?」
「まだ店も知らない」
「紙梟にあるかも」
「ルシル様」
「見るだけ」
「その言葉、昨日も聞いた気がします」
「本は買ったけど」
「ほら」
三人の食卓に笑いが広がる。
森の話は、昼食中にはほとんどしなかった。
明日出発するかもしれない。
そう決めたことで、逆に今日のグレイが少し違って見える。
「もし明日出るなら」
モモがパンをちぎりながら言う。
「今日がグレイ最後の日かもしれないんですね」
「そうだな」
「何かしたい?」
ルシルが尋ねる。
モモはすぐ答えず、スープを一口飲んだ。
「町を歩きたいです」
「買い物?」
「それもあるかもしれませんけど、普通に」
「普通に?」
「最初の日は宿を探して、次の日から森の情報を聞いたり、蹄鉄を見てもらったりしていましたから」
「確かに」
「今日は、もう一度町を見たいです」
「俺も」
ルシルは頷いた。
「シモンは?」
「構いません」
「何か見たいところある?」
「紙梟は少し気になります」
「料理本?」
「違います」
「じゃあ何?」
「地図です」
「やっぱりシモンだ」
「何です、その反応は」
「実用的」
「旅人なんですから、地図を見るのは普通でしょう」
「でも昨日、鳥の本も買った」
「僕が選んだわけではありません」
「楽しそうに見てたよ」
モモが言う。
シモンは少しだけ黙った。
「……嫌いではありません」
「ほら」
「何で二人とも嬉しそうなんです?」
「別に」
「嬉しそうです」
「じゃあ午後は町歩き」
ルシルがまとめる。
「夕方、組合から規制の連絡が来なければ、明日の準備もする」
「食料も見ます?」
「必要な分だけ」
モモが自分から言った。
シモンが彼女を見る。
「何です?」
「いえ」
「またですか?」
「本当に何でもありません」
「顔が少し笑ってます」
「モモ嬢が『必要な分だけ』と言うようになったなと思っただけです」
「私だって学びます」
「知っています」
モモは少しだけ得意そうにパンを食べた。
◇
午後。
三人は荷物をほとんど持たず、グレイの町へ出た。
昨日まで何度も通った中央広場。
工房街。
黄色い布の蜂蜜菓子の店。
紙梟。
赤蹄工房へ続く北側の通り。
同じ場所なのに、「明日には出るかもしれない」と思うだけで、看板や店先が少しだけ目に残る。
黄色い布の店の前では、モモが立ち止まった。
「買う?」
ルシルが尋ねる。
「まだあります」
「本当に?」
「昨日、一個しか食べてません」
「じゃあ残ってるな」
「ルシル様は自分の分、結局買ってませんね」
「そうだった」
「買います?」
今度はモモが聞く。
「買います?」
今度はモモが聞く。
ルシルは黄色い布の向こうに並んだ小さな袋を眺めた。最初にこの店へ来た時は、モモが木の実入りを選び、シモンが香草入りを選び、自分だけ何も買わなかった。その後でモモから一個もらい、結局「明日は自分の分を買う」と言ったのを思い出す。
「……買う」
「やっとですね」
「別に我慢してたわけじゃないよ」
「では、何味にします?」
「それを今考えてる」
店先には以前と同じ三種類が並んでいた。麦芽と蜂蜜を使った素朴なもの、香草を混ぜたもの、砕いた木の実を入れたもの。味はもう試しているので、今度は迷う理由が「分からないから」ではない。
ルシルが腕を組んでいると、店の奥にいた年配の女性がこちらへ気づいた。
「あら。また来たのかい」
「こんにちは」
モモが先に頭を下げる。
「この前のお菓子、おいしかったです」
「そりゃ良かった。まだ残ってるかい?」
「あります。今日はルシル様が買うんです」
「言わなくてもいいだろ」
「前に買わなかった人かい?」
「覚えられてる……」
女性が楽しそうに笑った。
「三人であれだけ悩んで、一人だけ買わなかったら覚えるよ。それで、今日はどれにするんだい?」
改めて聞かれると、余計に悩む。
ルシルは木の実入りへ手を伸ばしかけ、それを止めた。モモと同じにするのも悪くない。けれど香草入りも思ったよりおいしかったし、何も入っていないものは蜂蜜と麦芽の味が一番分かりやすかった。
「一番普通の」
「これかい?」
「うん。小さい袋で」
「珍しいですね」
モモが横から覗き込む。
「何が?」
「ルシル様なら三種類全部と言うかと思いました」
