第36話 行こうと決めた朝に、旅はまた動き出します
翌朝、ルシルが目を覚ました時、最初に聞こえたのは雨音ではなかった。
窓の外から、荷車の車輪が石畳を転がっていく音が聞こえている。少し遅れて馬の蹄が硬い路面を叩き、遠くでは工房の戸を開けるらしい木の音もした。グレイの町がいつも通り朝を始めていることを、まだ布団の中にいるうちから感じられる。
ルシルは目を開けたまま、しばらく天井を見上げていた。
昨日の夜、自分で決めたことを思い出す。
出発できるから出発するのではない。
朝になったら馬を見る。空を見る。道の状態を確かめる。そのうえで三人が今日行こうと思えたなら、旅を再開する。
言葉にしてみれば、それだけの話だった。
けれど、以前の自分ならどうしていただろうと考えると、たぶん目を覚ました瞬間には荷造りを始めていた気がする。天気が良くて馬が歩けるなら、すぐ出ればいい。少しでも先へ進めるなら、その方がいい。そんなふうに考えていたかもしれない。
「……まず、見る」
誰もいない部屋で小さく口にすると、ルシルはようやく起き上がった。
窓を開ける。
昨日より空は明るかった。
東には薄い雲が残っているものの、その隙間から朝日が差し、向かいの石造りの屋根を淡く照らしている。町の上を流れる風は冷たいが、湿った重さはない。遠くの北側には少し雲が見える一方、西から南西にかけては青空の方が広かった。
山そのものは、ここからでは建物に隠れて見えない。
それでも雨の朝ではない。
「一個目は、悪くなさそう」
空だけで決めないことは、もう分かっている。
ルシルは顔を洗い、旅装へ着替えた。黒い外套を手に取ったところで、昨夜机へ置いた小さな紙袋が目に入る。
昨日、自分用に買ったプレーン味の蜂蜜と麦芽の飴。
一つ食べたので、当然まだかなり残っている。
少し迷ってから紙袋を持ち上げ、収納魔法へ入れた。
「これは忘れない」
宿の延長を三人揃って忘れた昨日のことを思い出し、思わず笑う。
部屋を見回した。
旅の途中で使うものの大半は収納魔法へ入っているため、荷造りと呼べるほどの作業はない。それでも寝台の脇、机の上、窓辺まで一度目を通す。忘れ物がないことを確かめてから廊下へ出ると、ちょうど隣の二〇六号室からモモも出てきたところだった。
「おはようございます」
白い外套を腕へ掛けたモモは、いつもより少しだけ髪を丁寧に整えているように見えた。旅立つかもしれない朝だからなのか、それとも単に早く起きただけなのか、ルシルには判断がつかない。
「おはよう。空、見た?」
「見ました。晴れてますね」
「山は見えなかったけど」
「私の部屋からも見えませんでした」
二人はそこで顔を見合わせた。
「ベルクさん」
「うん」
昨日とは違い、どちらからともなく同じ名前が出る。
朝食の匂いはすでに階下から漂ってきていたが、今日は迷わなかった。二人が二〇七号室の方を見ると、扉がまだ閉まっている。
「シモン君、まだでしょうか」
「起きてると思う」
「呼びます?」
「いや、先に厩を見てこよう。すぐ戻るし」
「そうですね」
二人が階段へ向かいかけたところで、背後から扉の開く音がした。
「おはようございます。二人とも早いですね」
振り返ると、すでに身支度を整えたシモンが出てきていた。眼鏡の位置を指で直しながら二人を見ると、そのまま視線を階段へ向ける。
「厩ですか?」
「分かった?」
「朝食へ行く顔ではありませんでしたから」
「朝食へ行く顔ってどんなの?」
「少なくともモモ嬢がもう少し嬉しそうです」
「シモン君」
モモが頬を少し膨らませる。
「私だって馬のことは心配しています」
「知っていますよ」
「じゃあ言わなくてもいいじゃないですか」
「今のは冗談です」
「朝から珍しい」
ルシルが笑うと、シモンは少しだけ眉を寄せた。
「僕だって冗談くらい言います」
「知ってる。行こう」
三人は一階へ下り、そのまま食堂には入らず裏庭へ回った。
◇
石樽亭の裏庭には、朝の冷たい空気と干し草の匂いが残っていた。
厩の屋根から落ちる雫はない。昨夜のうちにも雨は降らなかったらしく、踏み固められた土も乾いている。馬房の奥から、飼葉を噛む規則的な音が聞こえてきた。
「おはよう」
ルシルが声を掛けると、最初に反応したのはトルクだった。
栗毛の顔がこちらを向き、耳がぴくりと動く。続いて隣のベルクも頭を上げたが、すぐに騒ぐことはなく、三人を順番に見るように目を動かした。
「元気そうです」
モモが声を弾ませる。
けれど、すぐに馬房へ手を伸ばすことはしなかった。昨日までに教わった通り、まず立ち方を見る。
トルクは四本の脚へ自然に体重を乗せている。
ベルクも同じだった。
問題になっていた右後肢を浮かせる様子はなく、左右で不自然に重心を変えているようにも見えない。
シモンがゆっくりベルクへ近づく。
「おはよう」
低く穏やかな声を聞いたベルクは、鼻先を少し前へ出した。シモンが手の甲を差し出すと、一度匂いを確かめてから軽く触れる。
その様子を見ていたルシルの胸から、最後まで残っていた小さな緊張がほどけていく。
「昨日と同じだな」
「今のところは」
シモンは安心したように言いながらも、すぐ断定はしなかった。
「歩かせてみましょう」
「うん」
三人で二頭を馬房から出す。
まだ馬車へはつながない。
裏庭の平らな場所を、まずトルクから歩かせた。モモが手綱を持ち、ゆっくり一周する。蹄鉄が土を踏む音は石畳ほど鋭くないが、歩調は揃っている。
続いてベルク。
こちらはシモンが引く。
最初の数歩、ルシルは右後肢ばかり見そうになった。しかし片脚だけに意識を寄せすぎると全体の歩き方が分からなくなることを思い出し、肩や腰の動きも見る。
「どう?」
一周したところで尋ねると、シモンはベルクを止めてから振り返った。
「違和感はありません」
「私もそう見えました」
モモも少し離れたところから頷く。
「昨日の朝に一度強く置いた時とは違います」
「よし」
ルシルが息を吐いた時、厩の奥から足音がした。
「朝っぱらから何してるかと思ったら、ちゃんと見てたか」
ガランだった。
片手には小さな木桶を持ち、袖を肘までまくっている。起きたばかりという様子ではなく、すでに厩の仕事をいくつか終えているらしい。
「おはよう」
「おう。ベルク歩かせたか?」
「今」
「どうだった」
「俺たちが見た感じは普通」
「なら俺も見る」
ガランは木桶を脇へ置き、ベルクの横へしゃがみ込んだ。
いきなり脚を持ち上げるのではなく、肩から脚へ手を滑らせながら声を掛ける。ベルクも昨日までの確認で慣れたのか、多少耳を動かしただけで大きく嫌がらなかった。
右後肢。
蹄鉄。
釘。
蹄の縁。
ガランは一つずつ見たあと、反対側とも比べた。
「問題なし」
短い言葉だった。
だからこそ、三人には十分だった。
「じゃあ馬は?」
「旅に戻していい」
ガランは立ち上がり、今度はトルクも簡単に確認した。
「こっちも問題ねえ。昨日一日休ませてるし、今朝も普通。蹄鉄も馴染んでる」
「やった」
ルシルの声が少し大きくなる。
トルクがそれに反応して耳をこちらへ向けた。
「まだ出発決定じゃねえんだろ?」
「うん」
「なら次は空と道だな」
「空は見た。晴れてる」
「ここはな」
「山は?」
「朝一で南から入った荷車がいる。上の方は薄曇りらしいが、雨は降ってねえって話だ」
三人の視線が自然にガランへ集まる。
「もう聞いたの?」
「宿屋だぞ。朝から人が来る」
「山道は?」
「そいつらが通ったのは夜明け前だ。日陰にまだ湿ってる石があるってさ。泥も少し残ってる。ただ、昨日より悪くなったとは言ってなかった」
シモンが顎へ指を添え、少し考える。
「街道所の情報も確認した方がいいですね」
「ああ。朝飯食ってから行けばいい」
「組合は?」
ルシルが尋ねる。
「行きたきゃ行け。ただ森の調査結果待ってたら、また昼になるぞ」
「待たない」
返事は自分でも驚くほど自然だった。
ガランが一瞬だけルシルを見て、それから口元を少し緩める。
「そうか」
「街道に規制が出てないかだけ確認したい」
「なら街道所が先だ。組合の規制も回る」
「分かった」
モモがトルクの首筋を撫でる。
「トルクさん、ベルクさん。今日は走るかもしれませんよ」
その声に反応したのか、トルクが鼻を鳴らした。
「分かってる?」
「たぶん」
「人参だと思ってるんじゃない?」
ルシルが言うと、モモは少し考えた。
「……その可能性もあります」
「高いと思いますよ」
シモンまで加わり、三人の間に小さな笑いが広がった。
出発するかもしれない朝だった。
けれど、急いでいる者は一人もいなかった。
◇
朝食は、昨日とは少し違っていた。
焼いた黒パンに、豆と細切り野菜を煮たとろみのあるスープ。それに卵を焼いて刻んだ香草を散らしたものが一皿ずつ付いている。
食堂にはすでに何組かの客がいた。
仕事前らしい職人たちは早口で今日の予定を話し、窓際では荷運び人らしい二人が山道の状態について話している。聞こえてくる範囲では、道が閉じたという話はない。
ルシルはスープを口へ運びながら、つい隣の会話へ意識を向けた。
「気になります?」
向かいのモモに見抜かれる。
「ちょっと」
「聞き耳立てすぎると失礼ですよ」
シモンはそう言いながら、自分も一瞬だけ荷運び人たちへ視線を向けていた。
「シモンも聞いてるじゃん」
「声が大きいので自然に聞こえただけです」
「俺も」
「ルシル様は首まで向いていました」
「そんなに?」
「はい」
モモが笑いながら卵を切る。
「でも、普通に山から来た人がいるのは安心ですね」
「そうだな」
「それだけで安全とは言えませんが、少なくとも夜中に道が通れなくなったわけではなさそうです」
シモンが言葉を添える。
その慎重さに、ルシルはもう窮屈さを感じなかった。
最初の頃なら、「大丈夫そうなら行こう」で終わっていたかもしれない。今は、その間にいくつか確かめるものがあると知っている。
それでも、確認することが旅を遅らせるだけの作業ではないとも分かってきた。