「俺を何だと思ってるの」
「気になったものを全部試したい人です」
「否定しにくいな」
ただ、今回はすでに全部味見している。
それに、明日からまた馬車で移動するかもしれない。荷物の大半は収納魔法へ入れられるとはいえ、だからといって何でも買えばいいわけではないことくらい、旅を始めた頃より分かってきた。
「これでいい。なくなったら、またどこかで別の菓子を買う」
「いいと思います」
シモンが穏やかに頷く。
「では僕も追加はなしですね。香草入りがまだ残っていますから」
「私もです」
「三人とも一袋ずつになったな」
「買った時期は違いますけどね」
小さな紙袋を受け取り、代金を払う。
すぐ一個食べようかと思ったが、昼食を終えたばかりだ。
ルシルは袋の口を閉じたまま外套の内側へしまった。
モモがそれをじっと見ている。
「何?」
「食べないんですか?」
「あとで」
「……成長しましたね」
「菓子を今食べないだけで?」
「前なら一個食べていた気がします」
「それはモモだろ」
「私も今は食べませんよ」
「じゃあ二人とも成長したってことで」
「お菓子で成長を測らないでください」
シモンが呆れたように言い、店の女性が声を立てて笑った。
店を出てからも、モモは自分の袋を確認しなかった。最初に蜂蜜菓子の話を聞いた時なら、店を見つけた瞬間に足取りが速くなっていたはずだ。
好きではなくなったわけではない。
好きなものを、好きだからこそ急いで全部食べなくてもいい。
それくらいの変化なのだろう。
「次、紙梟?」
ルシルが尋ねる。
「見るだけですよ」
シモンが先に言った。
「まだ俺、何も言ってない」
「先に確認しました」
「本が増えても収納魔法に入るけど」
「そういう問題ではありません」
「分かってるって」
三人は紙梟へ向かった。
◇
午後の紙梟は、昨日より客が少なかった。
扉を開けると、乾いた紙と革表紙の匂いがする。窓から入る光の中には細かな埃が漂い、棚の向こうでは店主が何冊かの本を積み直していた。
昨日買った鳥と植物の本は、今も馬車の中にある。
今日はシモンが先に地図の棚へ向かった。
「本当に地図なんだ」
「だから言ったでしょう」
「何の地図を見るんです?」
モモも隣へ行く。
「グレイから先です。手持ちの街道図でも主要道は分かりますが、山を越えた後の町や脇道まで細かく載っているものがあれば見ておきたいので」
「買う?」
「内容次第です」
棚には折り畳まれた地図が筒や革紐でまとめられている。
グレイ周辺だけを描いたもの。
セイラの森と山地を含むもの。
もっと広い地方全体を描いたもの。
商人向けなのか、宿場や水場の印が多い地図もあった。
シモンは一枚ずつ勝手に広げず、まず札を読む。
「これ、山越えの道が載っていますね」
「見せてもらう?」
「そうしましょう」
店主へ声を掛けると、閲覧用の卓へ一枚の地図を広げてくれた。
紙の端は何度も開かれたため少し柔らかくなっている。
「これは去年書き直したやつだよ」
店主が言った。
「街道そのものは大きく変わってないが、山側の休憩所が一つなくなってる。古い地図だとまだ載ってるから気をつけな」
「なくなった理由は?」
シモンが尋ねる。
「冬の雪で屋根が潰れた。そのまま建て直してない」
「水場は使えますか?」
「井戸は残ってる。ただ、管理人はいない。飲むなら自分で状態を見た方がいい」
「なるほど」
ルシルも横から地図を覗く。
グレイを出てしばらく進むと、道は緩やかに北西へ向かう。その先に花谷と書かれた細長い場所があり、そこから山道が始まっていた。
「これが花谷」
「そうですね」
「思ったより長い」
「谷ですからね」
「花の絵はないんだな」
「地図ですから」
「少しくらい描けばいいのに」
「道が見づらくなります」
モモが別の印を指した。
「これは何です?」
「休憩所だね」
店主が答える。
「屋根と馬を休ませる場所がある。宿じゃないよ。花谷を抜ける前に一つ、その先の坂へ入る手前にもう一つ」
「馬へ水は?」
「最初の方には沢がある。二つ目は雨水を溜める桶だけだ。晴れが続くと空のこともある」
「水は自分たちでも持っていった方がいいですね」
「当然だね」
シモンが頷く。