「今日出たら、昼はどこだろ」
ルシルが地図を頭に思い浮かべる。
「出発時刻次第ですね」
「花谷まで行ける?」
「十分可能だと思います。ただし、花谷でどれくらい過ごすかは決めていません」
シモンの言葉に、モモがすぐ顔を上げた。
「急いで通り抜けるのは嫌です」
「誰も急ぐとは言っていませんよ」
「花を見るんですよね」
「もちろん」
ルシルも頷く。
「そこで本を開く」
「はい」
「昼飯も食べる?」
「それは花谷に着く時間次第です」
「食べられそうなら?」
「食べましょう」
モモの返事が早い。
シモンが苦笑しながらも否定しなかった。
「山へ入る時間が遅くなるなら、花谷かその先の安全な場所で一泊する選択もあります」
「地図に野営できる場所あったよな」
「あります。ただ、実際に見て決めましょう」
「うん」
旅程が少しずつ形になっていく。
けれど、それは王城にいた頃の予定表のように、一刻ごとに行動を縛るものではなかった。
花谷へ行く。
花を見る。
道と時間を見て、先へ進むか泊まるか決める。
それだけでいい。
「ルシル様、パン」
「ん?」
「手が止まってます」
「あ」
考え込んでいるうちに、ちぎった黒パンを持ったままになっていた。
「出発する前から先へ行きすぎですよ」
「まだ街道所にも行ってなかった」
「そうです」
「食べよう」
ルシルはパンをスープへ浸した。
温かい汁を吸った黒パンは柔らかくなり、豆の塩気とよく合う。
もし今日がグレイ最後の朝食になるのなら、この味も覚えておきたいと思った。
◇
朝食後、三人はすぐに馬車へ荷物を積み始めることはしなかった。
まず街道所へ向かう。
グレイの朝はすでに本格的に動き始めていた。工房街からは金属を打つ音が聞こえ、中央広場には荷車が何台も停まっている。北木場からの木材はまだ通常より少ないようだったが、町全体が止まっている様子はない。
街道所の前にも二台の荷車がいた。
一台は山側から来たらしく、車輪の下半分に乾きかけた泥が付いている。御者らしい中年の男が職員と話しており、もう一台の若い御者は水筒を傾けながら順番を待っていた。
三人も列の後ろへ並ぶ。
「泥ついてる」
ルシルが小声で言う。
「昨日聞いた通りですね」
シモンは車輪の状態を見る。
「深く沈んだ泥ではなさそうです」
「分かるの?」
「付着の仕方を見る限りでは、です。断定はしません」
「先に言った」
「最近は必要なので」
モモが二人の間で笑う。
前の荷車の話が終わり、中年の御者がこちらへ戻ってきた。すれ違う際、ルシルは泥の付いた車輪だけでなく馬の脚も見る。
疲れてはいる。
けれど、怪我をしている様子はない。
「山からですか?」
気になって、ルシルは声を掛けた。
男は一瞬だけ三人を見たあと、後ろに停めた馬車へ視線をやった。
「ああ。向こうへ抜けるのか?」
「その予定です。道、どうでした?」
「昨日の昼過ぎに山へ入って、向こう側で一泊。今朝早く越えてきた。日陰はまだ滑るぞ」
「通れない場所は?」
「俺が通った範囲じゃねえな。ただ下りで急ぐな。荷が重いなら特に」
デリアと同じ注意だった。
「ありがとうございます」
「そっちの馬車、二頭立てか」
「はい」
「なら一頭より余裕はあるだろうが、後ろから押されるのは同じだ。花谷を過ぎたら道が細くなる場所もある。対向が来たら広いところで待て」
「分かりました」
男は軽く手を上げ、そのまま荷車へ戻っていった。
見知らぬ旅人同士の短いやり取り。
以前なら、こうして道の情報を聞くこと自体に少し緊張していた。
今は自然に声を掛けられる。
「今の、旅人っぽかった?」
ルシルが尋ねる。
「最後にそれを聞かなければ」
シモンが答えた。
「今はあの人に聞いてないからいいだろ」
「僕には聞くんですね」
「確認」
「旅人です」
「よし」
「何の合格ですか」
話しているうちに順番が来た。
窓口には、以前にも見た街道所の職員が座っていた。机の上には今朝書き足されたらしい紙があり、脇には天候報告をまとめた板が立てられている。
「セイラ方面へ向かう予定です」
シモンが先に用件を伝える。
「二頭立ての四輪馬車です。今朝の道路状況を確認したいのですが」
「グレイから花谷までは問題ありません」
職員は慣れた様子で答え、地図の上を指でなぞった。
「花谷から西の山道は、昨日までの雨の影響で二か所ほど日陰に泥が残っています。石の露出している坂も湿り気あり。通行止めはありません」
「落石は?」
「今朝の報告では新規なし。昨日、小さい石を除去した箇所が一つありますが、馬車通行に支障はありません」
「天気は?」
「山側は午前中薄曇り。午後は雲が増える予報ですが、今のところ雨の報告はありません。ただ、山の天候ですから変化は見てください」
「風は?」
「強風報告なし」
シモンが一つずつ聞き、職員も必要な範囲で答える。
ルシルは途中で口を挟みたくなったが、昨日までに聞いたことを重ねて尋ねないように少し我慢した。