「山を越えるまで、普通の馬車でどれくらいですか?」
「天気が良くて道が乾いてりゃ一日半から二日。急げばもっと早い奴もいるけど、勧めないよ」
「途中で野営?」
「するなら決まった場所がいくつかある。斜面の途中で適当に止めるよりいい」
店主の指が二か所を示す。
一つは山道へ入ってそれほど深くない場所。
もう一つは峠の手前。
「広さは?」
「馬車数台。時期によっちゃ商人同士で詰まるけど、今ならそこまで多くないはずだ」
「魔物は?」
ルシルが尋ねる。
「出ないとは言わない。街道沿いなら見回りもあるし、森の奥よりは少ない。最近はグレイ北側の話ばかりで、山道の方から変な報告は聞いてないよ」
「セイラの森の異変とは別?」
「私に聞かれても分からないよ」
「あ、そうか」
店主は肩をすくめる。
「ただ、山越えの商人が普通に来てるのは確かだ。昨日も二台下りてきた」
「組合でも同じ話を聞きました」
シモンが地図の内容を手持ちのものと比べる。
「これなら買ってもいいですね」
「買うんだ」
「今持っているものより、休憩所と野営地が詳しいですから」
「実用品ですね」
「最初からそのつもりです」
モモが店内を見回した。
「料理本は?」
シモンの手が止まる。
「モモ嬢」
「見るだけです」
「その言葉を二人で使わないでください」
「見るだけならいいだろ?」
「……見るだけなら」
結局、地図を包んでもらっている間に三人で料理の棚も見ることになった。
旅料理。
保存食。
地方料理。
香草。
焼き菓子。
思っていたより種類が多い。
「これ」
モモが一冊を手に取る。
題名は『街道沿いの鍋料理』。
「すごく旅向けです」
「中見せてもらおう」
「買う前提になってませんか?」
シモンが言う。
「見てから決める」
「それなら構いません」
店主の許可をもらって開く。
文字だけではなく、簡単な絵も載っていた。豆と干し肉の煮込み、根菜のスープ、川魚を使った鍋、薄いパンを浸して食べる料理。
見覚えのある材料も多い。
「これ、俺たちでも作れそう」
「豆と干し肉なら持っていますね」
「香草は?」
「種類によります」
「これなら次の野営でできます?」
モモが指したのは、豆と刻んだ野菜を煮て、最後に薄いパンをちぎって入れる料理だった。
「できますが、本を買わなくても似たものは作れますよ」
「でも他の料理も載ってます」
「そうですね」
シモンが数ページめくる。
その手が途中で止まった。
「……これ、保存食の使い方も書いてありますね」
「欲しくなった?」
ルシルが聞く。
「実用性はあります」
「欲しくなったんだ」
「実用性があると言っています」
「シモン君、欲しいんですね」
「二人とも何なんですか」
結局、『街道沿いの鍋料理』も一冊買った。
誰のものにするか少し話したが、三人で使うのだから共有でいいということになった。
「本、三冊目」
店を出てからルシルが言う。
「地図を入れれば四つです」
「グレイ、思ったより本増えたな」
「でも全部使えます」
モモが料理本を大事そうに抱えている。
「鳥の本も植物の本も、道で見られますし」
「料理本は食べられる」
「本は食べません」
「分かってるよ」
「言い方が」
シモンが地図の包みを持ちながら笑う。
紙梟を離れた後、三人はすぐ次の目的地を決めなかった。
中央広場へ戻り、そこから人の流れに合わせるように歩く。
工房から金槌の音が聞こえる。
革屋の前には新しい馬具が吊られ、乾物屋では豆の袋を積み直している。
明日出発するなら、食料も確認しておいた方がいい。
ただし足りないものを先に見なければ、また余計に買うことになる。
「一回宿へ戻って在庫見ます?」
モモが言った。
「それがいい」
「賛成です」
「先に買わないんだな」
ルシルが少し感心すると、モモが頬を膨らませた。
「私、そんなに何でも買ってました?」
「最初の頃は?」
「……お菓子は買いました」
「ほら」
「食料とは別です」
「まあ、それはそう」
そのまま歩いていると、赤蹄工房へ続く通りが見えた。
ルシルは足を止める。
「デリアさんに、ベルク大丈夫だったって言っていく?」
「いいと思います」
シモンの返事は早かった。
「昨日、新しい蹄鉄をつけてもらったばかりですし、今朝馬車で動かした結果も伝えておいた方がいいでしょう」
「じゃあ寄ろう」
◇
赤い蹄鉄の看板は、今日も工房の前で揺れていた。
中から金属を叩く音が響いている。
三人が入口から声を掛けると、若い職人が先に顔を出した。
「昨日の二頭の人たちか」
「はい。デリアさんいます?」
「奥。ちょっと待って」
しばらくして、布で手を拭きながらデリアが出てきた。
「どうした。何かあったか?」
最初の言葉がそれだった。
「いえ、大丈夫だったって報告です」
ルシルが慌てて答える。
「ベルクも今朝は普通でした。馬車につないで南側まで少し走らせたんですけど、右後ろも変な踏み方しませんでした」
「蹄鉄は?」
「ガランさんに見てもらって、問題なしです」
「そうか」
デリアの表情がわずかに緩む。
「なら良かった」
「明日、旅に戻るかもしれません」
「山へ?」
「はい。天気と道が大丈夫なら」
「今朝の空なら平地は問題なさそうだが、上は別だぞ」
「覚えてます」
「日陰の濡れた石、泥、下り坂。蹄鉄替えたからって飛ばすな」
「はい」
「特に下りは馬だけ見んな。馬車が後ろから押す」
「バルガンさんにも言われました」
「なら二回聞いたな」
「忘れません」
デリアはルシルをじっと見る。
「……本当か?」
「何で疑うの」
「楽しそうな顔してる奴は、景色見て速度忘れることがある」
「気をつけます」
「そっちの眼鏡の兄ちゃんも見とけ」
「もちろんです」
シモンが答える。
「モモもいるよ」
「私も見ます」
「三人いるなら三人で見ろ。一人に任せきるな」
「はい」
デリアはそこで話を終えようとしたが、ルシルは工房の中へ視線を向けた。
昨日見た大きな蹄鉄とは別に、小さな金具が並んでいる。
「それ何?」
「馬具の補修金具」
「蹄鉄じゃない?」
「違う」
「へえ」
「今日は買うなよ」
「まだ何も言ってない」
「顔」
「みんな顔読むなあ」
「お前が分かりやすいんだろ」
デリアは笑い、工房の奥へ戻っていった。
用事はそれだけだった。
けれど、昨日まで世話になった人へ「大丈夫だった」と伝えられたことが、ルシルには思ったより嬉しかった。
「明日出るって言うと、本当に出発する感じしてきた」
工房を離れてから言う。
「まだ決定ではありませんよ」
シモンが返す。
「分かってる。でも、そういう感じ」
「私は少し楽しみです」
モモが北ではなく、町の向こうにある山の方角を見た。
「花谷」
「エッダ、何の花か教えてくれなかったな」
「行って見ろって言われました」
「本で先に調べる?」
「駄目です」
モモの返事が思った以上に早い。
「え?」
「せっかく教えてもらわなかったので、行ってから見たいです」
「植物の本あるのに?」
「見つけてから調べます」
「それいいな」
「では植物の本は、馬車の中ですぐ出せるところへ置いておきましょう」
シモンも反対しなかった。
知らないものを先に全部知っておく必要はない。
必要な道や水場は調べる。
けれど、花の色や形まで地図の上で済ませなくてもいい。
その違いが、今のルシルには少し分かる気がした。
◇
石樽亭へ戻った三人は、まず馬車の中で食料を確認した。
保存用の肉と魚。
豆。
硬いパン。
乾燥野菜。
塩と香辛料。
少量の小麦粉。
油。
薄焼き用の材料。
水袋。
それに、まだ残っている卵や野菜もある。
収納魔法の中へ入れているものまで一度出す必要はないので、シモンが把握している量を読み上げ、ルシルとモモが「次の野営で何を食べたいか」を考える形になった。
「足りないものある?」
「絶対に必要なものはありません」
シモンが答える。
「水は出発前に満たします。生鮮品を少し足すかどうかですね」
「山で買えない?」
「途中の休憩所には店がないようですから、山を越えるまでは今ある分で考えた方がいいでしょう」
「じゃあ野菜少し?」
モモが言う。
「傷みにくいものなら」
「人参は?」
「馬用ですか?」
「人も食べられます」
「両方ですね」
ルシルが笑う。
「トルクに全部見つからないようにしないと」
「収納魔法へ入れておけば大丈夫です」
「じゃあ根菜と、パン少し追加?」
「その程度で十分です」
「お菓子は?」
ルシルが聞く。
モモが無言で自分の袋を軽く持ち上げる。
シモンも外套の内側を示す。