代わりに、気になっていたことを一つだけ聞く。
「森の異変で、主要道に新しい規制は出てますか?」
「出ていません」
職員の答えは明確だった。
「北木場周辺は一部作業制限が残っていますが、セイラ方面の主要道とは別です。冒険者組合からも今朝時点で街道閉鎖の要請はありません」
「じゃあ通っていい?」
「街道所として止める理由はありません。ただし、森側へ外れないでください」
「外れません」
「それと、花谷より先へ進むなら水は十分に。途中の旧休憩所の井戸は使えますが、屋根はありません」
「地図で見ました」
「なら大丈夫でしょう」
職員が三人を見る。
「出発は今日ですか?」
三人は一度顔を見合わせた。
昨日なら「たぶん」と答えていたかもしれない。
今は、馬を確認した。
空も見た。
街道所の情報も聞いた。
道を通ってきた御者から直接状態も聞けた。
ルシルはモモを見る。
モモは小さく頷いた。
次にシモンを見る。
彼も同じように頷く。
「はい」
ルシルは職員へ向き直った。
「今日、出ます」
口にした瞬間、胸の奥が少しだけ高鳴った。
何か大きな決断をしたわけではない。
グレイから次の町へ向かう。
旅人なら当たり前に繰り返す出発の一つ。
それでも、数日止まっていた馬車がまた道へ戻ると思うと、体の内側に明るいものが広がっていく。
「分かりました。気をつけて」
「ありがとうございます」
三人は街道所を出た。
外の光が、入った時より少し強くなっていた。
◇
「決まったな」
街道所から数歩離れたところで、ルシルが言った。
「決まりましたね」
モモの声も弾んでいる。
「では、戻って出発準備です」
シモンは落ち着いているが、歩く速度がほんの少しだけ普段より速い。
ルシルはそれに気づいたものの、口には出さなかった。
代わりに中央広場へ向かう道を見ながら、昨夜のことを思い出す。
「組合、行く?」
二人が足を緩めた。
「街道規制はないって分かりました」
モモが言う。
「森の調査結果は、まだ朝ですから出ていないでしょう」
シモンも続ける。
「だよな」
「ドレンさんに挨拶します?」
「したい気持ちはある」
ルシルは正直に答えた。
けれど、組合へ行けばエッダたちの出発準備が見えるかもしれない。加工石の小さな空洞について、新しい話を聞くかもしれない。そうすれば、また気になることが増える。
それ自体が悪いわけではない。
ただ、全てを知ってからでなければ進めないのなら、昨日決めたことと変わらなくなる。
「……行かなくていいかな」
「僕もそう思います」
「私もです」
モモが柔らかく笑う。
「昨日、ちゃんとお話しましたから」
「うん」
ドレンには、出発する可能性を伝えた。
エッダにも伝えた。
必要な別れは、もうできている。
「じゃあ石樽亭」
「はい」
「戻りましょう」
三人は中央広場を横切った。
黄色い布の菓子店は、まだ開店準備の途中だった。老女店主が店先へ小さな箱を並べている。
モモの足が一瞬だけ緩む。
「寄る?」
ルシルが聞くと、モモは自分の外套の内側を軽く押さえた。
「あります」
「俺もある」
「僕もあります」
三人とも、それぞれ小さな菓子袋を持っている。
「じゃあ行こう」
店の前を通り過ぎる時、昨日の老女がこちらに気づいた。
「あら、旅の子たち」
モモが足を止める。
「おはようございます」
「今日は早いねえ」
「これから出発するんです」
「あらまあ」
老女は箱を置き、三人を見回した。
「山の方かい?」
「はい」
「じゃあ飴はちゃんと持った?」
「持ってます」
モモがすぐ答える。
「私、木の実味」
「俺、昨日プレーン買った」
「僕は香草味です」
なぜか三人で報告する形になった。
老女が目を細めて笑う。
「ならいいよ。歩きながら喉に詰まらせるんじゃないよ」
「馬車です」
「馬車でも同じだよ」
「はい」
モモが素直に返事をする。
「またグレイに来たら寄ります」
「その時は別の味を作ってるかもしれないねえ」
「本当ですか?」
「作ってたら、だよ」
「楽しみにしてます」
今度こそ三人は店を離れた。
数歩進んでから、ルシルが横を見る。
「寄らなかったけど、話したな」
「買ってません」
モモは満足そうだった。
「それなら寄り道には入りません」
「その基準なんだ」
「では僕も今後使わせてもらいます」
シモンが言う。
「買わなければ寄り道ではない、と」
「シモン君が言うと危険な気がします」
「なぜです?」
「地図を見るだけって言って、一刻くらい店にいそうです」
「否定できませんね」
三人の笑い声が朝の通りへ混じった。
◇
石樽亭へ戻ると、今度は迷わず受付へ向かった。
「今日、出ます」
ルシルが告げる。
昨日、宿の延長を忘れた時に対応してくれた女性が帳面から顔を上げた。
「決めたんだね」
「はい。馬も道も大丈夫そうなので」
「分かったよ。部屋は朝のうちに空ける?」
「もう荷物はまとめてあります」
「忘れ物は?」
三人が一瞬黙る。
女性の口元が笑った。
「昨日のことがあるから聞いただけだよ」