「俺も今日買った」
「では追加なしですね」
「三人ともある」
それだけ確認して、近くの食料品店へ行く。
買ったのは根菜を数本、日持ちする葉物を少量、硬めのパン、それから馬へ与える分も含めた人参。
モモは菓子の棚を一度見たが、立ち止まらなかった。
「見た」
店を出てからルシルが言う。
「見ただけです」
「欲しかった?」
「どんなものがあるか気になっただけです」
「本当に?」
「本当です」
「じゃあ次の町で見よう」
「はい」
それで会話は終わった。
買わなかったことを大げさに褒める必要もない。
旅を続けていれば、また別の店がある。
別の菓子がある。
別の食事がある。
全部をグレイで揃える必要はなかった。
◇
夕方が近づくにつれ、空の雲は朝よりさらに薄くなった。
西日が灰色の石壁を橙色に染め始める。
三人は買ったものを整理した後、石樽亭の裏庭へ出た。
トルクとベルクは馬房で落ち着いている。
今朝動かした後も、ベルクに変わった様子はない。
シモンが近づくと、ベルクは顔を上げた。
「今日はもう歩かせないんですよね?」
モモがガランへ確認する。
「ああ。朝動かしたから十分だ」
「明日は?」
「朝見て、普通なら旅に戻していい」
「何回聞いても同じ?」
「同じだ」
「安心するので」
「なら聞け」
ガランは嫌がらずに答えた。
トルクは柵越しにルシルの方へ鼻先を伸ばす。
「何?」
「人参の匂いじゃないですか?」
モモが言う。
「収納魔法なのに?」
「買った時、触りました?」
「触った」
「じゃあ手かも」
ルシルが手を出すと、トルクが鼻を近づける。
「すごいな」
「馬の鼻は人よりずっと利く」
ガランが言う。
「今やるなよ。夕方の飼葉がある」
「分かってる」
「明日の朝、出るなら少しだけ?」
「量は考えろ」
「はい」
ベルクはトルクほど食べ物へ反応しない。
代わりにシモンの手へ一度鼻先を触れ、そのまま静かに戻った。
「もう完全にシモンのこと覚えてるな」
ルシルが言う。
「毎日顔を合わせていますから」
「俺たちもだけど」
「相性もあるんじゃないですか?」
モモが笑う。
シモンは何も返さず、ベルクの首筋を軽く撫でた。
以前なら、その仕草をからかいたくなったかもしれない。
今はもう、三人にとって珍しくない光景になりつつある。
「明日、一緒に山行けるといいな」
ルシルが二頭へ言う。
「天気と道が良ければ、です」
シモンが訂正する。
「分かってるよ」
「馬も普通なら、です」
モモも加える。
「分かってるって」
「忘れないようにです」
「二人ともガランみたいになってきた」
「俺のせいにすんな」
厩の中に笑いが落ちた。
その時だった。
表の通りから、馬の足音が聞こえた。
一頭ではない。
何頭かが続けて通っていく。
ルシルは反射的に入口の方を見る。
森の調査組が戻ったのかもしれない。
けれど、ここからでは見えない。
足が一歩だけそちらへ向きかける。
「行きます?」
モモが尋ねた。
ルシルは止まった。
朝、組合で聞いた言葉を思い出す。
街道規制が必要なほどのことがあれば、宿へ連絡が来る。
細かい結果を知りたいなら、自分たちから聞きに行ってもいい。
行ってはいけないわけではない。
「……どうしよう」
「行きたいなら行ってもいいと思いますよ」
シモンが言う。
「止めないの?」
「止める理由がありますか?」
「明日出るって決めたから、もう森は気にするなって言うかと」
「そんな極端な話はしていません」
シモンは眼鏡の位置を直す。
「気になることと、答えが出るまで旅を止めることは別です。今から組合へ行って話を聞く程度なら、何も問題ないでしょう」
「そっか」
「ただし」
「ただし?」
「調査が戻った直後なら、報告整理が終わっていない可能性があります」
「あ」
「また待つ?」
モモが聞く。
ルシルは少し考えた。
朝なら、すぐに組合へ向かったかもしれない。
足音を聞いただけで、何か分かったのではないかと確かめたくなる。
けれど昨日も、一昨日も、調査する人たちは帰ってから報告をまとめていた。
「夕飯食べてからにする?」
「いいと思います」
「私もです」
答えが揃う。
ガランが厩の入口から三人を見る。
「何だ。行かねえのか?」
「あとで」
「珍しいな」
「俺だって待てるよ」
「そうか」
「もっと驚いてよ」
「何でだよ」
ガランはそのまま仕事へ戻った。
ルシルは少し不満だったが、モモとシモンは笑っている。
◇
夕食は、石樽亭の食堂で取った。
焼いた鶏肉に豆と刻んだ野菜を添えたものと、温かいパン。
昼が煮込みだったので、まったく違う食感が嬉しい。
「明日の朝ご飯もここで食べる?」
ルシルが尋ねる。
「出発時刻次第ですね」
シモンが答える。
「でも、急いで暗いうちに出る必要はありません」
「山へ行くなら早い方がいいんじゃない?」
「早い方が余裕はあります。ただ、日の出前に出るほどではありません。馬の確認も天気もありますし」
「朝食食べてから?」
「それで十分でしょう」
「ガランさんにも聞きましょう」
モモが鶏肉を切りながら言う。
「あと水」
「満たします」
「馬の人参」
「忘れないでください」
「それはモモ担当?」
「どうしてです?」
「トルクが一番期待してるから」
「ルシル様が買った人参ですよ」
「じゃあ三人で」
「一本を三人で持つんですか?」
「それは食べづらいだろ」
「なら普通に誰か一人でいいでしょう」
「シモン、真面目に考えなくていいよ」
「ルシル様が変な案を出すからです」
夕食を終える頃には、外はかなり暗くなっていた。
食堂の灯りが窓へ映る。
宿泊客の話し声。
食器の触れ合う音。
厨房から漂う焼いた肉の匂い。
グレイで過ごす夜も、これで三度目になる。
「行きます?」
モモが尋ねた。
「組合?」
「はい」
ルシルは窓の外を見る。
連絡は来ていない。
少なくとも、主要道を今すぐ閉じるような事態にはなっていないのだろう。
「行こう」
今度は迷わなかった。
「明日出るなら、最後に聞いておきたい」
「僕もです」
三人は外套を羽織った。
◇
夜の冒険者組合は、昼とは違う熱気があった。
依頼から戻った者。
食事を取る者。
報告書を書く者。
仲間と今日の出来事を話す者。
森の調査組らしい姿も見える。
エッダは壁際の卓に座っていた。
無事だ。
術具師の女性もいる。
怪我をしている様子はない。
「良かった」
モモが小さく呟いた。
エッダはこちらへ気づくと、片手を上げた。
「来たか」
「おかえりなさい」
「ただいまって言う相手でもねえだろ」
「でも朝、見送りましたから」
「まあいいか」
「何か分かった?」
ルシルが聞く。
エッダはすぐ答えず、受付の方を顎で示した。
「正式な話はドレンから聞け。俺が先に喋ると怒られる」
「怒られるんだ」
「情報が食い違う方が面倒だからな」
「なるほど」
「ただ、怪我人はいない。それだけは言っていい」
「良かったです」
モモの表情が緩む。
受付へ行くと、栗色の髪の女性職員が三人を見て苦笑した。
「やっぱり来ましたね」
「来ると思ってた?」
「半々です」
「半分は?」
「明日出るなら、もう聞きに来ないかなと」
「気になるから」
「ですよね」
「ドレンさん、忙しい?」
「報告はまとまったところです。少し待ってください」
今度は茶ではなく、水が出てきた。
三人がいつものように卓へ座って待っていると、しばらくしてドレンが数枚の紙を持って現れた。
「来たな」
「エッダさんにも同じこと言われた」
「来ると思ってたからな」
「そんなに分かりやすい?」
「少なくともお前は」
ルシルはもう反論しなかった。
「今日、何か分かりました?」
「少しな」
ドレンが座る。
「まず先に、明日の街道について。現時点で規制なし。主要道は開ける予定だ」
「じゃあ、朝に新しい問題がなければ」
「出るかどうかはお前ら次第」
「はい」
「北木場は?」
モモが尋ねる。
「午後から一部作業再開。井戸はまだ使ってないが、町から水を運べば仕事はできる。新しい揺れなし」
「砂は?」
「減ってる。完全には止まってない」
「森側の隙間から?」
「西側の石の隙間から、だ」
「はい」
モモが自分で言い直すように頷いた。
「森とつながってるとはまだ分からない」
「そういうことだ」
ドレンは次の紙へ移る。
「森の沈み二か所。変化なし。盛り上がりもほぼ変化なし。魔力反応も昨日と同程度」
「じゃあ今日は加工石?」
「ああ」
ルシルが身を乗り出しかけ、途中で止まった。