「確認しました」
ルシルは少し胸を張る。
「俺は」
「私もです」
「僕も確認しています」
「ならよし」
宿代の精算は、昨夜延長した時点で済んでいる。
三人はそれぞれ部屋へ最後の確認に戻った。
ルシルの二〇五号室。
数日使っただけなのに、入った時より少し馴染んで見える。
窓辺。
寝台。
机。
昨夜飴を食べながら、明日のことを考えた椅子。
旅の宿は、自分の部屋にはならない。
それでも、何日か過ごせば記憶が残る。
「お世話になりました」
誰に言うでもなく呟き、扉を閉めた。
廊下へ出ると、モモも二〇六号室から出てきた。少し遅れてシモンも二〇七号室の鍵を手に現れる。
三人で一階へ下り、鍵を返す。
「忘れ物なし?」
受付の女性がもう一度聞く。
「なし」
「ありません」
「確認済みです」
「よし。じゃあ次に来た時は、泊まる日数を忘れないようにね」
「気をつけます」
笑いながら裏庭へ回る。
そこではガランがすでに馬車を広い場所へ出していた。
トルクとベルクはまだつながれていない。
「決めたか」
「今日出る」
「そうか」
ガランはそれだけ言うと、馬車の横板を軽く叩いた。
「出る前に自分らで見ろ」
「はい」
もう何度も言われた言葉だった。
けれど、今日は最後の確認になる。
三人は分担して馬車を見る。
車輪。
車軸周辺。
牽引部。
革具。
外から見える固定具。
ルシルは右後輪の浅い傷にも目をやった。バルガンに問題ないと言われた旅の跡は、そのまま残っている。
傷があるから壊れているわけではない。
旅をすれば、物にも跡が増える。
「馬車、問題なしだと思う」
「僕もです」
「私の方も大丈夫です」
ガランが最後に見て、頷いた。
「いい」
次は二頭。
今朝すでに確認しているが、馬車へつなぐ前にもう一度見る。
トルクは相変わらず元気で、モモが近づくと鼻先を寄せてきた。
「人参は後です」
モモが先に宣言する。
「出発前に少しやってもいいぞ」
ガランが言う。
モモの顔が明るくなった。
「いいんですか?」
「一本丸ごと食わせるなよ」
「分かってます」
昨日買った人参の中から一本を出し、少量ずつ二頭へ分ける。
トルクは迷いなく食べた。
ベルクは最初にシモンの手を確かめてから受け取る。
「ベルクさん、シモン君からならすぐ食べますね」
「そうですね」
シモンの声が少し柔らかい。
食べ終えた二頭を馬車へつなぐ。
昨日の試走でも行った作業。
今朝はガランが最初から横で指示を出さない。
三人で確認しながら進める。
ルシルが革具を通し、モモが反対側を整え、シモンが接続部を確認する。途中でルシルが一か所締め具合を迷い、指を入れて余裕を確かめてから調整した。
「どう?」
最後にガランへ尋ねる。
ガランは全体を一周した。
一か所に触れ、別の金具を軽く揺らし、トルクとベルクの立ち位置を見る。
「いい」
「本当に?」
「駄目なら言う」
「じゃあいいんだ」
「そう言ってる」
ルシルは笑った。
収納魔法のおかげで大荷物を積む必要はないが、車内に置いているものは確認する。
鳥の本。
植物の本。
昨日買った『街道沿いの鍋料理』。
新しい街道地図。
二頭を模した木の小さな置物は、以前からの位置に固定されている。
モモの菓子棚も確認した。
「あります」
「何が?」
「お菓子」
「それは大事だな」
「大事です」
シモンは地図を取り出しやすい位置へ移し、革紐で固定し直した。
「今日は花谷までを一つの目安にしましょう」
「その先は?」
「到着時刻と道を見て決めます。旧休憩所まで進めそうなら進む。花谷で時間を使いたければ、無理に山へ入りません」
「賛成」
モモもすぐ頷く。
「花、ゆっくり見たいです」
「俺も」
「では決まりですね」
予定は決まった。
決まりすぎてはいない。
それが今の三人にはちょうどよかった。
「御者は?」
ガランが尋ねる。
「俺」
ルシルが答えた。
「グレイを出るまでは運転したい」
「ならやれ」
「いい?」
念のため二人を見る。
「もちろんです」
モモが笑う。
「僕も構いません。ただし町を出た後は交代しますよ」
「うん」
ルシルは御者台へ上がった。
何度も座った場所なのに、今日は少し違って感じる。
数日前、ここへ入ってきた時にはグレイがどんな町なのかほとんど知らなかった。
今は知っている。
石樽亭の食事。
ガランの厩。
黄色い布の菓子店。
紙梟。
川灯り亭。
バルガンの工房。
赤蹄工房のデリア。
冒険者組合のドレン。
森を歩くエッダ。
北木場。
まだ答えの出ていない森。
全部を知ったわけではない。
だから、また来る理由がある。
「ルシル様?」
隣へ座ったシモンが呼ぶ。
「うん」
「考え事ですか?」
「ちょっとだけ」
「出発前に長くなりそうです?」
「ならない」
後ろではモモが窓を開け、裏庭を見ている。
「ガランさん」
「おう」
「お世話になりました」
モモが頭を下げる。
シモンも続いた。
「馬のことも、ありがとうございました」
「宿屋なんだから当たり前だ」
「でも助かった」
ルシルも御者台から言う。
「ベルクのこと、ちゃんと見てもらえたし」
「次の町でも馬は見ろよ。山越えした後は特にな」
「分かった」
「蹄鉄替えたからって無茶すんな」
「それ、何人にも言われた」
「何人にも言われるくらい、お前の顔が信用ならねえんだろ」
「そんなに?」
ガランは答えず、鼻で笑った。
「またグレイ来たら泊まれ」
「うん」
「今度は泊まる日数忘れんな」
裏口近くで聞いていた受付の女性が笑い声を上げる。
「それ、ずっと言われるやつ?」
「次に忘れなきゃ終わるよ」
「絶対覚えとく」
「その台詞ごと忘れるなよ」
宿の朝の空気に、明るい笑いが混じった。
大げさな別れではない。
もう二度と会えないわけでもない。
旅人が宿を出る。
ただそれだけの別れが、ルシルには心地よかった。
「じゃあ、行ってきます」
「おう。気をつけろ」
ルシルが手綱を持つ。
トルクとベルクへ声を掛けた。
「行こう」
二頭が歩き始める。
焦げ茶色の馬車が、石樽亭の裏庭をゆっくり進んだ。
◇
通りへ出る時、ルシルはいつも以上に後輪を意識した。
狭い角ではない。
それでも宿を出た瞬間に何かへぶつけたくはない。
前輪が通りへ入り、トルクとベルクが向きを変える。少し遅れて後輪も角を抜けた。
「大丈夫」
後ろからモモの声が届く。
「見てくれてた?」
「はい」
「ありがとう」
グレイの町中を南西へ進む。
朝の通りには人が多い。
工房へ向かう職人。
荷を運ぶ若者。
買い物籠を持った女性。
冒険者らしい装備の一団。
誰も、三人の出発を特別な出来事として見てはいない。
それでよかった。
ルシルたちにとっては旅の再開でも、グレイの人々にとってはいつもの朝だ。
中央広場の端を通る。
昨日歩いた道。
紙梟の看板が見えた。
まだ開店直後らしく、扉の前を店員が掃いている。
その先には川灯り亭へ向かう道がある。
「揚げた魚、食べなかったな」
ルシルがふと思い出す。
「また来た時ですね」
モモが後ろから答えた。
「次は食べよう」
「はい」
「僕は別の魚料理にします」
「シモンもまた来る気だ」
「来ないとは言っていませんよ」
「じゃあ三人で」
「そうですね」
それ以上、再訪について語る必要はなかった。
予定表へ書き込まなくてもいい。
また来たくなった時に来ればいい。
町の外縁が近づく。
共同水場が見えてきた。
昨日、試走でここを通った時には、この先の道を見ながら「今日は行かない」と決めた。
今日は違う。
同じ道。
同じ馬車。
同じ二頭。
同じ三人。
けれど、自分たちで選んだ答えが違う。
「水、ここで足す?」
ルシルが尋ねる。
「そうしましょう」
シモンが頷く。
共同水場の脇へ馬車を寄せる。
出発したばかりだが、これも予定通りだった。
水桶を使って二頭へ少量飲ませ、旅用の水も補充する。朝からたっぷり飲ませすぎないよう量を見ながら、収納している容器も確認した。
モモが水面を見つめる。
ルシルは一瞬、北木場の揺れた水桶を思い出した。
けれど、目の前の水は風と桶の動きで小さく揺れているだけだ。
「どうした?」
「いえ」
モモは顔を上げた。
「北木場の水を思い出しました」
「俺も」
「気になります?」
「うん。でも行く」
「私もです」
それだけだった。
気になることと、進むことは両立する。
水の補充を終え、二頭を馬車へ戻す。
町の境を示す石柱が、少し先に見えている。
「今度こそ出るな」
「はい」
「ええ」
ルシルは御者台へ戻った。
手綱を握る。
石柱を抜ける。
グレイの石畳が少しずつ後ろへ遠ざかり、車輪の下が土と細かな砂利の混じる街道へ変わった。
音も変わる。
硬い石を叩いていた蹄の音が柔らかくなり、車輪から伝わる細かな振動も少し減った。
ルシルは前を見る。
道は緩やかに西へ伸びている。
遠くには山並み。
その手前には、まだ見えない花谷がある。
「出た」
思わず声が漏れる。
「出ましたね」
モモが窓から顔を出しすぎない程度に外を見る。
「久しぶりな感じする」
「数日ですけどね」
シモンも前方を見ている。
「でも、滞在中に色々ありましたから」
「うん」
ルシルは一度だけ後ろを振り返った。
グレイの町はまだ近い。
石造りの建物。
煙を上げ始めた工房。
町へ入っていく荷車。
北側の森は建物と地形に隠れ、ここからでは見えない。
加工石の模様が何なのか。
横へ続く小さな空洞の先に何があるのか。
地面の沈みや魔力反応と関係しているのか。
北木場の井戸へ入った灰色の砂は何だったのか。
何一つ、答えは出ていない。
それでも馬車は進んでいる。
「また来ればいいか」
ルシルが呟く。
「はい」
モモには聞こえていた。
「その時、答えが出ているかもしれません」
「出てなかったら?」
「また気になります」
「それもありか」
「ありです」
シモンが小さく息を吐いた。
「二人とも、後ろばかり見ていると前の景色を見逃しますよ」
「シモン、もう前見ろって言う側なんだ」
「御者へ言っているんです」