シモンがそれを横目で見たが、何も言わない。
「落ち葉と表面の土だけをどけた」
「どうだった?」
「思ってたより長い」
「長い?」
ドレンは簡単な図を卓へ置いた。
昨日までは、土から出ていた一部分だけが描かれていた。
今日はそこから左右へ線が伸びている。
「全部は出してない。確認できた範囲で、少なくとも四歩分くらい続いてる」
「大きい石?」
「一枚かどうかは分からん。途中に細い継ぎ目らしい線が二本ある」
「並べた石?」
「可能性はある」
「道?」
「それも可能性」
ルシルは図を見る。
「模様は?」
「出た」
その一言で、三人とも黙った。
ドレンが別の紙を置く。
そこには簡単な写しが描かれていた。
直線。
その横に短い線。
さらに少し離れて、半円のような形。
「文字?」
モモが尋ねる。
「分からん」
「術式?」
ルシルが続ける。
「分からん」
「装飾?」
「分からん」
「全部分からない」
「だから調べてる」
ドレンは苦笑する。
「ただし、少なくとも自然にできた傷ではなさそうだ。石工もそう見てる」
シモンは写しをじっと見る。
「僕も、この形に心当たりはありません」
「古代文字とか?」
「少なくとも僕が知っている主要な古代文字とは違います。ただ、文字だと決まったわけでもありません」
「そうだよな」
ルシルはすぐ頷いた。
「魔力反応は?」
シモンが尋ねる。
「石自体はやっぱりほぼなし。ただな」
ドレンの声が少し低くなる。
「石の周りの土を測ったら、場所によって差があった」
「差?」
「石の北側より、南側の方が少し強い」
「沈みがある方?」
「一つ目の沈みの方向には近い。ただ、一直線ってほどじゃない」
「つながってる?」
「まだ言えん」
「はい」
「それからもう一つ」
ドレンの指が図の端へ移る。
「加工石の横。落ち葉をどけたところに、小さな空洞が見つかった」
「穴?」
「手のひらが入るかどうかくらい。下じゃなく横へ続いてる」
「掘った?」
「掘ってない」
「エッダさん、我慢した?」
「した」
後ろの方からエッダの声が飛んできた。
聞こえていたらしい。
「かなり我慢したぞ!」
周囲の冒険者が笑う。
術具師の女性も向こうの卓から声を上げた。
「三回覗きましたけどね!」
「覗くだけならいいだろ!」
「枝入れようとして止められたでしょう!」
「入れてねえ!」
「入れようとはしたんだ」
ルシルが言うと、エッダは口を閉じた。
組合の空気が少し和らぐ。
ドレンが額へ手を当てる。
「……まあ、入れてはいない」
「明日見る?」
「その予定だ。ただし、まず外から測る。穴を広げるのはその後」
「何があるんだろ」
「分からん」
「またそれだ」
「今日の調査結果だからな」
ルシルは笑った。
けれど胸の奥には、やはり好奇心が残る。
四歩以上続く加工石。
人工的な線。
横へ続く小さな空洞。
弱い土系統の魔力反応。
その近くにある沈みと盛り上がり。
北木場の井戸へ入る灰色の石粉。
昨日より分かったことは確実に増えている。
それでも答えはない。
「明日、俺たちが出た後に正体分かったら悔しいな」
思わず本音が出た。
モモが笑う。
「分かります」
「モモも?」
「気になりますから」
「シモンは?」
「気になります」
シモンも否定しなかった。
「でも出る?」
「朝の条件に問題がなければ」
「うん」
ルシルはもう一度、紙に描かれた模様を見る。
見たからといって、何かが分かるわけではない。
自分たちは調査の専門家ではない。
必要とされているわけでもない。
「ドレンさん」
「何だ?」
「もし、あとでこれの正体が分かったら」
「ああ」
「またグレイに来た時、教えてもらえる?」
ドレンは少し意外そうな顔をした。
「戻ってくるつもりか?」
「来ちゃ駄目?」
「そういう意味じゃねえ」
「川灯り亭で今度は揚げ魚食べたいし」
「そっちかよ」
「それだけじゃないよ」
蜂蜜菓子もある。
紙梟もある。
石樽亭もある。
トルクとベルクを見てくれたガランやデリアもいる。
馬車を見てくれたバルガンもいる。
森の答えだけが、グレイへ戻る理由ではない。
「また来た時、まだ俺がここにいたら教えてやる」
「約束?」
「その程度ならな」
「じゃあ楽しみにしとく」
「答えが出てなかったら?」
モモが聞く。
「その時は、その時点で分かってることを聞けばいい」
ルシルが答えた。
自分で言ってから、少しだけおかしくなる。
昨日までなら、答えが出るまで知りたいと思っていた。
今は、答えが出ていなくても旅へ戻れる。
知らないまま置いていくことと、捨てることは違う。
戻ってくることだってできる。
「明日の朝、組合に寄る必要は?」
シモンが確認する。
「規制が出てなければ必須じゃない。街道所でも最新情報は聞ける」
「では、宿で馬と天気を確認して、街道所で道の状態を聞く形で十分ですね」
「ああ」
「分かりました」
ドレンは紙をまとめ始める。
「今日はもう休め。明日出るかもしれんのならな」
「はい」
「森へ行きたいとか言い出すなよ」
「言わない」
「加工石だけ見たいとか」
「……言わない」
「今、間があったぞ」
「言わないって」
モモが口元を押さえている。
シモンも眼鏡の奥で笑っていた。
◇
組合を出ると、夜のグレイは少し冷えていた。
空を見上げる。
雲はある。
けれど星もいくつか見える。
山の方角は、夜の中に沈んでいた。
「明日、晴れるかな」
ルシルが言う。
「朝にならないと分かりませんね」
「分かってる」
「でも、晴れるといいですね」
モモが続ける。
「花谷、見たいです」
「俺も」
「僕も興味はあります」
「シモンも?」
「花くらい見ますよ」
「いや、地図の方が好きかと」
「どういう人間だと思っているんですか」
「地図と帳簿が好き」
「帳簿が好きだったわけではありません」
「得意だった」
「得意と好きは違います」
「じゃあ今好きなのは?」
ルシルが何気なく尋ねた。
シモンはすぐ答えなかった。
歩きながら、少しだけ考える。
「……最近なら」
「うん」
「知らない土地の食事は、わりと好きですね」
「食べる方?」
「食べる方です」
「料理じゃなく?」
「料理も覚えるのは嫌いではありませんが、まず食べる方です」
モモが嬉しそうに笑う。
「三人とも同じですね」
「お菓子も?」
「それはモモ嬢ほどではありません」
「またモモ嬢です」
「そこは別の話です」
「逃げましたね」
「逃げていません」
夜道に三人の声が続く。
石樽亭へ戻るまで、森の話はしなかった。
明日、本当に出発するかはまだ決まっていない。
朝になってベルクの脚に違和感が出るかもしれない。
山に雨雲がかかるかもしれない。
街道所から新しい注意が出るかもしれない。
森で夜のうちに何か起きる可能性だって、完全には否定できない。
だから、今夜のうちに「明日は絶対に出る」と決める必要はなかった。
石樽亭へ戻り、二階へ上がる。
二〇五号室。
二〇六号室。
二〇七号室。
何日か使った三つの部屋も、明日の朝には最後になるかもしれない。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
「明日は少し早めに起きましょう」
「何時?」
「いつもより少しだけです」
「曖昧だな」
「日の出頃で十分でしょう」
「分かった」
「私も起きます」
三人はそれぞれの部屋へ入った。
ルシルは扉を閉め、外套を脱ぐ。
今日買った蜂蜜菓子の小袋を机へ置いた。
一個だけ食べようかと思う。
少し迷ってから、袋を開けた。
薄い蜂蜜の甘さと麦芽の香ばしさ。
「うまい」
一個だけ食べ、袋を閉じる。
窓辺へ行った。
昼間に馬車で走った南の道は、ここからは見えない。
花谷も。
山も。
その先の海は、もっと見えない。
それでも道は続いている。
森の答えも、加工石の正体も、今夜の自分には分からない。
明日の天気さえ、まだ分からない。
けれど、分からないものを全部分かるまで待たなくてもいいのだと思う。
朝になったら、まずトルクとベルクを見る。
空を見る。
道の話を聞く。
問題がなければ、三人で決める。
出発できる朝だから出発するのではない。
出発できると確かめたうえで、今日行こうと三人で決めた時に出発する。
その違いが、今のルシルには心地よかった。
窓を閉める。
明日は花谷へ向かうかもしれない。
向かわないかもしれない。
どちらでも、自分たちで選べる。
「……おやすみ」
誰もいない部屋で小さく呟き、ルシルは灯りを消した。