「そうだった」
ルシルは前へ向き直る。
山へ向かう街道。
朝の光。
風に揺れる草。
道端には、名前を知らない小さな黄色い花が点々と咲いていた。
「これ、植物の本にあるかな」
「もう調べます?」
モモが尋ねる。
「いや、今は運転中」
「正解です」
「あとで休憩した時に見る」
「それなら私も見ます」
馬車が緩やかな坂を上る。
トルクとベルクの歩調は安定していた。
新しい蹄鉄も問題ない。
ルシルは急がせない。
後ろから別の荷車が近づいてくれば、道幅を見て先に行かせる。少し石の多い場所では速度を落とし、車輪が大きな石を踏まないよう進路を選ぶ。
グレイを出たという高揚感だけで、馬車を速くすることはなかった。
「ルシル様」
「ん?」
「運転、落ち着いてますね」
シモンが言う。
「褒めてる?」
「褒めています」
「初心者の上の方だから」
「まだ言うんですか」
「卒業判定もらってないから」
「誰が判定するんです?」
「シモン」
「昨日もその話をしたでしょう」
「じゃあガラン?」
「もう後ろです」
「デリア?」
「戻りますか?」
「戻らない」
後ろでモモが声を立てて笑った。
ルシルも笑う。
街道の先は長い。
今日中にどこまで行くかも、まだ決め切っていない。
それでいい。
◇
グレイを出て一刻ほど。
町の姿はもう見えなくなっていた。
街道の両側には低い草地が広がり、ところどころに背の低い木がまとまっている。北側には森が続いているものの、昨日まで話題にしていた調査区域とは距離があり、街道沿いには異常を示すものは見当たらない。
鳥の声もする。
何羽かが草地へ降り、馬車が近づくと一斉に飛び立った。
「あれ」
モモが窓から外を見る。
「本に載ってそう」
「何色?」
御者台のルシルにはよく見えなかった。
「茶色っぽくて、お腹が白いです。羽の端が少し青いような……」
「あとで覚えてる?」
「頑張ります」
「絵描く?」
「私、上手じゃないですよ」
「特徴だけ書けばいいんじゃない?」
「それなら」
シモンが隣で道を見ながら言う。
「休憩の時に書いておけばいいでしょう。鳥は似た種類も多いですから、色だけでなく大きさや嘴も覚えている範囲で」
「シモン君、詳しいですね」
「本に書いてありました」
「もう読んだの?」
「昨夜少し」
「俺より使ってる」
「買った本は読むためにあるんですよ」
「そうだけど」
ルシルは笑いながら前を見る。
少し先に街道脇の小さな休憩場所が見えた。
屋根はない。
平らに踏み固められた場所と、腰掛けられる丸太が二本あるだけ。
「一回止まる?」
「まだ一刻程度ですが、馬の確認にはちょうどいいですね」
「じゃあ止まろう」
ルシルは早めに速度を落とし、馬車を休憩場所へ入れた。
平らな位置を選んで停める。
三人が降りる。
まずトルクとベルク。
汗はほとんどない。
呼吸も荒くない。
ベルクの右後肢にも変化は見えなかった。
「大丈夫そう」
ルシルが言う。
「ええ」
シモンはベルクの首筋を軽く撫でる。
「無理はしていません」
モモもトルクを見る。
「トルクさんも元気です。人参は?」
「さっき食べたばかり」
「聞いただけです」
「本当に?」
「半分くらい」
「半分はあげる気だったんだ」
笑いながら、今度は三人も水を飲む。
風はまだ涼しい。
山へ近づくにつれ、平地の向こうに見える稜線が少しずつ大きくなっていた。
モモは馬車から鳥の本を持ってくる。
「さっきの鳥」
三人で開く。
似た鳥はいくつか載っている。
「これ?」
ルシルが指す。
「青が多すぎます」
「じゃあこっち」
「嘴が違います」
「覚えてるんだ」
「そこは見ました」
シモンも横から覗き込む。
「これでは?」
示した鳥は、茶色い背に白い腹、翼の端に青灰色の模様がある。
モモが少し考える。
「近いです」
「名前は……街道羽雀」
ルシルが読む。
「そのままっぽい」
「街道沿いに多いからでしょうか」
「説明に書いてある」
三人で短い説明を読む。
人や馬車を極端に恐れず、街道沿いの草地で種や小虫を食べる鳥らしい。
「じゃあ、たぶんこれ?」
「断定はできませんけど」
シモンが言う。
「また見たら確認しましょう」
「本があると楽しいですね」
モモは満足そうに本を閉じた。
「花も楽しみ」
「まだ見ない?」
ルシルが植物本を指す。
「見ません」
「強い意志」
「花谷に着くまで我慢します」
「じゃあ俺も見ない」
「僕も今はやめておきます」
三人は本を馬車へ戻した。
答えを先に知ることもできる。
知らないまま行くこともできる。
どちらを選ぶかまで、自分たちで決められる。
短い休憩を終え、今度はモモが御者台へ座った。
「私です」
「頼む」
ルシルは後ろへ回る。
シモンはモモの隣に座った。
「急がなくていいですよ」
「分かってます」
「下りでは――」
「まだ下りじゃありません」
「そうでした」
「シモン君、今日は先に言いますね」
「念のためです」
「私も初心者の上の方ですよ」
シモンが黙った。
後ろから聞いていたルシルが吹き出す。
「モモまで使った!」
「便利なので」
「誰が広めたんですか、この言い方」
「俺」
「責任取ってください」
「どうやって?」
そんな話をしながら、馬車は再び街道へ戻った。
◇
昼が近づく頃、景色が少しずつ変わり始めた。
平らだった草地に緩やかな起伏が増え、道の両側に低木が多くなる。遠くに見えていた山も、今は空の下半分を占めるほど近い。
そして風の匂いが変わった。
「甘い?」
最初に気づいたのはモモだった。
御者台で鼻を少し動かす。
「何か匂います」
後ろにいたルシルも窓を開ける。
冷たい山風の中に、ごく薄く甘い香りが混じっていた。
菓子のような強い甘さではない。
草と土の匂いに溶ける、柔らかな香り。
「花?」
「たぶん」
シモンも周囲を見る。
「地図では、もう花谷までそれほどありません」
道が緩やかに曲がる。
右側に小さな丘。
左側には岩の多い斜面。
その間を抜けた先で、視界が急に開いた。
モモの手が、手綱を持ったままわずかに止まりかける。
「……わあ」
馬車の速度が自然に落ちた。
ルシルも後ろの座席から身を乗り出しかけ、慌てて窓枠へ手をつく。
谷だった。
深い谷ではない。
二つのなだらかな斜面に挟まれた広い窪地が、街道の先へ続いている。
その両側が、花で覆われていた。
白。
薄い青。
淡い紫。
ところどころに黄色。
一色ではない。
風が吹くたび、斜面全体の色が波のように揺れる。
近くの花が揺れ、その少し先が揺れ、さらに奥へ波が渡っていく。甘い香りも一緒に流れ、馬車の窓から中へ入り込んだ。
「これが……花谷?」
ルシルの声も自然に小さくなった。
「そうみたいです」
モモは前を見たまま答えた。
いつもの明るい声とは少し違う。
嬉しさをすぐ言葉へ変えるのが惜しいような声だった。
シモンも黙っている。
街道は谷の中央を通っている。
馬車が進むたび、左右の花が少しずつ近づいてくる。
花畑の中へ道が伸びているようだった。
「止まれる場所、ありますか?」
モモがようやく尋ねた。
「地図では少し先に休憩場所があります」
シモンは地図を開く。
「谷の中央付近。馬車を数台停められる広さがあるはずです」
「そこまで行こう」
ルシルが言う。
「うん」
モモはゆっくり馬車を進めた。
急がない。
追い越していく荷車もない。
対向車も今は見えない。
ただ二頭の蹄と車輪の音だけが、花の間の街道に続いていく。
ルシルは窓から景色を見る。
グレイの森のことは、消えていない。
加工石も。
小さな空洞も。
井戸の灰色の砂も。
けれど今、それらを考えていなければならない理由はなかった。
目の前には、昨日まで知らなかった景色がある。
「エッダさん、教えなくて正解だったな」
ルシルが言った。
モモが小さく頷く。
「はい」
「本で先に見なくて良かった?」
「良かったです」
モモは花の斜面へ視線を向ける。
「名前を知らなくても、綺麗です」
その言葉のあと、三人の間にしばらく会話はなかった。
沈黙は気まずくない。
風が花を揺らす音。
トルクとベルクの蹄。
車輪。
遠くで鳴く鳥。
それだけで十分だった。
やがて道の先に、木製の低い柵と広く踏み固められた休憩場所が見えてきた。
「あそこですね」
シモンが言う。
「停めます」
モモは慎重に馬車を寄せる。
花畑へ車輪を入れないよう、十分な広さを取って向きを変える。ルシルが後ろから後輪を確認し、必要な時だけ声を掛けた。
「そのまま。まだ大丈夫」
「はい」
「あと少し……そこで」
馬車が止まる。
三人はすぐには降りなかった。
御者台のモモ。
隣のシモン。
後ろのルシル。
それぞれ違う位置から、しばらく花谷を眺めていた。
数日前まで、グレイの森で何が起きているのかを知りたくて、地図や報告書を囲んでいた。
今は、目の前にあるものの名前さえ知らない。
それなのに不安はなかった。
「降りようか」
ルシルが言う。
モモが振り返る。
その顔には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「はい」
三人は馬車を降りた。
まず馬を見る。
それから昼食。
花を見るのは、そのあとでも遅くない。
けれど、モモはトルクの手綱を取りながらも何度も斜面へ視線を向け、ルシルも馬車の車輪を確認しながら白い花の群れを目で追ってしまう。
シモンだけは落ち着いているように見えたが、ベルクの状態を確かめ終えたあと、眼鏡の奥の視線が長く花畑へ留まっていた。
「シモン」
「何です?」
「綺麗?」
少しだけ間があった。
「ええ」
シモンは否定しなかった。
「かなり」
モモが嬉しそうに笑う。
山へ入るのは、まだこの先だ。
今日どこまで進むかも、まだ決めなくていい。
グレイを出発したからといって、次の目的地まで一気に走る必要はない。
花谷へ着いた。
今は、それで十分だった。
三人の馬車は名前もないまま、色とりどりの花に囲まれた街道脇で静かに休んでいた。




